ハゲの里

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6月7日に梅雨入りしてから40日ほどが過ぎました。

今年はカラ梅雨とのことでしたが、伊豆ではそれなりに雨に恵まれ、おかげで庭木の水やりにもそれほど気を遣わなくて済んでいます。

ただ、逆にこれから梅雨末期にかけて雨が降りやすい時期であって、集中豪雨などの大雨には注意が必要です。

先日の熊本・大分の集中豪雨も、台風3号が取り込んだ湿った空気によって、積乱雲が次々と発生し、同じ場所に連続的に雨を降らせました。

いわゆる「線状降水帯」です。この九州北部を襲った降水帯は9時間以上停滞したといい、気象庁の専門官も「これほど狭い範囲に長時間停滞するのは驚きだ」と話していました。

その原因は、梅雨末期になると、梅雨前線を構成する北側のオホーツク海気団と南側の太平洋高気団のバランスが崩れ、不安定になってくることと関係があるようです。

上空では寒気や乾燥した空気が流入し、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入しやすくなります。そこへ、西から台風や低気圧が近づいてきたりすると、前線の活動が活発化し、積乱雲をともなった強い雨雲が発生し、時に豪雨となります。

梅雨末期のこうした大雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼びます。とくに雷をともなった雨が降ることも多く、これは、送り梅雨(おくりづゆ)と呼ばれます。

その後、梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされます。

ここ、東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日で、他の地域もだいたいこれに準じてこの前後の事が多いようです。

今年もまたその時期が近づいてきました。

一方では、梅雨明けした後も雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがあり、これを帰り梅雨(かえりづゆ)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼びます。

こうした年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にあるといいます。昨年も結構暑い夏になりましたが、7月下旬に限っては、東日本は冷夏であり、平年より気温はかなり低くなりました。

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日本では1983年までは2年以上連続で猛暑になることはなく、1993年までは冷夏の頻度も高かったようです。しかし、かなりの酷暑となった1994年以降、猛暑となる年が急増しています。最近では、2004~- 2008年の間は、5年連続の猛暑となりました。

さらに、2010年(平成22年)は1994年を大幅に上回る、観測史上「最も暑い夏」になりました。多くの地点で平均気温の最高記録や熱帯夜などの最多日数を更新し、特に8月は平年よりも2℃以上高い所が多く、全国77の気象官署で月平均気温の最高記録を更新しました。

9月になってからも38℃以上の記録が相次ぎ、札幌市、岐阜市、名古屋市などの9地点の気象官署では9月の平均気温が過去最高になりました。

この観測史上最も暑かったといわれる2010年に匹敵するほどの暑さだったとされるのが、2013年(平成25年)の夏です。前年には記録的な高温にならなかった西日本太平洋側や南西諸島も含め、3ヶ月及び全ての地方を通して高温になりました。

特に8月中旬は暑さが厳しく、8月12日に、高知県四万十市、「江川崎(えかわさき)」で日本の最高記録41.0℃を更新し、その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続しました。

この、「日本で最も暑い場所」として最高気温が観測されたのは、北緯33度10.2分 東経132度47.5分、標高72mの地点にある、気象庁の観測所です。

「江川崎観測所」といい、気象庁の誇る、アメダス(地域気象観測システム)の拠点観測地のひとつです。正確な所在地は、「四万十市・西土佐用井(もちい)」で、これは四万十市立の西土佐中学校に隣接する場所になります。

付近には駐車できる場所もあることから、日本の過去最高気温を記録して以来、この観測所を一目見ようと訪れる観光客の姿も見られるようになったといいます。

また日本の最高気温記録を更新した、2013年8月12日の翌日の13日には、商工会が「日本一の暑さ江川崎」の看板を制作したほか、農産物直売所の「西土佐ふるさと市」で、気温41度にちなんだ41円のかき氷を販売するなど、以後、現在に至るまで、「暑い」をテーマとして、地域振興に結び付ける取り組みが行われてきました。

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現時点で、日本一暑い町といわれる、この江川崎ですが、高知県の南西部の山間にある地域です。私の生まれた場所、愛媛県の大洲市から直線で約40kmほどのところにありますが、無論私も、生まれてこのかた、こんな山深い土地を訪れたことがありません。

町や村ではなく「地区」として扱われていて、6つの大字で構成されています。それぞれ「西土佐」が頭に付き、西土佐「江川(えかわ)」、西土佐「長生(ながおい)」、西土佐「西ケ方(にしがほう)」、西土佐「半家(はげ)」、西土佐「用井(もちい)」、および、西土佐「江川崎(えかわさき)」になります。

このうち、西土佐江川崎(にしとさえかわさき)が中心的な地区になるようで、中世以来の地域の中心地でもあり、JR予土地線の江川崎や四万十市役所の西土佐総合支所などの役所があるのもこの場所です。

行政区分上は、これら6地区を併せて「江川崎地区」と呼び、「江川崎」の名称は、旧「江川崎村」に由来します。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、江川・長生・西ケ方・半家・用井、および下山(川崎)・の6村が合併し、この江川崎村が成立しました。村役場は下山の「宮地」という場所に置かれていました。

大正期以降、交通の要として発達しました。1932年(昭和7年)頃の資料によると、村の総生産は、農産が最も高く特に生繭・米・桑葉・用材・木炭が主要産品でした。1953年(昭和28年)、愛媛県西方の「豊後水道」に面する町、宇和島を始発駅とする日本国有鉄道「宇和島線」が成立し、これが延長されて「江川崎駅」が開業、終着駅となりました。

1958年(昭和33年)、隣接する津大村と合併し西土佐村が発足、村名としての江川崎は失われましたが、下山が江川崎に改称となり、大字名として「江川崎」の名が残されました。

西土佐村成立後、江川崎は現在に至るまで、法務局出張所、営林署、土木出張所などの出先機関や役場・商工会・中央公民館などが設けられ、地域の拠点として発展を続けました。1978年(昭和53年)には、四万十川を横断する西土佐大橋架橋が完成し、これにより、対岸の「用井」も村の中心機能の一部を担うこととなりました。

この用井は、上で述べたとおり、2013年に国内最高気温を記録した場所です。それまでの用井は、陸の孤島状態にありましたが、西土佐大橋の架橋後、西土佐中学校や村の総合グラウンドが建設されるなどの開発が進み、江川崎の中心地と目されるようになりました。

1974年(昭和49年)には江川崎駅以東の鉄道路線が開業、宇和島線から「予土線」に改められました。ちなみに、この予土線は、終点の若井駅を経て土佐くろしお鉄道:中村線に乗り入れ、さらに四国旅客鉄道:土讃線に接続して、高知県の県庁所在地、高知に至ります。

ローカル線であるがゆえに、運行頻度は低いようで、乗り換えも必要ですが、県庁所在地まで、一本の路線で行ける安心感があります。

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江川崎は、2005年(平成17年)、平成の大合併により、隣接する中村市とともに四万十市の一部となりました。ちなみに、この中村市は、江川崎の南に位置し、昭和時代までは高知県西部(幡多郡)の中心都市でした。戦国時代には土佐一条氏の城下町であり、中心市街地は碁盤目状に区画されていました。「土佐の小京都」として知られるとともに、「土佐中村」として独自の文化を築いてきました。

人口も合併前には35,000人ほどもあり、これに比べると、同じ四万十市に属するながら、江川崎地区の世帯数は670世帯、人口は1,600人弱にすぎません。段丘上に集落を形成する山間の小さな町であり、産業の中心は農業と林業で、米・野菜・シイタケなどを産出するほか、木材が大きな収入源です。

かつて江戸時代以前に「下山郷」と呼ばれていた時代、ここから産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国(現大阪府南西部)などへ出荷されていました。当初、木材輸送には四万十川のいかだ流しを利用していましたが、近代ではトラック輸送に取って代わられています。

1983年(昭和58年)、NHK特集「土佐四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が日本全国に放映されました。このとき、アナウンサーが用いた「日本最後の清流」の語は、のちに四万十川を表す語として全国に響き渡るところとなりました。

この番組は、全国的にセンセーションを巻き起こし、放映後、江川崎では四万十川を活用した観光が盛んとなっていきます。旧西土佐村の観光客は1990年(平成2年)には10万人であったものが、1997年(平成5年)には23万人へと増え、観光業が急成長しました。

江川崎の古くからの観光スポットには白綾の滝や金刀比羅宮があります。金刀比羅宮といっても香川県にあるそれと比べるとかなり規模の小さいものです。ただ、天正年間(1592~1593年)の勧請ということで、歴史は古く、ネットで調べてみると奥深い風情のある神社です。

一方の白綾の滝は落差が10mほどあり、天保8年(1837年)には宇和島藩主が訪れています。が、こちらも他地域にある滝に比べるとそれほど大きなものではないようで、観光スポットとしての集客効果は、少々弱そうです。

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これに比べ、四万十川の知名度はダントツです。この川が観光資源になるという認識は、NHKの報道により有名になるまでは、地元、江川埼住民にも高知県行政にもなかったようです。が、放送をきっかけに、この四万十川中流域にある小さな町にも一大観光ブームが訪れました。

今や全国的にも知名度の高くなった、この四万十川は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196km、四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっています。上流にダムが建設されていないことから、上のとおり「日本最後の清流」のキャッチフレーズを持つほか、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」とされ、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれています。

ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではないといいます。

水質以上にその環境が評価されている川であり、その高い評価のひとつには、四万十川には支流も含めて47の沈下橋があることです。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところに、主として鉄筋コンクリートなどにより架橋されるものです。床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。

かつて架橋技術が未熟であった時代は、洪水でも壊れない橋を造ること自体が難しい、という現実がありました。このため、あえて増水時に沈む高さで橋を造って流木などが橋の上を流れていきやすいようにする、という苦肉の策が採用されるところとなり、これが、全国でも増えました。

土木用語としては「潜水橋」あるいは「潜り橋」というのが正式な名称で、その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られ、とくに台風などの豪雨に度々見舞われる、四国をはじめとする西日本の各地で多く建設されました。

しかしその後、架橋技術が進歩するにつれ、現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られるようになり、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えない、ということもありました。こうして沈下橋は新たに建築されなくなり、永久橋に架け替えられて徐々に姿を消しつつあります。

こうした中、沈下橋を河川の文化的景観、技術的遺産、観光資源として保存する動きもあり、この四万十川流域でも、江川崎にある沈下橋も含め、重要文化的景観に選定されているものが多数あります。高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定しています。

また、四万十川には堰がないことから、カヌーに最適とされ、日本有数のカヌーの盛んな地域となりました。拠点となる「四万十 川の駅 カヌー館」にはカヌー資料館が併設され、江川崎周辺ではカヌー教室やリバーツーリングが展開されます。

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とはいえ、これ以外にこれといって大きな観光の目玉があるわけではなく、宿泊施設もホテル星羅四万十というホテルがひとつと、西土佐山村ヘルスセンターという公営の日帰り温泉施設がひとつ、このほか旅館や民宿が5~6軒ほどもある程度です。

ただ、この地には綺麗な夜空があります。町の内外に建つ住宅は分散していることから光害が少なく、星がきれいに見えるため、この星を使った町おこしに最近取り組んでいるようです。旧環境庁から「星空の街」の認定を受けているとのことで、最近小さな天文台も作られたようです。

このほか、この地はその昔、土佐国と伊予国の境にある軍事要衝地であり、支配する権力者が次々と変わるなど、歴史的にみると、かなり面白い場所であるようです。現在の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれ、伊予国に占領されていましたが、文明元年8月(1469年9月)土佐国の、土佐一条氏が奪還しました。

土佐一条氏は、室町時代の公卿・古典学者であった、「一条兼良」を高祖とする一族です。

一条家は、五摂家のひとつで、摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流です。また、五摂家とは、公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のことで、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できるという家格の高い家柄です。

兼良は、その一条家の中にあっても、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、和歌・連歌・能楽などにも詳しかったといいます。

1468年(応仁2年)に、この一条兼良の子で関白の「一条教房」が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに、一族の歴史が始まります。そしてその土地こそが、江川崎の南側にある、旧中村市になります。

鎌倉時代末期から室町時代にかけてこの地は地元の豪族の争いが絶えず、朝廷にしてみればその安定化を図る目的もあったと考えられます。教房は、この中村の前身である幡多郡(はたのしょう)を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置きました。

以後ここは「中村御所」と称され、同時にここを中心とする地域を「中村郷」と称するようになりました。また、教房とともに京にいた公家や武士、職人などもここに下向するなど、土佐一条氏繁栄の基礎が築きあげられました。

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しかし、繁栄を誇った土佐一条氏も、5代目の一条兼定の代に没落します。兼定の父の4代目房基は、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威をさらに拡大していましたが、1549年(天文18年)、突如として自殺しました(一説に暗殺説も)。

その子の一条兼定は、暗愚で遊興にふけったため信望を失い、他豪族を滅ぼして勢力を拡大しつつあった長宗我部氏(当主 長宗我部元親)が中村に侵攻してきます。このとき、一条氏の家臣は先を争って元親の軍門に降り、これにより兼定は九州豊後国に追放されました。以後、土佐一条氏は土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となります。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い、四国全土に勢力を広げたことで知られる人物です。しかし、その後織田信長が四国平定に乗り出すところとなり、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

慶長4年(1599年)に元親が死ぬと、長宗我部盛親が第22代当主となります。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしますが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に組みしました。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、このため長宗我部氏は戦後所領を没収されて改易となり、浦戸という狭い土地に押し込まれました(浦戸藩・現在の高知県高知市浦戸)。

その後盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に付きましたが、この戦いでも豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され、直系は絶えました。

しかし、長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫が土佐藩に下級藩士として仕え、断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっていきます。が、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられており、再び長宗我部を名乗ることができるようになったのは、明治維新後のことです。

長宗我部元親は、その全盛時代、現在の江川崎地区である下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施しています。それまでの川埼村が下山村と呼ばれるようになったのはこの時代であり、以後江戸時代に至るまで、もっぱらこの地は下山郷、もしくは下山村と呼ばれていました。

合わせ4つの城があり、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となるなど重要な軍事拠点でしたが、関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となりました。

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山内氏は、内助の功で知られる千代を妻に持つ、ご存知「山内一豊」を開祖とする一族です。千代と一豊の国盗り物語は、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」の中で描かれたため、ご存知の方も多いでしょう。千代役を仲間由紀恵さんが、一豊を上川隆也さんが演じ、なかなか視聴率も高かったようです。

一豊はその後、江戸期を通じて繁栄した土佐藩の初代藩主となります。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行いました。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わっており、それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになりました。これが鰹のタタキの起源だとされています。

江戸時代を通して下山郷もまたこの一豊を初代藩主とする土佐藩の配下にありました。しかし、長宗我部時代に伊予国とのつながりが深かった下山郷は、土佐藩領になっても隣国の伊予国との交流が深く、自国よりもこちらの民との婚姻が結ばれることも多かったといいます。現在でも方言や家屋の様式に類似性が認められるようです。

下山郷のうち、町の中心である下山は舟運の拠点で、四万十川河口部の海に面する下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んでした。また、現在の「西土佐江川」に相当する江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生しました。

紙漉きはまた、隣接する長生のほか、半家でも行われていました。

この半家、実は平家の落人が開いた村であった、という伝承があります。

グーグルマップをみると、予土線の「半家駅」以外にとくに目立ったランドマークのない、ひなびた山村ですが、ちょうど四万十川がうねりにうねってSの字型に蛇行した場所にあり、その左右岸の緩い山裾の斜面に家々と田畑が広がるという地形を持った山里です。

明らかに四万十川の水利を利用して生活維持をしてきた様子がうかがえ、そのために古くから、氾濫の多い万十川への架橋が試みられてきたようです。そのひとつ、「半家沈下橋」は、現在四万十川流域にある沈下橋のうちの最も古い橋になります。

と同時に、四万十川に架かる47もある沈下橋のうちの最上流の沈下橋で、四万十川における「沈下橋観光」の撮影スポットの一つです。急流に架かり、瀬音や白い水しぶき楽しめる全長約125mの橋で、普通車の通行可能が可能といいます。すぐそばに半家天満宮というひっそりと静かな古刹があり、秋祭りでは「牛鬼」と呼ばれる、中に人が入った大きな赤牛の形をした人形が、この沈下橋の上などを練り歩きます。

秋祭りには、多くのカメラ愛好家や地元住民らが訪れるといい、この牛鬼は、古くから交流が盛んだった愛媛県宇和島市から伝わったとされます。土佐国に属しながら、国境にあるがゆえの伝統であり、隣国である伊予国の影響が色濃い地域である証でもあります。牛鬼の行進のほかに、「五鹿(いつしか)踊り」や「花取り踊り」が半家天満宮で毎年行われ、五穀豊穣(ほうじょう)や魔よけを、地元の人たちが願うといいます。

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そして、その人々の先祖こそがこの地に住み着いた平家の落人だという伝承が伝わります。

実は「半家」は、「はんげ」と読むのではなく、「はげ」と読みます。ハゲというと、最近、「このハゲ~」発言でひんしゅくを買った、某女性政治家を思い出してしまいますが、なぜこういう読みになったのかは不明です。

が、漢字の由来は、そもそも平家の落人だったこの村の先祖たちが、源氏方の追討を逃れるために「平家」の「平」の字の横線を移動させて「半」にしたためと言われています。と同時に、その読みも「へいけ」では都合が悪いので、「ハゲ」ということにしたのでしょう。

この半家の村人たちは、その昔から「助け合い」の精神が強い人たちが多かったといわれ、江戸時代には、「半家義民村」と呼ばれるほどだったといいます。義民(ぎみん)とは、本来、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、義人とも言いますが、この場合は、命を賭すほどのこともなく、単に郷土愛にあふれた義侠民のことのようです。

日本各地にはあちこちにこうした義民伝説が残っていますが、この半家でも「半家義民録」「半家義民記」といった形でその記録が残されているそうです。

伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村(はげぎみんそん)」と呼ぶように、と8代藩主、山内豊敷(とよのぶ)から許しを得るとともに、12代藩主、山内豊資(とよすけ)から米を下賜されたりしました。戦前には、そうしたことが教科書で取り上げられる、ということもあったといいます。

この半家の義民たちが、平家の落人だった、といわれているわけですが、彼らは、平家滅亡の元となった、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き延びた人々の可能性があります。

この乱の末期に行われた、屋島の戦い(讃岐国屋島(現高松市))や、壇ノ浦の戦い(現下関市)での生き残りと考えられ、当地は高松市と下関市を結ぶ直線のほぼ中間地点にあります。その両方からここへ命からがら逃げてきた、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

源平合戦において敗北し、僻地に隠遁した落人としては、主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられます。連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方のいわば「難民」であり、残党の追捕から逃れた者が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになりました。

ただし、武士に限っては平家の「落武者」と呼ぶ場合もありますが、落ち延びたのは必ずしも平家一門の末裔であるとは限りません。「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士、あるいはその家族なども含まれていました。

このため、平家の「落人」という言われ方をすることの方が多いようです。そうした平家の落人が潜んだ地域は、後年、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれるようになりました。

源氏に見つかることを恐れ、山の奥深くや離れ島や孤島などに存逃げ込んだといわれており、このため、人口が少ないところや山間部や谷間などが、隠れ里だと言われることが多いようです。この半家の郷も四万十川の最上流部に位置する山里であり、落人伝説が発生したとしても不思議ではない土地柄です。

落ち延びたのは必ずしも身分の高い人々だけではなかったと思われるわけですが、こうした伝説がある場所では、落ち延びたのは実は、もともと平家の中でもとくに身分が高い人たちだった、という憶測が往々にして生まれました。その理由としては、彼らがふだんから使っている食器や生活用品に高級品が多かった、とされることなどからです。

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それにしても、そうした高級品を彼らが持っていることが、どうして巷でも知られるようになったのか、ですが、こうした隠れ里の生活の中では、それらを川で洗ったりする時にうっかり流してしまった、ということがあったようです。また、隠れ家を探しての移動中、山中に落としてしまった、といったハプニングも時に起こりうります。

平家の隠れ里以外に住まう人たちにすれば、ある日見慣れない、こうした漆塗りの高級器が流れてきたり、山中の思いがけない場所でそうした「証拠」を発見して、あれっ?と思うわけです。

が、そうした異変に気づくのはごく少数にすぎません。大抵の場合、平家の落人の隠れ里の存在を知る者もごくごく限られ、たとえその存在を知っても、あえて隠れ里を探そうとしたり、公にしたりするケースも少なかった、と考えられます。

それはなぜか?ですが、そのひとつは判官贔屓(ほうがんびいき)の心理が働いたからだ、という説があります。これは平家を滅亡に追いやった源義経(九郎判官義経)が、のちに兄の頼朝から討伐を受けた際に生まれた用語です。

第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」といった心理現象を指します。

同じ感情が、平家の落人に対してもあったとしてもおかしくなく、あえて彼ら落人のことを追及したり、話題にすることすらタブーとなっていたと考えられます。かくして、長い年月のうちには、平家の隠れ里は伝説となり、やがては「桃源郷」として神秘的な存在になっていきます。

そうした中においては、ある日偶然にもそうした場所にうっかり足を踏み入れてしまった、といった話も出てきます。たとえば、貧しい家の女が小川に沿って蕗(ふき)を採っていく内に、道に迷って谷の奥深くにまで分け入り、豪勢な御殿を発見して中に入りますが、人の姿が見えないので怖くなり逃げ出した、といった類の話です。

そして、そうした話には、やがて尾ひれがつき、お伽噺の形態を帯びるようになっていきます。後日、その貧し家の女が小川で洗い物をしていると、上流から赤い椀が流れて来ます。その椀を使うと穀物をいくら使っても減らず、その家はやがて村一番の金持ちになっていく、といった具合です。

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東北、関東地方には、このように訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家の話が数多く残っており、山中のこの種の家は「迷い家(まよいが)」と呼ばれ、マヨイガが転じて、マヨヒガとも呼ぶようになりました。

柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、「遠野物語」によれば、迷い家とは訪れた者に富貴を授ける不思議な家であり、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよい、というものでした。

転じて、無欲ゆえに富を授かった貧しい家の者が、迷い家を訪れることで救われることになった、という成功譚と、欲をもったせいでその富が身を滅ぼす原因になったという失敗譚のふたつが一対になってそこに描かれています。

こうした桃源郷は一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられ、「隠れ世」とも呼びならわされてきました。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、などという話が語り継がれています。

そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごします。

が、いったん外部の世界に戻り、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできません。奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地はある種の「霊界」ともいえるような場所でしょう。何の憂いもなく平和な世界であり、しかも人間の世界とは違う時の流れがあります。

岩手県和賀・鬼柳村(現・東和賀郡北上市)にはこんな話があります。あるとき、「扇田甚内」という人物が、朝早く起きて沼を見ると若い女が手招きをしていました。同じことが2、3日毎朝続いたので近くへ行ってみると夫婦の約束をするため家に来てくれといいます。女はこの世に類のない艶やかさであり、甚内は一目ぼれしてしまいます。

女の後を付いていくと見たこともないような世界に着き、家に着けば美しい女達があまたいて甚内を主のように尊敬してくれます。やがて女の一人と契りを結びますが、月日が流れるにつれ、ふるさとの妻子が気にかかりはじめます。

そのこと女に話すと、家にいない間に男の家を有徳富貴にしておいたから案ずるな、といいます。それでも甚内が帰ろうとすると、女は口外してはならぬと約束させ、ここでの生活のことを外で語れば、あなたとは二度とは会われぬだろう、と泣きます。

それを振り切るようにして、男が家へ帰ると、なるほど実家は豊かになっていました。ところが、1ヶ月とばかり思っていたが三年の月日がたっており、甚内は死んだものとされ、自分の法事まで終わっていました。

家内にどこに居たと問いただされ、真実を吐くと、たちまちの内に甚内は腰を折って気絶し、そのまま不具廃人となりました。そしてそれ以前の貧乏になり、つまらぬ一生を送った、とされます。

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こうした話は、無論平家の落人伝説とは関係なく、全国に伝わる、民話、伝説にみられる一種の山仙郷のお話です。

が、このような隠れ里は地下の国や深山幽谷といった、いかにもありそうな、一応到達可能そうな場所に置いているところが特徴的であり、そこに平家の落人が住んでいてもおかしくない、と人々に思わせるところがあります。

ただ、その伝説の発展形は、かなり現実に近い話とお伽噺の類の話の大きく分けてふたつがあるようです。各地の隠れ里伝承を比較研究した柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしています。

とくに西日本によくある、夢幻的な話の中には、隠れ里を訪ねた者が贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものが多く、また隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多いようです。

また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたというものが多く、時間の経ち方が違っています。こうした逸話は隠れ里の異境性をよく表しており、「浦島太郎」などの説話との共通点も見られます。

一方では、同じ西日本にあって、四国にはかなり現実味を帯びた平家の隠れ里伝説も数多く残っています。

徳島県三好市東祖谷阿佐には、屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、追手に脅かされ祖谷に住んだというは話が残っています。

阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存します。この平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、他の平家落人伝承より注目度が高いとしてされます。

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このほか、江川崎から、直線で50kmほど北東にある同じ高知県の越知町にある横倉山には、安徳天皇の陵墓ではないか、とされる墓があるそうです。「屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲した」との言い伝えがあるといい、歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常ではないといわれます。

また、この地にある横倉山の前を流れる川は、仁淀川と呼ばれているほか、京都ゆかりの地名が多く存在します。北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ、とされます。周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置くだけ、といった風習があり、これは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致します。

これらのことから、香川県の屋島から徳島県の東祖谷へと逃れた平家一門が、最後に住み着いた場所である可能性は高い、と考えられているようです。

片や、残念ながら、江川崎の半家が、平家の落人の里であるという確証データはほとんど何もありません。

が、ここからほど近い愛媛県八幡浜市の佐田岬には、壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が上陸したという話があります。すぐそばの「伊方」を流れる、宮内川上流の谷、「平家谷」に隠れ住んだとの言い伝えがあり、それによれば、落人たちは8名で畑を開き暮らしていました。が、やがて源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったといます。

平家谷には平家神社がまつられているといい、もしかしたら、この伊方の落ち武者の他の生き残りやその家族が半家に辿りつき、ここに住み着いたのやもしれません。

……想像は膨らむばかりです。

さらに想像を膨らませたいところですが、まるで私自身が、桃源郷にいたかのごとく、このブログを書いてしまっていました。そのための時間も一瞬であったように思えるものが、気が付けばかなり長い時間になってしまっているようです。

この続きは、このあとの熱帯夜の寝苦しい宵に夢としてでも見ることとし、今日の項は、そろそろここで終わりにしたいと思います。

それにしてもはてさて、梅雨は明けたのでしょうか…

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こうもり傘の候

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梅雨も半ば、というか、沖縄はもう既に梅雨明けとのことで、本土でも夏がもうすぐそこまで来ている感があります。

とはいえ、まだまだ梅雨前線は活発なようで、先日は激しい雨が降ったばかりです。ここしばらくは、外出時に傘が手放せない日が続くことでしょう。

我が家の傘立てには、だいたい10本ぐらいの傘があり、このほか折り畳み傘も3~4本くらいあるようです。このうち、自分で使う傘はだいたい2本、折り畳み傘も1本くらいで、残りはタエさんの所有物、もしくは彼女の父母の遺品です。

家族構成にもよりますが、平均的なお宅では、だいたいどこの家庭でも、少なくとも5~6本くらいは傘があるのではないでしょうか。しかしそのうち、自分が使う傘の数となるとかなり限られてくるのでは。皆さんはいったい自分で使う傘を何本お持ちでしょうか。

ネットで統計的な平均データを調べてみると、一番多いのは、やはり普通の傘2~3本、折り畳み傘1~2本程度のようです。

「1本あれば十分」という人も多いようですが、その多くは男性で、女性は1本では足りないという人が多いらしい。

普通の傘は洋服に合わせて4~5本。折り畳みも気分で3~4本を使い分け、日傘も数本、というのが普通。そのときの気分に応じた色やデザインを選んでいるうちに自然に増えていた、という人も多いようで、傘もファッションの一つと考えている女性が大多数のようです。

一方で、男性には傘に関するこだわりは少なく、雨に濡れずにすめば何でもいい、また、傘は持って行かずに出先で雨が降ったら、買ってしまう、という、ズボラ派な人も多いかと思われます。私自身もそれほどのこだわりはありませんが、着て出る服装に合った傘を使いたい、という気分だけはあります。もっとも、常用傘が2本ではその要求に応える術はありませんが…

この傘、難しい漢字では「簦」とも書くようです。言うまでもなく、上から降下してくる雨を防護する目的の用具のことで、頭部に直接かぶって使う用具である「笠」と区別されます。現代においては、雨や雪などの降水時に体や持ち物を濡らさないために使うほか、夏季の強い日射を避けるために使います。

歴史的には欽明天皇の時代552年(欽明天皇13年)に、百済(くだら)の聖王の使者が、手土産にと持参した外来品が最初の傘だそうです。百済とは、古代の朝鮮半島南西部にあった国家で、聖王(せいおう)は、百済の第26代の王です。この当時、日本はまだ伝説の王女、卑弥呼が統治していたといわれるヤマト政権時代であり、そんな時代から傘はあったのか、と改めて感心する次第です。

ただ、このころの傘はまだ、主に日射を避ける「日傘」として用いていたようで、その後雨の多い日本独自の気象に沿った構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていったようです。

上述のとおり、古来、日本では「かさ」とは「笠」を指し、直接頭にかぶるものでした。ところが、朝鮮からの輸入品はこれとは別に「傘」と称すようになり、これは「さしがさ」を意味します。

傘の文字を見ればわかるとおり、八の字の下に縦棒があり、これは頭にかぶるものではなく、柄(え)を持って雨を防ぐ道具であることを意味します。柄は「がら」とも読み、このことから、当初は「がらかさ」と呼び、これが「からかさ」となり、時代が下るにつれて単に「かさ」と呼ぶようになっていきました。

「かさ」に「唐」の文字をあて、「唐傘(からかさ)」と呼ぶ場合もありますが、これは唐茄子や唐辛子と同様に、外国からの舶来品であることを示す際に使う名称です。

現在の日本語では、使う目的によって雨傘、日傘と呼んで区別します。また、日本の伝統的な工法と材質で作られたものを和傘、西洋の伝統的な工法と材質で作られたものを洋傘と呼ぶ区別もあります。

頭上を防御するための傘を広げることを「さす」といいますが、「刺す」ではなく「差す」が正しい使い方です。もともと頭にかぶる笠を指していたため、「笠をかぶる = 傘をかぶる」といっていましたが、これが変じて「傘をこうむる」となり、やがては「こうもり傘」と呼ばれるようになったという説もあります。

もっともこれはかなりゆがめられた俗説で、実際には、ペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから、こうした呼び方が生まれたようです。

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この「蝙蝠」という漢字。漢字テストで書けと言われても書ける人は少ないでしょうが、その字義を調べてみると、「蝙」の「(扁)は平たい、(虫)は動物」で、「蝠」が「へばり付く動物」の義で、「飛ぶ姿が平たく見え、物にへばりつく」というコウモリの生態から来ています。

「かはほり」、「かはぼり」とも呼ばれていたようで、これは「加波保利」と書きます。元々は、「蚊(カ)、屠(ホフリ)」で、これは、コウモリが蚊を大好物にしている生態からきています。古来、俳句では蚊食鳥(カクイドリ)とも呼ばれ、「かわほり」の呼称とともに夏の季語でもあります。

蚊を食すため、その排泄物には難消化物の蚊の目玉が多く含まれており、それを使った四川料理に「蚊の目玉のスープ」というメニューがあるというもっともらしい話があります。

コウモリのたくさんいる洞窟で蚊を食べるコウモリの排泄物を採取し、それを水で洗うと小さな眼玉だけは、固いキチン質なので消化されずに残ります。それを裏ごしで集めてスープ仕立てとすると、これが風味といいコリコリとした食感といい絶品だというのです。

が、実はこれは同様の製法で作られた蚊の目玉の漢方薬、「夜明砂(ヤメイシャ)」のことではないかといわれています。これを湯に浸して服用しますが、その薬用湯のことを「夜明菜心湯」、「夜明谷精湯」といい、これが四川料理と間違われたのではないか、というのが実のところのようです。

コウモリ(蝙蝠)は、脊椎動物亜門哺乳綱コウモリ目に属する動物の総称で、鳥の形をしていますが、哺乳類に分類されています。ネズミが飛んでいるように見えることから、別名、天鼠(てんそ)、飛鼠(ひそ)とも呼ばれ、全世界に約980種程がいます。その種数は哺乳類全体の4分の1近くを占め、ネズミ目(齧歯類)に次いで大きなグループとなっています。

極地やツンドラ、高山、一部の大洋上の島々を除く世界中の地域に生息していますが、これだけ、世界の至るところに生息できるようになったのには理由があります。

恐竜の栄えた中生代において、飛行する脊椎動物は、恐竜に系統的に近い「翼竜」と恐竜の直系子孫である鳥類がほとんどでした。この鳥類は現在の鳥類とは異なり、諸説ありますが、いわゆる始祖鳥のようなものだったと考えられています。

ところが、中生代の終わりごろに地球に大隕石が衝突したことが原因となり、恐竜とともに翼竜は絶滅し、始祖鳥のような恐竜由来の鳥類も系統が途絶えました。これにより、飛行する脊椎動物という生態系ニッチ(ある生物が生態系の中で占める位置)には幾分か「空き」ができました。

ここに進出する形で哺乳類から進化したのがコウモリ類であるといわれています。コウモリが飛行動物となった時点では、鳥類は既に確固とした生態系での地位を得ていたため、コウモリはその隙間を埋めるような形での生活圏を得ました。鳥類は樹上や空間をテリトリーとするのに対し、哺乳類は地上がその住処です。コウモリはその中間の世界に生息することができ、これがコウモリが世界中に普遍的に存在する理由、というわけです。

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コウモリは南極以外の全大陸に分布し、さらに海洋島にも広く分布しますが、他の哺乳類でこれほど他地域に生息するものはありません。クジラなどを除けば哺乳類のほとんどが、陸上動物であり、世界に広まったのは大陸移動による各大陸の分裂が原因です。

時間的にも空間的にもその広がりが大きく制限されてきたのに対し、コウモリ目は鳥類同様に翼による飛翔能力を持ち、海などによって遮られた場所でも自由に移動できました。哺乳類のように大陸移動による広がりを待たずして全世界に散らばることができたため、これほど多くの種が蔓延することになったわけです。

ところが、コウモリの直系の祖先にあたる動物や、コウモリが飛行能力を獲得する進化の途上過程を示す化石は未だに発見されておらず、そのご先祖様がネズミだったのかリスだったのか、あるいはもっと別のものだったのか、という点は明らかになっていません。

恐らく彼等は樹上生活をする、何等かの小さな哺乳類であったであろう、という推測だけであり、この小動物が前肢に飛膜を発達させることで、樹上間を飛び移るなど、活動範囲を広げていき、最終的に飛行能力を得たと思われます。そういう意味では、ムササビやモモンガのような動物がコウモリの先祖だったのかもしれません。もっとも現在の生物学的分類では、ムササビやモモンガはネズミやリスの仲間ですが。

確認される最古かつ原始的なコウモリは、アメリカ合衆国ワイオミング州の始新世初期(約5200万年前)の地層から発見された化石に見られます。この時期には既に前肢は翼となっており、飛行が可能になっていたことは明白です。ただ、化石から耳の構造を詳細に研究した結果、反響定位、いわゆるレーダーの能力を持っていなかったことが判明し、コウモリはまず飛行能力を得たのちに、反響定位能力を得たことが分かっています。

コウモリは、グライダーのように滑空するムササビやモモンガとは違い、翼をもち、多くの鳥類と同様、羽ばたきながら完全な飛行ができます。鳥類に匹敵するほどの完璧な飛行能力を有する哺乳類はコウモリのみです。前肢が翼として飛行に特化する形に進化していますが、コウモリの翼は鳥類の翼と大きく構造が異なっています。近くでコウモリを見たことがある人はおわかりでしょうが、鳥類の翼は羽毛によって包まれているのに対し、コウモリの翼は飛膜と呼ばれる伸縮性のあるゴムのような膜でできています。

この飛膜はその人差し指以降の指の間から、後肢(後ろ足)の足首までをカバーしており、腕と指を伸ばせば、文字通りコウモリ傘のようになって広がり、腕と指を曲げればこれを簡単に折りたたむことができます。洞窟中で、自分の飛幕にくるまってミノムシのようにぶら下がっているのを見たことがある人も多いでしょう。

実はこれは、コウモリは鳥と異なり、後ろ足は弱く、立つことができないためで、休息時や睡眠をとるときは後ろ足でぶら下がる以外に方法がないためです。ただ、いつも後ろ足でぶら下がっているだけではなく、前足の親指には爪があって、この指でぶら下がることができ、これによって排泄などもできます。また、場合によってはこの指と後ろ足で、地上を這い回ることができます。

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コウモリが超音波を用いたレーダー能力を持っていることは良く知られています。その能力は、前述のとおり反響定位(エコーロケーション)といいます。自分が発した音が何かにぶつかって返ってきたもの(反響)を受信し、その方向と遅れによってぶつかってきたものの位置を知る能力のことです。

各方向からの反響を受信すれば、周囲のものと自分の距離および位置関係を知ることができ、音による感受法でありながら、音を聞くだけの受動的な聴覚よりも、むしろ視覚に近い役割を担っています。コウモリは口から間欠的に超音波の領域の音を発して、それによってまわりの木の枝や、虫の位置を知ります。虫を捕らえる直前には、音を発する頻度が高くなります。

我々人間のような哺乳動物は目に入る光によって、対象が何であるかを知ります。光は伝達速度が速く、到達距離が長く、波長が短いので、素早く遠くから多量の情報を得るには適しています。ところが、光が遠くまで届くのは空気中のことであって、水中では、光は強く水に吸収されるので、100m先も見通せません。また土中ではそもそも光は通りません。

このため、夜や水中など、光が十分に利用できない条件下では、通常の動物は遠くの敵や餌の情報をキャッチできません。しかし、コウモリは音波を使うことで、遠方にいる彼らの情報を得ることができます。

音は水中では空中よりはるかに速く伝達します。空気中での音の伝達速度は340m/s程度ですが、水中では1,500m/s近くに達し、土中ではさらに速くなります。また、波長が短いほうが、跳ね返ってきたときに得られる情報量が多いので、高い音ほど有用であり、人の可聴域以上の音、すなわち超音波が用いられるわけです。

種によって異なりますが、コウモリは主に30kHzから100kHzの高周波の超音波を出し、その精度はかなり高く、ウオクイコウモリのように微細な水面の振動を感知し、水中の魚を捕らえるものまでいます。目の前の獲物だけでなく、次の獲物の位置も先読みしながら最適なルートを飛んでいるといわれています。

コウモリの存在する地域における夜行性の昆虫やカエルなどは、このコウモリの発する超音波をとらえて、見つからないようにする器官を備えているものすらいます。コウモリの餌のひとつであるガの中には、コウモリの発する音を聴くための耳をもち、コウモリの反響定位音をとらえると、羽を閉じてストンと落下するなどの回避行動をとるものがいるといいます。

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日本で一番よく見られるコウモリは「アブラコウモリ」と呼ばれ、体長5cmほどの小さいコウモリです。その重さはわずか10gほどしかなく、その小さな体を活用し、民家の隙間から侵入してきます。暖かな住宅を好んで天井裏などを巣にしてしまうため別名イエコウモリとも呼ばれています。

同じく天井裏などに住むヤモリは「家守」とも書かれるほどで、あまり人間に危害を加えることもないため、それほど毛嫌いされることはありません。ところが、このアブラコウモリはいわゆる害獣として嫌われることも多く、日本のほぼ全域で目撃・被害があります。

基本的に冬は冬眠をし、春から秋が活動期になりますが、特に真夏には活動が活発化になり、繁殖期にあたるこの時期には1度に3匹ほども出産します。雀などに比べれば声は比較的小さく、また夜行性であるため昼間はおとなしくしています。このため、巣があることに気付かない家庭も多く、気がついたら何年も住みついていて100匹以上天井裏にコウモリがいたという事例もあります。

同じ場所に大量の糞をしますから、いつのまにやら天井から糞が染み出してきたり、乾燥した糞が空気中に飛散して感染症を引き起こすといったこともあります。また、コウモリ自体にノミやダニなどが寄生していることが多いので布団などに侵入し二次被害を与える事例も多くあります。コウモリは狂犬病のウイルスを持っている可能性もあります。日本では1956年(昭和31年)以降の狂犬病の発症例はないので、あまり心配はありませんが、用心するにこしたことはありません。

このように人に多くに被害を与え危険な生物と思われがちなコウモリですが、蚊だけでなく、蛾やゴキブリといった虫も餌としており、農家にとっては「益鳥」とみなす人も多いようです。

また鳥獣保護法により保護されており、無許可での殺処理が禁止されています。このため、その駆除のためには、生息範囲や侵入口などを十分に調べた後に追い出しを行い、二度とコウモリが戻って来ることができなくなるように侵入口を塞ぐ施工をすることが基本です。それゆえ、こうした狭い出入り口を見つけ、駆除にあたるのが得意なコウモリ駆除の専門業者、という様態が成立し、各地に多数存在します。

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日本では、このアブラコウモリを含めて約35種のコウモリが確認されています。移入種を除く約100種の哺乳類のうち、約3分の1に当たり、約4分の1に当たるネズミ目24種を抑えて、最多の種数を擁しています。また、近年は琉球列島の島々に固有種が発見されているとのことです。

この中にはアブラコウモリのような、嫌われ者もいるわけですが、個々の種についてみれば、個体数が少ないと判定されているものもあり、多くの種がレッドデータブック入りとなっています。

特に、森林性のコウモリについては、その生活の場である自然の広葉樹林と、それ以上に、住みかとなる樹洞ができるような巨木が極めて減少しており、棲息環境そのものが破壊されつつあるようです。洞穴に生活するものは、集団越冬の場所などが天然記念物となっている場所もあります。

ただ、日本ではコウモリを専門とする研究者が少なく、その実態が必ずしも明らかになっていないようです。彼らの生活そのものも、未だに謎が多い部分が多いそうです。ユビナガコウモリという集団繁殖する種などについては、もしかしたら季節的に大きな移動を行っているのではないか、といわれていますが、具体的な習性については、現在研究が進められつつある段階といいます。

コウモリの文化的な面をみていくと、日本では、アブラコウモリのように嫌がられる種もいますが、歴史的にコウモリを嫌忌する、といった伝統はないようです。中国では、コウモリ(蝙蝠)の「蝠」の字が「福」に通ずることから、幸福を招く縁起物とされ、また「蝙蝠」 (biānfú) の音が「福が偏り来る」を意味する「偏福」 (piānfú) に通じるため、幸運の象徴とされています

百年以上生きたネズミがコウモリになるという伝説もあり、長寿のシンボルとされており、このため、日本もこうした中国の影響をうけてきたようです。西洋の影響を受ける明治中期ごろまでは日本でもその影響で縁起の良い動物とされており、日本石油(現:JXエネルギー)では1980年代初頭まで商標として用いられていました。

また福山城のある「蝙蝠山」を由緒とする広島県福山市の市章はコウモリをあしらったものであり、長崎のカステラ店福砂屋などはコウモリを商標としています。さらに、使用例は少ないようですが、コウモリの家紋も存在します。

キューバでも蝙蝠を家紋とした例があったようで、絶滅した先住民タイノス(タイノ族)族はコウモリが健康、富、家族の団結などをもたらすと信じており、同地で創業した世界的ラム酒バカルディのロゴマークに採用されています。

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昭和40年代に流行った、アニメの黄金バットや、アメリカンコミックが発祥のバットマンのように正義のヒーローのモチーフとして扱われることもあります。昔の仮面ライダーでは、蝙蝠男という悪役がいましたが、平成版の仮面ライダーシリーズにおいてはコウモリを模したヒーロー、「仮面ライダーナイト」、「仮面ライダーキバ」などが登場しています。

このように、日本人にとってコウモリとはそれほど悪いイメージがある動物ではないようです。

ところが、欧米、とくにヨーロッパでは嫌われものであることが多いようです。これは、コウモリの中には吸血種もいることから、この部分だけがクローズアップされたためです。吸血鬼の眷属、あるいはその化身として描かれるようになったコウモリですが、その中でも象徴的に描かれるのが、映画や舞台にもなった吸血鬼ドラキュラです。

怪力無双、変幻自在、神出鬼没で、コウモリだけでなく、ネズミ、フクロウ、ガやキツネ、オオカミなどを操り、嵐や雷を呼び、壁をトカゲのように這うことができる怪物です。オールバックの髪型で夜会服にマントを羽織っており、その鋭い牙で美女の首に噛みついて血をすするその姿は、吸血コウモリの姿を模したものと言われています。

しかし、実際に他の動物の血を吸う種(チスイコウモリ)はごくわずかです。たいていは植物(主に果実)や虫などの小動物を食べます。そもそも吸血性のコウモリは中央アメリカから南アメリカにかけてのみ分布しており、ヨーロッパには生息していません。

こうした吸血コウモリの情報がヨーロッパに伝わったのも、ヨーロッパ人の新大陸進出後のことで、コウモリが悪者扱いされるようになったのも、比較的最近のことといえます。

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このほか、天使が背中に白い鳥の翼を持つとされるのに対し、いわゆる「悪魔」は背中にコウモリの翼を生やしている姿で描かれることが多いようです。肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはヤギのような角を生やし、矢印みたいに鋭く尖った尻尾を持ちます。そしてとがった爪の付いた黒い翼は悪魔のシンボルであり、その特徴のほとんどがコウモリを模したものとわかります。

その昔、「グレムリン」という妖精?の映画がヒットしましたが、こちらも現代版の悪魔といえ、そのモデルはおそらくコウモリではないでしょうか。

一方、コウモリは日本ではあまり悪者のイメージがありません。が、「強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者」の意で、「鳥無き里の蝙蝠」という諺があります。織田信長はこれをもじって、四国を統一した土佐の大名、長宗我部元親を「鳥無き島の蝙蝠」と呼びました。

これは信長が初めて例えたのではなく、平安時代の歌からの引用です。平安末期の歌人和泉式部の歌には、コウモリについて歌ったものが多く、その中に「人も無く 鳥も無からん 島にては このカハホリ(蝙蝠)も 君をたづねん」という歌があり、これからとったもののようです。人も訪れず、鳥もいないこの島では、君を訪れるのはコウモリぐらいのものだろう、といった意味でしょう。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げました。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。豊臣政権時の天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かいました。

しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死ましした。信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにしたといいます。信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量がありましたが、愛息の死後はそれまでの度量を失い、家中を混乱させたままこの世を去りました。

信長が、「鳥無き島の蝙蝠」に例えたとおり、このように晩年の元親のイメージはあまりいいものではありません。「鳥無き里の蝙蝠」の諺があまり良い意味に使われないのはこのことも関係があるようです。

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このほか、コウモリを悪者にした逸話に、イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」というのがあります。

昔々、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていました。 その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣の一族が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です。」と言いました。一方、鳥の一族が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です。」と言いました。

その後、鳥と獣が和解したことで戦争が終わりましたが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をしたコウモリは、最後には鳥からも獣からも嫌われ仲間はずれにされてしまいます。双方から追いやられて居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、夜だけ飛んでくるようになった、というものです。

この寓話からは、いつも八方美人で、何度も人にウソとついては世を渡っている輩は、やがては誰からも信用されなくなる、という解釈ができます。

秘密保護法やら共謀罪やらを、その都度、都合のいいことを言って人を騙し、無理やり自分の都合の良い理屈を押し通してきた、どこかの国の政治政党と似ており、こうした連中はやがて信用されなくなるに違いありません。

が、別の見方では、獣と鳥の戦争に巻き込まれなかったコウモリ一族は、その後洞窟の中で安泰に暮らすことができるようになったわけです。これは、状況に合わせて豹変する輩は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおす、という解釈もできるわけで、悔しいけれども、今の政治状況に似ていなくもありません。

その洞窟が、ニッポンという名の狭い国でないことを祈るばかりですが…

片や、オーストラリアにも良く似たストーリーの「太陽の消えたとき」というおとぎ話が伝わっており、こちらの話の結末は少し違っています。

この話では、カンガルーを大将とする動物たちと、エミューを大将とする鳥たちが大戦争を繰り広げます。動物からも鳥からも仲間扱いされていなかったコウモリは、どちらかの勝利に貢献すれば仲間にしてもらえると考えました。最初は鳥が優勢だったので、コウモリは得意のブーメランを武器にして鳥の味方をしました。

ところが、しばらくすると動物が盛り返したので、コウモリは動物側に寝返ります。やがてカンガルーとエミューの一騎討ちになりますがが、お互いに争いが馬鹿らしくなっており、仲直りしようということになります。コウモリは勝ち負けがなくなったことにがっかりして洞窟に帰っていきました。

こうして平和は戻りましたが、今度は太陽が昇らなくなるという大事件が起こります。太陽は争いを繰り広げる鳥と動物に呆れ果てて、空に顔を出すのをやめてしまったのです。動物と鳥たちは太陽が帰ってくるよう知恵を絞りましたが、誰一人としてその方法が思いつきませんでした。

しばらくしてトカゲが、コウモリに頼めば何とかしてくれるのではないかと提案します。カンガルーとエミューからの懇願を受けたコウモリが、地平線に向かって3度ブーメランを投げると、太陽は再び顔を出しました。そして、それ以来動物と鳥は恩を忘れず、朝日の出る頃にコウモリを見かけても、いじめたりしないようになった、とのことです。

我が国にも、四方の大国にブーメランを投げ、世界中の人々の信頼を獲得できるコウモリのような指導者が現れてくれるのを祈るばかりです。

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