広島における土砂災害に続き、今度は大きな火山災害が発生し、どうやら今年は天災の当たり年、ということになりそうです。
茨城県南部では、ここのところ小さな地震が続いており、この後大きな地震でも来なければいいのですが……
今回噴火した御嶽山は、長野県側の木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがる標高3,067 mの複合成層火山です。山梨と静岡にまたがっている富士山とは、高さといい火山であることといい、何か似たような感じもしますが、この御嶽山の噴火に連動して、引き続いて富士山まで噴火する、というのは考えすぎでしょうか。
が、今回の御嶽山の噴火は水蒸気爆発だったようです。これに対して、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永山大噴火は、マグマ噴火でした。地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水及び発泡と脱ガスが殆ど行われず、爆発的な噴火となりました。ただし、この時の噴火では溶岩の流下は見られていません。
今回の御嶽山の噴火では、マグマは上昇することはなく、山塊の途中で止まり、その上に溜まっていた大量の地下水が熱せられて水蒸気となり、行場を失って、爆発に及んだと考えられています。
従って前回1979年の噴火のときがそうだったように、水蒸気が抜ければ、次第に噴火は収まっていく、と考える向きも多いようです。ただ、御嶽山は、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回、すなわち約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前にそれぞれマグマ噴火を起こしています。
岐阜県の調査では、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 – 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見されており、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認されていますから、今後は途中で止まっているマグマが上昇し、マグマ噴火に変わる可能性もないとはいえません。
今回の噴火の前にはそれといって顕著な予兆はなかったといいますが、先日のテレビニュースでは地元のアマチュアカメラマンさんが、最近硫黄の臭いがひどくなっていたと証言しており、また通常は山の中腹以上にたくさんいるクマが見られなくなっていた、と語っていました。
1979年の噴火の際にも、6ヶ月ほど前に、三ノ池が白濁し池の中から泡が噴き出す音が発生した現象が起こっており、また6時間前の火口直下で生じた地震も、その前兆現象であったとみられています。
また、王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがあったそうなので、これらを注視していたら何等かの予兆が得られていたかも知れません。
1979年の噴火以降も1991年、2007年と、小規模な噴気活動が続いており、このため気象庁は御嶽山の噴火予知は可能と考え、周辺七市及び山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置していました。
また、名古屋大学大学院環境学研究科も、噴火の前兆現象を観測するために地震計による御岳火山災害観測を行っていました。しかし、残念ながら今回の噴火にあたっては、両者ともはっきりとした予兆らしいものを捉えることができませんでした。
理由はやはり、設置機器の数が足りなかったのでしょう。傾斜計などは、一カ所しか設置されていなかったといい、その設置位置が適当でなかったならば予兆は記録できません。
そもそも御嶽山は、1979年の噴火の前には、死火山だと思われていました。ところが、1968年(昭和43年)から活発な噴気活動を始めたため、気象庁は1975年(昭和50年)ころ、当時の活火山定義である、「噴火の記録のある火山及び現在活発な噴気活動のある火山」に御嶽山を指定しました。
しかし、定常的な観測体制の整備は行われず、明確な前兆現象が観測されないまま、1979年(昭和54年)10月28日に水蒸気爆発を起こしました。このときは上空約1,000 mの高さまで噴煙が噴出しましたが、噴火が起こったのが登山シーズン終了後の晩秋であり、また噴火発生が朝の5時頃であったため、大きな人的被害は出ませんでした。
このときの噴火は、当日14時に最大となりましたが、その後衰退しました。噴出物の総量は約20数万トンと推定され、北東方向に噴煙が流れ軽井沢や前橋市まで降灰しました。しかし、今回の噴火では、噴出物の総量は既に100万トンを超えているという推定が出されており、このときの噴火をはるかに上回る降灰が周辺地域で起こっています。
ところで、現在は、死火山、休火山といった言葉は使われていません。以前は、活動している火山を活火山、活動を休んでいる火山を休火山、活動を止めてしまった火山を死火山と呼んでいた時代がありましたが、現在では活火山という言葉のみが使われています。
このことは案外と知られておらず、今でも休火山・死火山の分類があると思っている人も多いでしょう。これはその昔、常に噴気があって頻繁に噴火する火山、例えば桜島や浅間山等は活火山、噴火記録はあるが現在は活動していない富士山などを休火山、有史以降の噴火記録のない火山を死火山と学校で習ったことを記憶している人が多いためでしょう。
1968年(昭和43年)に発行された気象庁職員のための火山観測マニュアル、「火山観測指針」にも、噴火記録のある富士山も活火山リストに掲載されており、この当時は休火山と定義されていました。
ところが、それまで死火山と考えられていた北海道の雌阿寒岳が1955年に噴火、これに続いて今回噴火のあった御嶽山もまた、1968年(昭和43年)から活発な噴気活動をはじめたことから、気象庁はびっくり仰天。以後、この二つの火山は活火山に変更されました。
また、噴火や噴気活動の間隔は火山によってまちまちであることなどから、その後活火山と休火山を分けることは難しいといわれるようになり、気象庁はこれ以降、噴火記録のある火山や活発な噴気活動がある火山はすべて活火山とするようになりました。
その後1970年にはそれまで休火山と考えられていた秋田駒ヶ岳がこれもまた噴火し、そして1979年(昭和54年)、今回噴火を起こした御嶽山もおよそ5000年ぶりと考えられる水蒸気爆発を起こしたのです。これにより、改めて休火山や死火山の分類区分が無意味であることが一般的にも認知されるようになりました。
さらには、しばらく大規模な噴火のなかった島原岳もまた、1990年に噴火しました。江戸時代の1792年(寛政4年)に噴火して以来といわれています。ところが、実はこの前後にも噴火があったようで、しかし、どうやら噴火したらしい、ということぐらいしか記録がありませんでした。
例えば1798年(寛政10年)の秋に噴煙が生じたと伝えられていますが、はっきりとせず、これが本当に噴火だったのかどうかも詳しくわかっておらず、このように江戸期以前の噴火記録というものは、かなりあいまいなものが多いようです。
火山の噴火の歴史は、歴史時代に人が目撃してはっきりした記録が存在するかどうかによって改めて認知されるわけですが、そうしたはっきりとした目撃談や調査記録がなければ本当に噴火だったのかどうかさえもわからないわけです。
ところが、それまでは、何等かの「噴火記録のある火山」はすべて活火山とされており、いつ噴火したのかもわからないようなものも活火山としていました。このため、1991年(平成3年)に気象庁は「活火山の定義」を見直し、この「噴火記録のある」を、はっきりと年代を区切り、「過去およそ2000年以内に噴火した」と改めました。
これにより活火山の定義は、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とされ、またそれまでのように曖昧な噴火記録の有無に頼るだけではなく、地質学的な証拠に基づいてはっきりと噴火したものに限る、と初めて明確化しました。
ところが、さらに研究が進むにつれて、日本以外では、2000年以上の休止期間をおいて噴火する火山もあることが明らかとなりました。海外では1万年以内に噴火した火山を活火山とするのが主流であり、このことから、2003年(平成15年)火山噴火予知連絡会は、「過去およそ2000年以内」を「概ね過去1万年以内」と再定義しなおしました。
火山噴火予知連絡会というのは、最近ニュースでも良くとりあげられるのでご存知の方も多いと思いますが、山噴火予知計画に基づいて火山噴火の予知のための研究を行っている機関です。
大学などの研究者や関係機関の専門家で構成されていて、「観測データや情報の交換を行い、火山活動についての総合的判断を行う」ことを目的として設置されている機関で、気象庁が事務局を担当しており、内閣府や国土交通省河川局などの防災機関も参加しています。
よく似た経緯で設置されている地震予知連絡会の兄弟機関とも言われますが、ただ地震予知連絡会は、事務局が国土地理院であり、委員が学識経験者のほかに気象庁の職員などで構成されているなど、火山噴火予知連絡会とは性格がやや異なります。
これは、地震予知がまだ研究段階であるのに対し、火山噴火予知は現在の観測体制でもある程度の余地が可能であるため、情報発信能力のある気象庁が事務局を務めることによって、より防災に役立てることが期待されるためです。気象庁長官の私的諮問機関としての役割も持たされており、このため連絡会の診断結果は気象庁から発表されます。
この火山噴火予知連絡会によって、それまで日本国内の活火山は108であったものが見直され、計110火山となりました。この見直しで増加したのは3火山でしたが、活火山ではないとされて一つ減ったため、合計では二つ増えただけとなりました。
ところが、新しい活火山の定義を1万年以内に噴火したもの、と定義すると、近年になってから頻繁に噴火する火山だけでなく、数千年もの長きにわたって噴火していない火山まで含まれることになり、その幅が大きくなってしまいます。
このため、火山噴火予知連絡会は同時に、こうした年代による評価だけでなく、「社会的影響度を評価することなく」火山学的にだけ評価された火山活動度により、ランクA・ランクB・ランクCといった、3区分で活火山をランク付けすることにしました。
社会的影響度を考慮しない、ということは、火山学的には活動が活発であっても、例えばものすごく山奥にあって誰も登らないような火山は社会的影響度が低い、ということになります。このため、このランク付けは、必ずしも火山活動の活発さによる危険性とは直接は結び付きません。あくまで学術的な火山学上の分類にすぎないわけです。
しかし、これでは一般の人には果たしてその火山が安全なのか危険なのかはわかりません。そこで、これではいかん、と考えた気象庁は、2007年12月から、火山活動による災害の危険性に応じ、国内すべての活火山について「噴火警報・噴火予報」を発表するようになりました。
同時に活動度の高い火山には5段階の噴火警戒レベルを導入し、噴火警報・予報で発表することにしましたが、この噴火警戒レベルと、上記のランク分けはまったく関係ありません。例えば、2011年1月に活発な噴火活動を始め、現在も時折噴煙を上げている新燃岳を含む霧島山の活火山としてのランクはBであり、まったく活動のない富士山と同じです。
これに対して、火山噴火予知連絡会もまた、ただ単にランク付けだけで自己満足していてはいかん、と考えたのか、2009年(平成21年)には、火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山として、47の火山を選定しています。
これは、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び、社会的影響を踏まえて選定されたもので、選定理由は、以下のようなものです。
1. 近年、噴火活動を繰り返している火山
2. 過去100年程度以内に火山活動の高まりが認められている火山
3. 現在異常はみられないが過去の噴火履歴等からみて噴火の可能性が考えられる
4. 予測困難な突発的な小噴火の発生時に火口付近で被害が生じる可能性が考えられる
御嶽山は、このうちの1.に含まれており、このほかには、十勝岳、有珠山、北海道駒ヶ岳、那須岳、草津白根山、浅間山、伊豆大島、三宅島、阿蘇山、霧島山、桜島など全部で23の火山が指定されており、2.にも18の火山が指定されています。なお、3.は、岩木山、鳥海山、富士山、雲仙岳の4つだけで、4.も倶多楽湖、青ヶ島の二つだけです。
ちなみに倶多楽湖(くったらこ)というのは誰も知らないと思いますが、北海道南西部、白老郡白老町にあるカルデラ湖で、4万5千年以上前に火砕流を伴う大規模な噴火を繰り返し、倶多楽湖を形成したものです。近年では約200年前に活動をしていたと考えられており、現在、湖の西側にある日和山は噴気活動を続けています。
また、青ヶ島は東京都に属する伊豆諸島の有人島としては最も南に位置する島で、天明3年1785年に発生した火山活動では全家屋63戸が焼失しており、島民327人のうち130~140人が死亡したといわれています。
こうした火山には、気象庁や防災科学技術研究所の火山基盤観測網が敷かれ、大学などの機関が上述の御嶽山で使われているのと同じような地震計や傾斜計のほかの種々の観測施設を整備しています。が、いかんせん予算不足のため、充実した観測体制が敷かれているかと問われれば、答えはノーと言わざるを得ないのが現状です。
それではこの御嶽山という山はいったいどのように形成された火山なのでしょうか。これは、約40~80万年前に噴出した溶岩と火山砕屑物から形成されたとされており、現在とほぼ同じ位置の火口からの比較的静穏な噴火により形成された成層火山で、当初は標高3,200~3,400 mと、富士山並の高さがあったようです。
その後約10万年前まで火山活動の休止期間が続き、この間、山体は浸食を受けて深い谷が形成されるとともに、山の高さも少しずつ低くなりました。この休止区間後は、噴火を繰り返し、最近1万年間では、4回のマグマ噴火と12回の水蒸気爆発が起きたことは上述のとおりです。
また、1979年の水蒸気爆発では、地獄谷上部の標高2,700 m付近を西端とし東南東に並ぶ10個の火口群が形成されました。しかし、比較的小規模な噴出があっただけで、その後の火山活動もごく小規模で、以後は1991と2007年にごく少量の火山灰を噴出しただけです。
こうして現在の御嶽山が形成されたわけですが、ところが、1984年(昭和59年)9月14日には、火山活動による山容変化ではなく、大規模な「山体崩壊」によってその山の形が大きく変わりました。
山体崩壊とは、火山などに代表される脆弱な地質条件の山体の一部が地震動や噴火、深層風化などが引き金となって大規模な崩壊を起こす現象です。
御嶽山では南斜面で起こり、原因はこの日の、8時48分49秒に南山麓で発生した地震であり、これは、のちに「長野県西部地震」と呼ばれるようになります。この地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達し、この土石流はその後「御岳崩れ」と呼ばれるようになりました。
地震が起こったのは、御嶽山山麓の長野県木曽郡王滝村直下、深さ約2kmという浅い場所であり、地震規模はM 6.8ですから、それほど巨大な地震というわけでもなく、中地震と大地震のちょうど中間ぐらいの規模です。
ところが、王滝村では推定震度6の「烈震」を記録しました。しかもこの震度はあくまで「推定」であり、これはこの当時、当地に地震計が置かれていなかったためです。震央、すなわち震源の真上では震度7の「激震」だったのでは、とする見方もあり、震源の深さがわずか2km と極めて浅い地震であったことが災いしました。
震源域の真上では、一部の範囲で重力加速度を越えた5Hz~10Hzの震動により、石や木片が飛んだという報告もあり、震央から4km離れた場所にある、水資源開発公団の牧尾ダムに設置されていた地震計も300ガルを上限とする設定でしたが、これを振り切り、地震記録が取れていませんでした。
しかし、この地震による家屋倒壊といった直接的被害は少なかったようで、そのほかにも道路や橋梁への大きな被害は見られませんでした。ところが、この日の前日までの連続雨量は150mmを超えており、この地域一帯は非常に土砂崩落が起こりやすい状況でした。
ここへ起きた地震により、御嶽山南側で大規模な山体崩壊が発生し、体積およそ3450万立方メートルという大量の土砂が伝上川の両岸を削りつつ、濁川温泉旅館を飲み込みながら、標高差約1900~2500m、距離約10kmを平均時速80km~100kmという猛スピードで流下し、延長約3kmにわたって最大50mの厚さで堆積しました。
この地域の岩盤は粘板岩が主体でしたが、その上に1979年の噴火やそれ以前の噴火の際に御岳山から吐き出された火山噴出物が堆積しており、基盤である粘板岩とその上に溜まった軽石層が滑り面となり、その上の大量の火山灰が流れ落ちたものと考えられています。
この結果、氷ヶ瀬の渓谷では厚さ30メートル以上の土砂が堆積して谷が埋まり、この当時、伝上川周辺に名古屋市からきのこ採りなどに来ていた5名と濁川温泉旅館の経営者家族4名の計9名の全員が土石流に巻き込まれました。
また、王滝村松越地区では、土砂崩れにより、森林組合の作業木工所と村道の一部が崩落、旅館の半分を削り取りながら川下にあった生コン工場を直撃、対岸の段丘上にまで押し上げました。この土砂崩壊で、作業木工所の森林組合員と生コン工場の従業員、合わせて13名が犠牲となるととともに、下流の御岳湖(牧尾ダム)に大量の土砂が流入しました。
この地区にあったある旅館では、建物の半分が崩壊しましたが、地震発生時は宿泊客がおらず、経営者の妻である女将が崩落に巻き込まれました。が、幸い、身体が畳の上に載ったまま流され、土砂に飲み込まれることはありませんでした。
その後、この女将は、負傷していたにも関わらず、崩落でできた崖を自力でよじ登り、奇跡の生還を果たしています。が、この傷はその後2週間の入院を要するほどの重傷であったといいます。
このほか、王滝村滝越地区でも、土砂崩れによる家屋倒壊で1名が死亡し、県道を車で走行中の林業関係者5名が土石流に巻き込まれ行方不明となりました。また、柳ヶ瀬地区では、自宅から出た1名が行方不明となったほか、トラックが土砂崩れに巻き込まれ、ドライバーは車外へ放出され、後日遺体で発見されました。
この当時、大量の土砂が堆積して谷が埋まった氷ヶ瀬地区では営林署の建物が土石流による泥流に飲み込まれてゆく様子がテレビで報じられており、王滝川では、堆積した土砂によって天然の堰止め湖ができた様子なども報道されました。
この大災害のおける死者は松越地区での13名、滝越地区での1名、行方不明者は「御嶽崩れ」による15名であり、合わせて29名となりました。また、負傷者は10名、家屋被害は、全壊14棟、半壊73棟、一部損壊517棟に及び、全壊した家屋はすべて土砂崩壊による倒壊、流出でした。
この地震による土石流災害は、1979年の噴火のあと5年後に起こっており、この間、この時の噴火によって出た火山性噴出物を含め、それ以前からどれほどの堆積があったかについては、十分に調査を行える時間がありました。
にもかかわらず詳しい調査は実施されてなかったのは、この噴火における噴出量が比較的少なかったためと思われ、もし測量を行っていたら山体崩壊の可能性がわかっていたかもしれません。これが被害を拡大したともいえ、ある意味では人災という見方もできます。
また、この地震についても、断層などによる地震ではなく、火山性のものではなかったか、という指摘もあるようです。名古屋大学がのちに行った調査では、50km離れた「白狐」、95kmの「湯谷」、71kmの それぞれの観測点の温泉中に含まれるガス中のCH4 / Ar(メタン-アルゴン比)及び H2(水素)が有意な変動をしたという結果が得られています。
1979年の噴火の前年には、震央から9km離れた箇所にある、御嶽山の噴火活動で形成された噴気孔から噴出していた火山性ガス中の CO2及び温度には変化がありませんでした。
ところが、メタン-アルゴン比ほかの火山性ガスの比率は、噴火後の1980年以降増加を続け、地震があった直前の1週間には1981年の100倍を観測していたことが分かっています。さらには、これらの比率は、地震後に減少していることもわかっており、こうしたことが、この地震が火山性であることが疑われる理由です。
このほかにも、震源から25km離れた阿寺断層(岐阜県福岡町宮脇)や、100km離れた松代断層(長野県長野市松代)、同じく100kmの中央構造線(愛知県新城市有海)などの各地質調査所の計141箇所の観測孔で、地震前後のRn(ラドン)濃度の変動が周年変化を外れ上昇していたことも分かっています。
しかし、地震学者の多くは、この地震を1948年の福井地震(M7.1)、1961年の北美濃地震(M7.0)、1969年の岐阜県中部地震(M6.6)と続いた一連の地震と関連づけて考えているようであり、火山学者の見解とは違うようです。
従って、この山体崩壊の原因となった地震が、御嶽山の火山活動の一環として生じたものと考えるのは判断が分かれるところです。もし火山性のものなら、今後もまたそうした地震が起き、山体崩壊が起こる可能性がなきにしもあらずですが、一度崩壊を起こしているので、同じ規模の土砂災害が起こるとは考えにくいかもしれません。
ただ、今回の噴火による噴出量は前回よりもかなり多く、噴火が収まった以降、必ずしも火山性ではなくとも大きな地震が起こる可能性もあるわけであり、引き続いての土砂災害には十分に注意するにこしたことはないでしょう。
現在なお噴火を続けていて、山頂に取り残されている方の救出もままならない状況のようですが、日本の東方沖からは台風が接近しており、今後の気象条件によっては雨が降り出す可能性もあります。先々月には広島で土砂災害が起こっているだけに、噴火だけでなく、その可能性も視野に入れて救出活動を行うべきでしょう。
ところで、この御嶽山は、古くから「王御嶽」(おんみたけ)と呼ばれ、ここに坐す神を「王嶽蔵王権現」として、修験者たちの厚い信仰の対象となってきました。甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などがただ単に「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される山はこれだけであり、「山は富士、嶽は御嶽」とも呼ばれる名山です。
日本では富士山に次いで2番目に標高が高い火山であり、剣ヶ峰を主峰とし、摩北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、「日和田富士」とも呼ばれます。しかし大噴火によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ているという声もあるようです。
古くは、信仰の対象として少数の修験者によって登られるだけでしたが、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られます。
しかし、江戸時代にも御嶽登山者の病気や凍死による多数の死亡者の記録があるほど登山が困難な山であり、1847年(弘化4年)には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する山岳遭難が起きています。もともとは、女人禁制でしたが、1872年(明治5年)に女人禁制が解かれ、明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まりました。
1894年にウォルター・ウェストンも登頂しており、以降一般の登山者にも登られるようなり、木曽側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、飛騨側から1つ(小坂口)の登山道が開かれ、その後日和田口が比較的新しく開かれました。1979年の噴火後は入山規制されましたが、1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除されました。
3000mを越える高峰ですが、御嶽ロープウェイがあるためこれで標高2000mほどまで高度を稼げるため、日帰りで登山されることもあり、麓の小中学校で学校登山が行われています。また、御嶽講の修験道者たちの登山も活発で、毎年8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭も行われています。
また、富士山とは異なり、現在の進んだ装備によってすれば積雪期の登山においても大きな難所はないため人気があります。が、独立峰のため山頂付近が強風でアイスバーンとなるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山です。また、これまでも気象庁発表の噴火警戒レベルにより入山が規制される場合もしばしばありました。
しかし、百名山ブームもあって、旅行会社による登山ツアーが多数行われており、今回の犠牲者の中にもそうしたツアーでの参加者も多いのではないでしょうか。明治の半ばには8000人程度だった登山者は、現在3万人にも膨れ上がっています。
戦前には年間5~6万人ほどにも膨れ上がった時期もあったようですが、現在はややこれより落ち着いた、といったところでしょう。ただ、年間3万人は30万人の富士山ほどではないにせよやはり多く、このためこれを受け入れるための山小屋も数多くあります。
宗教登山が盛んな山であるため、宗教施設としての側面がある山小屋も多く、これらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られているといいます。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がありますが、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多いようです。
今回の噴火は、まさにその仕舞支度をはじめようかとする時期に起こったものであり、終了間際の駆け込みということで、予約を入れていた登山客も多かったのではないでしょうか。しかも土曜日のお昼時という、最悪のタイミングで起こったこの大災害には、いったいどういう意味があるというのでしょうか。
話しは少し変わりますが、その昔、後藤新平という政治家がいました。台湾総督府民政長官や満鉄初代総裁を歴任し、この当時、最悪の環境といわれた台北や、大連、上海といった都市の再開発を行い、近代的な都市として生まれ変わらせるという都市計画家としての側面も持っていました。
その手腕を買われて東京市の第7代市長にも選ばれ、この当時まだ江戸時代のままの劣悪な環境の江戸の町改革にも乗り出しましたが、彼が希望する開発予算に議会が反対したため、計画はとん挫。
ところが、東京市長の職を辞した大正12年(1923年)4月からわずか5か月後の9月1日に発生した関東大震災において、東京は壊滅します。死者・行方不明10万5千余とされるこの地震では、市中のインフラの多くが焼失しました。
しかし、これは同時に東京を蘇らせるチャンスとなり、この震災の直後に組閣された第2次山本内閣で後藤新平は内務大臣として入閣し、帝都復興院総裁を兼務して震災復興計画を立案しました。まるで、東京を蘇らせるための手形が神様から後藤新平に与えられたかのようです。
この計画は大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては国家予算の約1年分に相当する金額に対して、結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなりました。
それでも、現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きく、後藤が提案した東京から放射状に伸びる道路と環状道路は実現しませんでしたが、とくに南北軸としての昭和通りは、建設当初は大阪の御堂筋に匹敵するような、街路樹や緑地帯を備えた東京の顔にふさわしい道路でした。
また、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)や環状線の基本となる明治通りなどもこの時作られたものです。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、この当時の復興遺産が現在インフラとしてそのまま利用されています。
もう私が言いたいことはお分かりでしょう。
先々月起きた広島の土砂災害といい、今回の噴火といい、今年は災害の多かった年として多くの人に記憶されるようになるに違いありません。が、こられの災いもまた、関東大震災の後の復興と同じく、何かを生まれ変わらせるための必然だとも考えられ、やがてその意味がわかる時が来るのでないでしょうか。
あるいは後藤新平のような救世主が、現在のように元気のない日本に現れるのかもしれません。
歴史は繰り返します。が、今年はもうさすがに大きな災害がないことを祈りたいものです。