どういう理由なのかな、と気になったので調べてみたところ、これは2006年ごろから牛乳余剰を原因とする生産調整で乳牛が削減されていたのに加え、国内では昨年来の猛暑、輸入元のオーストラリアやヨーロッパでは旱魃により牛乳の生産が減少したためだそうです。
各メーカーでは出荷数量の制限や価格の改定を実施しているそうですが、小売店においても特売などの取りやめ、一人当たりの購入数量の制限、在庫切れによる販売中止などが相次いでいるようです。またバターを使用したケーキ類の値上げなどの影響も出ているようですが、もうすぐクリスマスだというのに大丈夫なのでしょうか……
牛や山羊などを飼育し、このバターのような乳製品を生産する畜産は「酪農」といわれます。この「酪」の意味は何かな、と思ったら、古代メソポタミア語で濁り酒の意だそうです。こうした古い時代から行われている生産活動であり、人類が狩猟生活から農耕生活に入ったと同時期に、こうした酪農、畜産も始まったといわれています。
その後、移動しながらの遊牧も行われるようになりましたが、一般的には冷涼な高地が乳牛飼育に向いた土地です。このため、現在では特定の範囲に柵を設けた牧場をつくり、一軒につき数頭から数百頭の乳牛をこの範囲の中だけで放牧したり畜舎に入れて飼育します。
ただ、日本では放牧主体の酪農はほとんど行われておらず、約74%が牛をチェーンなどで繋ぐ、繋ぎ飼いであり、約25%は牛舎内での放し飼いです。自然放牧による酪農は2%にも満たないといいます。
日本で酪農が開始されたのは、千葉県の房総半島の先端付近(千葉県鴨川市・南房総市の一部)に設置されていた「嶺岡牧」だそうです。
江戸時代より以前に、安房国守であった「里見氏」が開いた牧場で、のちに徳川幕府の直轄となり、徳川幕府八代将軍徳川吉宗の時には、インド産の白牛を放牧・繁殖し、この当時「白牛酪」と呼ばれたバターを生産しました。
ここで生産された乳製品は強壮剤や解熱用の薬などの材料となり、武士階級でも高い位の人達に販売されていたといいますが、庶民の手に渡ることはなかったようです。その後、明治維新後の嶺岡牧は、新政府の「嶺岡牧場」として引き継がれることになりました。
この嶺岡山地では古くから牛以外にも馬の放牧が行われており、この地で軍事用の馬の繁殖を手掛けたのも里見氏といわれています。
この里見氏というのは、戦国時代に房総地方を領する一族で、その中からはのちに安房里見氏が出ました。安房里見氏は戦国大名として成長して房総に割拠し、江戸時代初頭には安房一国を治める館山藩主となりました。が、1614年に、第9代藩主の里見忠義(ただよし)の代で改易の憂き目を見ています。
忠義は、慶長8年(1603年)、父・義康の死により家督を相続し、慶長11年(1606年)には将軍秀忠の面前で元服し、従四位下・侍従・安房守に叙任され国持大名の列に加えられました。そして、慶長16年(1611年)、江戸幕府老中の大久保忠隣(ただちか)の孫娘を室として迎えるなど、それまでの人生は順風満帆でした。
この大久保忠隣という人は、江戸幕府の開闢以前から家康に従っていた忠臣であり、関ヶ原などでのそれまでの功もあって、慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の時代には政権有力者となりました。
ところがその後、隠居して御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の世となり、この中で、家康の重臣であり、やはり幕府開闢以前からの重臣である本多正信・正純父子と対立するようになります。
両者の対立は次第に顕在化の様相を呈しましたが、そんな中、慶長18年(1613年)に大久保派の急先鋒、大久保長安が中風のために死去しました。長安は元・武田信玄のお抱えの猿楽師でしたが、その能力を見出されて家臣として取り立てられ、その後、土屋の姓を貰い、土屋長安と名乗っていました。
信玄亡きあとは、その経済官僚としての才能を認められて家康に取り立てられ、大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなりました。この際に家康から大久保の名字を賜り、姓を改め、より一層忠隣の庇護を受けるようになった人物です。
長安は家康の期待に応えて、関東の奉行の重任を全うしたほか、幕府直轄の金山・銀山における奉行等を歴任して、江戸幕府の初期財政を大きく支えました。また、イスパニアのアマルガム法という新たな鉱山開発方法を導入して、できるだけ経費がかからないように工夫して鉱山開発を行いました。
ところが、鉱山開発における諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちとされていたため、長安はこうした新技術の導入によって節減できた経費の一部を、当然自分の努力の結果だと考え、そのまま自分の懐に入れていました。
けっして悪行ではありませんが、本多親子はその事実を掴み、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行いました。また、長安自身も派手好きな人物であり、自身の死去にあたって、金の棺に自分の遺体を入れるようにという遺言を残していました。
本多親子の虚偽の報告に加えて、金の棺の存在を知った家康は激怒し、長安の死後、彼が生前に収賄を犯していたという罪で、長安の腹心らはほとんどが逮捕されました。
このとき、これに便乗する形でかつての大久保忠隣の政敵が暗躍しました。この男は大坂夏冬の陣の際、忠隣はかつて豊臣秀頼に内通していたと誣告し、これによって家康の怒りは頂点に達しました。
このころ、忠隣はキリシタン鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いていましたが、家康から突如改易を申し渡され、近江国に配流されてしまいました。そしてこの時、大久保忠隣の孫娘を嫁に迎えていた里見忠義もまた、この失脚事件に連座させられ、安房一国、9万石分が減封され、持ち分は、常陸鹿島領3万石のみとなりました。
さらに日を置かず、馴染みの無い伯耆倉吉藩に流され、しかも4,000石に減封されました。減封に次ぐ減封、そして左遷ですが、実質の流罪とみていいでしょう。
困窮した里見忠義は、地元の寺院にそのわずかに残った領地を寄進するなどして、身分を保っていましたが、最終的には、因幡鳥取藩主・池田光政によりさらになけなしの4,000石もとりあげられ、百人扶持の身分にまで落とされました。
そして、元和8年(1622年)、失意の中、わずか28歳で病死し、倉吉の川原で火葬されました。嗣子はなく、こうして大名家としての里見氏は滅亡しましたが、唯一の救いは側室との間に3人の男子を儲けていたことで、その子孫は他家に仕え、そのまま明治維新を迎えたということです。
この里見忠義の死にあたっては、このとき殉死した8人の家臣がありました。忠義の亡骸は、現鳥取県倉吉市に残る「大岳院」というお寺に葬られましたが、里見忠義とこの8人の家臣の墓は今もここにあります。
戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称されますが、実は、この「八賢士」こそが、「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルだといわれています。
”通称”、「滝沢馬琴」と呼ばれるこの作家が書いたこの八犬伝もまた、この八犬士の出自が安房里見氏であるという設定になっており、それゆえに里見八犬伝の頭に「南総」、つまり「南房総」の文字が冠してあるわけです。
ただし時代は、不慮の死を遂げた9代藩主里見忠義の時代ではなく、これより150年以上前の初代藩主、里見義実と2代、里見成義のころとしており、作中で登場するお殿様は、成義ではなく、「義成」に改変されています。
また、「八犬士」は馬琴のオリジナルではなく、もともと1717年(享保2年)に刊行された「合類大節用集」という書物の中に、犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江新兵衛・犬村大学の名があったそうです。
こうした人物が実在したかどうかも明らかではないようですが、明らかに創作臭い名前ではあります。しかし、馬琴は、実在したかもしれないこの8人の武士のエピソードを綴った物語ではなく、彼らの名を借りて全く別の新たな伝奇小説を作り上げました。
文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した全98巻、106冊の大作であり、上田秋成の「雨月物語」などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作といわれる長編大作です。
かなり長い話なのですが、簡約されたものがドラマや人形劇で放映され、有名な話なので、その内容について改めて説明する必要もないでしょう。
安房国里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)の物語であり、彼等は、共通して「犬」の字を含む名字を持ち、またそれぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持っており、さらに牡丹の形の痣を身体のどこかに持っています。
関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集し、姫を救い出す、というストーリーですが、忠臣・孝子・貞婦の行いは報いられ、佞臣・姦夫・毒婦の輩は罰せられる、という典型的な勧善懲悪の物語となっています。
馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やしましたが、その途中失明していた、という事実は意外に知られていません。こうした困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができました。
滝沢という名前で通っていますが、実はこれは明治以降に流布した表記であって、現在確認されている限りでも、本人は滝沢(瀧澤)という筆名を用いて八犬伝を書いたという記録はありません。
「曲亭馬琴(きょくていばきん)」というのが正式なペンネームであり、本人はこれについて、中国の古典から取ったと説明しています。「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」と読むことができ、これは「廓で誠」という当て字とすることもでき、つまりは遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という洒落でもあります。
武家出身でありながら商人となった異才な劇作家でもありました。明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれました。
後世、滝沢馬琴と呼ばれるようになったのは、この生家がこの苗字だったからにほかなりません。が、馬琴はあくまで筆名にすぎず、その意味からも本名である滝沢の苗字を使って、滝沢馬琴と呼称するのは正しくありません。「曲亭馬琴」が作家名としても正式なものです。
幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだといいます。9歳の時に父が亡くなり、馬琴はこのため父の仕事を継ぐところとなり、主君の松平信成の孫にあたる人物小姓として仕えました。が、この孫は癇症だったといわれており、馬琴はこの主人との生活に耐えかね、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居するようになります。
その後、叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗りました。俳諧に親しんでいた長兄に誘われて越谷吾山という俳人に師事して俳諧を深めましたが、また、医師の山本宗洪、山本宗英親子からは医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学びました。しかし、馬琴は医術よりも儒学を好んだそうです。
馬琴はその後、長兄が仕えていた、戸田家という武家の徒士になりましたが、自らも尊大な性格だったためにここの勤めも長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々としました。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送ったといい、あちこちの土地を旅して回ったとされています。そして、この中にはここ伊豆も含まれていたようです。
天城峠を越えて、下田まで行ったという記録が何かに記載されているようなのですが、ネットで調べてみても何も出てこず、どこへ何をしに行ったのかもわかりません。ただ、「天城を越えた人々」というくくりの中では、必ず彼の名前が出てきます。
色々調べてみて、ひとつわかったのは、かつての主君の松平家は代々守護職として「伊豆の守」を拝領していたということです。このためかつての主家の家来が任地に行くのにあたって、馬琴もまたこれに同行させてもらい、その際、物見遊山に下田あたりまで行ったのかもしれません。
しかし、馬琴はその後、24歳の時、この放浪生活にピリオドを打ちます。この当時、山東京伝という、浮世絵師で戯作者がいましたが、彼が描いた錦絵は江戸中で引っ張りだこでした。
また、この時代には、左右1ページずつ木版摺りして2つに折りにし、10ページほどをまとめたものに表紙・裏表紙を付けて、数冊で1編の絵物語とする、合巻(ごうかん)という娯楽本がありました。京伝はこの合巻モノを作るのが得意で、特に挿絵の面白さが魅力だったらしく、江戸中で大変な人気を誇っていました。
馬琴は、この人気作家の山東京伝を訪れ、弟子入りを請いました。このとき京伝は弟子とすることは断りましたが、親しく出入りすることをゆるしました。
こうして京伝の指導を得るようになった馬琴はすぐに戯作者としての腕をあげ、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「尽用而二分狂言」という合巻を刊行、戯作者として新たな人生を踏み出しました。
翌年25歳のときには、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになりましたが、武士でありながら商人に仕えることを恥じた馬琴は、通称を瑣吉(さきち)に、諱を解(さとる)という商人風の名に改め、武士として素性を伏せるようになりました。
寛政5年(1793年)、27歳になった馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目で履物商「伊勢屋」を営む未亡人・百(30歳)と結婚し、この家、会田家の婿となりました。が、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のるようになりました。商人に身をやつしたものの、武士性である、滝沢の名を残したかったのでしょう。
結婚は生活の安定のためでしたが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家をしながら生計を立てていました。翌年、会田家の大御所であった義母が没すると、馬琴は名実ともに会田家の当主となったため、以後、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめてしまいました。
そして30歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじめ、より通俗的で発行部数の多い合巻を書き始め、その後も草双紙を多数書きながら、実力を蓄えていきました。そして、7年が経ち、37歳になったときに刊行した読本(よみほん)「月氷奇縁」が名声を博し、この種の娯楽本としては空前の大ヒットをとばしました。
どんな内容の話なのかまでは私も把握していないのですが、この読本というのは、史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪や因果応報を売りにした読み物です。
娯楽性も強いが漢語が散りばめられ、会話文主体で平易な滑稽本や草双紙などと比べ文学性の高いものであり、高価本でした。しかし、印刷技術や稿料制度など出板の体制が整っていたこともあってこの時代としてはかなり増刷され、さらに貸本屋を通じて流通したため多くの読者を獲得しました。
その後、40~41歳に次々と刊行した「椿説弓張月」や「三七全伝南柯夢」によって馬琴はさらに名声を築きましたが、このころから師匠の京伝は読本から手を引くようになったため、読本は馬琴の独擅場となっていきました。
なぜ、京伝が読本から手を引いたのかはよくわかりませんが、これより少し前に京伝は寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けており、これに加えて年齢は既に50歳近く、人の一生が50年と言われていた時代にあっては最晩年であり、筆勢に衰えを感じていたのでしょう。
一方の馬琴もこのころ、40代に入っていましたが、その旺盛な創作意欲は衰えず、そんな中文化11年(1814年)、馬琴47歳のときに「南総里見八犬伝」の初刊である「肇輯(じょうしゅう)」が刊行されました。
ちなみに、京伝はこれから2年後の、文化13年(1816年)に55歳で亡くなっています。その活躍のバトンを馬琴に手渡した格好ですが、京伝自身も生前に残した戯作の数は膨大な量であり、日本を代表する歴史的な戯作家の一人といえます。馬琴の師匠でもあり、良きライバルだったともいえるでしょう。
以後、馬琴の「南総里見八犬伝」は、天保13年(1842年)に完稿が出るまで、28年を費やし、馬琴のライフワークとなりました。
馬琴には、興継という一人息子がいましたが、馬琴は彼に医術を修めさせ、その甲斐あって、馬琴が肇輯を刊行した年に、「宗伯」と名乗ることを幕府から許されました。そして翌文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下(現秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここにはじめて「滝沢家」を設け、この家の当主として宗伯を移らせました。
その後、息子の宗伯は、陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となりましたが、これは馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意でした。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ば達せられましたが、しかし宗伯は多病で虚弱だったようです。
文政7年(1824年)、58歳になった馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居するようになります。ここで馬琴は隠居となり、剃髪してこのころから「蓑笠漁隠」と称するようになりました。
その後、「近世説美少年録」などを執筆し、これは1830年(文政13年)に刊行されましたが、このころにはもうかなり、馬琴の執筆意欲は失せており、八犬伝以外のものはほとんど書かなくなっていました。
天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになります。その2年後には、病弱だった宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次ぎました。幸い、宋伯には太郎という息子がおり、馬琴はこの孫に滝沢家再興の希望を託し、四谷鉄砲組の御家人株を買いました。
江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになっていました。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって相場が決められていました。
どの程度の家格の家を買ったのかわかりませんが、結構頑張ったようで、この御家人株購入のため馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会も開いたといい、神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞岳町)に質素な家を買って、ここに移住しました。
天保10年(1839年)、73歳の馬琴はついに失明し、執筆が不可能となります。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなりました。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路でしたが、彼女に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかったといいます。しかし、そのお百も、天保12年(1841年)に没しました。
天保12年8月、馬琴、75歳のとき、ついに、「八犬伝」の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行されました。八犬伝には、「あとがき」に相当する「回外剰筆」という部分があり、この中で馬琴は、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記による長く辛い日々について書き記しています。
馬琴は、その後も、お路を筆記者として、絶筆となる「傾城水滸伝」などの執筆を続けましたが、その完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去しました。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれます。墓所は東京都文京区の深光寺にあります。
馬琴は、非常に几帳面な人だったそうで、毎日のスケジュールはほぼ同じだったといい、毎朝6~ 8時の間には、起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側で徳川斉昭考案の体操を一通りしていたそうです。
徳川斉昭といえば、常陸水戸藩の第9代藩主で、最後の将軍として知られる徳川慶喜の実父です。将軍継嗣争いで井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去するなどその生涯は不遇でしたが、幕末期の藩政改革にも成功したため、名君とも言われた人です。
どんな体操だったのかよくわかりませんが、斉昭は武術にも堪能で、自ら神発流砲術、常山流薙刀術を創始し、弘道館で指導していたといいますから、柔道に通じるようなものだったでしょう
その体操を済ませたあと、馬琴はいつものように朝食を摂り、客間で茶を飲んだあと、書斎に移り、前日の日記を記したのち、ようやく執筆作業に入りました。
そして、他の筆耕者(作家、著述家)から依頼されることの多かった原稿をチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。そのほかにも自著に関して出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆よりも校正に苦しめられた日々だったといいます。
何やらこのブログを書いている自分と重ね合わせてしまいますが、馬琴ほどではないにせよ、私もまた書こうとするものにはいい加減なことは許せないタイプで、結構念入りな下調べをすることも多いほうです(誤字脱字、祖語も多いですが……)。
また、馬琴同様、かなり規則正しい生活をしているつもりで、毎朝、遅くとも5時台には起床し、7時台にはデスクにつく、という毎日です。
何をブログに書くかについての構想もさることながら、下書きから仕上げまでの時間はそれなりに要し、馬琴のような大作家には遠く及びませんが、その苦しさは分かるような気がします。
体操こそはしませんが、少し前までは毎朝ジョギングをしていました。ただ、この年齢になると、この寒い時期に早朝に激しい運動をするのは良くないと思い、今はやめています。が、昼間の暖かいときには走りに出ることもあります。
そしてそうして積み重ねた日々が過ぎていき、気が付いてみると、こうして今年苦労して書いたブログの数もかなりのものになっているようです。手前味噌にはなりますが、規則正しい生活の中で苦労して生み出したものは結果を産みます。
毎日、夜更かしをして、朝が遅い、ウチの嫁。そしてそこのあなた。私とは言いませんが、馬琴を見習ってぜひ来年は規則正しい生活を試みてください。