シバとソロモン

2015-9354私は、子供のころから音楽の分野ではまるで才能がなく、学校の音楽の時間で何かを演奏するにしても覚えが悪く、楽器というものが大の苦手でした。

観賞するほうにおいても積極的に音楽を聴く、ということはあまり好まず、とくに重厚なクラッシック、あるいは洋モノ、とくに派手なロック、といった類のものはからっきしダメで、同じ年頃の友人たちがそういうものにはまり込んでいるのを見ても、何が面白いのだろう、といつも思っていました。

強いていえば、その当時フォークソングと言われていたようなポピュラーミュージックを勉強の合間に聴くぐらいで、あとはBGMとしてイージー・リスニングといわれるようなものをたしなむくらいだったでしょうか。

このイージー・リスニングとは、くつろいで楽しめる軽音楽の意味で、ムード音楽ともいえる分野ですが、今も続くラジオ番組、JET STREAMは当時もその代名詞ともいえるようなものでした。

深夜の時間帯に穏やかで美しい曲を流し、世界各地をロマンチックなナレーションで紹介するこの番組の一番最初のパーソナリティは、城達也さんという人でした。1967年7月に始まったこの番組を27年間も続け、この間7387回もこの番組を司会しています。

1994年2月に食道癌に罹っていることが発覚した後も治療のかたわらこの番組に登場し続けましたが、「自分の納得できる声が出せない」と同年12月30日の放送を最後にパーソナリティを降板。それから数か月を待たず、翌年2月25日に亡くなりました。わずか63歳であり、あの渋い声がもう聞けないのかと、大変残念です。

「JET STREAM」のナレーターをするにあたり、機長の役に入り込むために、必ず、スーツを着てスタジオの照明を暗くして臨んでいたといいますが、これは航空会社における定期運送用操縦士の制服はダブルのスーツスタイルであったこと、また夜間飛行の際には、旅客機のコックピットは当然真っ暗であったためです。

こうした機長としてのイメージを壊されないようにテレビ出演は一切断り続けるなど、仕事に対して大変真摯なプロ意識を持っていた方だったようです。

この「JET STREAM」でこの当時よく流れていたのが、ポールモーリアや、レイモン・ルフェーヴルといった指揮者によるグランド・オーケストラの曲です。とりわけ私はルフェーヴルが好きで、音楽をあまりたしなまない私としてはめずらしく、LPまで買い込んでよく聞いていました。

ポール・モーリアの「ラブ・サウンドの王様」に対して、「ラブ・サウンドのシャルマン」と呼ばれていたようで、シャルマンとはフランス語で「魅力的」という意味ですが、ここでの意味は「高級なラブ・サウンド」ということだったでしょう。

とくにバイオリンなどの高音が印象的なオーケストラですが、ルフェーヴル自身はピアニスト出身で、パリ音楽院を卒業後、フランク・プゥルセル楽団でプロピアニストとしての経験を積みました。

1956年に「ミス・エジプト」に選ばれたほどの美貌を持つ美人歌手の「ダリダ」のデビュー曲「バンビーノ」の編曲と伴奏指揮を担当。これが、レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラとしてのスタートでした。

その後、1958年に「雨の降る日」、1968年の「ばら色の心」「ラ・ラ・ラ」などが相次いで全米ヒットチャートにランクインし、注目を集めました。

映画音楽も手がけ、サウンドトラック盤を数多く発表していますが、日本では1969年にシングル・カットされた「シバの女王」がロングヒットとなったことから知名度が一気に上昇、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、カラベリとともにイージー・リスニング全盛期を迎える立役者の一人となりました。

1972年に初来日して以降、日本公演は11度に亘って開催され、その間の7公演でライヴ・アルバムが制作されていますが、私が10代のころに聞いたのはそのうちのどれか複数でしょう。

引退するまで約650曲を録音したと言われており、中でも、クラシックの曲をイージー・リスニング風にアレンジした「ポップ・クラシカル・シリーズ」は、彼の十八番といわれました。

さすがにもう亡くなっているだろうな、と思いましたが、調べてみるとやはり2008年6月27日、パリ郊外で肝機能不全により半年強の入院生活を経て亡くなられています。こちらは78歳でした。

私も彼の曲の中ではとく「シバの女王」が好きでしたが、この楽団のオリジナル曲なのかなと思ったら、もとはフランスのシンガーソングライター、ミッシェル・ローランという人が創ったシャンソン曲だったようです。

日本でのこの曲の人気は無論、このルフェーヴル楽団がつくったものですが、その人気上昇のためにラジオが果たした役割は大きく、とくにTBSラジオの深夜番組「白石冬美・野沢那智のパック・イン・ミュージック」で長くエンディングテーマとして使用されたことも多くの人に親しまれた要因でしょう。

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この曲のタイトルにもある、「シバの女王」というのは、実在の人物だったようです。その昔、といっても紀元前1000年前にも遡る時代に、アラビア半島南部に存在していた国家があったとされ、シバの女王はこの国の支配者でした。

どんな人物であったのかについてはほとんど記録がないようですが、ただ、ヘブライの神話として残されたものの中には、エルサレムのソロモン王とシバの女王からネブカドネザルという王子が生まれた、という記述が出てくるそうです。

エルサレムというのは、ご存知のとおり現在のイスラエルの首都とされる街です。が、イスラエルは同国の首都と主張しているものの、国際連合を初めとして多くの国家はこれを認めていません。

大戦後に、ここに住んでいたパレスチナ人などを排除し、アメリカの肝いりで建国されたイスラエルでは、その後組織された議会により、一方的にエルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとしました。

1980年に国連総会はこのイスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1で決議(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など)しましたが、今に至るまで、イスラエルはエルサレムが首都と宣言していながら、現在も多くの国は認めていないのはこのためです。現在もエルサレムに置かれている大使館・領事館はひとつもありません。

このイスラエルにおいては、古代にイスラエル王国という国があり、この国を治めていた王ダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバと不義の関係を結び、2人目の子として生まれたのがのちのソロモン王です。彼は父の死後、兄など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となりました。

ソロモンはエジプトのファラオの娘をめとり、エルサレムの北西約10kmに位置するギブオンという町で神に対して盛大なささげものをしましたが、ここでその神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンはそこで「知恵」を求めたといいます。

神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束したといい、これ以後、ソロモンは知恵者として名を馳せるようになりました。ソロモンといえば「知恵」を示す代名詞ともいわれるほどその名は広く知られるようになりましたが、その知識を用いて国を隆盛させるとともにその名に恥じぬほどの善政を行いました。

ソロモンが子供のことで争う2人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、この話はのちに日本にも伝わり、江戸時代には、いわゆる「大岡裁き」の話などにも取り込まれました。

この話はご存知の方も多いでしょう。ある時、町奉行である大岡越前の守のところに、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきて仲裁を願い出た、という話です。二人の女は互いに「自分こそこの子の本当の母親だ」といって引かないのをみた越前守は、二人にその子の腕をそれぞれ持たせ、引き合うように命じます。

「力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」という越前守の言葉に従って、女たちは子供の腕をおもいきり引っぱりはじめましたが、子供が痛がって泣くので、一方の女が思わず手を放しました。

勝った女は喜んで子を連れてゆこうとしますが、そこで越前守は「待て。その子は手を放した女のものである」と言います。勝った女は納得できず、「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」とはげしく抗議しました。

これに対して、越前守は、「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」。

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とまあこういう話なのですが、この話の大元はソロモン王がその昔に行った行為をパクッたものだ、というわけです。

が、実際のソロモン王がそんな民間人の裁判までやっていたとは思えず、おそらくこの話は後年の創作でしょう。実際にはもっと王様らしい政治的なことをやっていたわけで、例えば外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行いました。

このほか、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化しました。さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげました。

その結果、イスラエル王国の領土はユーフラテス川からガザにまでおよび、誰もが安心して暮らすことができるようになり、この時点でソロモンは初めてエルサレム神殿を築きました。

やがてソロモンの知恵の深さと浩瀚な知識は周辺諸国にも知られるようになり、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったといい、レバノンの南西部、地中海に面する国、ツロの王とは深い親交を結び、またアフリカのエチオピアの女王なども、ソロモンの英知を試すため、わざわざみずからやってきたといいます。

このように、ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしましたが、彼の野心的な事業を遂行するためには資金が必要です。このため重税と賦役を民衆に課すようになり、またソロモンが自分の出身部族であるユダ族を優遇したことなどから、その後、ソロモン王の支持者と反支持者の対立が拡大していきました。

やがてソロモン王も老いていきましたがその晩年、民衆への負担が激増していく中で享楽に耽ったため財政が悪化。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことなでユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発し、そうした中でソロモン王は没しました。

死後、ソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがこの王の死とともに一気に噴出して、イスラエルは南北に分裂、対立していくことになります。

その後もこの地域一帯は分裂や併合が相次ぎ、次々といろんな国ができては消え、対立しては血を流して現在に至るわけですが、その歴史は極めて複雑で日本人には理解しがたく、無論ひとことで語ることはできません。が、その源流はこのソロモン王が統治した、古代イスラエル王国にあることだけは間違いなさそうです。

このソロモン王とシバの女王の出会いは、女王自らがソロモン国を訪問したときとされます。ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するためにわざわざ遠方からソロモン王の元を訪れたとされ、その来訪時には大勢の随員を伴い、大量の財宝を寄贈したとされます。

新約聖書にもこれに関する記述があり、ここには「地の果て」からやって来た南の女王(Queen of the South)という表現がみられるそうです。

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このシバ国がどこにあったのかについては、上述のようにアラビア半島南部のイエメンあたりであったとする説以外に、アフリカのエチオピアという説もあるようです。が、両説ともこれを裏付ける考古学的発見は未だ皆無だといい、謎の多い王国です。

ただ、ソロモン王との間に子をなしたことがわかっていることから、シバの女王による統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃と推定されています。

この二人の話からすぐに連想されるのは、後年のエジプト女王、クレオパトラとローマの独裁官カエサルとのラブロマンスです。

この二人もよく歴史上の奇蹟としてよく引き合いに出されるわけですが、シバの女王とソロモン王のロマンスもまた謎に満ちており、それだけに逆に想像力を掻き立てるのか、何度も小説や絵画などの芸術作品に取り上げられています。

映画化もされており、最近では、1995年の”Solomon & Sheba”などがあり、これは日本では、「クイーン・オブ・エジプト」という名前で公開されたものです。この映画でのシバの女王役は、2002年公開の「007 ダイ・アナザー・デイ」でボンドガールを務めたハル・ベリーでした。

1959年にも”Solomon and Sheba”、というアメリカ映画が創られており、これは「ソロモンとシバの女王」という邦題で、ソロモン王役はユル・ブリンナーだったそうです。シバ女王役は、ジーナ・ロロブリジーダという人で、あまり日本には馴染のない女優さんですが、イタリア人です。

1947年にミス・イタリアの3位に入賞したことをきっかけに芸能界入りし、ハリウッドデビューし、世界的な人気を博したといい、来日もしています。が、知っている人がいるとするとかなりの年配の方でしょう。ユル・ブリンナーすら知らない世代が増えています。

このほか、音楽でもやはりこのシバの女王をイメージして作られたものも多く、前述のミシェル・ローランのシャンソンのほか、古くは、バロック期を代表する作曲家の一人である、ヘンデル(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)が作曲した者の仲にも、「ソロモン」というものがあり、この中に「シバの女王の入城」というフレーズがあります(1749年発表)。

このほか、ユダヤ人作曲家のゴルドマルク・カーロイが作曲した歌劇「サバの女王」は名作と言われ、1875年にウィーンで初演されると好評を博し、1938年までウィーン国立歌劇場のレパートリーに残り続けたといいます。

また、バレエ音楽にもイタリア人作曲家のオットリーノ・レスピーギの「シバの女王ベルキス(1930-31年)」というのがあり、女子フィギュアスケートシングルにおいて、アメリカのキミー・マイズナー選手がこの曲をフリープログラムで使って演技しました。

マイズナーは2005-2006年のシーズンに行われたトリノオリンピックではこの曲で6位入賞しており、翌月開催された世界選手権では優勝を果たしています。

しかし、おそらく日本人にとって一番馴染が深いのはやはり冒頭で述べたレーモン・ルフェーブルの、「シバの女王」でしょう。そのシングルは発売と同時に、オリコンシングルチャートに110週に渡って100位以内にランクイン、同期間のみで約32万枚を越えるレコードセールスを記録したといいます。

最近、この曲をむしょうに聞きたくなり、You Tubeなどで探して聴いているのですが、その優雅で哀しげな曲に浸っていると、きらびやかな衣装をまとったシバの女王がソロモン王のところを訪れ、金や宝石などを献上しながら、拝謁する様子などが目に浮かんでくるようです。

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白乳香などの香料なども献上していたという記録もあるようです。この「乳香」というのは、樹木から分泌される樹脂のことで、この樹木は、「ボスウェリア」といいます。オマーンなどの南アラビア、ソマリアなどの東アフリカ、インドなどにしか自生していません。

その樹皮に傷をつけると樹脂が分泌され、空気に触れると固化します。次々とその傷から出て乳白色~橙色の涙滴状の塊となったものを採集しますが、「乳香」の名は、その乳白色の色に由来します。

古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし、または香水などに使用する香料の原料として利用してきており、香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ、鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされます。

乳香は紀元前40世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころにはすでに焚いて香として利用されていたと推定されています。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていたといい、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られるそうです。

日本にも10世紀にはシルクロードを通じて伝来しており、キリスト教の一派である日本ハリストス正教会などでは、古代からの慣習として香炉で乳香を頻繁に焚くことが行われており、これを神様への奉仕としているようです。

16世紀に入ってからは、水蒸気を当てて蒸留して精油が得られるようになり、これは食品や飲料に香料として添加されているほか、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われています。

ただ、一般に高価であり、これはボスウェリアは栽培して増やすことが困難なためです。このため、これらを産する地域では特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともあります。現在では、その中でもとくにオマーンのものが良質とされ、その商業的な生産は主にこの地域で行われているようです。

シバの女王の時代から使用されていたとすると、乳香は数千年にわたり利用されてきたことになります。香として利用した際の芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的なものが含まれているとされ、樹脂を燃やした香りを嗅ぐとリラックス効果も得られるそうです。

一方では精油には強い刺激作用があって、その香りには興奮作用もあるといい、麻薬ほどは強い効果はないにしても、ある種の軽い幻覚作用もあるのかもしれません。

古代のシバの女王やソロモン王もこれを嗅ぎながら、ゆったりと二人の間に流れる時間を過ごしたのかも、と考えるとなおさらロマンチックな感じがします。

何かとせちがない現代においても、こうした乳香のような良い香りを嗅ぎながら深い瞑想に入る、というのは忙しく日々を送る人々にとっては必要なことなのかもしれません。

キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多いといい、信者にとって、俗世から離れたうえで、神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、1つの理想、憧れの姿でもあるそうです。

日本のカトリック教会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のようなものが行われているといい、これをその名も「霊操」と呼ぶそうです。

「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とし、修業の到達点においては神と深い人格的交わりを持つことすら可能になるといい、そこで神の御意志を見出すことができるともいいます。

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ちなみに、神といえば、仏教の源教ともいわれる、ヒンドゥー教には、シバの女王ともよく混同される「シヴァ神」というものがあります。世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をするという、「破壊神」です。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌとともに、ヒンドゥー教における3最高神の一柱です。

このシヴァ神の最初の妻は、サティーといいましたが、病いで亡くなり、これを嘆き悲しんだシヴァは、彼女の体を抱き上げて都市を破壊しながら世界を放浪したといいます。それを見かねたヴィシュヌ神がチャクラでサティーの死骸を切り刻み、シヴァを正気に戻しました。

そのとき、世界にサティーの肉片が飛び散り、落ちた地がシヴァの聖地となり、肉片はそれぞれ「シヴァの妃」としてよみがえったとされます。このシヴァとシバは音が同じであり、これが「シバの女王」とも重なるのが、この二つが混同される理由でしょう。が、実は全く別の話です。

こうしたヒンドゥー教の神やその祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えており、その仏教においても古くから瞑想が行われています。仏教の始祖とされているブッダは、”悟った人”の意でもあり、この瞑想によって究極の智慧を得た人とされます。

あなたもときには今の仕事や家庭の喧騒を離れ、一人静かに香を焚いて瞑想にふけってはいかがでしょう。

その中に現れるやもしれぬシヴァ神に会えるかもしれず、はたまたシバの女王やソロモン王の霊とも交わることもできるかもしれません。

そろそろ冬が終り、穏やかな春がやってきますが、そんな早春の静かな夜のひととき、しばし彼等神の世界を垣間見る、というのはいかがでしょうか。

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5分でわかるローマ

2014-1120887台風が近づいており、ここ伊豆でも少々風が出てきました。空には時おり青空も見えますが、空気は湿っており、気温が高いのでジメジメしたかんじです。

さて、7月になりましたが、この7月の英語での呼称、Julyは、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、ユリウス・カエサル(Julius Caesar)にちなんでいます。カエサルは紀元前45年にユリウス暦(現行の太陽暦)を採用するのと同時に、7月の名称をローマ語で「5番目の月」を意味する “Quintilis” から自分の名前に変更しました。

わざわざ変更した理由は何のことはない、この月の13日が彼の誕生日だからです。12日とする説もあるようですが、いずれにせよ7月生まれであることには変わりありません。

月の名前を変えてしまうくらいですから、それほど強い権力者だったということは容易に想像できますが、まさにそのとおり、カエサルは紀元前509年から紀元前27年まで続いた共和制ローマ時代に終止符を打つべく独裁体制を構築し、後の帝政ローマ時代の基礎を築きました。

いわゆるローマ帝国といわれるのは、このカエサルが死んだのち、その後継者となったアウグストゥスが初代皇帝となって以降のことです。従って、カエサルの代までのローマは、「古代ローマ」または「共和制ローマ」と呼んで、その後の帝政ローマとは区別します。

……とエラそうに知ったかぶりを書いていますが、私もそのあたりのことを実はあまりよく理解しておらず、今日この項を書くにあたって、改めて歴史を勉強して知った事実です。が、私だけでなく、仏教徒の多い日本人には、その後キリスト教国になるこの国のことについてはあまり詳しくないようなので、今日はそのあたりのことを少し書いてみましょう。

ローマは一日にしてならずと言う言葉がありますが、そもそもこの共和制のローマの前にも、「王政ローマ」と呼ばれる時代がありました。紀元前753年~紀元前509年までの時代ですが、「古代ローマ」というのはこの時期とその後の共和制の時代も含めての呼称のようです。

ところが、さらにこの王政ローマの起源となると、これはもう神話の域の話になるようです。

ギリシャ神話に「トロイア戦争」というのが出てきますが、これは例の「トロイの木馬」が出てくるあの戦争です。その当時、「小アジア」と呼ばれていたトルコ付近にあった「トロイア」に住む「トロイア人(アイネイアース人)」に対し、現在のギリシャ付近にあった「ミュケーナイ」という国の「アカイア人」たちが侵略戦争を起こしました。

戦争ははじめアカイア人のほうが優勢でしたが、トロイア側は城に閉じこもって交戦したため、10年にも及ぶ長い膠着状態に陥りました。が、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案しこれを実行に移しました。

トロイア人たちはこの策略にかかり、トロイアの国は一夜で滅亡したと伝えられていますが、その後、この戦争で敗走したトロイア人たちは、ギリシアの島々やカルタゴを転々とした後、イタリア半島に上陸しました。

そして彼等は現地の王の娘を妻として与えられ、ここに新しい国を作りました。やがて時代が下り、トロイアの時の王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪します。ヌミトルには男児がおり、この子は殺されましたが、娘レア・シルウィアは周囲の嘆願によって生かされました。

あるとき、このシルウィアが眠ったすきに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わりました。シルウィアは双子を産み落としますが、怒った叔父アムリウスによってこの双子は川に流されてしまいました。双子は狼に育てられ、その後羊飼いに育てられ、ロームルスとレムスと名づけられました。

やがて成長し、自らの出生の秘密を知った兄弟は協力してこの叔父アムリウスを討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力し、兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとします。ところが、その後兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺され、ロームルの独裁体制で新しい都市国家が誕生します。

こうしてこの丘、パラティヌスにロームルスが築いた都市こそがローマです。こののちロームルスはさらにローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域としますが、これが王政ローマの始まりです。もうお気づきでしょうが、「ローマ」というのは、このロームスが自分の名前から取って与えた名称です。

この王政ローマは、紀元前753年のロームルスによる建国から紀元前509年まで、伝説上は「七人の王」が治めていたことになっています。

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その最後の王は、「タルクィニウス・スペルブス」という人物でしたが、かなりの強権な政治を行い、このためのちに「傲慢王」と呼ばれるに至ります。王の即位にあたっては、市民集会の選出も、元老院の承認もなく、その後の政治も元老院や市民集会にはかることなく自分で決めたため、当然、市民の評判はよくありませんでした。

しかしこの王は策略と戦争は得意で、彼の在位時代にローマはさらに領土を広げました。ローマよりずっと強大だった現在のイタリア中部にあった「エトルリア」との同盟を結びましたが、これによってローマの近くに敵対する強国はなくなりはしたものの、結果としてエトルリア人がローマ中を闊歩し、幅を利かせるようになりました。

ローマはエトルリアの属国に成り果てたと考える市民も多くなり、さらにその後のすべての王がエトルリア出身になるに至っては、元々のローマ人は隅に追いやられたようになり、やがてローマ市民の怒りは頂点に達しました。

あるとき、このエトルリア出身の王の息子が、ローマ系の王族の妻に横恋慕し、寝室に忍び込んで彼女をわがものにする、という事件がありました。この妻は、貞淑な妻としてよく知られるルクレーティアという人物で、このとき受けた恥辱を親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白したあと、短剣で喉を突いて自らの命を絶ちました。

このとき、この妻の夫の友人でこの告白の場にいた友人のひとりこそが、ルキウス・ユニウス・ブルトゥ、すなわち、のちにカエサルが「ブルータスよお前もか」と死に際に叫ぶことになるあのブルータスの先祖です。ブルータスは英語読みであり、元のラテン語では「ブルトゥス」と発音するのが正当です。なので、以後もブルトゥスで通します。

このブルトゥスは、ルクレーティアの無念を晴らし、エトルリア出身の王一族は追放すべきだと演説を行いましたが、多くの市民がこれに賛同しブルトゥスらに従いました。

このエトルリア系の王は「タルクィニウス・スペルブス」という名前でしたが、ブルトゥスがこの演説を行っていたときは、ちょうど外国での戦の途中でした。が、王は事態の急変を知り、急ぎローマに戻りますが、このときはもう後の祭りで、門はすべて閉じられて中に入ることすらできませんでした。

こうして市民の蜂起によってスペルブス王は追放され、従う兵だけを連れ、エトルリアに去っていき、王政ローマの時代は終わりました。王政への反省からこの年、紀元前509年からは共和政がとられ、2名の執政官がローマの政治を司ることになりました。

最初の執政官には、演説を行ったブルトゥスと、自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出されることになりますが、このブルトゥスはのちに伝説的な執政官といわれるまでになります。これはそれほど政治的に卓越した手腕を持っていたためです。

が、この465年あとに、ブルトゥスの子孫のデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスらが、執政官としては非常に悪名高かったカエサルを暗殺したこととも無縁ではなく、最初の執政官だったブルトゥスの子孫が、最後の執政官だったカエサルを暗殺することになるというのは、実に皮肉な運命です。

とまれ、このあとローマは、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間「共和政ローマ」の時代に突入します。これ以降ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれるようになり、特にエトルリアのような東方の国に警戒感を強め、専制君主制に関しても強い拒絶反応を示すようになっていきました。

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さて、共和制になってからのローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長しました。しかし、その躍進は、戦争に次ぐ戦争によって得られたものでした。

例えば、このころアルプス山脈の北方からは、ここに住む「ケルト人」という民族がローマを目指した南下してきました。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」とも呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵の首を斬るという残忍な習慣がありました。

一方のローマ軍は、「重装歩兵」という、兜、胴、脛当て、篭手などで身を固め、剣や片手刀・鈍器・手槍に盾、長柄などの武器で重装備をした軍隊が主力で、この軍隊は石や矢などの投射兵器でも容易には傷つかず、戦場に踏み止まる能力に長けていました。

とくに、ファランクス戦法というのが得意で、これは重装歩兵による密集陣形です。左手に円形の大盾を、右手に槍を装備し、露出した右半身を右隣の兵士の盾に隠して通常8列程度に並び、特に打撃力を必要とする場合はその倍の横隊を構成するというもので、戦闘に入ると100人前後の集団が密集して陣を固め、盾の上から槍を突き出して攻撃しました。

前の者が倒れると後方の者が進み出て交代し、また、後方の者が槍の角度を変更することで敵の矢や投げ槍を払い除けることも可能で、ある程度は戦闘状況に柔軟に対応できる隊形でしたが、基本的にファランクスは激突正面に衝撃力と殺傷力を保持していたため、一旦乱戦になると転回機動は難しく、機動力を使った戦術としては用をなしませんでした。

一方のケルト人は、ローマ軍に比べると軽装備でしたが、剣と投げ槍だけが装備という点では機動性に優れており、ローマ軍の弱点を見つけては、これを撃退し続け、ついにはローマ国内にまで入り込み、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、紀元前390年までには、ローマ国内のあちこちで略奪を働くようにまでなりました。

さらにケルト人たちは、紀元前387年、首都ローマ市近郊でのアッリアの戦いで完勝、ローマ市内までも蹂躙しました。しかし、このときローマで、マルクス・フリウス・カミルスという将軍が立ち上がりました。カミッルスはケルト襲来を受けて各地に散り散りになったローマ市民を取りまとめローマに向かって進軍し始めます。

一方そのころ、ケルト人の進軍によってローマの一角に立てこもっていた市民たちはケルト人の王に身代金と引き換えに兵を撤退させるように交渉をしていました。

このとき、ずる賢いケルト人は身代金を計る秤に細工し、より多くの金をローマ人から引きだそうとしましたが、それに気がついたローマ人がそれを指摘すると、開き直って「敗者に災いあれ」と答えました。

ちょうどそのとき、カミッルスが兵士を引き連れてその現場に現れ、開口一番、「ローマは金ではなく、剣でお返しする」と告げて戦闘が開始されました。このカミッルの言葉によって奮起したローマ人たちは、ケルト人を散々に打ち破り、こうしてローマの平和は戻ってきました。

この時のカミッルスの言葉はその後ローマの国防の指針となり、以後の約400年間、ローマが身代金と引き換えに捕虜の解放を要求するということは一切なくなったといいます。

その後カミッルスは独裁官に任命されてローマ復興を任されてこれに成功し、ローマは国力を取り戻しました。やがてイタリア半島各地の都市を制圧するまでになり、各地に向かう交通網を整備し、広域に亘る支配を可能にしていきました。

紀元前272年には、南イタリア(マグナ・グラエキア)にあったギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、ついにイタリア半島の統一が成し遂げられました。さらにローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、紀元前264年よりカルタゴとの百年以上の戦争へ突入し、その結果第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、この地を最初の属州としました。

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カルタゴというのは現在の北アフリカのチュニジア付近にあった国です。地図をみれば一目瞭然ですが、このカルタゴ(チュニジア)は地中海西南部に位置するという地理上の要衝であり、地中海全域の覇権をめぐってローマと対立していました。

紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、ローマ軍は、カルタゴ・ノヴァ(現在のスペイン南部の町、カルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点などを奪うなど、カルタゴとの戦いに連勝し、やがて西地中海の征服を果たしました。

また、現在のギリシャに本拠を置き、地中海一帯に勢力を張っていたマケドニアにも遠征を行い、現在のクロアチア付近にあったイリュリア、アカエアと呼ばれていたこの当時のギリシャ一帯の地域をも影響下に置きました。

ローマはその後紀元前149年に勃発した第三次ポエニ戦争において、カルタゴに完勝し、紀元前146年にカルタゴは完全に消滅しました。カルタゴの脅威が減少すると、さらに東方へも進出し、現在のシリアなどの地域のほか、マケドニアが領有していた小アジア諸国を次々に攻略して傘下に収めました。

その後もマケドニアは、地中海世界に勢力を拡大するローマの圧力に直面することとなり、ローマと、第一次、第二次と続いた「マケドニア戦争」などの緒戦で敗れ、ついに第三次マケドニア戦争の敗北によって、紀元前168年にはマケドニア王ペルセウスは捕虜となって廃位となり、王国は4つの共和国に分割されました。

さらに紀元前148年にマケドニアは、ローマの属州の一つとなり、「マケドニア属州」として組み込まれたことで、マケドニア王国は完全に滅亡しました。こうしてローマはイタリア半島を中心として地中海一帯に広がる広大な共和制帝国を築き上げました。

それまでのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしていましたが、組織だった徴税制度は設けていませんでした。しかし、その後はマケドニアのような属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣する政策に転じ、この属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えました。

この属州の統治においてローマは、制度の上ではそれぞれの都市の自治を尊重し、形式的には相当の自由を認めました。ところが、実際は属州に対してすさまじい収奪を行っており、属州になった地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こりました。

搾取とは別に、ローマに従属することになった諸国と都市の有力者はローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策としました。結果として、ローマの少数の有力政治家の収入と財産が増えることになり、これは国家財政にも匹敵するようになりました。

ローマの公共事業もまた、有力政治家の私費に依存するような妙なことになり、ローマ市民は、こうした政治家の巨富によって生活環境を整えてもらう代わりに、彼等を政治的に支持しました。

この庇護する政治家のことを「パトロヌス(patronus、「パトロン」の語源)」、庇護される市民を「クリエンテス(clientes、「クライアント」の語源)」といい、このパトロヌス・クリエンテスの関係は、ローマの最初期からの伝統であり、のちの帝政期まで長く続くことになります。

しかし、この政治家とローマ市民の双方だけが潤うといった構図の一方で、ローマ軍の中核をなしていた自由農民は対極的に没落の運命をたどっていきました。毎年のように続く諸外国への遠征においては、農民たちは農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していきました。

このため、たびたび農民が主体の反ローマの反乱などが起こるようになり、また合わせてヨーロッパ北方から現在のドイツなどを本国とするゲルマン人などがローマ領内へ侵入してくるようになり、彼等との戦いもたびたび起こり、ローマを悩ませることとなりました。

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こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があり、やがて平民でありながら優れた能力のあるガイウス・マリウスのような男が執政官になりました。彼は没落した農民兵や長期にわたる征服戦争への動員で疲弊した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施し、貧民を軍隊に吸収することで反乱を抑えようとしました。

しかし、その結果司令官も平民なら、その兵も平民という新しい組織を生み出すことになり、これは次第に、元老院・政務官・民会の三者によって成り立っていた共和政下のローマの政治体制とは一線を画すようになり、軍に対する統制が効かなくなるという結果をもたらしました。

こうして、軍の首領が、ローマ政治にも介入するようになり、次々と軍事政権が誕生していきました。共和制ローマの最後の時代には「軍閥」と呼ばれるようなものも登場しました。ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人などがその最たるもので、この3人は元老院への対抗から「第一回三頭政治」を結成します。

しかし、3人のうちまずクラッススが病死し、残るポンペイウスとカエサル2人の間で内戦が起きました。この地中海世界を二分する大戦争は、紀元前48年にポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残しますが、やがて紀元前45年にカエサルが終身独裁官となりました。

ところが、カエサルは王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義の議員たちによって暗殺されました。その数日後、カエサルの遺言状が開封されましたが、その第一相続人には、当時まだ18歳の大甥ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(後のアウグストゥス)、第二相続人にデキムス・ブルトゥス(ブルータス)が指名されていました。

このため、この後、このオクタウィアヌスを中心として「カエサル派」が結成され、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの三人が「第二回三頭政治」を行なうようになります。が、その後この三人は内紛状態となり、紀元前31年、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウスに勝利しました。

残るレピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図りますが、これに失敗し、汚職と反乱の疑いをかけられ、終身職である最高神祇官を除く役職を全て剥奪され、ローマから離れた田舎で死ぬまで隠棲、紀元前13年に亡くなりました。

オクタウィアヌスは、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながらも事実上の「帝政」が始まりました。

こうして、共和性ローマは終焉を迎え、その後帝政による帝国の統治は、およそ1400年以上に渡って続きます。が、紀元400年ごろに東西に分裂し、東ローマ帝国と西ローマ帝国の二つになり、その後、西ローマ帝国は480年に滅亡し、北アフリカおよびイベリア半島ほか、現在のヨーロッパの西半分の諸国はローマの統治下を離れます。

一方、イタリアほか地中海沿岸の東部の諸国は引き続き東ローマ帝国として存続しますが、徐々にその勢力を削がれ、最後にはコンスタンティノーブルなど地中海東部のほんの一部だけを領有するだけとなり、その後ここもオスマン帝国によって陥落し、東ローマ帝国は完全に滅亡します。これが1453年4月のことです。

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これによって、神話の時代から続いてきた古きローマの系統は途絶えることになります。そして、この帝政ローマ時代と王政・共和政と続いた古代ローマ時代の境にあって、帝政の基礎を築いた人物こそが、7月の月の名前の由来となった、カエサルということになります。

大きな変革の時代を築いたという意味においては、7月という月の名にこの人の名を冠するのも悪くはないと思いますが、その最後が暗殺によるものであったという事実からもわかるように、その生涯にはあまり褒められた話は多くありません。

最高権力者にふさわしくない素行がちらほら見え隠れし、そのひとつは「ハゲの女たらし」と陰口をたたかれるほど女癖が悪かったことであり、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られていたと伝えられています。

このため彼の軍団兵たちも凱旋式の際に「夫たちよ、妻を隠せ。薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫んだという言い伝えが残っているくらいです。

また、かの有名なクレオパトラでさえ、カエサルの愛人になって子供まで設け、この子に「カエサリオン」という名前までつけていますが、クレオパトラの死後、この子は暗殺されています。

カエサルは他にも多くの女性と関係したと思われますが、記録にある限り、子宝にはほとんど恵まれなかったようで、その子らもその後歴史に登場することはありませんでした。

一方、カエサルを暗殺した一人であるブルトゥスはどうなったかというと、アントニウス、レピドゥスとカエサルの大甥でありオクタウィアヌスが手を結んで第二回三頭政治が結成される中、完全にローマ政治のカヤの外に置かれました。

紀元前43年、オクタウィアヌスが執政官となると、その対立は決定的になり、オクタウィアヌスは大叔父カエサルの神格化を推し進めて自身の権威を高める中、その大叔父を討ったブルトゥスらを何としても討伐せねばならなくなりました。

これを知ったブルトゥスは、17個の軍団を率いて逆にローマに進軍を開始し、ブルトゥス軍よりやや多い19個のローマ軍団と闘いますが、緒戦に負け包囲されると捕虜になる事を潔しとせず、陣営地で自害しました。

ブルトゥスの遺骸は丁重に扱われ、これを見つけたアントニウスは自らが纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬るように命じたといい、ブルトゥスは火葬によって葬られ、遺骨はローマ近郊に埋葬されました。

一方、彼が暗殺したカエサルの死はどういうものであったかというと、これはかなり凄惨なものでした。暗殺が実行に移された当日、カエサルの正妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で夫が議場へ向かうのを止めました。しかしブルトゥスは諦めずカエサルを元老院で待ち続け、もうカエサルは来ないのではないかと思われても議場に留まっていました。

そして遂にカエサルが周囲の引止めを振り払って元老院を訪れると、最初に短剣で一撃を加えました。カエサルは辛うじて致命傷は免れますが、続いて次々と議員が向かってくる様子に事態を察して、自らの体をトーガ(一枚布の衣服)に覆ってかばおうとしました。

しかし、それに構わず数十人の議員達はカエサルに襲いかかり、彼は四方から滅多切りにされたといいます。その勢いは凄まじく、襲った議員同士で手を切りあってしまうほどであったといいますから、よほどカエサルは嫌われていたのでしょう。

終身独裁官に就任して以降、カエサルは度々王位への野心を露にしたと伝えられており、こうした独裁者としての彼の振る舞いが議員たちの怒りを買ったということもありますが、彼はローマ市民からも憎悪されていたそうです。その理由としては、前述の通りの女たらしということもありますが、金に汚かったという点が大きいようです。

カエサルが元老院議員として初めて表舞台に出た頃の評価は「借金王」であり、事実、借金は天文学的であったといい、また、カエサル自身が総督として派遣された属州では赴任先の部族より金を無心したり、その地の神殿や聖域にあった宝飾物を強奪し、金目当てで街を破壊して回ったそうです。

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また、ローマでもカピトリヌスの神殿に奉納していた金塊を盗み、この代わりに金メッキをした銅でできた像を戻していたそうで、このほか護民官の制止を振り切って神殿の財貨を強奪したという話も伝わっています。

カエサルは背が高く引き締まった体をしていましたが、当時の美男子の条件である「細身、女と見紛うほどの優男」にあてはまらず、またハゲ茶瓶でした。このため、前髪の薄さを隠すためにしていた髪型は「シーザーカット」と呼ばれており、またの名を「カエサルカット」と呼ばれています。

ヨーロッパでは古くから典型的な男性の髪型であり、映画俳優のジョージ・クルーニーが昔していた髪型などがそれです。また映画の「300(スリーハンドレッド)」などの主演者の多くがこの髪型をしていたので、ひと目みたらわかるでしょう。

しかしそれにしても、ハゲで女癖が悪く、しかも金の亡者で、人民から毛虫のように嫌われていた人物の名が、7月の由来だと聞くと、あまりいい気がしないのは私だけではないでしょう。

が、たとえそうだとしても、Julyはかくして過ぎていきます……

今週は台風の襲来が予想されているようですが、この台風が過ぎるころにはもしかしたら梅雨明け宣言があるのかもしれません。暑い夏は大嫌いですが、かといっていつまでもジメジメの梅雨も好きにはなれず、いっそのこと、7,8月を飛ばして9月に行ってほしいと願う今日このごろですが、そうはイカのなんとかです。

ちなみに、8月の英名のAugustは、カエサルの後継者であり、初代ローマ皇帝であるアウグストゥスのAugustusに由来しています。彼は、カエサルが構想しながらも、暗殺によって中断を強いられた数々の計画を実行して成功させており、後世の評価も非常に高いこの人物は、カエサルと違って、稀に見る美男子であったといいます。

胃腸を患ったアウグストゥスは、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で76歳で死去しましたが、その最期の日、友人に「私はこの人生という喜劇において自らの役を最後までうまく演じたとは思わないか」と尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との口上を付け加えたといわれています。

その彼に免じ、私としても彼に拍手喝采をしたく、私の中においてだけは8月は一年の中のひとつとして残しておくことにしましょう。

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