カメリア

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行楽の秋だというのに、ここのところ天候不順で、今日の伊豆も一日曇りがちです。

そろそろ、あちこちに紅葉の撮影に出たいと思っているのですが、こう天気が悪いと出鼻をはじかれたような気分になります。

「さざんか梅雨」というのだそうで、11月下旬から12月上旬にかけての、サザンカが咲くころに降るためこの名前がつけられたようです。

ただ、10月ごろまでに続く「秋雨」とはまた違うようで、毎年あるというわけでもないようです。確かに去年の今頃は天候に恵まれ、毎日晴れていたように思います。

気象庁は何の関連性もアナウンスもしていませんが、これは現在南米で発生しているエルニーニョと関係があるのではないかと私は思っています。

南米の太平洋沖での海水温が異常に高い状況が長く続く現象であり、その影響を受けてか、ここのところ暖かい日が続いています。冬になり、北から入ってくる冷たい空気と暖かい海水のせめぎ合いが、この不安定な天気を造りだしているのでしょう。

ところで、サザンカとツバキは何が違うのでしょうか。調べてみると、いずれもツバキ科ツバキ属に属する近縁種です。しかし、サザンカは秋の終わりから、冬にかけての時期に花を咲かせますが、ツバキの花期は冬から春にかけてです。ツバキの中にも早咲きのものは冬さなかに咲くものがあるようですが、一般には早春に咲く花とされているようです。

また、ツバキは日本が原産のようですが、サザンカは日本以外にも中国や台湾、インドネシアまで幅広くみられ、これらの国で園芸品種として改良されて日本に入ってきたものも多いようです。

このほかのツバキとサザンカの違いとしては、サザンカはめしべや葉柄(葉と茎を繋いでいる柄)に毛がありますが、ツバキにはありません。

さらに、ツバキは花弁が個々に散るのではなく、花ごとボトッと落ちます。一方のサザンカは、個々に花びら散ります。花が丸ごと落ちることから、その昔の武士は首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話があります。

その一方で、ツバキの木質は固く緻密、かつ均質で、木目は余り目立たないことから工芸品、細工物などに使われ、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から印材や将棋の駒として使われます。

また、ツバキの木炭は品質が高く、椿油は、高級食用油、整髪料として使われてきました。日本が原産でこのように古来から日本人には愛されてきた、という意味でもサザンカよりもツバキのほうがより日本的な花といえるかもしれません。

いずれも多数の園芸品種があり、どちらが好きかは好みによります。が、サザンカのほうは、明治時代以後のごく最近になって流行するようになった花のようです。ツバキよりもよりあでやかな品種が多いことから、近年ではサザンカを好む人のほうが多いのではないでしょうか。

一方のツバキのほうはとくに江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行しました。

1600年代初頭までには多数の園芸品種が生み出され、1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版されています。

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江戸時代には逆にこの日本原産のツバキが海外へ輸出され、人気を博しました。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介したのがきっかけであり、後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介しました。

その後スウェーデンの博物学者、植物学者であり、「分類学の父」として高名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿に「カメル」という名前をつけましたが、これが今日、英語でツバキのことをキャメリア(日本語ではもしくはカメリア、Camellia)とする語源になっています。

19世紀には園芸植物として流行し、今日、オペラとしても上演されることの多い「椿姫」にも主人公の好きな花として登場します。フランスの劇作家、アレクサンドル・デュマ・フィスが小説として描いたものを、イタリアのロマン派音楽の作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディが、1853年にオペラとして完成させたのがはじまりです。

ヴェルディの作品は、この椿姫だけでなく多数のものがその後世界中のオペラハウスで演じられるようになり、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いています。イタリア・オペラに変革をもたらしたとされ、現代に至るまでもオペラ界では最も有名な作曲家です。

彼が創作した「椿姫」もまた、オペラ史上、最も有名な作品と言っても過言ではないでしょう。

しかし、この作品の初演は大失敗に終わったそうです。これはパリ社交界の高級娼婦が主人公という設定がイタリアの聴衆には馴染めず、さらに、ヒロインであるヴィオレッタ役の歌手があまりに太っていたというのが失敗の原因だったそうです。しかし、初演から2か月後に行われた再演では主役を変え、今度は大喝采を浴びました。

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この椿姫のストーリーですが、私もタモリさんと同じでオペラやミュージカルの類が苦手なので、見に行ったことがありません。が、あえて調べてみると、時は19世紀半ば、舞台はパリです。

夜の世界、これをフランス語では「ドゥミ・モンド」といい、裏社交界のことです。その世界に生き、月の25日間は白い椿を身に付け、残り5日の生理期間には赤い椿を身に付けたために人々から「椿姫」と呼ばれた高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーは贅沢三昧の生活に心身共に疲れ果てていました。

そこに現れたのが友人に紹介された青年、アルフレード・ジェルモンでした。青年の正直な感情に最初は戸惑いを覚えていたヴィオレッタでしたが、今まで感じ取ったこともない誠実な愛に気づき、二人は相思相愛の仲となります。

ヴィオレッタは享楽に溺れる生活を捨て、パリ近郊にあるアルフレードの別荘で彼ととともに幸福の時を過ごすようになります。

しかし、その生活は長くは続きませんでした。息子のよからぬ噂を聞いて駆けつけたアルフレードの父親が、アルフレードの妹の縁談に差し障りとなるので、息子と別れるよう彼女に迫ったのです。ヴィオレッタは自分の真実の愛を必死で訴えますが、受け入れられず、悲しみの中で別れを決意。家を出ていきます。

彼女が残した置き手紙には別れの理由は何も書かれておらず、手紙を読んだ何も知らないアルフレードは、彼女の裏切りに激怒します。

その夜、ヴィオレッタはパリの社交界に戻り、かつてパトロンだった男爵に手を引かれて現れます。彼女を追ってきたアルフレードは、ヴィオレッタが男爵を愛していると苦しまぎれに言うのを聞いて逆上し、社交界の大勢の人前で彼女をひどくののしりました。

侮辱され、ヴィオレッタは悲しみますが、しかし彼を心底愛していたため、その場で反論もできません。数カ月後、ヴィオレッタは自宅のベッドで横になっています。実は難病におかされていて、死期が近づいていたのです。

そこへ駆け込んでくるアルフレード。いまや全ての事情を父から聞いた彼は、彼女に許しを請います。二人はまたいっしょに暮らすことを誓いますが、時はすでに遅く、ヴィオレッタは過ぎ去った幸せな日々を思い出しながら、アルフレードに抱かれて静かに息を引き取ったのでした……。

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この椿姫は、その後世界中で上演され、現在でも数あるオペラ作品の中でも最も人気のあるひとつのようです。その後2008年にイギリスで「マルグリット(Marguerite)」の名前で翻案したミュージカルとなり、日本でも赤坂ACTシアター、梅田芸術劇場、日生劇場で2009年に初演、2011年に再演されました。

この赤坂での初演では、その直前に東日本大震災が発生し、開始が延期された、ということもあったようです。初演の際にマルグリットを演じたのは、宝塚歌劇団退団後初めての舞台出演であった、春野寿美礼さん、再演の主演は、今なにかと結婚話で話題になっている、藤原紀香さんでした。

一方、この椿姫を創作したヴェルディは、イタリア、パルマの町のフィルハーモニー楽団の音楽監督をやっていた22歳のとき、17歳のときから付き合っていたマルゲリータ・バレッツィと結婚しました。

結婚後、一男一女を設けましたが、ところがこの二人は幼くして亡くなってしまいます。また、彼が27歳のとき、妻のマルゲリータは脳炎に罹って亡くなってしまいました。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎え、そのころ仕上げた「一日だけの王様」というオペラもスカラ座の初演で散々な評価を下され、公演は中断される始末でした。

ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えましたが、その年も押し迫ったある日の夕方、街中で、スカラ座の支配人、メレッリと偶然会いました。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けましたが、やる気のないヴェルディは帰宅し台本を放り出しました。

ところが、開いたページにたまたまあった台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻したといわれています。構想に構想を重ね、翌年秋に完成させた「ナブッコ」は、謝肉祭の時期に公演される事になり、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えました。

この演目は、旧約聖書の時代に題材をとり、バビロニア国王ナブッコと、勇猛なその王女アビガイッレに率いられたバビロニアの軍勢がエルサレムを総攻撃している、という設定で始まります。その後、王女アビガイッレと敵エルサレムの王子との恋愛などが展開され、王ナブッコとエホバの神との交わりなども壮大なスケールで描かれた一大叙事詩でした。

その上演の結果といえば、観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、挿入歌、「行け、わが思いよ、黄金の翼」の合唱では、この当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂しました。

これは、この歌がかつてミラノが支配されていた時代を歌ったものだからです。観客はこの中で追放されるミラノの奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられました。現在のイタリアでも大変人気があり、「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われているようです。

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こうして「ナブッコ」の上演は大成功に終わり、1日にしてヴェルディの名声を高めました。

その後ヴェルディは再婚しています。かねてより知り合いだった2歳年下のソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニがそのお相手です。フランスとイタリアの境にある古都、サヴォアの町で45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げました。

その後、80歳を越えるまでも精力的に活動し、多くの名作を作り上げましたが、晩年には若いころにイタリア北部郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)に購入していた農場に戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組みました。

構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家)の建設がそれであり、この事業にオペラ制作同様に情熱をかけました。ヴェルディは、かねてから引退した音楽家らが貧困に陥ったまま生涯を終えるさまを気に病んでおり、彼らのために終の棲家となる養老院建設としてこれを計画したようです。

最晩年には公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断り、とくにその中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒げたといいます。同校の改名はヴェルディの死後に行われました。

1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失いました。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取ったといいます。ヴェルディは目に見えて落胆しますが、そんな彼を娘マリアや親しくしていた脚本家、ソプラノ歌手などが付き添いました。

ヴェルディとジュゼッピーナの間には子供はなく、このマリアは、父が亡くなった際に引き取り、娘として育てた歳の離れた従妹だったようです。

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この年齢になっても講演をみるためにヴェネツィアへなどにもよく出かけていましたが、彼自身は既に自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意しました。

同年末、マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していましたが、1月20日の朝、起きぬけの際、脳血管障害を起こして倒れ、意識を失います。

多くの知人に連絡が届き、友人たちが駆け付けました。また王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められましたが、1901年1月27日未明、偉大な作曲家は息を引き取りました。享年87。

同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、妻のジュゼッピーナが先に眠る礼拝堂に葬られました。出棺時にはスカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされる指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニが指揮し、820人の歌手が「行け、わが思いよ、黄金の翼」を歌いました。

遺言では簡素な式を望んでいましたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われました。また、後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれるようになりました。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では説明できないイタリア人の情をうまく表現したためといわれています。

ヴェルディの残した「憩いの家」は、現在も老齢音楽家のための活動を続けています。ミラノ市のブォナローティ広場の一角に建つこの建物は、その二階にはヴェルディの遺志通りパイプオルガン付きの小ホールがあり、中心には礼拝堂、レストラン、病院なども完備されています。

運営資金はヴェルディの作品の印税が切れたのちは、全世界からの寄付と援助、さらにヴェルディの残した「ヴェルディ基金」から捻出されているそうです。彼は今、自身の建てた「憩いの家」の中庭に妻ジュゼッピーナと共に眠っています。その墓所では、ときに若い音楽家の卵と老齢の音楽家が仲良く集う姿が見ることができるそうです。

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「カメリアコンプレックス」という言葉があります。その語源は、彼が創作した「椿姫」の主人公、ヴィオレッタ・ヴァレリーとアルフレード・ジェルモン、もしくは、原題の小説の主人公たちにちなんでいます。

不幸な女性を見るとつい救ってしまいたくなる男性の心理を言います。ヴィオレッタは高級娼婦であり、このため西洋では「カメリア」といえば、罪を犯し贅沢なことを行う商売女の意味合いを持っています。

こうしたことから、カメリアコンプレックスとは、相手の女性が不幸だと感じたら、どんな女であってもどんなことがあっても、救い出そうとする男性の心理全般のことをさすようになりました。

女性にとってはありがたい極みなのかもしれませんが、そうしたコンプレックスを持つ男性というのはともすれば破滅型であり、場合によっては身上を潰したり、ヒモに成り下がって、人生を壊してしまう可能性もあります。

オペラ、椿姫では、相手の女性が死んでしまったために、悲劇の幕が閉じられましたが、もしヒロインが生きていたら、青年は一生彼女にかしずいて生きて行かなくてはならなかったかもしれません。

一方では、同じコンプレックスでも「ユディットコンプレックス」というのもあります。これは、自ら進んで強い男に身を任せたい強い願望と、それにもかかわらず支配はされたくはないという精神状態を表す概念で、こちらは女性に用いられる用語です。

女性には強い男に進んで身をまかせたい心理があるとされますが、その一方で自分の操を汚した男を殺したい憎しみとが無意識に混在する、といわれます。この状態がいきすぎてしまうと男性にどんどん汚される事で逆転的に男性を傷つけようとすることもあるそうです。

このため、このコンプレックスを持っている女性は、男性から見ると男の心を弄んでいるように見られることもしばしばです。

「ユディット」の語源は、旧約聖書の外典のひとつ「ユディト記」に出てくるユダヤ女性です。その原典では、このユディトが男性に乱暴されるとか、そういう話は出てきません。むしろ英雄として扱われています。

夫を日射病で失って寡婦となっていた彼女は、美しく魅力的な女性で多くの財産をもっていましたが、一方では唯一の神に対して強い信仰をもっていたため、人々から尊敬されていました。そんな中、アッシリアの王は自分に協力しなかったユダヤなどの諸民族を攻撃するため、軍隊を派遣して攻撃しようとします。

このとき、ユディットは、ユダヤを攻撃するためにやってきた司令官を姦計によって、おびき出します。その酒宴の席で、司令官は泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠る司令官と二人だけで残されます。

このときユディトは眠っていた司令官の短剣をとって彼の首を切り落としました。その後、ユダヤ人はたちはこの機会を逃さず出撃し、敗走する敵を打ち破ったとされます。

ユディトはその後、105歳で亡くなるまで、静かにユダヤのベトリアという町で暮らした、といわれます。しかし、この話は後年、未亡人ユディトは、自分の町に侵略してきた敵の将軍を魅惑し、抱こうとした将軍の首を斬り町を救った、というふうに変わっていきました。

一部では「処女を与え首を切った」という話に飛躍してしまっており、これが自分の操を汚した男を殺したいほど憎むという、ユディトコンプレックスに変わっていったというわけです。この心理はカマキリの雌が交尾した雄を殺して食ってしまう事にもよく例えられるようです。

さて、あなたがたカップルは、カメリア派でしょうかユディト派でしょうか。三連休となるこの週末に、じっくりと話あってみてはいかがでしょうか。

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ハス蓮はす

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11月も下旬に近くなってきました。

この季節になると、スーパーでもよくレンコンが見られるようになってきます。

旬は10月から3月までで、「蓮根(はすね)掘る」は冬の季語でもあります。

天ぷらにするとおいしいし、煮物にしてもよし、すりおろして汁物に流し入れたものは寒い時に体を温めてくれます。ひき肉などの具を挟み、揚げたてでいただけるレンコンのはさみ揚げがあると、実にお酒も進みます。

内部に空洞があり、いくつかの節に分かれていますが、節の長さは品種によって異なります。輪切りにすると穴が多数空いていることから「先を見通す」ことに通じ縁起が良いとされ、正月のおせち料理にも用いられます。

主に沼沢地や「蓮田」と呼ばれる専用の湿地などで栽培されます。日本では、作付面積、出荷量ともに茨城県が全国トップで、特に土浦市、かすみがうら市(旧霞ヶ浦町)、小美玉市、稲敷市などで盛んです。

徳島県鳴門市が2位、愛知県愛西市が3位、山口県岩国市が4位と続きます。私は子どもの頃、夏休みになると育った広島から母方の実家のある山口に山陽本線に乗って帰省していましたが、岩国市内を通り過ぎるころに車窓から見える壮大な蓮田を見るのが楽しみでした。

「尾津の蓮畑」と呼ばれていて、岩国南部を流れる門前川という川の右岸に広がるこの蓮田は、車窓からは左右180度すべて、地平線のかなたまですべてハスまたはハス、というかんじでした。さらに花が咲くころに通ると、まるで極楽浄土に来ているかのようでした。

現在は周辺の宅地開発が進み、往年の壮観は見ることができませんが、いまだに数多くの蓮田が残っていて、見事な景色であることは変わりありません。通常のレンコンの穴の数は8つですが、この岩国で栽培されるレンコンは穴の数は9つであるといい、種類としてもめずらしいもののようです。

日本では奈良時代ころにレンコンの栽培が始まったとされます。しかし当時の在来種は収穫量が少なく、本格的に栽培されるようになったのは新たに中国種を導入した明治初期以降のことです。

栽培種としてのレンコンは、中国もしくはインドが原産とされ、インド(紀元前3,000年)では宗教的に意味のある蓮の花は観賞用として栽培されました。それが中国に伝わって食用化され、さらに奈良時代に日本へも伝わり全国に広まったようです。ただし、2,000年以上前の縄文時代には既に国産の原種もあったことがわかっています。

レンコンが記録に出てくる最初のものは、718年の「常陸風土記」だそうで、この風土記には、「神世に天より流れ来し水沼なり、生ふる所の蓮根、味いとことにして、甘美きこと、他所に絶れたり、病有る者、この蓮を食へば早く差えて験あり」とあるそうです。

我々が普段食するレンコンは、ハスの地下茎が肥大化したものであり、上の葉や花の部分は、はすね、蓮茎、藕などとも書きます。古名「はちす」は、花托(花の終わった後に残るめしべの部分)の形状を蜂の巣に見立てたともので、「はす」はこの「はちす」が訛ったものだといわれます。

その美しい花姿から、水芙蓉とも言われ、このほか、不語仙(ふごせん)、池見草、水の花などの異称があります。花期は7~8月で白またはピンク色の花を咲かせます。 早朝に咲き昼には閉じるのが特徴です。園芸品種も、小型のチャワンバス(茶碗で育てられるほど小型の意味)のほか、花色の異なるものなど多数あります。

漢字では「蓮」のほかに「荷」または「藕」の字をあてます。ハスの花と睡蓮(スイレン)をごったにして、「蓮華」(れんげ)ともいますが、これは仏教とともに伝来し古くから使われた名です。

この蓮華の語源にもあるように、よくスイレンと間違われます。その大きな違いは、ハスの葉は水面よりも高く出ますが、スイレンの葉は水面上に広がります。また、ハスは、ヤマモガシ目ハス科ですが、スイレンは、スイレン目スイレン科であり、植物学上も異種です。

ただ、似ているので昔の人もよく混同したようです。英名 lotus はギリシア語由来で、元はエジプトに自生するスイレンの一種「ヨザキスイレン」のことであり、英名は Nymphaea lotus です。

ハスは中国が原産だと上で述べましたが、エジプトが原産とする説もあり、古代エジプト人はレンコンを好み、茹でるか焼いて食べたといわれます。しかし、古代エジプトで栽培が盛んだったのは、スイレンのほうであり、スイレンの根は食用には適しません。

また、エジプトに蓮の花が持ちこまれたのは、末期王朝時代の紀元前700〜300年頃とされますが、スイレンは、これよりかなり古くから、ナイル川のほとりに多数生えてえていました。よってエジプト原産説やエジプト人のレンコン好物説はハスとスイレンを混同したことから来た間違いだと思われます。

ちなみに、スイレンは、古代エジプトで重んじられ、エジプト神話の中でも一本のヨザキスイレンから世界が生まれたと語られています。その後も「ナイルの花嫁」と讃えられ、現在もエジプトの国花とされています。

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ハスは、地中の地下茎から茎を伸ばし水面に葉を出します。草高は約1m、茎に通気のための穴が通っています。上述のとおり、地下茎はレンコン(蓮根)として食用になりますが、食するのは日本だけではありません。

原産地とされる中国では、すりつぶして取ったでん粉を葛と同様に、砂糖とともに熱湯で溶いて飲みものとする場合もあります。ベトナムでは茹でてサラダのような和え物にして食べます。

中国や台湾、香港やマカオでは、ハスの実を潰し、練って餡にして月餅、最中、蓮蓉包などの菓子に加工することも多いようです。餡にする場合、苦味のある芯の部分は取り除くことが多いようですが、取り除いた芯の部分を集め蓮芯茶として飲まれることもあります。また、蓮肉(れんにく)という生薬として使われ、これは鎮静、滋養強壮作用があります。

このようにはすの実はでん粉が豊富であり、日本以外の近隣諸国ではよく生食されます。はすの実を含む花托も生食でき、若い緑色の花托は堅牢そうな外見に反し、スポンジのようにビリビリと簡単に破れます。

柔らかな皮の中に白い蓮の実が入っています。私も食べたことはありませんが、この種は緑色のドングリに似た形状で甘味と苦みがあり、生のトウモロコシに似た食感を持つといいます。また甘納豆や汁粉などとしても食べられます。ベトナムでは砂糖漬けや「チェー」の具として使うそうで、これはベトナムの伝統的な甘味飲料で、プディングの一種です。

ハスを国花としているベトナムでは、雄しべで茶葉に香り付けしたものを花茶の一種であるハス茶として飲用しますが、甘い香りが楽しめるといいます。また中国でも、果実の若芽は、果実の中心部から取り出して、蓮芯茶(れんしんちゃ)として飲まれます。

なお、ハスの実の皮はとても厚く、土の中で発芽能力を長い間保持することができます。1951年(昭和26年)、千葉市にある東京大学検見川厚生農場の落合遺跡で発掘され、理学博士の大賀一郎が発芽させることに成功したハスの実は、放射性炭素年代測定により今から2000年前の弥生時代後期のものであると推定されました。いわゆる「大賀ハス」です。

戦時中に東京都は燃料不足を補うため、花見川下流の湿地帯に豊富な「草炭」が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受けこの草炭を採掘していました。

草炭は、泥炭ともいい、一見は湿地帯の表層の湿った泥にすぎませんが可燃性があり、採取して燃料として使われることがあります。ただ、含水量や不純物が多く、炭素の含有率が低くて質の悪い燃料であるため、日本では工業用燃料としての需要は多くありません。しかし、物資の少なくなっていた第二次世界大戦末期には貴重な燃料として使われました。

またスコットランドではスコッチ・ウイスキーの製造において麦芽の成長をとめるために乾燥させる際の燃料として香り付けを兼ねて使用され、この時つく香気を珍重します。「ピート(Peat)」といいます。少し前のNHKの朝ドラ、「マッサン」の中にも主人公がこの良質なピートが採れるということで北海道を選んだ、という話が出てきました。

採掘は戦後も継続して行われていましたが、1947年(昭和22年)7月に作業員が採掘現場でたまたま1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学と日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われました。その調査により、2隻の丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれました。

そして、植物学者で当時・関東学院大学非常勤講師だった、ハスの権威者でもある大賀一郎が発掘品の中にハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。

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大賀博士は、1883年(明治16年)岡山県賀陽郡庭瀬村(現・岡山市)に生まれました。第一高等学校卒業後は東京帝国大学理学部に入学。1909年(明治42年)に大学を卒業し大学院へ入学。大学院では植物細胞学を専攻し、そこでハスについての研究も始めました。学生時代に内村鑑三の影響により無教会主義のキリスト教に入信しています。

1910年(明治43年)第八高等学校の講師となり、翌年に同校の生物学教授となります。1917年(大正6年)に満州の大連へ赴き、南満州鉄道中央研究所(満鉄調査部)植物班主任として古ハスの実の研究に従事するようになりました。

1927年「南滿州普蘭店附近の泥炭地に埋没し今尚生存せる古蓮實に関する研究」で東大理学博士を取得。満州事変にいたる一連の軍部行動への抗議として退社し、事変の翌年に東京へ戻りましたが、東京女子大学、東京農林専門学校と転々し、遺跡の発掘に関わるようになったときには、関東学院大学で講義を行っていました。

当初、調査は困難をきわめめぼしい成果はなかなか挙げられませんでしたが、翌日で打ち切りの日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され、予定を延長し翌月までに発掘を続けた結果、さらに2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

5月上旬からはさらに3粒のハスの実が発掘され、博士はこの3粒の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試みます。結果、2粒は失敗に終わりましたが3月30日に出土した1粒は無事に育ち、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせました。

このニュースは国内外に報道され、米国ライフ週刊版1952年11月3日号 に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され、このとき「大賀ハス」と命名されました。また大賀博士は、年代を明確にするため、ハスの実の上方層で発掘された丸木舟のカヤの木の破片をシカゴ大学原子核研究所へ送り年代測定を依頼しました。

シカゴ大学での放射性炭素年代測定の結果、このハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定されました。そしてこの古代ハスは、1954年(昭和29年)に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定されました。

その後、この蓮は全国で増殖されるようになります。大賀博士の自宅近くにある、府中市郷土の森公園修景池には、今でもこの二千年ハスが育てられており、鑑賞会などが催されています。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られます。

日本各地は元より世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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大賀ハスが移植された施設は多数に及びますが、以下がその一覧です。

対泉院(青森県八戸市)
古河総合公園(茨城県古河市)
青蓮寺(三重県名張市)
本福寺水御堂(兵庫県)
平池公園(兵庫県)
荒神谷史跡公園(島根県出雲市)
定福寺(高知県大豊町)
熊本国府高等学校
吉野ヶ里歴史公園(佐賀県吉野ヶ里町)(神埼市)
北方文化博物館(新潟県新潟市)
成田国際空港(千葉県成田市) – 第1旅客ターミナルビル前「蓮の和風庭園」

なお、愛知県愛西市、滋賀県守山市、埼玉県行田市などの地方公共団体が「市の花」に採用しています。そして、古代ハスのタネが発見された千葉県千葉市 も、「大賀ハス」として 1993年に千葉市花に制定しています。

この大賀ハス以外にも、中尊寺の金色堂須弥壇から古代のハスのタネが発見され、こちらも800年ぶりに発芽に成功して「中尊寺ハス」と呼ばれています。また、埼玉県行田市のゴミ焼却場建設予定地からも、およそ1400年から3000年前のものが発見されて発芽し、こちらは「行田蓮」と呼ばれています。

なお、和歌山県新宮市木ノ川360番地の「白龍山寶珠寺」(ほうしゅじ)の蓮池には、毎年7月から8月末までの間に、白蓮が開花すします。寺の過去帳によれば、約300年前より蓮池が存在し、蓮もそれに由来するといいます。蓮の葉が80cm以上で大きく、花も開花すると30cmと大きいのが特徴です。

このハスの花、仏教用語でいうところの「蓮華」は、よく清らかさや聖性の象徴として称えられます。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という日本人にも馴染みの深い中国の成句が、その理由を端的に表しています。

古代インドでは、ヒンドゥー教の神話やヴェーダやプラーナ聖典などにおいて、特徴的なシンボルとして繰り返し登場しており、これらにおいては後の仏教における「ハス」の象徴的用法と近い表現がなされています。

泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられ、このイメージは仏教にも継承されてきました。

仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されています。如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしています。主に寺院では仏前に「常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華が置かれています。

一方で、仏教国チベットは標高が高く、蓮はほとんど育ちません。このため、チベット仏教寺院などで想像で描かれたハスは、日本のものに比べてかなり変形しているほか、そほんのり赤みがかった白い花として表現されることが多いようです。

なお、仏教ではさらに、死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって「身を託す」という思想があります。我々がときに使う「一蓮托生」という言葉はこれが語源です。

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また、密教においては釈迦のみならず、ラクシュミーと呼ばれる天女を本尊として信仰する修法があります。これは「蓮女」と訳され、日本では「吉祥天女法」と呼ばれるようになっています。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされていたものが、ラクシュミーとして取り入れられたものです。

密教を含む仏教一般では毘沙門天の妃また妹ともされ、善膩師童子を子として持ちます。鬼子母神を母とし、徳叉迦龍王を父とするとも言われ、また妹に黒闇天がいます。 毘沙門天の脇待として善膩師童子と共に祀られる事もあります。

日本では「吉祥天」の呼び方のほうが一般的です。吉祥は繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされ、また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念を受け止めてくれる女神であり、また五穀豊穣をかなえてくれる神様としても崇拝されています。

一方、この蓮の花を支える「茎」は、その表皮を細かく裂いて作ることで糸にすることができ、この糸を「茄絲(かし)」といいます。また、茎の内部から引き出した繊維で作る糸を「藕絲(ぐうし)」と呼び、どちらも布に織り上げるなど、利用されます。

さらに、この茎の内部はストロー状になっており、撥水性の葉と合わせ、葉に酒を注いで茎から飲む象鼻杯(ぞうびはい)として使うという習慣が日本にはあります。

この蓮の葉もまた食べ物として使われます。蓮葉飯(はすはめし)または、蓮飯といい、蓮の葉を蒸しあげ塩を加え柔らかくして細かく刻んで炊き立てのご飯と混ぜたものもあります。

いわゆるちまきのことで、粳米(うるちまい)や餅米(もちごめ)などをさまざまな食材と一緒に蓮の葉包みの蒸したもののことです。こちらは盂蘭盆や一部の仏教宗派の祭礼の供物や名物として、現在でもその門前町の商店やお寺で今も提供している地域があります。

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蓮の葉はさらに漢方薬の荷葉(かよう)としても使われてきました。我が国ではこのように用途の広い蓮を扱う商売人が古くからおり、各地の朝市や縁日で屋台を出していました。

こうした店ではほかに、銀杏、アケビ、椎(しい)などの木の実も扱っており、五節句、二十四節気の年中行事には欠かせない風物詩でした。盂蘭盆に使う蓮の実や蓮の葉は、特に珍重され、彼等は商品の多くを蓮の葉や蕗(ふき)の葉の皿の上に置いて売っていました。

このことから、こうした季節物を扱う商人を「蓮の葉商い」と呼ぶようになりました。彼等の中には屋台だけでなく、八百屋や花屋になるモノも多く、ごく最近までこうした街商でも季節物としてのハスの葉を売っていました。

しかしこうした蓮の葉に代表されるような商品は、季節物という短期使用のいわゆる、「消え物」であることから多少品質が悪くとも問題にならない、しない物を扱う商売人という捉えかたがされるようになりました。そして、そのうちに「きわもの(際物)」売りやまがい物を売る者とみなされるようになりました。

やがては蓮の葉商人の語源でもある蓮の葉そのもの味が、きわものやまがい物を指すようになりました。その結果、「蓮の葉女」といえば、いかがわしい女、という意味になっていきます。

古くは蓮葉女(はすはめ)、蓮葉(はすば、はすわ)といい、現在ではあまり使われなくなっていますが、ときに蓮っ葉女(はすっぱおんな)、蓮っ葉(はすっぱ)と表現されます。意味としてはお転婆、生意気、媚を売る、馴れ馴れしいなど軽はずみな言動をする女性や浮気性や根無し草のように住処を転々とする女性をさします。

もっとも、その語源は蓮の葉商人からきているとする説以外にもさまざまで、蓮の葉が風や水面(みなも)の波によりゆらゆらする様や、蓮の葉の朝露がころころと転がる様という形態を模してという説もあるようです。

ただ、蓮の葉に例えられある女性がいかがわしいものとされる一方で、蓮の花は貴いものの例えてとして現在もよく使われます。上述のとおり、古代インドのヒンドゥー教から生まれた女神信仰の影響で、最高に素晴らしい女性のことを「蓮女」と呼び、こうした女性は日本では「吉祥天」のようだ、といわれます。

同じ植物でありながら、葉っぱと花でこれほど差が出るものも少ないのではないでしょうか。

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ところで、この蓮の葉は円形で葉と茎の接続部分が中央にあり、ここに雨露などが溜まると撥水性があるために、水玉ができます。

ハスの葉はその微細構造と表面の化学的特性により、決して濡れることがありません。葉の表面についた水は表面張力によって水銀のように丸まって水滴となり、泥や、小さい昆虫や、その他の異物を絡め取りながら転がり落ちます。そして、この現象は「ロータス効果」として知られています。

同じくサトイモ(里芋)の葉などでも微細構造と表面の化学的特性から同様の効果が見られます。近年のナノテクノロジーの分野では、こうした植物のロータス効果を応用して、塗料、屋根材、布などの表面でその効果を再現することに成功しており、それらを乾燥したきれいな状態に保つ方法の開発が行われています。

これらの技術で我々が普段よく目にするのが、フライパンなどに使われているフッ素加工、などの撥水加工技術が生まれた技術です。最近ではシリコンで表面を処理することなども行われており、より撥水効果の出る様々な化学物質が使われるようになっています。

ロータス効果による超撥水性加工を施した素材の表面を電子顕微鏡で見ると、その表面にハスの葉の表面に似た多孔性の微細構造が観察できるといい、今ではこの方法により自己洗浄を行う塗料や、温室の屋根に使うようなガラス板にロータス効果を持たせたもの、あるいは車のポリマー加工などにも応用されています。

こうした、科学的方法や自然界にあるシステムを応用して工学システムや最新テクノロジーの設計や研究を行う学問領域のことを生体工学(bionics)といいます。人間以外の動物や植物にはその進化において環境に適合するために高度な最適化が行われてきており、より効率的にその環境で過ごすことができます。

であるため、これを人工物の構築に応用することが考えられたものであり、ロータス効果のように動植物の表面や皮膚を模したものはほかに、イルカの肌を模倣した船殻、ヤモリの指の微細構造を真似た粘着剤のない粘着テープ、蛾の目の構造を模した無反射フィルム、カタツムリの殻の構造から手掛かりを得た防汚製品などなど枚挙のいとまがありません。

それにしても蓮というものは、こうした葉っぱだけでなく、根や茎、花や実に至るまで、ありとあらゆるものに使われており、まさに仏様の御慈悲により人類にもたらされたものといえるかもしれません。

仏教では、仏を表す象徴物の事を三昧耶形(さんまやぎょう)といいます。三昧耶はサンスクリットで「約束」、「契約」などを意味するサマヤ(samaya)から転じた言葉で、どの仏をどの象徴物で表すかが経典によって予め「取り決められている」事に由来します。

多くの場合、各仏の持物がそのままその仏を象徴する三昧耶形となり、たとえば不動明王なら「利剣(倶利伽羅剣)」、虚空蔵菩薩なら「如意宝珠」ですが、阿弥陀如来の三昧耶形は、「蓮」です。

阿弥陀如来は、無明の現世をあまねく照らす光の仏であり、浄土への往生の手立てを見出してくれる仏様ですが、この世においては衆生救済のための仏様です。人々の生活のために何にでも使える蓮を与えたくれた阿弥陀如来の象徴としてはぴったりといえます。

日本以外でも仏教が盛んな東南アジア諸国でも同様に宗教的意味合いから珍重されており、とくにハスの花は、インド、スリランカ、ベトナムの国花に制定されており、また中華人民共和国マカオの区旗にもデザインされています。

ベトナムなどでは、とくにこの蓮にこだわりがあるようで、蓮池に小舟で漕ぎ出でて、蓮の葉の朝露を集めて売る、といった商売さえ成り立っているそうです。また蓮の葉の朝露と同じように手間をかけて作られる「蓮の花茶」というお茶があります。

これは、蓮の花の蕾の中に高級茶葉を入れて蓮の花の香り付けして放置したあと、また一ずつその蕾を摘んで茶葉を小舟で回収するのだそうで、これほど手間隙がかかるために最高級のお茶とみなされているそうです。

さすがに日本が同じ製法でお茶を作ったら大変な金額になってしまいそうですが、単に朝露を集めるだけならできそうです。あなたのお宅の周辺でもし蓮の花をみつけたら、同様の方法で集めた水で蓮の葉茶を試してみてはいかがでしょうか。きっと極楽浄土へ行った気分になるに違いありません。

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