気象庁からの発表はないようですが、今年の梅雨は「空梅雨」なのではないでしょうか。
少なくとも伊豆ではこれまでのところ、あまりまとまった雨が降ったという記憶はなく、降ったとしてもざんざんぶりというほどでもなく、翌日には陽射しに恵まれることも多かったように思います。
かといって、全く降らないというわけでもなく、庭木に水をやらなくてもいつも適度に地面が湿っているのは、しとしと雨が時々降っている証拠です。
暑さもそれほどではなく、しのぎやすいといえばこれほど快適な梅雨はこれまでにもなかったかもしれません。が、伊豆に来て一年あまり、ここでの生活が落ち着いてきたということもあり、気分的にそう思えるだけなのかもしれません。
とはいえ、先日下田に行ったときは結構蒸し暑く、あじさいの綺麗な下田公園の散策は楽しかったものの結構汗をかき、修善寺とはずいぶん違うなという印象でした。
それもそのはず、気象データを調べてみると、下田の年平均気温は約17℃と温暖で、降水量も年間1900mm余りと静岡県内の他の場所と比べるとかなり豊富です。
気候帯としては、典型的な亜熱帯ですが、背後には天城峠につらなる急峻な地形が続くことから、山間部では亜寒帯となり、このため、下田市全体でみると亜熱帯から亜寒帯までの幅広い気候帯で生育するさまざまな植生がみられます。
このため、四季を通して様々な草花や果実が生育し、しかも市の南部にはフィリピン諸島から北上する黒潮が流れていることから、これが運ぶ豊富なプランクトンが多くの魚をも誘うため、下田の海はいつも海産物に恵まれています。
伊豆半島の最南端という僻地であるという地理的なハンディを除けば、パラダイスのような場所であり、かつて下田で初代のアメリカ総領事を務めた、タウンゼント・ハリスも、下田の町を評して「清潔で日当たりがよく、気持ちがいい」と評しています。
ハリスは、1856年(安政3年)の8月に下田の東側の柿崎という場所にある「玉泉寺」という場所に総領事館が設立されて以降、1859年(安政6年)の12月までの、およそ3年半をここ下田で過ごしています。
その略歴は前にも書いたことがありますが、1804年アメリカニューヨーク州の片田舎のサンディーヒルズという場所の生まれで、その後ニューヨーク市に出て陶器や絹を扱う中国貿易に従事し成功しました。
このころから日本に対して特別な興味を持つようになり、「黒船」を率いて開国を迫り、同じく下田にも入港したことのあるマシュー・ペリーが日本に旅立つ際、便乗の申し入れをしていますが、これに失敗。
しかし、ペリーが日本の開国に成功した以後も熱心に政府に働きかけ続けていたところ、ようやく認められ、晴れて総領事に任命され、かねてよりの念願だった日本行きを果たしたのでした。
ヨーロッパでオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを通訳兼書記官として雇うなどの準備を終えたあと出発。インド・バンコク・香港経由の長旅を終え、1856年8月に日本へ到着。初めて踏んだ日本の土地が下田でした。
下田では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったようですが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構えることになります。
そして、この地で約3年間もの間、幕府と粘り強い交渉を行い、ようやく1858年6月19日に日米修好通商条約の調印に成功します。
下田を離れることになったのは、日米修好通商条約規定によって横浜・神戸・新潟・長崎・函館の5港が開港されることになったためであり、もはや下田に滞在する必要ながなくなったためです。このためハリスも江戸の善福寺に移ることになり玉泉寺の総領事館も閉鎖されたのでした。
こうして同年12月、日本の開国に大きな役割を果たした下田は閉港となり、ハリスも去って、元の静かな港町へと戻って行きました。
条約締結後、江戸に移ったハリスは公使に昇進、麻布善福寺を公使館とし、その後の日米外交に深く携わり、1862年(文久2年)に辞職帰国をした後、1878(明治11年)に病気で亡くなりました。
ニューヨーク市ブルックリンのグリーンウッドにある墓には、日本をこよなく愛した彼の栄誉が称えられ、日本の灯篭と桜が植えられているといいます。
アメリカに帰国したハリスは、その業績を表彰され、議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決しており、このため生活には困らなかったようで、その後は公職には就かず、動物愛護団体の会員などをしていたようです。
74歳で死去するまで、生涯独身であり、童貞を貫いたということですが、これは彼が敬虔な聖公会信徒であったということも関係あるのかもしれません。
が、調べてみたのですが、聖公会とはもともとプロテスタントの多くの宗派を生み出す母体ともなった会派で、さまざまな考えの人々を許容・包含するわりとリベラルな教会であり、一部のカトリック教徒のような頑固な体質を持つ教派ではなさそうです。
なので、キリスト教の教義に敬虔だったというよりも、彼自身がその生涯を独身で過ごすことを信条とするようなわりと窮屈な人間だったのかもしれません。
ほんとうのところはハリスご本人に聞かないとわからないのですが、生涯女性と交渉を持たなかったというのは本当のようです。幕府からあてがわれた「お吉」という妾をあてがわれたときもこれを拒否しています。
この「お吉」というのは、いわゆる「唐人お吉」として、後年、悲劇のヒロインとして戯曲や小説で有名になった人ですが、本名を「斉藤きち」といい、実在の人物です。
生まれは愛知県の知多半島だそうで、父が船大工だったこともあり4歳の時に下田に移り住むようになり、7歳で置屋の養女となり遊芸を仕込まれながら幼少の頃を過ごしました。
14歳で芸妓になり、下田の花街で働いていましたが、17歳の時に幕府のたくらみによってハリスの妾の話が持ち上がり、当時支配組頭の地位にあった伊佐新次郎の再三の説得により、奉公に出されることになります。
堅物のハリスのことですから、妾なんてとんでもないということなのですが、幕府はそれとも知らず、日米修好通商条約の交渉を優位に進めるためには、女性をあてがってハリスを籠絡しようと考えたようです。
ちょうどこのころ、ハリスは胃潰瘍をかこっており、幕府との条約交渉の最中、多量の吐血をして倒れています。幕府としてはしめしめ、ちょうどいい口実ができたとばかりに、病床で動けなくなったハリスの身の回りの世話をしてくれる女性を、ということでお吉を送り込むことにしたのです。
お吉は、下田一との評判もある美人だったそうでで芸妓としてもかなりの人気があったようですが、この話が持ち上がった当時、鶴松という幼馴染の恋人がおり、このため奉公に出るということは、すなわち鶴松とは無理やり別れさせられることにほかなりませんでした。
このため、心ならずもお国のためにということで、領事館に上がることとなったのですが、ハリスにすればは単なる「介護人」というつもりでOKしたつもりだったものが、当のお吉がやってきてその様子をみるとすぐに騙されたと知り、これを大激怒。たった3日でお吉を解雇し、帰宅させています。
ところが、その後、お吉は再び二ヶ月もの間、玉泉寺の領事館へ奉公に上がっています。
これは、彼女の家族側から領事館へ改めての依頼があったためのようです。せっかく幕府の肝いりで妾に入らせたのに、そのお役目を十分に果たせないまま帰宅させた上、支度金もそのまま懐に入れた、ということで周囲からは白い眼で見られるようになり、このままお吉を帰らせては村八分にされかねない、ということだったようです。
こうして、再度領事館へ奉公に上がったお吉でしたが、結果的には二ヶ月間で再度暇を出されてしまいます。再度の解雇の理由はよくわかりませんが、潔癖症のハリスとしては、やはり身近に女性を置いておくというのが我慢ならなかったのかもしれません。
こうして実家に帰ったお吉ですが、当然村人に受け入れられてもらえるわけもなく、その後は下田を離れ、横浜で芸妓か何かをして暮らしていたようです。ところがその横浜で偶然に幼馴染の鶴松と再会。28歳になって初めて世帯を持っています。
2人はその後下田に戻り、鶴松は船大工に従事し、お吉は髪結業などで生活を営んでいました。しかしこのころから夫婦喧嘩が絶えなくなり、彼女の乱酒も原因となり、離婚。
鶴松はその直後に病死したといい、36歳になったお吉は三島に移り住み、この歳で芸妓業を再開しています。
やがて42歳になったころ、三島で稼いだ金で下田に戻りますが、昔のことを知る町の住人には冷たくあしらわれます。しかし、これを哀れんだある船主の後援を得て小料理屋「安直楼」を開業。
ちなみに、この安直楼は現在も下田の繁華街のど真ん中に残っており、県指定文化財に指定されています。お世辞にも立派な店とはいえない小さな建物であり、古くて風情はあるものの、その前を通った私もこれが指定文化財とは……と首をかしげるような代物でした。
しかし、この料理屋を開いてからも仕事には身が入らず、このための貧困から来る不摂生により既にアルコール依存症となっていたお吉は、年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしていたといいます。
このため安直楼も2年で廃業することになり、さらに体調を悪化させたお吉は、1891年(明治24年)の3月のある大雨の夜、市内を流れる稲生沢川(いのうざわがわ)に身を投じ、50歳の生涯に幕を閉じました。
その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体をも人々は「汚らわしい」とさげすんだといい、お吉の実家の斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否したため、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たかったそうです。
哀れに思った市内の宝福寺というお寺の住職が境内の一角に葬ったそうですが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事になったといいます。
このお吉が身を投げた場所は、門栗の淵といい、現在ここに小さなお堂が建てられていて「お吉ヶ淵」と呼ばれ、観光名所になっています。河口からかなり離れた市内の北のほうにある寂しい場所です。
現在淵は残っていませんが、池のある小公園になっており、お吉の供養のための地蔵が建立されています。お吉が身を投じたという毎年3月27日には、「お吉まつり」という祭典があるそうで、下田市内の芸妓衆による供養が行われ、池に花をささげ、鯉がはなされるそうです。
このように、唐人お吉といえば、幕末に一輪の花と咲いた「薄命の佳人」というイメージがありますが、実際にはハリスに見放されてからは、かなり浮き沈みの激しい生涯を送っており、寂しい人生だったといえます。
一方のハリスはといえば、結婚もせず独身を貫いたとはいえ、その後の暮らしぶりをみても本人にとっては幸せな人生だったと思われ、お吉の一生とは対照的です。
お互いの若いころ、一瞬のすれ違いとはいえ出会ったこの二人のその後の人生が、これほどまでに違うのはいったいなんなのだろう、とついつい考えさせられてしまいます。
ハリスが日本にいたころはまだお吉も落ちぶれておらず、ハリスもまた総領事として日米修好通商条約締結の重任を負いながらも、温暖で風光明媚な下田の生活を満喫していたようです。
ハリスは、大の牛乳好きだったそうで、体調を崩した際、牛乳を欲しがったといいます。しかし、この時代ですから、そういうものはなかなか手に入らず、このとき雇っていたお吉が八方に手を尽くし、ようやく下田在の農家から手に入れ、竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残っています。
この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当したといいます。牛乳を公式に売買して飲用した記録は、日本ではこれが初めてだそうで、これを記念して、柿崎の玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられています。
ハリスは、日本人を評して「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的な記述を残しており、前述のとおり、下田の町を評して「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい」と日記でこれを称賛しています。
こうした日本人に対しての柔らかな視線は、その後下田を去って江戸市中に在住するようになった際、彼の通訳官であったヒュースケンが殺害されるという事件においてもゆるぎませんでした。
ヒュースケンは、1861年1月14日(万延元年12月4日)にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽接遇所(現港区三田)から自分の宿舎である善福寺への帰宅途中、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士二人にに襲われ、翌日亡くなりました(28歳没)。
こうした攘夷派による外国人襲撃行動はこのころ頻繁に起こっていましたが、この事件を機にイギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとりました。
ところが、ハリスはこれに反対し抗議行動には加わらなかったといい、これはこの抗議に参加することがアメリカの国益を損なうことになるという判断もあったでしょうが、この当時の日本の情勢をよく観察し、こうした攘夷運動の本質を理解していたためともいわれています。
ヒュースケンは乗馬好きで、よく江戸城の周りを乗馬している姿が見られていたそうで、これが攘夷派を刺激することになりかねないとして、ハリスもそのことを忠告していたようです。が、結局、開国反対派の浪士たちの怒りに触れ殺害されることになってしまいましたが、ハリスもこうした事態をある程度は予測していたに違いありません。
その後も幕府とは良好な関係を保ちつつ日本を離れており、その紳士的な態度は後年の日本人にも好意的に評価されています。
このように日本人に対してはかなり好意的な目を向けていたハリスですが、お吉の妾の一件からもその厳格な性格がわかるように、こと女性に関してはまるで少年のようなところがあったようです。
そうしたもう一つの逸話として、ハリスはこの当時の日本人としては普通の習慣であった「混浴」をいやがっていたそうです。
日本人にとってはあたりまえの習慣もハリスには耐えきれないものであったようで、「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ」と語っていたという記録が残っています。
ところが、通訳官であったヒュースケンは、この混浴の様子をたびたび見に行っていたそうで、このため、市中の人にかなり嫌われていたようです。
アメリカ側の記録によると、1857年1月には、こうしたことが原因で街中で刀を向けられて脅されており、このときヒュースケンを脅したのは下田の大場久八というやくざの子分で武闘派といわれた赤鬼金平という人物だったそうです。
この事件では、幕府はこれがもとで修好条約が破たんしては困ると考え、「金平は狂人でありますから」とハリスらに釈明したという記録も残っています。
こうした小事件もあり、健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていましたが、そのほかの生活におけるハリスの下田での暮らしはおおむね穏やかだったようです。玉泉寺の領事館で3年近くを過ごす間、暇さえあれば周辺を散策していたといい、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあったようです。
しかし、長く続く鎖国のさなかのことであり、下田の人々もなかなかハリスと打ち解けあってふれあうということもなく、孤独な日々であったともいいます。
ある日のように散歩をしていとき、偶然通りがかった女の子がハリスを恐れもせずに近寄ってきたとき、ハリスはこの幼い女の子の頭をなでてやることができたそうです。
これを喜んだハリスは、その日の日記に「今日は祭日のようなうれしい日だった」と書き記しています。
ハリスがよく散歩した玉泉寺から約400m離れた海岸は、今では「ハリスの小径」として整備され残されています。その先端にはる福浦という小泊まりがあるため、福浦遊歩道とも呼ばれています。
道路とは離れているため静かで、下田港内に居並ぶ漁船やヨット群を見渡しながら眺める散歩は格別のようです。が、この場所は戦時中は軍用として整備されたことがあるそうで、現在もその当時の海軍の石炭積み下ろし桟橋跡が残っています。またその山側の洞には「震洋」とよばれる特攻水上艇が格納されていたということです。
この小路からは先日我々が行ったばかりの下田公園の小高い山も見えます。しかし、ハリスがこの下田に滞在していた当時にはまだ当然あじさいはなく、またここも荒れ果てたボサ山のままだったことでしょう。
おそらくは公園のすぐ真下まではよく歩いて行っていたでしょうが、彼がそのころここに立ち、どんな思いで海を眺めていたかに思いを馳せながら再びこの公園を散歩すると、また楽しいかもしれません。
ハリスが下田を訪れる2年前の1854年(嘉永7年)に、外国人として初めてここを訪れたペリーもまた、ここを歩いたことでしょう。
日米和親条約によって即時開港された下田湾にはこのとき7隻もの黒船が入ってきたといい、この当時の下田の人々の驚きはさぞかしのものだったことでしょう。
当時の人々にとっては、見たこともない船だったわけであり、しかもこれらは帆船ではなく、時代の最先端を走っていた蒸気船であり、その不気味な黒い色と3本マスト、そしてその大砲に加えて黒い煙を吐く煙突、左右両弦にある水車のような大きな外輪、そしてその大きさにはまたまた驚かされたに違いありません。
この下田に来たペリーのこともまたいずれ書いてみたいと思います。次にいつまた下田を訪れるかはわかりませんが、長くなった伊豆生活においてもこれまでも何度も訪れ、そのたびに新しい発見があります。
そろそろ梅雨も明け、夏が訪れれば伊豆半島はどこもかしこも観光客でいっぱいになります。おそらく下田も同じくでしょう。なので、次に行くのは秋口になるかもしれません。
秋には下田の近くの細野高原のススキがまたきれいになるでしょう。下田もまたそのころはそのころとて、別の面を見せてくれるに違いありません。今から楽しみです。