コタツから来年へ

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今年も残るはあと2日。

12月に入ってから天候不順が続いていましたが、ここへきてようやく大気が安定してきたらしく、ここ伊豆も4~5日前から好天が続きます。

そんな中、冬の陽を浴びながらぼんやりとコタツになど入っていると、なにやら幸せな気分になってきます。が、まだ大掃除で残っている部分があり、本当にぼーっとできるのはこのブログを仕上げた午後になりそうです。

それにつけてもこのコタツというのは便利なものです。部屋全体が温まっていなくても、火を入れれば瞬間的にそこだけが温かくなるので、寒い出先などから帰ってきてすぐに温まりたいときとか、ちょっとした昼寝をしようとうするときなどには、とりわけ重宝に感じます。

家族団らんで囲むコタツも楽しく、子供のころは姉や従兄弟たちと座卓を囲んでトランプ遊びによく興じたものです。木枯らしにコタツ、そしてミカンといえば冬の定番の風物詩であり、いかにも日本的なもののひとつといえるでしょう。

漢字では「炬燵」と書きますが、「火燵」とも書くようです。こちらのほうが古い表記でだいたい室町時代に使われていた漢字のようです。ただ、それ以前にはさらに難しい「火闥」があったようで、これは中国から輸入したての頃に使っていた漢字のようです。

江戸時代までにはこの漢字を含めて多くの漢字が「国字」、すなわち日本独自にアレンジされるようになり、「火燵」になりました。さらに江戸時代までには篝火を意味する「炬」と組み合わせて「炬燵」となっていったようです。が、具体的にいつごろからこの文字を充てるようになったのかはよくわかっていないようです。

その昔は、「内弁慶」という言葉と同様に、外では意気地がないくせに、家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言いました。こうしたところは、コタツにばかりもぐりこんでいて外にでようとしない、現代人にも通じることころがあります。

コタツと一体化して生活する連中のことを「かたつむり」をもじって俗に「こたつむり」と呼ぶそうで、他に、コタツにすっぽりと殆ど頭だけ出して潜り込んでしまった状態はまるで亀のようなので、こうしたコタツ族を「カメ」とも呼ぶようです。

経済的な暖房器具であることから、独身貴族にはこうしたコタツムリやカメ野郎が多いようです。かくして私も独身時代の冬にはコタツが欠かせませんでした。最近では一人用のミニコタツなどがあり、コタツは一家にひとつではなく、パソコンのように一人一台というご家庭もあるようです。

しかしその昔は、寺院や武家で「火鉢」が使われ、こちらが一人に一つでした。火鉢は客向けにも使われ、各家に多数ありましたが、コタツはやはり一家に一台であり、家庭用でした。

室町時代からすでに「火闥」の文字があったように、その発祥もどうやらこの時代のようです。最初のコタツは、囲炉裏(いろり)の上に櫓(やぐら)を組み、蒲団をかけただけの簡単なものでした。

やがて、囲炉裏を床より下げ、床と同じ高さに櫓を組んでそのうえに蒲団を置く、現代の掘り炬燵に似たものが登場しましたが、これでは足を入れた時に火傷をしてしまいます。そこで、さらに床下に下げた囲炉裏の周囲に足置きのスペースを置いて囲炉裏の周りに座れるようにする形式の「腰掛け炬燵」ができました。

江戸時代までにはこの形式が主流になり、「大炬燵」と呼ばれるような大勢が腰かけて入るコタツもあったようです。火鉢とともに冬には欠かせない暖房器具として発達していきましたが、当初は、熱源として主に木炭を使っていました。

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しかし江戸中期以降になると、コタツに使用される固形燃料として炭団(たどん)が登場します。作り方としては、炭の粉にこの時代でも手に入りやすい海藻、ジャガイモなどから取り出したデンプンなどを加えて丸めて固め、乾燥させて出来上がりです。長時間じっくり燃えるよう、場合によっては土なども混ぜることもありました。

江戸中期の商人で、塩原太助という人がおり、裸一貫から身を起こし、この木炭の粉に海藻を混ぜ固めたタドンを発明し、商業的に大成功しました。このころ、木炭を運搬する際に使用する炭俵や炭袋には、底の方に炭の粉や欠片が大量に溜まり、また、木炭製造時にも、商品の規格外の細かな欠片が大量発生していました。

一般家庭では、こうした余った炭の粉を集めて自家製の炭団を造っていたようですが、品質が一定せず、また火がつきにくく火力も弱くなりがちでした。太助はこうした余った炭の粉に目をつけ、これを手で丸めてかためて再利用できないかと思考錯誤の末生み出したのがタドンです。

火力も従来のお手製のものに比べてそれほど強いというわけではありませんでしたが、太助が作ったタドンは種火の状態で1日中でも燃焼し続けるため、火鉢や煮物調理に向いていました。また一方では、江戸期に広く普及しはじめたコタツにもまた最適な燃料となりました。

このタドンの販売によって大成功をおさめて大富豪になった太助ですが、その後も謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行ったそうです。このことから、後世には戯曲や歌舞伎などでも扱われ、その功績がうたわれるようになりました。

幕末には太助をモデルにした「塩原多助一代記」という人情噺本が出版され、これは12万部という驚異的なベストセラーになっています。

その後、明治になり、1909年(明治42年)東京・上野にイギリス人の陶芸家で、バーナード・リーチという人が、正座が苦手なために自宅に掘り炬燵を作りました。小さな掘り炬燵でしたが、足を下ろす穴よりも囲炉裏になる穴がさらに深く掘られ、これにより従来のものよりもより耐火性能を確保していました。

ただ、炭を床面よりもかなり深くに置く事になり、補充・灰掃除が大変なのと一酸化炭素中毒を起こしやすいのが欠点でした。しかし、まだまだ火事の多かった時代であり、その耐火性などを志賀直哉、里見弴(とん。菊池寛賞、読売文学賞などを受賞)が随筆で誉めたことが宣伝となり、昭和初期に日本全国へと普及しました。

これにより、それまでは腰かけ炬燵と呼んでいたものが、「掘り炬燵」と呼ばれるようになり、この名前も全国的に広まり、現在に至った、というわけです。

この深い囲炉裏である掘り炬燵での炭の使用の不便を避けるために、使われるようになったのが、「練炭」です。練炭は欧米で「ブリケット(Briquette)という泥炭を固めたものが使われていたものを改良したものです。

現在では、十数種類の石炭を混ぜ合わせて練炭用に調合された粉炭を消石灰やピッチ、ベントナイトといったつなぎを加えて成型して作られます。

明治元年に長崎に入ってきていたブリケットを見て、東京のある蒸気船問屋がこれを改良しようと思い立ちます。そして1876年(明治9年)ごろから「角型塊炭」という名称で主に家庭での煮炊きや風呂炊き用に売るようになりました。

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一方、当時の軍艦で使われる石炭からは、黒煙が盛んに出る割に火力が弱く、艦船用の燃料としては最適とはいえませんでした。そこで、1894年(明治27年)に海軍省の竹田少佐という人物が、軍艦からでる黒煙対策にとこの角型塊炭に目をつけました。

そして、山口県の大峯炭山(宇部炭鉱)でとれる無煙炭を粉末にし、これで練炭を作って軍艦に使用したところ好成績を残しました。これは“海軍の角炭”と呼ばれて重宝され、日露戦争を期に、山本権兵衛海軍大臣が高品質の角炭を需給できるよう、同じ山口県の徳山に練炭製造所を開設を命じ、ここで量産されるようになりました。

この角炭は当初、膠(ニカワ)で固められていましたが、のちに台湾産の廃糖蜜で固めるほうがより長持ちすることなどがわかり、その後もさらに改良が加えられました。

しかし、この練炭は当初主に軍用であったため、明治末までは一般で使われることは少なかったようです。その後、艦船用から業務用へとその使用先が拡大していき、明治末期までには上の角型塊炭と同じように家庭で使われるようになり、その後煙の出にくい燃料として掘コタツにも広く使われるようになりました。

このころから、さらにコタツ用に改良も進み、触媒を上に乗せ一酸化炭素や臭いを削減した掘りごたつ専用練炭コンロも作られるようになりました。また、各種石炭に消臭材などを加えて燃焼時の臭いを抑え、扱い易い「豆」状に成形した、いわゆる「豆炭」も作られるようになりました。

こうした「豆炭炬燵」は戦後、急速に普及し、1960年代にはどこの家庭でもこの形式のコタツがみられるようになりました。それまでは、熱源部分に豆炭を入れ、囲炉裏や火鉢で炭を燃やした際に出る灰をその上に乗せ、その厚さによって温度調整をしていましたが、この豆炭炬燵の普及により、ダンパーで通気量調整ができるものも登場しました。

ダンパーとは、風量を調節するための装置です。掘り炬燵で足を置く部分や豆炭を燃やす部分などの横壁に縦格子状の通風窓を設け、シャッターを開け閉めすることで可燃部分に入る風量を調整します。これにより不完全燃焼を防ぎ、一酸化炭素中毒になることを防止できるようになりました。

しかし、このころから日本家屋は建築技術が進み、さらに気密性が高くなってきました。このためさらに屋内にこもりやすい一酸化炭素を減らすために、このダンパーに触媒を付けるようなものもあらわれました。しかし、触媒部分は消耗品で、中毒死や火災を避けるため毎年の交換が必要でした。

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このように、1960年代ころまでには、タドン団や練炭、豆炭など、炭をベースにした燃料が広く使われていました。これらの燃料はその後、高度成長期に石油ストーブやプロパンガスが普及する前まで、一般家庭でのコタツなどの暖房用や調理加熱用、として広く使われ、日常的に利用されていたわけです。

とくにタドンについては、豆炭や練炭が広く使われるようになってからもその生産が衰えませんでした。山林地域の産業として重要な役割を担っていたためであり、昭和30年代頃までは全国に炭団製造工場がありました。

買値も練炭よりもかなり安く、どこの家庭にもありました。寒冷地で日常よく使うものであったことから、その昔の雪だるまといえば、目には炭団、眉毛や口は木炭というのが定番でした。

一方、現在主流となっている電気炬燵は大正後期には既に発明され、一般向けにも発売されていました。しかし、電気がまだまだ高い時代であり、家庭にはなかなか普及しませんでした。

ところが、1950年代からは日本は目ざましい経済成長を遂げるようになり、家庭には次々と電化製品が普及。高まる電力需要に応えて大規模な電源開発が始まり、このために電気は急速に安くなっていきました。

電気を熱源とした電気ゴタツを実用化商品として売り出した嚆矢は、当時北陸電力社員、のちに北日本放送社長となる、横山良一氏といわれています。1956年に発明したとされ、これによって電気ゴタツの開発が進みました。

しかし、この横山が開発した電気ゴタツは熱源がまだ床置き式でした。そこで、このニクロム線熱源を机の裏面相当の場所に設置して足を伸ばせるようにした「電気やぐらこたつ」を東芝が1957年に発売、以後この形が爆発的な人気を得るようになります。

このニクロム線式ゴタツの開発にはかなりの苦労があったようです。それは、空気は温まると上に上ってゆくため、上部にヒーターを取り付けただけでは、熱が天板のほうへ逃げていってしまうことでした。このため、試行錯誤の末、東芝の技術者たちは天板の裏に反射板を取り付けました。これはヒーター部分の奥にはりつけられたアルミ製の板です。

ニクロム線が加熱されて発生する熱は、これによって反射され、下向きに空気を暖める仕組みでした。しかし、ニクロム線を使った熱源というのは、いわば電気コンロと同じであり、一つ間違えば火事にもなりかねません。

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大きな事故はなかったようですが、メーカー側もこのことは認識しており、その後、このニクロム線式に代わって、赤外線ランプというものが開発されました。これは、赤外線の放射の割合を多くした電球で、一般の白熱電球よりもフィラメントの温度をやや低くしてあります。

普通,反射型電球と類似の構造にしてあり、下向きにのみ熱が伝わります。赤外線には熱作用があるので,塗料の焼付け乾燥,食品の加熱などに当初使われていましたが、発熱温度の調整もしやすく、すぐに主流になりました。

ただ、当初発売されていた電気炬燵は熱源部分が白いものであり、当時の多くの人が「これで本当に温まるのか?」と疑問視してなかなか購入しようとはせず、売り上げが伸びなかったそうです。

そこで東芝ほかの企業が熱源部分を赤くして温かさがきちんと伝わる様に見せたものを1960年頃に発売したところ売り上げが急速に伸びました。その後長きにわたってこの赤外線ランプ式のコタツは普及し、1980年代までにはどこの家庭でもこの形式のコタツがみられるようになりました。

今も懐かしいレモン型のこうした赤外線ランプを使った電気ゴタツをお使いの家庭もまだまだたくさんあることでしょう。

ただ、最近ではこうした赤外線ランプのコタツはほとんど見られなくなっています。その理由は「ランプ」であるだけに、直接触ることによる火傷を防ぐためのガードカバーなどを取り付ける必要があり、その分、コタツ内での嵩が増すためです。コタツの中に首まですっぽり入る人も多く、その際にはこのヒーター部分はとりわけ邪魔です。

そこで最近では、発熱体は鉄クロムまたはニクロム線などの昔ながらの素材ではあるものの、シンプルな構造で低コストの「石英管ヒーター」や、発熱体はタングステン線を花巻状にした「ハロゲンヒーター」などが主流になりました。

とくにハロゲンヒーターは、加熱温度も高く、速熱速暖性に優れており、電源を入れてから2秒ぐらいで立ち上がるのが特徴です。

最新式のものには、「コルチェヒーター」といったものもあり、これはタングステンフィラメントを不活性ガスとともに石英管に封入したヒーターです。これまでのヒータに比べて最も応答性に優れ、電源を入れてからの立ち上がりは超早く、0.1秒くらいだそうです。

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こうしたヒーターを用いた熱源装置は従来の赤外線ランプに比べてかなり薄型になりました。その昔は、冬場が終わると赤外線ランプの部分だけ外して「卓袱台(ちゃぶだい)」として使う家庭も多かったようですが、薄型になったことから最近は年から年中、この発熱体をつけっぱなしにする家庭が増えました。

このため、現在のコタツは、冬場の暖房器具としてだけではなく、それ以外の季節では蒲団をはずしてちゃぶ台、ないしは座卓代わりとして通年利用されることが多くなっています。

ちなみに、この「ちゃぶ台」という言葉については、語源がはっきりわかっていないそうです。有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの、同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするものなどがあるようです。

このようにコタツ蒲団をはずした場合座卓に見えるコタツを電化製品業界では「家具調炬燵」といい、家具業界では「暖卓」と呼んでいます。

一方、現在では、さまざまな安価な熱源が生産されるようになったことから、大手メーカーは電気ゴタツを生産していません。

コタツを作っているのは、中小のメーカーであり、これらのメーカーには中小の木工会社も多いようです。こうしたメーカーではコタツのやぐらは自前で作り、熱源は別のところから仕入れ、自前で作ったコタツと合わせて売ります。

かなりおしゃれなものも増え、その昔はコタツといえば畳の上に置くもの、と決まっていましたが、最近ではフローリングの上に置く、背の高いダイニングテーブル式のコタツまで広く普及するようになりました。

その昔は、こたつ蒲団の上に四角い天板の裏がラシャ張りになっており、麻雀卓として利用されたりしていましたが、最近は麻雀人口の減少と正方形のコタツの減少とともに稀になりました。家具調炬燵(暖卓)の普及により、現在のコタツの形状の主流は正方形から長方形になりつつあるようです。

このようにコタツはすっかり通年家具として定着しつつあるわけですが、その昔は当然ながら冬だけのものでした。武家では「亥の月亥の日」に炬燵や火鉢などの暖房具を出したといい、この日は「亥の子(いのこ)の日」と呼ばれていました。

旧暦10月(亥の月)の上旬の最初の亥の日のことで、太陽暦では11月半ばから後半です。また、町家では暖房器具を出すのは、第二の亥の日であり、つまり亥の子の日から12日後、11月下旬から12月初めごろから火鉢や炬燵などを使いはじめました。

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なぜ亥の子の日かといえば、亥(猪)は、摩利支天の神使であるためです。摩利支天は炎の神であり、防火の神でもあります。また亥は陰陽五行説で火を制する水にあたるため、武家は亥の月亥の日に火道具を使い始め、家の防火を祈ったわけです。町民の使い始めが遅いのは、武士より身分が低いため、彼らに憚って使用開始時を遅らせたのでしょう。

こうした風習は今でも西日本で残っており、京都の茶家などでは、今でも11月に入ると亥の子に炉開きの行事をするところが多いそうです。

この摩利支天の原語のMarīcīは、太陽や月の光線を意味し、摩利支天はまた陽炎(かげろう)を神格化したものです。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付きません。このため護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めました。

また、これらの特性から、摩利支天を信仰する武人は昔から多く、楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を収めていたといいます。毛利元就は「摩利支天の旗」も旗印として用いていたほか、山本勘助や前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられています。禅宗や日蓮宗でも護法善神として重視されています。

さて、来年の干支はこうした摩利支天ゆかりの亥ではなく、申(猿)です。日本では古来サルは日枝神社(比叡山)の使い番とされています。

また、この日枝神社にちなんで、江戸南の伝馬町(現京橋1〜3丁目)で毎年催される山王祭・神田祭といった祭りでは、烏帽子狩衣姿で御幣を持つ猿の人形を飾った「幣猿(へいざる)の吹貫(ふきぬき)の山車」が祭礼に出されます。

吹貫というのは吹き流しのことで、要は幟(のぼり)で飾られた山車です。また、「幣猿」の「幣」は日枝神社には、戦前まで比叡の宮という別社があり、これは「幣の宮」と呼ばれていたことに由来します。氏子は年末にここの入り口で最後のお祓いを受け、午後7時ころに五十張の堤燈の灯を燈し、夜道を守護しながら神社に「おさまった」といいます。

「参拝する」という意味だと思いますが、氏子用の特別用語でしょう。このとき幣の宮からおさまるまでの眺めは素晴しく美しく、氏子たちの心に一生焼きつく程の光景であったそうで、このことから幣の宮へ渡る氏子の人々は「日枝の祭りは屁(へ)で終わった」と面白おかしく、「幣」を「屁」にもじって言い伝えました。

また、これは祭礼が二日間であっけなく終わることから「プッ」と終わるという意味もあったようです。

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一方、「幣猿」の「猿」のほうは、日枝神社が948年に日吉大社(京都比叡山の総鎮守・地主神)より分霊を移して創建された際、この日吉大社、通称「山王様」が「さる」を使者としていたことに由来します。

古来「さる」は 山の神・地主神又は神の使者として信じられていました。このため日枝神社も「さる」と深いつながりを持ち、「さる」を祀り、妊娠・安産・子育ての願いを叶えられるものとして、特に女性に縁深い神様とされているそうです。なので、来年ご出産の方はぜひ来年の初詣出には日枝神社に行ってみてください。

一方、サルはウマを守るともいわれ、厩(うまや)の守護神として古来から敬われているそうです。中国では伝承として古くから広範囲に見られ、例えば孫悟空が天界に召されたとき、最初任ぜられた天馬の厩の担当官である弼馬温(ひつぱおん)という名前はサルはウマを守るとされる伝承がインドから中国に伝来したことによるといいます。

北インド地方の古いことわざにも「ウマの病気がサルの頭上に集まる」というものがあるそうで、同様の伝承は日本に伝わり、中世の武家屋敷の馬小屋ではサルが飼育される風習があったそうです。ただ、本物のサルではなく、サルの頭蓋骨や木造をお守りに飾る例もあったようです。

こうした故事にちなんで作られた熟語の「意馬心猿(いばしんえん)」とは、人間の煩悩を猿と馬に喩えた仏語であり、「人の欲求は疾駆する馬のように止めがたく、意識は猿のようにそわそわ騒ぎ立てる」、という意味だとか。

心の中の猿と馬を制御することが大事、というふうに使う言葉だそうで、明治の有名日本画家、橋本関雪は、繋がれた馬と猿を題材にこうした教訓を示す仏画を残しているそうです。

また、仏教の戒律書「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」には、「猿猴捉月」という寓話が書かれています。これは、井戸の底に映った月を見たサルのボスが「月を救い出して世に光を取り戻してやろう」とする、という話です。

このサルのボスは手下に呼びかけ、樹の枝から数珠つなぎに下に降りていきましたが、手に届く寸前で枝が折れて全員井戸に落ちたといい、この話も月を捉えようとするサルとして禅画や水墨画の画題となっています。こちらは身の程知らずな望みを持つことで失敗することの例え話であり、「意馬心猿」と同じく、はやる自分を戒める教訓話といえます。

サルに関するほかのことわざにもあまりいい意味のものはなく、「猿の尻笑い」といえば、
自分の欠点には気づかずに、他人の欠点をあざ笑うことのたとえです。ほかにも「猿に烏帽子」とは、似つかわしくないことをするたとえで、外見だけを取り繕って、中身が伴わないことのたとえです

さて、来年の私やみなさんの一年はどんな一年になるでしょうか。「猿も木から落ちる」にならないよう、お互い、緊張感のある一年にしたいものです。

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