私は、子供のころから音楽の分野ではまるで才能がなく、学校の音楽の時間で何かを演奏するにしても覚えが悪く、楽器というものが大の苦手でした。
観賞するほうにおいても積極的に音楽を聴く、ということはあまり好まず、とくに重厚なクラッシック、あるいは洋モノ、とくに派手なロック、といった類のものはからっきしダメで、同じ年頃の友人たちがそういうものにはまり込んでいるのを見ても、何が面白いのだろう、といつも思っていました。
強いていえば、その当時フォークソングと言われていたようなポピュラーミュージックを勉強の合間に聴くぐらいで、あとはBGMとしてイージー・リスニングといわれるようなものをたしなむくらいだったでしょうか。
このイージー・リスニングとは、くつろいで楽しめる軽音楽の意味で、ムード音楽ともいえる分野ですが、今も続くラジオ番組、JET STREAMは当時もその代名詞ともいえるようなものでした。
深夜の時間帯に穏やかで美しい曲を流し、世界各地をロマンチックなナレーションで紹介するこの番組の一番最初のパーソナリティは、城達也さんという人でした。1967年7月に始まったこの番組を27年間も続け、この間7387回もこの番組を司会しています。
1994年2月に食道癌に罹っていることが発覚した後も治療のかたわらこの番組に登場し続けましたが、「自分の納得できる声が出せない」と同年12月30日の放送を最後にパーソナリティを降板。それから数か月を待たず、翌年2月25日に亡くなりました。わずか63歳であり、あの渋い声がもう聞けないのかと、大変残念です。
「JET STREAM」のナレーターをするにあたり、機長の役に入り込むために、必ず、スーツを着てスタジオの照明を暗くして臨んでいたといいますが、これは航空会社における定期運送用操縦士の制服はダブルのスーツスタイルであったこと、また夜間飛行の際には、旅客機のコックピットは当然真っ暗であったためです。
こうした機長としてのイメージを壊されないようにテレビ出演は一切断り続けるなど、仕事に対して大変真摯なプロ意識を持っていた方だったようです。
この「JET STREAM」でこの当時よく流れていたのが、ポールモーリアや、レイモン・ルフェーヴルといった指揮者によるグランド・オーケストラの曲です。とりわけ私はルフェーヴルが好きで、音楽をあまりたしなまない私としてはめずらしく、LPまで買い込んでよく聞いていました。
ポール・モーリアの「ラブ・サウンドの王様」に対して、「ラブ・サウンドのシャルマン」と呼ばれていたようで、シャルマンとはフランス語で「魅力的」という意味ですが、ここでの意味は「高級なラブ・サウンド」ということだったでしょう。
とくにバイオリンなどの高音が印象的なオーケストラですが、ルフェーヴル自身はピアニスト出身で、パリ音楽院を卒業後、フランク・プゥルセル楽団でプロピアニストとしての経験を積みました。
1956年に「ミス・エジプト」に選ばれたほどの美貌を持つ美人歌手の「ダリダ」のデビュー曲「バンビーノ」の編曲と伴奏指揮を担当。これが、レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラとしてのスタートでした。
その後、1958年に「雨の降る日」、1968年の「ばら色の心」「ラ・ラ・ラ」などが相次いで全米ヒットチャートにランクインし、注目を集めました。
映画音楽も手がけ、サウンドトラック盤を数多く発表していますが、日本では1969年にシングル・カットされた「シバの女王」がロングヒットとなったことから知名度が一気に上昇、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、カラベリとともにイージー・リスニング全盛期を迎える立役者の一人となりました。
1972年に初来日して以降、日本公演は11度に亘って開催され、その間の7公演でライヴ・アルバムが制作されていますが、私が10代のころに聞いたのはそのうちのどれか複数でしょう。
引退するまで約650曲を録音したと言われており、中でも、クラシックの曲をイージー・リスニング風にアレンジした「ポップ・クラシカル・シリーズ」は、彼の十八番といわれました。
さすがにもう亡くなっているだろうな、と思いましたが、調べてみるとやはり2008年6月27日、パリ郊外で肝機能不全により半年強の入院生活を経て亡くなられています。こちらは78歳でした。
私も彼の曲の中ではとく「シバの女王」が好きでしたが、この楽団のオリジナル曲なのかなと思ったら、もとはフランスのシンガーソングライター、ミッシェル・ローランという人が創ったシャンソン曲だったようです。
日本でのこの曲の人気は無論、このルフェーヴル楽団がつくったものですが、その人気上昇のためにラジオが果たした役割は大きく、とくにTBSラジオの深夜番組「白石冬美・野沢那智のパック・イン・ミュージック」で長くエンディングテーマとして使用されたことも多くの人に親しまれた要因でしょう。
この曲のタイトルにもある、「シバの女王」というのは、実在の人物だったようです。その昔、といっても紀元前1000年前にも遡る時代に、アラビア半島南部に存在していた国家があったとされ、シバの女王はこの国の支配者でした。
どんな人物であったのかについてはほとんど記録がないようですが、ただ、ヘブライの神話として残されたものの中には、エルサレムのソロモン王とシバの女王からネブカドネザルという王子が生まれた、という記述が出てくるそうです。
エルサレムというのは、ご存知のとおり現在のイスラエルの首都とされる街です。が、イスラエルは同国の首都と主張しているものの、国際連合を初めとして多くの国家はこれを認めていません。
大戦後に、ここに住んでいたパレスチナ人などを排除し、アメリカの肝いりで建国されたイスラエルでは、その後組織された議会により、一方的にエルサレムはイスラエルの永遠の首都であるとしました。
1980年に国連総会はこのイスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1で決議(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など)しましたが、今に至るまで、イスラエルはエルサレムが首都と宣言していながら、現在も多くの国は認めていないのはこのためです。現在もエルサレムに置かれている大使館・領事館はひとつもありません。
このイスラエルにおいては、古代にイスラエル王国という国があり、この国を治めていた王ダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバと不義の関係を結び、2人目の子として生まれたのがのちのソロモン王です。彼は父の死後、兄など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となりました。
ソロモンはエジプトのファラオの娘をめとり、エルサレムの北西約10kmに位置するギブオンという町で神に対して盛大なささげものをしましたが、ここでその神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンはそこで「知恵」を求めたといいます。
神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束したといい、これ以後、ソロモンは知恵者として名を馳せるようになりました。ソロモンといえば「知恵」を示す代名詞ともいわれるほどその名は広く知られるようになりましたが、その知識を用いて国を隆盛させるとともにその名に恥じぬほどの善政を行いました。
ソロモンが子供のことで争う2人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、この話はのちに日本にも伝わり、江戸時代には、いわゆる「大岡裁き」の話などにも取り込まれました。
この話はご存知の方も多いでしょう。ある時、町奉行である大岡越前の守のところに、ふたりの女がひとりの子を連れてやってきて仲裁を願い出た、という話です。二人の女は互いに「自分こそこの子の本当の母親だ」といって引かないのをみた越前守は、二人にその子の腕をそれぞれ持たせ、引き合うように命じます。
「力いっぱい引き合って勝ったほうを実母とする」という越前守の言葉に従って、女たちは子供の腕をおもいきり引っぱりはじめましたが、子供が痛がって泣くので、一方の女が思わず手を放しました。
勝った女は喜んで子を連れてゆこうとしますが、そこで越前守は「待て。その子は手を放した女のものである」と言います。勝った女は納得できず、「なぜでございます。勝った者の子だとおっしゃられたではありませぬか」とはげしく抗議しました。
これに対して、越前守は、「本当の母親なら子を思うものである。痛がって泣いているものをなおも引く者がなぜ母親であろうか」。
とまあこういう話なのですが、この話の大元はソロモン王がその昔に行った行為をパクッたものだ、というわけです。
が、実際のソロモン王がそんな民間人の裁判までやっていたとは思えず、おそらくこの話は後年の創作でしょう。実際にはもっと王様らしい政治的なことをやっていたわけで、例えば外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行いました。
このほか、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化しました。さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげました。
その結果、イスラエル王国の領土はユーフラテス川からガザにまでおよび、誰もが安心して暮らすことができるようになり、この時点でソロモンは初めてエルサレム神殿を築きました。
やがてソロモンの知恵の深さと浩瀚な知識は周辺諸国にも知られるようになり、親交を求めて来朝する王や使者が絶えなかったといい、レバノンの南西部、地中海に面する国、ツロの王とは深い親交を結び、またアフリカのエチオピアの女王なども、ソロモンの英知を試すため、わざわざみずからやってきたといいます。
このように、ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしましたが、彼の野心的な事業を遂行するためには資金が必要です。このため重税と賦役を民衆に課すようになり、またソロモンが自分の出身部族であるユダ族を優遇したことなどから、その後、ソロモン王の支持者と反支持者の対立が拡大していきました。
やがてソロモン王も老いていきましたがその晩年、民衆への負担が激増していく中で享楽に耽ったため財政が悪化。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことなでユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発し、そうした中でソロモン王は没しました。
死後、ソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがこの王の死とともに一気に噴出して、イスラエルは南北に分裂、対立していくことになります。
その後もこの地域一帯は分裂や併合が相次ぎ、次々といろんな国ができては消え、対立しては血を流して現在に至るわけですが、その歴史は極めて複雑で日本人には理解しがたく、無論ひとことで語ることはできません。が、その源流はこのソロモン王が統治した、古代イスラエル王国にあることだけは間違いなさそうです。
このソロモン王とシバの女王の出会いは、女王自らがソロモン国を訪問したときとされます。ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するためにわざわざ遠方からソロモン王の元を訪れたとされ、その来訪時には大勢の随員を伴い、大量の財宝を寄贈したとされます。
新約聖書にもこれに関する記述があり、ここには「地の果て」からやって来た南の女王(Queen of the South)という表現がみられるそうです。
このシバ国がどこにあったのかについては、上述のようにアラビア半島南部のイエメンあたりであったとする説以外に、アフリカのエチオピアという説もあるようです。が、両説ともこれを裏付ける考古学的発見は未だ皆無だといい、謎の多い王国です。
ただ、ソロモン王との間に子をなしたことがわかっていることから、シバの女王による統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃と推定されています。
この二人の話からすぐに連想されるのは、後年のエジプト女王、クレオパトラとローマの独裁官カエサルとのラブロマンスです。
この二人もよく歴史上の奇蹟としてよく引き合いに出されるわけですが、シバの女王とソロモン王のロマンスもまた謎に満ちており、それだけに逆に想像力を掻き立てるのか、何度も小説や絵画などの芸術作品に取り上げられています。
映画化もされており、最近では、1995年の”Solomon & Sheba”などがあり、これは日本では、「クイーン・オブ・エジプト」という名前で公開されたものです。この映画でのシバの女王役は、2002年公開の「007 ダイ・アナザー・デイ」でボンドガールを務めたハル・ベリーでした。
1959年にも”Solomon and Sheba”、というアメリカ映画が創られており、これは「ソロモンとシバの女王」という邦題で、ソロモン王役はユル・ブリンナーだったそうです。シバ女王役は、ジーナ・ロロブリジーダという人で、あまり日本には馴染のない女優さんですが、イタリア人です。
1947年にミス・イタリアの3位に入賞したことをきっかけに芸能界入りし、ハリウッドデビューし、世界的な人気を博したといい、来日もしています。が、知っている人がいるとするとかなりの年配の方でしょう。ユル・ブリンナーすら知らない世代が増えています。
このほか、音楽でもやはりこのシバの女王をイメージして作られたものも多く、前述のミシェル・ローランのシャンソンのほか、古くは、バロック期を代表する作曲家の一人である、ヘンデル(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル)が作曲した者の仲にも、「ソロモン」というものがあり、この中に「シバの女王の入城」というフレーズがあります(1749年発表)。
このほか、ユダヤ人作曲家のゴルドマルク・カーロイが作曲した歌劇「サバの女王」は名作と言われ、1875年にウィーンで初演されると好評を博し、1938年までウィーン国立歌劇場のレパートリーに残り続けたといいます。
また、バレエ音楽にもイタリア人作曲家のオットリーノ・レスピーギの「シバの女王ベルキス(1930-31年)」というのがあり、女子フィギュアスケートシングルにおいて、アメリカのキミー・マイズナー選手がこの曲をフリープログラムで使って演技しました。
マイズナーは2005-2006年のシーズンに行われたトリノオリンピックではこの曲で6位入賞しており、翌月開催された世界選手権では優勝を果たしています。
しかし、おそらく日本人にとって一番馴染が深いのはやはり冒頭で述べたレーモン・ルフェーブルの、「シバの女王」でしょう。そのシングルは発売と同時に、オリコンシングルチャートに110週に渡って100位以内にランクイン、同期間のみで約32万枚を越えるレコードセールスを記録したといいます。
最近、この曲をむしょうに聞きたくなり、You Tubeなどで探して聴いているのですが、その優雅で哀しげな曲に浸っていると、きらびやかな衣装をまとったシバの女王がソロモン王のところを訪れ、金や宝石などを献上しながら、拝謁する様子などが目に浮かんでくるようです。
白乳香などの香料なども献上していたという記録もあるようです。この「乳香」というのは、樹木から分泌される樹脂のことで、この樹木は、「ボスウェリア」といいます。オマーンなどの南アラビア、ソマリアなどの東アフリカ、インドなどにしか自生していません。
その樹皮に傷をつけると樹脂が分泌され、空気に触れると固化します。次々とその傷から出て乳白色~橙色の涙滴状の塊となったものを採集しますが、「乳香」の名は、その乳白色の色に由来します。
古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし、または香水などに使用する香料の原料として利用してきており、香以外にも中医薬・漢方薬としても用いられ、鎮痛、止血、筋肉の攣縮攣急の緩和といった効能があるとされます。
乳香は紀元前40世紀にはエジプトの墳墓から埋葬品として発掘されているため、このころにはすでに焚いて香として利用されていたと推定されています。古代エジプトでは神に捧げるための神聖な香として用いられていたといい、聖書にも神に捧げる香の調合に乳香の記述が見られるそうです。
日本にも10世紀にはシルクロードを通じて伝来しており、キリスト教の一派である日本ハリストス正教会などでは、古代からの慣習として香炉で乳香を頻繁に焚くことが行われており、これを神様への奉仕としているようです。
16世紀に入ってからは、水蒸気を当てて蒸留して精油が得られるようになり、これは食品や飲料に香料として添加されているほか、香水にも利用され、シトラス系、インセンス様、オリエンタル系、フローラル系など、様々な香水に使われています。
ただ、一般に高価であり、これはボスウェリアは栽培して増やすことが困難なためです。このため、これらを産する地域では特産品となり、かつては同じ重さの金と取引されたこともあります。現在では、その中でもとくにオマーンのものが良質とされ、その商業的な生産は主にこの地域で行われているようです。
シバの女王の時代から使用されていたとすると、乳香は数千年にわたり利用されてきたことになります。香として利用した際の芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的なものが含まれているとされ、樹脂を燃やした香りを嗅ぐとリラックス効果も得られるそうです。
一方では精油には強い刺激作用があって、その香りには興奮作用もあるといい、麻薬ほどは強い効果はないにしても、ある種の軽い幻覚作用もあるのかもしれません。
古代のシバの女王やソロモン王もこれを嗅ぎながら、ゆったりと二人の間に流れる時間を過ごしたのかも、と考えるとなおさらロマンチックな感じがします。
何かとせちがない現代においても、こうした乳香のような良い香りを嗅ぎながら深い瞑想に入る、というのは忙しく日々を送る人々にとっては必要なことなのかもしれません。
キリスト教の伝統においては、特に修道院の修道士らの日課には瞑想を行う時間が設けられていることが多いといい、信者にとって、俗世から離れたうえで、神への祈りを絶やさず瞑想に励む修道士は、1つの理想、憧れの姿でもあるそうです。
日本のカトリック教会では、修道院などにおいて書籍も何もない場所でじっくりと神に関して思いを馳せて祈りを捧げる「霊の体操」のようなものが行われているといい、これをその名も「霊操」と呼ぶそうです。
「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とし、修業の到達点においては神と深い人格的交わりを持つことすら可能になるといい、そこで神の御意志を見出すことができるともいいます。
ちなみに、神といえば、仏教の源教ともいわれる、ヒンドゥー教には、シバの女王ともよく混同される「シヴァ神」というものがあります。世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をするという、「破壊神」です。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌとともに、ヒンドゥー教における3最高神の一柱です。
このシヴァ神の最初の妻は、サティーといいましたが、病いで亡くなり、これを嘆き悲しんだシヴァは、彼女の体を抱き上げて都市を破壊しながら世界を放浪したといいます。それを見かねたヴィシュヌ神がチャクラでサティーの死骸を切り刻み、シヴァを正気に戻しました。
そのとき、世界にサティーの肉片が飛び散り、落ちた地がシヴァの聖地となり、肉片はそれぞれ「シヴァの妃」としてよみがえったとされます。このシヴァとシバは音が同じであり、これが「シバの女王」とも重なるのが、この二つが混同される理由でしょう。が、実は全く別の話です。
こうしたヒンドゥー教の神やその祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えており、その仏教においても古くから瞑想が行われています。仏教の始祖とされているブッダは、”悟った人”の意でもあり、この瞑想によって究極の智慧を得た人とされます。
あなたもときには今の仕事や家庭の喧騒を離れ、一人静かに香を焚いて瞑想にふけってはいかがでしょう。
その中に現れるやもしれぬシヴァ神に会えるかもしれず、はたまたシバの女王やソロモン王の霊とも交わることもできるかもしれません。
そろそろ冬が終り、穏やかな春がやってきますが、そんな早春の静かな夜のひととき、しばし彼等神の世界を垣間見る、というのはいかがでしょうか。