少し前に、「芙蓉の人」こと、野中千代子について書き、このとき、最後のほうで、1966年3月5日に発生した起こった英国海外航空機空中分解事故について少し触れました。
この事故は英国海外航空(BOAC)の世界周航便のボーイング707が富士山付近の上空付近約4500mを飛行中、乱気流に遭遇し、右翼が分断されるなどして機体が空中分解し、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下したもので、この事故でアメリカ人観光客を中心とした乗員乗客124名全員が犠牲になる大惨事となりました。
調べてみると、この太郎坊というのは、表富士周遊道路(富士山スカイライン)と御殿場口登山道分岐付近から、さらに御殿場口登山道五合目までの地域で、だいたい標高1300m~1500mくらいのところのようです。
機体は墜落後、その前部が炎上しており、機首付近は本来燃料タンクがないので炎上しないはずでしたが、乱気流遭遇時に主翼付近のタンク隔壁を燃料が突き破り機首付近に溜まっていたのが原因でした。
墜落の瞬間は、この当時の気象庁の富士山測候所職員が目撃しており、この測候所職員以外にも陸上自衛隊東富士演習場の自衛隊員、路線バス運転手など多くの目撃者がいて、その後墜落原因を明らかにするためにその目撃談が役立ったといいます。
彼等の多くが地元の静岡県警察に通報した上に、住宅地からもそれほど遠くなかったために、早いタイミングで警察官や消防隊員が墜落現場に駆けつけ現場の保存や捜索にあたることができました。
この墜落を目撃していた陸上自衛隊員は、直後に事故現場に向かい、現場保存及び捜索にあたっています。また、事故機の墜落時刻に前後して、この日平和台野球場で行われ、NHKラジオ第1放送で中継された、プロ野球オープン戦西鉄ライオンズ対読売ジャイアンツの試合の模様を偶然聴いていました。
そして、この自衛隊員が「1回表の巨人の攻撃で長嶋、森が出て6番打者の吉田の打席のとき、飛行機の主翼の両端あたりから白く尾を引き始めた」と証言したことを基に、本件事故捜査本部が当該中継の録音テープを分析した結果、正確な墜落時刻が判明しました。14時15分です。
これらの目撃証言に加えて、乗客の1人が持っていた8ミリカメラが回収され、この中には、事故直前の機内から山中湖周辺の光景が撮影されており、画面が一瞬(2コマ)飛び、機内と思われるひっくり返った客席と引きちぎられたカーペットが映ったところで映像は終わっていました。
事故機に搭載されていたフライトデータレコーダーは、発見から間もなく回収されましたが、墜落時の火災で破壊されていました。しかし墜落までの光景については、カメラに納められた記録もあり、また自衛隊員や気象著職員はじめ多くの目撃証言とともに事故原因究明に大きく寄与しました。
さらに富士スピードウェイで行われていた自動車レースを取材中の平凡パンチのカメラマンらによって、空中分解し墜落する機体の写真も撮影されており、これらの記録から、この機の墜落原因は中国大陸からの強い季節風のため従来の予想を大幅に上回る強い「山岳波」によるものと判明しました。
上記の8ミリカメラ映像からは、この強い乱気流により、同機のボーイング707の設計荷重を大幅に超える7.5G以上の応力がかかっていたこともわかりました。これにより同機は垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落、主翼から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落に至ったと考えられました。
山岳波は富士山のような孤立した高い山の風下が特に強くなるとされています。またその影響は標高の5割増しの高度まで及ぶといわれており、このため当日の富士山の場合、南側かつ高度5800m以下の飛行は特に危険であり、事故機の飛行ルートはまさにその範囲に該当していました。
また、事故の原因が、山岳波の中でも特殊な「剥離(はくり)現象」であると気象庁気象研究所が発表したのは、事故から4年たった1970年4月でした。事故当時はロンドン大学の研究者らが発表していた「山体のかなり上部を波状に流れる気流」が原因と見られていました。
しかし、この気流は数十秒から数分の長い周期で流れる方向が変わるのに対し、目撃者の証言や事故の写真撮影などから、気象研究所は「もっと短い周期で方向が変わる未知の空気の流れがあるはず」と研究を進めた結果、山体表面近くの気流が地表から剥がれる時に渦を巻き、それが山体から遠くまで続くことを発見しました。
これが事故原因である事を突き止め、「剥離現象」と名付けて発表したわけですが、しかし、機長がなぜ有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは未だに判然としません。ただ、この機は、ホノルルから福岡へのフライトにおいて濃霧によってその到着がかなり遅れていたことがわかっています。
このため、福岡空港へ着陸後、当日朝に羽田向かう際に、出発が20時間以上遅れており、このことから、飛行距離を短縮させて早く次の目的地に到着したかったために、富士山上空を通過したのではないかと推定されました。
また、同機にはアメリカ人の団体観光客が多かったため、機長が乗客に富士山を見せたいと思ったこともこのルートを通った原因と考えられます。事故以前に同じ911便(別の機長)が何度か富士山上空を経由して飛行したことも確認されています。が、事故機機長が富士経由の飛行を決断したはっきりとした理由は現在に至るまで明確化できていません。
現在も富士山上空を飛行する民間航空ルートは存在しますが、必ず計器飛行方式で飛行し、なおかつ充分な高度をとっているため墜落する危険性は当時よりかなり低いといえます。それでも、富士山周辺での乱気流の発生が予想される際には富士山が見えないくらい大きく迂回するコースを取ります。
特に羽田空港進入のために富士山の南側を飛行する際には八丈島付近まで南下することがあるそうです。
この英国海外航空事故は、この年1966年に起こった航空機事故の3番目の事故です。この当時も今もそうですが、航空機事故というのは、1度発生すると何度も重ねて起こる場合があり、この年もまた再び事故が起こるのではないか、とその可能性が取沙汰されるとともに、一方ではもうこうした大きな事故は起きないだろうと、人々は考えました。
この年最初に起こったのは、全日空機による羽田沖墜落事故です。同機は、2月4日に午後6時に千歳空港を出発し、目的地である羽田空港へ向かった全日空のボーイング727-100型機であり、東京湾の羽田空港沖での墜落し、合計133人全員が死亡、単独機として当時世界最悪の事故となりました。
導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となったこともあり、世界中から注目を集めました。
事故後多くの機体の残骸が引き上げられ、これは機体の90%近くに及び、当時の運輸省の事故技術査委員会には、FAA(アメリカ連邦航空局)、ボーイングなどの技術者を主体とした製造国のアメリカ側の事故技術調査団も加わって事故原因についての綿密な調査が行われました。
この結果、同機は、東京湾に差し掛かる際、計器飛行(IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行(VFR)により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択していたことなどが判明しました。
通常の着陸ルートをキャンセルし、東京湾上空でショートカットする着陸ルートを選択した理由は不明ですが、当時は現在のように計器飛行方式(IFR)が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式に切り替える判断が容認されていました。
そのため機長の中には、航空路を気にせず、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航し、なかには東京・大阪27分、東京・札幌46分といった”スピード記録”を打ち出す競争を行うような人たちもいたといいます。
羽田空港に向けて着陸進入中の午後7時00分頃の「現在ロングベース」との通信を最後に、突如通信を絶ちました。航空機が着陸する際、空港が混んでいる場合には、後続機との間隔を確保します。この場合、着陸する側の滑走路末端からの飛距離でこの間隔を調整しますが、その時間を短くする方がショートベース、長く飛ぶ場合がロングベースです。
従って、同機はほぼ着陸寸前の状態にあったことがわかり、その後空港管制室が「聞こえるか、着陸灯を点けよ」など繰り返し連絡を取ろうとしたものの、後続機が平行滑走路に次々と降り立っているにもかかわらず着陸灯も見当たらず、また返答もありませんでした。
このとき、付近を飛んでいた別の飛行機の乗員から東京湾で爆発の閃光を目撃したとの通報もあり、どうやら同機は着陸途中に何等かの理由で、羽田沖に猛スピードで激突したことが想像されました。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での頸骨骨折、脳・臓器損傷によるものも多く、他は溺死によるものでした。
その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされました。
このうちの第3エンジンの脱落説は、この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしていたことを理由とするものです。
このため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていましたが、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、この説が浮かび上がりました。
また、スポイラーの誤動作説は、「誤ってスポイラーを立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにスポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」という説です。
スポイラーとは、主翼上面に装備するエアブレーキのことであり、降下時に旅客機がスピードを落とすためのものです。この装置の故障は、地面すれすれに着陸しようとする航空機にとって致命的な事故につながりかねないものです。
しかし、いずれもがはっきりとした根拠となる証拠を見つけることができず、また同機にはコックピットボイスレコーダー、フライトデータレコーダーともに搭載されていなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆しつつも最終的には原因不明と結論づけました。
この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの装備が義務づけられるようになりました。また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になりました。
この年、これに次いで起こったカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故は、英国航空機の富士山上空での空中分解事故の前日の3月4日に発生したもので、香港発東京経由バンクーバー行きのカナダ太平洋航空402便が羽田空港への着陸直前に墜落した航空事故です。
一か月前には全日空機の事故が発生したばかりであり、さらに翌日には英国機の空中分解事故が発生したため、これら一連の事故は日本社会に大きな衝撃を与えました。
カナダ太平洋航空402便ダグラスDC-8-43は香港発東京・羽田空港とブリティッシュコロンビア州バンクーバー、メキシコシティを経由してブエノスアイレス行きという環太平洋航空路線として運航していました。
3月2日から日本各地は濃霧に覆われており、陸海空の交通機関が麻痺に陥っており、事故当日の午後4時ごろから羽田空港周辺にも濃霧が広がり、視界不良のため国内線の運航がほぼストップしており、羽田空港へ着陸する国際線到着便も板付飛行場(福岡空港)などへの代替着陸や出発見合わせを余儀なくされていました。
402便は香港啓徳空港を離陸し、羽田への着陸へ向け降下を開始しましたが、悪天候のため空中待機することとなり、15分以内に天候回復しない場合、代替空港として台北松山空港(愛媛県のではなく)に着陸することを決定しました。
ところが、その後、管制から視界が回復したことが伝えられたため、同機は羽田への着陸を再び決め、天候が悪かったため、地上誘導着陸方式により進入しました。この方式は自動着陸や計器飛行ではなく、地上レーダーに基づいた方位・高度の指示を管制官が口頭で伝達する方式で、操縦は乗務員がマニュアルで行わなければなりませんでした。
こうして402便は機長によるマニュアル操作で着陸態勢に入りましたが、着陸直前になって管制官の指示よりも高度が下がり始めたため、管制官はすぐに水平飛行をする旨の警告を与えました。
が、パイロットはこれを無視し、滑走路の灯火を減光するように要求したのみで降下を続けました。このことから、パイロットは着地後の機体制御に関心が向いており、管制官からの呼びかけに耳を貸せるような状態ではなかったことが想像できます。
結局その直後の午後8時15分に、402便は右主脚が進入灯に接触し次々に破壊しながら進行し護岸に衝突、激しく大破し炎上しました。この事故で運航乗務員3名、客室乗務員7名、乗客62名の合わせて72名のうち、乗務員全員と乗客54名の合わせて64名(うち日本人5名)が死亡し、乗客8名が救出されました。
乗客の中にはドイツ人乗客のようにほぼ無傷で脱出した者もおり、事故の衝撃ではなく火災に巻き込まれて犠牲になった者が多数であったようです。
同機もまたボイスレコーダーやフライトレコーダーは積んでおらず、事故調査委員会は羽田空港のレーダー記録と、無線交信の声紋分析を行うことにより事故原因を分析した結果、乗員がフランス系カナダ人であったための訛りの影響などで、管制官にその意図がはっきり伝わらなかった可能性などが浮かびあがりました。
また、3月2日から日本各地は濃霧に覆われており、陸海空の交通機関が麻痺に陥っていました。事故当日の午後4時ごろから羽田空港周辺にも濃霧が広がり、視界不良のため国内線の運航がほぼストップしていました。このため、調査委員会としては、事故の原因は操縦乗員がこうした悪天候下で強行着陸したことが墜落原因としました。
なお、同機は進入の最終段階になって異常に高度を下げており、これは、パイロットが早く滑走路を視認するために意図的に高度を下げていたことなどが、無線通信の分析結果などからわかりました。同機の高度があと30cm高ければ、進入灯に接触しなかったといわれています。
この翌日、冒頭で述べた3月5日の、国海外航空機空中分解事故が起こったわけですが、しかし、この年の事故ラッシュはこれでも終わりませんでした。8月26日には日本航空羽田空港墜落事故が起き、これでこの年の日本国内における航空機事故は、4件目になりました。
この事故では、事故機のコンベア880-22Mが、羽田空港から離陸直後に墜落炎上し、乗員訓練飛が行につき乗客の搭乗はありませんでしたが、同社員4名と運輸省航空局職員1名の5名全員が犠牲になりました。
事故機JA8030、通称「銀座号」は日本国内航空から日本航空にリース中の機体で、所有権は日本国内航空に残されたままでした。1966年8月26日、銀座号は、午前に羽田から北海道へ往復飛行を行い、午後からは羽田空港で離発着訓練を行うことになりました。
当日羽田空港のA滑走路(旧)が工事により閉鎖されていたため、平行するC滑走路(旧)から離陸しようとしており、これはこの飛行は操縦員の機種限定変更試験のためでした。午後2時35分、試験項目の一つとして、滑走中に第4エンジンが手動停止されました。これは、離陸時にエンジン一発故障の想定で離陸続行を行うというテストです。
ところが、この操作によって風下の外側の推力がゼロとなり、機体は急激に片滑りしはじめました。目撃証言によれば、C滑走路から右へ逸脱しはじめ、左車輪が折れてC滑走路とA滑走路の間で左向きになったうえで、右車輪も折れてしまい、その衝撃で胴体着陸して爆発炎上し、乗員が脱出する時間もないまま全焼しました。
事故原因は、前述の操作が困難な機体に加え、訓練生のミスも誘発されて離陸直後の墜落に至ったためとされています。
さらに11月13日、今度は全日空機が松山沖で墜落するという事故が起こります。これでこの年における日本国内の事故はついに5つ目になりました。
この事故は、全日本空輸が運航する国産旅客機YS-11による墜落死亡事故で、一回目の着陸でオーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおした際、高度を保つことができずに左旋回の姿勢のまま、松山空港沖2.2kmの伊予灘に墜落し、乗員乗客全員50名全員が犠牲になりました。
この事故において、機体は海面激突時の衝撃で粉砕されましたが、この機の飛行回数は1076回、飛行時間1068時間25分であり、全日空に引き渡されたYS-11としては最も短命でした。また全日本空輸にとってもこの年2回目の墜落事故となりました。
同機は、午後8時28分に一度着陸しましたが、滑走路1200mの半ば、滑走路端から460m地点付近に接地してところ、滑走路が短すぎることに気付き、オーバーランの危険が生じたために、着陸をやりなおす着陸復航を行おうとしました。
ところが、フラップと主脚を格納した同機の上昇は通常より鈍く高度230~330ftまで上昇した後、降下に転じ、左旋回の姿勢のまま、失速して松山空港沖2.2kmの瀬戸内海、伊予灘に墜落しました。
同機もまたボイスレコーダーとフライトデータレコーダーを搭載していなかったこともあり、この失速についても、速度計の誤読あるいは故障等の推測原因が取沙汰されましたが、結局当時の事故調査委員会はとうとう原因を特定することができませんでした。
が、当日は雲が低く垂れ込めていた上に霧雨が降っており、あまり天候がよくなかった上、当該機は当日のダイヤが乱れていたことで同機の松山空港上空への侵入は当時の運用時間である午後8時をすぎていました。
このため、滑走路の照明を再点灯するのに手間どい、これを待つために広島県の呉市上空から向わず山口県の岩国市上空を経由して時間稼ぎをしたため少し遠回りしていたことなどがわかっており、燃料切れも間近だったことから機長以下の乗員の心に余裕がなかったことなどが推測されました。
さらに、当初このフライトでは、機材としてフォッカー社製のF27「フレンドシップ」を使用する予定でしたが、機体のやりくりがつかず予約客も多かったために大型のYS-11へ機体が変更されていました。その結果、事故機の機長は急遽予定にはなかった飛行をこなすことになり、緊張気味であったのではないかとも指摘されています。
これまで述べてきたとおり、これら一連の事故が起きたのは1966年(昭和41年)です。この昭和40年前後のころというのは、関西圏の新婚旅行先として松山の道後温泉が選ばれることが多かったといい、またこの全日空松山便のフライト当日は日曜日で大安吉日でもあり、新婚旅行に向かうカップルが12組(24名)と犠牲者の半数近くにのぼっていました。
このことは世間に深い衝撃を与えました。いずれのカップルも婚姻届の提出を済ませておらず法的には夫婦ではなかったため、その後の航空会社と遺族との損害賠償交渉も少なからず混乱しました。これを受けて法務省は、これ以後、婚姻届を早期に提出するように励行する広報を出したほどでした。
さらには、犠牲者の中には海流に流されて遺体が発見されなかった者が少なくなかったため、付近の海域で取れた海産物が風評被害で売れなくなるといったこともありました。
また、滑走路が仮に2000m程度あればそもそも着陸復航する必要がなく事故も起きなかったと考えられることから、この事故を契機に松山空港を始めとする地方空港の滑走路の拡張工事が進められることになりました。
現在の松山空港も今では2500mまでも滑走路が延長されていますが、こうした事故対策がその後の地方空港のジェット化を促す結果となり、現在のような「空港余り」をもたらす結果となりました。
この松山空港沖事故では、二重遭難事故も起こっています。事故から2日後の11月15日、各方面のヘリコプターが遺体捜索を行っていましたが、松山空港北方の愛媛県北条市(現在は松山市)粟井沖において大阪府警のヘリコプター”あおぞら一号”と全日空のヘリコプター(JA7012)が正面衝突し、双方の操縦士ら4名が犠牲になりました。
双方とも捜索に夢中になるあまり気付くのが遅れたと見られています。なおこの事故は、警察機関が導入したヘリコプターで初めての事故喪失でした。
この事故を入れると、結局この年には、6件も航空機事故が起きたことになり、その合計では376人もの尊い命が一連の飛行機事故により失われました。
実は、この年、1966年は、丙午(ひのえうま)にあたっていました。出生数は約136万人と前年に比べ大きく落ち込んだ年であり、その前の1960年もはっきりとした記録はないものの、出生数は少なかったようです。
丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる「八百屋お七」に由来します。
八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、丙午の年には火災が多いという噂が広がり、さらにはこの年に生まれた女の子は男を食いつぶす、という迷信になっていったものです。迷信にすぎませんから、このことと1966年の丙午の年に連続した飛行機事故とは何の関係もないことは明らかです。
が、陰陽五行では、丙午の「丙」は十干の「陽の火」、また「午」も十二支の「陽の火」で、つまり、丙午は干・支ともに「火性の年」、ということになります。60年に一度という確率であり、やはりこの年には火災を伴うような事故が多くなる必然があったのではないか、と勘ぐってしまいます。
ちなみに、この年は、1月に水素爆弾を搭載したアメリカのB-52爆撃機がスペインのパロマレス沖で別の空中給油機と衝突、水爆を搭載したまま墜落するというショッキングな出来事があり、また10月には米デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ高速増殖炉で史上初の炉心溶融事故おこるなど、火ではないものの原子力がらみの事故が重なっておきています。
また、6月30日には、いわゆる袴田事件が静岡の清水市で起こり、「こがね味噌」専務の自宅が放火され、焼跡から専務自身と、妻、次女、長男の計4人の他殺死体が発見されました。静岡県清水警察署捜索した結果、従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から血痕が付着したパジャマが発見され、袴田氏はその後の裁判で死刑が確定しました。
しかし、その後も袴田氏は一貫して無罪を主張、今年の3月27日、ついにこれが認められて静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定したことは記憶に新しいところです。先の5月、48年ぶりに故郷の浜松市に帰ったことなども新聞報道で大きく取りあげられました。
それにしても、このように世間を騒がせた放火殺人事件もまた1966年に発生したというのもまた、何ごとかを物語っているような気がします。
ちなみに、この1966年生まれの「丙午の女」とされる有名人にどんな人がいるかを調べてみると、現在47~48歳という油の乗った年齢の彼女たちの顔ぶれは錚々たるものです。
財前直見(1月10日)、三田寛子(1月27日)、川上麻衣子(2月5日)、小泉今日子(2月4日)、大沢逸美(3月23日)、村上里佳子(RIKACO・3月30日)、松本明子(4月8日)、広瀬香美(4月12日)、益子直美(5月20日)、森尾由美(6月8日)、中村あゆみ(6月28日)、渡辺美里(7月12日)、石川秀美(7月13日)、鈴木保奈美(8月14日)、早見優(9月2日)、小谷実可子(8月30日)、斉藤由貴(9月10日)、伊藤かずえ(12月7日)、有森裕子(12月17日)、国生さゆり(12月22日)
ちょうど子育てが終り、女優さん、歌手、スポーツコメンテーターなど色々職業は違いますが、円熟した才能を開花させることのできる年齢のためか、ことさらに有名人がこの年に集中しているように思うのですが、さらに気のせいでしょうか。
無論、このメンツを見る限りは、男を食いつぶす、といったのは迷信であることがわかり、むしろ、いずれもが世の男性陣を楽しませてくれる、一流のエンターテイナーばかりです。従って「丙午の女」は俗信にすぎず、むしろ丙午の年には、航空機事故などの事故が起こる可能性のほうを心配したほうがよさそうです。
ちなみに、次の丙午は、2026年になります。この頃の出生数は既に減少傾向にあり、1846年、1906年、1966年の際とは異なり、仮にこの年に丙午の女の俗信による「産み控え」が起こったとしても、人口動態に大きな影響は与えないと予測されるそうです。
この年には、第25回冬季オリンピックが開催される予定であり、開催都市は2019年に開催予定の第131次IOC総会で決定されます。
日本も立候補する可能性があるといわれており、その最右翼は札幌です。欧米ではスペイン、バルセロナが取沙汰されていますが、もしこの年にも日本で事故が多発するようならば、この立候補は取りやめたほうがよいかもしれません。
1992年の夏季オリンピックを開催したバルセロナ市は、2022年冬季大会への立候補を検討しましたが、このときは市長が準備不足として見送った経緯があり、代わりに2026年大会には全精力を傾けるとしているそうなので、こちらへ譲ったほうが良いのかも。
2026年といえば、わずか12年後。とはいえ、私は60代になっています。まだまだ元気でいると思いますが、果たして1966年のような事故の年になるのでしょうか。そんなことなどないと願いつつ、今日のこの項は終わりにしたいと思います。