行楽の秋だというのに、ここのところ天候不順で、今日の伊豆も一日曇りがちです。
そろそろ、あちこちに紅葉の撮影に出たいと思っているのですが、こう天気が悪いと出鼻をはじかれたような気分になります。
「さざんか梅雨」というのだそうで、11月下旬から12月上旬にかけての、サザンカが咲くころに降るためこの名前がつけられたようです。
ただ、10月ごろまでに続く「秋雨」とはまた違うようで、毎年あるというわけでもないようです。確かに去年の今頃は天候に恵まれ、毎日晴れていたように思います。
気象庁は何の関連性もアナウンスもしていませんが、これは現在南米で発生しているエルニーニョと関係があるのではないかと私は思っています。
南米の太平洋沖での海水温が異常に高い状況が長く続く現象であり、その影響を受けてか、ここのところ暖かい日が続いています。冬になり、北から入ってくる冷たい空気と暖かい海水のせめぎ合いが、この不安定な天気を造りだしているのでしょう。
ところで、サザンカとツバキは何が違うのでしょうか。調べてみると、いずれもツバキ科ツバキ属に属する近縁種です。しかし、サザンカは秋の終わりから、冬にかけての時期に花を咲かせますが、ツバキの花期は冬から春にかけてです。ツバキの中にも早咲きのものは冬さなかに咲くものがあるようですが、一般には早春に咲く花とされているようです。
また、ツバキは日本が原産のようですが、サザンカは日本以外にも中国や台湾、インドネシアまで幅広くみられ、これらの国で園芸品種として改良されて日本に入ってきたものも多いようです。
このほかのツバキとサザンカの違いとしては、サザンカはめしべや葉柄(葉と茎を繋いでいる柄)に毛がありますが、ツバキにはありません。
さらに、ツバキは花弁が個々に散るのではなく、花ごとボトッと落ちます。一方のサザンカは、個々に花びら散ります。花が丸ごと落ちることから、その昔の武士は首が落ちる様子に似ているというのを理由にツバキを嫌った、という話があります。
その一方で、ツバキの木質は固く緻密、かつ均質で、木目は余り目立たないことから工芸品、細工物などに使われ、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から印材や将棋の駒として使われます。
また、ツバキの木炭は品質が高く、椿油は、高級食用油、整髪料として使われてきました。日本が原産でこのように古来から日本人には愛されてきた、という意味でもサザンカよりもツバキのほうがより日本的な花といえるかもしれません。
いずれも多数の園芸品種があり、どちらが好きかは好みによります。が、サザンカのほうは、明治時代以後のごく最近になって流行するようになった花のようです。ツバキよりもよりあでやかな品種が多いことから、近年ではサザンカを好む人のほうが多いのではないでしょうか。
一方のツバキのほうはとくに江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行しました。
1600年代初頭までには多数の園芸品種が生み出され、1681年には,世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版されています。
江戸時代には逆にこの日本原産のツバキが海外へ輸出され、人気を博しました。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介したのがきっかけであり、後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介しました。
その後スウェーデンの博物学者、植物学者であり、「分類学の父」として高名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿に「カメル」という名前をつけましたが、これが今日、英語でツバキのことをキャメリア(日本語ではもしくはカメリア、Camellia)とする語源になっています。
19世紀には園芸植物として流行し、今日、オペラとしても上演されることの多い「椿姫」にも主人公の好きな花として登場します。フランスの劇作家、アレクサンドル・デュマ・フィスが小説として描いたものを、イタリアのロマン派音楽の作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディが、1853年にオペラとして完成させたのがはじまりです。
ヴェルディの作品は、この椿姫だけでなく多数のものがその後世界中のオペラハウスで演じられるようになり、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いています。イタリア・オペラに変革をもたらしたとされ、現代に至るまでもオペラ界では最も有名な作曲家です。
彼が創作した「椿姫」もまた、オペラ史上、最も有名な作品と言っても過言ではないでしょう。
しかし、この作品の初演は大失敗に終わったそうです。これはパリ社交界の高級娼婦が主人公という設定がイタリアの聴衆には馴染めず、さらに、ヒロインであるヴィオレッタ役の歌手があまりに太っていたというのが失敗の原因だったそうです。しかし、初演から2か月後に行われた再演では主役を変え、今度は大喝采を浴びました。
この椿姫のストーリーですが、私もタモリさんと同じでオペラやミュージカルの類が苦手なので、見に行ったことがありません。が、あえて調べてみると、時は19世紀半ば、舞台はパリです。
夜の世界、これをフランス語では「ドゥミ・モンド」といい、裏社交界のことです。その世界に生き、月の25日間は白い椿を身に付け、残り5日の生理期間には赤い椿を身に付けたために人々から「椿姫」と呼ばれた高級娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーは贅沢三昧の生活に心身共に疲れ果てていました。
そこに現れたのが友人に紹介された青年、アルフレード・ジェルモンでした。青年の正直な感情に最初は戸惑いを覚えていたヴィオレッタでしたが、今まで感じ取ったこともない誠実な愛に気づき、二人は相思相愛の仲となります。
ヴィオレッタは享楽に溺れる生活を捨て、パリ近郊にあるアルフレードの別荘で彼ととともに幸福の時を過ごすようになります。
しかし、その生活は長くは続きませんでした。息子のよからぬ噂を聞いて駆けつけたアルフレードの父親が、アルフレードの妹の縁談に差し障りとなるので、息子と別れるよう彼女に迫ったのです。ヴィオレッタは自分の真実の愛を必死で訴えますが、受け入れられず、悲しみの中で別れを決意。家を出ていきます。
彼女が残した置き手紙には別れの理由は何も書かれておらず、手紙を読んだ何も知らないアルフレードは、彼女の裏切りに激怒します。
その夜、ヴィオレッタはパリの社交界に戻り、かつてパトロンだった男爵に手を引かれて現れます。彼女を追ってきたアルフレードは、ヴィオレッタが男爵を愛していると苦しまぎれに言うのを聞いて逆上し、社交界の大勢の人前で彼女をひどくののしりました。
侮辱され、ヴィオレッタは悲しみますが、しかし彼を心底愛していたため、その場で反論もできません。数カ月後、ヴィオレッタは自宅のベッドで横になっています。実は難病におかされていて、死期が近づいていたのです。
そこへ駆け込んでくるアルフレード。いまや全ての事情を父から聞いた彼は、彼女に許しを請います。二人はまたいっしょに暮らすことを誓いますが、時はすでに遅く、ヴィオレッタは過ぎ去った幸せな日々を思い出しながら、アルフレードに抱かれて静かに息を引き取ったのでした……。
この椿姫は、その後世界中で上演され、現在でも数あるオペラ作品の中でも最も人気のあるひとつのようです。その後2008年にイギリスで「マルグリット(Marguerite)」の名前で翻案したミュージカルとなり、日本でも赤坂ACTシアター、梅田芸術劇場、日生劇場で2009年に初演、2011年に再演されました。
この赤坂での初演では、その直前に東日本大震災が発生し、開始が延期された、ということもあったようです。初演の際にマルグリットを演じたのは、宝塚歌劇団退団後初めての舞台出演であった、春野寿美礼さん、再演の主演は、今なにかと結婚話で話題になっている、藤原紀香さんでした。
一方、この椿姫を創作したヴェルディは、イタリア、パルマの町のフィルハーモニー楽団の音楽監督をやっていた22歳のとき、17歳のときから付き合っていたマルゲリータ・バレッツィと結婚しました。
結婚後、一男一女を設けましたが、ところがこの二人は幼くして亡くなってしまいます。また、彼が27歳のとき、妻のマルゲリータは脳炎に罹って亡くなってしまいました。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎え、そのころ仕上げた「一日だけの王様」というオペラもスカラ座の初演で散々な評価を下され、公演は中断される始末でした。
ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えましたが、その年も押し迫ったある日の夕方、街中で、スカラ座の支配人、メレッリと偶然会いました。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けましたが、やる気のないヴェルディは帰宅し台本を放り出しました。
ところが、開いたページにたまたまあった台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻したといわれています。構想に構想を重ね、翌年秋に完成させた「ナブッコ」は、謝肉祭の時期に公演される事になり、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えました。
この演目は、旧約聖書の時代に題材をとり、バビロニア国王ナブッコと、勇猛なその王女アビガイッレに率いられたバビロニアの軍勢がエルサレムを総攻撃している、という設定で始まります。その後、王女アビガイッレと敵エルサレムの王子との恋愛などが展開され、王ナブッコとエホバの神との交わりなども壮大なスケールで描かれた一大叙事詩でした。
その上演の結果といえば、観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、挿入歌、「行け、わが思いよ、黄金の翼」の合唱では、この当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂しました。
これは、この歌がかつてミラノが支配されていた時代を歌ったものだからです。観客はこの中で追放されるミラノの奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられました。現在のイタリアでも大変人気があり、「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われているようです。
こうして「ナブッコ」の上演は大成功に終わり、1日にしてヴェルディの名声を高めました。
その後ヴェルディは再婚しています。かねてより知り合いだった2歳年下のソプラノ歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニがそのお相手です。フランスとイタリアの境にある古都、サヴォアの町で45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げました。
その後、80歳を越えるまでも精力的に活動し、多くの名作を作り上げましたが、晩年には若いころにイタリア北部郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)に購入していた農場に戻り、音楽ではない仕事に熱心に取り組みました。
構想を暖めていた音楽家のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムジチスティ(音楽家のための憩いの家)の建設がそれであり、この事業にオペラ制作同様に情熱をかけました。ヴェルディは、かねてから引退した音楽家らが貧困に陥ったまま生涯を終えるさまを気に病んでおり、彼らのために終の棲家となる養老院建設としてこれを計画したようです。
最晩年には公のことは嫌って、イタリア政府の勲章もドイツ出版社の伝記も断り、とくにその中でもミラノの音楽院が校名を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院」に変えようとする事には我慢がならず声を荒げたといいます。同校の改名はヴェルディの死後に行われました。
1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失いました。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取ったといいます。ヴェルディは目に見えて落胆しますが、そんな彼を娘マリアや親しくしていた脚本家、ソプラノ歌手などが付き添いました。
ヴェルディとジュゼッピーナの間には子供はなく、このマリアは、父が亡くなった際に引き取り、娘として育てた歳の離れた従妹だったようです。
この年齢になっても講演をみるためにヴェネツィアへなどにもよく出かけていましたが、彼自身は既に自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意しました。
同年末、マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していましたが、1月20日の朝、起きぬけの際、脳血管障害を起こして倒れ、意識を失います。
多くの知人に連絡が届き、友人たちが駆け付けました。また王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められましたが、1901年1月27日未明、偉大な作曲家は息を引き取りました。享年87。
同日朝、棺がホテルを出発して「憩いの家」に運ばれ、妻のジュゼッピーナが先に眠る礼拝堂に葬られました。出棺時にはスカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされる指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニが指揮し、820人の歌手が「行け、わが思いよ、黄金の翼」を歌いました。
遺言では簡素な式を望んでいましたが、意に反して1ヶ月後には壮大な国葬が行われました。また、後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれるようになりました。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では説明できないイタリア人の情をうまく表現したためといわれています。
ヴェルディの残した「憩いの家」は、現在も老齢音楽家のための活動を続けています。ミラノ市のブォナローティ広場の一角に建つこの建物は、その二階にはヴェルディの遺志通りパイプオルガン付きの小ホールがあり、中心には礼拝堂、レストラン、病院なども完備されています。
運営資金はヴェルディの作品の印税が切れたのちは、全世界からの寄付と援助、さらにヴェルディの残した「ヴェルディ基金」から捻出されているそうです。彼は今、自身の建てた「憩いの家」の中庭に妻ジュゼッピーナと共に眠っています。その墓所では、ときに若い音楽家の卵と老齢の音楽家が仲良く集う姿が見ることができるそうです。
「カメリアコンプレックス」という言葉があります。その語源は、彼が創作した「椿姫」の主人公、ヴィオレッタ・ヴァレリーとアルフレード・ジェルモン、もしくは、原題の小説の主人公たちにちなんでいます。
不幸な女性を見るとつい救ってしまいたくなる男性の心理を言います。ヴィオレッタは高級娼婦であり、このため西洋では「カメリア」といえば、罪を犯し贅沢なことを行う商売女の意味合いを持っています。
こうしたことから、カメリアコンプレックスとは、相手の女性が不幸だと感じたら、どんな女であってもどんなことがあっても、救い出そうとする男性の心理全般のことをさすようになりました。
女性にとってはありがたい極みなのかもしれませんが、そうしたコンプレックスを持つ男性というのはともすれば破滅型であり、場合によっては身上を潰したり、ヒモに成り下がって、人生を壊してしまう可能性もあります。
オペラ、椿姫では、相手の女性が死んでしまったために、悲劇の幕が閉じられましたが、もしヒロインが生きていたら、青年は一生彼女にかしずいて生きて行かなくてはならなかったかもしれません。
一方では、同じコンプレックスでも「ユディットコンプレックス」というのもあります。これは、自ら進んで強い男に身を任せたい強い願望と、それにもかかわらず支配はされたくはないという精神状態を表す概念で、こちらは女性に用いられる用語です。
女性には強い男に進んで身をまかせたい心理があるとされますが、その一方で自分の操を汚した男を殺したい憎しみとが無意識に混在する、といわれます。この状態がいきすぎてしまうと男性にどんどん汚される事で逆転的に男性を傷つけようとすることもあるそうです。
このため、このコンプレックスを持っている女性は、男性から見ると男の心を弄んでいるように見られることもしばしばです。
「ユディット」の語源は、旧約聖書の外典のひとつ「ユディト記」に出てくるユダヤ女性です。その原典では、このユディトが男性に乱暴されるとか、そういう話は出てきません。むしろ英雄として扱われています。
夫を日射病で失って寡婦となっていた彼女は、美しく魅力的な女性で多くの財産をもっていましたが、一方では唯一の神に対して強い信仰をもっていたため、人々から尊敬されていました。そんな中、アッシリアの王は自分に協力しなかったユダヤなどの諸民族を攻撃するため、軍隊を派遣して攻撃しようとします。
このとき、ユディットは、ユダヤを攻撃するためにやってきた司令官を姦計によって、おびき出します。その酒宴の席で、司令官は泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠る司令官と二人だけで残されます。
このときユディトは眠っていた司令官の短剣をとって彼の首を切り落としました。その後、ユダヤ人はたちはこの機会を逃さず出撃し、敗走する敵を打ち破ったとされます。
ユディトはその後、105歳で亡くなるまで、静かにユダヤのベトリアという町で暮らした、といわれます。しかし、この話は後年、未亡人ユディトは、自分の町に侵略してきた敵の将軍を魅惑し、抱こうとした将軍の首を斬り町を救った、というふうに変わっていきました。
一部では「処女を与え首を切った」という話に飛躍してしまっており、これが自分の操を汚した男を殺したいほど憎むという、ユディトコンプレックスに変わっていったというわけです。この心理はカマキリの雌が交尾した雄を殺して食ってしまう事にもよく例えられるようです。
さて、あなたがたカップルは、カメリア派でしょうかユディト派でしょうか。三連休となるこの週末に、じっくりと話あってみてはいかがでしょうか。