ボーイング 929

先日、伊豆にも雪が降りましたが、それ以降は安定した天気が続き、ここのところほとんど毎日、富士山がよく見えます。

まだまだ1月なので、雪が降るとしてもまだまだこれからだな、と思ってカレンダーを見ると、なんともうすぐ1月も終わり、2月です。

冬季の降雪量は、関東甲信越、東海地方とも、1月よりも2月のほうが多いのが通例のようですから、これから2月に入ってもまだまだ雪が降るかもしれません。

雪の多い地方の人や東京の人たちにとっては、あまりありがたくないかもしれませんが、ここ伊豆では雪が降ることのほうが珍しいので、私としてはむしろ望むところです。

先日伊豆にもたらされた雪でも、かなり綺麗な雪景色が見られ、このときには達磨山に登ってきたのですが、絶景でした。まだ、そうした写真は整理していませんが、また良い写真ができたら、またこのブログでもアップしましょう。

さて、先日、ボーイング787についての記事を書きましたが、その後、事故原因の究明についてはさっぱり報道されなくなりました。787が乗り入れている路線を利用している人たちにとってはやきもきするばかりの状況が続いていると思いますので、一日も早い解決を期待したいところです。

ところで、こうした航空機の製造で世界最大のメーカーであるボーイング社ですが、飛行機ばかりではなく、船舶の製造開発もしているというのをご存知だったでしょうか。

「ボーイング929」というのがそれで、まるで航空機の名前のようですが、これは水上を高速で走るいわゆる「水中翼船」と呼ばれる船です。

旅客用はジェットフォイル (Jetfoil) という愛称で呼ばれることが多いようですが、軍用のものもあり、こちらも同じくジェットフォイル、またはその用途のためにミサイル艇などと呼ばれています。

水中翼船全体の総称は、ハイドロフォイル(Hydrofoil) といい、これは推進時に発生する水の抵抗を減らす目的のため、船腹より下に「水中翼」(すいちゅうよく)と呼ばれる構造物を持った船のことをさします。

それではここで、ざっと水中翼船についてざっと述べておきましょう。

全没翼型と半没翼型

いわゆる「排水型」と呼ばれる、喫水線以下の船体が水中に沈み込む一般の船では、速度に関係なく浮力を得ることができますがが、水による大きな抗力から逃れることはできません。

船が進むときに水から受ける「抗力」は速度の二乗倍で増加するため、スクリューで船を推進させる場合には、機関の出力を大きくしても40ノット(時速約74km)あたりで頭打ちとなります。また、全長に対し全幅を極端に狭くする必要もあり、船の最大の利点でもある積載性をも殺ぐ結果となります。

そこで、従来の船よりもさらなる高速な船ができないかと研究が始められた結果、水との接触面を極端に少なくでき、抵抗を揚力に結びつける効果の高い水中翼船が開発されました。

この水中翼船は、低速で水上を航行する際には船体を水面下に浸けて航行しますが、高速航行をする際には、水中に設けられた「水中翼」の角度を上向きにすることで、この水中翼から「揚力」を得、これによって船体を海面上に持ち上げ、水中翼のみが水中に浸っている状態にします。そしてこれにより、水による抗力を大幅に小さくできます。

水中翼船には構造や推進方式が様々あり、構造上の分類では、高速航行時に水中翼の一部が水面上に出る「半没翼型水中翼船」と、水中翼の全てが水面下にある「全没翼型水中翼船」とに大まかに分けられます。そして、前述のボーイング929はこの「全没翼型水中翼船」になります。

さらに全没翼型水中翼船には、単胴型と双胴型がありますが、単胴型の全没翼型水中翼船がこのボーイング929であり、日本では川崎重工業の子会社・川重ジェイ・ピイ・エスがボーイング社のライセンスを取得して製造をしており、また、双胴型の全没翼型水中翼船には、三菱重工が開発した「スーパーシャトル400」などがあります。

全没翼型は半没翼型と比較して安定性に劣るとされており、これは、半没翼型の場合は、多少震動が多いものの、特に水上に出た水中翼の制御をしなくても安定した浮上がなされるのに対し、全没翼型では、翼が水中に没する翼部分が多くて水の抵抗が強いため、そのような自律性があまり期待できないためです。

また、半没翼型の水中翼には大きく上横に反り上がるような補助翼を設けることができ、これによって荒天時などには横揺れに対する復元力が確保できるのに対し、全没翼型は翼が水中に没しているのでこうした小細工ができません。

さらに、半没翼型は水の抵抗が少ないため、低燃費での高速航行が可能であり、こうした全没翼型よりも数々の優れた面が評価され、水中翼船の開発当初は、半没翼型のほうが主流でした。

しかし一方では、波の影響を受けやすい半没翼型は、乗り心地という点に関しては全没翼型に劣ります。また、少々複雑な水中翼であることからそのメンテナンスなどのための維持コストが高いのが難点です。

主流となった全没翼型929

このように欠点はあるものの、特に水中翼に関しては特別な制御をしなくても安定した浮上がなされ、燃費も比較的良いなどの長所多いことから、水中翼船が我が国に導入された当時は、半没翼型が主流でした。

しかし、その後、全没翼型では、コンピュータによる水中翼の細かな制御技術が確立され、とくにボーイング社の全没翼型水中翼船では抜群の安定性が確保できるようになり、他の船でも次第にこの技術が流用されていきました。

全没翼型の安定性が確保されると、逆に上述のような半没翼型のデメリットが浮き彫りになってきました。とくに、その乗り心地を考えると、上下に大きく揺れる半没翼型水中翼船では船酔いをする人があいつぎ、また燃費は良いとはいえません。

船の状態を常に良好なコンディションに保っておくためには水中翼のメンテナンスが欠かせず、この費用が思ったより嵩むことなどが浮き彫りになってきました。

さらに、半没翼型は、水中翼が船底から横にはみ出すように取り付けられているものが多く、こうした水中翼の接触を防ぐ専用の接岸施設のない港には、入港することができない等の欠点もあります。

こうしたことから、半没翼型を選択するユーザーはだんだんと姿を消していき、結果として、現在では全没翼型のほうが主流となりました。

日本では1960年代に商業用半没型水中翼船が相次いで登場し、新明和工業の15人乗りの小型船や、三菱造船下関の小型・中型船(80人乗)、日立造船神奈川の小型~大型船(130人乗)などが相次いで世に出ました。

その後、日立造船神奈川は、ドイツのシュプラマル社の半没翼型水中翼船のライセンス契約を取得して水中翼船を建造しはじめ、型式PT20(70人乗)やPT50(130人乗)を中心に50隻ほどの水中翼船を生産し、これらが瀬戸内海を中心に運航されはじめました。

代表的な運航会社として、瀬戸内海汽船、石崎汽船、阪急汽船、名鉄海上観光船等があり、
また東海汽船が東京湾横断航路でこのシュプラマル社の半没翼型水中翼船を使っていました。

しかし、前述のように半没翼型水中翼船の欠点が目立つようになっていった結果、次第に他の高速船やジェットフォイル(929)にシェアを奪われていき、1999年の石崎汽船の松山~尾道航路の最終運航を以って、半没型水中翼船は国内定期航路から姿を完全に消してしまいました。

こうして、1990年代に入ってから半没型水中翼船よりも全没型水中翼式のほうが主流となりましたが、その高速安定性に軍部が目をつけました。

海上自衛隊は1993年から95年にかけて、全没型水中翼式の1号型ミサイル艇(PG)3隻を建造していますが、これもジェットフォイル(929)をベースとしたイタリア海軍のスパルヴィエロ級ミサイル艇をタイプシップとしたものです。

これはボーイングのライセンスを基にイタリアのフィンカンティエーリ社が1983年に収益させたものであり、これが、ちょうどこのころ中国や韓国からの領海侵犯に悩まされ、沿岸を高速で運行できるミサイル艇を探していた海上自衛隊の目を引き、住友重機械工業がライセンスを受けて1993年-1995年に1号型ミサイル艇を3隻建造しました。

そもそも、929のような水中翼船は、航空機メーカーであるボーイング社が当初は軍事目的で開発を始めたものです。その技術を水上に対して適用する研究を始めたのは1962年頃で、1967年にパトロール用の小型艇が実用化されました。

これがベトナム戦争で有用であったため、その後NATOの依頼によりミサイル艇が開発され、このときに「929」の型番が与えられました。

従って、929は旅客用から軍用へ転用されたのではなく、もともとは軍用だったものが、民間で使われるようになったものです。

現在でもその抜群の安定性能と高速性のために各国で軍用に採用されているようですが、船体がすべてアルミニウム合金で作られているため高価であり、また高速が出る分、それなりに「燃料食い」であり、あまり軍部の拡張に余裕のない国では敬遠されているようです。

もともとが地中海を活躍の場とするイタリア海軍向けの設計であり、日本においては、日本海などの荒波で運用するには船型が小型過ぎたようです。当初は18隻を建造する計画であったようですが、冷戦終結という状況の変化もあって結局3隻で建造は打ち切られ、この3隻も、1995年までに順次廃役になりました。

現在では、より大型でステルス性にも優れる「はやぶさ型」というに移行しており、2004年までに6隻が就航し、こちらが現在の自衛隊の主力ミサイル艇になっています。

929の構造・性能

さて、この929の構造ですが、前述までのとおり、水中翼船としては全没翼型に属し、翼が全て水中にあります。

ガスタービンを動力としたウォータージェット推進であり、停止時および低速では通常の船と同様、船体の浮力で浮いて航行し、「艇走」と呼ばれます。速度が上がると翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上し離水、最終的には翼だけで航行する、「翼走」という状態になります。

船体の安定は Automatic Control System(ACS、自動姿勢制御装置)により制御された翼のフラップにより行われ、進行方向を変える場合もフラップを使うため航空機さながらに船体を傾けながら旋回できます。翼走状態では、水面の波の影響を受けにくく高速でも半没翼式水中翼船に比べ乗り心地がよいようです。

翼は跳ね上げ式になっており、停止・低速時の吃水を抑えることができます。また半没翼型と異なり翼の左右への張り出しもないため港に特別の設備なしに着岸できます。さらに翼にはショックアブソーバーが付いており、材木など多少の障害物への衝突に耐えることができます。

姿勢制御はACSと油圧のアクチュエータ(駆動装置)に依存するので、推進用のタービンの整備ともあわせ、航空機なみのメンテナンスが必要な点が難点です。

主要な諸元・性能は以下のとおりです

諸元(旅客用・ジェットフォイル)
速度: 約45ノット(時速約83km)
航続距離: 約450km
船体材料: アルミニウム合金
全長: 27.4m
水線長: 23.93m
全幅: 8.53m
吃水: 5.40m(艇走状態でストラットを完全に下げた時)
吃水: 1.83m(艇走状態でストラットを完全に上げた時)
型深さ: 2.59m
総トン数: 267トン
純トン数: 97-98トン
旅客定員: 約260名
機関: アリソン501-KF ガスタービン×2基(2767kW×2)
推進器: ロックウェルR10-0002-501 ウォータージェット×2基

ライセンス製造メーカー

前述のとおり、ボーイング社がNATOの依頼によりミサイル艇として開発したのが「929」であり、これを基に旅客用が開発されたのは1974年でしたが、その型番は929に続き番号を加えるというもので、これは929-100型となり、「ジェットフォイル」の愛称もこのとき付けられたものです。

ボーイング社としては初期型929-100型を10隻、前方フォイル及び乗船口付近の改良を施した929-115/117型を13隻、軍用の929-320、929-119、929-120型5隻の合計28隻をアメリカで製造した後、そのライセンスを川崎重工業に提供し、1989年に日本製1号艇が就航しました。

現在、そのライセンスは川崎重工(神戸工場)に全面的に移管されており、現在運航されているものの多くは、川崎ジェットフォイル929-117として製造されたものです。

川崎重工では1989年から1995年までに15隻を製造しており、日本国内において、この川崎重工で作られたものと、元祖のボーイング社で建造された旅客型ジェットフォイルは29隻にのぼります(ただし、軍用-320型からの改造1隻含む)。

なお、この929が日本国内の定期航路に本格的に投入されたのは佐渡汽船の新潟港~両津港間航路で、1977年のことです。当時国内ではメンテナンスが困難だったことから、佐渡汽船の整備担当者はボーイングで長期研修を受けてメンテナンスのノウハウを学んだといいます。

その後川崎重工がジェットフォイルのライセンスを得た際、その実績が豊富な佐渡汽船から運行のための多くのノウハウの提供を受け、その後の製造や販売に生かしているということです。

事故対策

929の新潟港での運航開始当初、この港が河口部にあるという構造上、水と共にゴミなどの異物・浮遊物を吸入して運航不能となるトラブルが頻発しました。このことから、ボーイング社では急遽社内に対策チームを設け、吸入口に特殊な構造のグリルを設置する対策を講じています。

これが奏功して異物吸入のトラブルは減少し、その後製造されたジェットフォイルの設計にも反映されたといいます。

929の水中翼は最新鋭の技術を投入されており、流力性能だけでなく、その強度もかなり頑丈に造られてはいますが、2002年1月に神戸港-関西国際空港間航路(神戸マリンルート)での復路出発後に船底に穴が開き、沈没寸前に至る事故が発生しています。

その事故原因は公表されていませんが、当時は空港連絡橋が閉鎖される程の悪天候であったといい、この事故ばかりが直接の原因ではないようですが、その後同航路は慢性的な乗客低迷に伴い同年休止・廃業されました。

ただ、2006年には、神戸-関空ベイ・シャトルとしてこの航路は復活しましたが、用いられているのは929ではなく、別の高速双胴船です。

このほかにも衝突事故が数回起きています。その運用においては、厳重な海上浮遊物への対策が採られているものの、1992年と1995年には新潟-佐渡間航路で、2004年末ごろからは、福岡-釜山間航路(対馬海峡)においてクジラと見られる生物にたびたび衝突し、前部水中翼が破損して高速航行が不能になるなどの事故が数回発生しています。

2006年4月9日には、屋久島-鹿児島間航路の佐多岬沖合で流木に衝突、100名以上の重軽傷者を出す事故が起きています。このような事故後は運航会社ではシートベルトを着用するよう乗客に促しており、特に佐多岬沖の事故後は、国土交通省から事業者に対して見張りの強化やシートベルトの着用を徹底するよう指導されているといいます。

現況航路

とはいえ、高速で多くの乗客を移送できる929は、とくに短距離航路において人気があり、現在、日本国内を結ぶ航路に投入されている929は以下のとおりであり、こんなにもあるのかと驚かされてしまいます。

●国内航路

○新潟~両津、船名:ぎんが、つばさ、すいせい、佐渡汽船
○東京(竹芝旅客ターミナル)~久里浜/館山~伊豆大島~利島~新島~式根島~神津島、
船名:セブンアイランド、 東海汽船
○熱海~伊豆大島、船名:セブンアイランド、東海汽船
○博多(博多ふ頭)~壱岐(郷ノ浦/芦辺)~対馬(厳原)~対馬(比田勝)、船名:ヴィーナス、ヴィーナス2、 九州郵船
○長崎~中通島(奈良尾)~福江島(福江)、船名:ぺがさす、ぺがさす2、九州商船
○鹿児島(本港区南埠頭)~指宿~種子島(西之表)・屋久島(宮之浦/安房)、船名:トッピー、ロケット、種子屋久高速船

●国内外および日本に近い外国航路
○博多(中央ふ頭)~釜山(国際旅客ターミナル)、船名:ビートル(JR九州高速船)、コビー(未来高速)、 JR九州高速船、未来高速
○香港~マカオ、船名 : 水星、木星、土星、金星、銀星、鐵星、東星、錫星 、天皇星、帝皇星、海皇星、幸運星、帝后星(これら高速旅客船網は総称「TurboJET」(噴射飛航)と呼ばれている)、信徳中旅船務管理

どうでしょうか。お住まいの地域に近いところにも929があるのではないでしょうか。

飛行機の旅も良いですが、お天気の良い日には、ちょっと水中翼船を使って近くの島々を巡るショートトリップに出るのも良いかもしれません。

ここ伊豆でも、熱海から伊豆大島への便があるようです。その高速性を生かして、熱海からわずか45分で着くようです。また、熱海から伊東港経由で行く便も土日限定であるようで、伊東からだとわずか25分!です。

料金は、熱海~大島が大人片道¥4600、伊東~大島が同¥3780です。ちょっといい値段ですが、これはぜひ、行ってみるしかないでしょう!

銀色夜叉 ?

昨日は少々多忙だったため、めずらしくブログをお休みしてしまいました。

1月17日ということで、阪神淡路大震災のことでも書こうかと思っていましたが、あまり明るい話題でもないのでいろいろ調べていたら、この日は、「今月今夜の月の日」でもあるということがわかりました。

ここ二十年近く、神戸の震災の陰に隠れてめっきり話題にされなくなってしまいましたが、これは、ご存じ、尾崎紅葉の「金色夜叉」のお話です。

主人公の貫一が熱海の海岸で、貫一を裏切った恋人のお宮に「いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せる」からと言い放ったというあの有名な物語です。

その十七日の昨夜ですが、曇りどころかナンと夕方から修善寺は雪模様となり、今朝起きてみると、真っ白な世界がそこにあり、ここが本当に伊豆かいな、というような景色が目の前に広がっていました。

山の上ということで、3cmほども積もっており、滑っては困るということで、寝癖のついた白髪頭も気にかけず、階段回りの雪かきをしてみましたが、その様子をまわりからみると、「金色夜叉」ならぬ「銀色夜叉」さながらだったに違いありません。

…… それが書きたかったので、この話題にしたんかい、と突っ込まれそうですが、そんなことはありません。たまたま思いついただけです。

が、どうも最近飛ばすジョークがみんな、おやじギャグめいてしまっていけません。気をつけねば。

…… さて、この「金色夜叉」ですが、尾崎徳太郎こと、尾崎紅葉がこの小説を読売新聞に連載したのは明治30年の元旦からのことです。紅葉が30歳のときのことで、この小説はたちまち大評判となり、翌年4月まで連載が続けられたあと、すぐに日本橋にあった歌舞伎の市村座で舞台になりました。

この舞台での、貫一がお宮を蹴り飛ばす場面は異常なほど話題になり、このあとの二人の運命についての民衆の興味をめぐってその熱狂ぶりは収まらず、その後いったん連載が終わったはずのこの物語の再開を要望する手紙が読売新聞社あてに殺到したといいます。

そのファンのひとりで、ある重病にかかっていた名家の令嬢は、「自分の命はこのままもちそうもない。けれどお宮の運命のほうが気がかりなので、自分が死んだらお花や線香を手向けなくてよいから、「金色夜叉」の連載新聞を毎日墓前に供えてほしい」と言ったといい、これほどまでに熱烈に民衆にその継続が請われた小説は古今そうそうないでしょう。

こうした声に応え、紅葉は明治32年、その連載を再開しましたが、このころからすでに体調がおもわしくなく、これをときどき中断。その後3年にわたって連載を続けましたが、ついに病魔に耐えられず、35歳でついに紅葉自身が死んでしまいました。胃癌だったそうです。

こうして、「金色夜叉」は未完のまま終わり、かつ紅葉の遺作となった作品となりましたが、その評判はその死後のあいだしばらくは衰えず、その後も新派の名作舞台となり、貫一お宮の熱海の場面は映画にもなり、また歌謡曲にも歌われ、さらには上方では芸人のコントとしても扱われ、舞台となった熱海には記念像までも造られました。

ところが、紅葉死後のこのフィーバーぶりとは裏腹に、その後、大正、昭和と時代を経たあとも、貫一お宮の名シーンこそは語り継がれていくものの、肝心の「金色夜叉」の原作を実際に読む人がだんだんといなくなり、平成の今に至っては、「金色夜叉」を手にとる者さえほとんどいないといいます。

その最大の理由は無論、未完のまま作者が亡くなり、その主人公たちの行く末を読者の想像でしかたどることができなかったことにあります。

紅葉は、読者の熱望に応えるまま、「続金色夜叉」、「続続金色夜叉」、「新続金色夜叉」と書き続けましたが、結局この長編は未完に終わりました。

明治の小説でもっとも大衆に愛読されたと言われる「金色夜叉」ですが、もっと早く終わりたくても終わらせてもらえなかったのは、「人気連載小説」というその悲しき宿命でもありました。

作品の緊張感を保ったまま、きちんと生前に完結できていれば、現在も読み継がれていたかもしれないのに、この点は非常に残念です。

しかし、この一方で、「金色夜叉」をはじとする晩年の紅葉の作品は、かの三島由紀夫をして、「浄瑠璃や能の道行の部分であり、道行という伝統的技法に寄せた日本文学の心象表現の微妙さ・時間性・流動性が活きている」と言わしめるほど華麗な文章であり、三島以外の文学者の多くからも賞賛されました。

ただこの文体は、後年、自然主義文学の口語文小説が一般化すると、その美文がかえって古めかしいものと思われるようになり、大正、昭和と時代が下るにつれ、人々から忘れられていきました。

他の明治文学作品は、森鴎外や夏目漱石のものなどのように近代訳されており、紅葉の作品もこの古い文体をわかりやすい現代語に「翻訳」して出版されていますが、なぜか近代的な言い回しにすると逆にそのストーリー性が古臭くみえるらしく、現代に至ってもやはり手にとって見る若い世代は少ないようです。

その代表作ともいえる「金色夜叉」も、かつてはそれほど民衆に愛された小説でしたが、現代の人からみればこれは、男性による女性に対する「復讐劇」ということであり、その後、次第に女性の地位が高まっていった、80年代以降の現代社会の実情にそぐわない内容ということもあったでしょう。

また「高利貸し」という職業に代表されるように明治という時代を舞台とするこの時代の背景描写も現代人には理解しがたい面があり、後世になればなるほど、こうした紅葉作品のストーリーの展開の通俗性が強調されるようになり、これを「文学作品」として真剣に検討されることは少なくなっていきました。

この時代の「風俗」を書いた内容でもあるため、当然、小学校や中学校の教科書に掲載されるようなこともなく、こうして世俗社会でも公的社会でも読まれなくなった尾崎紅葉は、その著者名と、有名になった熱海での寛一お宮のシーンだけが、時代の中に取り残されていきました。

とはいえ、読まれなくなったのは尾崎紅葉だけでなく、そもそも「明治文学」といわれるものは全般的に人気がありません。

明治時代のほとんどの作品が旧かなづかいで書かれているためであり、そうでなくても字離れが進んでいるといわれる現代にあっては、読むのがどうしても億劫になりがちなためでしょう。

かくいう私もあまり読んだことがなく、読もうという気にもなかなかならないのですが、この明治文学と呼ばれるものをリストアップしてみると、とくに明治半ばごろからは飛躍的にその内容が充実してくるのがわかり、我々の良く知る有名作家の数々が登場してきてなかなか壮観です。時代を追って有名なところをあげてみましょう(選:筆者)。

明治17年(1884年) 「怪談牡丹燈籠」(三遊亭円朝)
明治18年(1885年)「当世書生気質」「小説神髄」(坪内逍遙)
明治19年(1886年)
明治20年(1887年)「浮雲」(二葉亭四迷)  「三酔人経綸問答」(中江兆民)「武蔵野」(山田美妙)
明治21年(1888年) 「あひびき」「めぐりあひ」(二葉亭四迷訳)「夏木立」(山田美妙)
明治22年(1889年)「二人比丘尼色懺悔」(尾崎紅葉) 「露団々」「風流仏」(幸田露伴)楚囚之詩」(北村透谷)「於母影」(森鴎外等訳)「胡蝶」(山田美妙)
明治23年(1890年)「伽羅枕」(尾崎紅葉) 「舞姫」「うたかたの記」(森鴎外)「対髑髏」「一口剣」(幸田露伴)
明治24年(1891年)「五重塔」「風流艶魔伝」(幸田露伴)「二人女房」(尾崎紅葉)「文づかひ」(森鴎外)
明治25年(1892年) 「即興詩人」(森鴎外訳) 「三人妻」(尾崎紅葉)
明治26年(1893年)「人生に相渉るとは何の謂いぞ」 「内部生命論」(北村透谷)
明治27年(1894年)「滝口入道」(高山樗牛) 「桐一葉」(坪内逍遙)「亡国の音」(与謝野鉄幹)  「大つごもり」(樋口一葉)
明治28年(1895年)「夜行巡査」「外科室」(泉鏡花)「たけくらべ」「十三夜」「にごりえ」(樋口一葉)
明治29年(1896年)「多情多恨」(尾崎紅葉)「三人冗語」(森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨)「東西南北」(与謝野鉄幹)「照葉狂言」(泉鏡花)
明治30年(1897年)「源叔父」(国木田独歩)「金色夜叉」(尾崎紅葉)
明治31年(1898年)「忘れえぬ人々」(国木田独歩)
明治32年(1899年)「天地有情」(土井晩翠)
明治33年(1900年)「高野聖」(泉鏡花)
明治34年(1901年)「牛肉と馬鈴薯」(国木田独歩)
明治35年(1902年)「地獄の花」(永井荷風) 「重右衛門の最後」(田山花袋)「病牀六尺」(正岡子規) 「旧主人」(島崎藤村)
明治36年(1903年)「「天うつ浪」(幸田露伴)
明治38年(1905年)「倫敦塔」(夏目漱石)
明治39年(1906年)「坊っちゃん」「草枕」(夏目漱石)「野菊の墓」(伊藤左千夫) 「破戒」(島崎藤村)
明治40年(1907年)「蒲団」「少女病」(田山花袋) 「虞美人草」(夏目漱石) 「平凡」(二葉亭四迷)
明治41年(1908年)「夢十夜」(夏目漱石) 「何処へ」(正宗白鳥)「竹の木戸」(国木田独歩)
明治42年(1909年「半日」「金貨」(森鴎外)
明治43年(1910年)「刺青」(谷崎潤一郎) 「網走まで」(志賀直哉) 「青年」(森鴎外)「「麒麟」(谷崎潤一郎)
明治44年(1911年)「泥人形」(正宗白鳥) 「濁った頭」(志賀直哉)
明治45年(1912年)「悲しき玩具」(石川啄木)  「彼岸過迄」(夏目漱石)

ここに出てこない有名作家さんもたくさんいますが、江戸時代から下ってわずか50年にも満たないこの時代に、我々の世代にも馴染みのある作家さんがこんなにもたくさんの小説を書いていたのかと驚かされますし、こうしたリストを見るだけでもこの時代の文芸作家のパワーを感じます。

しかし、どうしても「明治期の作品=教科書に載っている作品」というイメージが強いのでなかなかこれを読破しようという気にならないのは私だけではないと思います。

が、その昔、本を一般市民にも普及すべく、必死になって文芸運動を繰り広げたのが、こうした明治期の文芸作家さんたちだったわけであり、肩の力を抜いて、現代の小説と同様の単なる日本文学作品のひとつというスタンスでもう一度読み返していくと、新たな発見があるのかもしれません。

このリストをみてわかるように、この中には、尾崎紅葉とその仲間たちの名前もかなり頻繁に出てきます。

なぜ現代ではそれほど人気がないのに、この時代にはこれほど多くの文学を発信できたのか、その出自を知ることは、こうした明治文学の全部の出発点を知ることにもなると思われるので、それについてごく簡単にまとめておこうと思います。

尾崎徳太郎は、1868年(慶応3年)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の浜松町)に生れました。父は、いわゆる幇間(ほうかん)で、根付を彫る仕事もしており、職人としてはそれなりの腕を持っていると評判であった「尾崎惣蔵」という人物です。

幇間は、「太鼓持ち(たいこもち)」ともいい、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業であり、現代の「ホスト」のようなイメージもあり、あまり世間体のよくない職業でした。

もともとの尾崎家は商家だったようですが、紅葉の父の惣蔵代には既に廃業しており、徳太郎こと紅葉はこうした父の職業を恥じ、親しい友人にもその職業を隠していたといいます。

1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母のもとで育てられ、寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。

このときの同級生に「幸田露伴」や他にも大正自由主義教育運動で有名になる「沢柳政太郎」や京都帝国大学初代校長になる「狩野亨吉」らの有名人がいました。

しかし、府第二中学はその校風にそりが合わなかったのかすぐに中退してしまい、愛宕の漢学者の「岡千仭」という人物の「岡鹿門塾」で漢学などを学び、その後三田の英学校で英語も学びはじめ、大学予備門入学を目指し始めました。

そして19歳で東京大学予備門に入学し、このとき1級下には紅葉の幼なじみの山田美妙がおり、また野球と器械体操好きの夏目漱石、俳句好きの正岡子規がおり、彼らとも親交を深めるようになりました。

紅葉はこれらの仲間とともに既に文学活動を始めていたようですが、なかで一番の交際上手は紅葉だったということで、人好きがして、みんなから慕われていたようです。

そんなころ、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきといい、世態風俗などの心理的写実主義を主張した「坪内逍遥」が、その理論を実践すべく執筆した「当世書生気質」が世に出、これがなかなかシャレているということで、紅葉の仲間全員がこれに強い刺激をうけます。

とくに紅葉は発奮してこの逍遥の筆致に似た文章を集めはじめ、これを編集して半紙半切32葉の回覧雑誌「我楽多文庫」をつくりました。これが後年紅葉が主宰する「硯友社(けんゆうしゃ)」のスタートであり、これによってもともと広がりのあった紅葉の交流範囲はまたさらに大きく広がりました。

とくに紅葉が影響をうけたのが江戸文芸に造詣の深かった淡島寒月という人物で、紅葉は寒月に言われて初めて「井原西鶴」を読みました。

紅葉は「黄表紙」などの戯作には通じていましたが、それ以前の江戸文学は初めてだったようで、なかでも「好色一代女」にはたいそう驚き、これをどうしたら逍遥のシャレた近代感覚と合わせられるのか、と思ったようです。

また、ちょうどこのころ幸田露伴が出した処女作「禅天魔」が人気になっており、これを読んだ紅葉はこれにも奇妙で斬新な味があると感じます。

こうして、明治21年に「我楽多文庫」が公売されるようになると、紅葉も自分で新しい小説を書くようになり、とくにこの露伴の作品に強い影響を受けた紅葉は、最初の作品「二人比丘尼色懴悔」を発表します。

これは、許婚の愛人を失った「芳野」という女性が仏道に入って供養のために諸国をめぐるというお話です。諸国めぐりをするうちに行き暮れて山間の草庵をたずねると、そこに若い尼がおり、この尼と夜話をしているとその尼も夫を失っていて、それは実は芳野の許婚の夫だったという話でした。

素材と文体は西鶴の「好色一代女」などを参考とし、とくに露伴の文章を強く意識して何度も練りなおし、かなり凝った文体であったこの作品は、彼のもくろみどおり、大当たりします。

そして、その印税はかなりの額になり、大きな収入を得るようになった紅葉は、このころまだ23才にすぎませんでしたが、喜び勇んで同じ文学仲間たちと頻繁に熱海に遊びに行くようになりました。

このころの熱海には既にいくつかの旅館がありましたが、まだ観光地になる前のことであり、浜辺には多くの自然が残っていたといいます。そしてこの訪れた熱海を舞台として生まれたのが、のちの「金色夜叉」です。

この後紅葉は、幸田露伴とともに大学在学中ながら読売新聞に迎えられ、ここで文学欄の充実のために働くようになり、ここでも才能を発揮しはじめます。やがて牛込横寺町(現飯田橋、神楽坂近辺)に引っ越して結婚もし、ここからの紅葉は若いながらも文壇の一大センターの中心のような存在となっていきます。

かつて自分が創立した「我楽多文庫」は、「硯友社」と名前を変え、このころには文芸の梁山泊の趣きを呈しており、人好きで有名だった紅葉のもとへは、文士の卵が次々に集まり育てられ、ここから「泉鏡花」や「徳田秋風」、「小栗風葉」といった英才が輩出されていきました。

とくに、これらの「弟子」のひとり、「泉鏡花」の師の紅葉への奉仕的ともいえる敬愛は、異常なほどだったといいます。

こうした紅葉の絶頂期に書かれたのが「金色夜叉」です。

実は、この「紅葉」という名前には、その由来となったある料亭があります。そのころ芝にあった「紅葉館」というのがそれで、ここは、この当時、鹿鳴館とも並び称されたほどの名士交流の場であり、尾崎徳太郎だった紅葉は、この旅館の名前を自分のペンネームにしました。

紅葉自身も芝の生まれであり、このころ文壇においては右に出るものはないといわれるほどの栄華を誇った彼にとって、おそらくその誉の象徴というつもりのネーミングだったでしょう。

この旅館にとびきり美人の「中村須磨子」という女給がいて、紅葉がいろいろ面倒をみていた学生のひとりが、ぞっこん惚れこんでいました。このころ一世風靡した巌谷大四という資産家の息子だったそうです。

ところが、この須磨子は、このころ既に大手の出版社になっていた「博文館」の社長の息子に見初められ、結局はそこへ嫁いでしまいます。これを知った紅葉は須磨子に「なぜ巌谷君のところに行ってやらないのか」と迫りましたが、須磨子は美貌を曇らせて泣くばかりだったといいます。

これをみた紅葉が、この「恋の社会」の理不尽に深く心を動かされて創作のヒントを得たといわれるのが「金色夜叉」です。

このころにはちょうど日本にも近代資本主義が萌芽しはじめ、「金持ちと貧乏書生」の愛という構図や「資本家と女工」の哀史というような構図が新聞などではゴシップ記事として取り上げられ始めた時期です。

紅葉もまた「金色夜叉」の中で、須磨子を「鴫沢宮」に、巌谷を一高生の「間貫一」に置き換え、博文館社長の息子を金貸しの「富山唯継」に仕立て、それぞれをモデルに借りて新たな長編作品を構想しました。

題名も凝りに凝って「金色夜叉」とし、そのストーリーは、今ここで改めて書く必要もないほど有名になっていますので割愛しますが、圧巻はなんといってもその「雅俗混淆」ともいえるその文体でした。

その絢爛な文章は目にして心地良いだけではなく、読みあげてみてもすばらしく、その音と律動にこの明治という時代の人々は酔いしれていきました。

たとえば例の熱海の海岸の場面では、

「宮は見るより驚く逞(いとま)もあらず、諸共(もろとも)に砂に塗(まみ)れて掻抱(かきいだ)けば、閉ぢたる眼(まなこ)より乱落(はふりお)つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨(さまよ)ひて、迫れる息は凄(すさまじ)く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後(うしろ)より取縋(とりすが)り、抱緊(いだきし)め、揺動(ゆれうごか)して、戦(をのの)く声を励せば、励す声は更に戦きぬ」。

といったかんじで、このあと、「どうして、貫一さん、どうしたのよう」というセリフが入ります。

そしてかの有名な「僕がお前に物を言ふのも今夜かぎりだ。一月の十七日、宮さん、よく覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか。再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れない」云々が続き、ついにはお宮を下駄で蹴り飛ばす、というあの名シーンに入っていくのです。

この金色夜叉はそのストーリー展開の巧みさや創作性の高さから、紅葉のオリジナル作品と思われていました。

ところが、後年、1980年代になって、紅葉が興した硯友社文学を全体的に再評価しようとする人たちがあらわれ、その典拠や構想についての研究が進んだところ、この金色夜叉は、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものではないかという説が出てきました。

2000年(平成12年)、北里大学の講師であった、「堀啓子」氏は、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) という無名作家が書いた「Weaker than a Woman (女より弱きもの)」がその種本であるという論文を公表し、このことは、金色夜叉は彼のオリジナル作品だと考えていた研究者たちにとっては大きな衝撃を与えました。

実は、あまり知られていないことですが、紅葉はかなり英語力に優れた人だったようで、イギリスの百科事典「ブリタニカ」が日本ではじめて丸善で売りに出されたとき、最初に売れた3部のうちのひとつは紅葉が買ったものだったといわれています。

ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にしたという説もあるようですが、いずれにせよ、このころ、胃癌をかこい、死期が近いことを知っていたと思われる紅葉にとっては、その入荷待ちの時間が惜しかったようで、この百科事典の購入は紙幣で即決しており、このことを同じ作家仲間の「内田魯庵」は、

「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」

と評しています。

こうしたことから、尾崎紅葉はその英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを巧みに翻案して自作の骨子としてとりいれたものと考えられ、そう考えると、彼の元から多くの明治文学作家が巣立って行ったその素地には、英米の大衆小説文化の流れがあったことがわかります。

この金色夜叉の種本が存在すると公表した「堀啓子」氏はその論文の中で次のように述べています。

「多くの大衆読者にわかりやすく、一時的な楽しみを与えるストーリーテリングは、読後に響く「謎」を残してはならない。いかなる場合であっても、作中の登場人物の一連の動きには決着はつけられ、そうした意味での整合性が成り立つように著される。

こうした作品を読む読者は、「娯楽」として切り取られた時間の、独立した楽しみを求めるのであり、それを日常に持ち帰ろうとはしないからだ。この種の小説の多くが「鉄道小説」と称され、列車の中、という時間的空間的に外界と遮断された箇所に持ちこまれるのはそうした理由からだ。」

結局「金色夜叉」は、尾崎紅葉が存命中には完成せず、そのストーリーもまた多くの「謎」を残したまま、その結末は彼の死とともに迷宮入りし、その華麗なる文章もその後の時代の変遷の中に埋もれ、現代人が電車の中に持ち込む「秘密の一冊」になりうることはできませんでした。

この「失われたストーリー」ですが、しかし、1940年頃に企画された中央公論社版の「尾崎紅葉全集」の編集過程で、創作メモが発見され、貫一が高利貸しによって貯めた金を義のために使い切ること、宮が富山に嫁いだのには、意図があってのことだったという構想の一端が明らかにされたそうです。

遺稿の断片が整理された「金色夜叉腹案覚書」というものが後年作られ、これによると、最後に寛一は高利貸しを廃業し、宮のことを許すという内容になる予定だったようです。

こうした話をもとに、金色夜叉の続編を勝手に創作する人などもいるようですが、いまだにそういった類がベストセラーになったというお話は聞きません。

かつて尾崎紅葉が「金色夜叉」で仕組んだ華麗なる文章は、彼の稀代の「大実験」であったわけですが、当時の文学としても大実験だったがゆえ、その創作にはかなり苦しみぬいたようです。

古い文体から脱出するために紅葉はあえて卑俗な設定を試み、華麗な擬古文体で織り成すことにしたわけですが、こうした文章はたった一行でも手を抜けば、たちまち物語は卑俗なものになりがちです。

そしてこれだけ苦しみぬいた上で創作された美文も、後年の口語文で書かれた小説が一般的になると、古めかしい文章として嫌われ、もともとが俗なストーリーであるがゆえに他の明治文学作品のように翻訳されることもなく、時代が下るにつれ、人々から忘れられていきました。

しかし、紅葉が創作したその芸術的ともいえる文体で彫りこまれた「金色夜叉」は、その後の昭和の時代に新たな文体にチャレンジした三島由紀夫や野坂昭如の作風にも大きく影響を与えたといわれており、彼らの作品もまた、その後の文学作品に影響を与えていきました。

かつて国木田独歩は、紅葉の作品を評して「洋装せる元禄文学」であったと語ったそうです。

古きは江戸に確立された元禄文学を、近代文学に昇華させたその功績は、間違いなく日本文学における大きな金字塔だったといえるでしょう。

ありし日の紅葉は、江戸っ子気質そのままの性格で、弟子たちにはやさしい半面、短気な面もありよく小言を言っていたといい、しかしその叱り方は口の悪さと諧謔さがまざりあった独自のものだったらしく、泉鏡花ら弟子たちは叱られるたびに師の小言のうまさに感心したそうです。

紅葉の最期の言葉は、見舞いに来た人々の泣いているのを見て言った、「どいつもまずい面だ」だったそうです。

いつの時代にも傑出した人物は周囲の人々を惹きつける何かを持っています。かくある私も紅葉にあやかり、人気者でその一生を終えたいものです。