東急 vs 西武


先日、爪木崎の水仙を見に行った帰り、海岸沿いの135号が道路工事のために混雑していたため、修善寺へ帰るために伊豆西海岸を通って帰ることにしました。

下田から国道414号を通って北上し、途中の谷津から西進して県道15号を通り堂ヶ島へ向かうルートをとりましたが、この途中、河津から下田へ向かう伊豆急行の「蓮台寺駅」の側を通過しました。

辺鄙な山の中にある駅であり、なんでこんなところに駅あるんだろう、なぜ海側に線路を通さなかったのだろう、と疑問に思いましたが、昨日このブログでも取り上げた五島プラネタリウムの創設者、五島慶太のことを調べていてその理由がわかりました。

五島慶太は、東急グループの創設者であり、昭和の鉄道王として知られた人物ですが、ここ伊豆の観光開発にも力を注いだ人で、この伊豆急行も彼が率いる東急電鉄によって伊東から下田まで延伸されました。

その際、当初は海岸沿いに線路を敷設する予定だったものが、その予定地がすべて他社により買収されており、線路を通すことができず、やむをえずこんな山側の場所にまでトンネルを掘って線路を敷設し、下田までの開通を果たしたというのです。

この海岸沿いの土地を買収したというのが、ことあろうか東急グループの総帥として知られ、五島慶太の生涯の最大のライバルで、西武鉄道グループを率いる「堤康次郎」でした。そして、この鉄道建設にあたっては、「伊豆戦争」と呼ばれる激烈な企業間争いがあったこともわかりました。

この二人は、伊豆や箱根といった観光地の開発をめぐって長い間の対立を繰り返しており、ここ伊豆だけではなく箱根での争いは「箱根山戦争」と呼ばれており、人をして「戦争」とまで呼ばしめたこの争いは、現在でも語り草になるほど熾烈なものだったようです。

そもそもの事の発端は、戦前にその当時日本国有鉄道(国鉄)が熱海~下田間に鉄道を敷設する計画を立てたことでした。

伊豆では熱海や伊東より以南にもたくさんの良好な温泉があり、とくに海岸線沿いには風光明媚な場所が多いことから、戦前より下田までの鉄道敷設が地元民から要望されていました。

しかし、戦前の1920年代以降は、徐々に戦争へと突入していく時代であり、軍備拡張のため、大蔵大臣や総理大臣を歴任した濱口雄幸などが緊縮財政政策を推進したため、こうした国内の観光開発に絡む鉄道事業はなかなか実現されず、熱海~伊東間のみが「伊東線」の許可を受けることができ、なんとか路線が開通するにとどまっていました。

しかし、戦後の復興期になり国民の生活が落ち着いてくると、伊豆方面に湯治や観光に出かける人も増えるようになり、これに目をつけた五島慶太の東急でした。

東急は1956年(昭和31年)に伊東・下田間地方鉄道敷設免許を国に申請しましたが、これとちょうど時を同じくして、力をつけてきていた西武グループの堤康次郎も、地元有力者と謀って国鉄に伊東~下田間の鉄道敷設を働きかけます。

しかし、伊豆東部の各所にある温泉の有力者をまとめきれずこれに失敗。急遽系列会社であった「伊豆箱根鉄道」に同区間の免許を申請させます。しかし、この申請書は急ごしらえであったためか不備が多く、結局同じころに申請書を出していた東急側に免許が与えられました(1959年(昭和34年))。

ちなみに、東急側が勝ち取ったこの路線の権利は元々国鉄の計画路線であったため、免許発行には「早期に着工・完成させること」「国鉄の規格に準じて建設すること」「国鉄が列車の乗り入れを求めてきた時は応じること」「国鉄が買収を求めてきた時は応じること」という4条件がつけられました。

この条件のうち、「国鉄が買収を求めてきた時は応じること」だけは実現していませんが、ほかはその後その通りとなり、二番目の条件の「国鉄の規格に準じて建設すること」も忠実に守られたため、今でも伊豆東岸を走る伊豆急行線は国鉄規格に準じる1067mm幅の狭軌路線となっています。

伊豆開発に一歩遅れをとる形となった西武側ですが、東急側だけ免許を与えられたことを不服に思ったのか、はらいせなのかよくわかりませんが、鉄道の経由予定地であった下田市白浜周辺の土地を押さえるという実力行使に出ます。このあたりの土地の権利の多くは現在でも西部が持っており、例えばこの地には現在、下田プリンスホテルが建っています。

このため海沿いを走る予定だった伊豆急行線は河津駅の南で山側へ進路を変更せざるを得なくなり、長大な谷津トンネルを掘削して下田までの伊豆急行線を通すことになりました。我々が目にした蓮台寺駅は、このトンネルを抜けて二つめの駅になりますが、本来は海側に造られるべき駅だったわけです。

が、こうしてルート変更が行われた結果、ここに河内温泉という小さな温泉街もでき、今もそれなりに賑わっています。

こうして進路変更を余儀なくされた伊豆急行線なのですが、迂回を余儀なくされた河津~伊豆急下田間にできたこの蓮台寺駅は、その後、ここから松崎、堂ヶ島など西伊豆方面への玄関口となりました。

バブル期を経て1996年(平成8年)までには全ての特急列車が停車するなど伊豆急行線の主要駅の一つとなり、西伊豆における観光化に大いに貢献しました。

しかし、この蓮台寺から西伊豆へは当然ながらバスでしか行けません。伊豆急行線が開通した当時、この路線におけるバスは、戦前より伊豆半島全域にバス路線を持ち、国鉄との連帯運輸も行っていた「東海自動車」が運行していました。

ところが、この東海自動車は、東急と西部の間の伊豆戦争の最中にあっても中立の立場をとり、東急・西武のいずれにも与しませんでした。

このため東急が東海自動車の買収を画策したり、西部傘下の伊豆箱根鉄道が下田の中小バス会社の昭和乗合自動車を買収し、「伊豆下田バス」と改称して東海自動車のテリトリーである下田への進出を図るなど、争いは鉄道以外にも広がりました。

しかしその後バブルが崩壊したことで伊豆方面への「豪華旅行」も自粛されるようになるなど旅行形態が変化し、またモータリゼーションの進展もあいまって、伊豆半島を南へ南へと争いながら拡大抗争を繰り広げた両者とも、次第に事業の縮小がみられるようになっていきます。

一時は東証二部上場企業であった伊豆急行は、業績悪化に伴い2004年(平成16年)に東急の完全子会社になりました。

また蓮台寺駅からの西伊豆方面観光もふるわなっていき、2007年(平成19年)よりスーパービュー踊り子号が通過するようになり、さらに2009年(平成21年)からは踊り子号を含む全ての特急列車が蓮台寺駅を通過することが決定されました。

西部グループの伊豆箱根鉄道も、2006年(平成18年)には事業展開が望めないとして伊豆下田バスの解散とバス路線の廃止を決定し、かつては敵対していた東海自動車へ事業譲渡しています。

一方の東海自動車は、当初の伊豆急行線の開業により大打撃を受け、1971年(昭和46年)には既にこの両者のどちらにも属さない小田急グループの傘下に入りました。

その後鉄道と競合するバス路線を廃止し、拠点駅から特定観光地までのフィーダー輸送や南伊豆・西伊豆方面の輸送に注力するなど、業績の回復をめざしましたが、経営の悪化に伴い1999年(平成11年)には地域分社化を余儀なくされました。

地域分社化というのは、経営環境が厳しくなる状況下において、運営の効率化を果たすため、もともとの会社事業を細かく分けて分割し、これを中枢機能を持たせた管理会社が統合運営するというものです。

東海自動車では、タクシー事業を1999年(平成11年)に第一交通産業に譲渡するとともに路線バス事業を5つの運行会社に分割し、貸切バス事業も分社化。もともとの東海自動車は統括管理会社となり、この際に、従業員は全員退職となり、希望者を再び雇用する形になりました。

この分社化によって経営は持ち直し、その後2002年(平成14年)には、既に傘下に入っていた小田急グループ全体の効率化の一環として、同グループの「箱根登山鉄道」の熱海営業所の事業を引き継ぐようになったほか、沼津東海バスは、小田急傘下の沼津箱根登山自動車の事業も引き継いで「沼津登山東海バス」となりました。

なお、この「箱根登山鉄道」と「伊豆箱根鉄道」は私もよく混乱するのですが、前者は小田急グループに属し、後者は西武グループに属する別会社です。間違えないようにしましょう。ちなみに三島から修善寺まで乗り入れている駿豆線は、「伊豆箱根鉄道駿豆線」が正式名称であり、西武グループの一員ということになります。

この東海自動車の地域分社化による伊豆各地の事業の再編においては、地域毎の自治体が関わっていることも多く、両者の連携によって維持される路線も多くなっており、「東海バス」の名称で伊豆のあちこちを走っているバスの多くは半官半民の形で運行され、文字通り「地域の足」になっています。

東海バスは、前述のとおり、西武グループが手放した「伊豆下田バス」の事業を2006年(平成18年)に引き継ぎこれを吸収しており、これによって南伊豆地区を走るバスのすべてが東海自動車に統一されることとなり、伊豆半島のほとんどのバス路線は東海バスが仕切るという形になっています。

ただし、西武グループの伊豆箱根鉄道は、終点の修善寺駅から伊豆中部の観光地である長岡温泉や修善寺虹の郷、三津シーパラダイスといった観光地などを中心にバスやタクシーを運行していて、バス路線の一部では東海バスと競合しています。

東海バスはオレンジ色を主体としたバスですが、西武グループのバスはブルーが主体であり、その横腹や背後に西武グループのシンボルである、ジャングル大帝の「レオ」の顔がプリントしてあります。

こうして地元の自動車会社なども巻き込んだ、かつての東急と西武の「伊豆戦争」は現在ではすっかりなりをひそめています。

が、今ではその名残として、伊豆の東海岸では東急電鉄の運営する伊東~下田間の伊豆急行線が、また伊豆の中央部には西部グループが運営する駿豆線、そして伊豆の南を中心とする地域では路線バスを運営する小田急グループ傘下の東海自動車が君臨し、伊豆は大きく分けて三つの交通会社グループがしのぎを削っています。

ただ、東急や西武グループが鉄道乗り入れしていない西伊豆と伊豆南西部の地域は、いまだ交通網が手薄であり、厳密にいえば東海バスの運行が細々と行われているのですが、運行本数も少なく、マイカーを持っていない人達がこの地域に行くのには少々不便です。

実はマイカーを持っている我々もまだ西伊豆の堂ヶ島以南の松崎や南伊豆町といった地域には行ったことがなく、ここが唯一伊豆での「空白域」になっています。松崎には古い町並み、南伊豆町には波勝崎や石廊崎といった景勝地あるということで、今年はぜひ出かけてみたいところです。

今はまだ少々早いようですが、河津桜もあちこちで咲き始めているとのことであり、この2月3月はお出かけラッシュになるかもしれません。

寒い冬にうんざりしている関東地方や名古屋方面の方もそろそろ、梅や桜の開花が気になるところでしょう。

今週末は天気がよさそうです。ちょっと遠出をして南伊豆まで行ってはいかがでしょうか。その際、西武グループの鉄道を使うか、東急グループにするか、はたまた小田急グループにするかは自由です。が、我々はどのグループにも属さない我が家の愛車で行くことにしましょう。

あるプラネタリウムの話

昨日出かけた東京都内は、朝方は少し涼しかったものの、日中の気温はかなり上がり、先日降ったという雪の痕跡もほとんどなかったのは少々意外でした。

東名高速を使い、東京ICを経て首都高渋谷で一般道に降りましたが、その直前首都高の高架道路から新しくオープンした「渋谷ヒカリエ」が見えました。

この場所にはかつて、東急グループが建設し、東急百貨店が所有・運営する「文化施設」、「東急文化会館」がありました。

が、私が渋谷に勤務していた20年ほど前のころ既に「文化施設」というのもおこがましいほど老朽化ており、1989年(平成元年)、東急百貨店本店に併設される形で「新」複合文化施設として「Bunkamura」が開業すると、このころから東急グループを代表する施設ではなくなりました。

廃館になる直前まで東急の運営する映画館などが入っており、私も若いころには何度となくここに入ったことがありますが、いつ行っても古ぼけたビルだなーという印象であり、正直なところ早く新しい施設に建て替わらないかな~と思っていました。

このビルが取り壊されはじめたのは、2~3年前だったと思います。東京を離れる前、このあたりを通る機会があり、その取り壊しの様子をみたとき、ああ、ついにその日が来たか、と思っていましたが、その後この跡地で新ビルの建設が始まったときには、今度は何になるのかなと思っていました。

そして、我々が昨年東京を去って伊豆に来た直後にオープンし、これがヒカリエという名前の複合施設になったことを知ったのはかなりあとのことでした。

昨日の午前、私はあまり私用に割く時間がなかったためここに行くことはできませんでしたが、都内での打ち合わせ? 私も行く行く! といっていそいそとついて来た新し物好きのタエさんは、私の打ち合わせの間にちゃっかりとここを見学してきたようです。

なかなか「おしゃれ」に仕上がっていたようで、女性が多かったということですから、内部の仕様やテナントなどもどちらかといえば女性客目当ての志向になっているのだろうと推察。

ただ、タエさんによれば地下3~5階の食品販売を中心とした商業スペースはかなり充実していて男性も楽しめそうとのことで、また中層階には「東急シアターオーブ」「ヒカリエホール」等の文化施設、高層部にはディー・エヌ・エー等が入居する業務施設がゾーニングされているとのことであり、女性客だけでなく男性客も抜かりなく惹きつけるつくりは、さすが東急の仕事だなと思わせます。

このヒカリエの前身の東急文化会館も、開設した1956年(昭和32年)当時は東京の名所として修学旅行のコースに組み込まれた程の人気を博したそうで、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上8階、その上に設置されたプラネタリウムのための塔屋3階建を含む、東京でも有数の建築物でした。

このプラネタリウムは、東急文化会館の廃館にともない、2001年3月に閉館しましたが、「天文博物館五島プラネタリウム」の「五島」は開館当時の東京急行電鉄会長、五島慶太の姓にちなみます。「東急文化会館に文化施設が欲しい」という五島の思いと「戦後の東京にプラネタリウムを!」という天文・博物館関係者の双方の思いから生まれた施設だそうです。

元々、東京には1938(昭和13年)に開館した東日天文館というプラネタリウム放映施設が有楽町ありましたが、終戦直前に空襲により焼失し、東京近郊にプラネタリウム施設はない状態でした。ちなみに、大阪にあった日本で最初のプラネタリウム、天象館は戦災を逃れ、戦後営業を再開しました。

このため、東京の天文・博物館関係者たちの中では東京にもプラネタリウムを復活させたいと願う関係者が多く、このうちの国立科学博物館の職員たちが中心となり、東京天文台(現在の国立天文台)の台長や研究者が所属する「東京プラネタリウム設立促進懇話会」が1953年(昭和28年)に設立されました。

このとき、東急に新しいビルが建つという噂を聞きつけたこれら関係者らは、五島慶太に、このビルにプラネタリウムを併設して欲しいという嘆願を手紙で行いました。1955年から既に東急文化会館の建設は始まっていましたが、そのさなかに手紙を受け取った五島は、プラネタリウム建設を英断。

自社事業の拡大のために他の企業の乗っ取りを強引に進めたため「強盗慶太」とまで呼ばれた五島慶太ですが、こうした文化施設の建設には意外に熱心であり、当時地味で人が素通りする状態であった渋谷をなんとか復興させたいという思いがあったといいます。

しかし1944年(昭和19年)に東條英機内閣の運輸通信大臣に就任していたため、戦後準戦犯とみなされ、公職追放令の憂き目を見ていた五島は、この当時もまだ公には東急の経営に手を出せない状態でした。このため、影で東急を支えていたいという彼の願いと合致したのがこのプラネタリウム建設であったようです。

人を呼ぶ施設として東急文化会館に目玉となる施設を入れればそれが東急の復興にもつながると考えたようで、プラネタリウムなどというものがあるとは全く知らなかった五島は、最初は「屋上で鯨を泳がせろ」と言っていたといいます。

無論、この「鯨博物館」計画は早々に頓挫し、そこへちょうど入ってきたのがプラネタリウム建設の話というわけです。

施設は1956(昭和31年)に正式に文部大臣の許可を受け、その設立団体は「財団法人天文博物館五島プラネタリウム」として発足。機器には、西ドイツカール・ツァイス社製の最新鋭のプラネタリウム投影機IV型1号機が導入されました。この当時の大学初任給が1万円の時代に約7000万円もしたという高級機で、現在の価格にすれば10億円は軽く超える値段です。

それだけにプラネタリウムを開設後の人気は上々で、東京の新名所として喧伝され、数多くの人が渋谷を訪れるようになりました。東急文化会館を中心とした渋谷にはこのほかにも多くの商業施設が進出し、五島慶太のもくろみどおり人であふれかえる東京でも有数の繁華街になりました。

しかしその後、高度成長時代を経てプラネタリウム以外の映画や演劇といった他の娯楽が日本中を席巻するようになり、東急文化会館の人気、ひいては五島プラネタリウムの人気も急激に落ち込んでいきます。

国内の他の箇所にもプラネタリウムが建設されましたが、その多くは採算がとれないために次第に閉鎖さえるようになり、この五島プラネタリウムもまた当初最新鋭施設であったものが老朽化したこともあり、入場者は年々減少の一歩を辿っていました。

そこへ東急文化会館の解体の話もあり、ついに2001年(平成11年)3月に惜しまれつつもプラネタリウムは閉館、財団は解散となりました。

ちなみに財団としては入場者の減少などからもっと早くに閉館を予定したそうであり、財団側は当初「1999年に閉館」の旨を東急側に伝えたところ、逆に東急側から「20世紀いっぱいまで」とお願いされたため、ミレニアムである2000年の翌年に閉館されたものです。

東急としても愛着のある施設であり、設立に関係した内部関係者からぎりぎりまで存続させたいという希望の意見などがあったのでしょう。

この五島プラネタリウムで使用されていたプラネタリウム投影機は、現在も渋谷区文化総合センター大和田で展示保存されているそうで、この投影機も含めたこの当時の館の資料は現在、渋谷区教育委員会が所管する「渋谷区五島プラネタリウム天文資料」に引き継がれているそうです。

実は私もこのプラネタリウムを若いころに一度見に行ったことがあります。どんな番組をやっていたのか良く覚えていませんが、梅雨時の星空も見れないような時期だったような記憶があり、日々の会社での仕事がマンネリ化していた当時、暗闇に広がる星々をみてなんだかずいぶんとスッキリとした気分になったことなどが思い出されます。

20年ほど前に留学から日本へ帰ってきてからも、プラネタリウムは良く見に行った思い出あり、西東京市の多摩六都科学館や、八王子市のサイエンスドーム八王子、府中市の府中市郷土の森博物館、相模原市の相模原市立博物館などには近いせいもあって、幼い息子や亡き妻を連れてよく通ったものです。

私同様若いころからこうしたプラネタリウムに慣れ親しんでいる世代の中には、この五島プラネタリウムにかなりの愛着を持っていた人も多いようで、廃止が決まったときも存続の嘆願などがかなり寄せられました。が、それもかなわないとわかると、せめて投影機の保存だけでも、ということで上記の渋谷区による保存が決まったといういきさつがあるようです。

日本には、現在でもおよそ300館を超えるプラネタリウム館が存在し、サッカーJリーグの観客動員数を上回る年間500万人もの人が利用しているといいますが、美術館や博物館等の文化施設同様、プラネタリウム館運営は入場料収入のみでは経営が成り立ちにくい文化事業です。

国や自治体の緊縮財政の影響で、自治体が運営母体のプラネタリウム館の中にも、閉館や運営規模の縮小を余儀なくされている所が少なくないようです。

ちなみに、静岡には、浜松市と富士市そして焼津市の三カ所にしかプラネタリウムがないそうで、いずれも伊豆からは少々距離もあるので、以前のように足しげくプラネタリウムを見に行くということもこれからは少なくなりそうです。

が、ここ伊豆では満天の星空がいつも見えるので、言ってみれば毎日プラネタリウムの下で暮らしているようなものです。

そんなきれいな冬の夜空も、そろそろ春が近づくにつれて曇っていることも多くなってきました。最近、きれいな星空を撮影したくて何度かチャレンジしているのですが、やはり本格的な機器も欲しいということで、そのうち天体望遠鏡を買おうかなと考えています。

そしたら、このブログページでもその輝く星々でいっぱいの写真を掲載したいとおもいます。いつになるかわかりませんが。。