パナマ

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112年前の今日、「パナマ運河条約」がアメリカ合衆国とパナマ共和国との間で締結されました。

これは、1903年に締結された条約で、パナマ運河の管理運営権と軍事警察権をアメリカが管理することをパナマ共和国側が認めるというものです。と同時にパナマ運河と運河の中心から両側5マイルずつ(幅16km)の運河地帯の永久租借権、そして運河自体の建設の権利をアメリカに与える、というものでした。

つまり、この時点ではまだパナマ運河は完成していません。とはいえ、パナマ共和国は来たるべき将来に完成するであろうパナマ運河の運用の権利はほぼ放棄し、永久にそれをアメリカに与えた、ということになります。

なんでそんなことになったのかといえば、それはこのころ急速に大国として急成長していたアメリカという国の「世界制覇」の野心によるためにほかなりません。

そもそもアメリカは1898年のスペインとの戦争、米西戦争を契機に、アメリカ東岸と西岸の連絡がいかに重要であるかを知るようになりました。アメリカは東西4000km超の国土を持ち、この間を鉄道で結ぶにしても時間がかかりすぎます。

アメリカの大陸横断鉄道は1869年に完成していますが、この当時はニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで最短でも84時間かかりました。このため、1901年にセオドア・ルーズベルトが合衆国大統領に就任すると、より短い時間で太平洋と大西洋を結ぶことができるよう、中米地峡に運河を建設しようと考えました。

地峡とは、海峡の逆で、二つの陸塊をつなぎ、水域にはさまれて細長い形状をした陸地です。地図をみれば一目瞭然ですが、パナマ地峡は、中央アメリカのカリブ海と太平洋との間、パナマ中部にあり、南北両アメリカ大陸を結ぶ帯状の地峡です。

スペインの探検家、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアがカリブ海沿岸を航行している際、原住民より「南の海(太平洋のこと)」の話を聞いたことから、1513年9月25日に発見したとされます。1513年といえば、日本はまだ室町時代中期であり、後の戦国時代の雄、豊臣秀吉の母、仲こと、のちの大政所がようやく誕生した年です。

この発見から、6年後の1519年には、この地峡の太平洋沿いの小規模な原住民の居住区の近くに、スペイン人たちによって初めてパナマの町が創設されました。南米ペルーへの探検と、黄金や銀をスペインへ運ぶための拠点とするためであり、その後ペルーへの中継地点として町は重要な貿易港として発展し、地域の行政上の中心地となっていきました。

この地峡の最狭部はサンブラス地峡と呼ばれるもので、その幅はわずか64キロメートル。他の多くの地峡と同様、いや、それ以上に貿易・軍事を拡大していくために戦略的にも重要なポイントです。ただ、ほかに同じ中米には、パナマから北西へ600km離れた場所に、「ニカラグア地峡」と呼んでもいいような場所があります。

こちらは幅が250km以上あり、パナマに比べて開削するには不利です。が、ニカラグア共和国政府の現職大統領、オルテガ大統領は経済効果が高いとして、2014年に運河の開削を開始に踏み切りました。2019年までには完成する予定だといいます。

このニカラグアの地峡には19世紀始めにはナポレオン三世も計画の実現可能性が高いとして興味を示していたといいます。が、パナマのほうが先にできたために計画は頓挫していました。それがようやく実現するわけですが、建設費には膨大な費用がかかり、ニカラグア政府はその金を中国に頼ろうとしています。

施工主体のHKNDという会社は、2012年に香港に設立されたIT企業で、運河は開通後50年間の運営権がHKNDに与えられることが契約されており、さらに50年間の延長も可能になっています。HKNDには中国人民解放軍や中国民主党の関与も指摘されており、事実上、100年間にも及ぶ中国の租借地になってしまう可能性もあるということです。

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それはさておき、こうした中南米にある地峡を開削すれば、大西洋から簡単に太平洋へ、またその逆に出られるということは誰にでもわかります。大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、アメリカや中国がここに目をつけるよりずっと以前のパナマ地峡の発見後すぐに構想されました。

1534年、パナマを保有を宣言していたスペインのカルロス1世がその調査を指示しましたが、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となりました。19世紀に入ると、産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実実を帯びてきました。

1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュがはじまり、アメリカ東部から大勢の人々が西海岸をめざしましたが、当時は大陸横断鉄道はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せました。これらの人々を運ぶため、1855年にはパナマ鉄道が建設され、両洋間の最短ルートとなりました。

しかし、大量の物資を大西洋から太平洋に運ぶためには鉄道よりも船舶のほうが当然有利です。このため、何度か開削計画が立てられましたが、膨大な費用がかかることが予想されたため、多くの事業者が躊躇しました。しかし、その中で唯一着工を決断したのは、中東のスエズ運河の開削に成功し、巨額な富を得ていたフランスの実業家レセップスでした。

フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップスは、フランスの元外交官であり、この当時フランスが進出しようとしていたエジプトに、1833年に駐アレキサンドリア副領事として就任しました。

そのエジプトへの赴任途中、船内でコレラが発生し、上陸が一時停止され、海上で隔離されてしまいます。このとき、レセップスはフランス人の技師ルペールという男がナポレオンに宛てたエジプトに関する報告書を暇つぶしに読みました。

スエズ運河は、エジプトとサウジアラビアの間にあるおよそ200kmのスエズ地峡にある運河です。その報告書の中にこの運河の開削計画に関する記事があったことから、彼はその構築の夢を抱くようになります。エジプトに到着後、副領事を務めるようになってからはその業務の傍ら、のちのエジプト総督、アッバース・パシャの家庭教師を務め、慕われました。

このころ、エジプトはイギリスによって武力鎮圧され、イギリスの保護国となっていました。そんなエジプトへフランスが進出しようとしていたのは、アフリカやインドの制覇を進めるフランスにとって、いわば目の上のこぶであったイギリスを牽制するためでした。

インドに重要な植民地をもつイギリスは、植民地と本国とに連絡を取るに当たりエジプトを経由しており、このため、エジプトを奪うことはイギリス本国とインド植民地、さらにインドと地中海の結びつきをなくすことができ、あわよくばインドの植民地を奪取することにもつながるため、戦略上も重要と考えられていました。

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しかし、そのエジプトのかつての宗主国は、東ヨーロッパからアフリカ北東部を統治するオスマン帝国であり、300年近くもエジプトを支配していた同国は依然としてエジプト国内に影響力を持っていました。

このため、この運河の開削は、イギリスとフランスそしてオスマン帝国という三者三つ巴の利権に関わる重要な案件となりました。しかし、オスマン帝国のスルタン(君主)は、この運河の開削によって同国の領地が分断されるのではないかと恐れて反対でした。

また、イギリスは影響力を持つインド貿易が、自由に通行できる運河開通によってフランスに脅かされるのではと懸念していました。

アッバース・パシャがエジプト総督に即位すると、レセップスはこのかつての教え子と懇意であったこともあり、スエズ運河の開削権を与えられました。が、運河に反対で自国の通商への脅威とみなしているイギリスはオスマン帝国スルタンに圧力をかけ、たびたび妨害しようとしました。

このため工事の着工は延滞しますが、レセップスはあきらめず、1854年国際スエズ運河株式会社を設立し、その株式を売却することで国際世論に訴え、オスマン帝国スルタン未承認のまま、翌年、試験掘削という名目で着工しました。

イギリスはさらにオスマン帝国に圧力をかけましたが、フランス皇帝・ナポレオン3世が仲裁に入り、難工事と疫病の蔓延を克服して1869年に完成させ、開通式には7000名の各国の王族や名士が参列しました。 その後、スエズ運河会社は莫大な利益をあげ、さながら1つの国家の様相を呈しました。

ちなみに、エジプトは第一次大戦後の1922年に独立してエジプト王国となり、翌年イギリスもその独立を認めました。その後クーデターによってエジプト共和国となり、第二次中東戦争で英仏イスラエルとスエズ運河の利権をめぐって戦いました。

戦況はエジプトに不利でしたが、降伏直前に米ソの仲裁が入り、英仏軍は撤退。その後スエズ運河はエジプト共和国の国有となりました。エジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとしました。

レセップスはスエズ運河完成後、今度はパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募りました。このころパナマ地峡は、スペインから独立したコロンビアが保有していましたが、レセップスはこのコロンビア共和国から運河建設権をスエズ運河の利益から得た豊富な資金で購入します。

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こうして、パナマ運河もフランスの主導で1880年に建設が開始されましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航しました。フランス政府はこのため国債を発行して多数の市民から建設資金を得ました。しかし、1884年の恐慌の影響も受けて1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄しました。

このとき、多額の資金を投じていたフランス政府は計画を頓挫させるわけにもいかず、工事を続行するために新会社を設立して運河会社の清算を進め、1890年にはコロンビアとの契約が更新されました。

1892年には運河会社の清算処理方針が決まりました。しかし、このとき約80万人の一般国民が買った債券は紙切れとなり、これを怒った債権者がリークしたのか、政府中枢にあった多数の大臣が運河会社から賄賂を受けていたという情報を新聞が報じました。

この結果、6人の大臣を含む510人の政治家が、運河会社の破産状態を公表しない見返りに収賄したとして告訴されるに至るという大規模な疑獄事件に発展します。これがいわゆる「パナマ運河疑獄」と呼ばれるもので、この事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなりました。

しかしこのとき弾劾された政治家は、前開発大臣が有罪判決を受けただけで大多数が無罪となりました。議会にも調査委員会が設けられ、104人が収賄したとされましたが、彼らは結局訴追されませんでした。レセップスとその息子およびエッフェルも背任・詐欺の罪で訴えられ有罪判決を受けたが、上訴審では無罪となりました、

ただ、レセップスはこの事件が元で精神錯乱の末1894年に病死。フランスはこの事件によりパナマ運河計画から事実上撤退を余儀なくされます。

一方、運河の開削地であるパナマ地域を統治するコロンビアでも、このころ内乱が起こり始めていました。

中央集権の保守党と連邦主義の自由党の二大政党制の対立により、内戦が起こり、1899年から1902年までの約3年間続きました。これは「千日戦争」によばれましたが、この騒ぎに乗じてパナマ運河の開削に身を乗り出したのがアメリカです。

アメリカは、中米における運河建設計画としてニカラグア案とパナマ案の二つを持っていました。が、1902年、レセップスが設立した新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取るかたちでパナマ案が正式に議会で採決されました。そして、ここに運河を作りたいがために、コロンビアに軍事干渉し、これによって千日戦争は終結しました。

こうして、運河建設はその後このアメリカ合衆国によって進められることとなりました。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカは、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えていました。

このころまだパナマ地峡はコロンビア領でしたが、パナマ運河の地政学的重要性をほかのどの国よりも注目していたアメリカは、何が何でも運河を自らの管轄下におこうと強く志向します。こうして、アメリカがコロンビア政府に強く働きかけた結果、1903年、ヘイ・エルラン条約が両国間で結ばれました。

アメリカのジョン・ヘイ国務長官とコロンビアのトーマス・ヘルラン大使との間で結ばれたため、こう呼ばれる条約ですが、これは1千万ドルの一時金と年25万ドルの使用料で、百年にわたる運河建設権と運河地帯の排他的管理権をアメリカに認めるというものでした。

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しかし、コロンビア議会は大激論のうえ、この条約批准を拒否。またアメリカの策動に備えただちに400名を超える部隊をパナマに送りました。これに対して、ルーズベルト大統領は、コロンビアを「腐敗した虐殺者の猿ども」とののしり、許可なしでも運河建設を強行すると公表。

その後もコロンビア共和国は、アメリカがパナマ運河を建設することを拒否し続けていましたが、千日戦争で疲弊していたこともあり、パナマ地域の分離・独立の運動を抑えきれず、同年11月には、パナマ地区で暴動なども起きました。

これに乗じて、アメリカはパナマ湾に戦艦ナッシュビルと巡洋艦ディキシーなどを派遣して洋上待機の体制に入り、さらに陸路でも軍隊を派遣します。パナマでは独立派とアメリカに反感を持つ勢力が争うようになっていましたが内乱にまでは発展せず、こうした中、アメリカの支援も受けてやがて独立派は独立を宣言し、軍の将校団を軟禁。

すでに独立派に買収されていたコロンビアからの派遣軍もこれに抵抗せず、こうして独立派は臨時評議会政府を樹立し、コロンビア本国から独立を宣言してパナマ共和国が誕生しました。

マヌエル・アマドールが初代大統領に就任。セオドア・ルーズベルトのアメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の1903年11月18日、つまり112年前の今日、パナマ運河条約が締結されたというわけです。これによりアメリカは、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手できるようになりました。

かなり強引なやり方ではありましたが、パナマの持ち得る経済効果、ラテンアメリカ地域における軍事的重要性をパナマの住民にも焚き付け、分離・独立を裏で画策した成果といえ、現在にまでも受け継がれるその優れた戦略性、およびアメリカのしたたかさを世界に印象づけた出来事でした。

こうして誕生したパナマ共和国で新たに制定された憲法では、パナマ運河地帯の幅16kmの主権を永遠にアメリカ合衆国に認めるとの規定も明記され、以降パナマ運河はアメリカ合衆国によって事実上支配されることになりました。

運河地帯の主権を獲得したアメリカ合衆国によって運河建設は進められ、こうして、条約締結から11年後の1914年にパナマ運河が開通しました。なお、ルーズベルト大統領はそれから5年後の1919年、就寝中に心臓発作のため死去しました。

運河の開通した1914年は第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年ごろまで低迷を続けました。しかし1919年に第一次世界大戦が終結するとともに、運河の利用は激増しました。

この運河の開通が莫大な経済的な効果をアメリカにもたらしたことは言うまでもありません。アメリカはまたこの運河の獲得によって、大きな軍事的な優位を得るようになります。パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点となりました。

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1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、日本との対立が激しくなる中、アメリカ政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工しました。この工事は別水路を作ってパナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから第三閘門運河と呼ばれました。が、日本との戦争が激しくなったため、1942年に工事は中止されました。

しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入ってパナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなりました。その後もアメリカ政府はここを拠点として、パナマに対する有形無形の干渉を続けましたが、第二次世界大戦後になるとパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなっていきました。

1968年、パナマ共和国では軍事クーデターが起き、これによってオマル・トリホスが権力を握ると、国粋主義的な方針を取るトリホス政権は運河の完全返還を強く主張するようになります。これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に「新パナマ運河条約」が締結されました。

これにより、運河および運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ正式に返還され、アメリカ軍は完全に撤退しました。新パナマ運河条約により、パナマ運河の管理運営権はパナマに委譲され、全ての国の平和的航行に対して平等に開放する、とされました。

現在もパナマ運河はパナマ共和国が管轄しています。しかし、アメリカはいまだもって有事の際には軍事介入する権利を留保しています。

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ところで、軍事といえば、第二次世界大戦時、旧日本軍は極秘作戦の一つとしてこのパナマ運河を爆破する、という突拍子もない計画を持っていました。

この計画は、同盟国ナチス・ドイツの敗戦が濃厚になり始め、不要となった米英蘭の連合軍大西洋艦隊の太平洋への回航が予想されたために持ち上がったものです。この艦隊を少しでも遅らせるために、パナマ運河を爆破し、時間稼ぎを行おうとこの計画が立案されました。

早速、大日本帝国海軍は極秘裏に艦上攻撃機晴嵐を3機搭載した「海底空母」の建造を進め始めました。「伊四〇〇型潜水艦」と呼ばれる特殊な潜水艦であり、別名「潜特型」とも呼ばれていました。

3機の特殊攻撃機「晴嵐」が搭載可能であり、第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大の艦でした。通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であり、その全長はアメリカ海軍が二次大戦中に主力潜水艦としていたガトー級を27メートル上回っていました。

理論的には、地球を1周半航行可能という長大な航続距離を誇り、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能でした。排水量3,350tは軽巡洋艦と比較してなお大きく、かといってこうした船にありがちな鈍重さはなく、水中性能は良好であり、急速潜航に要する時間はわずか1分でした。

伊四〇〇伊四百型の建造目的は、元々はアメリカ本土の攻撃であり、南アメリカ南端を通過してアメリカ東海岸を隠密裏に攻撃することを目標としていました。そしてその立案は山本五十六だったといわれており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられています。

そのため、建造要綱として33000海里(6万1千キロ超)の航続距離が要求されましたが、この長大な航続距離を得るためには巨大な燃料タンクが必要であり、船体の大型化が不可欠でした。また、内陸を攻撃するために航空機を搭載されることが求められ、かつ隠密裏に目的地に達するために「海底空母」の実現が望まれました。

その航空機、「晴嵐」の搭載数は当初2機でしたが、のちに戦況の悪化に伴い伊四〇〇型の建造数が当初の18隻から10隻に削減されたことより、急遽3機に変更要請されました。この変更のときすでに建造は開始されていたため、格納塔を後部へ10m延長する、格納扉にくぼみを設ける、弾薬庫と対空火器の位置を変更する、などの設計変更が行われました。

これにより3機の搭載が可能なりましたが、搭載機「晴嵐」の仕様もこれに合わせて変更されました。

飛行機格納筒の直径は晴嵐のプロペラがギリギリ収納できる直径4mでした。このため、晴嵐の主翼の格納は90度回転させてから後方に折りたたむという、今までの日本海軍艦載機では類を見ない特殊な格納方法となりました。また、フロート部分は取り外され、格納塔外の最上甲板株に収納されました。

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その後、ドイツが降伏したことで大西洋方面の米英艦隊が太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ東海岸からパナマ運河に変更されました。この計画は、運河のゲートを破壊することによって、運河の大西洋側にあるガトゥン湖の水を溢れさせようというものでしたが、そのために「晴嵐」には魚雷の装備も要求されました。

こうして、伊四〇〇と搭載機晴嵐は完成しました。通常の複殻式船体の潜水艦は、1本の水密された筒からできている内殻と、それの外部にメイン・タンク、補助タンク等を置き、さらに全体を包む外殻から構成されています。しかし伊四〇〇型では2本の筒を並列し、これを合着した内殻としたため、艦の断面図が眼鏡のような形になっています。

この内殻の外部をさらに外殻で包み、艦の全高を抑えたため安定性を高めることができました。左右の内殻にディーゼルエンジンを2基づつ配置し、横方向に4基のエンジンが並びます。2基のエンジンで1つのスクリューを駆動し、2つのスクリューが推進力です。

晴嵐を射出するカタパルトには、日向、大和に採用された射出機よりもさらに40cmほど大きいものが採用され、最大5tの航空機を射出できました。射出動力は強力な圧搾空気が採用されました。ただ、この「晴嵐」の射出には時間がかかりました。

射出の前に機体を組み立てる必要があったからで、この組み立ては、飛行機に不慣れな乗員が行っていたこともありましたが、3機の「晴嵐」を発射するのに当初は半日近くかかりました。しかし、パナマへ向けての訓練が開始されたのちには、わずか15~20分程度で3機の射出が完了するほどまで機動員の熟練度が上がりました。

ところが、いざ四〇〇型の出動が可能といわれるようになるまでには、既に大半の米英艦艇は太平洋に移動済みとなっていることが判明します。

このため今さらパナマ運河を破壊しても戦略的意義が無いということになり、再び攻撃目標が変更が検討され、開戦後に伊二十五潜水艦などにより行われたことのあるアメリカ本土西海岸部への再度の攻撃も検討されました。しかし、昭和19年12月に発生した東南海地震に加え、本土空襲で愛知航空機の工場が破壊されたため、晴嵐の完成が遅延します。

晴嵐はこの伊四〇〇とともに、同じく潜水空母に改造された伊十三、伊十四などの通常型潜水艦にも搭載が予定されており、船団を組んでアメリカ西海岸を目指す予定でした。昭和20年3月の時点では、伊四〇〇本体と搭載航空機、晴嵐は完成しており、共同訓練も終了していましたが、これらの同伴艇に晴嵐が搭載されておらず、格納庫は空の状態でした。

このため、ふたたび作戦目標の再選定が行われ、最終的に1945年(昭和20年)6月12日頃、フィリピン東部およそ2000kmにある、ウルシー環礁に停泊する米機動部隊への攻撃が決定されました。

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しかし、この作戦が実行されるまでにも遅々として晴嵐の製造は進まず、このため、伊四〇〇型2艇が先行して攻撃を実行することとなりました。この作戦の遂行にあたっては、伊十三・伊十四には偵察用の艦上偵察機「彩雲」が搭載され、トラック島に輸送したのち、これらの彩雲偵察機が作戦目標であるウルシー泊地を先んじて偵察する計画でした。

ところが、先行して船出した伊十三は7月16日に米護衛空母の艦載機と水上部隊によって撃沈されてしまいます。しかし、伊十四は輸送に成功。彩雲を陸揚し、作戦の第一段階が果たされました。これにより、伊四〇〇二隻からなる第一潜水隊の攻撃予定日は8月17日3時と決定されます。

7月20日、二隻の伊四〇〇は出撃しますが、敵に発見されるのを恐れ、別々のコース取ってウルシーに向かいました。8月14日、先行していた伊四〇〇はウルシー沖の会合地点に無事到着し、後続艦とのランデブーを待っていましたが、その翌日8月15日には終戦の報を受けます。

艦内で玉音放送を受信すると、このまま攻撃を実施するか、母港の呉に帰港するか激論となりましたが、最終的に艦長判断で攻撃を中止し、呉に帰ることになりました。ところが、内地へ帰投する途中、米軍に発見され、東京湾から北東500海里(926km)の位置で拿捕。また会合地点に到着できなかったもう一隻も帰還中、三陸沖で米軍に拿捕されました。

その後、この2隻ともハワイ近海で実艦標的として撃沈処分されました。その背景には同じく戦勝国となったソビエトがその実見検分を要求してきたことがあったとされます。アメリカとしては、詳細に調べ上げた本艦のデータは既に保持しており、いまさらソ連にその「最高機密」を見せたくなかったのでしょう。

伊四〇〇型は、この2隻以外にも、佐世保海軍工廠で竣工した艇がありましたが、8月11日に呉で爆撃をうけ損傷しており、呉で整備中に敗戦を迎えました。が、残念ながらこちらも1946年(昭和21年)に長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分されています。

今年の7月には、海上保安庁の観測船「海洋」が東シナ海でこの伊号四〇〇潜水艦と思われる沈没船を発見したと発表して、話題となりました。また、2013年にもハワイ沖で沈没処分にされた同艦が発見されており、ハワイ大学とNHKが共同で潜水調査をしていました。

伊四〇〇はこのほかにも、数隻建造途中のものがありましたが、終戦の際に連合国軍に対する技術隠匿のために自沈処分されたり、建造中止後に解体されたりしています。

従って、現存する資料はアメリカ側が秘匿しているであろうもの以外には何も日本には残っていません。ただ、米軍が拿捕した際に撮影した一隻の伊四〇〇乗組員のカラー映像や、当時の動画として、終戦翌年ハワイ入港時の甲板上の様子が写ったカラーのもの、魚雷で撃沈される白黒のものなどがあり、報道番組などで公開されています。

また、こうした数少ない資料をもとに甲板上の形状まで再現したコンピュータグラフィック作られており、今年の5月、NHKによるドキュメンタリー番組、「歴史秘話ヒストリアスペシャル・幻の巨大潜水艦 伊400〜日本海軍極秘プロジェクトの真実」として公開されました。

こうして、日本帝国海軍による幻のパナマ運河攻撃計画が実行に移されることはありませんでした。しかし戦後、そのパナマ運河を日本は大いに活用しました。

竣工当初、この運河を最も利用したのはアメリカ、次いでイギリスであり、その他の国の利用はわずかな量にとどまっていましたが、1960年代以降、日本が経済的に台頭するに伴い利用量を急速に拡大させ、アメリカに次ぐ第二の利用国の地位につきました。

2000年には、パナマ運河利用貨物総量の6割がアメリカ、2割が日本、残り2割がその他の国の利用でした。大西洋から太平洋への輸送貨物の第1位はアメリカでしたが、太平洋から大西洋への輸送貨物の第1位は日本であり、この状況は30年以上も続きました。

1970年代に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ・アメリカ・日本3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足、1993年に調査報告書を提出しました。

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その後、1999年のパナマ運河返還によって運河がパナマ政府のもとに戻ると、パナマ政府はこの調査報告書に着目しました。この時期には通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて2010年にも受入れ能力の限界が来ると想定されており、運河拡張はますます急務となっていました。

これを受け、2006年に運河拡張計画案がパナマ運河庁より正式に提案され、国民投票により実施されることが決定され、2007年9月3日に着工が開始されました。この「新パナマ運河」では、新たに第3レーンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)もの航行量を見込んでいます。

2016年第1四半期までには拡張計画が完了する、とパナマ政府は明言していましたが、今年の7月、パナマ運河庁は運河の拡張工事の進捗率は約90%まで進み、来年4月には終了するとの見通しを明らかにしています。

年内中にも拡張部分での航行試験を行う予定だそうで、この拡張によって、最大で幅49m、全長366mの大型船が通れるようになります。現在対応可能な幅32m、全長294mに過ぎませんから、大幅に拡大することになります。

しかし現在、日本の船のパナマ通過量は往時に比べてかなり減っています。一方では南米西岸諸国(チリ、エクアドル、ペルーなど)の利用が急拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物の2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位にまで後退しています。

このほか、中国はじめ東南アジア・東アジア諸国も経済的成長とともに利用を急速に拡大しており、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物においては中国が日本を抜いて第1位の利用国となっています。

なお、冒頭でも述べたように、中国はニカラグアの運河計画へも豊富な資金をつぎ込んでおり、その完成後は、この二つの運河は競合するようになるでしょう。そのため、現在パナマ運河の通航料が、1トンにつき1ドル39セント、平均で54,000ドル(約650万円)といわれているものが、どのくらい安くできるかが課題になってくるでしょう。

が、アメリカの同盟国、日本はそんな中国マネーでできた運河よりも、既存のパナマ運河をより多く使うでしょう。また、TPPの締結により環太平洋諸国との貿易量が増せば、それと同時にパナマ運河を通っての環大西洋諸国との貿易量も増すかもしれません。

ちなみに、パナマ運河の周辺地域は、1903年から1999年までのアメリカ施政下に十分な社会基盤が整備されていましたが、パナマ運河の返還によってこれらの施設はパナマ政府に無償で譲渡されています。パナマ政府はこれらの施設や土地を有効に使った開発を進めており、これによって運河沿いには多数の観光施設が相次いで建設されています。

ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになっているといい、いつかは筆者も行ってみたいと考えています。みなさんも、運河拡張工事の完成式典が行われる際にでも、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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