こうもり傘の候

data170625-0252

梅雨も半ば、というか、沖縄はもう既に梅雨明けとのことで、本土でも夏がもうすぐそこまで来ている感があります。

とはいえ、まだまだ梅雨前線は活発なようで、先日は激しい雨が降ったばかりです。ここしばらくは、外出時に傘が手放せない日が続くことでしょう。

我が家の傘立てには、だいたい10本ぐらいの傘があり、このほか折り畳み傘も3~4本くらいあるようです。このうち、自分で使う傘はだいたい2本、折り畳み傘も1本くらいで、残りはタエさんの所有物、もしくは彼女の父母の遺品です。

家族構成にもよりますが、平均的なお宅では、だいたいどこの家庭でも、少なくとも5~6本くらいは傘があるのではないでしょうか。しかしそのうち、自分が使う傘の数となるとかなり限られてくるのでは。皆さんはいったい自分で使う傘を何本お持ちでしょうか。

ネットで統計的な平均データを調べてみると、一番多いのは、やはり普通の傘2~3本、折り畳み傘1~2本程度のようです。

「1本あれば十分」という人も多いようですが、その多くは男性で、女性は1本では足りないという人が多いらしい。

普通の傘は洋服に合わせて4~5本。折り畳みも気分で3~4本を使い分け、日傘も数本、というのが普通。そのときの気分に応じた色やデザインを選んでいるうちに自然に増えていた、という人も多いようで、傘もファッションの一つと考えている女性が大多数のようです。

一方で、男性には傘に関するこだわりは少なく、雨に濡れずにすめば何でもいい、また、傘は持って行かずに出先で雨が降ったら、買ってしまう、という、ズボラ派な人も多いかと思われます。私自身もそれほどのこだわりはありませんが、着て出る服装に合った傘を使いたい、という気分だけはあります。もっとも、常用傘が2本ではその要求に応える術はありませんが…

この傘、難しい漢字では「簦」とも書くようです。言うまでもなく、上から降下してくる雨を防護する目的の用具のことで、頭部に直接かぶって使う用具である「笠」と区別されます。現代においては、雨や雪などの降水時に体や持ち物を濡らさないために使うほか、夏季の強い日射を避けるために使います。

歴史的には欽明天皇の時代552年(欽明天皇13年)に、百済(くだら)の聖王の使者が、手土産にと持参した外来品が最初の傘だそうです。百済とは、古代の朝鮮半島南西部にあった国家で、聖王(せいおう)は、百済の第26代の王です。この当時、日本はまだ伝説の王女、卑弥呼が統治していたといわれるヤマト政権時代であり、そんな時代から傘はあったのか、と改めて感心する次第です。

ただ、このころの傘はまだ、主に日射を避ける「日傘」として用いていたようで、その後雨の多い日本独自の気象に沿った構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていったようです。

上述のとおり、古来、日本では「かさ」とは「笠」を指し、直接頭にかぶるものでした。ところが、朝鮮からの輸入品はこれとは別に「傘」と称すようになり、これは「さしがさ」を意味します。

傘の文字を見ればわかるとおり、八の字の下に縦棒があり、これは頭にかぶるものではなく、柄(え)を持って雨を防ぐ道具であることを意味します。柄は「がら」とも読み、このことから、当初は「がらかさ」と呼び、これが「からかさ」となり、時代が下るにつれて単に「かさ」と呼ぶようになっていきました。

「かさ」に「唐」の文字をあて、「唐傘(からかさ)」と呼ぶ場合もありますが、これは唐茄子や唐辛子と同様に、外国からの舶来品であることを示す際に使う名称です。

現在の日本語では、使う目的によって雨傘、日傘と呼んで区別します。また、日本の伝統的な工法と材質で作られたものを和傘、西洋の伝統的な工法と材質で作られたものを洋傘と呼ぶ区別もあります。

頭上を防御するための傘を広げることを「さす」といいますが、「刺す」ではなく「差す」が正しい使い方です。もともと頭にかぶる笠を指していたため、「笠をかぶる = 傘をかぶる」といっていましたが、これが変じて「傘をこうむる」となり、やがては「こうもり傘」と呼ばれるようになったという説もあります。

もっともこれはかなりゆがめられた俗説で、実際には、ペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから、こうした呼び方が生まれたようです。

data170625-0255

この「蝙蝠」という漢字。漢字テストで書けと言われても書ける人は少ないでしょうが、その字義を調べてみると、「蝙」の「(扁)は平たい、(虫)は動物」で、「蝠」が「へばり付く動物」の義で、「飛ぶ姿が平たく見え、物にへばりつく」というコウモリの生態から来ています。

「かはほり」、「かはぼり」とも呼ばれていたようで、これは「加波保利」と書きます。元々は、「蚊(カ)、屠(ホフリ)」で、これは、コウモリが蚊を大好物にしている生態からきています。古来、俳句では蚊食鳥(カクイドリ)とも呼ばれ、「かわほり」の呼称とともに夏の季語でもあります。

蚊を食すため、その排泄物には難消化物の蚊の目玉が多く含まれており、それを使った四川料理に「蚊の目玉のスープ」というメニューがあるというもっともらしい話があります。

コウモリのたくさんいる洞窟で蚊を食べるコウモリの排泄物を採取し、それを水で洗うと小さな眼玉だけは、固いキチン質なので消化されずに残ります。それを裏ごしで集めてスープ仕立てとすると、これが風味といいコリコリとした食感といい絶品だというのです。

が、実はこれは同様の製法で作られた蚊の目玉の漢方薬、「夜明砂(ヤメイシャ)」のことではないかといわれています。これを湯に浸して服用しますが、その薬用湯のことを「夜明菜心湯」、「夜明谷精湯」といい、これが四川料理と間違われたのではないか、というのが実のところのようです。

コウモリ(蝙蝠)は、脊椎動物亜門哺乳綱コウモリ目に属する動物の総称で、鳥の形をしていますが、哺乳類に分類されています。ネズミが飛んでいるように見えることから、別名、天鼠(てんそ)、飛鼠(ひそ)とも呼ばれ、全世界に約980種程がいます。その種数は哺乳類全体の4分の1近くを占め、ネズミ目(齧歯類)に次いで大きなグループとなっています。

極地やツンドラ、高山、一部の大洋上の島々を除く世界中の地域に生息していますが、これだけ、世界の至るところに生息できるようになったのには理由があります。

恐竜の栄えた中生代において、飛行する脊椎動物は、恐竜に系統的に近い「翼竜」と恐竜の直系子孫である鳥類がほとんどでした。この鳥類は現在の鳥類とは異なり、諸説ありますが、いわゆる始祖鳥のようなものだったと考えられています。

ところが、中生代の終わりごろに地球に大隕石が衝突したことが原因となり、恐竜とともに翼竜は絶滅し、始祖鳥のような恐竜由来の鳥類も系統が途絶えました。これにより、飛行する脊椎動物という生態系ニッチ(ある生物が生態系の中で占める位置)には幾分か「空き」ができました。

ここに進出する形で哺乳類から進化したのがコウモリ類であるといわれています。コウモリが飛行動物となった時点では、鳥類は既に確固とした生態系での地位を得ていたため、コウモリはその隙間を埋めるような形での生活圏を得ました。鳥類は樹上や空間をテリトリーとするのに対し、哺乳類は地上がその住処です。コウモリはその中間の世界に生息することができ、これがコウモリが世界中に普遍的に存在する理由、というわけです。

data170625-0268

コウモリは南極以外の全大陸に分布し、さらに海洋島にも広く分布しますが、他の哺乳類でこれほど他地域に生息するものはありません。クジラなどを除けば哺乳類のほとんどが、陸上動物であり、世界に広まったのは大陸移動による各大陸の分裂が原因です。

時間的にも空間的にもその広がりが大きく制限されてきたのに対し、コウモリ目は鳥類同様に翼による飛翔能力を持ち、海などによって遮られた場所でも自由に移動できました。哺乳類のように大陸移動による広がりを待たずして全世界に散らばることができたため、これほど多くの種が蔓延することになったわけです。

ところが、コウモリの直系の祖先にあたる動物や、コウモリが飛行能力を獲得する進化の途上過程を示す化石は未だに発見されておらず、そのご先祖様がネズミだったのかリスだったのか、あるいはもっと別のものだったのか、という点は明らかになっていません。

恐らく彼等は樹上生活をする、何等かの小さな哺乳類であったであろう、という推測だけであり、この小動物が前肢に飛膜を発達させることで、樹上間を飛び移るなど、活動範囲を広げていき、最終的に飛行能力を得たと思われます。そういう意味では、ムササビやモモンガのような動物がコウモリの先祖だったのかもしれません。もっとも現在の生物学的分類では、ムササビやモモンガはネズミやリスの仲間ですが。

確認される最古かつ原始的なコウモリは、アメリカ合衆国ワイオミング州の始新世初期(約5200万年前)の地層から発見された化石に見られます。この時期には既に前肢は翼となっており、飛行が可能になっていたことは明白です。ただ、化石から耳の構造を詳細に研究した結果、反響定位、いわゆるレーダーの能力を持っていなかったことが判明し、コウモリはまず飛行能力を得たのちに、反響定位能力を得たことが分かっています。

コウモリは、グライダーのように滑空するムササビやモモンガとは違い、翼をもち、多くの鳥類と同様、羽ばたきながら完全な飛行ができます。鳥類に匹敵するほどの完璧な飛行能力を有する哺乳類はコウモリのみです。前肢が翼として飛行に特化する形に進化していますが、コウモリの翼は鳥類の翼と大きく構造が異なっています。近くでコウモリを見たことがある人はおわかりでしょうが、鳥類の翼は羽毛によって包まれているのに対し、コウモリの翼は飛膜と呼ばれる伸縮性のあるゴムのような膜でできています。

この飛膜はその人差し指以降の指の間から、後肢(後ろ足)の足首までをカバーしており、腕と指を伸ばせば、文字通りコウモリ傘のようになって広がり、腕と指を曲げればこれを簡単に折りたたむことができます。洞窟中で、自分の飛幕にくるまってミノムシのようにぶら下がっているのを見たことがある人も多いでしょう。

実はこれは、コウモリは鳥と異なり、後ろ足は弱く、立つことができないためで、休息時や睡眠をとるときは後ろ足でぶら下がる以外に方法がないためです。ただ、いつも後ろ足でぶら下がっているだけではなく、前足の親指には爪があって、この指でぶら下がることができ、これによって排泄などもできます。また、場合によってはこの指と後ろ足で、地上を這い回ることができます。

data170625-0287

コウモリが超音波を用いたレーダー能力を持っていることは良く知られています。その能力は、前述のとおり反響定位(エコーロケーション)といいます。自分が発した音が何かにぶつかって返ってきたもの(反響)を受信し、その方向と遅れによってぶつかってきたものの位置を知る能力のことです。

各方向からの反響を受信すれば、周囲のものと自分の距離および位置関係を知ることができ、音による感受法でありながら、音を聞くだけの受動的な聴覚よりも、むしろ視覚に近い役割を担っています。コウモリは口から間欠的に超音波の領域の音を発して、それによってまわりの木の枝や、虫の位置を知ります。虫を捕らえる直前には、音を発する頻度が高くなります。

我々人間のような哺乳動物は目に入る光によって、対象が何であるかを知ります。光は伝達速度が速く、到達距離が長く、波長が短いので、素早く遠くから多量の情報を得るには適しています。ところが、光が遠くまで届くのは空気中のことであって、水中では、光は強く水に吸収されるので、100m先も見通せません。また土中ではそもそも光は通りません。

このため、夜や水中など、光が十分に利用できない条件下では、通常の動物は遠くの敵や餌の情報をキャッチできません。しかし、コウモリは音波を使うことで、遠方にいる彼らの情報を得ることができます。

音は水中では空中よりはるかに速く伝達します。空気中での音の伝達速度は340m/s程度ですが、水中では1,500m/s近くに達し、土中ではさらに速くなります。また、波長が短いほうが、跳ね返ってきたときに得られる情報量が多いので、高い音ほど有用であり、人の可聴域以上の音、すなわち超音波が用いられるわけです。

種によって異なりますが、コウモリは主に30kHzから100kHzの高周波の超音波を出し、その精度はかなり高く、ウオクイコウモリのように微細な水面の振動を感知し、水中の魚を捕らえるものまでいます。目の前の獲物だけでなく、次の獲物の位置も先読みしながら最適なルートを飛んでいるといわれています。

コウモリの存在する地域における夜行性の昆虫やカエルなどは、このコウモリの発する超音波をとらえて、見つからないようにする器官を備えているものすらいます。コウモリの餌のひとつであるガの中には、コウモリの発する音を聴くための耳をもち、コウモリの反響定位音をとらえると、羽を閉じてストンと落下するなどの回避行動をとるものがいるといいます。

data170625-0294

日本で一番よく見られるコウモリは「アブラコウモリ」と呼ばれ、体長5cmほどの小さいコウモリです。その重さはわずか10gほどしかなく、その小さな体を活用し、民家の隙間から侵入してきます。暖かな住宅を好んで天井裏などを巣にしてしまうため別名イエコウモリとも呼ばれています。

同じく天井裏などに住むヤモリは「家守」とも書かれるほどで、あまり人間に危害を加えることもないため、それほど毛嫌いされることはありません。ところが、このアブラコウモリはいわゆる害獣として嫌われることも多く、日本のほぼ全域で目撃・被害があります。

基本的に冬は冬眠をし、春から秋が活動期になりますが、特に真夏には活動が活発化になり、繁殖期にあたるこの時期には1度に3匹ほども出産します。雀などに比べれば声は比較的小さく、また夜行性であるため昼間はおとなしくしています。このため、巣があることに気付かない家庭も多く、気がついたら何年も住みついていて100匹以上天井裏にコウモリがいたという事例もあります。

同じ場所に大量の糞をしますから、いつのまにやら天井から糞が染み出してきたり、乾燥した糞が空気中に飛散して感染症を引き起こすといったこともあります。また、コウモリ自体にノミやダニなどが寄生していることが多いので布団などに侵入し二次被害を与える事例も多くあります。コウモリは狂犬病のウイルスを持っている可能性もあります。日本では1956年(昭和31年)以降の狂犬病の発症例はないので、あまり心配はありませんが、用心するにこしたことはありません。

このように人に多くに被害を与え危険な生物と思われがちなコウモリですが、蚊だけでなく、蛾やゴキブリといった虫も餌としており、農家にとっては「益鳥」とみなす人も多いようです。

また鳥獣保護法により保護されており、無許可での殺処理が禁止されています。このため、その駆除のためには、生息範囲や侵入口などを十分に調べた後に追い出しを行い、二度とコウモリが戻って来ることができなくなるように侵入口を塞ぐ施工をすることが基本です。それゆえ、こうした狭い出入り口を見つけ、駆除にあたるのが得意なコウモリ駆除の専門業者、という様態が成立し、各地に多数存在します。

data170625-0296

日本では、このアブラコウモリを含めて約35種のコウモリが確認されています。移入種を除く約100種の哺乳類のうち、約3分の1に当たり、約4分の1に当たるネズミ目24種を抑えて、最多の種数を擁しています。また、近年は琉球列島の島々に固有種が発見されているとのことです。

この中にはアブラコウモリのような、嫌われ者もいるわけですが、個々の種についてみれば、個体数が少ないと判定されているものもあり、多くの種がレッドデータブック入りとなっています。

特に、森林性のコウモリについては、その生活の場である自然の広葉樹林と、それ以上に、住みかとなる樹洞ができるような巨木が極めて減少しており、棲息環境そのものが破壊されつつあるようです。洞穴に生活するものは、集団越冬の場所などが天然記念物となっている場所もあります。

ただ、日本ではコウモリを専門とする研究者が少なく、その実態が必ずしも明らかになっていないようです。彼らの生活そのものも、未だに謎が多い部分が多いそうです。ユビナガコウモリという集団繁殖する種などについては、もしかしたら季節的に大きな移動を行っているのではないか、といわれていますが、具体的な習性については、現在研究が進められつつある段階といいます。

コウモリの文化的な面をみていくと、日本では、アブラコウモリのように嫌がられる種もいますが、歴史的にコウモリを嫌忌する、といった伝統はないようです。中国では、コウモリ(蝙蝠)の「蝠」の字が「福」に通ずることから、幸福を招く縁起物とされ、また「蝙蝠」 (biānfú) の音が「福が偏り来る」を意味する「偏福」 (piānfú) に通じるため、幸運の象徴とされています

百年以上生きたネズミがコウモリになるという伝説もあり、長寿のシンボルとされており、このため、日本もこうした中国の影響をうけてきたようです。西洋の影響を受ける明治中期ごろまでは日本でもその影響で縁起の良い動物とされており、日本石油(現:JXエネルギー)では1980年代初頭まで商標として用いられていました。

また福山城のある「蝙蝠山」を由緒とする広島県福山市の市章はコウモリをあしらったものであり、長崎のカステラ店福砂屋などはコウモリを商標としています。さらに、使用例は少ないようですが、コウモリの家紋も存在します。

キューバでも蝙蝠を家紋とした例があったようで、絶滅した先住民タイノス(タイノ族)族はコウモリが健康、富、家族の団結などをもたらすと信じており、同地で創業した世界的ラム酒バカルディのロゴマークに採用されています。

data170625-0298

昭和40年代に流行った、アニメの黄金バットや、アメリカンコミックが発祥のバットマンのように正義のヒーローのモチーフとして扱われることもあります。昔の仮面ライダーでは、蝙蝠男という悪役がいましたが、平成版の仮面ライダーシリーズにおいてはコウモリを模したヒーロー、「仮面ライダーナイト」、「仮面ライダーキバ」などが登場しています。

このように、日本人にとってコウモリとはそれほど悪いイメージがある動物ではないようです。

ところが、欧米、とくにヨーロッパでは嫌われものであることが多いようです。これは、コウモリの中には吸血種もいることから、この部分だけがクローズアップされたためです。吸血鬼の眷属、あるいはその化身として描かれるようになったコウモリですが、その中でも象徴的に描かれるのが、映画や舞台にもなった吸血鬼ドラキュラです。

怪力無双、変幻自在、神出鬼没で、コウモリだけでなく、ネズミ、フクロウ、ガやキツネ、オオカミなどを操り、嵐や雷を呼び、壁をトカゲのように這うことができる怪物です。オールバックの髪型で夜会服にマントを羽織っており、その鋭い牙で美女の首に噛みついて血をすするその姿は、吸血コウモリの姿を模したものと言われています。

しかし、実際に他の動物の血を吸う種(チスイコウモリ)はごくわずかです。たいていは植物(主に果実)や虫などの小動物を食べます。そもそも吸血性のコウモリは中央アメリカから南アメリカにかけてのみ分布しており、ヨーロッパには生息していません。

こうした吸血コウモリの情報がヨーロッパに伝わったのも、ヨーロッパ人の新大陸進出後のことで、コウモリが悪者扱いされるようになったのも、比較的最近のことといえます。

data170625-0300

このほか、天使が背中に白い鳥の翼を持つとされるのに対し、いわゆる「悪魔」は背中にコウモリの翼を生やしている姿で描かれることが多いようです。肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはヤギのような角を生やし、矢印みたいに鋭く尖った尻尾を持ちます。そしてとがった爪の付いた黒い翼は悪魔のシンボルであり、その特徴のほとんどがコウモリを模したものとわかります。

その昔、「グレムリン」という妖精?の映画がヒットしましたが、こちらも現代版の悪魔といえ、そのモデルはおそらくコウモリではないでしょうか。

一方、コウモリは日本ではあまり悪者のイメージがありません。が、「強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者」の意で、「鳥無き里の蝙蝠」という諺があります。織田信長はこれをもじって、四国を統一した土佐の大名、長宗我部元親を「鳥無き島の蝙蝠」と呼びました。

これは信長が初めて例えたのではなく、平安時代の歌からの引用です。平安末期の歌人和泉式部の歌には、コウモリについて歌ったものが多く、その中に「人も無く 鳥も無からん 島にては このカハホリ(蝙蝠)も 君をたづねん」という歌があり、これからとったもののようです。人も訪れず、鳥もいないこの島では、君を訪れるのはコウモリぐらいのものだろう、といった意味でしょう。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げました。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。豊臣政権時の天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かいました。

しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死ましした。信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにしたといいます。信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量がありましたが、愛息の死後はそれまでの度量を失い、家中を混乱させたままこの世を去りました。

信長が、「鳥無き島の蝙蝠」に例えたとおり、このように晩年の元親のイメージはあまりいいものではありません。「鳥無き里の蝙蝠」の諺があまり良い意味に使われないのはこのことも関係があるようです。

data170625-0308

このほか、コウモリを悪者にした逸話に、イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」というのがあります。

昔々、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていました。 その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣の一族が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です。」と言いました。一方、鳥の一族が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です。」と言いました。

その後、鳥と獣が和解したことで戦争が終わりましたが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をしたコウモリは、最後には鳥からも獣からも嫌われ仲間はずれにされてしまいます。双方から追いやられて居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、夜だけ飛んでくるようになった、というものです。

この寓話からは、いつも八方美人で、何度も人にウソとついては世を渡っている輩は、やがては誰からも信用されなくなる、という解釈ができます。

秘密保護法やら共謀罪やらを、その都度、都合のいいことを言って人を騙し、無理やり自分の都合の良い理屈を押し通してきた、どこかの国の政治政党と似ており、こうした連中はやがて信用されなくなるに違いありません。

が、別の見方では、獣と鳥の戦争に巻き込まれなかったコウモリ一族は、その後洞窟の中で安泰に暮らすことができるようになったわけです。これは、状況に合わせて豹変する輩は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおす、という解釈もできるわけで、悔しいけれども、今の政治状況に似ていなくもありません。

その洞窟が、ニッポンという名の狭い国でないことを祈るばかりですが…

片や、オーストラリアにも良く似たストーリーの「太陽の消えたとき」というおとぎ話が伝わっており、こちらの話の結末は少し違っています。

この話では、カンガルーを大将とする動物たちと、エミューを大将とする鳥たちが大戦争を繰り広げます。動物からも鳥からも仲間扱いされていなかったコウモリは、どちらかの勝利に貢献すれば仲間にしてもらえると考えました。最初は鳥が優勢だったので、コウモリは得意のブーメランを武器にして鳥の味方をしました。

ところが、しばらくすると動物が盛り返したので、コウモリは動物側に寝返ります。やがてカンガルーとエミューの一騎討ちになりますがが、お互いに争いが馬鹿らしくなっており、仲直りしようということになります。コウモリは勝ち負けがなくなったことにがっかりして洞窟に帰っていきました。

こうして平和は戻りましたが、今度は太陽が昇らなくなるという大事件が起こります。太陽は争いを繰り広げる鳥と動物に呆れ果てて、空に顔を出すのをやめてしまったのです。動物と鳥たちは太陽が帰ってくるよう知恵を絞りましたが、誰一人としてその方法が思いつきませんでした。

しばらくしてトカゲが、コウモリに頼めば何とかしてくれるのではないかと提案します。カンガルーとエミューからの懇願を受けたコウモリが、地平線に向かって3度ブーメランを投げると、太陽は再び顔を出しました。そして、それ以来動物と鳥は恩を忘れず、朝日の出る頃にコウモリを見かけても、いじめたりしないようになった、とのことです。

我が国にも、四方の大国にブーメランを投げ、世界中の人々の信頼を獲得できるコウモリのような指導者が現れてくれるのを祈るばかりです。

data170625-0311

ローマのおはなし

2016-8941

2月になりました。

旧暦2月は如月(きさらぎ)であり、その語源は寒さのために、さらに衣を着ることから「着更着」「衣更着」から転じたという説があります。また「時気(寒気)更に来る」という言葉を略して「気更来」と言うようになったという説もあるようです。

一方、英語のFebruaryの語源は、古代ローマにおいて、毎年2月に執り行われていた慰霊祭の主神、フェブライウス(Februarius)に由来します。これが2月を意味するラテン語フェブルアーリア (Februalia)になりました。

この慰霊祭は、古代ローマの王ヌマ・ポンピリウスが、サビニ戦争の戦死者を慰霊し、戦争の罪を清める為に始めたものだといいます。

ポンピリウスは、王政ローマにおける第2代の王とされる人物です。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、43年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされています。しかし、紀元前700年ころを生きたとされる人であり、この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられているようです。

その先代の初代王ロムルスにまで遡った時代はさらに神話の世界の話になるようですが、一般に伝えられているローマ建国までの伝説は、次のようなものです。

現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南にはトロイアという国がありました。ここに住むトロイア人は、ギリシャのペロポネソス半島を拠点として勢力を伸ばしてきたアカイア人との戦いに敗れ、ギリシャの島々やカルタゴを転々とした後、イタリア半島のラティウムに上陸しました。

ラティウムはイタリア中央西部地方を指し、ここに町が建設されました。後年巨大な帝国の首都に発展していくことになる街です。また、トロイア人たちを迫害したこのアカイア人はいわゆる古代ギリシャを創ったとされるギリシャ人のルーツです。

敗走したトロイア人たちの長はアイネイアースといい、ギリシア神話およびローマ神話では半神の英雄として描かれる人物です。従ってこのあたりの話はもう夢の世界の話と思ったほうがいいかもしれません。

とまれ、アイネイアースは、逃亡先のラティウムの地で現地の王の娘を妻として与えられ、国を大きくします。彼の死後は息子のアスカニオスが王位を継ぎました。さらに時代が下り、あるときの王の息子をアムリウスといいました。アムリウスにはヌミトルという兄がいましたが、この兄から王位を奪うことを企みます。

こうして父王の死後、ヌミトルは本来継ぐはずであった王位を弟アムリウスに簒奪され、さらに子孫による王位の奪還を防ぐためアムリウスによって息子も殺害されました。また、もう一人の娘レア・シルウィアは火床をつかさどる女神ウェスタに仕える巫女となりました。

この巫女は、「ウェスタの巫女」と呼ばれ、処女であることが義務付けられていました。が、ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わりました。そしてシルウィアは双子を産み落とします。

これを知った叔父のアムリウスは怒り、この双子を川に流しました。その後双子は狼に助けられ、続いて羊飼いに育てられ、ロームルスとレムスと名づけられました。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力します。

兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとしますが、このときも兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺されます。そしてこの最後まで生き残ったロームルスこそが、伝説上の王政ローマ建国の初代王ということになります。

2016-8943

やがてロームルスはこの丘、パラティヌス築かれた町を大きくし、都市レベルに育てあげていきます。これがすなわちローマです。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市領域とする巨大な国家へと成長していくことになります。

ローマ建国伝説によると、ロームルスの即位は紀元前753年4月21日のことであり、パラティヌスの丘はティベリス川(テヴェレ川)の畔にあったとされます。ティベリス川は、現在もイタリア中部を南北に流れ、地中海に注ぐ川です。

しかし、この出来立ての古代ローマの人口は数千人にすぎず、また当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村でした。建国当時はロームルスの手腕もあり、平和な国でした。しかし、やがて隣の部族と争いが起きます。あるとき、ローマ人たちは隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、彼女たちを捕まえてそのまま帰しませんでした

実は、ローマがロームルスによって建国されたばかりのころ、最初の世代は女性が非常に限られていました。子孫を残し国を維持するためには多数の未婚女性が必要であり、このためローマ人はそれを近隣国に多く住み勇敢な部族であったサビニ人に求めました。しかし、交渉は不首尾に終わりました。

このサビニ人とは、ローマの北東にあるティベリス川一帯に住んでいた古代の部族です。城壁のない村々に住んでいて、敵からの侵略を受ければすぐに跳ね返すことを信条としていました。好戦的でプライドが高く、恐れることを知らない民族でした。

サビニ人は自らの起源を、古代ギリシア時代のペロポネソス半島南部にあった都市国家(ポリス)スパルティからの移民、スパルタであるとしていました。このスパルタは他のギリシャ諸都市とは異なる軍事制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られています。サビニ人はその勇猛なスパルタの子孫とされるわけです。

こうした好戦的なサビニ人たちにローマ人たちはあるとき、楽しい祭りがあるから遊びに来いよ、と誘いをかけました。戦いに明け暮れる彼らは、これは良い息抜きになるぞと、この誘いに乗じ、大勢の若い未婚女性を伴ってティベリスにやってきました。そしてローマ人たちはサビニの男たちが油断している隙に女たちだけを監禁しました。

こうして不法にローマに拉致されたサビニ人女性たちはローマ人の妻になることを強要され、ローマ人の子を産むこととなりました。そして、ローマは自国を維持発展させるための次世代を得ることに成功しました。

ところが、大勢の若い女性を奪われたサビニ族も黙ってはいませんでした。好戦的で恐れを知らない彼らは、姦計にはめられたとわかると報復は当然だと考えました。

しかし、奪われた女性たちは事実上の人質として縛られているわけです。囚われの身となった女性たちの身の上を恐れたため、とりあえず鉾を治め、ローマに対して女性たちの身柄の解放と謝罪を求める使者を派遣することにします。しかし要求は拒否されただけでなく、やがて女性たちが貞操を奪われたという報が入ってきます。

2016-8947

当然、戦となりました。娘をローマ人に誘拐婚させられ、家庭や生活を崩壊させられた親族たちは、ローマと刃を交え、4度もの激しい戦争が起こりました。しかし、最後の戦いでサビニ人たちは追い詰められ、絶対絶命の危機が訪れました。このとき、立ち上がったのが実は略奪された娘たちでした。

彼女らはこのころまでには、捕虜とはいえ既に敵の男たちの妻でした。子供が生まれた者もおり、妻として母としての扱いを受けるようになっており、決して虐げられていたというわけでもありませんでした。

このため、両者に対して争いをやめて欲しいと懇願するに至ります。このときのサビニ人の王はタティウスといいました。タティウスはこの女性たちよる和平の希望を承諾し、ローマ人たちと和睦をすることにします。これにロームルスも応え、彼のすすめによってサビニ人たちは部族をあげてローマに移住することになりました。

こうしてローマはサビニ人を併合するわけでもなく、平和裏に二つの国は一つになりました。サビニ人の自由民にはローマ人同様の市民権が与えられ、タティウス王はロームルスと共同して統治にあたるようになります。やがてローマはさらに周辺諸国に勢力を伸ばし、領土の拡張を続けるようになっていきます。

タティウス王はこののちすぐに別の民族との戦いで戦死し、その後のローマの指揮はロームルスがとるようになりました。しかし紀元前715年のある日、ロームルス王が閲兵中、突然、目の前も見えないほどの雷雨が襲ってきました。

雨と雷が去ったのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもありませんでした。八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされます。しかし、実際には天に上り、神々の一人に加えられたといわれます。

こうして次の王が選ばれることになりましたが、地上界ではロームルスは事故死ではなく親族の誰かが暗殺したという噂が飛び交うようになりました。そして、誰が王に当選しても疑惑を生みそうな状況となりました。王には息子がいたにもかかわらず、ローマ市民は彼を王にしようとは言い出しませんでした。

このため、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことになりました。そして市民が選んだのが賢者として知られるサビニ人のヌマ・ポンピリウスでした。ローマに住んでさえもいなかったヌマはこれを固辞しましたが、元老院の長老たちから何度も頼まれるとそれ以上は断れませんでした。

このヌマは温和な人格者だったとされます。このため、彼が統治した時代のローマには戦争は起こらなかったといわれています。また、上述のように先代のロームルスが起こした数々の戦争で亡くなった多くの人々の慰霊祭を開き、その霊を慰めました。

さらに国内の改革断行し、ローマ暦を改めたのもヌマです。農業を推奨し、その他、職業別の組合を作りました。また、宗教改革を行い、神官を決めましたが、これがのちの世に伝えられあるローマ神話の骨格となりました。

ローマ神話における主な神の名が決まったのはこのヌマの時代です。そしてそれらの神々の命名においては、ヌマの祖先サビニ人の信仰が参考にされたといわれています。

しかしやがてそのヌマも生涯を終えます。その死は、彼の治世と同じようにおだやかなものであったといわれます。その後もローマ帝国は繁栄を続け、歴代の王が変わるたびにその領土を増やしていきました。イタリア半島に誕生した小さな都市国家は、その後およそ250年の間に地中海全域に勢力を及ぼす一大領域国家へと発展していきました。

2016-8957

ところが、その帝政ローマ帝国もいよいよ最後の時を迎えます。紀元前500年ごろ、第7代の、そして最後の王はタルクィニウス・スペルブスという人物でした。のちに「傲慢王(スペルブス)」と呼ばれるこの新王は前王の葬儀を禁じ、先王派の議員を全員殺しました。

即位にあたっては、市民集会の選出も、元老院の承認もなかったといい、その後の政治も元老院や市民集会にはかることなく自分で決めたため、当然、市民の評判はよくありませんでした。しかしこの王は策略と戦争は得意で、ローマはさらに領土を広げました。やがて王は、ローマよりずっと強大だったエトルリアとの同盟を結びます。

エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。紀元前4世紀ごろからローマの勢力が強くなると、周縁の都市から順に少しずつローマに併合され、最終的には完全にローマに同化しました。

これでローマの近くには強国がなくなったわけですが、結果としてエトルリア人がローマ中を闊歩するようになり、ローマはエトルリアの属国に成り果てたと考える市民も多くなりました。それもそのはずで、第5代からすべての王がエトルリア出身だったのです。

やがて市民の怒りが爆発する日が来ます。あるとき、王の息子セクトゥスが、親類の妻ルクレーティアに横恋慕し、寝室に忍び込んで彼女をわがものにしました。ルクレーティアは親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白し、男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶ちました。

夫の友人でこの現場を目撃したルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、王一族は追放すべきだと演説を行い、市民はそれに従いました。戦の途中だった王タルクィニウスは事態の急変を知り、急ぎローマに戻りますが、門はすべて閉じられた後でした。仕方なく王は従う兵だけを連れ、エトルリアに去っていっきました。

王の3人の息子のうち2人は王とともに去りましたが、事件の発端となったセクトゥスは別に逃げ、のちに違う事件がもとで殺害されました。しかし、王妃トゥーリアは別に逃げて無事でした。

こうしてタルクィニウスの追放によってついに王政ローマは終わりを告げました。紀元前509年のことです。王政への反省からこの年からは共和政がとられるようになり、2名の執政官が政治を司ることになります。共和政ローマの始まりです。最初の執政官には、演説を行ったブルトゥスと、自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出されました。

コラティヌスらによって築かれた共和政ローマ帝国は、この紀元前509年の王政打倒から、その後紀元前27年に再び帝政が敷かれるようになるまで500年以上にわたって続くことになります。

以後、共和政ローマ帝国は、最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とするようになります。これらの地域はシルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦(だいしん)の名で登場します。

この共和政時代のローマにおいては、当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求するに至りました。いわゆる「身分闘争」の開始であり、貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利が擁護されるようになりました。

王を追放して得られたこの自由により、ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれるようになり、他国の、特に東方の専制君主に対して強い拒絶反応を示すようになっていきました。

2016-8960

一方このころ、イタリアの東方にあるギリシャではアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っていました。言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体した。ところが、政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返されました。

紀元前5世紀にペルシア帝国が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結びました。そしてギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させるに至ります。

しかし、大王の死後、ギリシャ北部に勃興したマケドニアを支配したアンティゴノス朝が台頭。マケドニア王国ができ、はじめてギリシャは他国に征服されました。これに対して、ギリシャ人たちは共和政ローマと手を結びました。そして、マケドニアを滅ぼしますが、マケドニアの没落後は逆にローマと対決するようになります。

そして紀元前146年にローマ軍に大敗して、ギリシャはローマの属国になります。ローマから派遣された総督は著しい収奪を行ったため、地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こりました。またギリシャの富の多くはローマへ流れました。

こうしてギリシャをベースに肥え太ったローマの少数の有力者のうち、とくに政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持つようになります。そしてローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになりました。一方では彼らと癒着した軍部の中から軍閥が登場し、その中でも突出したのが、ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人です。

やがて3人は「三頭政治」を結成し、ローマでは軍事政権が成立するようになります。しかし、クラッススの死後、残る2人の間で内戦が起き、最後にカエサルが生き残りました。こうしてカエサルは紀元前45年に終身独裁官となりましたが、王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺されました。

カエサルの死後は、共和政は急速に衰えを見せ、カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌスの独裁制の様をみせるようになっていきます。オクタウィアヌスは度重なる内戦で政敵を破り、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得ました。いわゆる「皇帝」です。

こうしてアウグストゥスこと、オクタウィアヌスの皇帝就任によってローマでは事実上の帝政が再び始まりました。この王朝はユリウス・クラウディウス朝と呼ばれ、その帝政はその後ユリウス・クラウディウス家の世襲で続いていくことになります。

その後世襲の弊害により、カリグラやネロといった無軌道な皇帝が登場することもありましたが、その都度内乱が起こり、彼らは粛清されるという歴史が繰り返されていきます。

帝政末期のころまでには不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになりますが、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いていきました。西暦43年にはこのときのクラウディウス帝によってグレートブリテン島(現イギリス本土)の南部が占領されているほどです。

とくに紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。この5人の皇帝を五賢帝といいます。

2016-8999

アウグストゥスに始まるローマにおけるこの2度目の帝政の時代は長く、400年にわたって続きました。しかし、こうしたいわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事です。

そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持つようになります。このため反乱が増加し皇帝の進退をも左右するようになり、帝政最末期には約50年間に26人が皇帝位に就きました。

こうした混乱の中、395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させました。いわゆる西ローマ帝国と東ローマ帝国への分裂です。

何人もの皇帝がかつてそうしたのと同様に、当初はあくまでも1つの帝国を分割統治するつもりでしたが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはありませんでした。なお、こうして395年にローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属するようになりました。

「西ローマ帝国」においては、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていきました。しかしその後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、西ローマ帝国皇帝は476年にゲルマン人によって皇位を追われ、滅亡しました。

ここに「神聖ローマ帝国」と呼ばれる新たな帝権が誕生し、1512年以降1806年まで継続しました。この国の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」であり、範囲は今とかなり違いますが、これが事実上現在のドイツの大元の国家になります。

一方、東ローマ帝国は、395年以降、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続きました。が、1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落しました。最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、ここに東ローマ帝国も滅亡しました。

15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都としました。オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになります。

17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及びますが、こちらが現在のトルコ共和国の前身、ということになります。こちらも現在のトルコとは比べものにならないほど広範囲ですが。

さて、以上、Februaryの語源をひも解いていたら、なんと、紀元前700年前から17世紀までの2300年にわたるローマの歴史を駆け足でのぞくことになってしまいました。が、無論、こんなブログ一本で片づけられるほど歴史とは単純なものではありません。

また、日本の歴史すら理解していないのに、他国の歴史など勝手にまとめていいのか、といわれてしまいそうですが、何かにつけ、おおまかに知識を持っているのは大事なことだと、開き直ろうかと思う次第。

今年もこんな感じでまたブログを書いていくことになるのかもしれませんが、そんなお話にいつも付き合っていただき、ありがとうございます。

さて、2月です。今年もあと11ヵ月を切りました。再び一年が風のように過ぎていきそうですが、そこはそれ。風を切って逆風の中に飛び出していくことにしましょう。

2016-9021