富士とはやぶさ

2014-51869月も中旬を過ぎ、夜になって富士山方向を見ても、灯りが見えなくなりました。

夏山登山の季節が終わり、夜間に富士山を目指す弾丸登山の登山者がいなくなったためですが、何やら花火が終わったあとの夜のようで、これはこれで何か寂しいかんじがします。

こうなると、次は富士の初冠雪はいつか、ということになりますが、平年では9月30日ころとなっています。が、去年はこれより19日遅く、10月19日でした。しかし、その前の一昨年は、9月12日と早く、今年もこの年と同じくらい涼しそうなので、そろそろ頂に白いものが見えてもおかしくはありません。

一方、富士山頂の富士山測候所では、2004年に測候所が廃止されるまで、初雪の平年値は9月14日でした。また、最も早い初雪は1963年の7月31日です。遠目には見えなくても山頂ではかなり早くから雪が降るのでしょう。

逆に最後に雪の降る「終雪(しゅうせつ)」の平年値は7月11日だそうで、こうしたデータからも富士山頂ではほとんど一年中雪が降っていることがわかり、いかにその環境が苛酷かが想像できます。

ましてや、真冬の富士の頂はほとんど死の世界かと思われますが、そんな厳冬期でも、富士山レーダーが運用されていたころには、ここに気象庁の職員が常駐していました。

この冬富士山測候所への「通勤」に関して、どんな状況だったのか調べてみると、この当時の気象庁の職員さんの関係者らしい方の記録が掲載されているHPがみつかりました。

その内容を少し引用させていただくと、富士山頂に向かう観測要員はまず、登山の前日より、富士山南東部、標高1500mほどのところにある御殿場口の太郎坊中腹の避難所に入ります。ここで翌朝4時には起床、このとき、山頂の気象データをその日登山が可能かどうかが決められます。

ここから歩いて登るのかと思いきや、そこはちゃんと「通勤バス」があり、これはこうした雪山を上るために設計された雪上車のことです。6時前にこの雪上車で太郎坊を出発。しかし、これで山頂まで一気に、というわけにはいかず、五合目で雪上車を降ります。ここからは道が急峻であるため、さしもの雪上車も登ることはできないためです。

この位置で既に標高約2600m。ここから帰っていく雪上車もまた、平均斜度25度の急坂を下ることとなり、下山もまた命がけです。もしもアイスバーンなどがあって滑落したら、雪上車ごとあの世行きです。

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この五合五勺から山頂までは無論、徒歩です。ただ、ルートには鉄製の安全柵が設置されていて、これは所員の通勤確保のため作られた物です。現在も残っているらしく、この当時もそうですが、現在も一般登山者が利用しているようです。

2時間ほどで中間地点の標高3200mほどの7合8勺避難所に到着。食事や水分補給、高度順化も含め、ここで約1時間の休憩をとります。ここからは1時間ほどで山頂に到着するようですが、この最後の坂道はかなり斜度がきつくなっており、職員から地獄坂と呼ばれていたようです。さらに頂上に着いても、剣ヶ峰にある測候所に至る道もまた急坂です。

この測候所は、観測装置が置いてある観測棟とは別に居住棟もあったようで、これに付随して15トン水槽がふたつあり、ここに夏は天水、冬は雪や氷を入れヒーターで溶かして使っていました。トイレやキッチンのほか娯楽室、職員の個室も完備されており、ちなみにトイレは洋式ウォシュレット付き水洗トイレでした。

観測棟には、風向、風速、気温、露点温度、気圧、日射等のデータを観測する装置がひととおりあり、これらのデータを衛星通報システムを使って送っていました。また、データ整理などのためのパソコンも完備されていました。

この測候所が運営していた富士山レーダーは、これへの電源の確保のため、燃料を燃やしてタービンを回し、これから電気を取っていたようです。燃料は無論、雪の少ない夏の間にクローラーなどで上げておくのでしょう。これから6600Vの高圧電源が得られ、各棟の空調設備もこれによって賄われていました。

レーダー観測が行われていた当時は、5人一組を基本として、1回の勤務は約3週間。班長、気象観測、レーダー、通信、調理、とそれぞれ役割が決められていたそうで、基本的には観測は自動で行われるため、職員の主な仕事は各機器の保守点検でしたが、外部の観測機器の着氷落としなどの危険作業もありました。

また、強風や落雷などの恐怖もあったそうで、何もなければ平穏に過ごせるものの、必ずしもそうはいかず、つらいことも多かったようです。また、冬季の交替時の「通勤」はやはり危険なものであり、常に命がけだったといいます。

こうした努力もあり、1932年(昭和7年)に、外輪山南東の東安河原に公設の臨時富士山測候所が開設され、通年測候が行われるようになって以降、2004年(平成16年に完全無人化されるまで、富士山測候所では72年にもわたって貴重な気象データが蓄積されました。

観測所の廃止後、ここは2008年(平成20年)10月1日に「富士山特別地域気象観測所」と名称を変更。時に研究目的で使われることもあるようですが、平時は、観測棟や居住棟などは完全に閉鎖されています。

従って、現在は、仮に冬季に富士登山したとしても、避難スペースも有りませんし、仮に窓を壊して中へ入ったとしても、建物は機密性が高く空調が停止状態なので、中に入ると酸欠の恐れがあるそうです。

この富士山へ通勤する気象庁職員の麓における支援拠点は、観測初期の頃から御殿場太郎坊に置かれていました。臨時測候所が開設されてから9年後の昭和16年(1941年)に開設され、ここを拠点に御殿場口登山道を通って通勤や物資搬送が行われていました。

現在、この太郎坊にも種々の観測施設があるようですが、富士山頂測候所と同じく無人です。ただ、測候所に隣接して建てられていた避難小屋はまだ残されたままだそうで、「太郎坊避難所」として、現在も富士山測候所を利用する研究者達は、ここを出発点として使用しているようです。

この「太郎坊」という地名ですが、これは現在の太郎坊より北側に位置する富士山須走口で祀られていた「天狗太郎」を、明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、そのために建てられた神社を太郎坊と呼んだことにちなみます。当時は神社といいながら登山やスキーのための基地になっていたようです。

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その後、この神社は富士山北側の吉田口五合目にある「小御嶽神社」に遷座されたか合祀されたかで消滅したようです。が、名前だけが残り、これゆえにこの地一帯が太郎坊と呼ばれるようになったものです。が、とくに地番や境界があるわけではなく、太郎坊の厳密な範囲ははっきりしていません。

1970年代にはリフトを備えた本格的なスキー場である御殿場市営スキー場も営業されていましたが、やや張り出した尾根上の地形で、所々で火山砂が露出しているような地形のため、雪崩が起こりやすく、このためスキー場は閉鎖され、今も冬季の太郎坊一帯への出入りは禁止されているようです。

御殿場市を見下ろす位置であることから、地上波アナログテレビ放送の御殿場中継局が設置されており、以前のブログ「丙午の空」でも書いたように、1966年にはここで英国海外航空機が墜落し、その慰霊碑が建てられています。

澄んだ空気を持つことから夏季にはアマチュア天文家がここを訪れ、このため天文ファンのメッカともなっているそうで、1994年には、ここで群馬県出身のアマチュア天文家が小惑星を発見し、これを「太郎坊」と名付けました。

発見したのは、「小林隆男」さんという方で、その後も会社に勤める傍らで天体捜索を続け、「のぼる」や「八咫烏」といった多数の小惑星を発見しており、その数は2341個にも上るそうで、これは日本の天文家としては最大の発見数です。

富士山周辺においては、太郎坊以外にもあちこちの天体観測ポイントがあり、ここでも小林さんは数々の小惑星を発見しており、これらには「田貫」や「朝霧」といった富士山周辺の地名が命名されています。

この「小惑星」ですが、ほとんどの小惑星は、太陽からの距離が約2~4天文単位の範囲に集まっているといいます。一天文単位は、地球と太陽との平均距離であり、その2~4倍とうことは、木星軌道と火星軌道の間に相当し、この領域は「小惑星帯」と呼ばれており、多くの天文家が発見してきた小惑星はその多くがここに由来します。

1781年に天王星が発見されて以降、この小惑星帯にある未知の惑星を探索する試みが行われ、1801年にはケレスという小惑星が、また翌1802年にパラス、1804年にはジュノー、1807年にはベスタといった具合に、次々と小惑星が発見されるようになりました。

ただ、この当時はまだ小惑星という言葉はなく、天王星や海王星と同じように惑星(planet)と呼ばれていました。しかし、いずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星と区別される必要性が生じ、「小惑星(asteroid)」という用語が、1853年にはじめて考え出されました。

以後、軌道が確定して小惑星番号が付けられた天体は約33万3個にのぼりますが、これ以外にも直径1km程度、ないしそれ以下の「小々惑星」については未発見のものが数十万個あると推測されています。

また、番号登録されたもののうち、既に命名されたのは約17000個ほどに過ぎません。この小惑星の名前については、数ある天体の中では唯一発見者に命名提案権が与えられており、上述の太郎坊なども発見者の小林隆男さんの希望でつけられたものです。

発見者によって提案された新小惑星の名前は国際天文学連合(International Astronomical Union:IAU)の小天体命名委員会によって審査されます。

名前はラテン語化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項のようですが、これはその昔は科学技術が発展していた欧州の科学者の特権ということだったためでしょう。が、現在では日本も含め英語圏意外の国の発見者も多いことから、必ずしも守られてはいません。

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ただ、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前、既にある小惑星と紛らわしい名前は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止などの基準があるそうです。

従って、「ムシャ&タエ」という小惑星名は付けられますが、我が家の愛猫を冠した「小惑星テン」というのはダメ、また、「おっぱい」や「あそこ」は無論、「イスラム国」なんてのは絶対ダメ、ということになります。

ところで、小惑星といえば、2003年に打ち上げられた日本の探査機「はやぶさ」は、この小惑星のひとつ、イトカワに2005年に着陸し、サンプルを採取したのち、2010年に地球へ無事帰還し、サンプルを納めたカプセルからは、イトカワ由来の微粒子が発見されました。

これは世界初の小惑星からのサンプルリターンであり、現在も容器内の微粒子の分析が続いているようです。が、このはやぶさでは、本来の目的であった岩石の採取を行うことはできず、またイトカワを自由に動き回るローバーの投入もしくじるなど、数々の失敗を重ねており、そのことは以前書いた、「はやぶさの失敗」でも詳しく書きました。

このはやぶさ1での失敗を教訓に、後継器として開発された「はやぶさ2」の打ち上げが、この年末に予定されており、いよいよその時期が迫ってきました。詳しい日時まではまだ公表されていませんが、2014年12月末にH-IIAロケットで打ち上げ予定です。

先月の8月31日(日)、JAXAは、相模原キャンパス内で、の報道関係者向けに、の「はやぶさ2」機体公開が行われ、と同時にその性能が明らかになりました。

新聞記事などによれば、基本設計は初代「はやぶさ」と同一ですが、「はやぶさ」の運用を通じて明らかになった数々の問題点が改良されています。

例えばサンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチ・アンド・ゴー」方式であり、はやぶさ1では、着陸と同時に、弾丸程度の大きさの弾を撃ち込んで舞い上がった砂や岩石を吸引する、といったものでしたが、今回のはやぶさ2では、その打ち込む弾が格段に大きいのが特徴です。

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この弾は、直径約20cm、重さ約10kgの円筒形をしており、「プロジェクタイル」と呼ばれます。中には爆薬を内蔵しており、探査機本体から切り離され、小惑星の表面で起爆させ、爆圧によって変形した金属塊を目標天体に突入させ、直径数メートルのクレーターを作り、これによって舞い上がった砂礫を採取します。

はやぶさ1に比べて格段に金属塊の大きさが大きいことから、小惑星表面だけでなく、小惑星内部の砂礫の採取も可能になるといい、その秘密はこのプロジェクタイルの形状が「はやぶさ」の弾丸型から円錐型へと変更されたことです。頂点の角度は90度に設定されており、これにより弾丸型よりも効率的な試料採取が可能となります。

ニュース映像でJAXAによるその実験の模様を見た人も多いかと思いますが、この公開実験では、はやぶさ2の射出機と同じタイプのものを使って、10mほど先の岩盤のようなものへの弾丸の打ち込みが行われました。私もこれを見ましたが、バズーカ砲による射撃訓練と見まがうかのような光景で、当たった先の岩盤は見事に砕け散りました。

また、この「射撃」によって開けられたクレーターにもはやぶさ2を軟着陸させ、粘りのあるシリコンで砂を採取する方法も考えられており、JAXAはこれら二つの方法を用意することでより確実に試料を取ることができるとしています。

さらには魚眼レンズを装備したカメラが搭載され、サンプリングの様子を撮影する他、巻き上げられた粒子の光学観測もはやぶさ2内で行うことでできるといいます。

今回目標とする小惑星体は、イトカワのような名前がまだ付けられていないもので、「1999 JU3」と記号で呼ばれています。これまでの国内外の観測結果からわかっているのは、自転周期は約7時間半と、これは約12時間の自転周期を持つイトカワよりも速いこと、直径は約920メートルで約540メートルのイトカワよりも若干大きいことなどです。

また形はイトカワとは異なり、割と球状に近い形をしており、強いていうならサトイモに近い形であること、また、「含水シリケイト」という、水を含んだ鉱物の存在する可能性があることが観測によりわかっています。

これは、この小惑星からの光のスペクトル分析などによって確認されたものですが、ただ含水シリケイトの存在は観測によって発見されたりされなかったりしているため、実際に存在するかどうかは不確定なようです。が、もしこうした鉱物が発見されれば、小惑星のような星にも水の存在が初めて確認されたことになります。

この1999 JU3の探査においては、はやぶさ1でイトカワに着地させることが出来なかった着陸ローバー「ミネルヴァ」による表面探査も行われます。

しかも、この「ミネルヴァ2」は1基ではなく、3基も搭載されているといい、これに加え、独仏で開発された「マスコット」というローバーも投入予定です。数さえ多けりゃいいのかと突っ込みたくもなりますが、何がなんでもこの小惑星の表情を捉えてやるんだという開発者たちの意気込みは伝わってきます。

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このほか、はやぶさ2本体のはやぶさ1からの変更点としては、先代が航行途中にさまざまなトラブルに見舞われたことを踏まえ、安定航行を目的としてさまざまな変更がおこなわれました。

初代では信頼性強化の改造が裏目となり3基中2基が運用不能となったリアクションホイールも3基から4基へと増加され、なおかつ最後の1基はなるべく着陸時までは温存する運用を想定されているそうです。

リアクションホイールというのは、はやぶさ2の方向を、イオンエンジンなどの化学推進装置を使わずに変化させる姿勢制御装置で、1つの回転軸に対して、1つのフライホイール(円盤状のはずみ車)を電動モーターで回転駆動します。ほんの少しだけ機体を回転させるのに用いられ、これによっても燃料などを消費せずに済みます。

また、はやぶさ2では故障の多かったはやぶさ1でのパラボラアンテナに代わり、アレイアンテナを使用します。小さなアンテナを平面状に多数配列したもので、テレビアンテナをもう少し細かくしたものを想像してもらえれば良いと思います。

個々のアンテナの出力は微弱ですが、実際には複数のアンテナからの出力が合成されるので、結果として大出力が得られます。湾岸戦争で活躍したパトリオット地対空ミサイル用のレーダーや、アメリカ空軍の最新鋭の戦闘機のレーダー、国産の戦闘機・三菱F-2でも使われている高性能アンテナです。

さらにはこのアンテナでは、高速通信が可能であり、例えば万一自律判断によるタッチダウンが不可能になった場合などで、指令誘導をする必要に迫られた場合、迅速な指令を伝えることによって、すばやい姿勢制御が図れます。

はやぶさ1では、地球との通信を行うパラボラアンテナが3種備わっており、探査機の姿勢や電力状況によってアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていました。ところが、原因不明の故障によってはやぶさが意図とせずにイトカワに着陸してしまったときが、このアンテナの受信状態を切り替えるときでした。

このため、地球からの、「どうしたんだ、何をやっているんだ?」という問いかけをはやぶさは受信できず、地上局側ははやぶさの着陸の事実を把握できていなかったという失敗がありました。が、今回は、アンテナそのものを変え、高速通信もできるようになってこのような極限時においても、速やかに指令運用を図ることが出来るようになりました。

こうした高性能の通信手段を持つことで、はやぶさ2からの細かい信号も受信できるようになり、この情報から万一化学燃料の配管に破損などがあった場合の再検討や、イオンエンジンやリアクションホイールの制御なども細かく行えるようになり、搭載した機器の細かいモニタリングや指令の伝達などに関する大幅な信頼性向上が図れるようになりました。

また、主エンジンである、イオンエンジンの推力も8.5mNから10mNへと向上した改良型が使用されており、このために従来1機しか搭載できなかったローバーの数を増やすこともできるようになり、また地球との往復時間の短縮をも期待できるようになりました。

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ただ、目標とする1999 JU3はほぼ球形で、自転軸が黄道面に対して横倒しに近く、それが垂直でピーナッツ型をしていたイトカワでは、12時間の自転毎に天体全面を観察できたのに比べ、この自転軸と形状が災いして一日かけても全面を観察できにくいそうです。

このためイトカワでは観測が3ヶ月に過ぎなかったものを、今回は6倍の1年半を費やして調査する事になるということです。しかし、2014年に打ち上げられた場合、2018年に 1999 JU3に到着後、ここでの観測期間も含め、2020年末に地球へ帰還するまでほぼ6年で帰ってくることができます。

はやぶさ1の場合は、打ち上げが、2002年9月で、カプセルが大気圏に突入したのが2010年6月ですから、7年と9カ月かかっており、今回は惑星本体の観測期間が延びるにも関わらず、エンジンが改良されたことでかなり短い時間で帰ってくることができるわけです。

この対象となる小惑星1999 JU3は、現在軌道が判明している46万個の小惑星のうちスペクトル型が判明している3000個の物の中から選ばれており、これらの中からはやぶさクラスの推進力で探査可能な小惑星が選ばれ、さらにタッチダウン運用が可能な自転6時間以上の対象としてほぼ唯一残った対象だったそうです。

また、1999 JU3に短時間で効率的に到着するためには、2014年という年は極めて望ましいタイミングにあるといい、この機会を逃すと次回と同様な条件が整うのは10年後となるということであり、今回のフライトはまたとない希少なチャンスということになります。

そもそもはやぶさ2計画は、新たな生命の起源の存在を探すために企画されたものです。

ヴィルト第2彗星とそのコマの探査を目的として1999年2月7日に打ち上げられ、約50億kmを旅して2006年1月15日に地球へ帰還した探査機スターダストは、この彗星の尾から試料を持ち帰り、その後の分析でこの中からは「アミノ酸」が発見されました。

発見されたのは「グリシン」といい、生命体がたんぱく質を作るのに必要なアミノ酸の一種で、中に含まれる炭素の同位体比率が地球の炭素と異なることも確認され、地球上の生命の起源を宇宙に求める説が裏付けされたと、この当時話題となりました。

1999 JU3は「C型小惑星」と呼ばれる炭素でできた小惑星で、有機物が存在する可能性が高いといわれており、もし1999 JU3から採取されたのと同じ組成の有機物を含む隕石が地球で確認された場合、こうした小惑星と生命の起源との関連が考えられるといいます。

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先月末にJAXAの相模原キャンパスで公開されたはやぶさ2の機体には、太陽電池パネルや地球との通信を担うアンテナ、小惑星から持ち帰るサンプルを入れるカプセルなどが既に取り付けられており、ほぼ完成形だということです。

今後、打ち上げ場がある鹿児島県・種子島宇宙センターに輸送され、今年12月に日本の主力ロケット「H2A」で打ち上げられます。

打ち上げ後、太陽を周回する軌道に入り、およそ1年後の来年12月ごろ、地球の重力を使って加速しながら進路を変更し、小惑星に向かう軌道に入ります。目的の1999 JU3に到着するのは、打ち上げから3年半後の2018年6月ごろの予定です。

その後、およそ1年半にわたって小惑星の近くにとどまり、さまざまな科学観測を行い、この間採取した石や砂をカプセルの中に詰め込んだ「はやぶさ2」は、2019年12月ごろ、小惑星を離れて地球への帰途に就きます。

そして東京オリンピックが終わったあとの2020年12月、長い旅路を経て小惑星の石や砂が入ったカプセルを地球に帰還させることになっています。その際、カプセルはオーストラリアの砂漠に落下させる計画ですが、「はやぶさ2」自体は大気圏に突入することなく、再び地球を離れて宇宙へ飛び立つそうです。

その先のミッションについては、JAXAは何も公表していません。この時点でまだたくさん燃料が残っていれば、新たな探査に出す可能性もあるのでしょうが、総飛行距離52億キロの旅のあと、さらにその工程を伸ばすのはなかなかに容易ではないでしょう。

おそらくは地球近傍の月とか、地球そのものの観測に使う、といったことが行われるのかもしれません。が、1977年に打ち上げられ、現在も運用されているボイジャー1号のように、地球から遥か彼方の星間空間を目指すために使うことができるのなら、それもまたいいかもしれません。

私が生きている間に、はるかかなたの宇宙空間からはやぶさ2を通じて宇宙人の声が届く……そんな夢をみながら、今日の項は終わりにしたいと思います。

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芙蓉の人その後

2014-0864最近、毎週土曜日の夜9時から、NHKで「芙蓉の人」を放送していて、山岳物の好きな私は、これを毎回欠かさず見ています。

しかも、原作の作者はこれも私が愛してやまない、新田次郎さんであり、初版は1970年に出されました。主人公は「野中千代子」といい、これが「芙蓉の人」です。「芙蓉」は富士山のことでもあるわけですが、それにしても、なぜ富士のことを「芙蓉」と呼ぶのでしょうか。

調べてみると、はっきりしたことはわかりませんが、芙蓉には「美人」の意味もあるようで、このため、「美しい峰」と言う意味で使うようになったという説、また、芙蓉の花のあのぎざぎざした花弁が、富士山頂のギザギザに似ている、という説などがあるようです。

新田さんは、その著作に「白い花が好きだ」という随筆もあり、自らの作品に白い花の名を与えたかった、という意向はあったでしょう。白い芙蓉の花の清楚な姿はなるほど富士山にもよく映えます。

富士山に日本人女性として初めて登ったのは、江戸時代の「高山たつ」という人です。この人の場合は信仰のためでしたが、気象観測という実務のために登ったのは、野中千代子が初めてのことであり、気象技術者でもあった新田さんは敬意をこめて富士の雅称である芙蓉の名を彼女に贈ったのでしょう。

この野中千代子という人は、実際、残っている写真をみるとなるほど花に例えても良いほど、結構な美人さんです。結婚前は福岡藩の「喜多流」という能楽師の娘さんだったようで、同じく福岡の人で親戚でもある「野中到」と結婚し、夫婦で冬季の富士気象観測を成功させるという快挙を成し遂げました。

この物語はこの二人の夫婦愛と、気象観測に情熱を傾ける夫、野中到の人生を描いたノンフィクションであり、新田さんの原作が発行されてから3年のちの、1973年にはじめてNHK放送でテレビ化されました。ただ、今回の放送は全6回ありますが、このときは全2回でした。

主演の野中到は、長門裕之、千代子は八千草薫で、その後も民放のテレビ東京で1977~1978年まで放送されていますが、この時の野中到は、中村嘉葎雄、千代子は五大路子でした。
その後、NHKは1982年にも「少年ドラマシリーズ」としてこの話を放送していますが、このときは、一回きりの短編だったようです。野中到は滝田栄、千代子は藤真利子です。

NHKとしてのドラマ化は、これ以来、なんと32年ぶりということになりますが、その背景としては、昨年富士山が世界遺産登録されたこともあって話題性も高いことや、最近は朝ドラなどの短編は好調なものの、長編についてはドラマ離れの傾向が強いので、ここらでヒット作を飛ばして、足がかりを作りたいといったこともあったでしょう。

そのNHKの意気込みにも答え、私もテレビで放送される新田作品としては久々でもあるので、結構リキを入れてみているのですが、主人公の千代子を奥深い縁起で定評の松下奈緒さんが演じ、また野中到を熱血物で定評のある佐藤隆太さんが好演していて、なかなかよく出来ていると思います。

が、ストーリーは単純なため、そこを演出やら役者さんの演技力でカバーしているようなところがあり、まだ完結しているわけではありませんが、クライマックスに向けてどの程度盛り上がりを持たせてくるかが成功か否かの分岐点といったところでしょうか。

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ところで、この芙蓉の人の原作者の新田次郎さんは、これを書いたあとわずか10年後の1980年に67歳という若さで亡くなっています。1956年に「強力伝」で第34回直木賞を受賞して以降、主に山岳モノで人気作家となり、晩年は歴史小説などにも力を入れていました。が、私はどちらかといえば晩年の作風よりも、若いころの作品のほうが好きです。

実はもと気象庁の職員であり、1932年に現在の気象庁にあたる中央気象台に入庁し、当初は富士山観測所に配属されていました。その後東京に戻って技術職員としてのキャリアを積んでいましたが、太平洋戦争のさなか、1943年には満州国観象台に転勤となり、ここで高層気象課長を勤めました。

1945年に終戦。しかしそのままの帰国はかなわず、新京で中国共産党軍に拉致されて抑留生活を送ることになりました。しかし、翌年には帰国がかない、中央気象台に復職。気象庁生え抜きの技術者として活躍しつつ、1963年ころからは気象庁観測部の高層気象観測課長・測器課長として、富士山気象レーダー建設責任者となりました。

このレーダーは、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が必要と考えられたことにより建設が決まったもので、新田さんたちの努力が実り、1965年に無事完成しました。

このとき、新田さんはこのレーダーの建設に関連して数々の新技術をも開発しましたが、そのひとつには無線によるロボット雨量観測計などもあり、これによって運輸大臣賞を受賞しています。

この当時においては、気象測量機器開発およびこれを使った観測の第一人者といえ、また完成した富士山山気象レーダーの運用技術もまたこの当時世界最高度のものであったため、そのノウハウの教示の要望が内外からも高く、新田さんは国際連合の気象学会でもこれを発表するなどの公務に明け暮れました。

こうした富士山レーダーとの関わりを基にして書かれた作品が、小説「富士山頂」であり、この作品は1967年に映画化もなされました。「芙蓉の人」はこの3年後に書かれたものです。

新田さんと同じく気象学者であり、富士山観測に関しては先人である野中到のことについては、かねがね気にはなっていたようで、長年この人の伝記を書こう書こうとネタを貯めこんでいたといいます。

この物語の主人公である、野中到と千代子夫人の話は、奇しくもちょうど一年前にもこのブログでその名も「芙蓉の人」、として書いています。二番煎じということになりますが、このときは野中到の晩年のことなどについてはあまり触れていないので、あらためてもう少し書き足してみたいと思います。

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野中到は、現在、これもNHK製作の大河ドラマ、「軍師官兵衛」で有名になった福岡の黒田藩の藩士・野中勝良の息子として筑前国(現福岡県)に生まれました。祖父は黒田家に仕えていた200石取りの武士で、槍術の達人だったといい、父は、明治維新後に役人となり、東京控訴院判事などを勤めていました。

この父の姉の糸子がのちの妻である千代子の実母であり、つまり二人はいとこ同士ということになります。役人の子として厳格な家庭で育てられたようですが、長じてからは気象観測に興味を持つようになります。

この当時気象予報はまだ黎明期であり、現在のような数値予報は行われておらず、機械による地道な観測が主であり、観測ポイントも少なかったこともあって、天気予報は当たらないのが当たり前といわれた時代でした。

また高地測候所は信州にしかなく、野中は、気象の勉強を進めるにつれ、天気予報が当たらないのは、高層気象観測所が少ないからだ、と考えるようになりました。そして天気は高い空から変わってくる、富士山のような高い山に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる、と確信します。

しかし、時代は日清戦争から日露戦争へ、またその後の軍拡へと突き進む時代であって国費は乏しく、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ません。このため、まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能であると、野中は考えました。

こうして自費で富士山観測所の設立することを思い立った野中は、思い切って当時入学していた大学予備門(現・東京大学)を中退し、その建設方法の模索を始めました。1894年ごろからその準備登山を始め、翌年1895年(明治28年)初頭には、厳寒期の登頂に成功し、富士山頂での越冬が可能であることを確信。

私財を投じて測候用の小屋を建設するための資材を集め始めましたが、資金不足のために当初予定していたほどの観測所はできず、結局6坪(およそ20平方m)ほどの「小屋」になってしまいました。

しかも、明治維新以降、信者だけでなく一般登山者も増えたため、山小屋へ荷物を運ぶ人手は忙しく、このため、観測小屋を建設するための資材を運ぶ強力を思うように集めることができません。しかし、地元御殿場で定宿としていた旅籠の主人などの援助なども得てなんとか強力を集めることができ、8月までにはようやく「野中観測所」が完成しました。

この観測所は、富士山頂の中でも一番高い場所である剣ヶ峰に建設されました。風を避けるところが少ない山頂において数少ない崖状の地形がある場所であり、観測所はそこにへばりつくように建てられました。ここに野中は冬季を超すための大量の資材を背負った強力とともに入り、9月初旬から観測を始めました。

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無論、強力は返し、一人だけの観測が始まったわけですが、毎定時に気温や風速、気圧を始め多くの観測記録を残す必要があるため、寝る時間は無論、料理をする時間も僅かしかなく徐々に衰弱していきました。実はこのことを東京に残した妻の千代子は予見しており、夫を助けるため、わざわざ実家のある福岡に帰って登山の練習などの準備をしていました。

夫が保有する気象学のなども勉強し、気象観測の方法まで勉強しており、夫を助けるために富士山に共に登るという決意は固いものでした。二人には一人娘がおり、もしものことがあってはと周囲は反対しましたが、その子を福岡の実家に預けてまでして、千代子は夫を追いかけて富士に登ります。

しかし、季節は既に10月半ばでした。連日マイナス20度以下という厳しい寒さによって、千代子は風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて呼吸ができなくなるという事態が発生します。このとき、なんと到は、真っ赤に焼いたノミで千代子の扁桃腺を切り、膿を出して助け、この荒療治が功を奏し千代子は元気になりました。

とはいえ、極寒の山上での生活は更に厳しく、二人とも高山病と栄養失調で歩行不能になり、また越年を待たず、12月にはほとんどの観測機器が壊れるという事態に至ります。そんな中、二人を心配し、冬富士に危険を冒して訪れたのが、野中の弟の野中清でした。

清によって夫妻の体調不良の状況はすぐに麓に伝えられ、やがて野中夫妻を応援していた中央気象台の技師らが救援にかけつけます。野中は頑として観測を続けると言い張りますが、諭され、説得されてようやく下山に合意しました。

こうして冬季を通して富士観測を行うという野中到の試みは道半ばで途絶えましたが、野中夫妻のこの決死の行為と思いは、この時代の人々に大いに共感されました。評判をよび、小説や劇になりましたが、野中自身は越冬断念により十分な結果が得られなかったことをいつまでも恥じていたといいます。

このためもあり、野中は1899年(明治32年)には本格的な観測所の建設を目指し、「富士観象会」という民間団体をつくり、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけました。また、富士山頂における気象観測の有効性を訴えるべく、その後も絶えず登山し観測を続け、中央気象台へもそのデータを提供し続けました。

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こうした野中の熱意に動かされ、明治34年(1901年には、宮家の山階宮菊麿王が、茨城県の筑波山に「山階宮気象観測所」を設立しました。ここの初代の所長となったのが、気象台の大分測候所の技師であった、佐藤順一でした。

佐藤順一は、野中と同じく福岡県の出身で、父佐藤善六は柳川藩の立花氏につかえ、同藩の剣道指南役でした。大分県尋常中学校卒業後、東京に出て私立東京物理学(現在の東京理科大学)に入学、卒業後大分測候所の技手として採用されました。

その後は、気象学者として知られるようになり、これが山階宮の目に留まったものです。この山階宮菊麿王は、海軍に入り、海軍大佐まで進んだ人でしたが、気象学研究にも打ち込み、筑波山のこの気象観測所も建設費用は自弁でした。

山階宮菊麿王は16歳の時にドイツに留学、キールの海軍兵学校に入学し、卒業後、海軍少尉に任官しましたが、引き続いて海軍大学に入り、卒業後の明治27年日清戦争のすぐ前に帰国しました。留学先のキールは軍港でしたが、すぐ近くにウィルヘルムスハーフェンという商港がありました。

ここには海洋気象台があり、休みのたびにここを訪れていた山階宮父は気象台長にかわいがられ、しばしば通ううちに気象観測の手ほどきを受け、これが一生の興味となりました。そして帰国後すぐに始めたのが、高層気象観測であり、そのために建設したのが筑波山の「山階宮気象観測所」だったというわけです。

この佐藤順一は、その後筑波山の所長をやめ、大正9年に中央気象台技師に任ぜられました。さらに、北樺太のアレキサンド・フスクでの観測を命ぜられてこの大役を全うし、大正15年(1926)にはそれらの功績を認められて大日本気象学会の幹事になっています。

このころ、富士山頂における越冬観測は、明治28年(1895)の野中到の観測以来、不可能とされるようになっていました。野中の富士山頂での観測は冬季ではあったとはいえ、9月から12月までであり、さらに極寒が続く、1~2月の冬季観測はことさら困難と考えられていました。

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ところが、佐藤は、昭和2年(1927年)、日本で初めて創設された自動車学校として知られ、五反田にあった「東京自動車学校」の鈴木靖二校長という知己を得ました。実はこの鈴木靖二は、山階宮菊麻呂殿下の運転手をしていたことがあり、山階宮が36歳の若さで逝去してからは実業家に転じ、東京自動車学校を設立していたのです。

佐藤はこの鈴木の寄付を得て、富士山頂の東安河原に観測小屋「佐藤小屋」を完成させました。そして、昭和2年(1927)の12月、若い技手3人をつれて冬季富士登山を試みました。しかし、この時は暴風雪のため失敗したため、昭和5年(1930)1月には、梶房吉という強力をひとり連れて富士山頂に向かいました。

途中八合目では滑落し、手と足に怪我をしましたが、強力の房吉に助けられて山頂にたどりつき、そこで冬季観測をはじめました。この登山においては脚気や凍傷になやまされはしたものの、予定通り1ヵ月の観測をすませ、2月に下山しました。が、この下山のときにも吹雪にあい、両足に凍傷を負っています。

しかし、この当時気象台を管轄していた文部省への報告にはこのことにはふれず、装具さえ十分ならば、59才の自分でも平地と全く同様に観測するこができるとだけ報告したといいます。これによって、野中到の観測以来、危険とされていた越冬観測が不可能であるというのは迷信だという雰囲気が生まれました。

こうして中央気象台が富士山頂に正式な観測所をスタートさせたのは昭和7年(1932年)のことでした。ただこのときにはまだ「臨時気象観測所」であり、まだ未知の領域ということでもあり、一年限りの予算で試験的観測という位置づけでした。

が、幸いにもこれは成功し、昭和11年(1936年)には常設の「中央気象台富士山頂観測所」が剣ヶ峯に完成しています。以後、平成16年(2004年)に無人化されるまでは、富士山頂における有人観測は継続され続け、その後の日本全土の気象予報の精度アップに大きく貢献しました。

佐藤順一による民間初となるこの厳冬期における富士山測候所の成功は、それ以前に気象学に情熱を傾け続けてきた野中到や山階宮菊麻呂王の努力のたまものともいえます。

ちなみに佐藤順一は、その後中央気象台の技師として復帰し、昭和16年にはすでに70才になっていたのにもかかわらず統計課の雨量掛長に命ぜられています。その後図書課という閑職に移り、一時再び統計課に勤務されたこともあったようです。しかし、昭和24年(1949)に退職したときは再び調査部図書課に戻りそこの事務員をしていました。

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退職後は気象学会の事務に専念し、役所に出られなくなってから後は杉並区高円寺の自宅で悠々自適の生活を送っており、昭和41年にはそれまでの気象学における貢献によって、日本気象学会の最初の名誉会員となるとともに勲四等に叙せられ、旭日小綬章が授けられています。

その4年後の昭和45年(1970)脳軟化症により亡くなりました。享年97才の大往生でした。

この佐藤順一を富士に誘ったともいえる先人の野中到のほうですが、彼はその後も、富士での観測記録を含む著書「富士案内」などを観測するなど、引き続き富士山に関わり続けました。が、その一環で、1905年(明治38年)、経営危機にあった御殿場馬車鉄道を買収し、「野中御殿場馬車軌道」として個人で運営を始めました。

野中がこの会社を始めたのは、かつての富士山での観測所の建設にあたり、麓の御殿場の人々の手厚い援助を受けたことの恩返し手の意味があったと思われ、また当時強力として、気象台の富士山観測のための資材や食料運搬にあたっていた人々のための便宜を図る意味もあったと思われます。

更には年々増加する富士登山者の足としての鉄道馬車の将来性を見越していたのでしょう。この御殿場馬車軌道は、山中湖側から籠坂峠を越えて須走に至るルートと、御殿場市内から須走に至るルートがあったようで、御殿場駅前から、その北西に位置し富士登山口の一つとなっていた須走村に至るまでの工程がこの馬車鉄道によってかなり短縮されました。

全盛期には客車32両、貨車24両を有し、年間7万人近い人を運んだ時期もあったようですが、その後、バスやトラックが普及したため馬車鉄道は衰退。1928年(昭和3年)に全線が休止し、1929年(昭和4年)に会社は解散、御殿場馬車鉄道は消滅しました。

最愛の妻、千代子が死去した1923年(大正12年)にはそれでもまだ年間4万人ほどの利用客がありましたが、千代子の死とともに、野中到の事業も縮小していった恰好となります。野中はその後、30年あまりを東京で生き、1955年(昭和30年)に亡くなりました。88歳であり、53歳と早くして亡くなった千代子と比べればかなりの長寿でした。

御殿場馬車鉄道の事業を辞めて以降、何をしていたのかは何を調べても出てこず、よくわかりません。が、少なくとも気象関係の仕事はしていなかったようです。最晩年は神奈川県の逗子市に住んでいたようで、この逗子市の海岸付近にある浪子不動堂の上の高台に住んでいたことなどが確認できました。

その近くに、披露山公園というのがあり、その眺望の良さからも逗子市民をはじめ多くの人々に愛され親しまれています。ここからは西に江の島を望み、相模湾そして天気が良ければ雄大な富士山が一望できるそうで、野中はここから富士山を望みながら、往時のことを思い出しつつ余生を送っていたのでしょう

野中到の墓所は東京文京区の「護国寺」にありますが、ここには千代子が先に埋葬されており、二人は仲良く同じ墓に眠っています。この護国寺には富士浅間神社を祀る富士山があるので有名だそうで、小高い土を持った程度ですが、ここに登ると富士山登頂と同じ意味があるそうです。

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野中到が最初に始め、新田次郎がレーダー建設によってその後の本格運用の端緒を開いた富士山の気象観測もまた、その後縮小されていきました。

まず平成11年(1999年)に富士山レーダーによる観測が廃止され、その後平成16年(2004年)10月1日から無人化されました。しかし、レーダー撤去後も観測建屋は残り、平成20年(2008年)10月1日にこれを富士山特別地域気象観測所と名称を変更。

現在は、研究者の組織である「富士山高所科学研究会」が中心となって設立したNPO法人「富士山測候所を活用する会」が、夏季期間に測候所の庁舎施設を借用し、様々な研究活動を行っています。が、無論、かつてのような有人による通年観測は行っていません。

この観測所での観測では、昭和41年(1966年)9月25日、台風26号がすぐ西を通過した際、最大瞬間風速の日本記録の91.0m/sを観測するなどの希少なデータなども多数得られました。

しかし、気象衛星の発達や、長野レーダー・静岡レーダーの設置などにより、富士山でのレーダー観測が必要性を失ったことが大きく、また観測装置が発達したことにより、現地での人手による観測の必要性は失われました。

この有人観測中、とくに問題になることが多かったのは測候所運用の鍵ともいえる電源の問題だったそうで、旧陸軍が設置した電線の劣化に端を発し、老朽化し続けるその他の施設のメインテナンスは大変だったらしく、このほか観測員の排泄物の処理などにまつわる環境汚染なども問題視されていたようです。

また、富士登山をしてくる一般登山者の遭難の可能性がある場合、観測員がその対応に追われるといったこともあったようです。とくに冬季の富士に禁止されているにも関わらず登頂してきて、観測所に宿泊を頼む輩もいたようで、その際当惑したことなどを新田さんが何かの随筆で書いていたように記憶しています。

ちなみに、1966年3月5日に起こった英国海外航空機空中分解事故は、富士山御殿場市上空で起き、乱気流に遭遇した同機は空中分解後、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下し、乗客乗員124名全員が犠牲になりました。その瞬間を、この富士山測候所職員が目撃していたそうで、その後墜落原因を明らかにするためにその目撃談が役立ったといいます。

ちなみにちょうどこの年に、新田さんは気象庁観測部測器課長を最後に依願退職しており、このため彼自身はこの事故を目にしてはいません。あるいは何かの折に書こうとこの事故に関するネタを集めていたかもしれませんが、私が知る限りはこれにまつわる随筆などもないようです。

この英国海外航空事故は、この年1966年に5連続で起こった航空機事故の3番目の事故であり、この年は丙午の年だったということも印象深いのですが、このことについては、また別の機会に書くことにしましょう。

今年も富士登山の季節が終わろうとしています。今宵も延々と山頂へと続く灯りが夜通し見えることと思いますが、ここ数日の寒気によってかなり富士山頂も寒かろうと思われます。無事下山されることを祈ります。

さて、みなさんは今年、富士山の初登頂を果たせたでしょうか。

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