年も押し迫ってきました。
今日は天皇誕生日ということで、この休日をクリスマスの飾りつけやら、年末年始の準備に有効に使おうという方も多いと思います。そんなせわしない年末に休日を与えてくださった天皇陛下の、なにやら徳を感じるような気さえします。
とはいえ、私はといえば、まだ年賀状の作成も終わっておらず、こんなブログを書いているくらいですから、大掃除やら年末年始の準備もままならず、少しでも行動力を伴った活動をしようかといった類の機運のかけらもありません。
そこへきて、先日の日曜日から月曜日にかけてこの別荘地内の草刈りに駆り出され、終日生い茂った樹木の伐採に奮闘してしまいました。おかげで筋肉痛になり、今ではかなり回復したものの、まだあちこち痛みにみまわれている、といった状態…
昨日の段階でもかなりあちこちの筋肉が痛かったのですが、しばらくできていなかった買い物にも出かけねば…ということもあり、タエさんと二人、山を下りてあちこちのスーパーに行ってきました。
すると……師走ということで、どこもかしこも年末年始用の食品やら大掃除の道具、飾りつけなどで店頭が埋め尽くされていて、あぁやっぱり今年も終わるんだな、と改めてしみじみと思った次第。そんな中、帰りのクルマの中で、助手席にいたタエさんがポソリ、といった言葉が妙に印象的でした。
曰く、「今年はいつの年にも増して、時間が過ぎるのが早かったような気がする……」
なるほど私も同じように感じていたことなのですが、同い年夫婦の二人はやはり同じくらいに年月が過ぎるのを早く感じとるようになっているのか、とこちらも改めてそう思ったわけです。
そこで、少し調べてみたのですが、「ジャネーの法則」というのがあるそうで、これは主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるというものです。
19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネという人が発案したものだといいますが、古今東西、昔から人は歳をとると時間の短さを感じ取るようになる、という感覚を誰しもが持っていたようです。
より物理的に言えば、これは生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する、つまり時間の経過の感じ方は年齢に反比例する、という理論のようです。ジャネーの説明によれば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるのに対して、5歳の人間にとっては5分の1に相当するそうです。
よって、例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほど、つまり1/50×365=7.3日なのに対し、5歳の人間にとっては5分の1。つまり1/50×365=73日となるわけで、この理論が正しければなるほど歳をとればとるほど、時間は短くなるわけです。
だとすると、80歳の人にとっての一年はわずか4.6日に過ぎないことになりますが、これからさらに年齢をとるにつけ、さらに時間の経過が短くなっていくことになるわけで唖然としてしまいます。
はたしてこれを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかですが、感覚的に人生で残っている時間が加速度的に減っていく、というのはやはり悲しい感じがします。
ただ、当然個人差はあるでしょう。「ゾウの時間、ネズミの時間」というのがあって、これは動物生理学を専門とする生物学者、本川達雄さんが唱えた説で、1992年に中公新書から同名の本が発行されています。
人間を含めて、世の中にはいろんな大きさの生物がいますが、その大きさによって時間の経過も違うという説です。その理由として本川さんは、それぞれの生物によって心臓が1回打つのにかかる時間、呼吸するのにかかる時間、物を食べてからそれらが排泄されるまでにかかる時間、それから寿命にしても、動物によって異なることをあげています。
例えば、心臓が1回ドキンと打つ時間は、ヒトの場合はおよそ1秒ですが、ハツカネズミなどは、ものすごく速くて1分間に600回から700回であり、1回のドキンに0.1秒しかかかりません。ちなみに普通のネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、ウマで2秒、そしてゾウだと3秒かかるそうです。
つまり、大きな動物ほど周期が長く、ゆったりしていることになり、これを体重との関係から考えてみると、体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなるということが分かっているそうです。4分の1乗というのは分かりにくい数字かもしれませんが、関数電卓でルートを2回押せば答えが出ます。
大ざっぱに言えば、動物の時間は体長に比例すると考えてもいい、ということにもなるようで、いずれにせよ、体のサイズの大きい動物ほど、心周期も呼吸も筋肉の動きなどもゆっくりになっていきます。
われわれからみるとネズミはチョロチョロ、ゾウはのっしのっし、という動きになるわけであり、つまり、彼らにとっては、私たちが考えている「時間」の感覚は彼らとっての同じ「時間」ではない……
時間が体重の4分の1乗に比例するということは、体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになる関係であり、体重が10倍になると時間は1.8倍になります。例えば、30gのハツカネズミと3tのゾウでは体重が10万倍違いますから、時間は18倍違い、ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくりだということになります。
ビデオなどの映像を18倍ゆっくりスローモーションで再生すると、画像はほとんど動かないと言っていいくらいであり、逆に18倍の速度で早送りしますと、目にも止まらない動きです。したがって、ネズミからゾウを見たら、ただ突っ立っているだけで動かない、これは果して生き物だろうか、という風に見えているかもしれません。
逆にゾウからネズミを見たら、風のようにピューンといなくなってしまうように見えるのかもしれず、もしかしたら、ゾウなどはネズミなんて果してこの世にいるのか、気にもしていないのかもしれません。
現代のわれわれ人間社会では、時間というものを1秒とか1分、1時間、1日、1週間、1か月、1年・・・といったように、物理的、絶対的な単位を基準に考えますが、このように、自然界における時間、生物学的に見る時間は、別な概念で存在するということになります。
我々人間にもデブやらノッポ、小さい人大きい人がいるわけであり、人それぞれにも時間の経過の違いがあるのかもしれません。上の理論が正しければ、体が大きくて心臓がでかい人は時間の経過が短く感じることになります。だとすれば、歳をとってだんだんと短くなる時間は、デブになりさえすれば補正できるということなのでしょうか。
ところが、人の心拍数は、年齢が高くなるほど下がる傾向があるそうで、10代の男女の心拍数がだいたい70ぐらいなのに対し、80代の男性の心拍数は平均で61、女性は65にまで下がるそうです。
女性より男性のほうが加齢に伴う心拍数の低下が大きいようで、これからすると人は年齢を重ねるほど時間の経過を長く感じる、ということになります。しかも男性のほうが心拍数が少なく、その分より時間の流れをゆったり感じる、ということにもなるのかもしれません。
こうなるとジャネーの法則正しいのか、ゾウの時間・ネズミの時間が正しいのか、よくわからなくなってきますが、あるいは加齢による心拍数の低下で長く感じるようになる年齢ではそれも感じることができないほど脳味噌はすでに老化しているので、相殺されてしまうのかもしれません。
しかし、歳を経た男性のほうがより時間を長く感じる、というのが本当ならば、あるいはデブになって心臓を大きくすることが時間を止めるのに有効ならば、デブで大柄の男性は普通の人に比べてより人生を有効に使えるかもしれません。年寄りを拝命するような高齢のお相撲さんなどは、さしずめその代表ということになります。うらやましい限りです。
ところで、今日のこの話を書いていて思い出したのですが、その昔、20代のころに読んだ小説に「リプレイ」というのがありました。アメリカ合衆国のSF作家、ファンタジー作家のケン・グリムウッドにより1987年にアメリカで出版されたSF小説で、記憶を持ったまま人生をやり直す男の話です。
そのストーリーはこうです。
経済的に成功していないラジオ局ディレクターで、43歳のジェフ・ウィンストンは、ある日、突然に心臓発作によって死を迎えます。しかし、次に目を覚ますと18歳の時点に遡っており、新しく人生をやり直すことになります。
彼は死ぬ前に見知っていた「未来の記憶」を存分に利用し、このやり直しの人生ではさまざまな成功を収めてその新たな人生を謳歌しますが、結局は同じ歳の同じ時刻に死を迎え、人生のやり直しを強制再開させられます。
小説では9回以上もこの「リプレイ」を繰り返しますが、その中で多くを学びつつも、やがては再び死んでいくことになる自分の人生に対して、自暴自棄と諦観に囚われます。しかし、その再生のある人生の中で同じく「リプレイ」を繰り返している女性を偶然みつけ、彼女との関わりの中で、改めて次の人生に向かい合うようになります。
しかし、最初は18歳に戻っていたものが、だんだんとリプレイを繰り返すたびにその生まれ変わり時の年齢が上がってきます。つまり、リプレイ期間が次第に短くなっていく、というわけで、最後に死ぬ年齢は43歳と決まっているわけですから、だんだんとその人生は短くなっていきます。
リプレイを繰り返していくたびに少なくなっていく残りの人生の中で、ついに彼は、究極の絶対死、つまり「リプレイの終了」がやがて訪れることを知ります。果てしない人生を持ちながらも、やがては絶対死を迎えることを知った彼は、最後にある行動をとりますが、それは…
という話なのですが、このクライマックスはまだ読んだことがない人のためにとっておくとして、この話は実に寓意に富んでいて面白い話です。
多くの人がこの話を読んで自分の人生に重ねて考え込んでしまうのではないでしょうか。もしある年齢で死ぬとして、それまでに何ができるか、あるいは同じ人生を繰り返すとすれば何をするか、は誰しもが考えることですが、このSF小説も読んだあなたもそうした志向を持つことでしょう。
1988年度の世界幻想文学大賞を受賞したほどの名作で、その後、いわゆる「ループもの」と呼ばれる主としてSF小説でポピュラーになった分野の先駆けともなりました。この本は日本でもベストセラーになり、また海外では数々の映画やドラマの原作にもなりました。
残念ながら原作をそのまま忠実に扱った映画は作成されていませんが、「ゴーストバスターズ」シリーズの脚本家として知られるハロルド・ライミスが、メガホンをとって製作してヒットしたコメディ映画「恋はデジャ・ブ(1993年)」の原題はこの作品ではないか、といわれているようです。
作者のグリムウッドは、ハーバード大学出のインテリで、大学では心理学を学び、リプレイの主人公と同じように、ロサンゼルスのラジオ局で編集者として勤務する傍ら小説を執筆していました。
「リプレイ」で成功を収めてからは専業作家になりましたが、本作の発表から16年後の2003年、わずか58歳で心臓発作により亡くなっています。死の直前まで「リプレイの続編に取り組んでいたそうですが、残念ながら我々はそれを二度と読むことはできません。
晩年、「ディープ・ブルー(1995年)」というイルカの物語を出版しています。イルカの知性への愛着、イルカとの出会い、イルカ同士のコミュニケーションについての研究などから生まれた作品で、イルカの知能を解明しようと奮闘する海洋生物学者を描いたものでした。
グリムウッドはマグロ漁の実態を取材するため、サンタバーバラのマグロ漁船に正体を隠して船員として乗り組んでいたそうです。それほどの熱の入れようでこの作品に取り組んでいたわけですが、残念ながらこの意欲作が遺作となりました。
が、「リプレイ」はいまだに版を重ねているようです。新潮文庫でも版を重ねているのではないでしょうか。2005年には「本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30」第5位にも入っています。中古本もたくさん出回っているようなので、このブログを見て面白そうだ、と思った方はぜひブックオフで探してみてください。
私と同じように、まだ年賀状を書いていない人、忘年会やら大掃除で忙しい人も、正月になって一息つくころに読んでみるといいでしょう。年のはじめにこれからの人生を考えるうえでもよい刺激になるかもしれません。
このようなループものの文学作品では、たびたびループが一巡することで物語冒頭の場面の意味が大きく変わったり、ねじれた因果関係が明らかになったりします。また、劇中劇と本編の内容が入れ替わるような入れ子構造が描かれたりする、あるいは循環や繰り返しが扱われたりすることから、よく「メビウスの輪」にもたとえられます。
帯状の長方形の片方の端を180°ひねり、他方の端に貼り合わせた形状の図形ですが、ご存じの方も多いでしょう。
人生の時間もこのメビウスの輪と同じように、だんだんと短くなっていきつつも、最後にはどこかでまた反転し、また元に戻って新たな人生を始めるようになっているのかもしれません。
輪廻転生というものはあるいはそういうものなのかな……などと考え始めたりしているところですが、先日来の疲れもあって、考えがまとまらないので、これについてはまた別の機会に書いてみたいと思います。
そうこうしているうちに、どんどんと時間が過ぎていき、その分持ち時間がまた減っていっているようです。年末までにあとどのくらい時間の短縮は加速しているでしょうか。また人生の反転までの時間はあとどのくらいあるのでしょうか。
いっそのこと、若いみなさんの時間を少し、分けていただけないでしょうか。