昨日出かけた東京都内は、朝方は少し涼しかったものの、日中の気温はかなり上がり、先日降ったという雪の痕跡もほとんどなかったのは少々意外でした。
東名高速を使い、東京ICを経て首都高渋谷で一般道に降りましたが、その直前首都高の高架道路から新しくオープンした「渋谷ヒカリエ」が見えました。
この場所にはかつて、東急グループが建設し、東急百貨店が所有・運営する「文化施設」、「東急文化会館」がありました。
が、私が渋谷に勤務していた20年ほど前のころ既に「文化施設」というのもおこがましいほど老朽化ており、1989年(平成元年)、東急百貨店本店に併設される形で「新」複合文化施設として「Bunkamura」が開業すると、このころから東急グループを代表する施設ではなくなりました。
廃館になる直前まで東急の運営する映画館などが入っており、私も若いころには何度となくここに入ったことがありますが、いつ行っても古ぼけたビルだなーという印象であり、正直なところ早く新しい施設に建て替わらないかな~と思っていました。
このビルが取り壊されはじめたのは、2~3年前だったと思います。東京を離れる前、このあたりを通る機会があり、その取り壊しの様子をみたとき、ああ、ついにその日が来たか、と思っていましたが、その後この跡地で新ビルの建設が始まったときには、今度は何になるのかなと思っていました。
そして、我々が昨年東京を去って伊豆に来た直後にオープンし、これがヒカリエという名前の複合施設になったことを知ったのはかなりあとのことでした。
昨日の午前、私はあまり私用に割く時間がなかったためここに行くことはできませんでしたが、都内での打ち合わせ? 私も行く行く! といっていそいそとついて来た新し物好きのタエさんは、私の打ち合わせの間にちゃっかりとここを見学してきたようです。
なかなか「おしゃれ」に仕上がっていたようで、女性が多かったということですから、内部の仕様やテナントなどもどちらかといえば女性客目当ての志向になっているのだろうと推察。
ただ、タエさんによれば地下3~5階の食品販売を中心とした商業スペースはかなり充実していて男性も楽しめそうとのことで、また中層階には「東急シアターオーブ」「ヒカリエホール」等の文化施設、高層部にはディー・エヌ・エー等が入居する業務施設がゾーニングされているとのことであり、女性客だけでなく男性客も抜かりなく惹きつけるつくりは、さすが東急の仕事だなと思わせます。
このヒカリエの前身の東急文化会館も、開設した1956年(昭和32年)当時は東京の名所として修学旅行のコースに組み込まれた程の人気を博したそうで、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上8階、その上に設置されたプラネタリウムのための塔屋3階建を含む、東京でも有数の建築物でした。
このプラネタリウムは、東急文化会館の廃館にともない、2001年3月に閉館しましたが、「天文博物館五島プラネタリウム」の「五島」は開館当時の東京急行電鉄会長、五島慶太の姓にちなみます。「東急文化会館に文化施設が欲しい」という五島の思いと「戦後の東京にプラネタリウムを!」という天文・博物館関係者の双方の思いから生まれた施設だそうです。
元々、東京には1938(昭和13年)に開館した東日天文館というプラネタリウム放映施設が有楽町ありましたが、終戦直前に空襲により焼失し、東京近郊にプラネタリウム施設はない状態でした。ちなみに、大阪にあった日本で最初のプラネタリウム、天象館は戦災を逃れ、戦後営業を再開しました。
このため、東京の天文・博物館関係者たちの中では東京にもプラネタリウムを復活させたいと願う関係者が多く、このうちの国立科学博物館の職員たちが中心となり、東京天文台(現在の国立天文台)の台長や研究者が所属する「東京プラネタリウム設立促進懇話会」が1953年(昭和28年)に設立されました。
このとき、東急に新しいビルが建つという噂を聞きつけたこれら関係者らは、五島慶太に、このビルにプラネタリウムを併設して欲しいという嘆願を手紙で行いました。1955年から既に東急文化会館の建設は始まっていましたが、そのさなかに手紙を受け取った五島は、プラネタリウム建設を英断。
自社事業の拡大のために他の企業の乗っ取りを強引に進めたため「強盗慶太」とまで呼ばれた五島慶太ですが、こうした文化施設の建設には意外に熱心であり、当時地味で人が素通りする状態であった渋谷をなんとか復興させたいという思いがあったといいます。
しかし1944年(昭和19年)に東條英機内閣の運輸通信大臣に就任していたため、戦後準戦犯とみなされ、公職追放令の憂き目を見ていた五島は、この当時もまだ公には東急の経営に手を出せない状態でした。このため、影で東急を支えていたいという彼の願いと合致したのがこのプラネタリウム建設であったようです。
人を呼ぶ施設として東急文化会館に目玉となる施設を入れればそれが東急の復興にもつながると考えたようで、プラネタリウムなどというものがあるとは全く知らなかった五島は、最初は「屋上で鯨を泳がせろ」と言っていたといいます。
無論、この「鯨博物館」計画は早々に頓挫し、そこへちょうど入ってきたのがプラネタリウム建設の話というわけです。
施設は1956(昭和31年)に正式に文部大臣の許可を受け、その設立団体は「財団法人天文博物館五島プラネタリウム」として発足。機器には、西ドイツカール・ツァイス社製の最新鋭のプラネタリウム投影機IV型1号機が導入されました。この当時の大学初任給が1万円の時代に約7000万円もしたという高級機で、現在の価格にすれば10億円は軽く超える値段です。
それだけにプラネタリウムを開設後の人気は上々で、東京の新名所として喧伝され、数多くの人が渋谷を訪れるようになりました。東急文化会館を中心とした渋谷にはこのほかにも多くの商業施設が進出し、五島慶太のもくろみどおり人であふれかえる東京でも有数の繁華街になりました。
しかしその後、高度成長時代を経てプラネタリウム以外の映画や演劇といった他の娯楽が日本中を席巻するようになり、東急文化会館の人気、ひいては五島プラネタリウムの人気も急激に落ち込んでいきます。
国内の他の箇所にもプラネタリウムが建設されましたが、その多くは採算がとれないために次第に閉鎖さえるようになり、この五島プラネタリウムもまた当初最新鋭施設であったものが老朽化したこともあり、入場者は年々減少の一歩を辿っていました。
そこへ東急文化会館の解体の話もあり、ついに2001年(平成11年)3月に惜しまれつつもプラネタリウムは閉館、財団は解散となりました。
ちなみに財団としては入場者の減少などからもっと早くに閉館を予定したそうであり、財団側は当初「1999年に閉館」の旨を東急側に伝えたところ、逆に東急側から「20世紀いっぱいまで」とお願いされたため、ミレニアムである2000年の翌年に閉館されたものです。
東急としても愛着のある施設であり、設立に関係した内部関係者からぎりぎりまで存続させたいという希望の意見などがあったのでしょう。
この五島プラネタリウムで使用されていたプラネタリウム投影機は、現在も渋谷区文化総合センター大和田で展示保存されているそうで、この投影機も含めたこの当時の館の資料は現在、渋谷区教育委員会が所管する「渋谷区五島プラネタリウム天文資料」に引き継がれているそうです。
実は私もこのプラネタリウムを若いころに一度見に行ったことがあります。どんな番組をやっていたのか良く覚えていませんが、梅雨時の星空も見れないような時期だったような記憶があり、日々の会社での仕事がマンネリ化していた当時、暗闇に広がる星々をみてなんだかずいぶんとスッキリとした気分になったことなどが思い出されます。
20年ほど前に留学から日本へ帰ってきてからも、プラネタリウムは良く見に行った思い出あり、西東京市の多摩六都科学館や、八王子市のサイエンスドーム八王子、府中市の府中市郷土の森博物館、相模原市の相模原市立博物館などには近いせいもあって、幼い息子や亡き妻を連れてよく通ったものです。
私同様若いころからこうしたプラネタリウムに慣れ親しんでいる世代の中には、この五島プラネタリウムにかなりの愛着を持っていた人も多いようで、廃止が決まったときも存続の嘆願などがかなり寄せられました。が、それもかなわないとわかると、せめて投影機の保存だけでも、ということで上記の渋谷区による保存が決まったといういきさつがあるようです。
日本には、現在でもおよそ300館を超えるプラネタリウム館が存在し、サッカーJリーグの観客動員数を上回る年間500万人もの人が利用しているといいますが、美術館や博物館等の文化施設同様、プラネタリウム館運営は入場料収入のみでは経営が成り立ちにくい文化事業です。
国や自治体の緊縮財政の影響で、自治体が運営母体のプラネタリウム館の中にも、閉館や運営規模の縮小を余儀なくされている所が少なくないようです。
ちなみに、静岡には、浜松市と富士市そして焼津市の三カ所にしかプラネタリウムがないそうで、いずれも伊豆からは少々距離もあるので、以前のように足しげくプラネタリウムを見に行くということもこれからは少なくなりそうです。
が、ここ伊豆では満天の星空がいつも見えるので、言ってみれば毎日プラネタリウムの下で暮らしているようなものです。
そんなきれいな冬の夜空も、そろそろ春が近づくにつれて曇っていることも多くなってきました。最近、きれいな星空を撮影したくて何度かチャレンジしているのですが、やはり本格的な機器も欲しいということで、そのうち天体望遠鏡を買おうかなと考えています。
そしたら、このブログページでもその輝く星々でいっぱいの写真を掲載したいとおもいます。いつになるかわかりませんが。。