今日7月4日は、アメリカでは独立記念日ということで、祝日でありお休みです。
1776年に独立宣言が公布されたことを記念したものであり、アメリカ各地ではパレードが開かれ、一般家庭でもバーベキューやピクニックなどのイベントが開かれることも多く、野球などもこの日に特別な試合が行われたりします。
各地では花火を打ち上げるところもあり、ワシントンD.C.の花火は1777年以来の伝統行事だそうです。
このように、7月4日の前後数日間は文字通り全米をあげてのお祭り騒ぎが繰り広げられます。独立記念日にかこつけてバーゲンセールが行われることも多く、乗用車などの高額な耐久消費財も含めて多くの店舗が特売を実施します。
しかし、独立宣言が行われた日をもってアメリカの独立戦争が終わったと勘違いしている人がいますが、これは間違いです。独立戦争はその後7年に渡って続き、最終的に戦争が収束したのは1783年にパリで講和条約が締結されたときになります。
ただ、「アメリカ合衆国」という国がこの日からスタートしたことは間違いなく、今から238年前の今日、13の植民地がイギリスから独立し、独自の路線で新しい国づくりを始めたのでした。
先日我々が訪れた下田に黒船が現れたのは、この独立記念日からさらに78年も後のことになります。
1854年(嘉永7年)のことであり、この年の米国艦隊の来訪は、その前年の1853年(嘉永7年)に同艦隊が浦賀を訪れて以来、二度目になります。
この年も最初に寄港したのは浦賀であり、その後の1ヶ月にわたる協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れました。このとき全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国は、ついに解かれることになりました。
なぜその後、浦賀から下田へ交渉の場が変えられたのかといえば、江戸から多少離れているとはいえ、ここから艦砲射撃をやられた日には、その弾丸が江戸城まで届きかねないと幕府が考えたためです。
こうして移された交渉の場は、下田公園のすぐ近くにある「了仙寺」というお寺に設けられ、4月にペリーらが下田に上陸しておよそ2か月後の1854年の6月17日(嘉永7年5月22日)、和親条約の細則をめた全13箇条からなる、いわゆる「下田条約」が締結されました。
最初ににペリー提督が下田に上陸したとき、お供はわずか7人だったそうで、了仙寺で黒川嘉兵衛(浦賀奉行支配組頭)から、お茶の接待を受け、「九年母」というみかんの一種で作られた菓子等が出されたそうです。
そのときは、境内はもちろんお寺の奥の庭まで、お寺中が見物の男女群集で隙間もないほどだったといいます。
しかし実際には、外国人が上陸しているときは女性は外出禁止、男性でも「用心して、見物のために外に出たりしないように」というお達しが出ていたそうで、このほかにも「人家は戸障子をかたくしめきり、店屋は商品を片付けて、人家に外国人が立ち入らないように、飼っている牛を外国人に見られないように」というお触れが出されていたそうです。
にもかかわらず了仙寺には多数の人が押しかけていたわけであり、よほどこのころの下田の住民は好奇心あふれる人達だったのでしょう。
ところで、このペリーの下田訪問に至るまでの独立戦争以来の78年間、アメリカはいったい何をやっていたのでしょうか。
まず、彼らが独立後に最初にやったことは、地元住民であるインディアンを征服することでした。ヨーロッパから移住してきた13の植民地の面々は、北西部を中心として各地でインディアンの掃討を繰り広げ、この結果これに勝利し、1795年ころまでにはほぼ北西部の全土を手中にしました。
続いて未開の地であった西部の勢力拡大を目指しはじめ、南部では1803年にフランス領であったルイジアナ買収を行なっています。しかし、独立を勝ち取ったとはいえ、このころまだ北米大陸の西部のほうではまだイギリスが勢力を握っており、彼らが新生アメリカ合衆国の西部開拓を阻みました。
このため、1812年に再度米英戦争が勃発しましたが、1814年にはイギリスと停戦条約を締結することに成功し、事態は収拾の方向へ向かいます。
この条約で米英間の北東部国境が確定し、イギリスはカナダ側へ撤退。カナダをも併合しようとしていたアメリカ合衆国の野心は潰えたものの、その後イギリスはカナダの独立も許し、結局北米大陸から撤退していますから、両者ともに痛みわけという結果でした。
しかしアメリカにとって、強国イギリスを二度も撃退できたことが大きな自信となったことは間違いなく、このときからアメリカ人の心の中には現在のような大国意識が芽生えはじめたのでしょう。
1819年にはスペイン領フロリダを買収、さらに開拓を進め、入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも西進し、1836年にはメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立を実現。そしてその9年後の1845年にはこれをアメリカへ併合しています。
更に1846年にはメキシコと米墨戦争を引き起こして勝利。この結果メキシコ人を南に追いやることに成功し、これによりアメリカ合衆国の領土はついに西海岸にまで達しました。
こうして、現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアが確立されたわけですが、この頃からアメリカは太平洋へもさかんに進出するようになり、電気のないこの時代には夜間の明かりとして必需品であった「鯨油」を求めて遠洋捕鯨が盛んに行われるようになりました。
鯨を求めての遠洋航海は徐々に太平洋の西側にまで拡大していき、こうして1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣することになったのでした。
その結果、日本に日米和親条約と下田条約という二つの不平等条約を締結させることに成功。これ以後、アジア外交にも力を入れるようになっていくわけです。
この下田条約を締結するに先立ち、その前年の1853年(嘉永6年)に浦賀に入港したいわゆる「黒船」は以下の4隻でした。
蒸気外輪フリゲート:サスケハナ
蒸気外輪フリゲート:ミシシッピ
帆装スループ:サラトガ
帆装スループ:プリマウス
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に現れ、日本人が初めて見たこの艦隊は、それまでも何度か日本近海に現れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。
黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、この様子から、「黒船」の呼称が生まれました。
船体が黒かったのは、船内への浸水を防ぐためにタールやピッチを塗っていたためでしたが、この工夫はアメリカ独自のものというわけではなく、鎖国前に頻繁に交易をしていたポルトガルのキャラック船と呼ばれる大型の帆船にも採用されていました。
しかしその後ポルトガルは日本との交易権益をオランダにとられてしまっているため、幕末に至るまで多くの日本人はこうした黒塗りの船を見る機会は少なく、慣れていなかったのです。
しかも、浦賀沖に投錨したアメリカ艦隊の船は大きく、とくに旗艦サスケハナとミシシッピは巨大でした。
当時の日本の帆船、千石船は一番大きいものでも100トンほどです。これに対して、4隻の内で最も総トン数が少なかったサラトガでさえ、882トンもあり、その8倍以上の排水量を持っていました。
最も大きかったサスケハナに至っては2450トンもあり、しかも全体が真っ黒に塗られていたわけであり、当時の人々にとっては、見たこともない大きな黒い船はかなり不気味な存在であったことには間違いありません。
しかも、これらの船には合計で73門もの大砲が積まれ、入港と同時に湾内でさかんに空砲を発射しはじめました。さらに、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始め、その後もアメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として頻繁に空砲を発射したといいます。
実はこのペリー艦隊の来航は、その前年に、長崎の出島のオランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスから、長崎奉行に知らされていました。
この通報により、幕府は事前にアメリカが日本との条約締結を求めているということを知り、米国から派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がペリーであることや、艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載していることなども知っていました。
ヤン・ドンケル・クルティウスからは、日本への到来はも4月下旬以降になるであろうと伝えられていましたが、アメリカ側の準備が手間取ったため、実際の来航はこれより数か月遅れになりました。
黒船の来航を知っていた幕府は、このことを市中の役人に通告しており、町民にも異国船がやってくるかもしれないから注意するようにとのお触れも出てはいましたが、この最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。
しかし、空砲だとわかると次第に町民もこの音に慣れ、やがては砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜ぶような風潮も出てきたといいます。
その後、浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、乗船して接触を試みるものもありましたが、幕府から武士や町人に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになっていきました。
このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という有名な狂歌が詠まれました。
上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけでも、カフェインの作用によって夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(4隻)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄したものです。
この最初のペリーの来航の際、第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態にはありませんでした。
このため、老中首座阿部正弘は幕閣とも協議した結果、国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論を出し、7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道がペリーと会見しました。
ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞くため、1年後に再来航すると告げ、いったん帰国しました。
艦隊は7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して、次回の来航まで香港に滞在していました。
こうして、翌年の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。
最初のペリー出航からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)には、将軍家慶が死去しています。その後継者は家定となり、こうして第13代将軍が誕生しました。しかしこの家定も病弱で国政を担えるような人物ではありませんでした。
ペリーが再度来日するまでには、開国するか否かについて老中たちによる協議が重ねられましたが名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませました。
彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めましたが、結局のところ、ペリーの再来に至るまで結論は出ていませんでした。
ペリーの来航は、幕府との取り決めで1年後のはずでしたが、あえて半年で戻ってきたのは、幕府に動揺を与え決断を促すためでした。案の定、幕府は大いに焦りましたが、実はペリーは香港で将軍家慶の死を知っており、その国政の混乱の隙を突いて来航すれば必ず開国に持ち込めると考えたのでした。
こうしたところに、彼の優れた外交手腕を見て取ることができます。日本遠征の際にウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出したその基本計画にも、任務成功のためには少なくとも4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦にすることが日本人を恫喝する上においては有効である、と書いてありました。
日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識でき、「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」と述べ、さらにはオランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき、としており、浦賀を最初の寄港地として選んだのにはそれなりの意味があったのです。
こうして、1854年2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)がまず浦賀に現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までには蒸気外輪船である、旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」の3隻と、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の3隻、しめて合計7隻が江戸湾に集結し、江戸は再び大パニックに陥りました。
さらにその後も、3月4日(嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)が、3月19日(嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着し、ペリー艦隊は総勢9隻という大艦隊になり、まるで威嚇するかのように時に位置を変えて、江戸の湾内に居座るようになりました。
しかし、江戸市中の市民はその前年のときのようにやがて慣れ、その後やはり浦賀には見物人が多数詰め掛けるようになり、観光地のようになっていったそうです。
こうして、約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れました。3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸。その後、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなりました。
しかし、前述のとおり、艦隊を江戸城のすぐ側に置いておきたくない幕府の意向もあり、交渉場所はその後下田の了仙寺へ移されました。
下田への入港にあたっては、まず4月15日(旧暦3月18日)にサザンプトンとサプライの2隻が入港、そしてその2日後には、レキシントンとバンダリアが、そしてその翌日の4月18日(3月20日)には、ペリー提督が乗っている旗艦ポーハタンとミシシッピーの巨艦2隻が入港。
さらに、すこし遅れて5月4日(4月5日)にマセドニアンが入港しましが、この遅れの原因は、マセドニアンは、米水兵達の食料を調達するため小笠原まで行って漁をしていたためでした。
入港に際し、海亀70匹と大鯨2頭を獲ってきたという記録が残っており、これによりペリー艦隊は豊富な食料を持っていたことがわかります。
こうして下田には7隻の船が入港しましたが、浦賀に入港した9隻のうち、帆装スループのサラトガだけは、その俊足を生かして日米和親条約の締結の成功を知らせるためにアメリカ本国へ戻ったようです。
サラトガに乗ってアメリカに向かい、その成功を知らせたのはアダムス中佐という人物で、彼はそのおよそ半年後、この7隻のペリー艦隊のうちのポーハタン号に乗り、アメリカ本土から正式な日米和親条約批准書を持って、再度下田に入港しています。
浦賀に入港した9隻のうち、下田に入港しなかったもう一隻は蒸気外輪フリゲート艦であるサスケハナです。この船が下田条約締結の際にどこに行っていたのかについても調べてみたのですが、私が調べた限りでははっきりとしたことがわかりませんでした。
しかし、ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去っており、東洋における拠点基地のある香港への帰路の前に、琉球王国にも立ち寄って正式に通商条約を締結させています。このため他の7隻に先んじて琉球へ向かっていたのかもしれません。
その三か月後の7月に入ってから、このサスケハナは初めて下田に入港しており、このときはアメリカ商船レデイ・ピアース号とサザンプトン、ミシシッピーなどの緒船が一緒であり、塗物や焼物、竹細工等が積みこまれたという記録が残っています。
このため、日米和親条約が締結されたことを香港などにいる他の自国船にも伝えるために、ここに帰っていたかもしれません。
以上、1854年に日本に再来航したペリー艦隊9隻の動向を整理すると以下のようになります。
○浦賀及び下田の両方へ入港
・サザンプトン 帆装輸送艦
・サプライ帆装輸送艦
・レキシントン 帆装輸送艦
・バンダリア(バンデーリア)帆装輸送艦
・旗艦ポーハタン 蒸気外輪フリゲート
・ミシシッピー 蒸気外輪フリゲート
・マセドニアン 帆装スループ
○浦賀へ寄港後、アメリカへ帰国
・サラトガ 帆装スループ
○後日、下田に入港
・サスケハナ 蒸気外輪フリゲート
こうして日本と条約を結び、長い鎖国の呪縛から解き放ったアメリカですが、その後、熾烈な南北戦争に突入することになります。そして皮肉なことには、その経過において日本や清に対する影響力を失い、その市場は結局、英国やフランス、ロシアによって奪われるようになってしまいました。
これら日本にやってきた黒船たちもまたその後、この南北戦争に投入されています。
旗艦であったポーハタンは、南北戦争中にはメキシコ湾艦隊の旗艦となり、フロリダやカリブ海での歴戦において活躍。南北戦争終了後は、南太平洋艦隊の旗艦としての任務につき、米国の権益を守るため、チリに派遣されました。
その後本国艦隊に復帰し、1879年まで旗艦を務めましたが、1886年に退役。その後売却され、1887年(明治20年)に解体されました。
他、日本を訪れた2隻の蒸気外輪船のうち、サスケハナ号はその後、1856年にはヨーロッパへ廻航され、地中海艦隊の旗艦となりました。1861年に南北戦争が勃発するとアメリカに戻り、大西洋封鎖艦隊に配属され、南北戦争中は主に大西洋で活躍し、その後ポーハタン号よりも20年ほど早い1868年に退役しました。
そして1883年(明治16年)に売却され、スクラップとなりましたが、来航した下田港には、この艦を模した遊覧船「黒船サスケハナ」が現在も就航しています。
もう一隻の蒸気船、ミシシッピは1855年にニューヨークに戻り、1857年に再び極東に派遣され、上海を基地に急拡大しつつある米国の東洋貿易をサポートしました。が、1860年にはボストンに戻り、やはり南北戦争に投入されます。おもにフロリダなど南部海岸で活躍し、キーウェスト沖やニューオリンズ沖での南軍との戦いにおいて活躍しました。
1863年3月、ミシシッピはハドソン港において南軍と対峙する作戦のため、他の6隻の僚艦とともに出港しました。このとき、この6隻はペアとなって行動していましたが、ミシシッピだけは単独で航行しており、ハドソン港を守る敵の砦の前を通過しようとしたとき、不覚にも操船ミスにより座礁してしまいました。
敵の砲弾が降り注ぐ中、艦長のスミス大佐と副官のジョージ・デューイ(後に、米海軍唯一の大元帥となる)は艦を離礁させるべくあらゆる手段を講じましたが、機関は破壊され、大砲は沈黙し、ついには南軍による鹵獲(ろかく、敵対勢力の兵器を奪って自己の兵器として運用すること)を避けるため、ミシシッピは自らに火をつけました。
火薬庫に火がまわり、ミシシッピは爆発・沈没し、このとき64名が死亡しました。しかし残る224名は他の艦に救助されたそうです。
これらの蒸気船に同伴して日本を訪れた他の帆走船の多くもその後の南北戦争に投入されています。そのすべての消息をここで詳細に記すことはできませんが、アメリカ本土へ日米和親条約締結の第一報を知らせたサラトガは、その後おもにカリブ海やメキシコ湾の巡航にあたっていました。
その後アフリカ沿岸へと向かい、イギリスの奴隷船を鹵獲し、多数の奴隷たちを解放するなどの活躍をしましたが、南北戦争勃発の報を受け、合衆国に帰還。
デラウェアの沖合で南軍艦船の接近とデラウェア湾外への展開を阻止することになり、その後数年はこの任務に就いていましたが、その後はカロライナ沖で海上封鎖に当たるよう命じられました。
この大西洋岸での任務についている間、何度か兵員を上陸させて南軍に攻撃を仕掛け、多数の捕虜を捕らえ、相当量の武器、弾薬、補給品を鹵獲ないし破壊し、さらに、多数の建物、橋梁、製塩施設などを破壊するなど大活躍をしました。
南北戦争後は1877年に最後の任務を与えられましたが、それまでの活躍を称えられ、これ以降11年あまりの間は練習船として用いられることになりました。練習船となったサラトガは、大西洋岸各地の海軍基地や海軍造船所を回り、さらにヨーロッパにも航行しました。
練習船としての任務は1888年に解かれ、ここでようやく退役となり、その後はペンシルベニア州に貸与され、ペンシルベニア州フィラデルフィアの州海事学校の練習船となりました。しかし、1907年(明治40年)に、スクラップとして売却され、解体されました。
このほか、同じく帆船スループのマセドニアンも南北戦争で活躍しましたが、その後一般企業に売却され、晩年はホテルとして使われ、またカジノ船として使われたこともあったようですが、1922年(大正11年)に火災により焼失。
帆走スループ船バンダリアもまた、南北戦争に投入されたあと、1863年にはニューヨーク海軍工廠で退役。その後沿岸警備船などとして使われていたようですが、1870年から1872年の間のころまでにはポーツマス港に係留されていたようです。しかし、痛みがひどくなっていたという記録があるだけで最後がどうなったのかはわかっていません。
残る3艦の帆走補給船は、これまでの船よりも小型であり、装備も貧弱であると考えられたのでしょう、南北戦争時にはたいして重用はされなかったようです。しかし、サプライ号だけは大西洋やヨーロッパ方面で軍の輸送船として使われ続け、1884年(明治17年)にニューヨークで売却、解体されています。
これらの黒船を率い、艦隊の主であったペリーは米国へ帰国後、日本への航海記を「日本遠征記」としてまとめて議会に提出しており、これは現在でもこの当時の日米交渉の実態を知る上で一級資料となっています。
しかし、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年(安政4年)に64歳で死去しており、自身がその開国の端尾を開いた新しい時代の日本の姿をついにみることはありませんでした。
ちなみに、昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、このペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われたといいます。
今はどうなっているか知りませんが、おそらくアメリカ海軍の資料館か何かに大切に保管されているに違いありません。
このほか、下田にはこのペリー艦隊の備品のようなものは何も残っていないようですが、ペリーらが外交交渉を行った了仙寺には宝物館があり、ここには、その当時の様子を書き記した書画や、船員たちが残した所持品などが展示されているようです。
また、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのは、下田公園下の「鼻黒」という地であり、ここに上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられるとともに、記念碑の前にはアメリカ海軍から寄贈されたという錨が設置されています。
どういういわれのある錨なのか、その前に説明の看板があったように思いますが、その内容は良く覚えていません。が、たしかこの和親条約時代のものではなく、かなり後世のアメリカ海軍の艦船のものだったと記憶しています。
この場所からは、ペリーらが停泊したはずである下田湾が一望にできます。先日行ったときにはその上に青い空が広がっており、そこには小さな貨物船も停泊していましたが、おそらくはペリーらの黒船のほうが大きかったでしょう。
ときおり、観光船のサスケハナ号がその湾内を横切る姿を見ることもできますが、その20倍もの大きさの黒船を見た下田の人達の驚きは、わかるような気がします。そのときから既に159年が経過しましたが、下田には今、こうした大きな船が来航することもなく、静かな時を迎えています……
さて、今日は、一日雨のようです。先日、この梅雨は空梅雨ではないかと書きましたが、関西方面はかなり降っているようであり、ここ伊豆地方も今日明日は結構な雨量になりそうです。
おそらくは、これが最後の雨で、来週には梅雨が明けるのでしょう。梅雨が明け、夏のあの青い空が戻ってくると、また海に行きたくなります。
そんなとき、下田がもっと近かったらいいのになぁと思います。このように毎回詳細にブログを書き続けているとそれほど下田が身近に思えてきました。次に行けるのはいつでしょうか……