松陰の恋

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以前、6月に書いた「望東尼と雅子と文さんと」というブログで、来年から始まる大河ドラマ「花燃ゆ」のことを少し書きました。が、この時点では、主人公の吉田松陰の妹の「文」のキャストが井上真央さんであり、夫の楫取素彦役は大沢たかおさん、などの主だった面々以外のキャストは決まっていませんでした。

しかし、その後ほかのキャストも決まったようで、松陰役の伊勢谷友介さん、久坂玄瑞の東出昌大のほか、幼い松陰を鍛えた教師で叔父の玉木文之進を奥田瑛二が、毛利敬親を北大路欣也、その婦人を松坂恵子、井伊直弼を高橋英樹といった具合にベテラン俳優で脇固めをすることなどが公表されました。

また、これはちょっと笑ってしまったのですが、伊藤博文に劇団ひとりが、また松陰の友人の宮部鼎蔵(ていぞう)にビビる大木、松陰の兄の杉民治(梅太郎)を原田泰造が、といった具合に各所にお笑い系の芸人さんをちりばめており、これはこれでなかなか面白いかもしれません。もっとも原田泰造さんは最近は役者としてもなかなかのものですが。

この物語は、無論その主人公は松陰の妹の杉文なのですが、その前半の主役の一人は兄杉寅次郎こと松陰その人です。若くしてその才能を認められ、長崎や江戸に遊学した松陰ですが、後に、萩で開いた私塾から、維新で活躍する多くの弟子を輩出した事で幕末の英雄とされるようになります。

この萩において、彼は、その人生で二度、同じ野山獄に投獄されています。

一度目は、ぺリーが再び浦賀にやってきた嘉永七年(1854年)であり、この前年の最初の黒船来航の際に、黒船見物をした彼が、やはり、自分の目で外国を見てみたいという衝動にかられ、密航しようとして失敗した時です。

伊豆下田港においては、再航したペリー艦隊に弟子の金子重之輔と二人で赴き、密航をさせてくれと訴えますが拒否されてしまい、しかたなく、松蔭は幕府に自首しました。そして長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されたのです。

しかし、翌年の安政2年(1855年)には獄を出され、生家で預かりの身となります。家族の薦めにより藩士向けに講義を行うことになり、叔父の玉木文之進が開いていた私塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てるようになりました。これが、かの有名な松下村塾になります。

二度目の入獄は、これから4年のちの安政5年(1858年)のことです。幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄されてしまいます。

そして安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致されますが、潔く老中暗殺計画を自供した上に、幕府の役人に自らが信奉する尊王攘夷思想を語ったことから、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処されました。享年30(満29歳没)。

この一度目の野山獄への投獄の際、そこには、すでに11人ほどの囚人がいましたが、松陰はその中で一番年下でした。最初は周囲から軽く見られていた彼でしたが、しだいに親しくなるにつれ、その関係は変わってきます。

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松陰は、獄中にいる囚人たちでも、その根底には、皆、それぞれに得意なものを持っていると考え、大工をしていた者は建築にくわしいため、これを彼に講義をさせ、板前をしていた者は料理にくわしかったので、料理について語らせます。

無論松陰自身も長崎で学んだ事や国学を講義しましたが、そうこうするうちに囚人同士でも教え合うようになり、書道が得意な者がお礼に俳句を教え、絵の上手な者と一緒に絵手紙を始める、といった具合にいつしかそれらは、種々の獄中サークル活動となっていきます。

しだいに、その輪はどんどん広がっていき、やがては看守までが、サークルへの入会を希望し、松陰の講義に耳を傾けるという人気ぶりでした。この時の教える面白さ、学ぶ楽しさが、後の松下村塾での講義に影響を与えた事は言うまでもありませんが、そんな囚人の中に、一人の女性がいました。

高須久子といい、もともとは萩城下は土原(ひじはら)という地名の場所に住んでおり、この場所は、萩市内を流れる松本川の東側、椿東にある松下村塾と松本川を隔てた対岸にあり、松陰門下で、明治維新後反乱を起こして処刑される前原一誠の居宅などもあった場所です。

久子はこの地に居を構える高洲家の娘であり、入り婿で入ったここの主が亡くなったあと未亡人でした。史料には「高洲久」と記録されているようですが、もっぱら「高須久子」として語られる女性であることから、ここでも高須久子としておきましょう。

長州藩には、毛利家一門を筆頭に、永代家老・寄組・大組・遠近附士・無給通組・徒士・足軽という順で身分制度が定着していました。毛利家一門が6家と永代家老家が2家があり、これら上級武士は藩内に独立した知行地を持ち、最高権力者の地位にありました。

高須家は上記身分では遠近附士にあたり、これは別名を馬廻通ともいい、録は300石ほどです。馬廻りは藩主の身辺警護役ですから騎馬が許されていましたが、格付けからすればどちらかといえば中の上程度のカテゴリで、関ヶ原以前に何か手柄を立てて一代限り騎馬を許されたといったものだったでしょう。

ちなみに、吉田松陰の吉田家の家格は無給通組で給地を支給されません。石高はわずか26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立てていました。また、高杉晋作の身分は大組でしたが、高須家よりも石高は低く200石であり、また防長一の美人と言われた妻のまさの実家の、山口町奉行井上平右衛門の家もまた大組で250石です。

いずれも上士とされる高級武士であり、高須家はこれより格下ということになりますが、石高だけ多かったのは、馬術や大筒を教える師範家でもあるため、それなりに物入りである、と藩が判断したためでしょう。

この高須久子は、夫が亡くしたあと、その寂しさを埋める趣味として三味線に打ちこむようになりました。が、趣味が高じて、しだいに京唄、ちょんがれ節などのはやり歌などに耽溺するようになっていきます。

そして地元の芸能人ともいえる三味線弾きの弥八と勇吉という男衆をひいきにするようになります。二人は叔父甥の間柄だったようですが、いずれも身分が低く、どうやら非人とか穢多と呼ばれる部類の人だったようです。

彼らを自宅に呼び寄せ、忍び弾きをさせ、ときには夕食を与え、寝酒もふるまって家に泊めることもあったようで、この時代、武士の未亡人が徹夜したとは言え男を家に泊めるというのは一種の不義密通にあたり、非常に外聞の悪いことでした。

困惑した親類一同はついに久子を提訴。こうして高須久子は野山獄の虜囚となりました。投獄の罪状は、穢多同様の三味線弾きを平人同様に扱ったというものでありましたが、この時代は身分制度には非常に厳しい時代であり、その程度のことでも罪に問われました。

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野山獄というのは、長州藩において、士分の者を収容する牢獄でした。もともとは、大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛という人物の屋敷でしたが、高須久子が投獄されるよりも200年ほど前の、正保2年(1645年)の夜、酒に酔った主の岩倉は、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷しました。

何等かの怨恨のためと思われますが、このとき藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処しました。が、喧嘩両成敗ということで両家とも取り潰され、屋敷も没収されました。そしてこののち萩藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄としました。

この野山獄には、その後松陰や久子も投じられましたが、維新前夜の文久・元治年間(1861~64年)には、藩内の論争に際して高杉晋作をはじめ多くの志士もまた繋がれ、さらには、獄外の白洲で保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など多くの人が処刑されたところでもあり、維新当時の萩藩の波乱に富んだ状況の象徴ともいえます。

維新史を語るうえでも重要な遺跡ですが、残念ながら現在は当時の敷地の一部が残っているだけで建物はなく、記念碑が建てられているだけです。

久子もまた、夫が馬廻り組の武士でしたから、ここに押し込められました。このとき、彼女は37才。25才の松陰よりちょうど一回り年上でした。

萩でも比較的高禄の高須家のあととり娘であった久子は、身分卑しき者たちとの交際をとがめられ投獄されたわけですが、現在ならば獄につながれるほどの重い罪ではなく、このため彼女もまた、その取調べの際悪びれる事なく、普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いのか、と主張して反感を買ったといいます。

この野山獄には、野山六右衛門の屋敷を改造した結果、小さな中庭をはさんで北側に6室、南側に6室の計12室の獄房が設けられていました。そこに、安政元年(1854年)10月幕府から自藩幽閉を命ぜられた吉田松陰が、江戸から送られてきます。

このとき野山獄にいた11人の囚人のち、高須久子は紅一点であり、松陰が入ってくる前の在獄歴は4年ほどだったようです。野山獄は差し入れ自由ですから親戚縁者が支援してくれる限りは飢えることもないし、元々武士用の牢獄ですからそれほど苛酷な環境でもなく、確定囚ばかりですから拷問も取り調べもありません。

問題なのは刑期であり、私的な押し込め(借牢)ですから久子には刑期というものがありません。松蔭の働きかけによって同時期にいた借牢の囚人たちは多くは釈放されましたが、久子は釈放を許されず明治になって野山獄が廃止になったのちに放免されました。

このため、松蔭の死後、文久4年(1864年)に野山獄に入った高杉晋作などとも声だけでも交流はあったものと思われます。

実は、彼女は、松陰の生涯において、たった一人の恋人ではなかったかという「噂」があります。

「花燃ゆ」では、この高須久子役は、井川遥さんが演じるそうで、相手役の松陰が伊勢谷友介さんですから、この美男美女の組み合わせは、この噂をベースに決められたたキャストでしょう。なかなか斬新な組み合わせではありますが。

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無論、二人の関係を証明するような直接的な記録は、何も残っていません。が、久子が歌い、これを松陰が書き残したこういう歌が残っています。

「清らかな夏木のかげにやすらへど 人ぞいふらん花に迷ふと」

松陰はこれをは「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」と前書きして、この歌に対する自分の返歌とともに書き残していました。いさをしは、「いさし」で、「子細」の意味ですが、「武勇伝」とする人もいるようです。自分がしでかした罪に関する武勇伝を松陰に披露したあとに、久子がこれを歌ったという意味です。

最初の「清らかな 夏木のかげにやすらへど」は、「松陰様、あなた様は色んな冒険を潜り抜けてこられたけれども、女色にも溺れなかったんでしょうね」という意味です。

しかし下の句「人ぞいふらん 花に迷ふと」の意味は、「それにしても、そういう冒険の影には、ほんとうは女性の影があったのでは、と世の人は噂するでしょうねぇ」という意味になります。

つまりは、松陰の過去の色恋のことを探ろう、とした句であり、ここからは久子の松陰に対する興味=恋心が伺われる、という人もいます。

ところが、この歌を受けた松陰は、にべもなく次のように返しています。

「懸香のかをはらひたき我もかな とはれてはぢる軒の風蘭」

懸香とは、掛香とも書き、調合した香を絹の小袋に入れたもので、室内にかけたり、女性が懐中したり、ひもをつけて首にかけたりした「におい袋」のことです。従って、懸香=久子というふうにも受け取れます。

しかし、「はらひたき」ですから、これは、そういう香りのするような女性との恋愛を推測されるような疑惑のケムリは打ち払いたいものです、というほどの意味です。

これに次ぐ、「とはれて はぢる 軒の風蘭」の「風蘭」とは江戸時代から栽培されている古典植物の一つです。当時から珍種や変種を集めた鑑賞会などが開かれていたという記録があります。

もちろん松陰自身のことではありますが、「そういう疑惑をかけられてしまうことは恥ずかしい、もしくは、そういう疑惑を持たれること自体、自分の不徳だと思っている」という意味になります。

つまり、久子の下世話な詮索を軽くあしらったというかんじであり、このあたりの表現をみると、愛の相聞歌というかんじはしません。

しかも、前置きに松陰は「高須未亡人に」と書いています。松陰が残している歌にはほかにも「高洲氏から」という詞書きのついたものがありますし、浮気相手ならともかく、恋をしている女性にそういう呼び方をするものでしょうか。

これらのことから、この問答から二人の関係は恋愛関係だったと想像するのは少々無理があるという人もいます。が、松陰と久子が親しく語りあっているのを、同囚たちからなにかと噂されるのを恐れ、あえてそうした表現にした、とも思われ、獄中という非常に微妙な空気の現場事情をうかがわせます。

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このほかにも、「未亡人の贈られし発句の脇とて」と前書きされた松陰の和歌2首もあり、久子はしばしば、このような発句を松陰に送り、返答を求めていたと思われます。

こういうのもあります。

「鴨立つて あと寂しさの 夜明けかな」

これは、一年間の囚人生活を終えて、松陰が獄舎を出ていく時に、久子が詠んだ句だと言われています。鴫は松陰のあざな「子義」にかけたものであり、松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会における久子の句ですが、「寂しさの」のところに久子の感情が読み取れます。

その後松陰は、いったん釈放され、松下村塾で教鞭をとる事になるわけですが、開国か攘夷かで揺れる安政五年(1858年)、幕府が天皇の許しを得ず日米修好条約を締結した事で、反幕府の意志をあらわにします。そして老中・間部詮勝(あきかつ)の暗殺と、仲間の梅田雲浜(うんびん)の奪還を計画します。

しかし、その計画は実行される事はなく、しかも密告により藩にばれてしまいます。こうして松陰は安政五年(1858年)12月26日、老中・間部詮勝の暗殺計画と梅田雲浜の奪還計画を自白し、再び野山獄に投獄されました。おそらく、このとき久子は松陰の再来に心躍らせ、また最先端の話が聞けると喜んだことでしょう。

ところが、この時のことを松陰は「獄居と家居と大異なし」とだけ書き残しているだけで、他の囚人のことについては言及があるのに、久子のことには露ほどもふれていません。確かに以前の野山獄と今度の野山獄も大異なかった事でしょうが、無論そこには同じように久子もいました。何も書いていない、ということ自体が不自然なかんじがします。

このおよそ半年の後の安政6年(1859年)6月、松陰が安政の大獄の犠牲となって死出の旅のために江戸に向かう際に二人が詠った歌が残っています。

このとき、死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別にと手布巾を贈っています。これに対して、「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と前書きした松陰の和歌が残っており、これは、次のようなものです。

「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん」

「君を思ひて」というところに、久子への思いがあらわになった感情が読み取れます。さらに、久子がこれに答えて松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの句は、

「手のとわぬ 雲に樗の 咲く日かな」

で、樗は「おうち」と読み、センダンの古名です。遠く離れて行く愛しい人を、手の届かぬほど成長するセンダンにたとえ、忘れたくないその姿に見立てて別れを惜しんでいる、と解釈できます。

これに対して松陰はさらに歌を残しており、これは「高須うしに申し上ぐるとて」と前置きした上で、

「一声をいかで忘れんほととぎす」

というものです。別れの際に振りしぼるようにしてなんとか吐いた一句のようにも思えます。忘れたくないその声をホホトギスに見立てて別れを惜んでいる、というわけで、こうした二人の最後のやり取りを見るとまさに恋人同士の相聞歌とも受け取れます。

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そして、それからおよそ半年後の安政六年(1859年)10月27日、江戸小塚原にて松陰は処刑されます。

この刑場は、現在の南千住駅のすぐ西側、常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内に位置します。この当時、刑を受けた死体は丁寧に埋葬されず、申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったといいます。

しかし、松陰は、自分の首の埋葬や死後の処置などを、江戸に来ていた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞にあらかじめ依頼していました。二人が形場にかけつけた時には既に松陰は処刑されており、牢役人に金を渡して遺骸を下げ渡してもらい、近くの回向院に運んでくれるよう依頼しました。

ここでは、桂小五郎と伊藤利輔(博文)が大甕を用意して待っており、ここに松陰の死体を入れた四斗樽を担いで牢役人が現れました。四人が蓋を開けて見ると、顔色はなお生きているときのようにほんのりと赤みをおびていましたが、髪は乱れて顔にかかり、血が流れ出してむごたらしいありさまであったといい、特にその身体は素裸のままでした。

飯田が髪を束ね、桂と尾寺が手酌で水をかけて血を洗い落とし、切られた首を胴につけようとしたとき、遺体を運んできた役人が、「重罪人の屍は他日検視があるかも知れぬので、首をついだことがわかると拙者等が罰を受けねばならない。そのままにして置いてもらいたい」とこれを止めました。

四人は仕方なくその言葉に従い、せめてもと、飯田が黒羽二重の下着を、桂が襦袢を脱いで松陰の体に着せ、伊藤が自分の帯をといて結び、遺体の上に首を重ねて持参の甕に納め、回向院墓地の一画にあった、松陰よりも半年前に処刑されて葬られていた橋本左内の墓の左隣に埋葬し、その上に求めて来ていた大石を据えて仮の墓標としました。

その後、同じく松陰の門下生であった久坂玄瑞が朝廷に働きかけた結果、3年後の1862年(文久2年)、朝廷から将軍家茂に勅論が授けられ、これをもとに幕府は安政以来の国事犯刑死者の罪名を許す大勅令を布告しました。これを受けて翌1863年江戸にいた高杉晋作ら松下村塾の門下生が世田谷にある現在の松陰神社の敷地内に松蔭の改葬を果たしました。

ちなみに回向院墓所内にある立派な墓は、1942年に新たに作られた記念墓だそうです。また、萩市椿東の松下村塾近くにある松蔭の墓は、処刑直後の1860年(万延元年)に杉家や門下生達が松陰の遺髪を埋葬したものです。

松陰亡き後、久子は明治元年(1868年)に新政府のもと罪を許され、出獄しました。が、父親との関係が修復される事はなく、高須家には戻らなかったと言います。

けっこう長生きしたらしいという噂はあるものの、彼女がその後どのように生きたのかについては、はっきりした記録も証拠となる品も残ってはいませんでした。

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ところが、平成15年(2003年)、長崎造船所の初代所長を務めた元長州藩士で渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)という人物の遺品から、一首の歌が書かれたお茶碗が発見されました。渡邊は松下村塾における松陰の門下生であり、久子との間に交流があったとみられます。

口径12・5センチ、高さ4・7センチ。ろくろは使わず、手びねりで作られたらしいこの茶碗の裏面には次の歌が、釘のようなもので彫られていました。

「木のめつむそてニおちくる一聲ニ よをうち山の本とゝき須かも」

「本とゝき須」は「ホトトギス」と読みます。「木の芽を摘んでいると、樹上からホトトギスの一声が聞こえてきた。その声をきくと、松陰先生のことが思い出される」というふうに解釈できます。

また、「一聲」とは、松陰が安政の大獄の影響を受けて江戸送りになる最後の別れの時に、久子へ贈った発句「一声をいかで忘れんほとゝきす」の「一声」を指していると考えられます。前述のとおり、二人はこの歌の前に一対の発句と返句を完成させていますが、この歌に対しては久子からの返しはありません。

おそらくは、もう時間だぞと役人が追い立てるように松陰を牢から出したためと思われ、松陰の発句に久子は答える時間がなかったのでしょう。このことから、この句は、二人が引き裂かれるようにして別れた日、死出に向かう松陰が久子へ渡した句への返句と考えることができます。

さらに、「よをうち」には「世を撃ち」の意味が込められていると考えられ、「そのホトトギスの声は、維新を成した(世を討った)松陰の声なのかも」の意味も込められています。

末尾に「久子 六十九才」とあることから、松陰が死を迎えたとき、久子は42歳になっていたはずですから、これから27年後に作られたものでしょう。

69歳になっても、なお松陰の生き方に尊敬の念を抱き、燃え尽きぬ想いをこの茶わんに託したと思われ、松陰の死後27年経ち、自らの死期も近いと気づいたとき、松陰への思いを何かに残しておきたかったのではないでしょうか。

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4年前の2010年、下関市の映画製作会社「グローカルピクチャーズ」は、「長州ファイブ」(2006年)に続く第2弾の映画として、「獄(ひとや)に咲く花」を製作しました。青年・吉田松陰の瑞々しい恋のエピソードを描いたこの映画の原作は、直木賞作家である古川薫氏の「野山獄相聞抄」です。

この映画が作られた2010年はちょうど吉田松陰生誕180年。上映を前にして、映画の原作者である古川薫氏は、この作品についての思いを、ある雑誌に寄稿しています。

それによれば、「松陰は久子の境遇に同情し、自信をもって生きよとはげましたのではないか」、と古川氏は言います。人間平等の思想に徹する松陰は、久子だけでなく、主宰する松下村塾でも、身分の別を問わず向学心にもえる若者たちを受け入れました。

高須久子もまた獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性です。そして「彼女の松陰にたいする尊敬と感謝の念は、自由を奪われた獄囚の身にもだえ苦しむ憂国の青年への母性本能をふくむ恋愛感情に昇華していったのではないか」、とも古川氏は書いています。

一方の松陰もまた久子の一途な恋慕に戸惑いつつもこれに応え、しかし死という魔の手がせまり極限状況に近づいていくなか、その心がよりプラトニックな恋心に近いものになっていったと考えてもおかしくはありません。

このことを裏付ける上述のような相聞の歌句が存在することは、早くから研究者のあいだでささやかれていたそうです。が、「講談者流の憶測にすぎない」と否定され、とくに戦前においては神格化された松陰の逸事として話題にすることも避けられていたようです。

松陰は、そのころまだ蝦夷といわれていた北海道だけでなく、その北にある満州や、南は琉球や台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、「進取の勢を漸示すべし」として、これらの日本領化を強く主張していました。この考え方はその後の日本の軍国主義化を助け、日本のアジア進出などの対外政策に大きな影響を与えることとなりました。

松陰の死後、伊藤博文らによって造営された世田谷若林の松陰神社もまたその軍国化に少なからず寄与しました。

この神社は幕末時代、徳川勢により一度破壊され、明治元年に木戸孝允がこれを修復整備しました。また昭和2~3年にかけては少し離れたところに現在のような立派なものが造営されましたが、戦前ここに参拝する軍人はひきもきらなかったそうです。

ちなみに、この神社一帯は江戸時代から長州毛利藩の藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで、松陰らが眠る墓域には現在も、木戸が寄進した当時の鳥居が残っています。また、桂自身の遺言により、敷地に隣接する形で彼の墓もここに改葬されています。

戦後にはさすがに軍人の参拝は減り、現在は学問の神様として崇敬を集めています。しかし、戦後新しく語られるようになった松陰伝の中でも、久子とのことは語られることはありませんでした。「軍神」として崇めたてられることはなくなったとはいえ、戦前からの名残で松陰の神聖を冒すものという空気が巷にあったからでしょう。

ところが、古川氏はこの松陰と久子のことを小説化し、「野山獄相聞抄」の題で、昭和53年(1978)夏、「別冊文藝春秋」に発表しました。しかし、これに対しては、その当時でさえ、読者からの抗議の手紙が数多く送られてきたようです。

2年後、同書が文庫となったとき、古川氏の読者としてはめずらしく23歳の女性から感想文が送られてきたそうです。そしてそこには、「感動した」と書かれており、吉田寅次郎という青年が青春を犠牲にして幕末動乱を生きたことを見事に描き切ったことを賞賛する言葉が書かれていたそうです。

この讃辞に対して古川氏は、松陰の一生をまるで「淡彩画」のようだったと前置きした上で、この女性の手紙について、「維新革命の途次、非業の死をとげた孤高の志士の短い人生の終末に、純粋なおんなの愛を捧げた高須久子という美しく教養ある女囚への深い共感であったろう」と書いています。

松陰の久子への思いが単なる共感であったか、本物の恋であったかについては、あなたの判断にお任せしましょう。

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