下田街道

今朝の富士山は朝から笠雲がかかっていて、それが時間の経過とともに次第に大きくなってきました。富士山に笠雲がかかると天気が悪くなるといいますが、案の定、午前中は上天気で青空が見えていたものが、お昼過ぎからは掻き曇ってきて、今にも雨が降りそうです。「笠雲予報」的中です。

今日はこんな天気なのですが、昨日は朝から上天気で、天気予報も午後いっぱいもお天気が続く、ということだったので、かねてから行こうと思っていた、東伊豆町、稲取にある細野高原に行ってきました。

ここ修善寺からは、県道12号を使っていったん東海岸の伊東へ抜け、ここから135号を南下する、という方法もありますが、修善寺から真南方向へ延びる、「下田街道」を通って河津へ抜け、ここから北上して目的地へアクセスする方法もあります。

後者のほうが、距離的には近いようなので、今回もこの下田海道を使うルートで細野高原まで行くことにしました。下田方面へは、今年の6月に河津のバガデル公園と下田公園へ続けざまに行って以来になります。

6月にはまだ新緑が残っていて初々しいかんじの山肌でしたが、もう10月ともなると深緑のころさえ過ぎ、あちこちで色づく木々も垣間見えて良いかんじです。まだ紅葉には早いようですが、もう少しすると天城の山々も紅葉がみごろになるのでしょう。

この近辺では、修善寺温泉街と虹の郷の紅葉が見事だと聞いているのですが、そのほかにはどんなところが紅葉のみどころなのかまだよく把握していません。これからリサーチして、また穴場などがあったらぜひ紹介してみたいと思います。

さて、この下田街道ですが、別名は天城街道ともいい、その起点は東海道の「三島宿」のあった三島の「三島大社」です。ここから136号線を南下して、伊豆の国市韮山・大仁を経て、伊豆市修善寺、そして湯ヶ島に至ります。

ここまでは比較的平坦な道なのですが、ここからは国道の名前も141号線に変わり、と同時に険しい登りの山道となり、下田街道の最高標高地点の天城峠(標高638m)を越えてからは下り道となり、河津町の湯ヶ野に至ります。

河津町はもうすぐ近くに海があります。現在はここから下田まで海沿いの道路が建設されていますが、江戸時代にはこの海岸沿いのルートは開発されていなかったため、下田街道は、湯ヶ野からはさらに、峰山という峠を越え、下田市北部の町、箕作・河内を経てからようやく下田市街に至ります。三島からの通算距離は、合計「十七里十四町二十一歩」だそうで、現在の距離に換算すると、だいたい66kmほど。

この距離を歩くとすると、仮に一時間に4km、一日8時間ほど歩いたとして32km。二日ほどで三島へたどり着くことになります。が、江戸時代には道の状態もまだ悪く、またアップダウンの激しい峠道であること、また天候の変わりやすい天城山中であることなどなどを考えると、健常者でも三島から下田まで4~5日はかかったのではないでしょうか。

とはいえ、江戸時代の初期にはまだこの下田街道はなく、北伊豆から遠く隔てられた南伊豆へ行くには海路のほうが便利であり、南伊豆の人たちは物資の輸送もすべて海運に依存していたようです。陸路である三島~下田間の下田街道が整備・発達するのはもっとあとの江戸中期のことになります。

江戸幕府成立直後の江戸時代の初めには、伊豆国のほとんどは「天領」でした。その後1690年代ころに、伊豆の最北部には「沼津藩」が設けられ、また東海道沿いに「掛川藩」、「小田原藩」などの幕府直参でない藩も置かれるようになりました。こうして「外野」が騒がしくなってきたことから、天領であった伊豆にも各藩の藩士が頻繁に足を踏み入れるようになります。

その後1700年代以降には伊豆でも旗本領が設置され、このため下田街道にも「継立場(つぎたてば)」と呼ばれる茶屋が設けられるようになります。これができたことで安心して下田へ向かうことができるようになったため、幕末に至るまでにはさらに通行人の数が増大し、街道は更なる盛況を呈したようです。

この継立場(つぎたてば)ですが、単に「立場(たてば)」または継場(つぎば)ともいわれ、江戸時代の主だった街道(五街道など)やその脇街道に設けられた施設で、「宿場」よりも小さいものをさします。

江戸時代の宿場は、原則として、道中奉行が管轄した町で、現在では役所のある大きな市や町に相当するものです。しかし、宿場と宿場の間の距離がかなり遠い場所もあり、街道を歩くための利便性を増すため、次の宿場町が遠い場合にはその中間地点や、また途中に峠のような難所がある場合はそこに「立場」と呼ばれる休憩所が置かれるようになりました。

最初のころはその周辺の町民が経営する茶屋や売店が設けられていただけで、俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種でした。しかしその後、馬や駕籠の交代を行なうような機能も備えるようになり、やがて街道を管理する諸藩などが手がける半公営の立場なども造られるようになりました。

現在、我々が日常会話でよく使う、「立場がない」の立場(たちば)はこの立場(たてば)のことで、立場がないので街道の往来がままならないという意味がその後、「面目が立たない」という意味の現代の用語になっていったようです。

立場の中には、次第に宿場に近いほど大きくなるものもあり、やがて大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたものは、その後「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれました。

中には小さな宿場町よりも大きくなる立場や間の宿もでてきましたが、江戸幕府が直接管理し、保護された「公営宿場」とは異なり、あくまで「私的な宿場」であり、そこが博打うちたちのたまり場になったりしないよう、厳しい制限が設けられていたといます。

江戸時代に、下田街道で、継立場があった場所は、以下のとおりです。

原木村(伊豆の国市原木)
大仁村(伊豆の国市大仁)
湯ヶ島村(伊豆市湯ヶ島)
梨本村(河津町梨本)
芽原野村(下田市須原)
箕作村(下田市箕作)

これらの立場の多くは現在も大きな町として存続しています。下田街道だけでなく、ほかの地域においてもその昔、宿場ではなかったものの、宿場と宿場をつなぐ中継地点として存続し、比較的大きな町として残っているものはその昔継立場または、間の宿であった可能性が高いといいます。

下田街道にできた立場は、ここを通る通行人にはもちろん便利なもので、これが設置された沿線の村々の人々にとっても、これによる副収入が得られるため当初は喜んで立場を運営していたようです。しかし、次第に通行人が増えるにつれ、通行人にとってはなくてはならないものになり、やめるにやめられなくなったようです。

逆に馬や駕籠、食事の用意などの立場としての機能も増え、これを経営していくためには経費もかかるようになります。これを維持するのがやっとという立場も多かったらしく、そうした立場の経営者には明治時代に至っても江戸時代に重ねた多大な借入金が残ったといいます。

その後、明治になると馬車などの交通機関も発達するようになり、次第に下田街道の様相も変わってきます。主だった変化を時系列にみると、次のようになります。

1880年(明治13年) 北伊豆で馬車が走る。
1899年(明治32年) 豆相鉄道が敷設。三島~大仁間に鉄道が通る。
1905年(明治38年) 旧天城トンネルが開通、自動車でも通れるようになり、難所の天城峠越えが解消。
1916年(大正5年) 「下田自動車」が下田~大仁間に米国製乗合バスの運行を開始。
1924年(大正13年) 駿豆鉄道(前豆相鉄道)が大仁~修善寺間で鉄道運営開始。
1933年(昭和8年) 伊東~下田間の東海岸道路が開通。この後、伊豆半島の陸路は東海岸道路が主となっていく。

上述のように昭和のはじめに東海岸道路が開通する前までは、下田街道は人の往来が主であり、物資輸送は海運が中心でした。しかし、東海岸道路が開通するころから、道路を利用して物資が運搬されるようになります。

そして、1961年(昭和36年)に伊豆急行線が伊東から下田まで開通すると、伊豆は一躍観光地としてクローズアップされるようになるとともに、伊豆を縦断する物資の輸送は完全に陸路が主体となり、伊豆の海運業は衰退していきました。

現在は、三島から修善寺までの伊豆中央を縦断する駿豆線と東海岸の伊豆急行線、そして網の目のような道路によって、大勢の観光客が伊豆を南北に往来するようになり、江戸時代には主要な交通路として、下田街道一本だったころと比べると隔世の感があります。

この江戸時代に天城峠をこえて、下田まで行った、あるいは下田から北へ向かった主だった有名人は以下のとおりです。

1793年(寛政5年) 老中松平定信、海防巡視のため。
1810年(文化7年) 富秋園海若子、伊豆全体を歩く。「伊豆日記」を執筆。
1824年(文政7年) 浦賀奉行小笠原長保、下田巡見のため。「甲申旅日記」執筆。
1854年(安政元年) 勘定奉行川路聖謨、日露和親条約折衝。「下田日記」を執筆。
1857年(安政4年) 米国領事タウンゼント・ハリス、江戸へ日米修好通商条約折衝。「日本滞在記」を執筆。

富秋園海若子(ふしゅうえんかいじゃくし)という人は、女性かとおもったら男性のようで、寛政年間(1789~1801)には、幕府の命により八丈島で数年間代官をつとめたことがあり、江戸の湯島に住んでいたそうです。

文化7年(1810)の秋、およそ1ヶ月がかりで伊豆半島各地を旅し、その旅行記が「伊豆日記」として、1821年(文政4年)に木版本で刊行されました。その後、1915年(大正4年)にも復刻版が出て、昭和50年にも修善寺駅前になる長倉書店から、復刻版が限定発売されたといいます。

天城峠を越えた初めての外国人はおそらくハリスでしょう。ハリスはアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられ、1856年(安政3年)の8月に、伊豆の下田へ入港。幕府と折衝の末に正式許可を受けて、下田の「玉泉寺」というお寺に日本初の領事館を構えました。

下田ではさらに薪水給与や和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年(安政4年)5月には下田協定が調印されます。そして、さらに大統領親書の提出のためにハリスは重ねて江戸出府を要請し続けていましたが、幕府はこれを拒否。

しかし、同年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可します。こうしてハリスは通訳官のヒュースケンらとともに、1857年10月に下田を出発し、江戸へ向かうのです。

ハリスらは、星条旗を先頭に350人の行列を仕立て、7日下田を出発。河津の梨本に泊まって翌8日に天城峠に向かっています。以下は、このときハリスの一行が江戸に向かうために、天城峠を越えたときの様子を、後年ハリス自身が「日本滞在記」として記したものの邦訳です。

「午前8時に出発、今日は天城山を越える。高さ3500尺。路は余りに険阻で、私は馬から降りて駕籠に乗らなければならなかった。路は往々にして35度もの角度を成し、8人で担ぐ駕籠棒の長さ(22尺)に満たないほど曲がりくねったところもあった。山は糸杉、松、樟などの見事な樹林で覆われ、蘭科植物も豊富で植物学的に大きな収穫があった。」

この当時の下田街道の険しさがよく伝わってきますが、このとおり天城峠はその昔から旅人を苦しめる最大の難所でした。

とくに峰と峰をはさんだ「天城六里」という区間は峻嶮な峰が「屏風のような障壁」と形容され、旅人は喘ぎ喘ぎ急坂を上り、狼の足跡におびえながら、灯り一つない峠で苦難の旅を強いられたといいます。

そんな伊豆半島最大の難所も、明治38年の「旧天城隧道」の完成でようやく解放され、ここが川端康成の小説「伊豆の踊子」 や、松本清張の「天城越え」の舞台になりました。そして昭和45年には、さらに上下二車線の新天城トンネルが開通することにより、旧天城隧道はその役割を終え、下田はより近くになりました。

昨日、我々もその新天城トンネルを抜け、東伊豆稲取に向かい、細野高原をめざしました。その詳細はまた明日以降書いて行こうと思います。