天城山あれこれ

2014-7894寒い日が続きます。

それでも伊豆は太平洋側に位置するため、日本海側のような降雪に見舞われることもなく、この時期は好天が続くことが多いのが特徴です。

しかし、伊豆半島全体をみると、各地域で微妙に気候が異なり、内陸部と沿岸地方では気象の特性が異なっています。東西の沿岸地方では、海水の影響を受けるため、一日中暖かいようですが、ここ伊豆市などの内陸では日中と夜の気温差が大きく、とくに冬期には夜間の冷え込みが一段と強くなります。

ここからもそう遠くない天城山付近では冬になると降雪も珍しくなく、我が家周辺では、今年の1月にここは本当に伊豆か、と思えるほどの豪雪となりました。

この天城山を、単体の山だと思っている人も多いと思いますが、実際には最高峰の万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,299m)、遠笠山(1,197m)等の山々から構成される連山の総称です。従って、「天城連山」が地理学的には正しい呼称です。

80万〜20万年前の噴火で形成され、火山活動を終え浸食が進み現在の形になったもので、火山学上では「伊豆東部火山群」に属します。伊豆半島の東部の伊東市の沖にある海底火山にも連なる火山群であり、伊豆半島有数の観光地である伊豆高原一帯や、大室山、火口湖の一碧湖、名勝浄蓮の滝や河津七滝も本火山群の影響によって生み出されたものです。

この伊豆東部火山群の活動によって、伊豆半島に多くの地形が生まれたわけですが、この火山群における火山活動は伊東市東部とその沖合いでの活動を除けばほぼ沈静化しており、先日の御嶽山のように今後大噴火を起こす、という可能性は低いようです。

ただ、伊東市などの地下では、フィリピン海プレートに載った地殻と本州側プレートとの衝突により現在でも大きな圧縮が生じている場所であり、こういう場所ではマグマの岩脈貫入が起きやすく、これが原因とされる群発地震がしばしば発生します。

2006年(平成18年)4月21日には、伊東市富戸沖を震源として発生したマグニチュード5.8 の地震が起こっており、震源に近い富戸では、水道管が数カ所破裂したほか、ブロック塀の崩落や、がけ崩れなども起こりました。

このときは、ここ伊豆市でも震度4を記録し、スーパーなどで商品落下被害があったそうで、このほかにも市内各地で建物や道路のひび割れ・陥没が数ヵ所発見されました。

陸上ではありませんが、海底で実際に火山噴火も起きています。1989年には、同じ伊豆半島東方沖で群発地震が発生しており、このときは伊東市の東方沖わずか3kmの海底で噴火がありました。その後この噴火地点には小高い海底火山があることが確認され、これは「手石海丘」と命名されました。

「伊豆東部火山群」では、有史以来、約2700年の間、火山活動がなかったことがわかっており、長い眠りから覚めた噴火だったわけですが、今後これと同様の噴火や地震の発生も全く考えられなくはないわけです。専門家は否定的ですが、天城連山の一部が噴火する、ということも可能性として少しは考えておいたほうが良いのかもしれません。

この「天城」という名の由来ですが、天城山は冬以外の夏季にも雨が多い多雨地帯であり、「雨木」という語が由来であるとする説があるようです。また、この地域にはアマギアマチャ(天城甘茶)という、ヤマアジサイに近い種類の植物が群生しています。

葉に多くの糖分が含まれているため、伊豆以外の各地でもこの葉を乾燥して「甘茶」をつくり薬用や仏事に用いる風習が残っているところがあります。私も飲んだことはないのですが、黄褐色で甘みがあり、長野県佐久地方ではこの甘茶を天神祭や道祖神祭等で神酒の代用として使う風習があるそうです。

そもそもは、お釈迦様が生まれたとき、これを祝って産湯に「甘露」を注いだという故事によるものだそうで、現在ではいわゆる花祭り(灌仏会)のときに、仏像にお供えしたり、直接かけたりするそうです。

潅仏会の甘茶には虫除けの効能もあるとされ、甘茶を墨に混ぜてすり、四角の白紙に「千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書いて室内の柱にさかさまに貼って虫除けとする、いう風習がかつては全国的にあったそうです。

そのアマギアマチャが伊豆の山地に多く自生していることから、かつて天城山周辺の住民にも同様の風習があり、これがそのまま天城山の名になったのではないかというのが、天城のネーミングの由来のもう一つの説です。

この天城山はまた、非常にたくさんの種類の落葉樹の森から形成される緑豊かな山域であり、これらの木の中には、建築材料に適したものも数多くあります。近世には徳川幕府の天領として指定され、山中のヒノキ・スギ・アカマツ・サワラ・クス・ケヤキ・カシ・モミ・ツガの9種は制木とされ、「天城の九制木」と呼ばれていました。

公用以外は伐採が禁じられていたといい、伐採されたのちに建築材として加工されたものは、幕府が建設する神社仏閣や城郭施設などにも使われたようです。

天城山は、代々「韮山代官」と呼ばれる幕臣が管理してきましたが、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗のりました。このうち幕末に活躍した第36代目の江川太郎左衛門こと、「江川英龍」が最も著名であり、一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多いようです。

洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げ、日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる人ですが、以前、この人物に関するかなり長いブログを書いたのを読んでいただいた方もいるでしょう。(「韮山代官」ほか、連載参照。)

この韮山代官が代々管理してきたこの地では、江戸中期ころから、ワサビ栽培もおこなわれるようになり、茶、シイタケと並ぶ豆駿遠三国の主要な特産物として、江戸に出荷されて流通するようになりました。

年貢としても納入されていたそうで、明治期には畳石栽培によってより産量が増え、現在では一大産地となり天城のワサビは全国的にみても最高級ブランドとなっています。

ただ、シイタケの栽培のほうは、江戸時代には伊豆ではあまり栽培されておらず、主として駿河(現静岡市)や遠州浜松方面で作られていたようです。が、明治期に天城湯ヶ島地区で栽培されるようになってからは、伊豆一帯にも広がり、これも現在は伊豆の一大ブランド品です。

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このように天城山は、地域を潤す自然の産物の宝庫であったわけですが、一方で伊豆を南北に分断しており、北伊豆から天然の良港のある下田などの南伊豆地方への陸路でのアクセスを妨げていました。このため南伊豆では物資の輸送は海運に依存するところとなり、陸上路である三島~下田間の、いわゆる「下田街道」の整備・発達はかなり遅れました。

人馬の継立場(茶屋の一種で、馬や駕籠の交代を行なう)が設置されたのは江戸中期の1742年(寛保2年)のことであり、しかしこれが設置されたことで、江戸中期頃から通行が増加しました。

ただ、これより以前にも天城山を越えて南伊豆へ行く道がなかったわけではなく、最古の天城越えの記録は平安時代に遡るそうです。ただ、現在の天城峠から1.2kmほど西にこの古峠があったそうで、また峠道というよりも獣道に近いものだったようです。

天城山の北側の湯ヶ島に継場ができて以降、いつからか人々は現在の下田街道のルートを利用するようになり、この古峠は廃道となりました。旧天城トンネルが位置するあたりは、古くは「二本杉峠」と呼ばれていましたが、ここに1904年(明治37年)に天城トンネルが開通したことで、その通行はがぜん楽になりました。

それ以前は、岩場と岩場の間を縫うような山道であり、女子供はとても通行できるような道ではなかったようです。それでも長い間多くの人々が利用しましたが、それらの中には著名人も多く、老中だった松平定信や、画家の谷文晁、作家の滝沢馬琴、思想家の吉田松陰、そしてタウンゼント・ハリスなどもこの峠を越えています。

この天城峠は、後に川端康成がここを舞台に小説を書いたために有名になり、松本清張の小説「天城越え」などでも人々の記憶に残るようになり、これらの小説にも登場するトンネルは、伊豆観光における人気スポットのひとつとなっています。

正式名称を天城山隧道といい、全長445.5メートルもあります。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のものです。1916年(大正5年)には、ここを通るバス運行も開始され、下田との人・物の流入出がさらに加速しました。

天城トンネルは1998年には登録有形文化財に指定されましたが、さらに2001年には、道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されています。この時期に観光スポットとしての整備も進み、「日本の道100選」にも選ばれています。

これに先立つ1970年(昭和45年)には、並走して全長約800mの「新天城トンネル」も完成したため、現在ではここを通る車も少なく、静かなたたずまいを見せています。

ただ、現在でも車での通行は許可されており、ときには心無い観光客がここを通るようです。ところが、幅員は3.50メートルと非常に狭く、一般車両のすれ違いはまず不可能ですから、できるだけクルマで通るのはやめて、歩きましょう。

修禅寺側の天城山の麓から出ている旧トンネルまでの道は本当に雰囲気の良い綺麗な大自然の道なので、ハイキングにはもってこいですし、よく整備されています。またトンネル入り口付近には駐車場やトイレが設備されており、トンネル内の照明は通常のパネル型ではなくガス灯を模したデザインにしてあるなど、なかなか良い雰囲気です。

実は、人にあまり教えたくないのですが、この旧天城トンネルに至る手前2kmほどのところに、滑沢渓谷という美しい渓谷があります。

いつ行ってもほとんど観光客はおらず、地元の人しか知らないようですが、大小の滝つぼがあって、清流が流れ、あちこちにモミジもあって、紅葉の季節にはなかなかのものです。私の秘密の撮影スポットなのですが、夏行っても秋行っても見どころは尽きず、おすすめです。一度騙されたと思って行ってみてください。

ちなみに、新天城トンネルのほうは、1970年に竣工当時は有料道路でしたが、2000年より無料開放されています。なので、これを通ってその先の河津七滝(ななだる)の駐車場に車を止め、ここから逆にいくつもの滝を鑑賞しつつ、北に向かって天城トンネルを目指すハイキングもなかなかおつなものです。

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このように、天城山は観光地としても見どころ満載なのですが、1957年(昭和32年)には、当時のマスコミ等でも大きく報道された「天城山心中事件」という事件もありました。

当時、学習院大学の男子学生である大久保武道と、同級生女子の愛新覚羅慧生の2名が、大久保の所持していたピストルで頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見されたというもので、この愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)とは、満州国皇帝だった、愛新覚羅溥儀(ふぎ)の実弟、愛新覚羅溥傑(ふけつ)の長女になります。

溥儀は、叔父さんということになり、満州国皇帝の親族であることから、当時のマスコミがかなり囃し立て、「天国に結ぶ恋」として報道された事件です。

この慧生という女性は、戦前の1938年(昭和13年)、満州国の首都新京(現:長春市)において、溥儀の弟の溥傑と日本の侯爵家出身の女性との間に生まれた人で、新京で育ったころは、皇帝である伯父の溥儀に大変可愛がられたといいます。

1943年(昭和18年)、学習院幼稚園に通うために来日し、日吉(神奈川県横浜市港北区)にある母の実家のこの侯爵家、「嵯峨家」に預けられました。これ以後19歳で死ぬまで、日本で過ごすことになります。

1945年(昭和20年)に日本の降伏により、満州国は解体。父の溥傑は赤軍に捕らえられ、以後慧生の死後に釈放されるまでソビエト連邦と中華人民共和国で獄中生活を送ることになりました。一方、母と妹は中国大陸を流転した末に1947年(昭和22年)帰国し、慧生のいる日吉の嵯峨家で一緒に生活するようになりました。

戦争に負けたとはいえ、皇族はやはり皇族あり、このため、慧生は戦後、学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科と進みました。高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望しましたが、親類の反対に遭い、1956年(昭和31年)学習院大学文学部国文科に入学。

このとき、同じ学科の男子学生・大久保武道と出会い、交際が始まりますが、相手が一般人であるため、母を始めとする家族には彼との交際を打ち明けることができませんでした。

そのために悩んだ末だったのか、1957年(昭和32年)に伊豆にやってきた二人は、12月4日の夜に天城山中に入り、大久保の所持していたピストルで心中死したと推察されています。2人の遺体は12月10日に発見されました。

ただ、二人とも死んでしまったために、本当に心中だったのかどうかを巡って、事件の真相については諸説が飛び交いました。二人の死の概要や動機には判然としないまま、ただ単に当事者が有名人だからという理由で、かなり脚色されて伝わった「事実」も多かったようです。

その後警察は、慧生の遺書に「彼は自身のことで大変悩んでおり、自分は最初それは間違っていると言ったが、最終的に彼の考えに同調した」とあったと公表し、このことを理由として両者の同意による心中(情死)と断定しました。

このため、皇族と一般人の許されない恋愛の末の心中事件ということで、この事件は多くの人の同情をさそい、身分の違いを超えた悲恋としてマスコミにも取り上げられました。また、大久保と慧生の同級生らによって作られた「われ御身を愛す」という小説は、その発表とともにこの当時のベストセラーにもなりました。

この本では、2人の死は同意の上での情死(心中)であったと主張し、文中で掲載された書簡の中では、慧生は大久保のことを「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書かれていました。

ところが、慧生の母である、「嵯峨浩(ひろ)」をはじめとする嵯峨家関係者は、この事件は大久保の一方的な感情と付きまとい、すなわち現在的に言えば、「ストーカー行為」によってに慧生が辟易していたことに起因するとして、この事件は大久保による一方的な無理心中事件であると主張しました。

その根拠としては、伊豆へ到着した慧生と大久保を天城まで乗せたタクシー運転手の証言から、慧生はしきりにこの運転手に帰りのバスの時間を訊いていた、ということなどを母親は挙げました。

そして、「ここまで来れば気がすんだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と、何度も連れの男性に繰り返していたという証言もこの運転手から得たと主張しました。

このほか、母親からみても、慧生が姿を消す以前、死期を予期している様子は微塵も見られなかったこと、相手の大久保は非常に独占欲の激しい性格だったと考えていた、といったことも証言しました。

大久保は、慧生がほかの男子学生と口をきくだけでも、「おまえはあの男となぜ親しくするんだ! そんな気ならおまえもあいつも殺してしまうぞ」と、責め立てたこともあったとしており、娘は何度も大久保に交際したくないと申し入れていた、とも語りました。

さらには、事件当時、捜索を手伝い、実際に遺体を見たという古老が、「ふたりの遺体は離れていて、心中のようには思えなかった」と語ったと主張しました。こうした数々の傍証をあげ、嵯峨家の関係者の多くはこの事件は大久保による無理心中であると主張しました。

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ところが、慧生は4日の午前中に最後の手紙を書いて投函しており、これが上述のように警察が二人の死を心中であるとした根拠となった「遺書」とされるものです。その手紙は翌日、彼女が住んでいた女子寮に届いおり、その原文は以下のとおりです。

「なにも残さないつもりでしたが、先生(寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。

二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。

それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。

また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。」

と、これだけであり、遺書という風にも受け取れますが、自分たちの出奔によって関係者に迷惑をかけたための、単なるお詫び、というふうにも受け取れます。

ところが、この書簡を読んだ、慧生の実父、溥傑は、母親とは異なり、慧生の死は交際を反対されたための情死(心中)と考えました。当時中国の撫順戦犯管理所に収容されていた溥傑は、この当時慧生からの手紙で好きな人がいることを明かされ、大久保との交際の同意を求められた、という事実をその後公表しています。

しかし、溥傑は長い間娘と一緒に暮らしておらず、父親として答える資格がないと思い、慧生に母の意見を聞くようにと返事をしたそうです。が、後に慧生の死を知り、あの時自分が交際に同意していれば慧生は死ぬことはなかったと深く後悔したといいます。

溥傑によると、母親の浩は慧生を中国人、それも満州人と結婚させようと考え、慧生と大久保の交際に反対していたといい、交際を反対された慧生は溥傑の同意を得ようと手紙を送ったようです。しかし、その当時そこまで思い至らなかった溥傑は、母の意見に従うように慧生に返事を出したわけであり、このことは慧生をひどく失望させたようです。

また、叔父である満州国元皇帝の溥儀の自伝、「わが半生」も慧生の死に言及しており、そこにも恋愛問題のために恋人と一緒に自殺したとあり、大久保による一方的な無理心中とする嵯峨家に対し、父方の愛新覚羅家では2人の同意の上での情死と認識していたことがわかります。

このように、娘の死の原因については、夫婦それぞれ異なる見解を持っていた溥傑と浩でしたが、1960年(昭和35年)に溥傑が釈放されたため、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会しました。この後、浩は中国に帰り、溥傑とともに北京に居住しました。が、その後1984年(昭和59年)までの計5回、日本に里帰りしています。

しかし1987年(昭和62年)、北京で死去。中国国籍だったとはいえ、生粋の日本人だった浩の遺骨の半分は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された「摂社愛新覚羅社」に納骨されましたが、残りの半分は中国側で納骨されました。

一方の慧生の遺骨は、これより前、浩が中国に帰国した際に北京に運ばれていましたが、その後中国では文化大革命という嵐が起こり、このとき溥傑・浩夫婦もかつて日本に加担した異端者として迫害されました。この動乱を経験した二人はこのため、彼女の遺骨の一部を平和な日本で納骨することを望みました。

こうして、1978年(昭和53年)、この年に訪中した浩の妹らが帰国する際、その半分の遺骨が日本に運ばれ、嵯峨家の菩提寺である京都の二尊院に納骨されました。そしてその後浩も亡くなったため、この母の半分の遺骨とともに愛新覚羅社に移されて納められたわけです。

その後、溥傑もまた、1994年(平成6年)に北京で死去。溥傑の遺骨の半分も日本に持ち帰られ、これもまた愛新覚羅社に納骨されました。

つまり、日本の愛新覚羅社には慧生とその両親それぞれの半分の遺骨が納められているわけですが、中国に残った彼等3人の残りの遺骨はその後、中国妙峰山という場所の上空より散骨されたといいます。

墓に納められたのではなく、散骨になった理由はよくわかりませんが、やはりかつて中国を侵略していたとみなされている日本人に加担した一族ということで、正式な埋葬については、中国共産党あたりから横槍が入ったのではないでしょうか。推察にすぎませんが。

ちなみに、この妙峰山というのは、北京でもとくに文化的な雰囲気が漂う名所のひとつだといい、山の地形をうまく利用して建てられた3つほどの廟や14軒ほどの殿堂があり、それぞれ仏教、道教、儒教などの神々が祀られており、明清時代には、北方に住む民衆の信仰の中心地だった場所です。

溥儀の英語教師を勤めた人物の別荘などもここにあるといい、愛新覚羅家とは縁のある土地柄のようです。

この事件は、慧生が日中それぞれの貴族と呼ばれるような両親の元に生まれなければ、単なる悲恋の末の心中事件で終わったであろうし、19歳と20歳という、まだまだ多感で不安定な男女が陥ったラビリンスにすぎないものだったはずです。

ところが、日本の敗戦に伴う日中の分断による被害者という見方もでき、上流社会におけるスキャンダルという趣もあって、マスコミにによりこの事件はより一段とセンセーショナルのものに仕立てあげられました。

しかし、死んだ二人にとっては、「身分を越えた恋」ということよりも、あるいは、それぞれが持っていた、「潜在的な死への願望」がたまたまこのとき合致した結果だったと考えることができるかもしれません。

それこそが、「心中」といわれるものなのかもしれませんが、改めて調べてみると、この心中という男女の永久相愛の意味での自殺は、元来日本の「来世思想」に基づくものともいわれ、江戸時代以降の近世で急増したようです。

やがて自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられるようになり、情死を賛美する風潮も現れ、遊廓で遊女と心中する等の心中事件が増加して社会問題へと発展した結果、幕府は厳しい取締りが行うようになりました。

江戸幕府は、心中の「中」という字は「忠」に通じる」とし、武家社会にも影響が大きいとしてこの言葉の使用を禁止し、「相対死」(あいたいじに)と呼ぶようにお触れを出していたほどです。

また、心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落としたといいます。

無論、現在はこれほど厳しく心中を罰した法律はありませんが、江戸時代はそれほど自殺や心中といったことがタブー視されていたわけです。現在ではそうした罰則がないことを良いことに無理心中や一家心中は後をたたず、さらに最近は「ネット心中」なるものまで出てきました。

インターネットの自殺系サイト等で知り合った見ず知らずの複数の他人が、一緒に自殺することで、お互いに全く繋がりがないという点が、従来の心中とは異なっており、新たな社会問題として取り上げられています。

スピリチュアル的にみると、自殺というものはその先のあの世でさらに過酷な状況を作り出すことが多いといい、死んでから気づき自らの過ちを認め、あの世にて反省の期間を求める人はまだ救われますが、あの世へ移行せずにこの世で浮遊霊や不成仏霊として地縛する人も多いといいます。

亡くなった二人の魂もまた今もまだ天城山中を彷徨っているやもしれず、そう考えるとちょっと怖くなってしまいますが、我々もまたそうした世界に陥らないよう、苦しくても何が何でも与えられたこの生を全うしなくてはなりません。

自殺する人は、死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れられる一番楽な方法だと考えるわけですが、物質の世界から霊の世界へ移ったからといってそれだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。

今年もまた残り少なくなりましたが、与えられた時間を無駄にせず、魂が喜ぶようなことをいっぱいやって、今年という一年を終えましょう。

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虚無僧たちの夏

2014-4052最近、やや心境の変化があり、活発にフィールドに出るようになりました。伊豆に落ち着いて3年目に突入し、ようやくあちこちの様子が分かるようにもなり、そうなると、まだ行ったことのない場所への興味ががぜん沸いてきたのが原因であり、そうした場所をしらみつぶしのように漁っています。

暑い夏でもあり、そんな中でもとくに最近よく行くのが渓流や滝といった場所です。

山がちの場所の多い伊豆では、ちょっとクルマを走らせればどこにでも、といったかんじで川があり、そこから少し山合いに入ればこれが渓流となり、さらに奥へ奥へと分け入ると、あちこちに滝があります。

名のないものが多い中で、有名なものとしては、演歌でご存知、浄蓮の滝や、河津町にある河津七滝(ななだる)などがあり、このほか有名どころは、万城の滝、旭滝、雄飛滝などです。

このうちの最後の二つ、旭滝と雄飛滝はウチからもクルマで十数分のところにあり、とくに旭滝の周りはきれいに整備されていて気持ちが良いので、ついつい長居をしてしまいます。

高低差100mあまりもある大滝で、細かくみると、6段に分かれており、真東を向いていて毎朝朝日を受けることから、この名がつけられたようです。

先日もここを訪れて、展望台から写真を撮り、ウチに持ち帰って現像をしていたところ、なにやらぼーっとした白い影のようなものが映っているのに気が付きました。ゴミかな、あるいはハレーションかなと思ったのですが、どうみても違うようで、拡大してみたりしているうち、これはあー「玉響(たまゆら)」だ、と気が付きました。

オーブ現象とも呼ばれる。写真などに映り込む小さな水滴の様な光球です。肉眼では見えず写真でのみ確認され、信じない人も多いようですが、霊魂が姿を現したものとされます。なぜに私の写真に写りこんだのかは謎ですが、一般に霊からの何等かの働きかけがあるときに現れるといい、私に何かを伝えたかったのかもしれません。

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実はここには以前、功徳山瀧源寺という伊豆では唯一の普化宗の寺院がありましたが、明治初年に廃宗となりました。修験宗などとともに、普化宗では葬式をしなかったそうで、虚無僧たちの亡きがらはここにあった本堂の境内に埋葬だけされていたようです。

江戸時代にはここにその本堂と観音堂があり、本尊であった、木彫11面観音菩薩立像と木彫不道明坐像の2体は静岡県の県指定文化財となり、この旭滝のある谷から尾根を一つ隔てて南側の谷にある、「金龍院」というお寺に安置されているそうです。

ちなみに、この金龍院というのは、北条幻庵の菩提寺になっています。北条早雲と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた3男で、早雲の男子の中では末子となります。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺であった、金剛王院に入寺しました。

箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られます。

幻庵はここで僧侶としても活躍しましたが、馬術や弓術に優れ、甲斐の武田信虎や上杉謙信との合戦にもたびたび出陣して戦功をあげており、早雲亡きあとは、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していました。天正17年(1589年)に死去。享年97という当時としては驚異的な長寿でした。

幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)、後北条氏は豊臣秀吉による小田原成敗で攻めたてられて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡しました。

伊豆一帯は、この後北条氏とゆかりの多い場所が多いものですが、従ってこの旭滝のある近辺もまた後北条氏と縁の深い場所のようです。

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話しは戻りますが、この功徳山瀧源寺がなぜ廃寺になったかといえば、これは、明治に入ってからの明治政府による神仏分離令や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の余波によるものです。仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃した政策で、このお寺もこのときに廃されたようです。

神仏分離令は、そもそも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、結果として多くの寺も廃されるところとなり、これが廃仏毀釈といわれるようになったものです。

このとき、瀧源寺が廃寺となっただけでなく、普化宗そのものも廃宗となりましたが、その理由は、普化宗が徳川幕府の意向を受け、ある任務を帯びた特殊な宗派だったためです。普化宗は「宗」と称して仏門を標榜していましたが、実際には教義や信仰といった内実はほとんどなく、禅の修行のみが仏的な活動だったようです。

宗徒は、いわゆる「虚無僧」と呼ばれる人々で、尺八を「法器」と称して托鉢のために吹奏して日本中を行脚して回っていましたが、実際には諸藩の内情を探るといった、スパイ的な要素も強かったようです。

1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」には、この虚無僧を保護する旨の文々が書かれており、普化宗が江戸幕府からの保護を受けて特別の任務を持っていた、とされる根拠となっています。

そこには、普化宗の山門は、勇士である浪人の隠れ家であり、守護(警察)も入ることのできない宗門(禅宗)である。よって武家の身分である事を理解すべきである、といったことや、虚無僧は、木太刀、懐剣などを心にとめ所持しなければならない、といったことが書いてあります。つまりは仏門に入った人々というよりはむしろ、武士です。

また、武家としての正しい行いを見失わず、武者修行の宗派と心得なければならない、とし、このため、日本国中の往来を許可する、とも書いてあり、この一文をもとに、その後普化宗では、虚無僧としての入宗資格や服装なども細かく決められるなど組織化されました。

この文書により、諸国通行の自由など種々の特権を得ることになったため、いわゆる「隠密」の役も務めたとも言われます。今で言う「秘密警察」のようなものであり、しかも幕府御用達の特別警察です。

こうした江戸幕府との繋がりの強かった秘密組織を明治政府が残しておくわけはありません。このため、宗派そのものは、1871年(明治4年)に解体されなくなってしまい、これと同時に旭滝がある場所にあったような普化宗のお寺の多くが廃寺となったり、他の宗門に吸収合併されたりしました。

しかし、明治23年(1890年)に東福寺の塔頭(たっちゅう、祖師や高僧の墓塔の側に建てられた小院)である善慧院に「明暗教会」として復興されたほか、戦後の1950年(昭和25年)には、宗教法人として「普化正宗明暗寺」が再興されており、現在では普化宗は復活しています。

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廃仏毀釈前の普化宗の総本山は、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)にあった、金龍山梅林院一月寺でした。

また、武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)にも廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、この二寺を中心として、全国に普化宗末寺120を持つほどの大組織を持つまでになりましたが、廃仏毀釈後の一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となりました。

昭和になってから復興した明暗寺は、京都市東山区にありますが、この「明暗」というのは、時代劇でよく虚無僧が首からぶらさげている箱に書いてあるあれです。一見宗教的な意味を持っているように思えますが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味です。

この箱には名称があり、偈箱(げばこ)といいます。が、「明暗」の文字は江戸期にはなく、明治末頃から書かれるようになったもので、虚無僧の姿を真似た大道芸人が虚無僧の雰囲気出すために用いたものが流行るようになったものです。

従って、江戸時代がテーマの映画やドラマに出てくる虚無僧が下げている箱に「明暗」と書かれているのは時代考証的には間違いということになります。

偈箱の、「偈」とはこれすなわち尺八の譜面のことです。この中には偈の他、お布施等が入っており、江戸時代には、天皇家の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などとは書かれてはいませんでした。

現在の時代劇では、よく虚無僧の恰好をして世間を欺く人物が描かれたりしますが、江戸時代にも実際にこうした偽物の虚無僧が横行していたようで、こうした偽虚無僧も本物らしく見せるためにこの皇室の裏紋を用いていたようです。

この当時の虚無僧の装束としては、深網笠をかぶり、白の手甲、脚絆に草鞋、あるいは草履、下駄等をはき、手には尺八、左手に数珠、また左の腰には袋に入れた替え笛を挿し、偈箱を首からさげている、といった風情です。

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この虚無僧のトレードマークともいえる尺八ですが、これを門徒の虚無僧たちに使うように広めたのが普化宗の開祖といわれる、「心地覚心」です。もともとは、臨済宗の僧で、29歳の時に奈良東大寺にて受戒、高野山で真言密教を学びますが、さらに密教禅を深めるために、1249年(建長元年)にこの当時「宋」であった中国に留学しました。

5年ほどで帰国し、その後多くの宗教家に影響を与えましたが、この帰国の際には中国普化宗の4人の高僧を伴って帰ってきており、この4人は、紀伊由良の興国寺山内に「普化庵」という小寺を建ててもらってここを居所としました。

4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていき、これがさらに全国に広がることで、普化宗は大組織になっていきました。

この4人の中国僧のパトロン的存在だった心地覚心が、尺八を中国から持ち帰って広めたとされるわけですが、実は尺八はこれ以前からもありました。有力な説としては7世紀ごろに唐の学者で呂才という人が考案したというものがありますが、日本に伝来したのもこのころのことのようです。

「尺八」の名前の由来は標準の長さが一尺八寸である事に由来していると言われています。日本に伝わった時は雅楽楽器として伝わりましたが、平安時代頃には使われなくなってしまいました。その後、鎌倉時代になって、これを基にしたと思われる「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる縦笛が広まりました。

これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものであり、尺八と比べるとやや細めです。義経が九条大橋の欄干に立って吹いていたのは横笛ですが、おそらくはこの一節切の発展形でしょう。この一節切は武士の嗜みの一つとしてこの当時の武家社会で大いに流行し、上述の北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っています。

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「田楽法師」と呼ばれるこの当時の旅芸人の中には、これを吹いて物乞いをする集団が現れ、やがてはこの集団は、「薦僧(こもそう)」と呼ばれるようになりました。

この集団がやがて普化宗と結びつき、「薦僧」の音がもじって、「虚無僧」となっていったと考えられます。心地覚心はちょうどこのころ日本では廃れていた尺八を携えて宋から戻り、自身が興した普化宗の門徒の間で広めたと考えられます。

この心地覚心が持ち帰った尺八の演奏技術は、「竹管吹簫(ちくかんすいしょう)」と呼ばれるもので、それなりの奥義であったようです。一節切の演奏方法にもこの奥義が適用されるようになり、さらに普化宗の創設とともに「法器」に指定され、形も工夫されて現在に伝わる尺八に変わっていきました。

が、一方の一節切は17世紀後半に全盛を迎えたのち、その後急速に衰退していきました。ちなみにこのとき、心地覚心は尺八以外にも「金山寺味噌」を持ち帰っており、これは彼が宋で学んだ径山寺(きんざんじ)で製造されていた味噌の製法を模したものと言われています。

やがて、虚無僧と呼ばれるようになった普化宗の門徒たちは、尺八を吹き喜捨(金品を寄付すること)を請いながら諸国を行脚し、修行するようになっていきました。しかし「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在であり、有髪の僧でした。

最初のころは普通の編笠をかぶり、白い小袖を着て袈裟を掛け、刀を帯しただけといったシンプルな姿でしたが、江戸時代になると徳川幕府の命によって、「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶることが強要され、足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つという固定スタイルになりました。

幕府は、上述のとおり、「慶長掟書」を普化宗に与え、そこには「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された」との記述があったため、これをもって虚無僧は普通の人がいけないような場所にも行くことが許されていました。

しかし、その原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺や鈴法寺にも存在しないため、実は偽造ではないかともいわれています。最初のころはたしかに幕府からスパイを命じられることもあったかもしれませんが、そのためだけに永世許可証を与えられるとは考えにくく、普化宗門徒たちが自分たちの特権を守り続けるために捏造したのでしょう。

が、真偽のほどはわかりません。とはいえ、幕府からもその存在が認められた天下無双の秘密警察、という暗黙の了承が世間でまかり通るようになり、幕府も野放しにしていたことから、やがては罪を犯した武士でも普化宗の僧となれば刑をまぬがれることたができるようにまでなりました。

江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が偽虚無僧になって横行するようになり、このため、幕末近くになると、幕府は虚無僧を規制するようになりました。しかしその後、明治維新を迎え、新政府は明治4年(1871年)、普化宗を廃止する太政官布告を出しました。この結果、虚無僧たちは僧侶の資格を失い、民籍に編入されることになりました。

しかし、前述のとおり、明治21年(1888年)に京都東福寺に明暗教会が設立されてからは、虚無僧行脚が復活し、現在に至っています。

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とはいえ、現在に至っても本当に虚無僧はいるのか?という疑問がわきます。調べてみたところ、「虚無僧尺八」の愛好者として、この京都東福寺善慧院内の明暗教会会員が約200名ほど、東京新宿区の法身寺というところに本部を置く「虚無僧研究会」のメンバーが約600名ほどもいるとのことで、両会に重複している人を除けば700人程度になるようです。

ちなみに、江戸時代でも虚無僧の数も数百人程度だったそうで、あまり実数はかわりません。ただ、これら現代の虚無僧愛好者もまた、江戸時代と同じように日常的に虚無僧姿で全国行脚しているかというとそうではなく、各会がそれぞれ年1、2回開催する大会に出席するか、何かのイベントがあると虚無僧姿で尺八を吹くだけのようです。

とはいえ、こうした会員の間での、普化禅師の禅、普化道を究めようとする精神性は高いそうで、そうした意味では江戸時代の、純真な虚無僧の精神を引き継いでいるといえるようです。

ちなみに、虚無僧が、自宅を訪れたとき喜捨を断わる場合には、「手の内ご無用」と言って断わるそうです。「手の内」とは、手のひらです。そして、何かものをもらう時には手のひらを見せて「ください」とやるわけです。

つまり、「手の内ご無用」とは、「手のひらを見せないでください」、つまり、「托鉢お断り」の意味になります。お宅にある日突然、虚無僧が現れたら、試してみてください。無論、ありがたく拝んで、喜捨を行うほうが功徳があるに決まっていますが。

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こうした「純正」の虚無僧以外にも、尺八の愛好者は多いようで、その吹奏人口については正確な人口は不明ですが、推定では3万人程度もいるといわれているようです。

現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものです。古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていましたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流です。

これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からのようですが、結果として持ち運びにも便利になりました。材質は真竹ですが、近年では木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されています。

明治時代以降は、西洋音楽の影響により、七孔、九孔の尺八も開発され、五孔の尺八に比べれば主流ではないものの多様な音が楽しめるためか、こちらを好んで使う人もいるようです。

現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整します。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られます。

これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古いタイプの尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗りません。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要があります。

尺八はフルートと同じく、奏者が自らの口形によって吹き込む空気の束を調整しなければなりません。リコーダーのような縦笛なら、歌口の構造の工夫があるため初心者でも簡単に音が出せますが、尺八やフルートで音を出すには熟練が必要です。

しかし、口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができ、メリ、カリ、つまり顎の上下動(縦ユリ)、あるいは首を横に振る動作(横ユリ)によって、一種のビブラートをかけることができます。

これによって、フルートなどの息の流量変化によるビブラートとは異なり、独特の艶を持つ奏法が可能であり、こうしたところも尺八の愛好者が多い理由でしょう。ひとつひとつ微妙に構造が変わる尺八のもつ個性もまた様々に音色を変化させるため、これもまた愛好家にとってはたまらない魅力となっているようです。

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尺八にも流派があり、組織として大きいのは「都山流」というそうです。1896年(明治29年)、といえば、明治21年(1888年)に明暗教会が設立されてからわずか後ですが、この年に、「中尾都山」という人が興した流派のようです。

中尾都山は独自の記譜法を使い、箏の奏者で文筆家としての評価も高かった宮城道雄という人らとも積極的に交流し、尺八と琴の合奏を広めました。この都山流はすぐに全国に広まって大組織となるとともに、この流派の所属者の中からは洋楽を学んだ作曲者も出て、新しい曲を作曲して多様なスタイルで演奏されるようになり、現在に至っています。

しかし江戸時代には、「琴古流」というのが主流だったようで、この流派は元黒田藩の藩士であった黒沢琴古という人によって創始されました。江戸へ出て一月寺や鈴法寺の吹合指南役となりましたが、天賦の才があったようで、この際にそれまでの尺八曲の整理を行い、全36曲の琴古流本曲を制定しました。これが尺八の世界では「古典」とされるものです。

その後3代に渡って、「黒沢琴古」の名跡を残しましたが3代目で途絶え、琴古流はその後、弟子の荒木古童らが隆盛を築いていき、現在も続いています。ちなみに、この荒木古童の名跡も現在、6代まで続いており、この6代目荒木古童の本名は荒木半三郎さんといい、自らCDを出し、こうした活動から数々の世界的な賞を得ています。

尺八曲に「滝落」という曲があり、古典本曲をやっている人ならば、「おぉぉ・・あれか・・」というほど有名な曲なのだそうです。そして、これは先の琴古流の36曲の中に入っている一曲だそうです。

その尺八の名曲は、冒頭で述べた旭滝から生まれたと言われており、現地に行くと、滝のすぐ側にそのことが書かれた説明板が建てられています。この地にあった寺は廃されてしまいましたが、ここで生まれた曲は今も残り、この地に伝えられていた虚無僧たちの精神もまた現在に伝わっているわけです。

写真に写っていた大きな玉響は、おそらくはこの地で修業を重ねていたかつての虚無僧であり、きっと私に今日これまでに書いてきたことなどをきちんと伝えてくれよ、と言いたかったのに違いありません。

あるいは前世でスパイだったこともあるらしい私にシンパシーを覚えて出てきてくださったのかもしれませんが、実は先にこの滝を訪れたときから、ずーっと右肩が痛いのが続いており、これはもしかしたら何等かの霊的なメッセージなのかもしれません。

それが何であるのか、解き明かされる日が来るのが楽しみです……

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