小笠原

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今日は、日本に初めてペリーのアメリカ艦隊がやって来た日です。

いまから165年前の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時に浦賀沖に現れ、停泊したその黒々とした船体は、それまでもたびたび日本近郊を訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。

黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、その様子から、日本人はこれを「黒船」と呼びました。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていました。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。

さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。実はこの突然のように見える来航は、事前にオランダから日本側に通告がありました。このため、幕府は先刻承知済みであり、江戸の町民にその旨のお触れも出していました。

にもかかわらず、この黒船の最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。しかし慣れとは面白いものです。それがやがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられています。

これが、長い鎖国を経てアメリカという国と日本人が接した初めての出来事とされるわけですが、実は、このとき浦賀にやってきたペリー提督らは、その前に同じ日本である小笠原諸島に立ち寄り、ここを探検していた、という話はあまり表だって語られていません。

小笠原諸島は、「特別区」として東京都に編入されている島々で、東京都「小笠原村」とされている30余の島々を指します。東京の南南東約1,000km以上の太平洋上にある島々で最大のものは父島、母島などでこれらを含むものが「小笠原群島」として知られます。

ここで、小笠原の命名の由来について述べておくと、1593年(天正20年)に信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼なる者が発見したという説があるようです。しかし出典が明確ではなく貞頼という人物の存在自体を否定する説もあります。

これを根拠に1727年(享保12年)、貞頼の子孫と称する浪人者の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出ました、これが始まりで、ここは小笠原島と呼ばれるようになります。

しかし最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定されてしまい、貞任はその後領有どころか詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けています。

この小笠原諸島というのは、小笠原群島だけではなく、ここから南西へ300kmほど離れた硫黄島なども含みます。太平洋戦争時にアメリカ軍との激戦地となった島であり、これは北硫黄島、南硫黄島と合わせて「硫黄列島」または「火山列島」とも呼ばれます。

その名の通り活発な火山活動によって出きた島々であり、また最近噴火して日々その領域を広げ続けて話題となっている「西之島」も小笠原諸島に含まれます。、さらに本州から1800kmも離れた日本最東端としても知られている「南鳥島」や「沖ノ鳥島」もまた小笠原諸島です。

このうちペリーらが探検をしたのは最大の父島です。ここに上陸する前には、琉球王国にも寄港しており、この浦賀来航よりもひと月以上前の5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊しました。ペリー入国を拒否する琉球王国側を無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍し、開国を促す大統領親書を王国側に手渡しました。

王国側は困惑したものの、来客への慣例としてぺリーらに料理をふるまってもてなしをさしました。が、このとき、清からの使者に対するもてなしよりも下位の料理を出したそうで、そのことにより、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していたといいます。

しかし、ペリーはそれに気が付きませんでした。琉球王国としては表面的には友好的に振舞い、まんまとペリーをあしらったつもりであり、このためその後の武力制圧を免れました。ただ、このように曖昧なままに終わらせてしまったため琉球王国はその後、アメリカが日本やアジア諸国へ進出するための前線基地として長い間利用されるハメになりました。

この琉球王国にペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、小笠原諸島を探検しました。現在は明らか日本の領土と世界から認識されているとはいえ、ここのころにはまだ領有のはっきりしていなかったこの島の領有の可否を判断しようとしたためです。

とはいえ、その探検はわずか4日ほどです。6月9日に琉球を出航、6月14日から6月18日にかけてのことであり、このとき父島の西側にある二見浦にペリーは上陸しました。2組の調査隊を出してこの島を探索し、その結果、このひとつの調査隊がカナカ人が島の数カ所に点住していることを発見しました。

カナカ人とは、マーシャル諸島、パラオ等の島々の住民であり、いわゆる太平洋南部のミクロネシアからやってきた移民であり、カナカは「黒い人」の意味です。さらに山稜を越えて島の南に降りていくと、ポリネシアのマルケサス諸島のヌクヒバ島出身者の居住者を発見し、さらにタヒチ出身の黄褐色肌の住人がおり、彼は英語を少し話しました。

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ちなみにミクロネシアとポリネシアの違いですが、ミクロネシアは「小さな島々」という意味で、オセアニアの中で日本にもっとも近いところに位置する、どちらかといえば「西太平洋から南太平洋にかけてのエリア」で、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島やマーシャル諸島、パラなどが含まれます。

一方、ポリネシアは、「多くの島々」という意味で、北半球に属するハワイ諸島のほか、南半球に散在しているトンガやサモア、タヒチ、クック諸島、イースター島、ニュージーランドなど、「中央太平洋から南太平洋にかけてのエリア」になります。

もうひとつ、我々には馴染の少ない言葉ですが、「メラネシア」というのもあり、これは「黒い島々」という意味で、オーストラリアの北東部の海域を指します。上述のふたつよりもエリアとしてはかなり限定的ですが、ここにはニューギニアや、ニューカレドニアなどの比較的大きな島々が含まれ、ソロモン諸島、ヴァヌアツ、フィジーもここに含まれます。

父島の南端でポリネシアからの移民をみつけたペリーの調査隊の一行は彼らが片言の英語を話すことを見て驚き、訝しみましたが、彼等は、さらに北部へ進んで調査を進めた結果、そこにと比較的大きな集落を発見。これは現在の扇浦付近と呼ばれる場所ですが、驚くべきことにそこには、ナサニエル・セイヴァリー(セボリー)というアメリカ人がいました。

実は、このセボリーはアメリカ東海岸のマサチューセッツに生まれで、長じてからハワイに移住しましたが、そののちここで太平洋の西のほうに未だアメリカ人が見知らぬ島があるという噂を耳にし、これがきっかけで小笠原へ入植したのでした。

このころ林子平という地理学者が「三国通覧図説」という地理本を出しており、その中に小笠原諸島についても記載がありました。これがオランダ交易の中でヨーロッパにもたらされ、翻訳されてボニン・アイランズ(Bonin Ilands)の名で知れ渡っていました。

ボニンとは、「無人」が訛ったもので、もともとは「無人島」として記されていたものですが、これをフランス人の東洋学者が翻訳したものです。無論、この当時日本は鎖国しており、近づくことはできませんでしたが、この本が広く紹介されるようになったことから、日本近海である小笠原諸島へは欧米の外国船がしばしば寄港するようになっていました。

そうしたヨーロッパ船の中に、イギリス海軍のブロッサム号という船がありました。ブロッサム号は、行方不明船となった自国船を探索するため、その船が消息を絶った日本近海にやってきていたのでしたが、1827年5月、この艦の艦長、フレデリック・ウィリアム・ビーチーは、琉球から東へ進路を取り、このボニン・アイランズをめざしました。

そして一行は6月8日に小笠原の島々を発見。翌9日に現在の父島二見港のある湾から島へ上陸してみると、前年行方不明となっていた捜索目的のイギリスの捕鯨船、ウィリアム号の乗組員2人、すなわち水夫長ウィットリエンと水夫ピーターセンに遭遇しました。

早速彼等にこれまでの事情を聞いたところ、彼らはその前年に湾内に停泊中に突風で難破し、その後寄港した、ティモール号という別の捕鯨船に仲間は救出されたことがわかりました。しかし、この2人は自らの意志で島に留まり暮らすことにしたと語りました。

このとき、ビーチーは2人に帰国を促したといいますが、このときにはまだ彼等にはその気がなかったようです。もう少しここで生活してみたいという彼等2人を残し、ビーチーらは島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けただけで、父島を出航しました。

この父島に残されたこの水夫2人は、翌1828年5月にここを訪れたロシアの調査船セニアビン号でその後帰国しています。このとき2人はこの無人島?での生活にほとほと疲れていたようで、同号が二見港に着くと促されるまま、ほうほうの体で島を後にしたようです。

一方、その後ホノルルに寄港したビーチーは、このボニン・アイランズのことをホノルルに入植したばかりのセボリーに話して聞かせました。これを聞いたセボリーが、在ホノルルのイギリス領事に相談した結果、ここへの入植計画がもちあがりました。

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こうして、天保元年(1830年)、イタリア出身のイギリス人と・マテオ・マザロを団長とするイギリス人2名、セボリーを含むアメリカ人2名、デンマーク人1名の5名と、ハワイ人男女25名がホノルルを出港し、6月26日に父島の扇浦に到着し、入植をはじめました。

その後、1835年に、マザロはハワイに一時帰国。イギリス領事に自分ら「小笠原移住民」の保護を請願していますが、このとき、この入植地には原住民はいなかったと報告しています。しかし、実際には上述のカナカ人やポリネシア系移民が多数居住していました。

マザロやセボリーらの入植後は、各国の捕鯨船が頻繁に寄港するようになり、彼等は物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していました。このように、この当時の小笠原諸島は全くの孤島ではなく、英米と強いつながりを持っていました。

ところが、その後入植者の英米人のあいだで対立が起き、その中でマテオ・マザロは死に、もう1人のイギリス人リチャード・ミリチャンプはグアムへ去ると、アメリカ人、ナサニエル・セボリーが事実上の首長的地位につきました。

その後、1851年4月にイギリス軍艦エンタープライズ号が父島に寄港しましたが、このときの艦長の航海記には、セボリーはまだ健在であること、また入植後20数名の子どもが生まれ半数は死に、また成長後島を出て行った者もいると記されていました。

また島内には、捕鯨船から脱出したハワイ・オアフ島出身の使役船員たちが身を隠していたことや、その他の船が寄港した際にも、病気のため下船しそのまま島に住み着いた白人がいたことも書かれていました。

これらのことから、ここでの生活はかなり過酷なものであるにもかかわらず、アメリカ人やポリネシア人にとっては一種の「駆け込み寺」的な存在であったことがうかがわれます。

ちなみに、これに先立つ5年前の1847年には、ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航しています。彼はその6年前、手伝いで漁に出て嵐に遭い、仲間の漁師とともに伊豆諸島の鳥島に漂着し、そこで米捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助されました。

漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降りましたが、ジョン万だけが船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて渡米し、教育を受けたあと、彼自身も船乗りを目指しました。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、1846年(弘化3年)から捕鯨船員として生活していましたが、この父島への寄港はそのときのものです。

後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになりますが、それはこのときよりもさらに15年もあとのことになります。

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そして、1851年のこのエンタープライズ号の寄港から2年後の嘉永6年(1853年)5月、マシュー・ペリー提督率いる艦隊が小笠原を訪れました。彼等は、その後首長のセボリーとも親しくなり、いずれこの地をアメリカの植民地とする際には、その新政府の頭目に彼を据えようと考えたようです。

このときのペリーらの航海日誌には、父島には最年長のセボリーなどの欧米系白人のほかにミクロネシア系カナカ人やポリネシア系移民がおり、全体で39人の島民が住んでいると記されています。

その2カ月後の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーは浦賀に入港し、日本の開国へ向けて大統領の親書を幕府に手渡しました。翌年2月には7隻の軍艦を率いて再び横浜沖に迫り、早期の条約締結を求めた結果、3月に日米和親条約が締結されました。

さらに1858年7月に日米修好通商条約が締結されました。日本に関税自主権がないなど、この条約は日本にとっては不平等なものでしたが、こうしてともかく日米の交易が始まると、下田・箱館に加え、その後も神奈川、長崎、新潟などが次々と開港・開市されました。

そして、1861年12月(文久元年11月)、幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告。翌年1月には、外国奉行水野忠徳と、ジョン万次郎を含む一行が咸臨丸に乗り込み、同船を含む4隻の艦隊で小笠原に派遣されました。その目的は「開拓調査」でした。

ジョン万次郎が選ばれたのは上述の通り小笠原付近に知識があったためであり、また当時ここに住んでいた英米人とも面識があったあめであり、しかも通訳としても有用だったためです。ちなみに万次郎はこの翌年に幕府の軍艦操練所教授となっており、帆船「一番丸」の船長に任命されると、同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行っています。

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水野はこの小笠原での開拓調査に赴く前に、駐日イギリス公使やアメリカ合衆国公使に接触をしており、その目的は、アメリカやイギリスの小笠原領有の意思があるかどうかを内々に確認しておきたかったためでした。

これに対してアメリカ公使ハリスは、「本国政府へ報告し回答を待つ」と答えて即答を控え、ただ「小笠原島在住アメリカ人の既得権の保護を要請する」とだけ水野に伝えました。一方のイギリスの対応はというと、イギリス公使オールコックは、日本との貿易の伸長のみを主張し、領土に対する野心がないという態度をとりました。

その背景には、ちょうどそのころ、ロシア軍艦が対馬を占領する、という事件があったことが関係していました。この対馬占領のロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていたためでした。

これに対してイギリスは、公使オールコックとイギリス海軍中将ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。老中・安藤信正らと協議した結果、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻を対馬に回航して示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議を行いました。

その結果、ロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、対馬から退去しました。しかし、イギリス側にはこのように幕府に加担してロシアの侵略を阻止した手前、自分たちも小笠原を領有したい、とは言いだせない雰囲気がありました。さらにイギリスは「東禅寺事件」をめぐって、幕府と問題を抱えていました。

東禅寺事件というのは、攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件で、1861年と1862年の2回発生したものです。最初の事件は、文久元年(1861年)5月、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件で、彼は危うく難を逃れましたが、書記官と長崎駐在領事が負傷しました。

事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみました。

水野忠徳がオールコックに小笠原の領有の意思を確認しようとしたのはちょうどこのタイミングでした。イギリスはこの東禅寺事件において日本との交渉を有利に進めようとする中で、下手に小笠原の問題を持ち出せば、交渉が難航する可能性があると考えたわけです。

こうして、水野は、イギリスに小笠原の領有の意思がないことを確認し、アメリカからは明確な回答がない状況下ではありましたが、咸臨丸で父島二見湾に入港しました。そして、ジョン万次郎を通訳として島の長であるアメリカ人、セボリーと会談しました。

この会談の中では、35年前にイギリス人ビーチーが、島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けた話なども出たようですが、水野は上述のとおり事前にイギリスに領有の意思がないことを確認しており、あえてその話は深入りしないようにし、セボリーらアメリカ人の現在の島での生活についての話題を中心にしました。

セボリーらもこの島での過酷な生活に辟易していたようで、自分たちの生活の将来に憂いたこともあり、この会談の結果、日本人らに島内の木々の伐採や野獣の狩猟を認めました。しかし、セボリーらも自らの生活に必要な分は自由に採ることを幕府側に認めさせるなど、双方にとってのハッピーハッピーの結論が強調されました。

一行は続いて母島にも向い、この合議の結果の通達を行っています。無論、この協議結果はアメリカ本国政府からの回答を得る前のことでした。が、日本側としては既に各国に小笠原開拓の意思を表明してしまっており、かつ現地の最高責任者セボリーも異議を唱えなかったことから、その後アメリカが小笠原領有を主張してくることはありませんでした。

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この翌年の文久2年(1862年)には、再び東禅寺において、警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺する、という事件が起こりました(第二次東禅寺事件)。幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行いましたが、紛糾するうちにさらに次の事件、生麦事件が発生しました。

現・横浜市鶴見区生麦付近において、薩摩藩の島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件で、尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となりました。

このための賠償にあたっての日英交渉はこじれにこじれ、このためイギリスとの一戦が懸念されるようになると、翌年、小笠原では日本人全員に避難命令が出されました。

1863年(文久3年)6月、イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要します。が、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出したため、ついに「薩英戦争」が起こりました。

この戦闘において、イギリスは薩摩の軍事施設や城下へ甚大な被害を与えました。が、一方の英側も戦艦の大破1隻・中破2隻、死者13人を含む死傷者63人の被害を出し、弾薬や石炭燃料の消耗も激しかったことから薩摩を後にし逃げ帰るように横浜港に戻りました。

当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退したこの結果は、世界を驚かせ、当時のニューヨーク・タイムズ紙に「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」と言わしめました。

しかし結局、この戦争の後始末は当事者の薩摩ではなく幕府がやることになり、幕府は生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見ましたが、この賠償金の受領によってイギリスは小笠原への入植の理由づけを失いました。また小笠原への執着は損益の方が大であり、他の港での交易を優先すべきと判断するに至ります。

幕府もまたこのころから自国領土というものを強く意識するようになったようで、そのため小笠原も日本固有の領土、と諸外国に認めさせるため、その後も八丈島などから日本人入植者を次々とここへ送りこみ、開拓を進めました。これによりさらにイギリス人が入り込む余地は少なくなりましたが、この点はアメリカも同じでした。

ところが、明治になってこの小笠原問題は再燃します。イギリスはかつてビーチーが父島に領有の証しを残したことを理由に突如この島の領有を主張。このため、日本政府は1875年(明治8年)、この当時国内における最優秀船であった「明治丸」を父島へ派遣しました。

同年11月21日、明治丸は日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港しましたが、新鋭船であるため船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着きました。このためイギリスよりも早く調査を進めることができ、このため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたといわれています。

このとき、調査団はセボリーの息子ホーレス・セボリーやフランス人ルイ・ルサールを含む13戸68人(男性36人、女性32人)および日本人女性2名を父島で確認しています。
そして、翌1876年(明治9年)小笠原諸島を内務省所轄とし、日本の統治を正式に各国に通告し、ここに小笠原の日本領有は確定しました。

その後1882年(明治15年)には、居住していた20戸72人全員が、帰化して日本人となりました。ちなみに明治丸はその後、1887年(明治20年)にも東京府知事、高崎五六らを乗せた硫黄列島の視察調査にも従事しました。その結果、1891年(明治24年)にここも日本の所轄となり、1904年(明治37年)には硫黄島への入植・定住が始まりました。

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その後の第二次世界大戦中の小笠原諸島は、戦火が間近に迫っていると判断されたことから、1944年(昭和19年)に父島母島を中心とする住民7000人弱が本土へ強制疎開されました。が、残留者800人は余りはその後の戦闘に巻き込まれました。

父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場、無線通信所などを設置していましたが、その後陸軍築城部父島支部が設置され、砲台が築かれ1941年からは戦備に入りました。日米開戦後は陸海の各部隊が防備にあたるとともに、海軍航空隊が防備に当たっていました。

1944年、大本営はマリアナ諸島及びトラック島を始めとする南洋諸島の防備拡大を目的とした第31軍を編成、父島要塞司令部もこの指揮下に置かれ、同年5月、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に第109師団を編成、小笠原兵団栗林忠道兵団長の指揮下に入りました。

この頃から父島要塞への米軍の空襲が激化。特に1944年8月頃から開始されたスカベンジャー作戦では艦砲射撃も交えた猛攻撃が行われ、日本側は父島海軍航空隊がほぼ壊滅、濱江丸等の多数の艦艇を喪失しました。

しかし日本側の反撃も激しく、幾つかの米軍機が対空砲火で撃墜されており、その中には、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていました。

その後の父島要塞には散発的に空襲が行われた程度で、母島共々大きな地上戦闘は発生しないまま終戦を迎える事となります。戦闘も食糧事情もそれほど厳しいものではありませんでしたが、これに対して、両国にとって最も戦略的に重要とされたのは硫黄島であり、ここでの戦いは熾烈でした。

日本側守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となり、第二次世界大戦中を通してノルマンディー上陸作戦を上回る各国最大の犠牲者を出しました。この硫黄島の事については、後日また日を改めて書いてみたいと思います。

この硫黄島での激しい戦いに物資や食料の抽出が行われた事もあり、父島では、残留島民のみならず守備兵も困窮と飢餓の中で苦しい自活を強いられました。が、空襲のみで地上戦はおきておらず、現地自活が営まれ、食糧事情は極端には悪くなく補給はある程度確立されていました。

そうした中で、「小笠原事件」と呼ばれる事件も起きています。日本の陸海軍高級幹部が、米軍捕虜8名を処刑し、うち5名の人肉を嗜食したとされる事件です。陸海軍幹部が酒宴の場にて敵愾心高揚・士気高揚を目的とし行ったものですが、人肉を食するほど食糧事情が悪化していたわけではない中での出来事であり、戦後大きな批判を呼びました。

1945年9月3日、米海軍駆逐艦ダンラップ艦上で小笠原の日本軍は降伏調印。父島は米海軍の占領下に置かれ、残存していた重火砲類は全て爆破処理にて無力化が行われました。10月には欧米系島民が日系島民に先んじて帰島を果たしましたが、占領下での困窮した生活の中、要塞跡内の兵器の残骸を屑鉄として回収し生計を立てる住民もいました。

戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離されました。そして欧米系島民のみが帰島を許されました。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校の「ラドフォード提督初等学校」で英語による教育を受けました。

1956年に設立された9年制の学校で、「ラドフォード」は当時のアメリカ海軍第七艦隊司令官の名に由来します。職員は3人だけで、学習用語は英語で、軍人や欧米系島民の子弟がここで学びました。島内には高等学校は無かったので、進学希望者はグアム島の高校へ進学しましたが、のちの日本復帰後は、小笠原村立の小中学校になりました。

1967年(昭和42年)、小笠原諸島の日本への返還が決まり、1968年(昭和43年)6月26日には 協定が発効し、小笠原諸島は日本に返還されると同時に、東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属するようになりました。かつて小笠原支庁直轄だった硫黄列島および西之島もこのとき小笠原村の区域となりました。

日本への返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存するようになりました。このほかの欧米系島民の出自は、米本土、ハワイ、イギリス、ポリネシアのほか、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、など多種多様です。

しかしアメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住した人達もいます。

残った多くの欧米系島民はその後姓を日本風に改めました。アメリカ系であるセイボリーは「瀬掘」あるいは「奥村」に、ワシントンは、「大平」・「木村」・「池田」・「松澤」、ウェッブは「上部」に、ギリーは「南」にといった具合であり、ほかにポルトガル系のゴンザレスは「岸」・「小笠原」になどに姓を変えています。

4~6世代目を迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくないようですが、今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫だそうです。

日本に帰化した後も、キリスト教を信仰するなど彼らの文化を維持し続けたものもおり、言語についても日本語の中に英語の語彙が混じる一種のピジン言語・クレオール言語化した「小笠原方言」が用いられています。

2011年(平成23年)、小笠原諸島は、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多いのが特徴です。

先の大戦で日本は多くの者を失いましたが、幸いにもこの小笠原諸島は取り戻すことができました。日本の固有の領土として育んできたこの豊かな自然を未来永劫守っていきたいものです。

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下田と黒船


今日7月4日は、アメリカでは独立記念日ということで、祝日でありお休みです。

1776年に独立宣言が公布されたことを記念したものであり、アメリカ各地ではパレードが開かれ、一般家庭でもバーベキューやピクニックなどのイベントが開かれることも多く、野球などもこの日に特別な試合が行われたりします。

各地では花火を打ち上げるところもあり、ワシントンD.C.の花火は1777年以来の伝統行事だそうです。

このように、7月4日の前後数日間は文字通り全米をあげてのお祭り騒ぎが繰り広げられます。独立記念日にかこつけてバーゲンセールが行われることも多く、乗用車などの高額な耐久消費財も含めて多くの店舗が特売を実施します。

しかし、独立宣言が行われた日をもってアメリカの独立戦争が終わったと勘違いしている人がいますが、これは間違いです。独立戦争はその後7年に渡って続き、最終的に戦争が収束したのは1783年にパリで講和条約が締結されたときになります。

ただ、「アメリカ合衆国」という国がこの日からスタートしたことは間違いなく、今から238年前の今日、13の植民地がイギリスから独立し、独自の路線で新しい国づくりを始めたのでした。

先日我々が訪れた下田に黒船が現れたのは、この独立記念日からさらに78年も後のことになります。

1854年(嘉永7年)のことであり、この年の米国艦隊の来訪は、その前年の1853年(嘉永7年)に同艦隊が浦賀を訪れて以来、二度目になります。

この年も最初に寄港したのは浦賀であり、その後の1ヶ月にわたる協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れました。このとき全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国は、ついに解かれることになりました。

なぜその後、浦賀から下田へ交渉の場が変えられたのかといえば、江戸から多少離れているとはいえ、ここから艦砲射撃をやられた日には、その弾丸が江戸城まで届きかねないと幕府が考えたためです。

こうして移された交渉の場は、下田公園のすぐ近くにある「了仙寺」というお寺に設けられ、4月にペリーらが下田に上陸しておよそ2か月後の1854年の6月17日(嘉永7年5月22日)、和親条約の細則をめた全13箇条からなる、いわゆる「下田条約」が締結されました。

最初ににペリー提督が下田に上陸したとき、お供はわずか7人だったそうで、了仙寺で黒川嘉兵衛(浦賀奉行支配組頭)から、お茶の接待を受け、「九年母」というみかんの一種で作られた菓子等が出されたそうです。

そのときは、境内はもちろんお寺の奥の庭まで、お寺中が見物の男女群集で隙間もないほどだったといいます。

しかし実際には、外国人が上陸しているときは女性は外出禁止、男性でも「用心して、見物のために外に出たりしないように」というお達しが出ていたそうで、このほかにも「人家は戸障子をかたくしめきり、店屋は商品を片付けて、人家に外国人が立ち入らないように、飼っている牛を外国人に見られないように」というお触れが出されていたそうです。

にもかかわらず了仙寺には多数の人が押しかけていたわけであり、よほどこのころの下田の住民は好奇心あふれる人達だったのでしょう。

ところで、このペリーの下田訪問に至るまでの独立戦争以来の78年間、アメリカはいったい何をやっていたのでしょうか。

まず、彼らが独立後に最初にやったことは、地元住民であるインディアンを征服することでした。ヨーロッパから移住してきた13の植民地の面々は、北西部を中心として各地でインディアンの掃討を繰り広げ、この結果これに勝利し、1795年ころまでにはほぼ北西部の全土を手中にしました。

続いて未開の地であった西部の勢力拡大を目指しはじめ、南部では1803年にフランス領であったルイジアナ買収を行なっています。しかし、独立を勝ち取ったとはいえ、このころまだ北米大陸の西部のほうではまだイギリスが勢力を握っており、彼らが新生アメリカ合衆国の西部開拓を阻みました。

このため、1812年に再度米英戦争が勃発しましたが、1814年にはイギリスと停戦条約を締結することに成功し、事態は収拾の方向へ向かいます。

この条約で米英間の北東部国境が確定し、イギリスはカナダ側へ撤退。カナダをも併合しようとしていたアメリカ合衆国の野心は潰えたものの、その後イギリスはカナダの独立も許し、結局北米大陸から撤退していますから、両者ともに痛みわけという結果でした。

しかしアメリカにとって、強国イギリスを二度も撃退できたことが大きな自信となったことは間違いなく、このときからアメリカ人の心の中には現在のような大国意識が芽生えはじめたのでしょう。

1819年にはスペイン領フロリダを買収、さらに開拓を進め、入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも西進し、1836年にはメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立を実現。そしてその9年後の1845年にはこれをアメリカへ併合しています。

更に1846年にはメキシコと米墨戦争を引き起こして勝利。この結果メキシコ人を南に追いやることに成功し、これによりアメリカ合衆国の領土はついに西海岸にまで達しました。

こうして、現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアが確立されたわけですが、この頃からアメリカは太平洋へもさかんに進出するようになり、電気のないこの時代には夜間の明かりとして必需品であった「鯨油」を求めて遠洋捕鯨が盛んに行われるようになりました。

鯨を求めての遠洋航海は徐々に太平洋の西側にまで拡大していき、こうして1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣することになったのでした。

その結果、日本に日米和親条約と下田条約という二つの不平等条約を締結させることに成功。これ以後、アジア外交にも力を入れるようになっていくわけです。

この下田条約を締結するに先立ち、その前年の1853年(嘉永6年)に浦賀に入港したいわゆる「黒船」は以下の4隻でした。

蒸気外輪フリゲート:サスケハナ
蒸気外輪フリゲート:ミシシッピ
帆装スループ:サラトガ
帆装スループ:プリマウス

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に現れ、日本人が初めて見たこの艦隊は、それまでも何度か日本近海に現れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。

黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、この様子から、「黒船」の呼称が生まれました。

船体が黒かったのは、船内への浸水を防ぐためにタールやピッチを塗っていたためでしたが、この工夫はアメリカ独自のものというわけではなく、鎖国前に頻繁に交易をしていたポルトガルのキャラック船と呼ばれる大型の帆船にも採用されていました。

しかしその後ポルトガルは日本との交易権益をオランダにとられてしまっているため、幕末に至るまで多くの日本人はこうした黒塗りの船を見る機会は少なく、慣れていなかったのです。

しかも、浦賀沖に投錨したアメリカ艦隊の船は大きく、とくに旗艦サスケハナとミシシッピは巨大でした。

当時の日本の帆船、千石船は一番大きいものでも100トンほどです。これに対して、4隻の内で最も総トン数が少なかったサラトガでさえ、882トンもあり、その8倍以上の排水量を持っていました。

最も大きかったサスケハナに至っては2450トンもあり、しかも全体が真っ黒に塗られていたわけであり、当時の人々にとっては、見たこともない大きな黒い船はかなり不気味な存在であったことには間違いありません。

しかも、これらの船には合計で73門もの大砲が積まれ、入港と同時に湾内でさかんに空砲を発射しはじめました。さらに、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始め、その後もアメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として頻繁に空砲を発射したといいます。

実はこのペリー艦隊の来航は、その前年に、長崎の出島のオランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスから、長崎奉行に知らされていました。

この通報により、幕府は事前にアメリカが日本との条約締結を求めているということを知り、米国から派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がペリーであることや、艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載していることなども知っていました。

ヤン・ドンケル・クルティウスからは、日本への到来はも4月下旬以降になるであろうと伝えられていましたが、アメリカ側の準備が手間取ったため、実際の来航はこれより数か月遅れになりました。

黒船の来航を知っていた幕府は、このことを市中の役人に通告しており、町民にも異国船がやってくるかもしれないから注意するようにとのお触れも出てはいましたが、この最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。

しかし、空砲だとわかると次第に町民もこの音に慣れ、やがては砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜ぶような風潮も出てきたといいます。

その後、浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、乗船して接触を試みるものもありましたが、幕府から武士や町人に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになっていきました。

このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という有名な狂歌が詠まれました。

上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけでも、カフェインの作用によって夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(4隻)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄したものです。

この最初のペリーの来航の際、第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態にはありませんでした。

このため、老中首座阿部正弘は幕閣とも協議した結果、国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論を出し、7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道がペリーと会見しました。

ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞くため、1年後に再来航すると告げ、いったん帰国しました。

艦隊は7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して、次回の来航まで香港に滞在していました。

こうして、翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。

最初のペリー出航からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)には、将軍家慶が死去しています。その後継者は家定となり、こうして第13代将軍が誕生しました。しかしこの家定も病弱で国政を担えるような人物ではありませんでした。

ペリーが再度来日するまでには、開国するか否かについて老中たちによる協議が重ねられましたが名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませました。

彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めましたが、結局のところ、ペリーの再来に至るまで結論は出ていませんでした。

ペリーの来航は、幕府との取り決めで1年後のはずでしたが、あえて半年で戻ってきたのは、幕府に動揺を与え決断を促すためでした。案の定、幕府は大いに焦りましたが、実はペリーは香港で将軍家慶の死を知っており、その国政の混乱の隙を突いて来航すれば必ず開国に持ち込めると考えたのでした。

こうしたところに、彼の優れた外交手腕を見て取ることができます。日本遠征の際にウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出したその基本計画にも、任務成功のためには少なくとも4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦にすることが日本人を恫喝する上においては有効である、と書いてありました。

日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識でき、「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」と述べ、さらにはオランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき、としており、浦賀を最初の寄港地として選んだのにはそれなりの意味があったのです。

こうして、1854年2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)がまず浦賀に現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までには蒸気外輪船である、旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」の3隻と、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の3隻、しめて合計7隻が江戸湾に集結し、江戸は再び大パニックに陥りました。

さらにその後も、3月4日(嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)が、3月19日(嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着し、ペリー艦隊は総勢9隻という大艦隊になり、まるで威嚇するかのように時に位置を変えて、江戸の湾内に居座るようになりました。

しかし、江戸市中の市民はその前年のときのようにやがて慣れ、その後やはり浦賀には見物人が多数詰め掛けるようになり、観光地のようになっていったそうです。

こうして、約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れました。3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸。その後、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなりました。

しかし、前述のとおり、艦隊を江戸城のすぐ側に置いておきたくない幕府の意向もあり、交渉場所はその後下田の了仙寺へ移されました。

下田への入港にあたっては、まず4月15日(旧暦3月18日)にサザンプトンとサプライの2隻が入港、そしてその2日後には、レキシントンとバンダリアが、そしてその翌日の4月18日(3月20日)には、ペリー提督が乗っている旗艦ポーハタンとミシシッピーの巨艦2隻が入港。

さらに、すこし遅れて5月4日(4月5日)にマセドニアンが入港しましが、この遅れの原因は、マセドニアンは、米水兵達の食料を調達するため小笠原まで行って漁をしていたためでした。

入港に際し、海亀70匹と大鯨2頭を獲ってきたという記録が残っており、これによりペリー艦隊は豊富な食料を持っていたことがわかります。

こうして下田には7隻の船が入港しましたが、浦賀に入港した9隻のうち、帆装スループのサラトガだけは、その俊足を生かして日米和親条約の締結の成功を知らせるためにアメリカ本国へ戻ったようです。

サラトガに乗ってアメリカに向かい、その成功を知らせたのはアダムス中佐という人物で、彼はそのおよそ半年後、この7隻のペリー艦隊のうちのポーハタン号に乗り、アメリカ本土から正式な日米和親条約批准書を持って、再度下田に入港しています。

浦賀に入港した9隻のうち、下田に入港しなかったもう一隻は蒸気外輪フリゲート艦であるサスケハナです。この船が下田条約締結の際にどこに行っていたのかについても調べてみたのですが、私が調べた限りでははっきりとしたことがわかりませんでした。

しかし、ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去っており、東洋における拠点基地のある香港への帰路の前に、琉球王国にも立ち寄って正式に通商条約を締結させています。このため他の7隻に先んじて琉球へ向かっていたのかもしれません。

その三か月後の7月に入ってから、このサスケハナは初めて下田に入港しており、このときはアメリカ商船レデイ・ピアース号とサザンプトン、ミシシッピーなどの緒船が一緒であり、塗物や焼物、竹細工等が積みこまれたという記録が残っています。

このため、日米和親条約が締結されたことを香港などにいる他の自国船にも伝えるために、ここに帰っていたかもしれません。

以上、1854年に日本に再来航したペリー艦隊9隻の動向を整理すると以下のようになります。

○浦賀及び下田の両方へ入港
・サザンプトン 帆装輸送艦
・サプライ帆装輸送艦
・レキシントン 帆装輸送艦
・バンダリア(バンデーリア)帆装輸送艦
・旗艦ポーハタン 蒸気外輪フリゲート
・ミシシッピー 蒸気外輪フリゲート
・マセドニアン 帆装スループ

○浦賀へ寄港後、アメリカへ帰国
・サラトガ 帆装スループ

○後日、下田に入港
・サスケハナ 蒸気外輪フリゲート

こうして日本と条約を結び、長い鎖国の呪縛から解き放ったアメリカですが、その後、熾烈な南北戦争に突入することになります。そして皮肉なことには、その経過において日本や清に対する影響力を失い、その市場は結局、英国やフランス、ロシアによって奪われるようになってしまいました。

これら日本にやってきた黒船たちもまたその後、この南北戦争に投入されています。

旗艦であったポーハタンは、南北戦争中にはメキシコ湾艦隊の旗艦となり、フロリダやカリブ海での歴戦において活躍。南北戦争終了後は、南太平洋艦隊の旗艦としての任務につき、米国の権益を守るため、チリに派遣されました。

その後本国艦隊に復帰し、1879年まで旗艦を務めましたが、1886年に退役。その後売却され、1887年(明治20年)に解体されました。

他、日本を訪れた2隻の蒸気外輪船のうち、サスケハナ号はその後、1856年にはヨーロッパへ廻航され、地中海艦隊の旗艦となりました。1861年に南北戦争が勃発するとアメリカに戻り、大西洋封鎖艦隊に配属され、南北戦争中は主に大西洋で活躍し、その後ポーハタン号よりも20年ほど早い1868年に退役しました。

そして1883年(明治16年)に売却され、スクラップとなりましたが、来航した下田港には、この艦を模した遊覧船「黒船サスケハナ」が現在も就航しています。

もう一隻の蒸気船、ミシシッピは1855年にニューヨークに戻り、1857年に再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートしました。が、1860年にはボストンに戻り、やはり南北戦争に投入されます。おもにフロリダなど南部海岸で活躍し、キーウェスト沖やニューオリンズ沖での南軍との戦いにおいて活躍しました。

1863年3月、ミシシッピはハドソン港において南軍と対峙する作戦のため、他の6隻の僚艦とともに出港しました。このとき、この6隻はペアとなって行動していましたが、ミシシッピだけは単独で航行しており、ハドソン港を守る敵の砦の前を通過しようとしたとき、不覚にも操船ミスにより座礁してしまいました。

敵の砲弾が降り注ぐ中、艦長のスミス大佐と副官のジョージ・デューイ(後に、米海軍唯一の大元帥となる)は艦を離礁させるべくあらゆる手段を講じましたが、機関は破壊され、大砲は沈黙し、ついには南軍による鹵獲(ろかく、敵対勢力の兵器を奪って自己の兵器として運用すること)を避けるため、ミシシッピは自らに火をつけました。

火薬庫に火がまわり、ミシシッピは爆発・沈没し、このとき64名が死亡しました。しかし残る224名は他の艦に救助されたそうです。

これらの蒸気船に同伴して日本を訪れた他の帆走船の多くもその後の南北戦争に投入されています。そのすべての消息をここで詳細に記すことはできませんが、アメリカ本土へ日米和親条約締結の第一報を知らせたサラトガは、その後おもにカリブ海やメキシコ湾の巡航にあたっていました。

その後アフリカ沿岸へと向かい、イギリスの奴隷船を鹵獲し、多数の奴隷たちを解放するなどの活躍をしましたが、南北戦争勃発の報を受け、合衆国に帰還。

デラウェアの沖合で南軍艦船の接近とデラウェア湾外への展開を阻止することになり、その後数年はこの任務に就いていましたが、その後はカロライナ沖で海上封鎖に当たるよう命じられました。

この大西洋岸での任務についている間、何度か兵員を上陸させて南軍に攻撃を仕掛け、多数の捕虜を捕らえ、相当量の武器、弾薬、補給品を鹵獲ないし破壊し、さらに、多数の建物、橋梁、製塩施設などを破壊するなど大活躍をしました。

南北戦争後は1877年に最後の任務を与えられましたが、それまでの活躍を称えられ、これ以降11年あまりの間は練習船として用いられることになりました。練習船となったサラトガは、大西洋岸各地の海軍基地や海軍造船所を回り、さらにヨーロッパにも航行しました。

練習船としての任務は1888年に解かれ、ここでようやく退役となり、その後はペンシルベニア州に貸与され、ペンシルベニア州フィラデルフィアの州海事学校の練習船となりました。しかし、1907年(明治40年)に、スクラップとして売却され、解体されました。

このほか、同じく帆船スループのマセドニアンも南北戦争で活躍しましたが、その後一般企業に売却され、晩年はホテルとして使われ、またカジノ船として使われたこともあったようですが、1922年(大正11年)に火災により焼失。

帆走スループ船バンダリアもまた、南北戦争に投入されたあと、1863年にはニューヨーク海軍工廠で退役。その後沿岸警備船などとして使われていたようですが、1870年から1872年の間のころまでにはポーツマス港に係留されていたようです。しかし、痛みがひどくなっていたという記録があるだけで最後がどうなったのかはわかっていません。

残る3艦の帆走補給船は、これまでの船よりも小型であり、装備も貧弱であると考えられたのでしょう、南北戦争時にはたいして重用はされなかったようです。しかし、サプライ号だけは大西洋やヨーロッパ方面で軍の輸送船として使われ続け、1884年(明治17年)にニューヨークで売却、解体されています。

これらの黒船を率い、艦隊の主であったペリーは米国へ帰国後、日本への航海記を「日本遠征記」としてまとめて議会に提出しており、これは現在でもこの当時の日米交渉の実態を知る上で一級資料となっています。

しかし、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年(安政4年)に64歳で死去しており、自身がその開国の端尾を開いた新しい時代の日本の姿をついにみることはありませんでした。

ちなみに、昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、このペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われたといいます。

今はどうなっているか知りませんが、おそらくアメリカ海軍の資料館か何かに大切に保管されているに違いありません。

このほか、下田にはこのペリー艦隊の備品のようなものは何も残っていないようですが、ペリーらが外交交渉を行った了仙寺には宝物館があり、ここには、その当時の様子を書き記した書画や、船員たちが残した所持品などが展示されているようです。

また、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのは、下田公園下の「鼻黒」という地であり、ここに上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられるとともに、記念碑の前にはアメリカ海軍から寄贈されたという錨が設置されています。

どういういわれのある錨なのか、その前に説明の看板があったように思いますが、その内容は良く覚えていません。が、たしかこの和親条約時代のものではなく、かなり後世のアメリカ海軍の艦船のものだったと記憶しています。

この場所からは、ペリーらが停泊したはずである下田湾が一望にできます。先日行ったときにはその上に青い空が広がっており、そこには小さな貨物船も停泊していましたが、おそらくはペリーらの黒船のほうが大きかったでしょう。

ときおり、観光船のサスケハナ号がその湾内を横切る姿を見ることもできますが、その20倍もの大きさの黒船を見た下田の人達の驚きは、わかるような気がします。そのときから既に159年が経過しましたが、下田には今、こうした大きな船が来航することもなく、静かな時を迎えています……

さて、今日は、一日雨のようです。先日、この梅雨は空梅雨ではないかと書きましたが、関西方面はかなり降っているようであり、ここ伊豆地方も今日明日は結構な雨量になりそうです。

おそらくは、これが最後の雨で、来週には梅雨が明けるのでしょう。梅雨が明け、夏のあの青い空が戻ってくると、また海に行きたくなります。

そんなとき、下田がもっと近かったらいいのになぁと思います。このように毎回詳細にブログを書き続けているとそれほど下田が身近に思えてきました。次に行けるのはいつでしょうか……