独鈷の湯

昨日、岡本綺堂さんのお話を書いたあと、ふと思い出したのですが、ウチのすぐ近くにある修禅寺自然公園や、修善寺梅林などのあちこちには、修善寺を訪れたことのある文学作家の碑が置かれています。結構有名な人ばかりなので、前から気になっていましたが、いったいどれだけ有名人が訪れているのか、この際調べてみようと思い、ネット検索してみました。

すると・・・結構いますねー。明治32年に今の駿豆線の前身の豆相鉄道が三島から大仁まで開設されて以来の文学者を整理すると以下のようになります。

明治32年(1899年)豆相鉄道(現駿豆線)南条駅(現在の伊豆長岡駅)~大仁駅間開業
明治34年(1901年)尾崎紅葉
明治41年(1908年)岡本綺堂
明治42年(1909年)島崎藤村、田山花袋
明治43年(1910年)夏目漱石
大正05年(1916年)~昭和31年(1956年)頃 吉田絃二郎
大正07年(1918年)川端康成
大正13年(1924年)豆相鉄道 大仁駅~修善寺駅間開業
大正14年(1925年)芥川龍之介、泉鏡花
昭和03年(1928年)泉鏡花
昭和19年(1944年)島木健作
昭和28年(1953年)高濱虚子
昭和30年(1955年)頃 井伏鱒二

そうそうたる面々ですが、この中には昨日紹介した岡本綺堂さんも含まれています。超有名なところでは、夏目漱石さんがいますが、漱石さんが修善寺を訪れたのは、持病の胃潰瘍のためだったようです。明治43年(1910年)、「門」執筆の途中に胃潰瘍で入院した漱石さん。同じ年の8月に、転地療養に期待して、修善寺温泉の菊屋旅館という旅館に滞在します。しかし、病状は悪化の一途を辿り、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ります。

このころもうかなりの有名人だった漱石さん。これを当時の新聞などでは「修善寺の大患」と呼んで事件扱いしたらしい。その後、東京へ帰ってからも持病の胃潰瘍で何度も倒れ、1915年(大正4年)に亡くなっています。ですから、修善寺とのご縁はこの大患のとき一度だったようです。

川端康成さん。修善寺温泉には大正7年に来たようですが、川端さんは温泉マニアだったらしく、修善寺以外にも伊豆のあちこちの温泉に逗留したようです。しかし、修善寺よりもやや南側にある湯ヶ島温泉が好きだったらしく、狩野川に面した岸辺にある旅館「湯本館」に20歳の頃から毎年のように訪れていて、旅館のおかみにもかわいがられていたとか。湯本館で執筆した随筆「湯ケ島での思ひ出」が、その後の名作「伊豆の踊子」につながっていったといわれています。

井伏鱒二さんは、広島の人で原爆を題材にした「黒い雨」が有名。このほか「山椒魚」なども有名です。大の釣り好きだったらしく、そのペンネームも魚由来です。修善寺の桂川によく来て釣りをしていたそうで、その作品の中には、「修善寺の桂川」というのもあるそうです。

吉田絃二郎(げんじろう)さんというのは、私もよく知らなかったのですが、小説から随筆、評論、児童文学、戯曲と幅広い分野で執筆活動をした作家さんだそうで、その作品数は236冊に及ぶとか。

夏目漱石さんが宿泊した「菊谷旅館」とも縁が深く、その経営者が早大講師時代の教え子だったこともあり、頻繁に修善寺を訪れていたそうです。絃二郎さんから菊屋に送られた手紙は数百通にものぼるそうで、その親交の深さがうかがわれます。

そうしたこともあり、修善寺をこよなく愛した吉田絃二郎さん。42歳という若さで亡くなった愛妻の明枝さんの句碑を修善寺に作り、修善寺小学校には「吉田文庫」として本まで寄贈しています。

修善寺には、大正5年頃から70歳で他界する昭和31年(1956年)まで毎年長逗留することが多く、修善寺の山と川をこよなく愛した作家だったらしい。奥さんの明枝と絃二郎さんの分骨による墓碑が修善寺を見渡せる山の上にあるそうなので、今度ぜひ訪れてみたいと思います。

ちなみに吉田さんの随筆のひとつ、「修善寺行」では、修善寺のことが次のように書かれています。

「山の桜が散り、瑠璃鳥が鳴き、河鹿の音を聴くようになった。一筋の渓澗に寄りて細長く、爪先上りの道に沿うて作り上げられたのが修善寺の温泉場である」

また、「修善寺風景」は次のように結ばれています。

「川上の方から一人の男が釣竿をかついで山を下って来た。魚篭のなかには山女のような魚が二三尾光っていた。かれはわたくしを見、微笑みながら渓を下って行った」。

井伏さんにせよ、吉田さんにせよ、愛した風景の中心には川があったようで、川のそばの宿を常宿にした川端さんも同じく川の風景が好きだったのだと思います。

修善寺の温泉街の中心には、上述の桂川という川が流れているのですが、その川のど真ん中に今も残る「独鈷(とっこ)の湯」というのがあります。

土台の岩や大きな石を組んで浴槽をかさ上げし、かつては入浴することができました。温泉街に7つあった外湯のひとつに数えられていたそうですが、現在は単にシンボルとして位置づけられ、観光客に見せるだけの施設になっています。川の中にあるため、河川法という法律にひっかかり、公に浴場として使えない、というなさけないことになっているためです。

まあ、川中に突き出ているため、大雨が降ったときには、流される心配がある、というお役人の主張もわかるのですが、せっかくの風情のある温泉なのですから、そこはなんとか例外として貴重な観光資源を復活させてもらいたいもの。原発なんか再稼働させるくらいならこっちのほうがよっぽど世のため人のためになると思うのですが・・・

ところでこの独鈷の湯。かの有名な弘法大師が大同2年(807年)に修善寺を訪れたときに「発掘」したという伝承が残っています。桂川の上流にある奥の院というお寺で修業をしていた弘法大師様。ある日、桂川の下流を通りがかったとき、川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その親孝行にいたく感心します。そして、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させたというのです。

さらに、大師様が温泉というものは疾病に効くものだということを親子に教え、父子は十数年来の患っていた病気を完治させることができ、これよりこの地方に湯治療養が広まり、修善寺温泉が始まったとされています。

その大師様が見つけてくれた独鈷の湯ですが、湯治客が入浴できたころの昔の写真を並べた写真展が温泉街のはずれにある「竹林の道ギャラリー」で開催されていました。下の写真がその一枚ですが、板塀で囲われており、なかなか風情があります。よくみると、独鈷の湯ということで、独鈷の形をしたモニュメントまで据えてあり、これがいつの時代のものかよくわかりませんが、その当時からもう観光地だったことがわかります。

修善寺温泉の歴史そのものは、上述したとおり、弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まるのですが、それ以後のことはよくわかっていないようです。修善寺に幽閉された源頼家さんは入浴中に暗殺されており、少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかりますが、弘法大師の発見が807年として、頼家さんが暗殺された1204年までの400年間もの間、どのように利用されていたかは不明です。

鎌倉時代以降のことをいろいろ調べてみると、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの4つの湯治場があったようで、周囲の農家が湯治客を相手に部屋貸しを始め徐々に設備を充実していったようです。しかし、当初はいわゆる木賃宿で、湯治客は自炊により自分で食事をとる形式で、内湯はなく共同浴場に通っていたらしい。その後、共同浴場を貸し切る「留湯」という制度が始められ、その頃から農家の副業から次第に専業の旅館に変わっていったようです。

そして、明治期になると、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、より温泉場として発展していきます。とくに、明治31年に現在の駿豆線の前身である、豆相線が伊豆長岡まで敷設されると、より多くの湯治客が訪れるようになります。翌32年には大仁まで豆相線が延伸されますが、大正13年に大仁~修善寺間が開通するまでは、利用客は待合馬車やタクシーを使っていたそうです

昨日紹介した岡本綺堂さんが、大正7年に修善寺を訪れた時の手記には、この豆相線からの車窓の眺めが次のように書かれています。

「十年ぶりで三島駅から大仁行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに震えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽られて、今にも折れるかとばかりに撓みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。」

狩野川沿いのさびしい寒村風景が目に見えるようですが、現在でもこの駿豆線からの眺めは結構ひなびているようです。実は私はまだ一度も乗ったことがないのですが、すぐ隣を走る国道136号線からは、同じ風景がみえます。晴れた日には遠くに富士山もみえ、その前にのんびりと広がる田園風景はなかなかのものなのですが、電車の高い位置からみると、もっと眺めの良いものなのでしょう。今度一度試乗して、またこのブログで披露したいと思います。

ところで、その綺堂さんの手記の中には、この記述に続いて、その電車に乗り合わせた乗客から聞いたという「悲しい話」が書かれています。それは、1914年(大正三年)に沈没した愛鷹丸という客船にまつわるもの。

これについても今日書こうかと思ったのですが、そろそろ疲れてきたのでこのへんにさせていただこうと思います。

今日は昨日までは雨の予報だったのですが一転して良いお天気になりそうなので、これからまた「下界」へ降りて、いろいろ散策してみようかなどと思っています。もうすぐ6月も終わり。暑い夏はもうすぐそこまで来ています。

 竹林の道ギャラリーにて