陰陽師

2014-11402629月になりました。

例年ならばまだまだ暑い日が続くはずですが、太平洋高気圧の張り出し弱いようで、大陸から寒気が降りてきて、この涼しさをもたらしているようです。もう少し夏らしさを満喫してから夏休みを終えたかった、という若者も多いでしょうが、夏嫌いの私としてはありがたい限りです。

旧暦9月は長月と呼びます。これは「夜長月」の略であるとする説が有力だそうで、9月に入ると途端に日が短くなることに由来するようです。確かに最近朝起きても、まだかなり暗いことが多くなりました。他に、「稲刈月」が「ねかづき」となり「ながつき」に転じたという説もあり、なるほどこのころになると田んぼの稲穂がそろそろ黄色く重くなります。

9月の誕生花としては、リンドウ、芙蓉、桔梗などがあるようです。このうちの、キキョウ(桔梗)はキキョウ科の多年性草で、ある程度日当たりの良い所なら土壌を選ばず、だいたい日本中どこでも育ちます。万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」は本桔梗のことだそうです。

実は、絶滅危惧種です。エッ?と思う人も多いかもしれませんが、これは野生のもの、つまり桔梗の原種とされるものが少なくなっているものです。この野生をもとに数々の品種改良が加えられ、多くの園芸品種が生まれているため、減っているという感じはしませんが、それだけ日本の生態系も変わってきているということになります。

改良された園芸品種も原種もつぼみの状態では花びら同士が風船のようにぴたりとつながっているため、英語では”balloon flower”といいます。一般的な品種では、このつぼみが徐々に緑から青紫にかわり裂けて6~9月にかけて星型の花を咲かせます。

が、品種改良したものには、この花が二重咲きになる品種や、つぼみの状態のままでほとんど開かせないようにしたものもあり、他に背長けがあまり伸びないようにした品種もあります。色も原種の白や青以外にも、紫やピンク色などたくさんの色の品種があり、年々多様になっています。

雌雄同花です。最初に雄しべから花粉を出し、この雌しべの柱頭が閉じるまでが雄花期です。一方、これとは別に先行して閉じた柱頭が再び開く花があり、これは他の花の花粉を待ち受ける雌しべになります。この雌花期にある花が雄花からの花粉を受けとり、受粉して秋になると種を作るという仕組みで、知れば知るほど植物の世界はまか不思議です。

キキョウの根は「サポニン」をたくさん含んでいます。これは、石鹸の材料として知られるものです。漢方薬としても使われ、その効用は去痰、鎮咳、鎮痛、鎮静、解熱作用があり、このほか、消炎排膿薬、鎮咳去痰薬などにも使われます。

桔梗の花は、蕾のうちは鐘形ですが、花開くと五つに裂け、5本の花びらになります。この綺麗な五角形は、太古の時代から日本人には親しまれてきました。

花の形から「桔梗紋」が生まれ、これを美濃の山県氏、土岐氏一族などが紋所としており、明智光秀も土岐氏一族であり、桔梗紋を用いていました。また、陰陽師(おんみょうじ)として高名な安倍晴明が使用した五芒星は、桔梗印と呼び、現在の晴明神社では神紋とされています。

この安倍晴明は、921年~1005年の平安時代に実在したとされる人です。のちに鎌倉時代から明治時代初めまで、「陰陽寮」を統括することになる、「土御門家(つちみかどけ)」の始祖とされます。

陰陽寮は、天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など朝廷に関する職務の全般を担っていた「中務省(なかつかさしょう)」に属する機関で、主に占い・天文・時・暦の編纂を担当していました。

現在の大阪市阿倍野区、当時の摂津国阿倍野に生まれたとされます。また、生地については、その苗字から奈良県桜井市安倍とする伝承もあるようです。幼少の頃については確かな記録はありませんが、先輩の陰陽師「賀茂忠行・保憲父子」に陰陽道を学び、天文道などもこの二人から伝授されたといいます。

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この陰陽道は、古代中国の自然哲学思想をもとに生まれた、「陰陽五行説」を起源とし、これが日本に輸入されて以降、日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系です。

陰陽五行説というのは、この世の中は、木、火、土、金、水、の「五行」に「陰陽」の二つを掛け合わせたものでできているという説であり、5×2=10ですから、これは甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸となります。

現在使われている季節にも五行が配されています。季節に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水です。この四季それぞれの最後の約18日が、「土」であり、これは言い換えて「土用」と呼ばれます。つまりウナギを食べるという、「土用の丑の日」は各季節の最後の時期「土用」の丑の日ということになります。

この土用は12分割されていて、それぞれに十二支が割り当てられています。つまり子丑寅……と子の次の丑の日は、土用のうちの、二番目(18日あるので正確には1.6~3.0日目)の日ということになり、それぞれの季節に一回あります。

このように、全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする思想は、中国古代の夏(か)、殷(いん)のと呼ばれた王朝時代にはじまりました。以後、これをもとに天文学、暦学、易学などが発達し、時計もこの結果生まれたものです。

日本には、5~6世紀の飛鳥時代のころに、中国大陸から直接、もしくは朝鮮半島経由で伝来したようです。この陰陽五行説とともに、同時に仏教や儒教も伝えられ、以後、いわばこれら中国固有の思想は日本の文化の根幹に関わり続けるようになっていきました。

とくに陰陽五行説と密接な関係をもつ天文、暦数、時刻、易といった自然の観察に関わる学問は、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を「占う技術」として、圧倒的に日本人に支持されました。もともと山川海と自然豊かな国であり、この自然の一つ一つの要素に神が宿ると考えていた日本人にとっても受け入れやすい思想だったのでしょう。

この「占いの技術」は、仏教とともに輸入されたことから、当初はおもに漢文の読み書きに通じた中国人や朝鮮人の僧侶によって担われていました。しかし、やがて日本人の中にも精通する者が現れ、やがて朝廷でも占いが流行ったことから、7世紀後半頃からこれを司る「陰陽師」があらわれ始めました。

さらに時代が進んで、平安時代以降になると、それまで社会秩序を保っていた律令制にも緩みが見えるようになり、形式化が進んだ宮廷社会では、「怨霊」といった超自然的なものに対するものを信奉するようなオカルティックな雰囲気が出てきました。

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こうしたいわゆる「御霊信仰」などを奉じて世の人をたぶらかす者たちに対し、陰陽道では占術と呪術をもって彼等による災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活にも「正しい道」を教える、として影響力を強め、やがて陰陽道の教えこそが彼等の指針とされるようになっていきました。

こうして陰陽道は宮廷社会における法律ともいえるようになり、やがて宮廷から日本社会全体へも広がりつつ一般化し、法師、あるいは陰陽師と呼ばれる陰陽道の導師などの手を通じて民間へと浸透していきました。

10世紀ころ、この陰陽道だけでなく、これから更に発展した天文道や暦道といった、いわば「天文学」に精通する者もあらわれ、その際たる人物が「賀茂忠行」であり、子の「賀茂保憲」とともに、陰陽道占術の達人といわれるようになりました。

この賀茂父子の出自や、生没年などはまるで不明です。が、陰陽の術に優れ、この当時の帝から絶対的な信頼を得ていたといわれ、特に布や箱などで覆ったものの中身を当てる「射覆」を得意とし、帝の前でそれを披露した事もあったといいます。

醍醐天皇からその腕を披露するように命じられたところ、忠行の目の前には八角形の箱が目の前に出され、これを占った結果は「朱の紐でくくられている水晶の数珠」でしたが、これは見事に正解だったといいます。そして、天皇からは「天下に並ぶもの無し」と賞賛された、といった話が「今昔物語」に書かれています。

忠行・保憲はその技を安倍晴明に伝授したといい、二人は安倍清明がまだ子供だったころから既にその卓越した能力を見抜いていたようです。

今昔物語集の中に「安倍晴明忠行に随いて道を習いし語」というくだりがあり、これによれば、ある時忠行が内裏より自邸に帰宅途中、牛車の中でうとうとしていると、外で供をしていた幼い安倍晴明から突然に呼び起こされたといいます。

驚いて簾を上げて外を見ると、そこには百鬼夜行の一団が通りかかろうとしており、これを見た忠行一行はこれを回避してあやうく難を逃れたといい、忠行はそれ以降、弟子の中でもとくに晴明を可愛いがるようになったといいます。

この忠行の息子の保憲もまた、特異な能力の持ち主だったらしく、あるとき忠行がある貴人の家にお祓いに行く機会があったとき、まだ幼かった保憲が供をするというので連れて行ったところ、無事終わって帰宅途中、保憲が、祓事の最中に祭壇の前で供え物を食ったり、それで遊んだりしている異形の者を目撃した、と父に話したといいます。

これによって忠行は自分の子もまた、ただならぬ能力を持っていることに気付き、保憲に陰陽道を教えるきっかけになったといい、この保憲が長じてからは二人して清明を鍛えたようです。この保憲には、さらに光栄という子があり、二人は晴明に天文道、光栄には主に暦道を伝え、この二人は兄弟弟子として育ちました。

こうして、平安末期から中世においては、天文道の安倍清明と暦道の賀茂光栄が二大宗家として、この時代の陰陽道を独占的に支配するようになりましたが、阿部清明は、とくに宮廷社会から非常に篤い信頼を受けました。

安倍清明は平安時代末期の1005年に83歳か84歳で死没したとされていますが、その技は子孫に受け継がれました。安倍家は、本来下級貴族でしたが、室町時代に入るとその嫡流は賀茂家など他の一族を圧倒し、公卿に列することのできるほどの家柄へと昇格していきました。

やがて、中世に入ると安倍氏が陰陽寮の長官である「陰陽頭」を世襲し、賀茂氏は次官の「陰陽助」としてその風下に立つようになりました。さらに戦国時代までには、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移りましたが、安倍氏の宗家である土御門家も戦乱の続くなか衰退していきました。

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ところが、衰退したといっても、これは宮中などにいる位の高い人々の中の話であり、民間では室町時代以降、陰陽道の考え方がより深く浸透し、占い師、祈祷師としての民間陰陽師が活躍するようになっていました。

さらに時代が進み、関ヶ原以降、徳川家による幕藩体制が確立すると、江戸幕府はこうした野放しになっている民間陰陽師におそれをなすようになりました。このため、賀茂氏の分家の幸徳井家に賀茂氏を継がせて復活させ、この賀茂幸徳井家によって土御門家を牽制させつつ、それぞれに諸国陰陽師を支配させるという巧みな操作をしました。

ところが、それでもやはり復活した賀茂氏よりも土御門家のほうが勢力が強かったため、次第に土御門家だけが民間の陰陽師を支配するようになり、諸国の陰陽師たちに免状を与える権利を独占して17世紀末までには全国の陰陽道の支配権を確立しました。

一方、徳川家による幕藩体制が確立したため、江戸時代には陰陽師の宮中の政治に対する影響力はほとんどなくなり、かつて勢力を誇った陰陽道はもはや政治に影響を及ぼすことはなくなりました。一方では、土御門家による民間陰陽道の支配権が確立したため、民間ではこれが暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着していきました。

しかし、この民間陰陽道はもはや往時の宮廷陰陽道のような高尚なものとはかなりかけ離れたものとなっており、民間陰陽師たちの活動は、「だましもの」と呼ばれるようなものがほとんどあり、彼等は「声聞師」とよばれて蔑まれ、士農工商にも該当しない、身分の低い賎民として扱われるようになりました。

明治維新後の1872年(明治5年)、新政府はこの陰陽道を迷信として正式に廃止させました。こうして長きに渡って中央政府に影響を及ぼしてきた陰陽道は、政治的には完全に姿を消し、現代においては土御門家の流を汲む「天社土御門神道」と、高知県香美市に伝わる「いざなぎ流」を除いて、すべて消滅しました。

民間に伝承されていた陰陽道もまた江戸時代に「声聞師」などと呼ばれてその格を大きく落としたことから、現在では、暦などにわずかに名残をとどめるのみとなっています。

しかし、長引く不況による日本の国力低下がささやかれる中、こうした不安定な時代にはよくあることで、占いや呪術といったものは流行りやすいものです。このため、安倍清明や陰陽道についても、小説や映画で取り上げられると大人気となり、果てやゲームやコミックの世界にまで浸透して、今やちょっとしたブームになっています。

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一方では、阿部清明は、その当時の最先端の学問であった陰陽道の科学的価値を高め、「天文道」や卜易を体系にまとめあげた人物として再評価する向きもあり、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受けたその政治的手腕を研究しようとする向きもあるようです。

しかし、一般にはその足跡の多くは神秘化されたものが多く、数々の伝説的逸話を生んできました。

この安倍清明の最大のライバルといわれた、「蘆屋道満」こと「道摩法師」との対決もそうした伝説のひとつです。道摩法師は、安倍清明と同じく平安時代の呪術師でしたが、安倍清明とは異なり、非官人の陰陽師でした。

江戸時代の地誌「播磨鑑」によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされ、また播磨国の民間陰陽師集団出身ともいわれています。晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持っていたとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、蘆屋道満は藤原顕光お抱えの陰陽師でした。

藤原道長は、言わずと知れた有名な政治家です。天皇家の姻戚筋にあたるとされ、数ある政争に勝って左大臣にまで上り詰めて政権を掌握した人物ですが、藤原顕光はその政敵のひとりでした。道満は藤原道長に命じられ、道長以前に左大臣の座にあった藤原顕光を呪祖するように命じたとされています。

清明と道満が直接対決をした、という話も残っており、「式神対決」と呼ばれたこの対決で道満は晴明に敗れ、播磨へ追放されたといいます。式神(しきがみ)とは、識神(しきじん)ともいわれ、陰陽師が使役する鬼神のことで、陰陽師自身は自ら闘わず、いわば手下である式神同士を戦わせて雌雄を決する、というわけです。

人心から起こる悪行や善行を見定める能力があるといわれ、文献によっては、式鬼(しき)、式鬼神ともいわれます。「式」とは「用いる」の意味であり、使役することをあらわしますから、これらかも陰陽師の手先の小悪魔であることがわかります。

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陰陽道は中国から伝来したものですが、これには古来からあった神道の思想や儀式も引き継がれて日本独特のものに変化したものであるということを前述しました。

神道では神主や巫女は、神降ろしによって神を呼び出し憑依させることを「神楽」や「祈祷」といいますが、これらは極めて日本的な神霊であるのに対し、陰陽道においてはその役割を中国由来の式神が担うようになりました。

神道においては、古くからの神道にある「和御魂」の神霊、すなわち自然霊だけを用いましたが、陰陽道では、これよりさらに格の低い「荒御魂」の神霊、いわゆる「荒ぶる神」や「妖怪変化」の類が式神であり、こうした位の低い神を呼び出して使役したと考えられています。

陰陽師においては、式札(しきふだ)と呼ばれる和紙のお札に祈祷を与えることで、これを式神へと変化させます。式神の形は様々ですが、使役意図に適った能力を具える鳥獣や異形の者へと自在に変身します。

異形の者というのはいろいろありますが、鬼のような形をしたものもあれば、いわゆる妖怪のような恐ろしい形のものもあります。中国由来であることから、あるいはキョンシーのようなものであったかもしれません。

滋賀県大津市にある園城寺(三井寺)に残っている「不動利益縁起(ふどうりやくえんぎ)」という巻物にある式神は、鶏や牛の妖怪であり、荒ぶる神としての式神として描かれています。最近の陰陽師ブームによってこの式神は更にいろんな姿で描かれるようになっており、ゲームやコミックで擬人化されたこれらを見たことのある人も多いでしょう。

こうした式神の中でも、安倍晴明がとくによく使役した式神は、「十二天将」だったといいます。「十二」という数字からもわかるように、陰陽師にとって必須の占術には十二支を始めとしてこの数字は必須であり、十二天将卜易の象徴体系の一つにもなっています。北極星を中心とする星や星座に起源を持っており、それぞれが陰陽五行説に当てはまります。

安倍晴明が残した「占事略决」という書物にある十二天将は以下のようになっており、それぞれに十二支が割り当てられています。

前一 騰虵(とうだ)火神 「巳」 夏 南東 炎に包まれ羽の生えた蛇の姿
前二 朱雀(すざく)火神 「午」 夏 南
前三 六合(りくごう)木神 「卯」 春 東 平和や調和を司る
前四 勾陳(こうちん)土神 「辰」 土用 南東 金の蛇の姿、京の中心の守護を担う
前五 青竜(せいりゅう)木神 「虎」 春 北東
天一 貴人(きじん)上神 「丑」 土用 北東 十二天将の主神で天乙貴人、天一神
後一 天后(てんこう)水神 「亥」 冬 北西 航海の安全を司る女神
後二 大陰(たいいん)金神 「酉「 秋 西 智恵長けた老婆
後三 玄武(げんぶ) 水神 「子」 冬 北
後四 大裳(たいも) 土神 「未」 土用 南西 四時の善神。天帝に仕える文官
後五 白虎(びゃっこ)金神 「申」 秋 南西
後六 天空(てんくう)土神 「戌」 土用 北西 霧や黄砂を呼ぶとされる

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朱雀や、青竜、玄武や白虎といったものが含まれていることからもわかるように、これらの十二神将は、キトラ古墳のような、古代の墳墓などにも好んでかかれた式神です。安倍清明はこれらの十二天将を駆使して、この時代の魔を退治したわけです。

こんな逸話があります。あるとき、ライバルの道満が上京し、安倍晴明に対して、内裏で争い負けた方が弟子になるということにしよう、と呪術勝負を持ちかけました。この勝負に、帝も興味を示し、帝は大柑子(みかん)を15個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を二人に与えました。

早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が15」と答えましたが、晴明は、じっくりと長持を眺めたあと、冷静に「鼠が15匹」と答えました。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていましたが、彼が中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆してしまいました。

ところが、いざ長持を開けてみると、中からは鼠が15匹出てきて四方八方に走り回りました。晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまったためであり、この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われています。

道満はまた、上述のとおり、左大臣藤原顕光に政敵である藤原道長への呪祖を命じられたことがあります。室町時代の播磨の地誌である「峰相記(ほうしょうき)」には、このときのことが書かれており、依頼された蘆谷道満は、道長を呪い殺そうしますが、安倍晴明にこれを見破られ、播磨に流されたと書いてあります。

また、こんな話もあります。

あるとき、安倍清明は、唐に渡り、伯道という上人のもとで修行をしていました。ところが、この修行のため日本を留守にしている間、道満は晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めました。しかも、晴明が唐から帰ってきたあと、この妻の手引きによって彼が伯道上人から授かった「書」を盗み見て、そこに書いてあった呪術を習得します。

そして、晴明との命を賭けた対決を申し出た道満は、この呪術を使って清明に勝利し彼を殺害しました。ところが、第六感で晴明の死を悟った師である伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させます。そして、二人で道満と対決して、ついに彼を斬首しました。

この道満という永遠のライバルとのいさかいに終止符を打った清明は、その後伯道上人から授かったくだんの書をさらに発展させて、こうした呪術の数々を「簠簋内伝金烏玉兎集」という秘伝書にまとめ上げた、という話です。

この伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色されましたが、三重県の志摩地方の海女が身につける魔除けである、セーマンドーマンにもまたこの二人の名が残されています。この魔除けには、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)が描かれ海での安全を祈願しますが、星形の印は晴明の五芒星紋、格子状の印は道満の九字紋だといわれています

磯ノミ、磯ジャツ(上着)、磯メガネなど、海女の用具全般に記され、海女達が恐れるトモカヅキ、山椒ビラシ、尻コボシ、ボーシン、引モーレン、龍宮からのおむかえ、などから彼女たちを守ります。これらの妖怪の詳細については、以前のブログ、「セーマンドーマン」を見てください。

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「丑の刻参り」もまたこうした清明や道満が使った陰陽道における呪術の名残といわれています。ご存知の方も多いでしょうが、これは、神木(神体)に五寸釘を打ち付け、自身が鬼となって恨む相手に復讐するというものです。

丑の刻(午前1時から午前3時頃)に神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りとなって恨む相手を祟ると考えられていました。妖怪を呼び出し、祟るために使役する点においては式神と同じです。

こうした数々の伝説を残した清明も、11世紀の最初のころに没しましたが、その後彼の存在は神格化されていきます。歴史物語の「大鏡」「十訓抄」や説話集の「今昔物語集」「宇治拾遺物語」には、とくに晴明に関する神秘的な逸話が多く載っています。清明の墓所は京都嵯峨に現存し、これは観光地として有名な渡月橋のすぐ近くです。

京都嵐山の渡月橋のちょっと下流の左岸に長倉天皇の墓所がありますが、この一角に安倍晴明を祀る神社があり、この境内にひっそりと安倍清明は眠っている、とされます。この地は彼の屋敷跡だったと伝えられており、このほかにも生誕地とされる大阪市阿倍野区に建てられた安倍晴明神社、東京の葛飾区にある熊野神社など全国各地に存在します。

後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したためにこうした神社は日本各地にあり、また晴明塚といわれる塚もあちこちに建立されており、こうした名跡がない県を探すほうが難しいくらいです。

ただ、維新後の1872年(明治5年)、明治新政府は陰陽道を迷信として廃止させたため、前述のとおり、現代では清明の築いた土御門家の陰陽道を扱うのは、正式には福井県の「天社土御門神道」と、高知県の香美市に伝わる「いざなぎ流」のみといわれます。

ただ、このいざなぎ流は、土御門家や賀茂氏との歴史的な関連性は確認されておらず、土佐国で独自発展した民間信仰ではないかともいわれているようです。一方の天社土御門神道は、天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流が賜った「土御門」の称号を残すものです。

福井県おおい町に本庁を置く神道・陰陽道の流派で、正式には日本一社陰陽道宗家「土御門神道本庁」といいます。上述のとおり、江戸時代に土御門家は全国の陰陽師の統括を目的として保護され、陰陽道に神道を取り入れて独自の神道理論が打ち立てられ、「土御門神道」は幕末には全国に広まりました。

しかし、明治3年(1870年)に陰陽寮が廃止され、太政官から土御門に対して、天文学・暦学の事は、以後大学寮の管轄になると言い渡しを受けました。これによって陰陽師の身分もなくなる事になり、陰陽師たちは庇護を失い転職するか、独自の宗教活動をするようになりました。

このため陰陽道は民間の習俗・信仰と習合しつつ生活に溶け込んでいきましたが、溶け込みすぎたために、かえって消滅したように感じられるほどです。このおおい町に残る土御門神道は、そうした状況の中でも、かつての土御門神道の姿をその中に残しつつ、清明の子孫の手によって守られている、というわけです。

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この、おおい町はというのは、福井県南西部の町で、2006年に遠敷郡名田庄村と大飯郡大飯町が合併して誕生した町で、人口9千人、世帯数3千ほどのこじんまりとした町です。

北陸地方の最西端にあって若狭湾に面していることから、若西(じゃくせい)とよばれる地域のひとつであり、行政区域はリアス式海岸の続く若狭湾の一角とその背後に続く丹波高地の北側に位置します。旧名田庄地区には若狭と京都を結ぶルートの一つ周山街道が通り、かつては魚介類や塩がこの道を通り京都に運ばれていました。

室町中期から戦国期にかけての戦乱期には、都から多くの公家が下向したことが知られており、陰陽師の安倍晴明の直系子孫である土御門家もまた、応仁の乱を避け、京都からこの地に移り、乱が収まるまで数代にわたり居住しました。

このため、京都と同名の社寺が残り、かつての屋敷跡一帯には、小京都の風情があります。このような正統な意味での小京都は、全国でも例が非常に限られ、貴重な存在です。土御門家の本家はその後、秀吉や家康によって世の安泰がもたらされると京都に呼び戻されましたが、その庶子の子孫がここに残り、陰陽道の流れがこの地に受け継がれました。

大飯発電所のある町でもあります。関西電力が保有する原子力発電所としては最大規模で、全国的にみても柏崎刈羽原子力発電所に次ぎ、日本で第2位です。2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに日本国内の全原発が停止して以降、最初に再稼働した原発として有名になりました。

2012年7月5日、全国に先駆けて3号機が発送電を開始、21日には4号機が発送電を開始しましたが、翌年9月2日には3号機が定期検査のため停止、15日には4号機も定期検査に入り、これをもって再び日本国内において原発の稼働は停止されています。

この発電所はおおい町にある若狭湾に突き出した半島の先端部分に位置していますが、発電所から3㎞ほどの若狭湾内には、北西から南東方向に伸びる断層が存在することがその後判明し、この原発が現在停止しているのもこれが理由です。

施設内にも活断層が存在する、という見方もあり、山がちの半島の先端に位置するため、大地震、津波などが起きた際には、発電所と外部を結ぶ道路が寸断され、発電所が孤立する危険があるとの指摘もあります。

また、若狭湾にはこの大飯発電所の他にも、日本原子力発電の商用原発、日本原子力研究開発機構のもんじゅがあり、これらの原発があった各箇所では天正地震の津波で大きな被害が出たことが明らかになったことも発表されています。

できるだけの調査を行い、わかる範囲の他の時代の津波を含め、これへの対処の方法に関する最終的な報告を10月末頃に行う、と関西電力は言っているようですが、人々を納得させるような結論を導きだすのは結構きびしそうです。

私的には、地元陰陽師の手で、ちちんぷいぷいと、これらの原発を消滅させて欲しいと願っているのですが、はたして現在に至るまでもこうした悪魔を浄化してくれる安倍清明の霊魂は存在してくれているでしょうか。

この美しい日本を守るためにも、ぜがひにでも退治してほしいものです。

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