会津 vs 長州

NHK大河ドラマの「八重の桜」は、初回の平均視聴率21.4%と好スタートを切ったようですが、その後はだいたい18%台で推移していて、昨年思ったほど視聴率の上がらなかった平清盛の初めてのころの17%台をかろうじて1%前後勝っているだけの状態のようです。

ヒット作といわれた08年の「篤姫」は、常に20%以上の視聴率をキープしていたようなので、それに比べるとやや低調な滑り出しが少々気になります。

もっとも視聴率がよかろうが悪かろうが、ドラマは続いていくわけであり、私のような歴史ファンにとっては、今回の作品が幕末モノというだけでワクワクしてしまい、毎回面白く見させてもらっています。

この先のドラマの展開としては、当然のことながら戊辰戦争に突入していき、この中で主人公の八重がスペンサー銃を手に、官軍と戦うシーンなども放映されると思われます。

また、会津戦争の中、会津藩が組織した少年兵の部隊「白虎隊」が、会津の鶴ケ城を眼下に臨む飯盛山で集団自決した事件なども扱われるであろうことから、徐々に視聴率もあがっていくのではないでしょうか。

ところで、この会津を攻めた官軍の主力軍であった長州藩こと、現山口県人達と会津の人々はこの会津戦争の悲劇が起こってから100年以上経つというのに、ごく最近まで和解していなかった、という話があるのをご存知でしょうか。

ちょうど昭和から平成に年号が変わった平成元年(1988年)のころ、旧長州藩の城下町であった山口県萩市から姉妹都市を結ぼうという提案があり、これを受けて会津若松市では、市議会議員らがその受け入れの準備を進めたのですが、当時50歳以上の人を中心に「とんでもない」という批判が出てこの提携を中止したというのです。

萩市の側は重ねて和解を呼びかけましたが、会津のほうでは「ならぬことはならぬ」と返したといい、その後長いあいだこの和解の話が再び持ち上がることはありませんでした。

ところが、2007年4月、山口県では8人目の総理大臣となった自民党の安倍晋三首相の発言によって、この和解話は急展開を迎えます。

安倍晋三首相が2007年4月14日、「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」と発言したのです。

場所は福島県会津若松市で、参院福島補選の応援演説の中でのことで、その日の夕方のニュースで安倍首相の発言を知った元会津若松市長の早川広中さんは「よく言ってくれたと思った」と述べたそうです。

同氏は、地元会津若松市で「白虎隊記念館」の理事長を勤めたこともあり、白虎隊に関する著書もあり、「当然の発言。もっと早く言ってほしかったくらいだ」とも述べたといい、この安倍首相の発言を、早川氏だけでなく、多くの市民が歓迎したに違いありません。

会津の人々にすれば、長州への恨みは戊辰戦争だけではないようで、長年の長州と会津の不仲は、明治維新以降も長州閥の高官が会津出身者の登用を妨害するなど長い経緯が積もり積もった問題でもあったといわれています。

しかし、現代の若い会津の人々には既にそういうわだかまりを持っている人は少ないようで、ある新聞社が会津若松市の市役所の30代、40代の職員数人に話を聞いてみたところ、「こだわりはない。首相発言も特に感想はない」という人が多かったといいます。

しかしその一方で、この和解を評価しつつも、親や祖父母から聞かされた恨み話がしみついているという人も多いといわれ、なかなか複雑な感情を持つ会津人はいまだに多いようです。

ある時期まで会津若松市では、市長が県外の会合に出かける際、山口県内の首長と同席予定がある場合、主催者側の自治体関係者から「同席になって大丈夫でしょうか」などの問い合わせがあることも珍しくなかったといい、時間差で2人の市長が入れ違いになるよう調整することまであったといいます。

1996年(平成8年)にも、萩市長が市民劇団の招きに応じ、初めて会津若松市を「非公式」に訪れ、翌年会津若松市長が「答礼」として萩市を訪問した際も、出迎えの場面では握手した2人ですが、記者会見の場で握手を求められると、会津若松市長は「こうしたシーンが「和解」としてニュースで流れるには時間が必要だ」と応じなかった、というのは今でも語り草となっています。

一方の山口県側の反応はというと、2006年9月には「長州と会津の友好を考える会」という会が萩市にでき、この会から長年会津若松市へ通いうなどの積極的な活動をしています。

しかし、会津側との折衝において「今でも基本的に厳しい態度の人は多い」と肌で感じているメンバーも多いようで、萩市の側から謝罪とか和解とかは口に出せる雰囲気にはなかったともいわれています。

「長州と会津の友好を考える会」のメンバーのひとりは、某新聞社のインタビューに答え、安倍首相発言について、「戊辰戦争だけでなく、その後の歴史を含めどこまでご存知でそういう発言をされたのかな、とは思う」と述べ、自身は批判的な気持ちはないといいつつも「山口県民の中には違和感を持つ人もいるかもしれません」と語っています。

そんな両市だっただけに昨年4月に某新聞で「萩市が会津若松市に震災義援金2200万円送る」というニュースを目にしたときは、関係者たちは大きな衝撃受けたといいます。

東日本大震災で会津若松市は、津波や原発事故の被害を受けた沿岸部からの避難者を大量に受け入れ、これを知った「仇敵」萩市が支援を申し出たのです。会津若松市は萩市からこの義援金や原発事故避難者用の救援物資の提供を受け、これに対して、会津若松市長は、萩市をお礼の意味で訪問しました。

萩市によれば、義援金は市職員や市議会などからの寄付だそうで、これとは別に、萩市唐樋町の町内会から50万円が寄付されたということで、唐樋町には白虎隊の志士を供養する「地蔵堂」があり、町内会が「ぜひ会津若松市に」と50万円を預けたということです。

さらに昨年の11月、萩市長は会津支援の一環として会津若松を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行っています。こうした萩市からの善意を受け、会津若松市の職員は「まさか、萩市から支援が届くとは思わなかった」といい、一方の萩市の担当者は「過去にはいろいろありましたけど、困ったときはお互い様です」と述べたといいます。

歴史を振り返るとこの問題の解決はなかなか簡単ではないと思われましたが、震災をきっかけに両市が和解したとすれば、これは震災の死者たちが、会津戦争の死者たちにそのように働きかけたのかもしれません。あるいは諍いは永遠には続かないという歴史上の必然でもあるのでしょう。

奇しくもこうした「和解事件」があった翌年に八重の桜のようなドラマも放映され、これを見る両市の人々もまた、改めて歴史を見直す良いきっかけになっていくことでしょう。

さて、今日はこれから都内へ出張です。あまり時間もないのでこれくらいにします。都内の雪は大丈夫でしょうか。