9月も中旬を過ぎ、夜になって富士山方向を見ても、灯りが見えなくなりました。
夏山登山の季節が終わり、夜間に富士山を目指す弾丸登山の登山者がいなくなったためですが、何やら花火が終わったあとの夜のようで、これはこれで何か寂しいかんじがします。
こうなると、次は富士の初冠雪はいつか、ということになりますが、平年では9月30日ころとなっています。が、去年はこれより19日遅く、10月19日でした。しかし、その前の一昨年は、9月12日と早く、今年もこの年と同じくらい涼しそうなので、そろそろ頂に白いものが見えてもおかしくはありません。
一方、富士山頂の富士山測候所では、2004年に測候所が廃止されるまで、初雪の平年値は9月14日でした。また、最も早い初雪は1963年の7月31日です。遠目には見えなくても山頂ではかなり早くから雪が降るのでしょう。
逆に最後に雪の降る「終雪(しゅうせつ)」の平年値は7月11日だそうで、こうしたデータからも富士山頂ではほとんど一年中雪が降っていることがわかり、いかにその環境が苛酷かが想像できます。
ましてや、真冬の富士の頂はほとんど死の世界かと思われますが、そんな厳冬期でも、富士山レーダーが運用されていたころには、ここに気象庁の職員が常駐していました。
この冬富士山測候所への「通勤」に関して、どんな状況だったのか調べてみると、この当時の気象庁の職員さんの関係者らしい方の記録が掲載されているHPがみつかりました。
その内容を少し引用させていただくと、富士山頂に向かう観測要員はまず、登山の前日より、富士山南東部、標高1500mほどのところにある御殿場口の太郎坊中腹の避難所に入ります。ここで翌朝4時には起床、このとき、山頂の気象データをその日登山が可能かどうかが決められます。
ここから歩いて登るのかと思いきや、そこはちゃんと「通勤バス」があり、これはこうした雪山を上るために設計された雪上車のことです。6時前にこの雪上車で太郎坊を出発。しかし、これで山頂まで一気に、というわけにはいかず、五合目で雪上車を降ります。ここからは道が急峻であるため、さしもの雪上車も登ることはできないためです。
この位置で既に標高約2600m。ここから帰っていく雪上車もまた、平均斜度25度の急坂を下ることとなり、下山もまた命がけです。もしもアイスバーンなどがあって滑落したら、雪上車ごとあの世行きです。
この五合五勺から山頂までは無論、徒歩です。ただ、ルートには鉄製の安全柵が設置されていて、これは所員の通勤確保のため作られた物です。現在も残っているらしく、この当時もそうですが、現在も一般登山者が利用しているようです。
2時間ほどで中間地点の標高3200mほどの7合8勺避難所に到着。食事や水分補給、高度順化も含め、ここで約1時間の休憩をとります。ここからは1時間ほどで山頂に到着するようですが、この最後の坂道はかなり斜度がきつくなっており、職員から地獄坂と呼ばれていたようです。さらに頂上に着いても、剣ヶ峰にある測候所に至る道もまた急坂です。
この測候所は、観測装置が置いてある観測棟とは別に居住棟もあったようで、これに付随して15トン水槽がふたつあり、ここに夏は天水、冬は雪や氷を入れヒーターで溶かして使っていました。トイレやキッチンのほか娯楽室、職員の個室も完備されており、ちなみにトイレは洋式ウォシュレット付き水洗トイレでした。
観測棟には、風向、風速、気温、露点温度、気圧、日射等のデータを観測する装置がひととおりあり、これらのデータを衛星通報システムを使って送っていました。また、データ整理などのためのパソコンも完備されていました。
この測候所が運営していた富士山レーダーは、これへの電源の確保のため、燃料を燃やしてタービンを回し、これから電気を取っていたようです。燃料は無論、雪の少ない夏の間にクローラーなどで上げておくのでしょう。これから6600Vの高圧電源が得られ、各棟の空調設備もこれによって賄われていました。
レーダー観測が行われていた当時は、5人一組を基本として、1回の勤務は約3週間。班長、気象観測、レーダー、通信、調理、とそれぞれ役割が決められていたそうで、基本的には観測は自動で行われるため、職員の主な仕事は各機器の保守点検でしたが、外部の観測機器の着氷落としなどの危険作業もありました。
また、強風や落雷などの恐怖もあったそうで、何もなければ平穏に過ごせるものの、必ずしもそうはいかず、つらいことも多かったようです。また、冬季の交替時の「通勤」はやはり危険なものであり、常に命がけだったといいます。
こうした努力もあり、1932年(昭和7年)に、外輪山南東の東安河原に公設の臨時富士山測候所が開設され、通年測候が行われるようになって以降、2004年(平成16年に完全無人化されるまで、富士山測候所では72年にもわたって貴重な気象データが蓄積されました。
観測所の廃止後、ここは2008年(平成20年)10月1日に「富士山特別地域気象観測所」と名称を変更。時に研究目的で使われることもあるようですが、平時は、観測棟や居住棟などは完全に閉鎖されています。
従って、現在は、仮に冬季に富士登山したとしても、避難スペースも有りませんし、仮に窓を壊して中へ入ったとしても、建物は機密性が高く空調が停止状態なので、中に入ると酸欠の恐れがあるそうです。
この富士山へ通勤する気象庁職員の麓における支援拠点は、観測初期の頃から御殿場太郎坊に置かれていました。臨時測候所が開設されてから9年後の昭和16年(1941年)に開設され、ここを拠点に御殿場口登山道を通って通勤や物資搬送が行われていました。
現在、この太郎坊にも種々の観測施設があるようですが、富士山頂測候所と同じく無人です。ただ、測候所に隣接して建てられていた避難小屋はまだ残されたままだそうで、「太郎坊避難所」として、現在も富士山測候所を利用する研究者達は、ここを出発点として使用しているようです。
この「太郎坊」という地名ですが、これは現在の太郎坊より北側に位置する富士山須走口で祀られていた「天狗太郎」を、明治時代初期ごろに御殿場口で祀るようになり、そのために建てられた神社を太郎坊と呼んだことにちなみます。当時は神社といいながら登山やスキーのための基地になっていたようです。
その後、この神社は富士山北側の吉田口五合目にある「小御嶽神社」に遷座されたか合祀されたかで消滅したようです。が、名前だけが残り、これゆえにこの地一帯が太郎坊と呼ばれるようになったものです。が、とくに地番や境界があるわけではなく、太郎坊の厳密な範囲ははっきりしていません。
1970年代にはリフトを備えた本格的なスキー場である御殿場市営スキー場も営業されていましたが、やや張り出した尾根上の地形で、所々で火山砂が露出しているような地形のため、雪崩が起こりやすく、このためスキー場は閉鎖され、今も冬季の太郎坊一帯への出入りは禁止されているようです。
御殿場市を見下ろす位置であることから、地上波アナログテレビ放送の御殿場中継局が設置されており、以前のブログ「丙午の空」でも書いたように、1966年にはここで英国海外航空機が墜落し、その慰霊碑が建てられています。
澄んだ空気を持つことから夏季にはアマチュア天文家がここを訪れ、このため天文ファンのメッカともなっているそうで、1994年には、ここで群馬県出身のアマチュア天文家が小惑星を発見し、これを「太郎坊」と名付けました。
発見したのは、「小林隆男」さんという方で、その後も会社に勤める傍らで天体捜索を続け、「のぼる」や「八咫烏」といった多数の小惑星を発見しており、その数は2341個にも上るそうで、これは日本の天文家としては最大の発見数です。
富士山周辺においては、太郎坊以外にもあちこちの天体観測ポイントがあり、ここでも小林さんは数々の小惑星を発見しており、これらには「田貫」や「朝霧」といった富士山周辺の地名が命名されています。
この「小惑星」ですが、ほとんどの小惑星は、太陽からの距離が約2~4天文単位の範囲に集まっているといいます。一天文単位は、地球と太陽との平均距離であり、その2~4倍とうことは、木星軌道と火星軌道の間に相当し、この領域は「小惑星帯」と呼ばれており、多くの天文家が発見してきた小惑星はその多くがここに由来します。
1781年に天王星が発見されて以降、この小惑星帯にある未知の惑星を探索する試みが行われ、1801年にはケレスという小惑星が、また翌1802年にパラス、1804年にはジュノー、1807年にはベスタといった具合に、次々と小惑星が発見されるようになりました。
ただ、この当時はまだ小惑星という言葉はなく、天王星や海王星と同じように惑星(planet)と呼ばれていました。しかし、いずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星と区別される必要性が生じ、「小惑星(asteroid)」という用語が、1853年にはじめて考え出されました。
以後、軌道が確定して小惑星番号が付けられた天体は約33万3個にのぼりますが、これ以外にも直径1km程度、ないしそれ以下の「小々惑星」については未発見のものが数十万個あると推測されています。
また、番号登録されたもののうち、既に命名されたのは約17000個ほどに過ぎません。この小惑星の名前については、数ある天体の中では唯一発見者に命名提案権が与えられており、上述の太郎坊なども発見者の小林隆男さんの希望でつけられたものです。
発見者によって提案された新小惑星の名前は国際天文学連合(International Astronomical Union:IAU)の小天体命名委員会によって審査されます。
名前はラテン語化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項のようですが、これはその昔は科学技術が発展していた欧州の科学者の特権ということだったためでしょう。が、現在では日本も含め英語圏意外の国の発見者も多いことから、必ずしも守られてはいません。
ただ、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前、既にある小惑星と紛らわしい名前は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止などの基準があるそうです。
従って、「ムシャ&タエ」という小惑星名は付けられますが、我が家の愛猫を冠した「小惑星テン」というのはダメ、また、「おっぱい」や「あそこ」は無論、「イスラム国」なんてのは絶対ダメ、ということになります。
ところで、小惑星といえば、2003年に打ち上げられた日本の探査機「はやぶさ」は、この小惑星のひとつ、イトカワに2005年に着陸し、サンプルを採取したのち、2010年に地球へ無事帰還し、サンプルを納めたカプセルからは、イトカワ由来の微粒子が発見されました。
これは世界初の小惑星からのサンプルリターンであり、現在も容器内の微粒子の分析が続いているようです。が、このはやぶさでは、本来の目的であった岩石の採取を行うことはできず、またイトカワを自由に動き回るローバーの投入もしくじるなど、数々の失敗を重ねており、そのことは以前書いた、「はやぶさの失敗」でも詳しく書きました。
このはやぶさ1での失敗を教訓に、後継器として開発された「はやぶさ2」の打ち上げが、この年末に予定されており、いよいよその時期が迫ってきました。詳しい日時まではまだ公表されていませんが、2014年12月末にH-IIAロケットで打ち上げ予定です。
先月の8月31日(日)、JAXAは、相模原キャンパス内で、の報道関係者向けに、の「はやぶさ2」機体公開が行われ、と同時にその性能が明らかになりました。
新聞記事などによれば、基本設計は初代「はやぶさ」と同一ですが、「はやぶさ」の運用を通じて明らかになった数々の問題点が改良されています。
例えばサンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチ・アンド・ゴー」方式であり、はやぶさ1では、着陸と同時に、弾丸程度の大きさの弾を撃ち込んで舞い上がった砂や岩石を吸引する、といったものでしたが、今回のはやぶさ2では、その打ち込む弾が格段に大きいのが特徴です。
この弾は、直径約20cm、重さ約10kgの円筒形をしており、「プロジェクタイル」と呼ばれます。中には爆薬を内蔵しており、探査機本体から切り離され、小惑星の表面で起爆させ、爆圧によって変形した金属塊を目標天体に突入させ、直径数メートルのクレーターを作り、これによって舞い上がった砂礫を採取します。
はやぶさ1に比べて格段に金属塊の大きさが大きいことから、小惑星表面だけでなく、小惑星内部の砂礫の採取も可能になるといい、その秘密はこのプロジェクタイルの形状が「はやぶさ」の弾丸型から円錐型へと変更されたことです。頂点の角度は90度に設定されており、これにより弾丸型よりも効率的な試料採取が可能となります。
ニュース映像でJAXAによるその実験の模様を見た人も多いかと思いますが、この公開実験では、はやぶさ2の射出機と同じタイプのものを使って、10mほど先の岩盤のようなものへの弾丸の打ち込みが行われました。私もこれを見ましたが、バズーカ砲による射撃訓練と見まがうかのような光景で、当たった先の岩盤は見事に砕け散りました。
また、この「射撃」によって開けられたクレーターにもはやぶさ2を軟着陸させ、粘りのあるシリコンで砂を採取する方法も考えられており、JAXAはこれら二つの方法を用意することでより確実に試料を取ることができるとしています。
さらには魚眼レンズを装備したカメラが搭載され、サンプリングの様子を撮影する他、巻き上げられた粒子の光学観測もはやぶさ2内で行うことでできるといいます。
今回目標とする小惑星体は、イトカワのような名前がまだ付けられていないもので、「1999 JU3」と記号で呼ばれています。これまでの国内外の観測結果からわかっているのは、自転周期は約7時間半と、これは約12時間の自転周期を持つイトカワよりも速いこと、直径は約920メートルで約540メートルのイトカワよりも若干大きいことなどです。
また形はイトカワとは異なり、割と球状に近い形をしており、強いていうならサトイモに近い形であること、また、「含水シリケイト」という、水を含んだ鉱物の存在する可能性があることが観測によりわかっています。
これは、この小惑星からの光のスペクトル分析などによって確認されたものですが、ただ含水シリケイトの存在は観測によって発見されたりされなかったりしているため、実際に存在するかどうかは不確定なようです。が、もしこうした鉱物が発見されれば、小惑星のような星にも水の存在が初めて確認されたことになります。
この1999 JU3の探査においては、はやぶさ1でイトカワに着地させることが出来なかった着陸ローバー「ミネルヴァ」による表面探査も行われます。
しかも、この「ミネルヴァ2」は1基ではなく、3基も搭載されているといい、これに加え、独仏で開発された「マスコット」というローバーも投入予定です。数さえ多けりゃいいのかと突っ込みたくもなりますが、何がなんでもこの小惑星の表情を捉えてやるんだという開発者たちの意気込みは伝わってきます。
このほか、はやぶさ2本体のはやぶさ1からの変更点としては、先代が航行途中にさまざまなトラブルに見舞われたことを踏まえ、安定航行を目的としてさまざまな変更がおこなわれました。
初代では信頼性強化の改造が裏目となり3基中2基が運用不能となったリアクションホイールも3基から4基へと増加され、なおかつ最後の1基はなるべく着陸時までは温存する運用を想定されているそうです。
リアクションホイールというのは、はやぶさ2の方向を、イオンエンジンなどの化学推進装置を使わずに変化させる姿勢制御装置で、1つの回転軸に対して、1つのフライホイール(円盤状のはずみ車)を電動モーターで回転駆動します。ほんの少しだけ機体を回転させるのに用いられ、これによっても燃料などを消費せずに済みます。
また、はやぶさ2では故障の多かったはやぶさ1でのパラボラアンテナに代わり、アレイアンテナを使用します。小さなアンテナを平面状に多数配列したもので、テレビアンテナをもう少し細かくしたものを想像してもらえれば良いと思います。
個々のアンテナの出力は微弱ですが、実際には複数のアンテナからの出力が合成されるので、結果として大出力が得られます。湾岸戦争で活躍したパトリオット地対空ミサイル用のレーダーや、アメリカ空軍の最新鋭の戦闘機のレーダー、国産の戦闘機・三菱F-2でも使われている高性能アンテナです。
さらにはこのアンテナでは、高速通信が可能であり、例えば万一自律判断によるタッチダウンが不可能になった場合などで、指令誘導をする必要に迫られた場合、迅速な指令を伝えることによって、すばやい姿勢制御が図れます。
はやぶさ1では、地球との通信を行うパラボラアンテナが3種備わっており、探査機の姿勢や電力状況によってアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていました。ところが、原因不明の故障によってはやぶさが意図とせずにイトカワに着陸してしまったときが、このアンテナの受信状態を切り替えるときでした。
このため、地球からの、「どうしたんだ、何をやっているんだ?」という問いかけをはやぶさは受信できず、地上局側ははやぶさの着陸の事実を把握できていなかったという失敗がありました。が、今回は、アンテナそのものを変え、高速通信もできるようになってこのような極限時においても、速やかに指令運用を図ることが出来るようになりました。
こうした高性能の通信手段を持つことで、はやぶさ2からの細かい信号も受信できるようになり、この情報から万一化学燃料の配管に破損などがあった場合の再検討や、イオンエンジンやリアクションホイールの制御なども細かく行えるようになり、搭載した機器の細かいモニタリングや指令の伝達などに関する大幅な信頼性向上が図れるようになりました。
また、主エンジンである、イオンエンジンの推力も8.5mNから10mNへと向上した改良型が使用されており、このために従来1機しか搭載できなかったローバーの数を増やすこともできるようになり、また地球との往復時間の短縮をも期待できるようになりました。
ただ、目標とする1999 JU3はほぼ球形で、自転軸が黄道面に対して横倒しに近く、それが垂直でピーナッツ型をしていたイトカワでは、12時間の自転毎に天体全面を観察できたのに比べ、この自転軸と形状が災いして一日かけても全面を観察できにくいそうです。
このためイトカワでは観測が3ヶ月に過ぎなかったものを、今回は6倍の1年半を費やして調査する事になるということです。しかし、2014年に打ち上げられた場合、2018年に 1999 JU3に到着後、ここでの観測期間も含め、2020年末に地球へ帰還するまでほぼ6年で帰ってくることができます。
はやぶさ1の場合は、打ち上げが、2002年9月で、カプセルが大気圏に突入したのが2010年6月ですから、7年と9カ月かかっており、今回は惑星本体の観測期間が延びるにも関わらず、エンジンが改良されたことでかなり短い時間で帰ってくることができるわけです。
この対象となる小惑星1999 JU3は、現在軌道が判明している46万個の小惑星のうちスペクトル型が判明している3000個の物の中から選ばれており、これらの中からはやぶさクラスの推進力で探査可能な小惑星が選ばれ、さらにタッチダウン運用が可能な自転6時間以上の対象としてほぼ唯一残った対象だったそうです。
また、1999 JU3に短時間で効率的に到着するためには、2014年という年は極めて望ましいタイミングにあるといい、この機会を逃すと次回と同様な条件が整うのは10年後となるということであり、今回のフライトはまたとない希少なチャンスということになります。
そもそもはやぶさ2計画は、新たな生命の起源の存在を探すために企画されたものです。
ヴィルト第2彗星とそのコマの探査を目的として1999年2月7日に打ち上げられ、約50億kmを旅して2006年1月15日に地球へ帰還した探査機スターダストは、この彗星の尾から試料を持ち帰り、その後の分析でこの中からは「アミノ酸」が発見されました。
発見されたのは「グリシン」といい、生命体がたんぱく質を作るのに必要なアミノ酸の一種で、中に含まれる炭素の同位体比率が地球の炭素と異なることも確認され、地球上の生命の起源を宇宙に求める説が裏付けされたと、この当時話題となりました。
1999 JU3は「C型小惑星」と呼ばれる炭素でできた小惑星で、有機物が存在する可能性が高いといわれており、もし1999 JU3から採取されたのと同じ組成の有機物を含む隕石が地球で確認された場合、こうした小惑星と生命の起源との関連が考えられるといいます。
先月末にJAXAの相模原キャンパスで公開されたはやぶさ2の機体には、太陽電池パネルや地球との通信を担うアンテナ、小惑星から持ち帰るサンプルを入れるカプセルなどが既に取り付けられており、ほぼ完成形だということです。
今後、打ち上げ場がある鹿児島県・種子島宇宙センターに輸送され、今年12月に日本の主力ロケット「H2A」で打ち上げられます。
打ち上げ後、太陽を周回する軌道に入り、およそ1年後の来年12月ごろ、地球の重力を使って加速しながら進路を変更し、小惑星に向かう軌道に入ります。目的の1999 JU3に到着するのは、打ち上げから3年半後の2018年6月ごろの予定です。
その後、およそ1年半にわたって小惑星の近くにとどまり、さまざまな科学観測を行い、この間採取した石や砂をカプセルの中に詰め込んだ「はやぶさ2」は、2019年12月ごろ、小惑星を離れて地球への帰途に就きます。
そして東京オリンピックが終わったあとの2020年12月、長い旅路を経て小惑星の石や砂が入ったカプセルを地球に帰還させることになっています。その際、カプセルはオーストラリアの砂漠に落下させる計画ですが、「はやぶさ2」自体は大気圏に突入することなく、再び地球を離れて宇宙へ飛び立つそうです。
その先のミッションについては、JAXAは何も公表していません。この時点でまだたくさん燃料が残っていれば、新たな探査に出す可能性もあるのでしょうが、総飛行距離52億キロの旅のあと、さらにその工程を伸ばすのはなかなかに容易ではないでしょう。
おそらくは地球近傍の月とか、地球そのものの観測に使う、といったことが行われるのかもしれません。が、1977年に打ち上げられ、現在も運用されているボイジャー1号のように、地球から遥か彼方の星間空間を目指すために使うことができるのなら、それもまたいいかもしれません。
私が生きている間に、はるかかなたの宇宙空間からはやぶさ2を通じて宇宙人の声が届く……そんな夢をみながら、今日の項は終わりにしたいと思います。