伊豆大島のこと ~伊豆大島(東京都)


上天気が続きます。先日降った雨は富士山には雪をもたらし、今はもうここから見える富士は五合目あたりから上はもうすべて真っ白です。冬至はまだひと月さきですが、ここ静岡だけでなく、全国的に冬モードに入っているようで、北海道では積雪があちこちで見られるようです。

伊豆での積雪は比較的少ないようで、昨年もここ修善寺では積雪があったという話は聞きません。が、標高の高い天城山(標高1500m程度)では毎年のように積雪があるそうなので、今度雪景色がみたくなったら行ってみようと思います。

このほか伊豆大島の三原山でも時折、積雪が見られるということです。が、こちらの標高は800mにも満たないので、降ったとしても大した量ではないでしょう。

この三原山ですが、先日大室山に登った時、もかなり間近に見えるのをみてビックリしました。双眼鏡でみると三原山の頂上の火口付近の様子まではっきり見えるほどです。

そういえば、それほど昔ではない時代に噴火したことがあったよな~と記憶に残っていたので調べてみると、最後に噴火したのは1990年だそうです。それでも20年以上も昔の話です。

しかし、これに先立つ1986年の噴火はかなり大きかったようで、溶岩流が麓の町に向かった流下しはじめ、地震活動が活発化するとともに、住民の多い波浮地区周辺で火山活動による割れ目が発見されるなどしたため、最終的に住民全員の島外避難が行われました。

帰島は約1ヶ月後になりましたが、幸い人的な被害はなく、農作物に被害が少し出た程度で、この噴火においても著しいダメージはありませんでした。

こういう話を書いていると、つくづく伊豆という土地は、火山と切っても切り離せない環境にあるなと感じてしまいます。先日来登山している山々のほとんどはその昔火山であったり、また大室山のように今は静かではあるものの、現役の活火山であったりします。

それだけパワーにあふれている土地柄だということなのでしょうが、我が家でもこんこんと湧き出る温泉の恩恵を受けています。ここに住んでいることだけでもなんだか元気にしてくれるような何か「気」のようなものを感じるのは気のせいでしょうか。いわゆるパワースポットということなのかもしれません。

そんなパワーにあふれた土地柄なのですが、伊豆半島も伊豆大島もその昔は、京都や奈良などの中央からみるととんでもない僻地であり、それゆえに「流刑の地」でもありました。伊豆に流された人で最も有名なのは源頼朝ですが、その子の頼家も修善寺に幽閉されており、日蓮も鎌倉幕府に嫌われて伊豆へ流されています。

では、伊豆大島にはどんな人が流されていたのかなと調べてみました。すると、一番古い
ところでは、天皇家の皇子の麻績王が675年にここに流されており、また中世では、699年には修験道の開祖といわれる役小角(えんのおず)が、更に平安時代末期には大物僧侶で立川流という密教の開祖である仁寛(にんかん)が1113年に流されています。

そして中世に流された人で有名なのが、源為朝(みなもとのためとも)。平安時代末期の武将で、弓の名手といわれ、鎮西を名目に九州地方で大暴れしたため「鎮西八郎」ともいわれます。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方について後白河法皇側と戦いましたが、負けてしまい、このため、1156年(保元元年)に伊豆大島へ流されました。

ところが、ここでも大暴れして国司に従わず、伊豆諸島の海賊を味方につけて伊豆大島だけでなく伊豆諸島を事実上支配したため、朝廷の追討を受け自害。ところが、ここでは実は為朝は死なず、琉球まで逃れて生き残り、その子が琉球王家の始祖といわれる「舜天」になったという伝説も残っています。

この為朝さんという人は非常に面白い人物なので、また機会あればじっくり取り上げてみたいと思います。

その後戦国時代に入るころには伊豆大島は後北条氏の北条早雲の子孫の支配下になったため、あまり公の流人は流されていませんが、江戸時代に入ってからは引き続き流刑地としての役割を担うようになり、主として政治犯が流されました。

有名どころでは、「越後騒動」という越後国高田藩で起こったお家騒動で、藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対する一派重臣とが争い、幕府の裁定は争った者たち同士両成敗という結果でしたが、その処罰の一環として、小栗美作の弟の小栗兵庫という人物が1682年(天和2年)に伊豆大島に流されています。

また、1702年(元禄15年)には有名な赤穂浪士の討ち入り事件があり、四十七士のひとりであった「間瀬正明(ませまさあき)」とその長男の「間瀬正辰(ませまさとき)が、吉良上野介の首をあげたあと、間瀬正明は熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられ、翌年切腹。息子の正辰も水野忠之の屋敷に預けられたあと、切腹しました。

間瀬正明には、次男がおり、間瀬正岑(まさみね)といいましたが、幼かったため討ち入りには加わらず、しかしお咎めを受け、1703年(元禄16年)に伊豆大島へ流されました。

伊豆大島へはこのほかにも、吉田兼直・中村忠三郎・村松政右衛門といった、赤穂浪士の遺児が流されましたが、本家浅野家の瑤泉院(松の廊下で吉良を切りつけた浅野長矩(ながのり)の正室)の運動などが功を奏して、三年後の1706年(宝永3年)に赦免されました。

しかし、間瀬正岑だけはそれを目前にして大島で病死しており、大島の元町というところにそのお墓があります。その命日は4月24日だったそうで、300年目にあたる2005年のこの日には、その墓前で「300遠忌慰霊祭」が行われたそうです。

このほか、1612年(慶長17年))にはキリシタンの「ジュリアおたあ」という女性も伊豆大島に流されています。

この人物、私的には全くノーマークだったのですが、知れば知るほど興味深い人生を送っています。

その出自は秀吉が行った朝鮮出兵、いわゆる文禄の役(1592年(文禄元年))の際、秀吉の配下にあったキリシタン大名の小西行長が、戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘を捕虜として日本に連れ帰ったのだと言われています。

朝鮮の最後の王朝である李氏朝鮮の上級官僚「両班」の娘ともいわれていますが、生没年や実名、家系などの仔細は不明です。

文禄の役では、日本軍に平壌近郊で捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで「おたあ」と名付けられ実子のように育てられました。

やがて両親もそうであったように洗礼を受け、ジュリアと名付けられます。そしてクリスチャン名でカタリナと呼ばれていた夫人の教育のもと大名の子としての英才教育を受けるようになります。とりわけ小西家に伝わっていた「薬草」の知識においてとくに造詣を深めたといわれ、聡明で気品のある女性であったと伝えられています。

その後の1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦いでは、小西行長は石田三成に呼応し西軍の将として参戦し、奮戦するも敗退。この年の10月に市中引き回しの後、京都の六条河原において石田三成や安国寺恵瓊と共に斬首されました。

カタリナ夫人は、その後薩摩の大名家に嫁いだといわれています。が、カタリナは実は行長の夫人ではなく娘だという説もあり、この人物の生涯は不明な点が多いようです。

育ての親を失い、またしても天涯孤独の身なってしまった、おたあでしたが、その才気と美貌を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として暮らすことになりました。

やがて長じると家康の側近く仕えるようになり寵愛を受けるようになりますが、クリスチャンとしての気概は忘れてはおらず、昼間は家康の側妾としての仕事を行い、それを終えた夜には祈祷を行い、他の侍女や家臣たちに聖書を読んでその内容を聞かせ、キリスト教信仰に導いたといわれています。

しかし家康は、天下をとったあとキリシタン棄教の方針を諸大名に伝え、おたあにもこれを要求するようになります。おたあはこれを拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、1612年(慶長17年)に禁教令を犯したとして駿府より追放され、伊豆大島へ流罪となりました。

伊豆大島に流罪になったあとも、八丈島(もしくは新島)、神津島へと次々と島を変えて流罪となったといわれますが、どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされます。

3度も遠島処分にされたのは、他の流人の赦免との引換えを望んだからだとも、また再三の家康への恭順の求めを断り続けたためとも言われていますが、このほかにも駿府時代の侍女でクリスチャンだった仲間と再会したため、この仲間とともに八丈島、または新島などで修道生活に入ることを希望したのではないか、という説もあるようです。

おたあは、島民にもキリスト教を教え、その教化によって多くの島民も洗礼を受けたといわれていますが、現状において伊豆大島には教会はひとつしかなく、この教会にもおたあにまつわる話は残っていないようであり、おたあの布教によって大島の人にキリスト教が深く根付いたという事実はないようです。

おたあはその後、神津島で亡くなったと伝えられています。しかし、1622年にイエズス会のフランシスコ・パチェコという神父が書いた「日本発信」という書簡には、おたあは神津島を出て大坂に移住してこの神父の援助を受け、のちに長崎に移った旨の記述があるそうです。

このことから、神津島での刑期を終えた後許され、大阪から長崎に移ってそこで亡くなったという説もあるようです。しかし、神津島以降の実際の消息および最期についての本当のことはわかっていないようです。

しかし、1950年代に神津島のある郷土史家が島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、おたあは神津島で死んだという定説が生まれ、このためこれ以降神津島では毎年5月に、おたあの祖国と考えられる韓国のクリスチャンも加え、日韓のクリスチャン合同での慰霊祭が行なわれているそうです。

伊豆大島への罪人の配流は、島民による流人の受入れや三宅島までの流人船の御用が大きな負担となっていました。このため、1766年(明和3年)には、島民への年貢の上乗せを条件に流人船御用が免除されるようになり、これ以降は大島への流人は途絶えるようになります。

そして、1796年(寛政8年)には、御蔵島・利島とともに正式に流刑地から除外されるようになり、これ以降、伊豆大島は流人の島ではなくなりました。

その後、明治に入り、伊豆大島と伊東の間には定期航路も開かれるようになり、1928年(昭和3年)に東京との間に日本航空による航空便も就航するようになって、伊豆大島はもはや孤島ではなくなりました。

この同じ年に、は野口雨情作詞・中山晋平作曲の「波浮の港」という歌がヒットしたため、訪れる観光客が増加し、これ以降、現在でも伊豆大島では観光は重要な産業のひとつです。

1931年(昭和6年)には三原山の砂漠(溶岩原の通称)にロバやラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園しています。

明治30年代ころから、乳牛・酪農が行われるようになり、現在でもさかんに行われています。伊豆大島牛は味の良いブランド牛として有名であり、酪農製品も数多く本土に出荷されるようになりました。

この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は「大島産椿油」として高級品として取引されました。現在では整髪用にはほとんど使われないようですが、食用の高級品油などが取引されているようです。このほか、海洋性の温暖な気候を利用し、切花等の栽培も盛んです。

また、漁業においても日本でも有数の好漁場を近海に持ち、恵まれた漁業環境にあることから、採貝や伊勢えび漁に従事する漁業者が多いようですが、最近は漁獲量も減っているということで販売対象も観光客目当てのことも多くなってきているようです。

伊豆大島の人口は、昭和27年には13,000人を数えたこともあるそうですが、平成24年10月末現在の島の人口は8459人となり、年々減少気味。昭和40年代に入り起こった離島ブームによる観光の活発化や、オイルショック等によるUターン現象で、人口の増加がやや上向いたこともありましたが、不況による観光の停滞などで昭和50年頃からは微減を続けているようです。

温暖な気候で、住みやすそうですが、実際に住むとなるとやはり気になるのは三原山の噴火でしょうか。

やはり、行くとしても観光目的の短期滞在でしょう。東京の竹芝ターミナルからは高速船で1時間45分で着くようで、この便は一日に2~3便ほどあるようです。このほか夜発朝着ののんびりした船便もあるようで、これは横浜からも出ているようです。

伊豆半島からは熱海~大島間を45分で結ぶ定期便があるようです。なので、一度も行ったことのない伊豆大島へは今度ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

なお、空路は羽田から一日一往復の便(片道30分)が全日空により運航されているほか、調布飛行場からはコミューター機が飛んでおり、こちらは一日三往復だとか(片道35分)。東京以西の山奥?に住んでいる方々には、「ちょっと海を見に」行くためには良い場所に飛行場があるものです。

伊豆大島では年明けの1月ころから椿の花が咲くようで、300万本ともいわれる椿の木の群生はなかなか見応えあるようです。年が明け、まだまだ桜や梅の咲かぬこの時期、伊豆大島へ行って椿でも鑑賞しながら伊豆大島牛を食す。なかなか良いと思います。あなたも行ってみませんか?