天城山あれこれ ~旧修善寺町(伊豆市)

2014-7894寒い日が続きます。

それでも伊豆は太平洋側に位置するため、日本海側のような降雪に見舞われることもなく、この時期は好天が続くことが多いのが特徴です。

しかし、伊豆半島全体をみると、各地域で微妙に気候が異なり、内陸部と沿岸地方では気象の特性が異なっています。東西の沿岸地方では、海水の影響を受けるため、一日中暖かいようですが、ここ伊豆市などの内陸では日中と夜の気温差が大きく、とくに冬期には夜間の冷え込みが一段と強くなります。

ここからもそう遠くない天城山付近では冬になると降雪も珍しくなく、我が家周辺では、今年の1月にここは本当に伊豆か、と思えるほどの豪雪となりました。

この天城山を、単体の山だと思っている人も多いと思いますが、実際には最高峰の万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,299m)、遠笠山(1,197m)等の山々から構成される連山の総称です。従って、「天城連山」が地理学的には正しい呼称です。

80万〜20万年前の噴火で形成され、火山活動を終え浸食が進み現在の形になったもので、火山学上では「伊豆東部火山群」に属します。伊豆半島の東部の伊東市の沖にある海底火山にも連なる火山群であり、伊豆半島有数の観光地である伊豆高原一帯や、大室山、火口湖の一碧湖、名勝浄蓮の滝や河津七滝も本火山群の影響によって生み出されたものです。

この伊豆東部火山群の活動によって、伊豆半島に多くの地形が生まれたわけですが、この火山群における火山活動は伊東市東部とその沖合いでの活動を除けばほぼ沈静化しており、先日の御嶽山のように今後大噴火を起こす、という可能性は低いようです。

ただ、伊東市などの地下では、フィリピン海プレートに載った地殻と本州側プレートとの衝突により現在でも大きな圧縮が生じている場所であり、こういう場所ではマグマの岩脈貫入が起きやすく、これが原因とされる群発地震がしばしば発生します。

2006年(平成18年)4月21日には、伊東市富戸沖を震源として発生したマグニチュード5.8 の地震が起こっており、震源に近い富戸では、水道管が数カ所破裂したほか、ブロック塀の崩落や、がけ崩れなども起こりました。

このときは、ここ伊豆市でも震度4を記録し、スーパーなどで商品落下被害があったそうで、このほかにも市内各地で建物や道路のひび割れ・陥没が数ヵ所発見されました。

陸上ではありませんが、海底で実際に火山噴火も起きています。1989年には、同じ伊豆半島東方沖で群発地震が発生しており、このときは伊東市の東方沖わずか3kmの海底で噴火がありました。その後この噴火地点には小高い海底火山があることが確認され、これは「手石海丘」と命名されました。

「伊豆東部火山群」では、有史以来、約2700年の間、火山活動がなかったことがわかっており、長い眠りから覚めた噴火だったわけですが、今後これと同様の噴火や地震の発生も全く考えられなくはないわけです。専門家は否定的ですが、天城連山の一部が噴火する、ということも可能性として少しは考えておいたほうが良いのかもしれません。

この「天城」という名の由来ですが、天城山は冬以外の夏季にも雨が多い多雨地帯であり、「雨木」という語が由来であるとする説があるようです。また、この地域にはアマギアマチャ(天城甘茶)という、ヤマアジサイに近い種類の植物が群生しています。

葉に多くの糖分が含まれているため、伊豆以外の各地でもこの葉を乾燥して「甘茶」をつくり薬用や仏事に用いる風習が残っているところがあります。私も飲んだことはないのですが、黄褐色で甘みがあり、長野県佐久地方ではこの甘茶を天神祭や道祖神祭等で神酒の代用として使う風習があるそうです。

そもそもは、お釈迦様が生まれたとき、これを祝って産湯に「甘露」を注いだという故事によるものだそうで、現在ではいわゆる花祭り(灌仏会)のときに、仏像にお供えしたり、直接かけたりするそうです。

潅仏会の甘茶には虫除けの効能もあるとされ、甘茶を墨に混ぜてすり、四角の白紙に「千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書いて室内の柱にさかさまに貼って虫除けとする、いう風習がかつては全国的にあったそうです。

そのアマギアマチャが伊豆の山地に多く自生していることから、かつて天城山周辺の住民にも同様の風習があり、これがそのまま天城山の名になったのではないかというのが、天城のネーミングの由来のもう一つの説です。

この天城山はまた、非常にたくさんの種類の落葉樹の森から形成される緑豊かな山域であり、これらの木の中には、建築材料に適したものも数多くあります。近世には徳川幕府の天領として指定され、山中のヒノキ・スギ・アカマツ・サワラ・クス・ケヤキ・カシ・モミ・ツガの9種は制木とされ、「天城の九制木」と呼ばれていました。

公用以外は伐採が禁じられていたといい、伐採されたのちに建築材として加工されたものは、幕府が建設する神社仏閣や城郭施設などにも使われたようです。

天城山は、代々「韮山代官」と呼ばれる幕臣が管理してきましたが、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗のりました。このうち幕末に活躍した第36代目の江川太郎左衛門こと、「江川英龍」が最も著名であり、一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多いようです。

洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げ、日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる人ですが、以前、この人物に関するかなり長いブログを書いたのを読んでいただいた方もいるでしょう。(「韮山代官」ほか、連載参照。)

この韮山代官が代々管理してきたこの地では、江戸中期ころから、ワサビ栽培もおこなわれるようになり、茶、シイタケと並ぶ豆駿遠三国の主要な特産物として、江戸に出荷されて流通するようになりました。

年貢としても納入されていたそうで、明治期には畳石栽培によってより産量が増え、現在では一大産地となり天城のワサビは全国的にみても最高級ブランドとなっています。

ただ、シイタケの栽培のほうは、江戸時代には伊豆ではあまり栽培されておらず、主として駿河(現静岡市)や遠州浜松方面で作られていたようです。が、明治期に天城湯ヶ島地区で栽培されるようになってからは、伊豆一帯にも広がり、これも現在は伊豆の一大ブランド品です。

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このように天城山は、地域を潤す自然の産物の宝庫であったわけですが、一方で伊豆を南北に分断しており、北伊豆から天然の良港のある下田などの南伊豆地方への陸路でのアクセスを妨げていました。このため南伊豆では物資の輸送は海運に依存するところとなり、陸上路である三島~下田間の、いわゆる「下田街道」の整備・発達はかなり遅れました。

人馬の継立場(茶屋の一種で、馬や駕籠の交代を行なう)が設置されたのは江戸中期の1742年(寛保2年)のことであり、しかしこれが設置されたことで、江戸中期頃から通行が増加しました。

ただ、これより以前にも天城山を越えて南伊豆へ行く道がなかったわけではなく、最古の天城越えの記録は平安時代に遡るそうです。ただ、現在の天城峠から1.2kmほど西にこの古峠があったそうで、また峠道というよりも獣道に近いものだったようです。

天城山の北側の湯ヶ島に継場ができて以降、いつからか人々は現在の下田街道のルートを利用するようになり、この古峠は廃道となりました。旧天城トンネルが位置するあたりは、古くは「二本杉峠」と呼ばれていましたが、ここに1904年(明治37年)に天城トンネルが開通したことで、その通行はがぜん楽になりました。

それ以前は、岩場と岩場の間を縫うような山道であり、女子供はとても通行できるような道ではなかったようです。それでも長い間多くの人々が利用しましたが、それらの中には著名人も多く、老中だった松平定信や、画家の谷文晁、作家の滝沢馬琴、思想家の吉田松陰、そしてタウンゼント・ハリスなどもこの峠を越えています。

この天城峠は、後に川端康成がここを舞台に小説を書いたために有名になり、松本清張の小説「天城越え」などでも人々の記憶に残るようになり、これらの小説にも登場するトンネルは、伊豆観光における人気スポットのひとつとなっています。

正式名称を天城山隧道といい、全長445.5メートルもあります。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のものです。1916年(大正5年)には、ここを通るバス運行も開始され、下田との人・物の流入出がさらに加速しました。

天城トンネルは1998年には登録有形文化財に指定されましたが、さらに2001年には、道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されています。この時期に観光スポットとしての整備も進み、「日本の道100選」にも選ばれています。

これに先立つ1970年(昭和45年)には、並走して全長約800mの「新天城トンネル」も完成したため、現在ではここを通る車も少なく、静かなたたずまいを見せています。

ただ、現在でも車での通行は許可されており、ときには心無い観光客がここを通るようです。ところが、幅員は3.50メートルと非常に狭く、一般車両のすれ違いはまず不可能ですから、できるだけクルマで通るのはやめて、歩きましょう。

修禅寺側の天城山の麓から出ている旧トンネルまでの道は本当に雰囲気の良い綺麗な大自然の道なので、ハイキングにはもってこいですし、よく整備されています。またトンネル入り口付近には駐車場やトイレが設備されており、トンネル内の照明は通常のパネル型ではなくガス灯を模したデザインにしてあるなど、なかなか良い雰囲気です。

実は、人にあまり教えたくないのですが、この旧天城トンネルに至る手前2kmほどのところに、滑沢渓谷という美しい渓谷があります。

いつ行ってもほとんど観光客はおらず、地元の人しか知らないようですが、大小の滝つぼがあって、清流が流れ、あちこちにモミジもあって、紅葉の季節にはなかなかのものです。私の秘密の撮影スポットなのですが、夏行っても秋行っても見どころは尽きず、おすすめです。一度騙されたと思って行ってみてください。

ちなみに、新天城トンネルのほうは、1970年に竣工当時は有料道路でしたが、2000年より無料開放されています。なので、これを通ってその先の河津七滝(ななだる)の駐車場に車を止め、ここから逆にいくつもの滝を鑑賞しつつ、北に向かって天城トンネルを目指すハイキングもなかなかおつなものです。

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このように、天城山は観光地としても見どころ満載なのですが、1957年(昭和32年)には、当時のマスコミ等でも大きく報道された「天城山心中事件」という事件もありました。

当時、学習院大学の男子学生である大久保武道と、同級生女子の愛新覚羅慧生の2名が、大久保の所持していたピストルで頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見されたというもので、この愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)とは、満州国皇帝だった、愛新覚羅溥儀(ふぎ)の実弟、愛新覚羅溥傑(ふけつ)の長女になります。

溥儀は、叔父さんということになり、満州国皇帝の親族であることから、当時のマスコミがかなり囃し立て、「天国に結ぶ恋」として報道された事件です。

この慧生という女性は、戦前の1938年(昭和13年)、満州国の首都新京(現:長春市)において、溥儀の弟の溥傑と日本の侯爵家出身の女性との間に生まれた人で、新京で育ったころは、皇帝である伯父の溥儀に大変可愛がられたといいます。

1943年(昭和18年)、学習院幼稚園に通うために来日し、日吉(神奈川県横浜市港北区)にある母の実家のこの侯爵家、「嵯峨家」に預けられました。これ以後19歳で死ぬまで、日本で過ごすことになります。

1945年(昭和20年)に日本の降伏により、満州国は解体。父の溥傑は赤軍に捕らえられ、以後慧生の死後に釈放されるまでソビエト連邦と中華人民共和国で獄中生活を送ることになりました。一方、母と妹は中国大陸を流転した末に1947年(昭和22年)帰国し、慧生のいる日吉の嵯峨家で一緒に生活するようになりました。

戦争に負けたとはいえ、皇族はやはり皇族あり、このため、慧生は戦後、学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科と進みました。高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望しましたが、親類の反対に遭い、1956年(昭和31年)学習院大学文学部国文科に入学。

このとき、同じ学科の男子学生・大久保武道と出会い、交際が始まりますが、相手が一般人であるため、母を始めとする家族には彼との交際を打ち明けることができませんでした。

そのために悩んだ末だったのか、1957年(昭和32年)に伊豆にやってきた二人は、12月4日の夜に天城山中に入り、大久保の所持していたピストルで心中死したと推察されています。2人の遺体は12月10日に発見されました。

ただ、二人とも死んでしまったために、本当に心中だったのかどうかを巡って、事件の真相については諸説が飛び交いました。二人の死の概要や動機には判然としないまま、ただ単に当事者が有名人だからという理由で、かなり脚色されて伝わった「事実」も多かったようです。

その後警察は、慧生の遺書に「彼は自身のことで大変悩んでおり、自分は最初それは間違っていると言ったが、最終的に彼の考えに同調した」とあったと公表し、このことを理由として両者の同意による心中(情死)と断定しました。

このため、皇族と一般人の許されない恋愛の末の心中事件ということで、この事件は多くの人の同情をさそい、身分の違いを超えた悲恋としてマスコミにも取り上げられました。また、大久保と慧生の同級生らによって作られた「われ御身を愛す」という小説は、その発表とともにこの当時のベストセラーにもなりました。

この本では、2人の死は同意の上での情死(心中)であったと主張し、文中で掲載された書簡の中では、慧生は大久保のことを「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書かれていました。

ところが、慧生の母である、「嵯峨浩(ひろ)」をはじめとする嵯峨家関係者は、この事件は大久保の一方的な感情と付きまとい、すなわち現在的に言えば、「ストーカー行為」によってに慧生が辟易していたことに起因するとして、この事件は大久保による一方的な無理心中事件であると主張しました。

その根拠としては、伊豆へ到着した慧生と大久保を天城まで乗せたタクシー運転手の証言から、慧生はしきりにこの運転手に帰りのバスの時間を訊いていた、ということなどを母親は挙げました。

そして、「ここまで来れば気がすんだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と、何度も連れの男性に繰り返していたという証言もこの運転手から得たと主張しました。

このほか、母親からみても、慧生が姿を消す以前、死期を予期している様子は微塵も見られなかったこと、相手の大久保は非常に独占欲の激しい性格だったと考えていた、といったことも証言しました。

大久保は、慧生がほかの男子学生と口をきくだけでも、「おまえはあの男となぜ親しくするんだ! そんな気ならおまえもあいつも殺してしまうぞ」と、責め立てたこともあったとしており、娘は何度も大久保に交際したくないと申し入れていた、とも語りました。

さらには、事件当時、捜索を手伝い、実際に遺体を見たという古老が、「ふたりの遺体は離れていて、心中のようには思えなかった」と語ったと主張しました。こうした数々の傍証をあげ、嵯峨家の関係者の多くはこの事件は大久保による無理心中であると主張しました。

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ところが、慧生は4日の午前中に最後の手紙を書いて投函しており、これが上述のように警察が二人の死を心中であるとした根拠となった「遺書」とされるものです。その手紙は翌日、彼女が住んでいた女子寮に届いおり、その原文は以下のとおりです。

「なにも残さないつもりでしたが、先生(寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。

二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。

それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。

また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。」

と、これだけであり、遺書という風にも受け取れますが、自分たちの出奔によって関係者に迷惑をかけたための、単なるお詫び、というふうにも受け取れます。

ところが、この書簡を読んだ、慧生の実父、溥傑は、母親とは異なり、慧生の死は交際を反対されたための情死(心中)と考えました。当時中国の撫順戦犯管理所に収容されていた溥傑は、この当時慧生からの手紙で好きな人がいることを明かされ、大久保との交際の同意を求められた、という事実をその後公表しています。

しかし、溥傑は長い間娘と一緒に暮らしておらず、父親として答える資格がないと思い、慧生に母の意見を聞くようにと返事をしたそうです。が、後に慧生の死を知り、あの時自分が交際に同意していれば慧生は死ぬことはなかったと深く後悔したといいます。

溥傑によると、母親の浩は慧生を中国人、それも満州人と結婚させようと考え、慧生と大久保の交際に反対していたといい、交際を反対された慧生は溥傑の同意を得ようと手紙を送ったようです。しかし、その当時そこまで思い至らなかった溥傑は、母の意見に従うように慧生に返事を出したわけであり、このことは慧生をひどく失望させたようです。

また、叔父である満州国元皇帝の溥儀の自伝、「わが半生」も慧生の死に言及しており、そこにも恋愛問題のために恋人と一緒に自殺したとあり、大久保による一方的な無理心中とする嵯峨家に対し、父方の愛新覚羅家では2人の同意の上での情死と認識していたことがわかります。

このように、娘の死の原因については、夫婦それぞれ異なる見解を持っていた溥傑と浩でしたが、1960年(昭和35年)に溥傑が釈放されたため、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会しました。この後、浩は中国に帰り、溥傑とともに北京に居住しました。が、その後1984年(昭和59年)までの計5回、日本に里帰りしています。

しかし1987年(昭和62年)、北京で死去。中国国籍だったとはいえ、生粋の日本人だった浩の遺骨の半分は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された「摂社愛新覚羅社」に納骨されましたが、残りの半分は中国側で納骨されました。

一方の慧生の遺骨は、これより前、浩が中国に帰国した際に北京に運ばれていましたが、その後中国では文化大革命という嵐が起こり、このとき溥傑・浩夫婦もかつて日本に加担した異端者として迫害されました。この動乱を経験した二人はこのため、彼女の遺骨の一部を平和な日本で納骨することを望みました。

こうして、1978年(昭和53年)、この年に訪中した浩の妹らが帰国する際、その半分の遺骨が日本に運ばれ、嵯峨家の菩提寺である京都の二尊院に納骨されました。そしてその後浩も亡くなったため、この母の半分の遺骨とともに愛新覚羅社に移されて納められたわけです。

その後、溥傑もまた、1994年(平成6年)に北京で死去。溥傑の遺骨の半分も日本に持ち帰られ、これもまた愛新覚羅社に納骨されました。

つまり、日本の愛新覚羅社には慧生とその両親それぞれの半分の遺骨が納められているわけですが、中国に残った彼等3人の残りの遺骨はその後、中国妙峰山という場所の上空より散骨されたといいます。

墓に納められたのではなく、散骨になった理由はよくわかりませんが、やはりかつて中国を侵略していたとみなされている日本人に加担した一族ということで、正式な埋葬については、中国共産党あたりから横槍が入ったのではないでしょうか。推察にすぎませんが。

ちなみに、この妙峰山というのは、北京でもとくに文化的な雰囲気が漂う名所のひとつだといい、山の地形をうまく利用して建てられた3つほどの廟や14軒ほどの殿堂があり、それぞれ仏教、道教、儒教などの神々が祀られており、明清時代には、北方に住む民衆の信仰の中心地だった場所です。

溥儀の英語教師を勤めた人物の別荘などもここにあるといい、愛新覚羅家とは縁のある土地柄のようです。

この事件は、慧生が日中それぞれの貴族と呼ばれるような両親の元に生まれなければ、単なる悲恋の末の心中事件で終わったであろうし、19歳と20歳という、まだまだ多感で不安定な男女が陥ったラビリンスにすぎないものだったはずです。

ところが、日本の敗戦に伴う日中の分断による被害者という見方もでき、上流社会におけるスキャンダルという趣もあって、マスコミにによりこの事件はより一段とセンセーショナルのものに仕立てあげられました。

しかし、死んだ二人にとっては、「身分を越えた恋」ということよりも、あるいは、それぞれが持っていた、「潜在的な死への願望」がたまたまこのとき合致した結果だったと考えることができるかもしれません。

それこそが、「心中」といわれるものなのかもしれませんが、改めて調べてみると、この心中という男女の永久相愛の意味での自殺は、元来日本の「来世思想」に基づくものともいわれ、江戸時代以降の近世で急増したようです。

やがて自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられるようになり、情死を賛美する風潮も現れ、遊廓で遊女と心中する等の心中事件が増加して社会問題へと発展した結果、幕府は厳しい取締りが行うようになりました。

江戸幕府は、心中の「中」という字は「忠」に通じる」とし、武家社会にも影響が大きいとしてこの言葉の使用を禁止し、「相対死」(あいたいじに)と呼ぶようにお触れを出していたほどです。

また、心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落としたといいます。

無論、現在はこれほど厳しく心中を罰した法律はありませんが、江戸時代はそれほど自殺や心中といったことがタブー視されていたわけです。現在ではそうした罰則がないことを良いことに無理心中や一家心中は後をたたず、さらに最近は「ネット心中」なるものまで出てきました。

インターネットの自殺系サイト等で知り合った見ず知らずの複数の他人が、一緒に自殺することで、お互いに全く繋がりがないという点が、従来の心中とは異なっており、新たな社会問題として取り上げられています。

スピリチュアル的にみると、自殺というものはその先のあの世でさらに過酷な状況を作り出すことが多いといい、死んでから気づき自らの過ちを認め、あの世にて反省の期間を求める人はまだ救われますが、あの世へ移行せずにこの世で浮遊霊や不成仏霊として地縛する人も多いといいます。

亡くなった二人の魂もまた今もまだ天城山中を彷徨っているやもしれず、そう考えるとちょっと怖くなってしまいますが、我々もまたそうした世界に陥らないよう、苦しくても何が何でも与えられたこの生を全うしなくてはなりません。

自殺する人は、死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れられる一番楽な方法だと考えるわけですが、物質の世界から霊の世界へ移ったからといってそれだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。

今年もまた残り少なくなりましたが、与えられた時間を無駄にせず、魂が喜ぶようなことをいっぱいやって、今年という一年を終えましょう。

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