下田城にて ~下田市


先日のこと、下田のあじさい祭りに行ってきました。昨年に続いて二度目のことであり、かなり勝手もわかっていたので、市内に入ったらすぐに会場である下田公園下の臨時駐車場に車を入れました。ここから下田市街や主だった観光場所には10分ほどで歩いて行ける距離であり、この日も市街中心部で昼食をとりました。

お昼を食べる場所を探すのを兼ねて、しばし街中をウロウロしましたが、改めて市内をじっくり観察すると、あちこちに江戸時代からと伝えられるような古刹や名所があり、その説明看板がたくさん立っています。

江戸時代に貿易港として栄えた当時の建物や、幕末に開国した折の米国使節団や領事タウンゼント・ハリスゆかりの場所、そしてハリスの妾となった唐人ゆかりにまつわる名所などなど、歴史好きにはまさに見どころ満載といったところです。

下田は、江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東廻り航路の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」と唄われたほどにぎやかな街だったようです。

東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点でもあり、市内には僧行基発見とされる蓮台寺温泉などの噴湯が各所にあり、総称して下田温泉ともいいます。

1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港され、一躍国内においても重要な拠点港となりました。

その後明治・大正と大きく発展することはありませんでしたが、1928年(昭和3年)、十一谷義三郎作の「唐人お吉」や川端康成の「伊豆の踊子」などの小説発表などが火付け役となり、下田は観光の町として発展していくようになります。

1933年(昭和8年)には、東京湾汽船(現・東海汽船)が客船を就航させ、また伊豆循環道路東海岸線伊東~下田線が完成したことから、海陸路とも開かれ、多数の観光客が訪れるようになりました。

さらに、1961年(昭和36年)12月の伊豆急行線(伊東~下田間)開通により、観光客がさらに急増。観光業が産業の中心となり、1967年(昭和42年)には、観光客が500万人を超えたといいます。

その後も、地震や水害などの起きた時期を除いて、毎年、多くの観光客を迎え入れていましたが、バブル経済崩壊後は減少に転じ、平成16年度は、観光客が約332万人と低迷。

また、下田船渠(せんりょう)という下田で最大の船舶ドックを有する会社なども解散し、東京などの企業の営業所や寮の統廃合も進んだ上、流通業の変化による消費の分散傾向が、下田を初めとする賀茂郡の中心であった市内経済に打撃を与えるようになりました。

現在、下田は海水浴やイベント中心型観光都市からの脱皮を模索していますが、その市街は万一東南海地震などが発生した場合に生じる津波において、最も大きな被害を受けるだろうと専門家からみなされています。

過去にも何度か津波に見舞われており、このときは壊滅状態にまではなりませんでしたが、こうした災害に対しては脆弱な町であり、観光地として継続していく上ではその対策が大きなネックとなっています。

また、直接被害を被ったわけではありませんが、一昨年の東北の東日本大震災においては、計画停電、電車の運休、観光自粛ムードのあおりを受け、これにより、観光客が激減。ホテル、旅館、その他観光関連産業の事業所を中心として、従業員、パート・アルバイトの大量解雇が発生。観光産業に過度に偏った下田市の弱点があらためて露呈した格好です。

こうした中、海に恵まれた立地を活かし昭和9年以降続けられている「黒船際」やこの下田公園を中心とした「あじさい祭り」は市の観光収入に大きく寄与し続けています。

この下田公園のあじさいですが、昭和36年に、明治以降、下田町民が待ち望んでいたといわれる鉄道「伊豆急線」が東京の奥座敷と呼ばれていた熱海からここまで延伸されたころから整備され始めたようです。

下田まで電車が来たことにより南豆の観光は一気に躍進し、そんな中、市内に住む元東海汽船の職員だった人が退職後に「暇だから下田公園の草取りでもしよう」と周囲の人達と始めたのが発端だそうです。

ちょうどこのころ、市内にある黒船ホテルというホテルの先々代のオーナーは観光協会会長も兼ねており、日ごろから下田の自然を活かしお客さんを楽しませる方法を模索していたそうです。

そんな中、この元東海汽船職員たちの活動を知り、町議会議員などの賛同も得たことで彼らが中心となり、市民を巻き込んでスタートしたのが「下田公園植樹会」というサークルだったそうです。その後これは「下田花いっぱい運動」として町ぐるみの活動に発展していきます。

まずは、ボサ山にすぎなかったこの一帯を整備することから始め、中学生の卒業記念植樹をやったり、桜、梅などを植えたりしたそうですが、うまくいかず、発足して3年目になって、元からあった少しの紫陽花の群生に目をつけ、これを中心に整備をすることにしました。

会員たちが出資する限られた予算の中で紫陽花の苗を買い移植したわけですが、当時ガク紫陽花などの日本紫陽花の苗は高価だったそうで、このため多くは買えずにいたところ「西洋紫陽花なら出資する」と市内の旅館組合の申し出があり、その後は西洋紫陽花による植樹がが中心となっていきました。

その後この活動は「紫陽花公園構想」として計画化されるようになり、これには市も協賛してくれるようになります。

役所の職員も植樹を手伝うようになったことから、その整備に毎年市の予算もつくようになり、また静岡県の補助金も出るようになりました。次第にあじさいの株数も増え、現在に至っては県下でも有数な、いや全国的にもこれほどのものはない、といまでいわれる大規模な紫陽花公園が完成しました。

実際に行くとわかるのですが、看板の紫陽花の手入れは、無論非常によく行き届いており、それだけでなく、園内各所の平坦地の遊歩道はほとんどが石造りできれいに整備されていて、各所の展望台や休憩所も非常に気持ちの良いものです。

公園全体が小山になっていて場所によっては急傾斜のところもあるため、前述の植樹会の人たちが用意した「杖」が登山道の入口付近に置いてあり、年配の方々は多くがこれを利用していらっしゃいました。

我々が行った日は平日だったため、比較的観光客が少ないほうでしたが、それでも紫陽花がまとまっていてきれいな場所ではあじさいをバックに撮影にいそしむ人が集中していました。その観光客を避けて写真撮影するのは、平日でも少々やっかいなところです。

ところで、この下田公園は、もともとは、下田城というお城があった場所です。

小田原を本拠とする北条早雲を始祖とする後北条氏が、伊豆地方における支城として構築したもので、当城を小田原水軍の根拠地とし、当初は鎌倉にあった玉縄城という城を拠点とする後北条家の家臣団、「玉縄衆」の朝比奈孫太郎が城主として管理していました。

しかし、その後九州を平定した豊臣秀吉との関係が悪化したことから、1587年(天正15年)に改修が命じられ現在のような城郭の形容を表しました。

この当時の後北条家の当主は5代目の北条氏直であり、実際の築城にあったのはその家臣で伊豆奥郡代の「清水康英」です。清水康英は自身の傘下にあった伊豆衆などの協力をとりつけてこの建築にあたり、城の完成後そのまま城主に任じられています。

清水氏は、もともと伊豆の有力豪族だったようですが、北条早雲の伊豆平定によってこれに従うようになった後北条家の重臣です。

のちには三島神社奉行にも任ぜられ、後北条家の評定衆なども努め、現在の沼津や函南町にあたる北部伊豆の郡代、笠原氏とともに伊豆奥(南部)郡代として活躍しましたが実力は笠原氏以上であり、事実上伊豆の実効支配者でした。

下田のすぐ西側には南伊豆町ありますが、清水氏はここにある下賀茂温泉すぐ側の山の上にある加納矢崎(かのうやざき)城を本拠とするとともに、伊豆の中央部の韮山を拠点とする「伊豆衆」をも率いる後北条家臣団第一の大身であり、伊豆在地の小領主らをも寄子同心に組み入れ、伊豆全体の武士のリーダー的存在でもありました。

康英は清水氏二代綱吉の子であり、家督を継いでいましたから、後北条氏の傘下に入った以上、当然その家臣として伊豆外の敵から下田城を守備する立場になりました。

下田城は、下田湾に突き出た円形状の鵜島(うじま)と呼ばれる半島上に位置しており、このため別名「鵜島城」とも呼ばれていたようです。実は清水家は、後北条氏屈指の水軍を有する家でもあり、海路の要地である下田にこの水軍基地を整備し、これを守るのがそもそもの下田城の目的でした。

城は鵜島の北東部にあり、水軍基地の船着場は、船底に付着する動植物を繁殖させないためには淡水である必要があり、このため、現在の下田市の中心部を流れる稲生沢川(いのうざわがわ)の河口付近に設けられました。

おそらくこの船着場は、現在の伊豆急下田駅の東側の河岸あたりから、ペリーが上陸したとされるペリーポイントの付近一帯にあったのではないかと思われます。

この稲生沢川河口の水軍基地を抱きかかえるように、その南部にある鵜島の最高標地点68.7mに通称天守台と呼ばれるに城の主郭が構えられ、ここは現在、城跡公園として整備されています。

この高台を中心に曲輪(くるわ)や空堀、櫓台が湊を防御するように配されているのが特徴で、海路より襲来する 敵水軍を強く意識した縄張となっています。三方に延びた稜線を防衛線として縄張されており、その昔はここから四方八方の海が見えていたはずですが、現在はうっそうと樹木が茂っていて視界はありません。

が、少し離れた各所には海を見通せる展望台が整備してあり、ここからの海の眺めもまた、この下田公園の魅力の一つです。

下田城の完成後、清水上野介康英は、この城を中心として南伊豆防衛のための陣構を整えていきました。もちろん敵の秀吉軍の主力も水軍が予想されたため、下田において想定される攻防戦も水上戦が主体となると考えられ、このため城の北側にあった水軍基地を抱くように、防御ラインが設定されました。

下田城の守備には城将の清水康英とその弟淡路守英吉をはじめとする康英の一族と譜代の家来である伊豆衆が主力としてあたりました。また、小田原からの援軍としても江戸摂津守朝忠とその一党らが合流しましたが、これらを合わせても全精力は600余騎にすぎませんでした。

1590年(天正18年)2月、関東に進出するに先立ち、伊豆を攻略しようとした秀吉は、駿河清水港に水軍を集結させます。これらの水軍は、長宗我部元親、九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治といった、秀吉軍の中でも屈指の武将が率いていました。

これに毛利の水軍など合わせてその総勢は14000騎あまりだったといいますが、この毛利の水軍は、この当時としては最新鋭の大型軍艦、大安宅(おおあたけ)船や関船・小早・荷船などで編成された大船団によって構成された軍隊でした。

秀吉軍の先鋒隊は、この年の3月初旬(現4月ごろ)から伊豆近海に出没しはじめ、3月末、南伊豆の岩殿(現南伊豆町)で初めて両軍は衝突します。

やがて豊臣水軍の一翼を担っていた徳川水軍の将、本多重次や向井正綱らが、後北条側の安良里城(現西伊豆町)や田子砦(同西伊豆町)を攻略したため、伊豆西海岸の北条勢は一掃されてしまいます。

一方、豊臣水軍の主力である長宗我部・九鬼・加藤・脇坂らも、4月に入ってから海路石廊崎沖を旋回し、下田沖に到着しました。しかし、下田城は三方が海に面した要塞で、見るからに軍船がつけ入る隙はありません。

下田城の周囲は断崖絶壁であり、しかもその背後の北側には下田水軍の拠点があるため、たとえ大軍の一部にせよ、下田城を海上より攻撃して上陸することは不可能でした。

しかし、下田の東側にある須崎半島のあたりは後北条側の手勢も手薄であり、このため豊臣水軍はここを迂回して、その北側あたりの海岸に上陸します。

そしてその一軍は下田の東の柿崎に侵攻し、下田城東側にある城の正面攻撃をうかがいはじめます。また、市内にある下田富士の麓からも 侵攻して、城下に火を放ち、敵は次第に下田城の直下の郭にまで迫ってきました。

こうした敵の侵攻により、伊豆衆の武将のひとり、江戸朝忠が討死するなど堅守を誇った後北条側にも次第にダメージが大きくなっていきました。しかし、戦いが長引くにつれ、市内での戦闘は次第に膠着していき、このため豊臣水軍は海上封鎖を行い、下田籠城軍の自由を奪う作戦に転じました。

しかし、両者が対峙する時間が長引くにつれ、先に苛立ちを抑えられなかったのは豊臣方でした。長期間にわたる包囲網戦は、大軍であればあるほど兵糧などの物資不足に陥りがちであり、この戦においても豊臣方の食糧が底をつきはじめたのです。

末端の部隊からは次第に食糧不足による悲鳴に近い声があがってきたことから、ついに秀吉は長宗我部隊などを残し、主力は小田原に召喚することを命じました。

その後も残された長宗我部隊と清水康英側との対峙が続きましたが、結局この籠城戦には決着はつかず、50日にも及ぶにらみ合いの末、4月末には清水ら率いる下田水軍と豊臣方の部将である脇坂安治・ 安国寺恵瓊らの間で和解が成立。三か条の起請文を交わし、ついに下田城は開城することとなりました。

和解とはいえ、どちらが勝ったかといえば、城を50日も持ちこたえ上、無血開城を勝ち取った清水康英ら下田水軍の勝利といえることは自明です。14000の敵兵に対し、わずか600の寡兵で臨んだ戦はこうして両軍による大きな激突もなく終わりました。

その後、後北条氏は滅亡し、徳川幕府の時代入ると、家康の家臣・戸田忠次が下田5000石を治め、下田城の城主となりました。しかし、忠次の子・尊次は1601年(慶長6年)に三河国の田原城へ転封となり、以後、下田は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配することとなり、廃城となりました。

その後、幕末までの江戸時代全般のあいだ、下田は長い眠りについたような町となりましたが、やがてはペリーらの来航により、再び揺り起こされることになったのでした。

ちなみに、城を豊臣方に明け渡した康英一党はその後、河津郷の沢田という場所にある林際寺に退去しています。ここで康英は、戦を共にした家臣らに下田籠城の苦労を謝した上で後日の褒賞を約束し、このたびはいったん散軍して離別するものの、再び会いまみえることを誓いあったといいます。

その後、自らは菩提寺である三養院(現・静岡県賀茂郡河津町川津筏場)へ入って隠栖。天正19年(1591年)に没しました。享年59歳。

康英がその後、家臣たちに何等かの褒賞を本当に与えたかどうかは史料として残っていないようです。ただ、清水家の末裔の一派がその後1593年(文禄2年)に沼津に移り住んだという記録があります。

彼らは駿河国駿東郡沼津宿の沼津本陣を構築し、幕末に至るまで名主や年寄などを務めたそうで、明治に入ってからはその一族が沼津郵便電信局を営んでいたそうです。

清水康英は、後北条氏家からも篤く信頼されていた武将だったようで、後北条家から出た古文書の中には、「康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である」といった内容の文書が残っているといい、後北条家の家臣としてはかなり名声の高かった武将であると考えられます。

武人としての技能も優れていたようで、「関八州古戦録」には、黒糸縅の鎧を着、1丈4尺の大旗を背に指し、盤手鴾毛という奥州南部産の駿馬にまたがり、8尺もある樫の棒を振り回して、長柄のほこ先をそろえた敵陣へ割り込み、雑兵らをなぎ倒した、と記述されているそうです。

そんな清水康英ら中世の武将が活躍した下田城公園の展望台に立ち、下田港を眺めていると、そこからは海に浮かんだたくさんの大安宅船や関船が見えてくるような気がします。その間を足早に小早・荷船なども行き交い、気のせいかところどころで狼煙もあがっているような気にもなってきます。けだるい昼下がりの港の光景……

本当にそんな夢のような昔日の光景が見えるとどんなにか楽しいかと思うのですが、眼下には静かな青い海を行き交う近代的な漁船ばかり。が、これはこれでひなびた美しい、昔ながらの日本の港というかんじで、なかなか風情があるものです。

今年はもう終わってしまいましたが、この下田で毎年5月の下旬に行われる黒船祭りでは、アメリカ海軍や海上自衛隊も参加したイベントが開かれ、町内や海辺の会場は活気にあふれるそうです。来年はこの頃を見計らってぜひまた来てみたいと思います。

7月には花火大会も開かれるそうです。今年は7月13日の土曜日が予定されているといい、予定打ち上げ数は1500発と小ぶりですが、昨年はこの花火目当てに15000人も集まったとのこと。

7月13日といえばもうすぐです。できれば行ってみたいものですが、そのためには泊りがけが必要かも。要検討です。

さて、そんな下田のあじさい祭りも来月はじめで終わりのようです。そのあともまだまだ楽しめそうですが、まだ行っていない方はお早目にどうぞ。

園内を巡る遊歩道に延々と続く15万株・300万輪の青や赤の大輪の花は、きっとあなたを圧倒すると思います。