松陰の恋

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以前、6月に書いた「望東尼と雅子と文さんと」というブログで、来年から始まる大河ドラマ「花燃ゆ」のことを少し書きました。が、この時点では、主人公の吉田松陰の妹の「文」のキャストが井上真央さんであり、夫の楫取素彦役は大沢たかおさん、などの主だった面々以外のキャストは決まっていませんでした。

しかし、その後ほかのキャストも決まったようで、松陰役の伊勢谷友介さん、久坂玄瑞の東出昌大のほか、幼い松陰を鍛えた教師で叔父の玉木文之進を奥田瑛二が、毛利敬親を北大路欣也、その婦人を松坂恵子、井伊直弼を高橋英樹といった具合にベテラン俳優で脇固めをすることなどが公表されました。

また、これはちょっと笑ってしまったのですが、伊藤博文に劇団ひとりが、また松陰の友人の宮部鼎蔵(ていぞう)にビビる大木、松陰の兄の杉民治(梅太郎)を原田泰造が、といった具合に各所にお笑い系の芸人さんをちりばめており、これはこれでなかなか面白いかもしれません。もっとも原田泰造さんは最近は役者としてもなかなかのものですが。

この物語は、無論その主人公は松陰の妹の杉文なのですが、その前半の主役の一人は兄杉寅次郎こと松陰その人です。若くしてその才能を認められ、長崎や江戸に遊学した松陰ですが、後に、萩で開いた私塾から、維新で活躍する多くの弟子を輩出した事で幕末の英雄とされるようになります。

この萩において、彼は、その人生で二度、同じ野山獄に投獄されています。

一度目は、ぺリーが再び浦賀にやってきた嘉永七年(1854年)であり、この前年の最初の黒船来航の際に、黒船見物をした彼が、やはり、自分の目で外国を見てみたいという衝動にかられ、密航しようとして失敗した時です。

伊豆下田港においては、再航したペリー艦隊に弟子の金子重之輔と二人で赴き、密航をさせてくれと訴えますが拒否されてしまい、しかたなく、松蔭は幕府に自首しました。そして長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されたのです。

しかし、翌年の安政2年(1855年)には獄を出され、生家で預かりの身となります。家族の薦めにより藩士向けに講義を行うことになり、叔父の玉木文之進が開いていた私塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てるようになりました。これが、かの有名な松下村塾になります。

二度目の入獄は、これから4年のちの安政5年(1858年)のことです。幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄されてしまいます。

そして安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致されますが、潔く老中暗殺計画を自供した上に、幕府の役人に自らが信奉する尊王攘夷思想を語ったことから、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処されました。享年30(満29歳没)。

この一度目の野山獄への投獄の際、そこには、すでに11人ほどの囚人がいましたが、松陰はその中で一番年下でした。最初は周囲から軽く見られていた彼でしたが、しだいに親しくなるにつれ、その関係は変わってきます。

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松陰は、獄中にいる囚人たちでも、その根底には、皆、それぞれに得意なものを持っていると考え、大工をしていた者は建築にくわしいため、これを彼に講義をさせ、板前をしていた者は料理にくわしかったので、料理について語らせます。

無論松陰自身も長崎で学んだ事や国学を講義しましたが、そうこうするうちに囚人同士でも教え合うようになり、書道が得意な者がお礼に俳句を教え、絵の上手な者と一緒に絵手紙を始める、といった具合にいつしかそれらは、種々の獄中サークル活動となっていきます。

しだいに、その輪はどんどん広がっていき、やがては看守までが、サークルへの入会を希望し、松陰の講義に耳を傾けるという人気ぶりでした。この時の教える面白さ、学ぶ楽しさが、後の松下村塾での講義に影響を与えた事は言うまでもありませんが、そんな囚人の中に、一人の女性がいました。

高須久子といい、もともとは萩城下は土原(ひじはら)という地名の場所に住んでおり、この場所は、萩市内を流れる松本川の東側、椿東にある松下村塾と松本川を隔てた対岸にあり、松陰門下で、明治維新後反乱を起こして処刑される前原一誠の居宅などもあった場所です。

久子はこの地に居を構える高洲家の娘であり、入り婿で入ったここの主が亡くなったあと未亡人でした。史料には「高洲久」と記録されているようですが、もっぱら「高須久子」として語られる女性であることから、ここでも高須久子としておきましょう。

長州藩には、毛利家一門を筆頭に、永代家老・寄組・大組・遠近附士・無給通組・徒士・足軽という順で身分制度が定着していました。毛利家一門が6家と永代家老家が2家があり、これら上級武士は藩内に独立した知行地を持ち、最高権力者の地位にありました。

高須家は上記身分では遠近附士にあたり、これは別名を馬廻通ともいい、録は300石ほどです。馬廻りは藩主の身辺警護役ですから騎馬が許されていましたが、格付けからすればどちらかといえば中の上程度のカテゴリで、関ヶ原以前に何か手柄を立てて一代限り騎馬を許されたといったものだったでしょう。

ちなみに、吉田松陰の吉田家の家格は無給通組で給地を支給されません。石高はわずか26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立てていました。また、高杉晋作の身分は大組でしたが、高須家よりも石高は低く200石であり、また防長一の美人と言われた妻のまさの実家の、山口町奉行井上平右衛門の家もまた大組で250石です。

いずれも上士とされる高級武士であり、高須家はこれより格下ということになりますが、石高だけ多かったのは、馬術や大筒を教える師範家でもあるため、それなりに物入りである、と藩が判断したためでしょう。

この高須久子は、夫が亡くしたあと、その寂しさを埋める趣味として三味線に打ちこむようになりました。が、趣味が高じて、しだいに京唄、ちょんがれ節などのはやり歌などに耽溺するようになっていきます。

そして地元の芸能人ともいえる三味線弾きの弥八と勇吉という男衆をひいきにするようになります。二人は叔父甥の間柄だったようですが、いずれも身分が低く、どうやら非人とか穢多と呼ばれる部類の人だったようです。

彼らを自宅に呼び寄せ、忍び弾きをさせ、ときには夕食を与え、寝酒もふるまって家に泊めることもあったようで、この時代、武士の未亡人が徹夜したとは言え男を家に泊めるというのは一種の不義密通にあたり、非常に外聞の悪いことでした。

困惑した親類一同はついに久子を提訴。こうして高須久子は野山獄の虜囚となりました。投獄の罪状は、穢多同様の三味線弾きを平人同様に扱ったというものでありましたが、この時代は身分制度には非常に厳しい時代であり、その程度のことでも罪に問われました。

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野山獄というのは、長州藩において、士分の者を収容する牢獄でした。もともとは、大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛という人物の屋敷でしたが、高須久子が投獄されるよりも200年ほど前の、正保2年(1645年)の夜、酒に酔った主の岩倉は、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷しました。

何等かの怨恨のためと思われますが、このとき藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処しました。が、喧嘩両成敗ということで両家とも取り潰され、屋敷も没収されました。そしてこののち萩藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄としました。

この野山獄には、その後松陰や久子も投じられましたが、維新前夜の文久・元治年間(1861~64年)には、藩内の論争に際して高杉晋作をはじめ多くの志士もまた繋がれ、さらには、獄外の白洲で保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など多くの人が処刑されたところでもあり、維新当時の萩藩の波乱に富んだ状況の象徴ともいえます。

維新史を語るうえでも重要な遺跡ですが、残念ながら現在は当時の敷地の一部が残っているだけで建物はなく、記念碑が建てられているだけです。

久子もまた、夫が馬廻り組の武士でしたから、ここに押し込められました。このとき、彼女は37才。25才の松陰よりちょうど一回り年上でした。

萩でも比較的高禄の高須家のあととり娘であった久子は、身分卑しき者たちとの交際をとがめられ投獄されたわけですが、現在ならば獄につながれるほどの重い罪ではなく、このため彼女もまた、その取調べの際悪びれる事なく、普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いのか、と主張して反感を買ったといいます。

この野山獄には、野山六右衛門の屋敷を改造した結果、小さな中庭をはさんで北側に6室、南側に6室の計12室の獄房が設けられていました。そこに、安政元年(1854年)10月幕府から自藩幽閉を命ぜられた吉田松陰が、江戸から送られてきます。

このとき野山獄にいた11人の囚人のち、高須久子は紅一点であり、松陰が入ってくる前の在獄歴は4年ほどだったようです。野山獄は差し入れ自由ですから親戚縁者が支援してくれる限りは飢えることもないし、元々武士用の牢獄ですからそれほど苛酷な環境でもなく、確定囚ばかりですから拷問も取り調べもありません。

問題なのは刑期であり、私的な押し込め(借牢)ですから久子には刑期というものがありません。松蔭の働きかけによって同時期にいた借牢の囚人たちは多くは釈放されましたが、久子は釈放を許されず明治になって野山獄が廃止になったのちに放免されました。

このため、松蔭の死後、文久4年(1864年)に野山獄に入った高杉晋作などとも声だけでも交流はあったものと思われます。

実は、彼女は、松陰の生涯において、たった一人の恋人ではなかったかという「噂」があります。

「花燃ゆ」では、この高須久子役は、井川遥さんが演じるそうで、相手役の松陰が伊勢谷友介さんですから、この美男美女の組み合わせは、この噂をベースに決められたたキャストでしょう。なかなか斬新な組み合わせではありますが。

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無論、二人の関係を証明するような直接的な記録は、何も残っていません。が、久子が歌い、これを松陰が書き残したこういう歌が残っています。

「清らかな夏木のかげにやすらへど 人ぞいふらん花に迷ふと」

松陰はこれをは「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」と前書きして、この歌に対する自分の返歌とともに書き残していました。いさをしは、「いさし」で、「子細」の意味ですが、「武勇伝」とする人もいるようです。自分がしでかした罪に関する武勇伝を松陰に披露したあとに、久子がこれを歌ったという意味です。

最初の「清らかな 夏木のかげにやすらへど」は、「松陰様、あなた様は色んな冒険を潜り抜けてこられたけれども、女色にも溺れなかったんでしょうね」という意味です。

しかし下の句「人ぞいふらん 花に迷ふと」の意味は、「それにしても、そういう冒険の影には、ほんとうは女性の影があったのでは、と世の人は噂するでしょうねぇ」という意味になります。

つまりは、松陰の過去の色恋のことを探ろう、とした句であり、ここからは久子の松陰に対する興味=恋心が伺われる、という人もいます。

ところが、この歌を受けた松陰は、にべもなく次のように返しています。

「懸香のかをはらひたき我もかな とはれてはぢる軒の風蘭」

懸香とは、掛香とも書き、調合した香を絹の小袋に入れたもので、室内にかけたり、女性が懐中したり、ひもをつけて首にかけたりした「におい袋」のことです。従って、懸香=久子というふうにも受け取れます。

しかし、「はらひたき」ですから、これは、そういう香りのするような女性との恋愛を推測されるような疑惑のケムリは打ち払いたいものです、というほどの意味です。

これに次ぐ、「とはれて はぢる 軒の風蘭」の「風蘭」とは江戸時代から栽培されている古典植物の一つです。当時から珍種や変種を集めた鑑賞会などが開かれていたという記録があります。

もちろん松陰自身のことではありますが、「そういう疑惑をかけられてしまうことは恥ずかしい、もしくは、そういう疑惑を持たれること自体、自分の不徳だと思っている」という意味になります。

つまり、久子の下世話な詮索を軽くあしらったというかんじであり、このあたりの表現をみると、愛の相聞歌というかんじはしません。

しかも、前置きに松陰は「高須未亡人に」と書いています。松陰が残している歌にはほかにも「高洲氏から」という詞書きのついたものがありますし、浮気相手ならともかく、恋をしている女性にそういう呼び方をするものでしょうか。

これらのことから、この問答から二人の関係は恋愛関係だったと想像するのは少々無理があるという人もいます。が、松陰と久子が親しく語りあっているのを、同囚たちからなにかと噂されるのを恐れ、あえてそうした表現にした、とも思われ、獄中という非常に微妙な空気の現場事情をうかがわせます。

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このほかにも、「未亡人の贈られし発句の脇とて」と前書きされた松陰の和歌2首もあり、久子はしばしば、このような発句を松陰に送り、返答を求めていたと思われます。

こういうのもあります。

「鴨立つて あと寂しさの 夜明けかな」

これは、一年間の囚人生活を終えて、松陰が獄舎を出ていく時に、久子が詠んだ句だと言われています。鴫は松陰のあざな「子義」にかけたものであり、松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会における久子の句ですが、「寂しさの」のところに久子の感情が読み取れます。

その後松陰は、いったん釈放され、松下村塾で教鞭をとる事になるわけですが、開国か攘夷かで揺れる安政五年(1858年)、幕府が天皇の許しを得ず日米修好条約を締結した事で、反幕府の意志をあらわにします。そして老中・間部詮勝(あきかつ)の暗殺と、仲間の梅田雲浜(うんびん)の奪還を計画します。

しかし、その計画は実行される事はなく、しかも密告により藩にばれてしまいます。こうして松陰は安政五年(1858年)12月26日、老中・間部詮勝の暗殺計画と梅田雲浜の奪還計画を自白し、再び野山獄に投獄されました。おそらく、このとき久子は松陰の再来に心躍らせ、また最先端の話が聞けると喜んだことでしょう。

ところが、この時のことを松陰は「獄居と家居と大異なし」とだけ書き残しているだけで、他の囚人のことについては言及があるのに、久子のことには露ほどもふれていません。確かに以前の野山獄と今度の野山獄も大異なかった事でしょうが、無論そこには同じように久子もいました。何も書いていない、ということ自体が不自然なかんじがします。

このおよそ半年の後の安政6年(1859年)6月、松陰が安政の大獄の犠牲となって死出の旅のために江戸に向かう際に二人が詠った歌が残っています。

このとき、死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別にと手布巾を贈っています。これに対して、「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と前書きした松陰の和歌が残っており、これは、次のようなものです。

「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん」

「君を思ひて」というところに、久子への思いがあらわになった感情が読み取れます。さらに、久子がこれに答えて松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの句は、

「手のとわぬ 雲に樗の 咲く日かな」

で、樗は「おうち」と読み、センダンの古名です。遠く離れて行く愛しい人を、手の届かぬほど成長するセンダンにたとえ、忘れたくないその姿に見立てて別れを惜しんでいる、と解釈できます。

これに対して松陰はさらに歌を残しており、これは「高須うしに申し上ぐるとて」と前置きした上で、

「一声をいかで忘れんほととぎす」

というものです。別れの際に振りしぼるようにしてなんとか吐いた一句のようにも思えます。忘れたくないその声をホホトギスに見立てて別れを惜んでいる、というわけで、こうした二人の最後のやり取りを見るとまさに恋人同士の相聞歌とも受け取れます。

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そして、それからおよそ半年後の安政六年(1859年)10月27日、江戸小塚原にて松陰は処刑されます。

この刑場は、現在の南千住駅のすぐ西側、常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内に位置します。この当時、刑を受けた死体は丁寧に埋葬されず、申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったといいます。

しかし、松陰は、自分の首の埋葬や死後の処置などを、江戸に来ていた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞にあらかじめ依頼していました。二人が形場にかけつけた時には既に松陰は処刑されており、牢役人に金を渡して遺骸を下げ渡してもらい、近くの回向院に運んでくれるよう依頼しました。

ここでは、桂小五郎と伊藤利輔(博文)が大甕を用意して待っており、ここに松陰の死体を入れた四斗樽を担いで牢役人が現れました。四人が蓋を開けて見ると、顔色はなお生きているときのようにほんのりと赤みをおびていましたが、髪は乱れて顔にかかり、血が流れ出してむごたらしいありさまであったといい、特にその身体は素裸のままでした。

飯田が髪を束ね、桂と尾寺が手酌で水をかけて血を洗い落とし、切られた首を胴につけようとしたとき、遺体を運んできた役人が、「重罪人の屍は他日検視があるかも知れぬので、首をついだことがわかると拙者等が罰を受けねばならない。そのままにして置いてもらいたい」とこれを止めました。

四人は仕方なくその言葉に従い、せめてもと、飯田が黒羽二重の下着を、桂が襦袢を脱いで松陰の体に着せ、伊藤が自分の帯をといて結び、遺体の上に首を重ねて持参の甕に納め、回向院墓地の一画にあった、松陰よりも半年前に処刑されて葬られていた橋本左内の墓の左隣に埋葬し、その上に求めて来ていた大石を据えて仮の墓標としました。

その後、同じく松陰の門下生であった久坂玄瑞が朝廷に働きかけた結果、3年後の1862年(文久2年)、朝廷から将軍家茂に勅論が授けられ、これをもとに幕府は安政以来の国事犯刑死者の罪名を許す大勅令を布告しました。これを受けて翌1863年江戸にいた高杉晋作ら松下村塾の門下生が世田谷にある現在の松陰神社の敷地内に松蔭の改葬を果たしました。

ちなみに回向院墓所内にある立派な墓は、1942年に新たに作られた記念墓だそうです。また、萩市椿東の松下村塾近くにある松蔭の墓は、処刑直後の1860年(万延元年)に杉家や門下生達が松陰の遺髪を埋葬したものです。

松陰亡き後、久子は明治元年(1868年)に新政府のもと罪を許され、出獄しました。が、父親との関係が修復される事はなく、高須家には戻らなかったと言います。

けっこう長生きしたらしいという噂はあるものの、彼女がその後どのように生きたのかについては、はっきりした記録も証拠となる品も残ってはいませんでした。

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ところが、平成15年(2003年)、長崎造船所の初代所長を務めた元長州藩士で渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)という人物の遺品から、一首の歌が書かれたお茶碗が発見されました。渡邊は松下村塾における松陰の門下生であり、久子との間に交流があったとみられます。

口径12・5センチ、高さ4・7センチ。ろくろは使わず、手びねりで作られたらしいこの茶碗の裏面には次の歌が、釘のようなもので彫られていました。

「木のめつむそてニおちくる一聲ニ よをうち山の本とゝき須かも」

「本とゝき須」は「ホトトギス」と読みます。「木の芽を摘んでいると、樹上からホトトギスの一声が聞こえてきた。その声をきくと、松陰先生のことが思い出される」というふうに解釈できます。

また、「一聲」とは、松陰が安政の大獄の影響を受けて江戸送りになる最後の別れの時に、久子へ贈った発句「一声をいかで忘れんほとゝきす」の「一声」を指していると考えられます。前述のとおり、二人はこの歌の前に一対の発句と返句を完成させていますが、この歌に対しては久子からの返しはありません。

おそらくは、もう時間だぞと役人が追い立てるように松陰を牢から出したためと思われ、松陰の発句に久子は答える時間がなかったのでしょう。このことから、この句は、二人が引き裂かれるようにして別れた日、死出に向かう松陰が久子へ渡した句への返句と考えることができます。

さらに、「よをうち」には「世を撃ち」の意味が込められていると考えられ、「そのホトトギスの声は、維新を成した(世を討った)松陰の声なのかも」の意味も込められています。

末尾に「久子 六十九才」とあることから、松陰が死を迎えたとき、久子は42歳になっていたはずですから、これから27年後に作られたものでしょう。

69歳になっても、なお松陰の生き方に尊敬の念を抱き、燃え尽きぬ想いをこの茶わんに託したと思われ、松陰の死後27年経ち、自らの死期も近いと気づいたとき、松陰への思いを何かに残しておきたかったのではないでしょうか。

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4年前の2010年、下関市の映画製作会社「グローカルピクチャーズ」は、「長州ファイブ」(2006年)に続く第2弾の映画として、「獄(ひとや)に咲く花」を製作しました。青年・吉田松陰の瑞々しい恋のエピソードを描いたこの映画の原作は、直木賞作家である古川薫氏の「野山獄相聞抄」です。

この映画が作られた2010年はちょうど吉田松陰生誕180年。上映を前にして、映画の原作者である古川薫氏は、この作品についての思いを、ある雑誌に寄稿しています。

それによれば、「松陰は久子の境遇に同情し、自信をもって生きよとはげましたのではないか」、と古川氏は言います。人間平等の思想に徹する松陰は、久子だけでなく、主宰する松下村塾でも、身分の別を問わず向学心にもえる若者たちを受け入れました。

高須久子もまた獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性です。そして「彼女の松陰にたいする尊敬と感謝の念は、自由を奪われた獄囚の身にもだえ苦しむ憂国の青年への母性本能をふくむ恋愛感情に昇華していったのではないか」、とも古川氏は書いています。

一方の松陰もまた久子の一途な恋慕に戸惑いつつもこれに応え、しかし死という魔の手がせまり極限状況に近づいていくなか、その心がよりプラトニックな恋心に近いものになっていったと考えてもおかしくはありません。

このことを裏付ける上述のような相聞の歌句が存在することは、早くから研究者のあいだでささやかれていたそうです。が、「講談者流の憶測にすぎない」と否定され、とくに戦前においては神格化された松陰の逸事として話題にすることも避けられていたようです。

松陰は、そのころまだ蝦夷といわれていた北海道だけでなく、その北にある満州や、南は琉球や台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、「進取の勢を漸示すべし」として、これらの日本領化を強く主張していました。この考え方はその後の日本の軍国主義化を助け、日本のアジア進出などの対外政策に大きな影響を与えることとなりました。

松陰の死後、伊藤博文らによって造営された世田谷若林の松陰神社もまたその軍国化に少なからず寄与しました。

この神社は幕末時代、徳川勢により一度破壊され、明治元年に木戸孝允がこれを修復整備しました。また昭和2~3年にかけては少し離れたところに現在のような立派なものが造営されましたが、戦前ここに参拝する軍人はひきもきらなかったそうです。

ちなみに、この神社一帯は江戸時代から長州毛利藩の藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで、松陰らが眠る墓域には現在も、木戸が寄進した当時の鳥居が残っています。また、桂自身の遺言により、敷地に隣接する形で彼の墓もここに改葬されています。

戦後にはさすがに軍人の参拝は減り、現在は学問の神様として崇敬を集めています。しかし、戦後新しく語られるようになった松陰伝の中でも、久子とのことは語られることはありませんでした。「軍神」として崇めたてられることはなくなったとはいえ、戦前からの名残で松陰の神聖を冒すものという空気が巷にあったからでしょう。

ところが、古川氏はこの松陰と久子のことを小説化し、「野山獄相聞抄」の題で、昭和53年(1978)夏、「別冊文藝春秋」に発表しました。しかし、これに対しては、その当時でさえ、読者からの抗議の手紙が数多く送られてきたようです。

2年後、同書が文庫となったとき、古川氏の読者としてはめずらしく23歳の女性から感想文が送られてきたそうです。そしてそこには、「感動した」と書かれており、吉田寅次郎という青年が青春を犠牲にして幕末動乱を生きたことを見事に描き切ったことを賞賛する言葉が書かれていたそうです。

この讃辞に対して古川氏は、松陰の一生をまるで「淡彩画」のようだったと前置きした上で、この女性の手紙について、「維新革命の途次、非業の死をとげた孤高の志士の短い人生の終末に、純粋なおんなの愛を捧げた高須久子という美しく教養ある女囚への深い共感であったろう」と書いています。

松陰の久子への思いが単なる共感であったか、本物の恋であったかについては、あなたの判断にお任せしましょう。

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望東尼と雅子と文さんと

2014-1030242ここ伊豆に住むようになってから時々思うのですが、ここの景色は郷里の山口によく似ています。とくに山間の田園地帯などをクルマで走っているときなど、ふと、もしかしてここは本当は山口の田舎ではないかと思えるようなことがよくあります。

伊豆にはあまり高い山がなく、一番高いのは万三郎岳など天城山の1000m級の山々であり、山口もまた1300mほどの寂地(じゃくち)山が最高峰です。ほかは数百メートルの低い山々ばかりであり、これらの低山の合間を縫って里が切り開かれるため、あまり広大な田畑は存在しません。

従って、山口には棚田が多く、ここ伊豆でも低山と狭い田畑の組み合わせがいたるところに見られ、こうしたことが似たような風景を形成しているのではないかと思われます。

似ているといえば、変わった地名が多いことも似ているように思います。伊豆では、修善寺もそうですが、そのまま読めば「しゅうぜんじ」のはずなのに、なぜか「しゅぜんじ」であり、このほか、田牛(とうじ)、八幡(はつま)、原保(わらぼ)といった、なぜそう読ませるのか首をかしげてしまうものがたくさんあります。

山口もまたそうで、柳井市の伊陸(いかち)や、周南市の金峰(みたけ)、下関市の特牛(こっとい)、豊田町の八道(やじ)、長門の向津具(むかつく)などなど、本当にムカつくほど難解な読み方であり、素直に読ませてはくれません。

実家のある山口市内からほど近い街である、防府に(ほうふ)もそうで、普通に読めば「ぼうふ」なのに、なぜ「ほう」と読むようになったのかよくわかりません。

この防府の町の中心にある防府駅の北口を出て、商店街の中を歩いてさらに北へ1kmほど歩くと、そこには防府天満宮の赤いお社が見えてきます。防府天満宮は、菅原道真を祀る学問の神様であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並び日本三天神と称されており、また、日本でもっとも古い天満宮でもあります。

この防府はその昔、三田尻(みたじり)もしくは松崎と呼ばれていました。菅原道真は、大宰府に左遷される際、ここ三田尻港から流刑地である福岡に出港予定でしたが、時化のため数日をこの地で過ごしました。その際、この地がことのほか気に入ったと伝えられており、これがご縁で、道真の死後、ここに天満宮が祀られるようになりました。
 
三田尻と呼ばれていた時代にはまだ防府という呼び方はされておらず、幕末の頃の防府天満宮は、「松崎天満宮」あるいは「宮市天満宮」と呼ばれていました。勤皇の志士たちによって篤く信仰され、中でも維新の立役者として知られる高杉晋作もまた、熱心なこの天神の信者であり、頻繁に参拝していたようです。

晋作は、その晩年肺結核を患い、慶応3年(1867年)5月17日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。享年若干27。臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、このとき、晋作ら勤皇の志士を助けていた野村望東尼にみとられて亡くなったと伝えられています。

野村望東尼は、長州の人ではなく、福岡藩の人です。福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚しましたが、すぐにこの夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりして幕末の志士たちの活動に貢献しました。
 
望東尼は、勤王の歌人でもあり、勤王の志士を多く匿った罪で、今の福岡県糸島郡の沖にある「姫島」に流され投獄されたこともありました。そのことを知った高杉晋作は、福岡藩脱藩の志士6名を送り込んで彼女を救出し、下関の白石正一郎邸に匿いました。

白石正一郎というのは、下関で万問屋を営んでいた豪商で、尊皇攘夷の志に強い影響を受け、高杉晋作などの長州藩の志士たちを資金面で援助していた徳人でした。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていたことがあります。

晋作は、世に名高い奇兵隊を組織するとともに、第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として長州軍を指揮するなど活躍しましたが、その直後に肺結核のため療養生活を余儀なくされ、下関の北にある桜山という場所に小さな家を建て、野村望東尼や、愛人 おうのの看病による療養生活を送りました。

しかし、日に日に病状は悪化し、ついに死に瀕したとき、有名な辞世の句、「面白きこともなき世を(に)おもしろく」を詠みましたがそこで力尽き、代わりに東尼がこの下の句を引き継いで、「すみなすものはこころなりけり」と詠みました。

晋作はこの下の句を聞いていたかどうかもわからないほど衰弱していましたが、望東尼がこれを詠んだあと、「おもしろいのぉ~」といいながら亡くなったと伝えらえています。

望東尼は、晋作の死を看取ったのち、一年後、薩長倒幕軍の船出を見送るために、桜山からここ三田尻の地に移住しました。その際に、必勝「王政復古」を祈願し、天満宮に断食しながら7日間参拝しました。望東尼はまた、この7日間の参拝の際、天満宮に一日一首歌を奉納したといい、この歌の碑文が同天満宮の境内にあります。

「もののふの あたに勝坂越えつつも 祈るねぎごと うけさせ給え」

ところが、望東尼は、この7日間の参拝と断食による無理がたたり、病死してしまいます(慶応三年 1867年)。61歳でした。防府駅の南東側に県立の防府高校という学校がありますが、この学校のすぐ南側に野村望東尼終焉の地であることを示す記念碑があります。

道路を挟んで丁度その向かい側には、大正時代に移設された望東尼の終焉の宅も移設されて残っており、「史跡 野村望東尼終焉の室」という表示がなされています。

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この望東尼の終焉の地や終焉の宅がある場所のすぐ西側には、「桑山」という小高い丘があり、公園として整備されていて、防府市民の憩いの場となっています。ここからは三田尻港が遠望でき、なかなか眺めの良いところです。

望東尼の墓は、この桑山の南麓にあり、その東側の山麓から少し離れたところが終焉の地という位置関係です。この終焉の地から桑山方面に向かって少し歩いて上るとお地蔵さんがたくさん並ぶ道があり、ここに大楽寺というお寺さんがあります。

この寺の案内板には、「望東尼香華所」という表示があり、境内には墓所こそないものの、本堂に望東尼の位牌が安置されていて、「防府望東尼会」の主催で毎年供養が行われているそうで、この寺をはじめ、この地域の人々が望東尼を当地の偉人として大切に扱っていることがわかります。

実は、この寺の墓所には、30年ほど前に亡くなった女優の夏目雅子さんの墓があります。

えっなぜ?と意外に思う人も多いと思いますが、これはご主人であった伊集院静氏が防府市出身であり、彼の家の菩提寺がこの大楽寺だったためです。

この伊集院静という名前を本名だと思っている人も多いかもしれませんが、これは作家としてのペンネームです。実は伊集院さんは、日本に帰化した韓国人2世であり、帰化前の名前は、「趙 忠來(チョ・チュンレ、조 충래)」といいます。

1950年に防府市で生まれ、のち日本に帰化した際、本名を西山忠来(にしやまただき)に変え、その後作家として有名になったため、ペンネームのほうが広く知られるようになりました。

前述の山口県立防府高等学校を卒業しており、その後進んだ立教大学では、文学部に所属して日本文学を学び、卒業後は広告代理店に勤め、その後CMディレクターになりました。広告代理店時代に最初の夫人と結婚し、二児をもうけていますが、1980年に離婚。

その翌年の1981年、「小説現代」に「皐月」を発表し「伊集院静」の名前で作家デビュー。しかし、このペンネームは実は自分で決めたのではなく、勤めていた広告代理店に入社予定になっていた別の女性ライターにつけられるはずの名前を与えられたものでした。

入社後、本人は元の名である「趙」で作家活動を続けていくつもりでしたが、ある時、スポンサーへのプレゼンテーション時にこの「趙」の名を使おうとしたところ、この広告代理店の社長が「いや、それではダメです。これでやってください」と渡された名刺に印刷してあったのが「伊集院静」でした。

この社長は、新人が入ってくるたびに、本名では仕事をさせないという妙なポリシーを持っていたといい、この「伊集院」という名前の元ネタは、大和和紀作の漫画「はいからさんが通る」の登場人物からとったものでした。ただし、原作では「静」ではなく、伊集院「忍」であり、これはこの漫画のヒロインの許婚の少尉の名前でした。

その後、「機関車先生」などのヒット作に恵まれ、故郷の防府市を舞台とした自伝性の強い「海峡」なども著しました。1984年、かつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールとして人気を博していた夏目雅子さんと一緒に仕事する機会があり、これをきっかけに交際を始め、7年後に再婚。

しかし、夏目さんはその後急性骨髄性白血病を発病し、1985年9月11日に27歳の若さで亡くなり、この地に埋葬されたというわけです。

この夏目さんの墓のある大楽寺の墓所また眺めの良い場所であり、ここからも防府市街が見通せます。墓には、戒名として「雅月院梨園妙薫大姉」という名が刻まれ、その脇に本名である、西山雅子とともに、「芸名夏目雅子二十七才」とも刻まれており、今でもファンだった人が東京などからわざわざ墓参するため、いつも花が絶えないといいます。

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伊集院さんはその後1992年、「受け月」で直木賞を受賞し、同年8月に現在の夫人の女優篠ひろ子さんと再婚。現在は仙台市妻と共に在住のようですが、仕事柄、東京でホテル住まいのことも多く、また取材での国外滞在も頻繁にあるため、仙台にいるのが1年のうち1ヶ月位の年もあるといいます。

自らのエッセイには、東京は生涯のほとんどを過ごしているにもかかわらずなぜかなじめず、また故郷・防府に対しても「安堵はない」と書き、また仙台に至っては、犬が中心の家の片隅で仕事と競輪をやっているだけと書いているそうです。

こうした放浪癖のある人であるためか、結婚前も仕事をするための住処として、鎌倉にほどちかい「逗子なぎさホテル」を下宿先としていたそうで、ここは、後の妻・夏目雅子さんとの愛をはぐくんだ場所でもあり、結婚前の7年間をここで共に過ごしています。

夏目さんの死後、伊集院さんはしばらく表舞台から姿を消し、喧嘩やギャンブル、酒におぼれる生活を送ったといいますが、同じく一番身近だった人をなくしている私にもその悲しみはよくわかります。

ところで、この夏目雅子さんが眠る大楽寺には、野村望東尼が高杉晋作の死後防府で過ごした際に、並々ならぬ加護を加えたある人物と、その妻の墓もあります。

楫取素彦(かとりもとひこ)といい、明治時代に活躍した官僚、政治家でもあり、晩年その功績を認められて男爵の爵位を授かっています。初代の三田尻宰判管事(市長)も務めており、明治9年には、初代群馬県令(県知事)となり群馬県の発展の礎を築きました。望東尼の墓の建立にも尽力しており、お墓の裏には、楫取素彦の撰文が刻まれています。

楫取は幕末には、維新の志士でもあり、山口では、望東尼を自宅に住まわせたこともあり、その活動の中で知り得た薩長連合倒幕軍の情報を望東尼に教えたりもしていました。望東尼を福岡から防府の地に導いたのも楫取だといわれています。

楫取はまた、一つ年下だった吉田松陰とも無二の親友だったといわれています。松下村塾の創立にも関わっており、こうした深い関係から、松陰の2番目の妹「寿(ひさ)」を貰って結婚しており、この寿と死別後は、さらに寿の妹であり、松陰の末妹でもある「文」と再婚しています。

実は、この文こそ、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインのモデルです。「花燃ゆ」は、大河ドラマとしては、第54作であり、昨年末の2013年12月にその制作発表が行われました。

吉田松陰の吉田の性は、婿養子として入った先の家の苗字であり、元々は「杉寅之助」と言いました(通称は寅次郎)。このため、妹も本名は「杉文」ということになりますがが、のちに久坂玄瑞と結婚して久坂姓を名乗ることになり、その後さらに、楫取素彦と再婚後は改名して「楫取美和子」と称したため、生涯で3つの名前を持ったことになります。

久坂玄瑞の名は知っている人も多いと思います。松下村塾における松陰の高弟のひとりであり、のちに尊王攘夷運動を牽引しますが、禁門の変(蛤御門の変)で、会津と薩摩連合運に敗れ、自刃しました。

この玄瑞の妻である文役を務めるのは、大河ドラマ初出演となる井上真央さんで、兄である松陰役は伊勢谷友介、久坂玄瑞は東出昌大、楫取素彦役は大沢たかお、という豪華キャストです。

無論、高杉晋作も物語に登場し、その役を担うのは高良健吾ということで、こうしたメインキャストのすべてがこれまでに放送されたNHKドラマの主演・副主演経験者ばかりという、NHKとしても相当気合いの入ったドラマになるようです。

こうした登場人物に加え、伊藤俊輔、桂小五郎、品川弥二郎など松下村塾の弟子たちの人間模様を織り交ぜながら、幕末から明治維新へ向けた激動の時代を描いていくといいますが、現在までのところ、まだこの伊藤以下のキャストははっきりとは決まっていないようです。

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この杉文は、二番目の夫、楫取素彦の妻となったあと、今も防府市内にある華浦幼稚園(現・鞠生(まりふ)幼稚園)の創立のため夫とともに奮闘しており、また後年、素彦が貞宮多喜子内親王の御養育主任を命じられた際、美和子もともに貞宮御付となっており、後半生は夫と二人三脚での「教育」がテーマだったようです。

ほかにもその生涯をみると山あり谷ありであり、かなり激しい一生を送っており、なぜこの人物にNHKが目をつけたのか、その理由がよくわかります。

ただ、吉田松陰の妹というわりには、そのかなりのネームバリューにも関わらずこれまではほとんど知られておらず、また、再婚相手である、楫取素彦もあまり知られていません。おそらくはこの人が群馬県令(県知事)になったということを、群馬県民でも知っている人は少ないのではないでしょうか。

ところがこの楫取素彦が群馬県令に在任中には、今年世界遺産登録が決まっている、富岡製糸場が完成しており、楫取はその建設とその後ここに勤めることになる女工たちの教育にも深くかかわっており、このほか現在の東京大学農学部、筑波大である「駒場農学校」などの旧制教育機関の設立にも尽力するなど、かなりの活躍をしています。

おそらくNHKとしては、ドラマ前半には松陰ゆかりの人物たちをとりまぜながら、維新のドラマティックな時代変遷をとりあげつつも、後半ではこうした明治という新しい時代における創成期の教育界における数々のエピソードを取り上げていこうと考えているに違いありません。

富岡製糸場の世界遺産登録が決まったことも、このドラマの企画を後押ししたに違いありません。、

毎年前半では高視聴率を稼ぐものの、回が進むにつれて尻すぼみになりがちな大河ドラマにおいては、後半までいかに視聴者の興味を惹きつけていくかが重要なポイントであり、この楫取美和子という、誰も知らないような地味なヒロインを選んだのも、NHKとしてはそれなりの戦略があってのことでしょう。

美和子が53歳のときには、実姉であり、夫の先妻でもある寿子の息子(つまり美和子にとっては甥であり、義子でもある)「楫取道明」が、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂において、抗日事件により殺害される、という事件も起こっており、こうした教育界における大事件もまたドラマの主筋の中に盛り込まれていくに違いありません。

ただ、松陰の実家の杉家や楫取家、玄瑞の久坂家などの諸家の交わりは非常に複雑で、このあたりの説明が過剰になると娯楽番組としての楽しみがスポイルされる可能性もあるため注意が必要です。

ここでもこのあたりの人間関係のことが少々わかりにくいので、少し整理しておくこととしましょう。まず杉文は、杉寅之助、すなわち、吉田松陰の末妹になりますが。この杉家には7人の子供がいました。

杉家というのは、萩に長らく続いた一族ですが、長州藩での家格は「無給通組」であり、これはかなりの下級武士で、石高も26石という極貧の武士でした。1石=1両と言われており、だいたい1両=2~3万円くらいといわれていますから、年収はわずか50~80万円にすぎなかったことになります。

当然武士業だけでは食っていけないため、農業もしながら生計を立てて7人の子供を養っており、おまけに三男の敏三郎は発声が不自由でした。その兄妹構成は、修道(民治)、松陰、千代、寿、文(美和子)、敏三郎、艶の順であり、艶は文の生後すぐに夭折したため、実際には文が末妹ということになり、これらを更に整理すると以下のようになります。

修道(民治) →長男、杉家を相続 1828?
松陰 →吉田家に養子として出、幕府により斬刑で死亡 1830年生
千代 →長州藩士、児玉祐之と結婚 1832年生
寿(ひさ)→楫取素彦と結婚するも、早逝 1838年生
文(美和子) →久坂玄瑞と結婚するも死別し、楫取素彦と再婚 1843年生
敏三郎 →障害があり、生涯独身だったと思われる 生年不肖
艶 →幼いころ夭逝 生年不肖

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一家の主は、杉常道といい、通称は百合之助。無給通組士の杉常徳(七兵衛)の子として生まれ、文政7年(1824年)に家督を相続し、翌年に同じ萩の下級武士、児玉太兵衛の養女、瀧子を娶りました。

この児玉家というのはもともと杉家と関係の深かった家のようで、細かく調べていないので本当かどうかはわかりませんが、のちに長女の千代が結婚する児玉祐之という人物もこの児玉家の人かもしれません。ただ、山口には児玉姓の人は非常に多く、ほかにも明治の陸軍大将で日露戦争で活躍した児玉源太郎などがいます。

妻をめとって家督も相続した常道は、農業をやりつつも武士としての務めも真面目にこなす人物だったようで、公的には記録御次番役を拝領し、その後呉服方なども務めています。記録番は下級の事務官であり、呉服方は役人のユニフォームを商人から買い入れる役目であり、いずれにせよ、上級官僚ではありません。

この常道には大助という弟がいましたが、常道が家督を継いだことから、この弟は他家へ養子に出されました。ところが、この大助は若くして死去してしまい、山鹿流兵学師範家でもあったこの養家の吉田家(家禄57石)の家督を継ぐものがいなくなったことから、これを次男の寅之助(松陰)が相続することになりした。

このとき、松陰はわずか5歳でしたが、このときから杉寅之助ではなく、吉田寅之助と名乗ることになります。また、常道には、大助の下にもうひとり弟がおり、これを文之進といいましたが、彼もまた、大助と同様に養子に出されていました。

ただし、入った家は、家格では杉家より上にあたる大組士で、40石取りの玉木正路(十右衛門)が主でした。文之進はこの玉木家の養子となって家督を継ぎ、玉木文之進と称するようになりました。

松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家でしたが、実の叔父にあたるこの玉木文之進が相続した玉木家も山鹿流兵学に熱心で、このため文之進も兵法に非常に明るい人でした。

実は、のちに高名となる松下村塾は、この玉木文之進が創始者であり、のちにこの塾を引き継ぐことになる幼少期の松蔭に山鹿流兵法だけでなく、その他の学問についても厳しく伝授しました。

その教育方法は、かなりのスパルタ教育だったようで、その厳しさについては、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」に細かく描かれていますが、一例としては、松陰が膝を揃えて文之進の講義を聞いていたとき、頬に蚊が止まったのを払おうとしただけで、文之進に思いきり殴り飛ばされたといったエピソードなどがあります。

剣術の稽古などでも、松陰が失神するまで、徹底的にその技を鍛えこんだといい、そのあまりに厳しい教育に、母の瀧子が、「寅(松陰のこと)、いっそのこと死んでおしまい」と言ったといったことなども司馬さんの小説に書かれています。

そこまでして玉木文之進は松陰に「私利私欲を捨てさせる」ことを徹底したために、後に多くの維新の志士たちに影響力のある人物に成長したのだ、と言った意味のことを司馬さんは書いておられます。

こうした厳しい教育の成果もあり、松陰は若干11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義ができるほどの英才として成長します。

この講義の出来栄えが見事であったことにより、その後長州藩内でもその天才ぶりが評判となり栄進するとともに、その後過激な尊王攘夷運動に邁進していきますが、子ども時代の松陰の生活は叔父の厳しい指導はあったものの、その日々は父や兄とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読をするという穏やかなものだったようです。

このほか、農作業のあいまに頼山陽の詩などを父が音読し、後から兄弟が復唱していたというエピソードも残っており、夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませていたといい、貧しいながらも教育熱心な一家だったことがわかります。

夏の御用門

ちなみに末妹の文は松陰より13歳も年下であり、松陰が玉木文之進からスパルタ教育を受けているころにはまだ生は受けていません。のちに松陰が物心がついたころ、常道の四女として誕生しましたが、その名付け親は松陰の師でもあった玉木文之進で、「文」という名前も玉木が自分の名からとって彼女につけたものです。

その後、長女の千代は児玉祐之に嫁ぎ、次女の寿はこのときまだ小田村伊之助と名乗っていた楫取素彦のもとへそれぞれ嫁ぎます。寿は文より5歳年上で、千代は1832年生まれで松陰より2つ年下でした。

その後、松陰は尊王攘夷を実現させるべく奮闘しますが、下田沖で黒船に密航しようとしたところを幕府廷吏に捕えられ、安政元年(1855年)から生家預かりとなり、常道宅に蟄居する事となりました。

このとき松陰は父や近親者に「孟子」や「武教全書」講じたりして過ごしましたが、その翌年の安政2年(1856年)は処分が一旦解け、このとき、叔父の文之進から松下村塾の主宰の座を譲り受け、その後ここで多くの維新の志士たちを育てていくことになります。

その翌年の安政4年(1857年)の12月、文も久坂玄瑞と結婚します。時に玄瑞18歳、文15歳でした。当初は「人間到る処青山有り」の漢詩で有名な、勤王の僧侶・月性が文を桂小五郎の妻に推したこともあったそうですが、兄の松陰が玄瑞の才を高く評価していたため、最終的にはこの松陰の強い勧めにより縁談がまとまりました。

このとき、この縁談を玄瑞に持ち込んだのは松下村塾の年長者であった中谷正亮という人で、玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしました。これに対して中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、その勢いに押され、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したといいます。

このことから、この文ことのちの楫取美和子は、平凡な容貌の女性だったのではないかと思われ、現存する明治時代になってからの晩年の写真からも往時の美形を想像させるような面影はありません。なので、美人さんの評判の高い井上真央さんがこの美和子を演じるというのは、ちょっと歴史考証的には無理があるといえるかもしれません。

この文の結婚2年後の、安政6年5月(1859年)、松陰の罪が確定して江戸護送となると、父の常道もその責を問われて藩職を罷免され、その直後松陰は斬刑に処されました。享年30(満29歳没)。

辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」であり、これもまた高杉晋作の辞世の句とともにかなり有名です。

常道は本来松陰に家を継がせるつもりだったようですが、この処刑により翌年、長男の修道に杉家の家督を譲っています。ところが、悲劇は更に続きます。このころ文の夫となった久坂玄瑞は、京都を拠点に江戸や各地で尊皇攘夷運動を続けていましたが、元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)において自害してしまいます。

文と玄瑞の間には子供がいなかったため、姉の寿と、このころまだ「小田村伊之助」と呼ばれていた楫取素彦の子、すなわち文にとっては姉の寿の子で、甥にあたる粂次郎(のちの道明)が久坂家に入り、養子となって久坂家を継ぐことになりました。

そしてこのあと、未亡人となった文は、長州藩最後の藩主となった毛利元徳の長男興丸(後の毛利元昭)の守役などを勤めていましたが、楫取素彦に嫁いでいた姉の寿が亡くなったことから、素彦と再婚しています。

この再婚話もなぜそうなったのかについては、興味深いところですが、NHKの「花燃ゆ」では、この謎解きも含めてその後の改革の時代をこの二人が力強く生き抜いていく、というストーリーになるはずです。

ちなみに、文の名付け親の玉木文之進は、明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱において、養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で自害しており、おそらくはそのあたりのことも、このドラマの中で描かれていくことでしょう。

このほかにも、この吉田松陰の一族に関しては色々面白いエピソードがあるのですが、今日はもう紙面もかなり進んできたことから、これらについてはまた別の機会に書くことにしましょう。

そろそろ、下田公園のあじさいが満開かと思われます。みなさんもこんな私のブログなど読んでいないで、ぜひこちらにもお出かけください。

夏の朝