おバカのはなし

2015-36気がつけば2月も終わりです。

毎年同じことを書いているような気もしますが、1月は行く、2月は逃げる、であり、3月もすぐに去っていくのでしょう。

時間を返せ、バカヤローとどなりたくなるのですが、誰に怒りをぶつけてみても、時だけは戻ってきません。一期一会です。いつの世もそのときそのときどきを一生懸命に生きるだけ、馬鹿正直に生きるのが一番です。

ところで、バカヤローといえば、今日2月28日は、1953年のこの日、国会の衆議院予算委員会で、この当時の吉田茂首相が「バカヤロー」と暴言を吐いたことで知られています。

首相は、社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、激して口論になり、この暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散され、このためこの解散は「バカヤロー解散」と呼ばれます。

ワンマン宰相として知られ、激烈な発言も多かったダイナミックなこの総理大臣の気質を考えると、誰しもが「バカヤロー」とたしかに大声を出したと思うでしょう。が、実際には、吉田首相はこの議論が一時収束しかけたとき、席に戻りつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いただけだっそうです。

ところが、このころは高度成長時代に入りつつある時代にあって日本製品の質も高くなってきており、国会の場に持ち込まれたマイクもかなり高性能化していました。このため、この吉田首相が小さく呟いた声をもマイクが拾ってしまって場内に拡大されて広がり、これに気づいた西村議員が聞き咎めたため、さらに騒ぎが大きくなりました。

この議論は、本国会での西村らの社会党の与党に対する質疑応答の際、吉田首相が、過日の施政演説で述べた「国際情勢は楽観すべきである」という根拠はいったいどこにあるのか、という質問に対して、吉田首相が「イギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身が言ったから」と答えたことに始まります。

これに対して西村氏は、「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか」と切り返したあたりから議論は議論ではなくなっていきます。

更に吉田首相が「只今の私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。私は確信するのであります」、とややヒステリックな高音で発言したところ、西村氏はこれ対して「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」、とややべらんめー調に返したところ、首相は激高し、「無礼なことを言うな!」とやりました。

「何が無礼だ!」「無礼じゃないか!」と言うやり取りが数回続き、最後の西村氏の「総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」といったことに首相は答えずに答弁の席から離れ、このときボソッと、「ばかやろう……」と呟くように吐き捨てたというものです。

もともとこの吉田首相と西村の関係は以前からしっくりいっていなかったようで、第二次世界大戦中、吉田氏は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される憂き目にも遭っていました。

しかし逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中でもかなりの影響力を持っていたといい、彼に対するこうしたやっかみも手伝って、首相は西村に好感情を抱いていなかったことがこの口論の一因ともいわれています。

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ところがこの声は高性能マイクに拾われ、国会中に響いたことから西村氏は再度雄叫びをあげ、「何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。取り消しなさい。」と発言します。

自分の失言が国会内中に聞こえてしまったことを当然首相もしまった、と思ったでしょうが、と同時にさすがにこれはまずいと思ったのか、このあと「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」と取り消したことから、ようやく西村氏もその追求の矛先を納めました。

が、この失言を議会軽視の表れとした社会党右派は、吉田氏を「議員としての懲罰事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出。この背景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれ、結果としてこの懲罰委員会への付託動議は可決されました。

さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、吉田首相に反発する自由党鳩山派などもこれに同調したことから、3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになりました。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持したものの少数与党に転落しました。が、吉田首相は、再度首相に任命されました。とはいえ、氏の影響力は急速に衰えていきます。

その後も鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していき、さらには政界・財界・官僚の多数が海運、造船業界幹部から賄賂を受けたとされる、いわゆる造船疑獄が明るみ出ました。吉田内閣は当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられるようになり、ついに1954年(昭和29年)12月7日に内閣総辞職。

翌日、自由党総裁を辞任しましたが、この最後の総裁職、総理大臣就任は吉田自身5回目であり、これほど長きにわたって内閣総理大臣に任命されたのは今も昔も吉田茂ただ1人です。内閣総理大臣在任期間は2616日にもおよび、この記録も誰にも破られていません。

その後、自由党トップに返り咲くこともなく、1955年(昭和30年)の自由民主党結成にも当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となりますが、池田勇人の仲介で1957年(昭和32年)に入党。

その後も政界への影響力は大きく、1963年(昭和38年)には次期総選挙への不出馬を表明し政界引退を宣言しました。が、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼしました。

1967年(昭和42年)8月末に心筋梗塞を発症。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれます。

が、その2か月後にはついに最後の時を迎え、死去前日の10月19日には「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に椅子に座らせてもらい、一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたといいます。

これが記録に残る吉田の最期の言葉となり、翌20日正午頃、大磯の自邸にて死去しました。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかったといい、臨終の言葉もなかったそうです。「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったといい、享年89歳でした。

10月31日には戦後唯一の国葬が日本武道館で行われ、官庁や学校は半休、テレビ各局は特別追悼番組を放送してこの偉大な元首相を偲びました。

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この「バカヤロー解散」のときのことを、晩年吉田はその回想録の中で述懐しており、「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べています。

しかし、バカヤローと失言したことについては特に後悔の言葉はなく、この様子を綴ったこの当時の新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後場内は鎮まり返り、そんな中首相は「ニヤリと笑って立ち上がり丁重に取り消す」とあります。心中は言い過ぎとは思ったものの、普段嫌っていた相手にしてやったり、と思っていたのかもしれません。

ただ、吉田が発言を取り消して謝罪したため、議事録の中では、西村と吉田が発言した「無礼」と「バカヤロー」という単語は空白になっているそうで、この言葉は議事録には記載されていないといいます。

このバカヤローとは、漢字では「馬鹿野郎」と書き、最大級の侮蔑用語であるわけですが、ほかにも馬鹿を強調する場合には前に「大」を付けて「大馬鹿」という場合もあり、「馬鹿者」という使われ方もあります。バカとタレをくってけて、「馬鹿たれ」とするのは罵倒語同士の最強の組み合わせであり、相手を「小馬鹿」にする場合に使います。

「馬鹿」の主たる意味は「知識が足りない」や「思慮が足りない」であり、さらには「理解の度合いが足りない」という意味合いで用いられるわけですが、基本的に当人の理解しようとする意思や努力が不足しているから「バカにされる」わけです。

類語である「阿呆」もまた理解したり思考する能力が不足している、という意味です。関西では軽い揶揄程度で使われることが多いのに対して、関東では相手を罵り倒すときに使用されることが多いようです。が、バカはアホよりも軽く、相手を少したしなめる際に使われることも多いものです。

ところが、関西でバカといわれると、かなりムキになって怒る人が多いそうで、こうしたバカということばの罵り程度の強弱は地方によってかなり違うようです。

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このようにバカ、というのは非常に繊細な意味をもって受け入れられる用語であるわけですが、このほかには逆に肯定的に使われる場合もあり、場合によっては褒め言葉のように聞こえる場合すらあります。

たとえば何かに熱中している人を指して「馬鹿」と言う場合などがそれであり、これは熱中する余り、他への配慮がなおざりになっている様子を指しているわけですが、周囲は一種の尊称として捉えているわけです。映画の「釣りバカ日誌」がヒットしたように、この映画の主人公は自分を「バカ」と称しますが、周囲からは一目置かれる好人物です。

ほかにも、「空手バカ一代」のように、不器用ながらも一つの道を曲げずに歩き続けることで何らかのものを大成する人のことを指す場合があり、このほか素直ではあるものの気が利かないために役に立たない者、といった場合にも使われます。これも悪い意味ではなく、その真っ直ぐさから与えられる感動に対する賛辞なわけです。

親しい間柄や恋人同士の間でかわされる会話で使われる「いや~ん、ばかぁ~ん」というのもののしる意味はなく、これは「親しさ」の表現であり、また「恥じらい」でもあって、ときには「本気で愛している」を表現する上での符丁です。親しくない間柄では使われることはなく、親密な状態であるかどうかを示すバロメータとも言えるでしょう。

しかし、悪い意味で使われるにせよ、良い意味で使われるにせよ、「バカ」ということばは多かれ少なかれ感情的な意味合いを含む言葉であるため、あまり公的な場では使われることはなく、むしろ制限される事が多い用語です。

例えば、所属している組織の上司にこれを使えば、やはり暴言とみなされ、社会人として致命的な状況に追い込まれる可能性があり、また家庭においても、子供同士の他愛の無い喧嘩などで使われるバカは、しばしば罵り合い、掴み合いに発展します。大人からみれば、双方が馬鹿に見えるわけですが……。

いずれにせよ、親しい間柄でない限りはあまり使うべきではない言葉であり、公的な場では相手の気分を害したり、人を見下す意味合いになる場合もありうるため、使用は控えるべきでしょう。

「正直者が馬鹿を見る」という言葉もあります。バカ正直に生きていると失敗や損が多い、という意味ですが、これを少し違った角度からみると、生きてゆく上では失敗や損もあるだろう、だまされることもあるに違いない、しかし、ややこしい考えやたくらみを練らなければ少なくとも正直者ではいられる、というふうにも捉えることができます。

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つまり、「馬鹿正直」に生きるとは、実直に生きる姿勢を表しているわけでもあります。だますのは罪だがだまされるのは罪ではない、馬鹿正直に生きていれば人の一生はそれでいいのではないか、という考え方であり、この考え方は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも通じる考え方です。

これは、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモであり、一般には詩として受け入れられています。が、そうではない、ただの創作メモにすぎない、とする批評家もいます。しかし、その素朴で実直な内容は、人生をよく表していると感動を呼び、広く知られるところとなり、宮沢賢治の代表作のひとつともされています。

「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きです。

「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ」といった一文があり、これは人を労をいとわず手助けをして生きている、という賢治の自尊の言葉です。

ほかに、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」ともあり、これらの一文は、宮沢賢治が、「法華経」の影響をうけているためだとする説があります。初期仏教の法典であり、日本では護国の経典とされるほどに代表的な仏典ですが、この中に「常不軽菩薩」という菩薩様が出てきます。

お釈迦様の前世の姿だとされており、この常不軽菩薩は、菩薩となる生前、自身が非難され迫害されても、他人を迫害するどころか、自身の主張する仏法の怨敵などに対してもけっして誹謗し返さなかったといいます。

この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用されるわけですが、宮沢賢治もこの考え方に得心していたため、先の「雨ニモマケズ」を残したのではないか、といわれています。

極めて東洋的な思想であるわけですが、しかし、だますのは罪だがだまされるのは罪ではない、馬鹿正直に生きていればよい、という考え方は何も東洋だけでなく西洋にもある普遍的なものであり、その証拠に「イワンの馬鹿」という物語があります。

元々はロシアに数々ある民話によく登場する男性キャラクターで、極めて純朴愚直な男ではあるが最後には幸運を手にする、といった類の話が多いようです。

帝政ロシア時代の小説家レフ・トルストイが、このイワンを主人公とした作品を創作し、これは日本でも邦訳され、人気となりました。といっても明治時代の話であり、これは、長谷川天渓という人の訳で「大悪魔と小悪魔」と題され、1902年(明治35年)に雑誌「少年世界」に連載されたものです。

以後、「馬鹿者イワン」「イワンのまぬけ」「イワンのばかとその二人の兄弟」などなどいろんなタイトルの邦訳本が出され、児童文学としても広く知られるようになりましたが、最近では小中学校などの教本としてもあまり取り上げられることはないようです。

従って、知名度の高い割にはあまりその内容について知らない人も多いと思います。以下は、そのストーリーを筆者的な解釈も含めて改訳したものです。

読んでいただき、「馬鹿正直な生き方」がどういったものか、ご自分でも考えて頂きたいと思います。

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イワンのバカ(芦屋改訳)

昔ある国に、軍人のセミョーン、デブタラース、馬鹿のイワンと、彼らの妹で啞(おし)のマルタの4兄妹がいました。

イワンの上の兄2人は、都会へ出て働いていましたが、あるとき実家に戻ってきて「生活に金がかかって困っているので、財産を分けてほしい」と兄妹たちの父親に頼み込みました。

これを聞いた父親は、彼らの親不孝ぶりに憤慨し、その愚痴をイワンにこぼしましたが、これを聞いたバカなイワンは「どうぞ、みんな二人に分けてお上げなさいよ」と、逆に父に勧めました。

父親は4人の子供の中でもとりわけイワンを可愛がっており、彼がそういうのでしぶしぶその通りにしました。

ところが、実は、この2人を父親のところへ遣わしたのは、イワンを含めたこの3人兄弟の間に諍いを起こさせようとかねてより狙っていた悪魔の仕業でした。悪魔は、何もいざこざが起こらなかったのに驚きましたが、同時に腹を立て、さらに子分の3匹の小悪魔を使って、3人の兄弟にちょっかいを出させようとします。

3人はそれぞれの兄弟のところへ行き、その一人は長兄のセミョーンに憑りつきます。彼は、軍隊では権力欲の権化でしたが、この小悪魔に囁かれた末に無理な戦争を他国にしかけ、さんざんに負けて、失職してしまいます。

また金銭欲の象徴のようなタラースに憑りついた小悪魔は、その金を散在させ、父からもらった金も使い果たさせたため、ついにセミョーンは一文無しになってしまいました。

ところが、残った弟のバカのイワンに憑りついた悪魔は、いくら彼を痛めてつけても屈服ささせることができず、逆に兄たちのところから凱旋してきていた他の2人の小悪魔と一緒にいるところをイワンに見つかり、捕まえられてしまいました。

小悪魔たちはイワンに助けて欲しいと懇願したので、イワンは可愛そうに思って彼等の頼みを聞いてやることにしました。このとき小悪魔の一人が、助けてくれたお礼にと、一振りすると兵隊がいくらでも出る魔法の穂をイワンに与えました。

他の小悪魔のひとりも、それならと、揉むと金貨がいくらでも出る魔法の葉をイワンに差出し、またもうひとりは、どんな病気にも効く木の根をイワンに手渡しました。イワンが小悪魔を逃がしてやるとき、「イエス様がお前たちにもお恵みをくださるように」と言ったので、それ以来、小悪魔は地中深く入り、二度と出てこなくなりました。

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ところが、正直者のイワンは手に入れた宝で、戦争をしたり贅沢をしたりするようなことはけっしてしませんでした。魔法の穂で取りだした兵隊には、踊らせたり唄わせたりして楽しませ、魔法の葉っぱで出てきた金貨は近所の女性や子供に与えてしまいます。

ちょうどそのころ、地位を失い、無一文になった兄たち2人がイワンの所に戻ってきました。イワンはこれを喜び、彼等を養ってやるようになりました。彼等は結婚した嫁をも伴ってイワンのところに来ていましたが、次第にこの兄嫁たちには「こんな百姓家には住めない」とわがままを言いはじめます。

このため、イワンは兄たちの住む小屋を造ってやりましたが、その家づくりに兵隊たちを使い、材料の調達に大量の金貨を使いました。2人の兄はこれをみて仰天するとともに、たちまち生来の悪性を表に出します。「この兵隊と金があれば今までの失敗を取り戻せる」と考え、イワンにその兵隊と金を少し融通してくれないか、と頼みました。

バカのイワンは、この兄たちの要求も容れ、兵隊や金貨を渡してやりましたが、兄たちはそれを元手にして、やがて別の国へ行き、それぞれがその国で王様になりました。

そのころ、イワンの住んでいた国では、王女が難病になったとのうわさが流れてきました。イワンは早速、小悪魔からもらった木の根を持ってお城まで行き、王女の元で木の根を一振りするとたちまち王女は元気になりました。

喜んだ王様はイワンに王女の婿になってくれるように頼みます。やがて王様が死ぬと、イワンがこの国の王様になりました。しかし「体を動かさないのは性に合わない」イワンは、以前と同じように、領民とともに畑仕事をする、という気さくな王様でした。

一方、イワンのお妃になったかつての王女は、この夫をとても尊敬しまた愛していました。このため、イワンの妹の啞のマルタに畑仕事を教えてもらって夫を手伝うようになりました。こうしてイワンの王国では「働いて手にタコができた者だけが、食べる権利がある。手にタコのないものは、その余りを食べよ」が不文律となっていきました。

ところが、ある日のこと、3人の小悪魔を遣わして返り討ちにされた大悪魔が再び立ちあがります。彼は、人間に化けてそれぞれの兄弟たちの王国に行き、まずセミョーンの造った国では、将軍に化けてその前に姿を現しました。セミョーンはこの軍人に化けた悪魔に騙され、再び他国と戦争をするようになりました。

が、ことごとく破れ、国を追われてまたもとのような一文無しになりました。悪魔はさらにタラースの国へ行き、ここでは商人に化けて彼の前に現れました。このタラースもまた悪魔にそそのかされ、価値のない商品に大量の投資をさせられ、押し寄せた借金取りに財産を巻き上げられて、彼もまた再び無一文になりました。

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最後に大悪魔はイワンの国へ向かいます。ここでも、セミョーンを破滅させた時と同じように、将軍に化け、イワンに対して、このままでは兄の国のようになる、軍隊を持ってはどうか、と仕向けます。

が、イワンもさることながら、この国の人々はみんな馬鹿で、ただ働くだけが生きがいなため、こうした悪魔の讒言にも騙されません。これをみた悪魔は、今度はセミョーンの時と同じように商人に化け、イワンの国中に金貨をばらまきました。

ところが、イワンの国ではみんな衣食住は満ち足りており、金を見ても誰も欲しがりません。このため悪魔はほかにもあれこれ手を尽してイワンとこの国の領民を垂らしこもうとしますが、ことごとく失敗し、いつのまにやら長い年月が経ちました。

イワンの国においては、金で家を建てる民はおらず、みんながお互いに助け合って家を建てることがきまりだったため、悪魔は自分で持っていた金で家を買うことができません。また、食べ物も物々交換だったため、残り物しか食べられず、さしもの悪魔もだんだんと困窮して行きました。

しまいに悪魔は「手で働くより、頭を使って働けば楽をして儲けることができる」と王や人民に演説しはじめましたが、誰もこの悪魔の言葉の意味を理解しませんでした。

来る日来る日も悪魔はイワンの国のあちこちの辻に立ち、演説を繰り返していましたが、ある日のこと、その声が響き渡るようにと高い櫓(やぐら)の上で、頭で働くことの意義を演説していました。

しかし、いつものように聴衆は集まらず、朝から始めた演説は夕方まで続きました。そしてやがてさすがの悪魔も声が枯れ、力尽きていきました。彼は梯子を降りはじめ、その際、自虐的に「なんでだ、何でだ~」を繰り返しながら、自分の頭を梯子の段に叩きつけながら地上に降りて行きました。

が、あまりにも頭を打ちつけ過ぎたので脳震盪を起こし、頭からまっさかさまに地上に落ちてしまいました。

バカのイワン王はお城の高台からこれを見ていましたが、「はてさて頭で働くとは、このことか。こりゃーあの頭にはタコよりもさぞかし大きな瘤ができているだろう、どんないい仕事をしたか、ひとつ、見てきてやろう」と城を出て、悪魔の梯子の下へやってきました。

しかしそこには、大きな地割れがあるだけであり、地が裂けて出きたその大きな穴の中に悪魔は吸い込まれていってしまったようでした。

こうしてバカのイワン王と彼が統治するバカの国は、その後も永遠に幸せな国として続いていきました……とさ。

ちなみに、この悪魔がイワンの国にやってくる前に、別の国へ行き、この国でも同じように頭を使うようにこの国の住民に呼びかけました。ところが、この国の人々はイワンのバカの国とは異なり、これを受け入れ、頭だけを使ってお金を儲けようとしました。

しかもそれまでの法律を変えて他国と戦争ができるようにしましたが、やはり悪魔の目論見どおり戦争に敗れ、バブルもはじけて益を失い、歴史の中から消えていきました。

その国が、はたしてニッポンと呼ばれていたのかどうか、それは今となってはよくわかりません。

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