クリスマスが終わり、今年も残るところあと5日ほどになりました。
懸念のひとつだった年賀状の作成も終わり、あとは大掃除が残っているだけです。
が、普段からわりとこまめに掃除はしているつもりなので、それも1日で終わりそうです。
その掃除も終えて、もう少し落ち着いたところで、今年一年を振り返ろうかな、と思っていますが、私的には、今年は例年ほど思い起こすほどの大きな事件やイベントもなく、落ち着いていた、といえる年だったでしょうか。
しかし、あとになってよくよく考えてみれば、あのことは実は大切な出来事だったな、と思えるようなことはままあるもので、とくに重要だとは思わなかった些細なことが、あとになってみれば大事件の発端になっていた、なんてことはよくあります。
バタフライ・エフェクト(butterfly effect)というのがあるのをご存知だと思います。これは、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまう、とされる現象のことです。
アメリカの気象学者のエドワード・ローレンツが1972年に科学振興協会で行った講演のタイトル「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」に由来します。
この発表に遡ること10年少しほど前にローレンツが計算機上で数値予報プログラムを実行していた時のこと、最初彼はある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し、予想される天気のパターンを得ました。
このときのコンピュータのアウトプットは、データスペースの節約から、入力値が四捨五入された「0.506」までしか打ち出されないものでしたが、彼は、もう一度同じ計算をさせるため、特に気に留めずに、打ち出された方の値「0.506」を入力して計算を開始させました。
計算が終えるまでコーヒーを飲みに行き、しばらく後に戻って2度目の計算結果を見てみると、予測される天気のパターンは一回目の計算とまったく異なったものになっていました。ローレンツは最初、コンピュータが壊れたと考えましたが、データを詳しく調べていくうちにに入力値のわずかな差によるものだと気づきました。
この結果から、もし本物の大気もこの計算モデルのような振る舞いを起こすものならば、大気の状態値の観測誤差などが存在する限り気象の長期予想は不可能になるのではないかと気づき、バタフライ・エフェクトの理論を打ち出すに至ります。
しかし、バタフライ効果の語源となったとされるこの講演でローレンツは、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」という現象が本当に起こるかどうかについての直接の答えは示しませんでした。
講演の最後に「大気の不安定性について我々は確信を深めつつあるが、この問い掛けには、あともう数年は答えないままにしておくしかないだろう」とだけ述べ、その上で、バタフライ効果の有る無しの結論以前に、今後は計算機の性能など、予報精度向上のためにすべき点に触れただけで講演を締めくくっています。
その後このバタフライ・エフェクトの真偽については多く学者が賛否両論を唱えてきました。このうち、反対の意見を持つ学者は、蝶のはばたきの影響は小さ過ぎて実際のところ減衰してしまうだろうと考えられる点や、竜巻は局所的な気象配置が支配的である点などを根拠にして、効果のほどは懐疑的であるとしました。
ローレンツ自身も否定的な見解も持っていて、そのひとつの材料として、ブラジルとテキサスでは地球の半球位置が違うため大気の性質が相当異なっているので影響は赤道を越えられない可能性や、乱流状態の大気中では影響は広がるが穏やかな大気中では影響は広がらない可能性などを挙げています。
しかし、近年コンピュータの性能はすこぶる高くなりつつあり、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」かどうかの正否は別にして、バタフライ効果が原因となり長期予測の精度が低下することは、現代の気象予報上の実際の問題点として認識されるようになってきています。
バタフライ効果による長期予測精度の低下のため、詳細な予報を行える期間は2週間程度が限界といったこともわかってきています。この点を少しでも克服するため、初期値を意図的にわずかに変えた計算を複数行い、それらの計算結果の平均を採用することで精度を高める「アンサンブル予報」という手法も開発されました。
日本の気象庁では、2015年現在、5日先までの台風予報、1週間先までの天気予報、それより長期の天候予測でこのアンサンブル予報を採用しています。
このように蝶の微細な羽ばたきが気象に影響を与えるというのならば、我々が日常でするくしゃみや咳だけでもその後の天候に影響を与えているかもしれません。なので、日常我々自身が引き起こしていること、また周囲で起こっているすべてのことに意味がある、と考えて生きていくのが正しいことに違いありません。
今年起こった出来事で重要だとは思わなかった些細なことは、今現在進行形で何か別の大きな出来事に形を変えつつあるかもしれません。それがあなたにとって良いことなのか悪いことなのかもまた今すぐには決められません。悪しき出来事も振り返ればその後のあなたの成長の糧になるための試練だったということもありうるわけです。
そう考えればバタフライ・エフェクトは何も気象の問題だけで起こるのではなく、「人象」も含めてすべてのことで起こりうる現象なのかもしれません。すべてのことはつながっている、と考えれば、何も無駄な行為というものはありません。一瞬一瞬を生きるということは実に大切なことである、と思えてきます。
ところで、こうした「一切」が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、「因果応報」と呼びます。仏教用語であり、これは一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく輪廻の世界では、「一切」は、直接的要因(因)と間接的要因(縁)により生じるとされ、苦楽が応報すると説かれたことに由来します。
また、「縁起」という言葉がありますが、これは「原因に縁って結果が起きる」というこの因果応報の法則から来ています。原因があって生まれるこうした因果は、仏教において次のように4つあるとされます。
善因善果(ぜんいんぜんか)…善が善をうむ
悪因悪果(あくいんあっか)…悪が悪をうむ
善因楽果(ぜんいんらっか)…善が楽をうむ
悪因苦果(あくいんくか)…悪が苦をうむ
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られるものです。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴があります。
善悪の結果は、その人の人生一回きりにおいて誕生帰結が決まるのではなく、過去において悪い行いをした人は、次に生まれ変わってもその報いとして悪に染まり再び苦しみます。また、逆に善を実践した人生は繰り返し、再び善を生んでいきます。
もともとインドにおいては、バラモン教などさまざまな考え方において広く、「業」と「輪廻」をセットであると考えていました。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まると同時に、現世での行為によっても来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観です。
バラモン教をベースにして釈迦が編み出した仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の「六道」、あるいはそこから修羅を除いた「五道」をぐるぐると輪廻している、とするようになりました。
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられています。
しかし、修行を積んだ高僧ならともかく、我々のような俗世間にまみれた人間は、なかなか修行によって悟ることなどできはしません。このため、仏教においては、こうした人の場合は、次に仏界に行けないにしても、善行を積むことで次には六道の最高階層である、天界に生まれる(=生天)ことができるとされました。
修行を積んで仏になれなくても、天国には行ける、とする考え方であり、教えを信じさえすればすべての人が救われる、ということでこの考え方はインドでは広く浸透しました。しかも、インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていきました。
しかし、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではありません。仏教が伝わった中国ではもともと「易経」などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想がありました。これは、古代中国の細い竹を使用する占いの方法を示した書物で、この占いは「占筮(せんぜい)」ともいいます。
いわゆる筮竹(ぜいちく)という50本の「竹ひご」のようなものを使って、占う人の状態の変遷、森羅万象の変化の予測を行うもので、易径の易は、いわゆる易占いの易であり、現在の易占いはこの易径をもとにしています。
しかし、この易占いは自分自身と家族・親族の相互の間でどのような影響を与え合うか、ということが基本となっており、また現世の状態を占うだけです。輪廻を巡っての前世や後世を占うものではなく、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方はしません。
このため、中国では天竺(インド)から入ってきた仏教における、この輪廻転生という考え方には違和感を覚える人たちが多数いました。結果として中国の伝統的な思想である儒教(朱子学)と、こうした新思想である仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報説と輪廻をめぐる論争が起きたといいます。
六朝期とは、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の時代であり、呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代をいいます。論争は神滅・不滅論争にまで発展し、このため当初仏教は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しませんでした。しかし、六朝代後期になると老荘思想が盛行するようになりました。
老荘思想とは、「道家」の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶもので、老荘思想が最上の物とするのは「道」です。「道」は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もあります。「道」は、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉です。
天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を「天道」といい、人間世界に関わる道を「人道」といいます。この老荘思想をまとめた中国の古典、「菜根譚(さいこんたん)」では、この「道」を守って生きれば、現世の栄達に迷わされることなく生きることができる、と書いています。
また、権力にへつらえば居心地はいいかもしれないけれども、そののちに来るのは「永遠の孤独」であるとも説いています。道を守るのは孤独な行為ではあるけれども、道にめざめた人は、現世での利益に迷わされず、はるかな理想に生きることができる、としているわけです。
六朝時代のうち、特に魏晋南北朝時代と呼ばれる時代においては政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難でした。このため、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、こうした世俗から身を引くことで保身を図ることができる、とする老荘思想が広く高級官僚(貴族)層にも受け入れられようになりました。
そこへ入ってきた仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす、いわゆる「清談」という議論方式が南朝の貴族の間で流行しました。そしてこの清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至りました。
やがて老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、またや儒教にも影響を与えるようになりました。そして、中国に浸透していった仏教の根本思想ともいえる因果応報説はその後、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていきました。
そして、日本に仏教が入ってきたときにはこの思想はわりとすんなりと受けいれられました。このころの日本には土着の宗教というものはほとんどなく、中国で起こったような論争もないままに広まりました。
平安時代の説話集「日本霊異記」にも因果応報の考え方が表現されるなどし、この中では、善悪は必ず報いをもたらし、その報いは現世のうちに来ることもあれば、来世で被ることも、地獄で受けることもある、と説かれました。
また、仏像と僧は尊いものであり、善行としては、施し(ほどこし)、捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める放生(ほうじょう)といったものに加え、写経や信心一般がそれとされました。一方、悪事には、殺人や盗みなどの他、動物に対する殺生も含まれる狩りや漁を生業にするのはよくない、といったことが書かれました。
とりわけ悪いこととされるのが、僧に対する危害や侮辱である、とされ、これにより仏教を説く僧侶が尊ばれるようになるとともに、仏教とその根本にある因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていきました。
統計的にみて約8500万人が仏教徒である、とされる現在の日本ではこの考え方は普遍的なものとして広まっています。何か悪いことをすれば悪いことにつながる、良い行いをすれば良い出来事が起きる、といった考え方は日本人ならばごく自然にもっている価値観でしょう。
これは世界一犯罪が少ないとされる国を作り、世界一優しいとされる国民性を育ててきたという面では評価されると思追います。しかし、現在における日本人は誰しもがすべてのものは善と悪に大別できる、と思っているかのようにみえます。
とかく現在の日本においては、日常的なことわざとしての「因果応報」は、後半が強調される傾向が強く、「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多いようです。悪いヤツは徹底的にこらしめるべきだ、とする向きが強く、目には目をとばかりに、罪を犯した人間には厳しい懲罰を与え、村八分にする、ということも多いように思います。
昨今大きな社会問題になっている「いじめ」や「パワハラ」などの背景にももしかしたらこの因果応報があるのかもしれません。
しかし、因果応報を根本に据える仏教においては、本来はその行いこそ来世にもつながる行いとしているわけであり、罰した者もまたそれ相応の報いを受けるべきだ、という思想であるわけです。
すべてのことは今生も含めて過去から未来へ向けて時系列で繋がっている、と考えるのであれば、そうした善悪の見極めもまた、因果とその後を見据えた上でなされるべきであり、ジャッジの行使もまたそうした熟考の上での行為であるべきでしょう。
また、現在においては、因果応報という考え自体も輪廻との関わりというよりも、現生における利益を強調することばに特化している傾向にあります。結果を伴わない行為は無駄である。何もしないでいるよりはやったほうがいい、しかしどうせやるなら結果が出ることだけをやろう、という風潮が強いように思います。
たとえどんなに意味がないと思うことでも、結果が出ないと思うことでも、本来の「因果応報」の考え方に従えば、何等かの結果が出るはずです。たとえ小さな結果であったとしても、人為においてもバタフライ効果があるなら、それはいずれは大きな結果につながっていく可能性があるわけです。
今年いいことがたくさんあった人は、その出来事が起こるまでの積み重ねについて考えてみるともに、その延長上にあることを考えてみましょう。その先には更なる飛躍へのヒントがあるかもしれませんが、あるいはちょっとしたつまづきの兆候が隠れているかもしれません。
一方、今年何もいいことがなかったという人は、悲観的に考えるよりも前に、なぜ今年は何もいいことが起こらなかったのか、もしかしたら何もない、ということがむしろ幸いだったのかもしれない、といったことも考えてみましょう。
また、今目の前で起きている小さな出来事が、来年以降、どんな連鎖によってどんな花を咲かせていくことになるかを想像することは人生の楽しみでもあります。
年の押し迫った中で、今年一年を振り返るとき、みなさんも、因果応報、輪廻転生、バタフライ・エフェクト、こうしたことを少し考える時間をとってはいかがでしょうか。