幕末の志士たちの中で、一番好きな人は誰か、と問われて坂本竜馬や西郷隆盛の名を上げる人は多いでしょう。西郷隆盛の双璧にあげられる、勝海舟を好きな人も多いと思いますが、あなたは誰が一番好きでしょうか。
私は、郷里が山口ということもあり、やはり気分的には高杉晋作という人が好みです。幕末の慶應3年(1867年)にわずか27歳で没したこの長州藩士は、異色の志士としてこの時代を駆け回り、奇兵隊というそれまでの身分制を破壊するもととなった部隊を創設するなどして250年続いた徳川幕府を倒す上において重要な役割を果たしました。
その短い生涯の割には、逸話の多い人で、そのひとつひとつがドラマチックかつ、エネルギッシュな行動を伴ったものであり、幕末にあまたの志士がキラ星のごとく現れましたが、短い生涯でこれだけ暴れ回った感がある人は、この人をおいて他にいないでしょう。
坂本竜馬もまた、エネルギッシュにこの騒乱の時期を駆け抜けましたが、晋作と違って下級武士の出であっただけに、とくに初期のころにその行動が制約されたのが玉に傷です。晋作のように藩の名門に生まれていれば、さらにこの時代にもっと大きな影響を与えたのではないでしょうか。
高杉家は、代々藩主毛利氏の直属の家臣で、家格は「大組」であり、これは馬上を許された上級家臣です。父の小杉忠太は、長州藩の支藩である萩藩の御側用人であり、これは藩主の側近であり、その命令を老中らに伝える役目を担っていました。
こうした長州藩の名門の武士の家に生まれた晋作もまた英才教育を受け、藩の名門校である明倫館に入学。卒業後は、柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝されるほどの達人でした。吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれ、藩命で江戸へ遊学して昌平坂学問所などで学びました。
師の松陰は、安政の大獄で捕らえら処刑され、その意思を継ぐことを決意しますが、国を変えるためにはまず諸国の事情や外国を知るべきと考え、松陰の処刑の翌年には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡り、得意だった剣術をさらに磨くべく、神道無念流練兵館道場に入門します。
江戸では開明派といわれた佐久間象山や横井小楠といった巨人に師事するとともに、東北遊学などの地方巡察を行い、文久2年(1862年)には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して大きな影響を受けます。
松陰が処刑されてすぐのころには、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚していますが、その後の動乱の時期には下関の花街で芸妓をしていた「おうの」を見初め、その後半生はほぼこの女性と生活を共にしていました。
文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行いますが、逆に米仏の報復に逢い惨敗した、いわゆる「下関戦争」において、晋作は下関の防衛を任せられ、このときに身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成しました。
この奇兵隊は、その後の晋作らが藩の実権を握る上においても大活躍をし、晋作らが「俗論派」と呼ぶ長州藩の保守派に対してのクーデターを起こした際の主力にもなりました。晋作達は自らを「正義派」と称し、このほかの長州藩諸隊を率いて下関の功山寺で挙兵。
元治2年(1865年)に俗論派を駆逐して藩の実権を握ると、幕府による再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進めます。その後、土佐藩の坂本龍馬らの仲介によって薩長盟約が結ばれると、盟友の桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共にさらに討幕の準備を進め、幕府以外の諸藩では初の洋式軍艦といわれる蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入。
6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督としてこの丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮でも軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させ、その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させました。
その後さらに幕府軍が籠る小倉城を攻略しましたが、幕府軍総督・小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した肥後藩細川家をはじめ、幕府軍諸藩もまた幕府軍の脆弱ぶりに愛想をつかしたためが随時撤兵しはじめました。さらに将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となりました。
この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)の大政奉還への大きな転換点となり、その後の明治維新へとなだれ込んでいくことになります。
しかし、ちょうどこのころから、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。
人生のはかなさを笑い飛ばしていたようなところがある人でした。と、同時にそのはかなさを悲しんでいたようなフシがあります。
辞世の句、「おもしろきこともなき世をおもしろく」はことさらに有名です。「おもしろきこともなき世“に”おもしろく」でななかったかという説もありますが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明です。
彼の墓所のある東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっています。古川薫、司馬遼太郎の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し、「“を”は後年の改作であろう」としています。
かつては死の床にあった晋作が詠み、彼を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていましたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたことがわかっており、このことから辞世の句ではないという人もいます。ただ、死の直前に詠んだものだけが辞世の句というわけでもないでしょう。
晋作がまだ23歳のころ、長州藩では、当初守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流していました。
文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じており、折りしも、外国公使がしばしば横浜の金澤八景で遊んでいたため、ここで彼等を刺殺しようと同志を集めました。
ところが、その一人であった久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太にこのことを話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、晋作らは謹慎を命ぜられるという事件がありました。
これに反発した晋作は、伊藤博文や井上聞太といった子分を率いて品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いますが、これらの更なる過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を野放しにすると危険と判断し、江戸から召還して吉田松陰の生誕地である萩の松本村に晋作を幽閉しました。
このとき、晋作はこの処遇に不平を漏らし、萩の地で草庵を結び、「東行」と名乗って、十年の隠遁に入ると称しました。しかし、幽閉されたといっても藩の名士の子であった晋作には、萩の町に繰り出して大っぴらに酒を飲むことは許されていたらしく、晋作は萩の町の料亭に繰り出しては芸妓を呼び、三味線を弾いては、歌い明かしていたといいます。
おそらくこのとき詠まれたのがかの有名な、「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」という都都逸です。
都々逸(どどいつ)は、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された口語による定型詩です。七・七・七・五の音数律に従うもので、元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物でした。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれます。
この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われています。
♪男なら お槍担いで お中間となって 付いて行きたや下関
国の大事と聞くからは 女ながらも武士の妻
まさかの時には締め襷 神功皇后の雄々しき姿が 鑑じゃないかな
オーシャリシャリ
♪女なら 京の祗園か長門の萩よ 目もと千両で鈴をはる
と云うて国に事あらば 島田くずして若衆髷
紋付袴に身をやつし 神功皇后のはちまき姿が 鑑じゃないかな
オーシャリシャリ
♪男なら 三千世界の鳥を殺し 主と朝寝がしてみたい
酔えば美人の膝枕 醒めりゃ天下を手で握り 咲かす長州桜花
高杉晋作は男の男よ 傑いじゃないかな
オーシャリシャリ
最後の「オーシャリシャリ」は、おっしゃるとおり、という意味で、いわゆるお囃子です。
もしも自分が男だったなら、槍を担いで中間(ちゅうげん)として下関について行き、外国との戦争に参加したい。自分も女ではあるが、武士の妻であるから、外国の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあっても、神功皇后のようにこの国を守りたい、この1番の歌詞はそんな内容です。
このころ長州藩では尊皇攘夷運動が高まっていましたが、1863年(文久3年)には朝廷からも攘夷令が出され、藩士の多くが外国船攻撃のために下関に集結していました。一方で萩で留守を守る藩士の妻や子供たちも、外国船の報復攻撃に対抗するため、萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女台場という土塁を築きましたが、現在でもその遺構の一部が残っています。
「男なら」はその女台場を築く際工事に携わった、長州藩士や奇兵隊をはじめとする諸隊士の妻や子供たちによって謡われた歌です。地元でも一部の伝承者を除いて長らく忘れられていましたが、1936年(昭和11年)に人気女性歌手だった音丸のレコードがヒットして広く知られるようになったもので、炭坑節などと同様に全国的な人気を呼びました。
現在萩市では、古くからある唄や踊りの他に、萩夏まつりなどにおいてはよさこい風にアレンジされた踊りで踊られることもあります。
ところで、この男ならや晋作の都都逸にも出てくる「三千世界」とはいったい何なのでしょうか。
これは、実は仏教用語であり、10億個の「須弥山世界」が集まった空間を表す言葉であり、正確には「三千大千世界」であり、これを略して「三千世界」「三千界」「大千世界」と呼んでいます。
仏教の宇宙論では、須弥山(しゅみせん)と呼ばれる山の周囲に四大洲(4つの大陸)があり、そのまわりに九山八海があるとされます。これが我々の住む1つの世界、つまり1須弥山世界で、この中には上は色界の「梵世」から、下は大地の下の「風輪」にまでが存在します。
この1つの世界が1000個集まって小千世界となり、小千世界が1000個集った空間を中千世界と呼び、中千世界がさらに1000個集ったものを大千世界といいます。大千世界は、大・中・小の3つの千世界から成るので「三千大千世界」と呼ばれます。
また「三千大千世界」は、1000の3乗個、すなわち10億個の世界が集まった空間であるともいわれます。この広大な三千大千世界を教科できるのは、たった一人の仏様とされていて、このためこれを「一仏国土」ともよびます。
欧米では、限りない星々の集まりが宇宙であるわけですが、こうしたいわば我々の生活に密着した小さな世界の集まりが宇宙である、とする考え方はいかにもアジア的です。この我々が住んでいる世界を包括している一仏国土(三千大千世界)は「娑婆」ともいいます。原語ではサハー“sahā”ですが、俗にシャバとも読みます。
阿弥陀如来が教化している極楽という名前の仏国土は、サハー世界の外側、西の方角にあり、このため西方極楽浄土と呼ばれます。これに対して我々俗人が住まう宇宙を、娑婆と呼び、こうした宇宙観は、明治になって欧米の科学的宇宙観が導入されるまでは普通に信じられていました。
よく刑務所から外の世界を娑婆と呼びますが、塀の中の地獄から見た外界は、この西に住まう慈愛に満ちた仏によって安穏が約束されている国というわけです。
一方の西欧における宇宙観はこれとは全く異なります。19世紀から20世紀初頭の物理学者らも、宇宙は始まりも終わりもない完全に静的なものである、という見解を持っていました。現代的な宇宙論研究は彼等の観測と理論の両輪によって発展してきたという歴史があります。
1915年、アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論を構築し、これに基づき、「アインシュタイン宇宙モデル」を提唱しました。しかし、このモデルは不安定なモデルであり、
これによれば宇宙は、最終的には膨張もしくは収縮になるかよくわからん、ということになってしまいます。
ところが、1910年代にヴェスト・スライファーとやや遅れてカール・ウィルヘルム・ヴィルツが、「渦巻星雲」の観測から、天体が地球から遠ざかっているという可能性もあるのではないか、と考えました。
しかし、このことを証明するためには、実際にこの天体までの距離を計測する必要がありました。ところが、これはこの当時の技術では非常に困難でした。天体の直径を測ることができたとしても、その実際の大きさや光度を知ることはできなかったためです。
そのため彼らは、それらの天体が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であることに気づかず、もしかしたら宇宙は遠ざかっているのではないか、という自分達の観測結果から導かれるべき宇宙論の意味についても深く考えることはありませんでした。
それから10年経った1920、アメリカ国立科学院においてハーロー・シャプレーとヒーバー・ダウスト・カーチスが、「宇宙の大きさ」と題する公開討論会を行い、この中でシャプレーが、「我々の銀河系の大きさは直径約30万光年程度で、ヴィルツらが観測した渦巻星雲は銀河系内にある」との説を展開しました。
対するカーチスは、「銀河系の大きさは直径約2万光年程度で、渦巻星雲は、この銀河系には含まれない独立した別の銀河である」との説を展開しました。この討論は天文学者らにとって影響が大きく、たちまち学者たちの間に大きな論争がおこりました。
ところが、7年後の1927年、ベルギーのカトリック教会の司祭であるジョルジュ・ルメートルが、ヴィルツら渦巻星雲が遠ざかっているという観測結果を理由に、さらにカーチスの理論を発展させ、宇宙は「原始的原子」の「爆発」から始まった、とする説を提唱しました。
これが世にいう、「ビッグバン」です。さらに1929年には、エドウィン・ハッブルがこのルメートルの理論が正しいことを証明する観測結果を出し、この理論に裏付けを与えました。ハッブルは渦巻星雲が銀河であることを証明し、星雲に含まれる「変光星」を観測することでこれらの天体までの距離を測定を可能にしたのです。
彼はこの結果を、銀河が全ての方向に向かってその距離に比例する速度で後退していると解釈しましたが、この事実は現在も「ハッブルの法則」として広く知られています。ただしこの理論は比較的近距離の銀河についてのみ確かめられたものでした。
ハッブルはさらに遠くの銀河についてもこれを証明しようとしましたが、銀河の距離が最初の約10倍にまで達したところでハッブルはこの世を去りました。
宇宙が膨張している、とするこのハッブルの法則には、二つの異なる可能性が考えられました。一つはルメートルが発案したビッグバン理論です。もう一つはフレッド・ホイルが提唱した、銀河が互いに遠ざかるにつれて新しい物質が生み出されるため、膨張しているように見えるという説。
フレッド・ホイルの説では、宇宙はどの時刻においてもほぼ同じ姿となり、いわばみかけ状の膨張が続いているということになります。長年にわたって、この両方のモデルに対しては議論が続きましたが、その支持者の数はほぼ同数に分けられていました。
しかしその後、宇宙は高温高密度の状態から進化してきたという説を裏付ける観測的証拠が見つかり始め、1965年になって、「背景放射」が発見されて以来、ビッグバン理論が宇宙の起源と進化を説明する上ではもっとも適切な理論と見なされるようになりました。
背景放射というのは、正確には「宇宙マイクロ波背景放射(CMB)」といい、天球上の全方向からほぼ等方的に観測されるマイクロ波です。CMBは、宇宙のスケール長に比例して波長が延び続けており、これが全天球の全方位で観測されたことから、宇宙は拡大し続けているということが裏付けられたのです。
こうしたことよって、現在までに宇宙論研究者の大部分は、宇宙が有限時間の過去から始まったとするビッグバン理論を受け入れるようになりました。最近の研究では、さらにこの広がり続けている宇宙の質量の約25%は目に見えない「ダークマター」で構成されており、目に見える物質はわずか4%程度に過ぎないことも分かってきています。
ただ、このダークマターと我々が見ることができる物質の合計は、29%にすぎず、あと71%足りません。何か別の成分が存在しなければならないわけですが、この正体もまだはっきりとはわかっておらず、学者たちはこの成分をダークエネルギーと呼んでいます。
ダークマターには重力があることは分かっているのですが、光などの放射を出さないので、実験室ではいまだに検出されておらず、その素粒子物理学的性質は全く分かっていません。また、ダークエネルギーの性質についても、そのエネルギー密度や集積しないという性質以外には何も分かっていません。
ダークエネルギーの正体は宇宙論における最も困難な問題の一つですが、その理解が進めば、宇宙の終焉がどうなるかという問題にも答が得られる可能性があります。現時点においてわかっているのはダークエネルギーによって現在の宇宙の膨張が加速しているということだけです。
ただ、この加速膨張もまた将来にわたって続いていくかどうかも分かっていません。ダークエネルギーが時間的に増加して加速膨張の度合が大きくなればやがて宇宙はバラバラになるかもしれません。これを「ビッグリップ」といいますが、逆にこの時点で逆に宇宙は収縮に転じるかもしれません。
20世紀初めまで、宇宙に関する科学的描像の主流は「宇宙は永遠に変化をしないまま存在し続ける」というものでした。が、1920年代にハッブルが宇宙の膨張を発見したことで、宇宙の始まりと終わりがどういう状態なのかという科学的研究に焦点が移り、かくしてこの議論はさらに将来に渡って延々と続いて行くことになるはずです。
……と、三千世界の話をしていたら、宇宙論についての話にかなり長く寄り道してしまいました。
高杉晋作が都都逸で唄った三千世界という宇宙は、果たして永遠のもののつもりだったのか、限りのあるものだったのかはよくわかりません。が、この三千世界に棲むカラス、というのは、朝寝をともにする愛妾との仲を邪魔する輩、という意味でしょう。
邪魔者はすべて排除して、二人だけになった宇宙でいちゃいちゃしよう、と詠ったものであり、そう考えるとなかなかロマンチックかつしゃれています。
主と朝寝がしてみたい、の「主」とは、一般には、晋作の妾であった、「おうの」だったといわれています。現在下関にある東京第一ホテル裏あたりに、その昔、「稲荷町」といわれる遊里があり、おうのはここの「堺屋」という妓楼にいました。
晋作とはいつ出会ったのか、はっきりわかっていません。が、文久3年(1863年)京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターで長州藩が追放された際、晋作は脱藩して京都へ潜伏しましたが、桂小五郎の説得で帰郷しており、このとき晋作は、脱藩の罪で萩の野山獄に投獄されています。
しかし、身分が高かったため、このときもすぐに謹慎処分となり、この謹慎処分のころもおおっぴらにあちこちで歩いていたようで、このぶらしているときに下関に滞在し、ここでおうのを見初め、身請けしたのではないかと考えられます。
ちなみにおうのは右を向けといえばずっと右をむいているような、ちょっと天然な癒し系の女性だったといわれています。何事にも素直で、聞き分けがよく、晋作に右を向けといったら、いつまでも右を向いているような従順な女性だった、というのは司馬遼太郎さんも書いていました。
晋作にとって正妻は形式だけのもので、ほとんど家に寄り付かなかったといい、命がけの日々の彼の疲れた心を癒してくれたのは、おうののような素直でしおらしい女性だったのでしょう。
功山寺での旗揚げ以降、晋作は大阪や京都などで常に幕府方から命を狙われるようになりましたが、おうの得意の三味線を片手に晋作に付き添っていたといい、上述の三千世界……の都都逸も、おうのと一緒になってから作られたという説もあるようです。
高杉晋作がいかに彼女を大切にしたか、という話は残された数々の手紙などにも現れていますが、「長崎みやげ」とされるビロードのカバンが下関市の東行記念館に残っており、彼の深い愛情を物語っています。柄物のビロードに、真鍮の金具がついた英国製のバックであり、この当時としては相当高額なものだったでしょう。
高杉晋作は死期を悟った時に、おうののことを白石正一郎に頼んでいます。白石は長州藩など多くの藩から仕事を受けていた廻船問屋で、尊皇攘夷の志に強い影響を受けてその豊富な資金を晋作らの志士に惜しむことなく注ぎ込んでいた人物です。高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊しています。
晋作はこの白石におうのの後のことを託し、また、おうのに対し、「自分が死んだら墓守をして過ごせ。そうしたら、伊藤(博文)や井上(馨)たちが祖末にしないから」と遺言をします。
彼女はこの言葉に従い、晋作の墓所のある「吉田」という場所で山県有朋が所有していた「無鄰菴」という建物を譲り受け、ここで残る一生を終えました。吉田という地は下関市役所の北東部にあり、市内を流れる木屋川にもほど近い場所であり、現在この建物は「東行庵」とよばれています。
晋作は、その生涯で多数の変名を持っており、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などなどがありましたが、その最後には谷潜蔵と改名していました。おうのはこの谷潜蔵という晋作の最後の名前を使って新たに谷家をおこし、「谷梅処」と呼ばれるようになりました。
しかし、晋作との間に子があったわけではないため、この谷家はその後、2代梅仙、3代玉仙と代々尼になった女性が庵主として継承していきました。この東行庵は晋作の没後100年を前に1966年(昭和41年)に大修理が行われ、同年、その境内に「東行記念館」が建てられて、現在は観光地になっています。
そしておうのは、ここで高杉晋作の遺言どおりに彼の墓守として暮らし、その費用をやはり、伊藤、井上、山県らが出してくれたといいます。明治42年8月7日、68歳で没。墓は、「東行墓」がある所ではなく、そこから少し離れたところから晋作の墓を見守るようにひっそりと建っています。やはり正妻に配慮してのことだったでしょう。
カラスを殺し、というのは都都逸の気分としてはわかりますが、多くの志士に慕われ、親分肌で優しいところのあった晋作の気分としては、あの世でも子分のカラスを殺したりはせず、きっとかしずかせて器用に働かせ、その稼ぎでおうのとの朝寝を毎日楽しんでいることでしょう。
私もあやかりたいところですが、カラスを子分にするどころか、ミミズ一匹弟子にする器量もありません。またタエさんを尻目に愛妾を持つほどの度胸もないので、当面、テンちゃん一匹で我慢することとしましょう。もしかしたら二匹目の妾ができるかもしれませんが……