人車鉄道の夜 ~焼津市・藤枝市

大仁まで来ていた豆相線の軽便を牽引した蒸気機関車

今日は二十四節気の「小雪」だそうで、その名のとおり、少し雪が降りはじめるころ、ということのようです。伊豆ではさすがに雪はまだまだ降りそうもありませんが、先日朝ジョギングをしていると霜が降りているのを発見しました。朝晩はもう完全に冬です。

さて、今朝がた、先々週放送されたNHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組の録画をみていました。「知られざる鉄道の歴史」がテーマでしたが、この中で、熱海~小田原間に明治時代に「人車鉄道」というものがあったことを紹介していました。

たしか以前のブログで、その昔東京から名古屋方面へ向かって東海道線を延伸していくとき、小田原から先は熱海方面には丹那山があったためにこちらには延伸できず、御殿場のほうに東海道線を伸ばしていった、という話を書いたように思います。

このとき、小田原から鉄道がやってくるものとばかりに思っていた熱海の旅館街の主たちはがっかり。鉄道が通れば二時間足らずで東京から客が呼び込めるようになり、商売繁盛になると期待していたところ、そのもくろみは足元から崩れてしまいました。

そこで、主たちが寄り合って何か良い知恵はないかと考えたところ、ある旅館の主が自分たちの手で鉄道を作ろう!と言いだしました。しかし、何分素人連中ばかりの集まりのため、誰かに相談したほうがよかろう、ということで、ちょうどそのころ、療養のために熱海に滞在していた「雨宮啓次郎」という人物に相談することにしました。

この雨宮敬次郎という人ですが、明治時代の実業家・投資家で、甲州山梨県の出身。結束して商売をすることで有名ないわゆる「甲州商人」の一人で、この当時「甲州財閥」とよばれる実力者集団のリーダー的存在でした。

その後「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれるほどこの当時の経済界で大物視されるようになる人ですが、まず明治のはじめのころ(1879年(明治12年)に東京深川で設立した蒸気力による製粉工場で成功をおさめました。

その後この事業を発展させ、1887年(明治20年)には主に軍用小麦粉製造を目的とする有限責任日本製粉会社を設立しました。この会社が、1896年(明治29年)に名前を改めて発足した「日本製粉株式会社」であり、現在も日本の代表的な製粉会社であることはご存知のとおりです。

さらに1888年(明治21年)に中央本線の前身となる甲武鉄道への投機で大きな利益を出し、同社の社長にも就任すると、1891年(明治24年)には川越鉄道(現在の西武国分寺線)の取締役となります。さらに翌年の1892年(明治25年)に日本鋳鉄会社を興したほか、1893年(明治26年)には北海道の炭礦鉄道の取締役に就任し、大師電気鉄道の発起人になりました。

その後も、岩手県の仙人鉄山(現在の北上市和賀町)や東京市街鉄道、江ノ島電鉄社長などの数々の鉄道会社の経営を手掛け、1908年(明治41年)には大日本軌道を設立。その他、海運・石油・貿易など様々な事業において活躍した、明治時代の大実業家です。

そんな大実業家の雨宮を頼って、熱海の旅館の主たちは、おそるおそる協力の申し出をしました。無論、断られると思っての思い切っての決断でしたが、おもいのほか、雨宮はその申し出を了承します。

実は、雨宮自身が小田原から熱海へ療養に通っており、この際にいつも使う人力車の乗り心地が悪く、途中しばしば気分が悪くなることも多かったため、自分としても何等かの交通の改良が必要だと考えていた矢先のことでした。

しかし、後年数々の鉄道会社の経営を手掛けて成功しているところをみると、このころにはもう「鉄道は金になる」ということを見抜き、旅館の主たちの申し出を渡りに船と考え、事業に乗り出そうと考えたのかもしれません。

ともかくも熱海の主らの申し出を快諾し、国の力を得ずに自分たちの手で鉄道を作るために奔走を始めます。これが1880年(明治13年ころ)のことだった思われ、まだこのころは雨宮も後年の大実業家ではなく、一介の製粉工場の社長にすぎませんでした。

とはいえ、このころから「大物相場師」といわれるほど投機がうまかったらしく、熱海の片田舎の旅館の主たちの間にさえ知れ渡るほどの実力者だったことは確かです。

こうして、雨宮は小田原熱海間に鉄道を敷設すべく、東京で出資者を探して奔走し始めます。しかし、たかだか20kmほどの区間とはいえ、このころ本格的な鉄道を敷設するためには莫大な費用がかかり、かつ蒸気機関車の値段は一民間会社が購入できるような金額ではありませんでした。

このため、なかなか有力な出資者があらわれず、この鉄道計画が持ち上がってからまたたくまに10年ほどが過ぎてしまい、計画はいよいよとん挫しそうになります。

ところが、ちょうどこのころ、雨宮はある情報を入手します。それは、熱海と同じ静岡の藤枝と焼津の間を「人力」で貨車を動かす、「人車軌道」なるものができたというものでした。

ルートは東海道本線から外れた藤枝の町の中心と官営鉄道の焼津駅を直結するもので、これは元来東海道本線建設時に瀬戸川から焼津まで砂利採取に用いられたトロッコの軌道跡地を流用したものでした。

停留所は焼津、瀬戸川、藤枝のたった三つだけで、全線の所要時間は勾配の関係からか藤枝~焼津が25分、焼津~藤枝は30分と異なっていました。しかし、正規の鉄道さながらきちんとした時刻表があり、毎日7往復に加えて臨時増発便まであり、貨物は毎日数回運営されました。

1891年(明治24年)5月に正式に内務省の許可を得、同年7月から営業を始めましたが、この鉄道の評判を聞いた雨宮は、「これだ!」と思ったのでしょう。

さっそく、熱海の旅館の主たちを集め、人力鉄道の運営を提案します。自分たちの悲願であった鉄道建設が思いがけない形式だったとはいえ、実現しそうなことを知った主たちは、無論、この計画に賛同しました。

実は「人車軌道」は、藤枝焼津間軌道が日本最初のものではなく、これに先立つ、1882年(明治15年)から1888年(明治21年)まで営業された、「宮城木道」と呼ばれるものがありました。

宮城県仙台区東六番丁(現・JR仙台駅東口)と同県宮城郡蒲生村(現・仙台港の南側)とを結んだ軌道で、開業当初の約9ヶ月間は人車軌道として、その後は馬車軌道として営業されました。

明治初期の仙台港(蒲生)は東京と仙台を結ぶ海路の重要な拠点でしたが、仙台港から仙台駅までの陸路は非常に劣悪であり、荷物が滞ることもしばしばだったため、この当時の実業家で政治家だった由利公正の息子の光岡丈夫という人物が、ここに馬車軌道を敷設する計画をたてました。

この鉄道を敷設するために明治14年に「木道社」という会社を設立し、鉄道が敷設されると、この当時「郵便報知新聞」という新聞社の記者だった原敬(のちの総理大臣)が宮城県までやって来て、有力政治家だった由利公正をたずね、この鉄道の記事を書いて、事業を宣伝したという逸話が残っています。

敷設された鉄道の軌条は、「木道」の名のとおり、角材の上に鉄板をかぶせただけのものでした。鉄製より耐久性や強度は格段におちましたが、輸入品の鉄製よりはるかに廉価であるというメリットがありました。

藤枝焼津間軌道で用いられたのも、この「木道」であり、そういう意味では、このあとに純粋の鉄を使って敷設された熱海小田原間の鉄道こそが、日本発の人力「鉄道」になります。

この東北の木道の運営距離は、2.5里ないし3里(10~12km)であったといわれ、貨物専用で1日2往復でした。使われた車両の形などの詳細不明ですが、由利公正に関する史料には、馬車5両を馬5頭で引き、貨車は25台であったと記載されているということです。

こうした先例を参考にしつつ、雨宮と地元旅館たちの有志が共同で開発した鉄道の軌道は前述のとおり、純粋な鉄製でした。しかし、蒸気機関車のような本格的な車両が通る鉄道ほど頑丈なレールは必要なく、1ユニットあたりのレールは大人二人で運ぶには十分に軽量でした。

ただ、敷設にあたって用意された資金には限りがあったため、実際の鉄道のようなトンネルを掘るといったことはできず、従来あった道路の上にそのまま敷設していくという方法がとられました。延長距離が長くなるという難点がありましたが、レール自体が安価であったため、さほど費用もかさみせん。

ただ、トンネル区間や橋梁は少なく普通の山道を通る軌道だけに、急な上り坂や下り坂も存在し、これらの坂を数人の車夫が人力で押しあげたり、抑えたりといった運行方法がとられました。

ちなみに、NHKで放映された内容によると、この人力鉄道には上等、中等、下等の三種類の切符があり、上等の切符を持つ客は、小田原から熱海まで車両に乗りっぱなしでいられますが、中等客は、上り坂になると、車両から下りて自分の足で山を上らなくてはなりませんでした。

下等の客に至っては、車両が昇る際には、車夫と一緒に車両を押すのを手伝うことが条件だったといい、なんとものどかな運行形態でした。

こうして、小田原熱海間の人車軌道の建設が開始され、組織としては「豆相人車鉄道」という会社が設立され、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)にかけて漸次開通されていきました。

この人力鉄道は、大成功しました。全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれるほど高価だったそうですが、東京から熱海まで楽して療養に出かけたいという人々の需要は雨宮たちの想像を超えており、連日超満員になるほどの盛況をもたらしました。

しかし、やはり原始的な運行方法であり、押し手の車夫へ払う手間賃も高額となることから、その後豆相人車鉄道は社名を「熱海鉄道」と改め、1907年(明治40年)からは蒸気機関車牽引の「軽便鉄道」へ切り替えられました。軽便と呼ばれたのは国営の正規の鉄道よりも軌道幅が狭く、使用する蒸気機関車もより軽量で小型だったためです。

しかし、新車両の導入などが経営を圧迫したことから、熱海鉄道はその後雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄という事業形態に改められます。

その後、東海道本線のルートを現行のように熱海経由で沼津方面に付け替えられるために、丹那トンネルの開削することが発表されると、雨宮はこれでは勝負にならないと判断し、補償付きで一切の設備車両を1920年(大正9年)に国へ売却しました。

国が買収した施設は、いったん「熱海軌道組合」という新たに設立された組合に貸し付けるという形がとられ、主にこの組合員が丹那トンネル建設作業員となり、旧熱海鉄道は通常の観光列車の運行に加え、丹那トンネル掘削の資材を運搬する送手段として活用されました。

丹那トンネルはその後1934年(昭和9年)まで開通しませんでしたが、1922年(大正11年)に小田原から熱海方面へ向けての「新東海道本線」のうちの小田原駅~真鶴駅間が開通し、これが「熱海線」の名で先に開業しました。このためこれと並行していた旧熱海鉄道の区間は廃止され、残る真鶴~熱海区間だけで営業を継続することにしました。

ところが、この翌年(1923年)に発生した関東大震災でこの真鶴~熱海間の旧熱海鉄道路線は壊滅的な打撃を受け、結局そのまま廃止となりました。

しかし、その翌年の1924年(大正13年)には、延伸を続けていた東海道線が真鶴から熱海駅までの区間で開業を果たし、さらにその10年後の1934年には丹那トンネルが開通したことで、現在のようなルートの「東海道本線」となりました。

かつて東海道線であった、小田原~御殿場~三島間の路線は「御殿場線」と呼ばれるようになり、東海道線の名を失いました。

この「人車鉄道」が運営されていた1907年(明治40年)までは、小田原から熱海のあいだで25.3kmの軌道が敷かれ、この間に駅が14あったそうです。以下がその駅ですが、現在の東海道線にはない地名もたくさんあって、どこだこれ?というものもあります。

小田原~早川~石橋~米神~根府川~江ノ浦~長坂~大丁場~岩村~真鶴(旧:城口)~吉浜~湯ケ原(旧:門川)~稲村~伊豆山~熱海

この路線、すべて単線区間であったことから、上りと下りの電車がかちあうと、どちらかの車夫がよっこらしょと車両を線路の脇におろし、対向車を先に通したそうです。また、走行中の客車が転倒することもしばしばあったとそうで、滑稽な乗り物として新聞雑誌などに紹介されることも多かったといわれています。

運営が開始された1900年(明治33年)の運行本数6往復で、小田原熱海間の所要時間は3時間40分だったそうです。

客が多いときには、これ以上の増便がなされたそうで、急行運転も実施されたということなのですが、この場合、車夫は駆け足で車両を押したということでしょうか。すごい体力です。

この人力鉄道の名残は現在ほとんど残っていません。その後の軽便鉄道に切り替える際の工事で使われなくなった軌道のうち、現在の湯河原町門川に敷かれていたと思われる軌道レールの一部が熱海市内のお寺に現在も保管されており、NHKでもこれを放映していました。

が、まあなんとちゃちいというか、ほほえましいといえるようなレールでした。なるほど、これが乗っていた車両もよっこらしょと持ち上げられるわけです。

国木田独歩もこの人車鉄道に乗車したことがあるそうで、そのときの体験談を元に「湯河原ゆき」・短編「湯河原より」という自著の中にこの鉄道のユーモラスな様子を書いているそうです。知人への書簡にも「実に乙なものであり、変なものである」という感想を記しているそうで、こういう先人の文章を読むと、もし今でもあるなら乗ってみたいと思ってしまいます。

ところが、この人車鉄道のレプリカを作って公開している人がいて、これもNHKの放映の中で紹介していました。この人は「根府川」でロッジを経営されている方で、近所の大工さんに手伝ってもらって二か月がかりで仕上げたものをこのロッジの敷地内で公開しているみたいです。このほかにも、湯河原で和菓子屋さんを経営している人の試作品などもあり、この方は「豆相人者鉄道の会」の会長さんだとか。

前述した焼津藤枝間軌道の復元を目指しているグループもあるようで、この人者鉄道は、静岡県ではひとつのブームになりつつあるようです。その「発祥の地」の二つが県内にあることから、近い将来復元軌道なども完成するかもしれず、そうなると、我々が「人力鉄道」に乗れる日もそう遠くないかもしれません。その日を楽しみに待つことにしましょう。