8まん

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先々週の大雨といい、先週末の戦後最悪の法律の可決といい、どうもこの9月はかなり記憶に残りそうな月になりそうです。

さまざまな凄惨な事件も勃発しており、テレビをみるたびに、あ~またか、と少々暗い気持ちになってきます。

しかし、明るい出来事もあり、先日は、ラクビーで日本代表が優勝候補の南アフリカを破るという快挙もありました。この連休中は、全国的にお天気にも恵まれたようで、一歩外へ出てみれば、開かる日陽射しの中咲き乱れるヒガンバナと、どこからともなく匂うキンモクセイの香りに包まれて、うっとりとしてきそうです。

そんななか……明日はもうお彼岸、ということで、お墓詣りに行かれる方も多いことでしょう。が、連休中ということで、遠方に墓所がある人たちは、さぞかしその移動に苦労をされていることかと拝察いたします。

ここ伊豆も、天気がまずまずということもあり、あちこちで渋滞が起こっています。いつものことではあるのですが、ほかに観光地も多いのだから、もう少し分散してくれんかな、と思ったりもします。

しかし、風光明媚な海に山、数々のレジャースポットがあり、しかも東京、名古屋からもさほど遠くないこの地に観光客が集まるのはあたりまえで、そうしたところを住処に選んでしまった以上は仕方ないかな、とも思います。

その伊豆のジオパークへの登録も昨今話題になっています。残念ながら、今回鳥取市で開かれた国際会議では、議論を重ねたものの、結論が出ず、保留となりました。しかし、世界ジオパークネットワーク(GGN、本部パリ)は、「後日指示を送るので、早急に詳細な資料の追加を」と11月までの書類提出を日本お推進協議会協側に求めたそうです。

つまり、今回の決定は認可の却下ではなく、継続審議ということのようです。送った書類が彼等の期待するような内容ならば、早ければ11月中に認定の可否が再度決定される可能性があるといいます。

世界ジオパークの不認定には、保留のほか、再び現地審査が必要な場合と、地質自体が評価できず認定を却下される場合があるようです。が、今回は追加資料の提出のみが求められており、最も認定に近い評価だったといいます。早期の認定に期待したいと思います。

今回伊豆はジオパークに認定なりませんでしたが、同時に審査を受けたアポイ岳(北海道様似(さまに)町)は認定を受けました。これは、北海道南部、襟裳岬の少し西にある山です。日高山脈の西南端に位置し、一等三角点を持ち、標高は810.5mあります。

ウチのすぐ近くにある、金冠山という山が標高816mですからほぼ同じです。こちらは、昔の達磨山火山が浸食されてできた一峰ですが、アポイ岳も、地名の由来はアイヌ語の「アペ・オ・イ」(火のあるところ)だそうなので、昔は火山だったのかもしれません。

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が、調べてみると違いました。そもそもアポイ岳を含む日高山脈は、約1300万年前に、北海道東側に広がる北米プレートが、その西側のユーラシアプレートに乗り上げてできました。その際、プレートとプレートの激しい衝突は、北米プレートの端っこをめくれ上がらせ、結果としてプレート端部を地表に表出させました。

文字に例えると、三→川、といった感じです。つまり、プレートの端っこが90度近くねじ曲がり、完全に上向きになってその断面が表出しました。これが隆起したまま残り、日高山脈になりました。そしてその一部が、アポイ岳になったというわけです。

アポイ岳を含む日高山脈には、このときのめくれ上がりによって、地質の異なる岩石が東西に順序良く横倒しで並んでいます。このような場所は世界的に見てもほとんどなく、地球内部の様子を知るうえでの貴重な学術標本といえます。しかも、このうちのアポイ岳の部分は、「かんらん岩」という特殊な地層でした。

「幌満橄欖岩(ほろまんかんらんがん)」と呼ばれているかんらん岩でできており、特殊なものです。そもそも、かんらん岩はマントル上部を構成する岩石の一つであり、そのほとんどが地下深くに存在するため、普段あまり我々が目にすることはありません。

地表で見られるものには、マグマ等が急激に上昇する際に引きずり込まれて「捕獲岩」として運ばれてきたものがあります。が、アポイ岳の場合は、プレートとプレートとのぶつかり合いによって地殻がまくれあがってマントル物質が地表に現れたものであり、非常に珍しいものです。

ちなみに、かんらん岩はより高圧な力がかかると、いわゆる「柘榴石」という宝石を含むかんらん岩となります。柘榴石は、いわゆる、「ガーネット」という宝石で、世界的にみても、西アルプス、ボヘミア、ノルウェーなど10ヵ所くらいで見つかっているにすぎません。

残念ながら、アポイ岳の、幌満かんらん岩には、ザクロ石そのものは入っていないようです。が、ザクロ石が周りの条件の変化に合わせて輝石やスピネルといった鉱物に分解してしまったあとが観察されているそうです。また、日高山脈の他の箇所では、実際にザクロ石が見つかっているそうです。

このアポイ岳は、こうした地質的な特徴以外にも、様々な豊かな自然を包括しており、1952年には、その高山植物帯が「アポイ岳高山植物群落」として国の特別天然記念物に指定されています。また、1981年には日高山脈襟裳国定公園の特別保護区となっています。「アポイ岳と高山植物群落」として日本の地質百選にも認定されているそうです。

標高が低いわりに、特殊な岩体のため森林が発達せず、「蛇紋岩植物」が生育する高山植物の宝庫としても有名であり、花の百名山となっているといいます。今回世界ジオパークにも登録されたことで、ハイカーなどの人気が出てきそうです。が、今後は、くれぐれもその豊かな自然が壊されないことを祈りたいところです。

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ところで、このアポイ岳がある、様似町には、私も行ったことがあります。町内を流れる様似川の上流に、様似ダムというダムがあり、ここに魚道が設置されている、というので、このころ魚道の調査設計に関わる技師だった私も見学に行きました。

北海道にありがちなだだっ広いながらも簡素な町で、住んでいる方々には大変失礼かもしれませんが、少々寂しいかんじがします(何もないとは言いませんが)。人口は、5000人を切っており、現在4700人ほどです。

町名のサマニは、アイヌ語起源の地名です。語源については「サマムニ」または「サムンニ」(倒れ木)、エサマンペッ(カワウソの川)など諸説あり、はっきりしたことは分からないようです。

江戸時代(1600年ごろ)に砂金採取のために和人が多数移り住むようになり、その後、1906年(明治39年) 様似郡様似村を含む周辺村落が成立しました。1952年(昭和27年)、これらの周辺の村々を吸収して、町制が施行され、現在に至っています。

寂しい町と書きましたが、基幹産業は漁業で、昆布などが獲れるほか豊かな海の幸に恵まれた町です。また、稲作、酪農がさかんなほか、馬産などもおこなわれています。

その関係から、元JRA騎手で、JRA賞最優秀新人賞、NHK杯、G1タイトルなどを獲得した岡潤一郎(若くしてレースで事故死)、厳しい調教で数多くの名馬を生み出したJRA調教師の松田国英などを輩出しています。

このほか、函館大経(だいけい、またはひろつね)という明治の陸軍軍人を出しており、この人はのちに、北海道開拓使職員、北海道庁職員として馬の生産、馬術の普及に関わるようになりました。私的にも、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代では「伝説の馬術師」ともして言い伝えられるほどの人です。

1847年生まれといいますから、第14代将軍の徳川家茂が生まれた年であり、これより7年ほどのちのペリー来航前の「夜明け前」の時代の人です。武士の子だったようですが、貧しかったからか海産商・小野市右衛門の養子となり上京。昌平坂学問所において漢学を学びました。

明治政府誕生後は陸軍)に属し、1868年よりフランスの軍騎兵士官、ペルセルという人の下で馬術を習得。陸軍省兵学寮に所属していた1870年、東京招魂社例大祭において行われた天覧競馬において優れた乗馬技術を見せ、横浜レース・クラブ所属の外国人騎手とのマッチレースを制しました。

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この活躍が明治天皇の目にとまったことがきっかけで、のちに開拓使、次いで北海道庁に採用され、馬の生産技術の向上に努めるとともに、持ち前の馬術の技を後人に伝えるようになりました。また、この出来事を境に名を「函館大経」と改めました。

「函館」という変わった姓は、明治天皇からの下賜品を辞退した際、代わりに函館姓を与えられた、という説や北海道を視察中の明治天皇の目にとまり、函館姓を与えられたという説など色々な説があるようです。出生時の氏名は斎藤義三郎ですが、このとき名前のほうも大経と改めました。改名後も数回、明治天皇の前で馬術を披露しています。

34歳のとき、函館支庁長だった時任為基(のちの元老院議官、貴族院議員)の提案により現在の函館市海岸町で行われた競馬に協力したのをきっかけに定期的な競馬開催を目指すようになり、2年後に「北海共同競馬会社」を設立。同社は、海岸町に函館海岸町競馬場を開設し、競馬を開催し始めました。

のちに同社は「函館共同競馬会」と名を変え、1896年(明治29年)に現在の「函館競馬場」を建設しました。その後も同競馬会でも役員を務めるなど長年にわたり函館競馬の役員を務めました。

北海道庁を退官後は獣医、蹄鉄業を営み、のちに「湯の川競馬会社」に勤務し、人々に乗馬技術を伝授しました。その卓抜した騎乗技術は現在にも様々な逸話として言い伝えられており、中には「糸乗り伝説」といい、絹糸1本で馬を御したという話もあります。

晩年、馬に蹴られた右足が思うように動かなくなりましたが、その後も技術は健在で、難なく馬を乗りこなしたといいます。1907年に死去。享年61。墓所は函館市内にあります。

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このように、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献したわけですが、こういう、競馬にかかわるすべての事に関わる人のことを、「ホースマン」というそうです。
生産者・調教師・騎手・厩務員・馬主・調教助手・獣医師・装蹄師・騎乗依頼仲介者などさまざまなことに関わるため、いわば競馬界における、キーマン、ドンです。

大経の門下生からは、日本の近代競馬を支えたホースマンが数多く育ちました。現在もその流れを汲むホースマンは中央競馬、地方競馬、生産者などに数多く存在しており、日本国内でも最古かつ最大級のホースマンの系譜のひとつだそうです。

たとえば、現代競馬で最も著名な騎手の一人、武豊は大経の直弟子の「武彦七」の子孫です。この武彦七の兄の園田実徳は、日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、大経が発足させた、上述の「北海道共同競馬会社」の発起人の一人に名を連ねていました。

また、現在の競馬界の調教師の大御所といわれ、元騎手でもあった、大久保正陽とその子の大久保龍志(同じく元騎手で現調教師)はやはり、大経の直弟子の大久保福松の子孫です。また、戦後の地方競馬にも大経由来の系譜は存在し、その多くを辿れば、やがて大経に行き着くといいます。

なお、現在の競馬界においては、社台グループという、競走馬生産牧場集団があり、これは今日世界最大規模の競走馬生産育成グループです。中国系かな?と思ったらそうではなく、こちらは、吉田 善哉(ぜんや)という、札幌市出身の元酪農家が創始者です。

父の吉田善助は、戦前、日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、その後息子の善哉が農場を引き継いで、現在の社台グループを築き上げました。函館大経とは無縁の人のようですが、この人も競馬界では立志伝中の人のようです。

わずか8頭の繁殖牝馬をもって元々勤めていた牧場から独立後、アメリカに渡り、現地の先進的な生産・育成方法を学んで、現在の王国を築き上げました。が、この話は長くなりそうなので、また別の機会に改めましょう。

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様似町は、このように函館大経を初めとして、現在の日本競馬界にとってかけがえのない人達を輩出してきましたが、このほか、出身者ではありませんが、幼少のころ、ここで育った人物として、桑田二郎という漫画家さんがいらっしゃいます。

今では知らない人も多いと思いますが、その代表作である、「まぼろし探偵」、「月光仮面」、「8マン」と聞けば、あ~あのひとか、と誰でもが知っているでしょう。

13歳の中学生だった1948年に「奇怪星團」でデビュー。その後月光仮面ほか、数々の名作を手がけ、少年漫画誌の歴史にその名を残しました。「残しました」と過去形で書きましたが、今もってご健在です。80歳の現在では、少年漫画の世界を脱し、独特な精神世界の漫画化に取り組んでおられます。

若いころから、その描線の美しさは特筆もので、手塚治虫と双璧と言われていました。実際、病床の手塚治虫に代わって「鉄腕アトム」の代筆を務めたこともあるといい、私も子供のころに桑田さんの描いた漫画を少年漫画誌で読むのを楽しみにしていました。

様似にいたのは、小学校までだったようです。生まれたのは大阪府吹田市でしたが、お父さんの仕事の関係でしょうか、北海道でその幼少期を過ごしました。が、その後、家族とともに大阪に戻っています。

大阪では、両親と兄のつましい4人暮らしの新生活が始まりました。が、詳しいことはよくわかりませんが、このころどうやらお父さんが何等かの病気に罹ったようで、これが桑田さんにとっての転機になったようです。

中学に上がった13歳のころであり、元々漫画好きであった彼は、自分の作品を地元の出版社を回り自作を売り込んだところ、ある会社に認められました。そして1948年に単行本化されたのが、デビュー作のSF、「奇怪星團(怪奇星団とも)」です。

以後、継続して作品を発表するようになり、その原稿料は微々たるものではありましたが、これで病気で職を失った父の代わりに家計を支えていくことができるようになりました。
しかし、苦しい生活状況の中、望んでいた高校進学も叶わず、本格的に漫画の仕事で身を立てようと中学3年で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるようになりました。

そんな桑田さんが注目されるようになったのが、22歳の時に描いた「まぼろし探偵」でした。そして1年後の58年、大ヒット作「月光仮面」の仕事が舞い込みます。連載したのは少年マガジンの前身である「少年クラブ」。

当時、この月光仮面の連載だけで発行部数が3倍に伸びたといわれ、桑田さんの睡眠時間はナポレオンをしのぐ1日3時間だったといいます。ファンレターだけでなく、毎年正月の年賀状はミカン箱いっぱい届くようになりました。その人気が買われ、5年後、月光仮面に続くヒーローとして描いたのが「8マン」でした。

この作品は、当時の「週刊少年マガジン」の看板作品で、その後テレビアニメ化もされました。ちなみに、私はこのころまだ小学生の低学年でしたが、毎週親にせがんではこのマガジンを手に入れ、8マンを読むのが楽しみでした。

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この8マンという名前のいわれですが、実は「8人目の刑事で8マン」ということだったようです。当時TBSで放送されて人気だった刑事ドラマ「七人の刑事」を踏まえたもので、8マンも元は東八郎という刑事でした。

ちなみにこの名前は同性同盟の有名コメディアン、東八郎(故人)とは全く関係ありません。コメディアンのほうの東八郎の芸名は、この当時所属していた浅草フランス座を経営する“東”洋興業創業者の松倉宇“七”にちなんだものだそうです。

刑事だった東八郎は、あるとき凶悪犯の「デンデン虫」の奸計に嵌って射殺されてしまいます(アニメ版では車で轢き殺される)。ところが、この刑事・東の死を、ちょうどスーパーロボットの開発をしていた、科学者・谷方位(ほうい)博士がたまたま知ります。

そしてこの谷博士によって、東刑事の人格と記憶はこの開発中のスーパーロボットの電子頭脳に移植され、警視庁捜査一課にある7つの捜査班のいずれにも属しない八番目の男「8マン」として甦りました。

平時は粋なダブルの背広姿の私立探偵・東八郎ですが、ひとたび事件が起き、上司の田中課長から要請を受けると8マンに変身し、数々の難事件・怪事件に立ち向かいます。8マンのボディは、谷博士が国外から持ち込んだ戦闘用ロボット「08号」でした。

ハイマンガンスチール製の身体(???)、超音波も聞き取れる耳、通常の壁なら透視できる「透視装置」の付いた眼、最高3000km/hで走れる能力(加速装置)を持ち、原子力(ウラニウム)をエネルギー源とした活動します。なお、漫画版では眼から紫外線を放つこともできました(……)。

電子頭脳のオーバーヒートを抑えるため、ベルトのバックルに収めてある「タバコ型冷却剤(強化剤)」を定期的に服用しなければならず、時には服用できずに危機に陥ることがありました。

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……とまあ現在みれば結構荒唐無稽な話しではあるのですが、死んだ刑事をロボットとして蘇らせる、という話はなるほど読むものを惹きつけます。そういえばどこかで似たような話があったな、と思ったら、アメリカ映画の「ロボコップ」もまた死んだ刑事をロボットとして復活させる話でした。

もしかして、ロボコップの原題は、8マン?と思って調べてみたのですが、どうやら偶然のようです。ただ、ロボコップの映画製作の際、監督のポール・バーホーベンは、このヒーローの外観モデルを日本の特撮ヒーローに求めたといいます。「宇宙刑事ギャバン」がそれで、これをデザインしたのは、元バンダイ専務で、デザイナーの村上克司という人でした。

バーホーベンから、村上に対してデザイン引用の許諾を求める手紙が送られたそうで、村上はこれを快諾したといいます。

宇宙刑事ギャバンは、かつて宇宙刑事として地球に赴任していた宇宙人と、日本人女性の間にできた子供、という設定のため、8マンやロボコップとは少々ストーリーが異なります。が、バーホーベン監督が、こうした日本の特撮モノなどを含め、日本の映画やアニメを研究していた、ということはあるかもしれません。

アメリカでは、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーの関連会社ABCフィルムズが8マンの放映権を取得し、1964年から「The Eighth Man」の題名で、ネットワークに乗らない番組販売の形で放送されていました。なので、バーホーベン監督もこれを見ていた可能性があります。

ちなみに、8マンの原作者は、「幻魔大戦」などで有名なSF作家、平井和正さんです(故人)。桑田さんは平井さんの原作をもとに8マンの作画を担当しましたが、この二人はその後も数多くの作品を共同で仕上げています。その二人が、ある雑誌で対談したとき、やはりこのロボコップと「設定が酷似しているよね」という話をしていたそうです。

漫画版の8マンは、少年マガジンに連載されて好評でしたが、と同時に1963年11月からは、テレビアニメ化されて、こちらも人気を博しました。主人公の躍動感あふれる構図に加え、タバコ型の強化剤を吸うシーンは当時の子供達に影響を与え、放送時にはタイアップで発売されたシガレット型の固形ココアが人気を得ました。

スポンサーは丸美屋食品工業で、この「ココア型シガレット」を愛用していたオヤジ少年は多いでしょう。私もそのひとりです。また、8マンは、同社のふりかけのキャラクターにもなりました。

アニメ化したのはTBSで、同社にとっては初の自社制作によるアニメ参入作品でした。最高視聴率は1964年9月17日放送の25.3%。漫画版の表記は数字の「8マン」でしたが、テレビアニメ版の表記はカタカナの「エイトマン」に変更されました。これは放送されたTBSが6チャンネルであり、8チャンネルはフジテレビだったからだそうです。

また、漫画版では、8マンのボディを開発したのはアメリカのNASAでしたが、アニメ版では、アマルコ共和国という架空の国家で製作された、というふうに変更されていました。

番組は1964年12月31日まで、およそ1年続きましたが、話その物は前週の同年12月24日で終了しており、この最後の放送は次番組「スーパージェッター」の宣伝を兼ねた最終回特番「さよならエイトマン」でした。

実は私はこのエイトマンを毎週楽しみに見ており、なぜか急にこの番組が打ち切りになったのを不思議でしょうがありませんでした。しかし、次回作のスーパージェッターは、8マンを凌ぐ面白さであり、その後このことを長らく忘れていました。

ところが、この項を書いていてわかったのですが、実は、漫画のほうの8マンの連載中、桑田さんが拳銃不法所持による銃刀法違反で逮捕される、という事件があったのだそうです。このため、連載は急遽打ち切りとなりましたが、おそらくテレビのほうもこれにのっとって、強制的に終了させる、という裁断がなされたのでしょう。

いかにも残念な話しではあるのですが、その後、エイトマンは不朽の名作として語り継がれていくことになります。1975年に広島カープをリーグ優勝に導いた山本浩二選手の背番号は8番であり、ミスター赤ヘルの称号とともに、「エイトマン」と呼ばれて人々に親しまれました(そういえば、今年のカープはもうだめでしょうか……)。

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桑田さんはその後、ウルトラセブン(朝日ソノラマ、1978)、怪奇大作戦(朝日ソノラマ、1978)ゴッド・アーム(原作:梶原一騎、双葉社、1979)などの名作を残しましたが、「42歳の厄年」を境に少年漫画界から身を引きました。

その後は、精神世界の漫画化を始め、「マンガで読む般若心経」「マンガ チベット死者の書」「マンガエッセイでつづる魂の目」といった著作(漫画だけでなく文筆も)が多数あります。

若いころ、売れる一方で2度の結婚離婚を経験したそうです。こうした出来事は、デビュー当初から胸に巣食っていた「生きることのむなしさ」を、やがて「死」を現実に近づけたといいます。そして、漫画を描いても一生懸命になれない自分を見つめ直すために、42歳で少年漫画界から身を引いたのだといいます。

収入は無くなり、蓄えも底をつく苦しい暮らしの中で、精神的な放浪を繰り返し、やがてたどり着いたのが瞑想だったといいます。それを機に仏教教典や聖書、論語、古事記などあらゆる教えを読みふけるようになり、その内容を咀嚼することで自分の役目も見えてきました。

やがて「難解な内容も漫画であれば表現できるかも」とも思いはじめ、50歳のころ「般若心経」の漫画を描き始めると、タイミングよく出版社から出版依頼がきました。シリーズ全3巻のこの「マンガで読む般若心経」は大ヒットを飛ばし、再版を重ねました。

テレビや各マスコミでも取り上げられ、続編の「マンガで読む論語」「宮本武蔵―五輪の書」などを次々に発刊できるようになり、経済的な危機を脱しました。

その後、縁あって茨城県の鉾田市に東京から移り住んだのは1986年ころだといいます。鹿島灘に面する、農業が基幹産業ののんびりとした町です。一帯は別荘地として開発されたこともありましたが、バブルがはじけてからは、元の閑散とした寒村に戻りました。

鉾田市へ合併する前、大洋村、といわれていた当時の村の村長の勧めで仕事場兼住居の家を建てることになり、以来、1人で暮らしておられるようです。後半人生で新たな花を咲かせる「花咲か爺さん」と呼ばれているそうです。

「私のヒーロー漫画で育った人も今は実年世代。いろいろあるでしょうけど夢を忘れず明るく生きてほしいですね」とは、ウェブ記事でみつけた、近年の桑田さんの言葉です。私自身、励みにしたいと思います 。

最近では、ニンテンドーDSゲーム用の「It’s tehodoki! 般若心経入門」といった作品もあるそうです。秋の夜長にふけってみてはいかがでしょうか。

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松前とアイヌ

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5月も下旬に入ってきました。

そろそろ梅雨入りの発表があるのではないか、とひやひやしているのですが、東海地方の平年の梅雨入りは、6月8日だそうです。ところが昨年は、5月28日だったということで、今年も同じころだとすると、もうあとわずかです。

ただし、昨年は入梅も早かったけれども、梅雨明けも早く、平年値は7月21日ごろですが、7月7日ごろにはもうすでに太陽ギラギラでした。

とはいえ、その前に否が応でも雨の季節はやってきます。今年もまた梅雨の間の天気に一喜一憂するのか、と思うと、いっそのこと雨季のない国へ行きたいなと思ってしまいますが、そんな場所は日本では北海道ぐらいしかありません。

梅雨の間だけ北海道で暮らすために、彼の地の別荘でも買いたいな、とも思うのですが、そんな金があるわけはなく、仮に新しい家を買ったら買ったで、家具の搬入やら生活環境を整えるために莫大な手間暇がかかります。

私はこれまでに、両手の指では足りないほどたくさんの引越しを経験していて、これに慣れてはいるものの、この齢になるともうさすがにご勘弁を、というかんじです。

ここへ引っ越してくる際にも、タエさんの広島の実家と東京の自分の家の処分のために奮闘し、手やら腰やらをずいぶん痛めて、針治療に何ヵ月も通いましたが、もうあんな目には遭いたくはありません。

もっとも、北海道では最近、過疎による空家も多いと聞き、本当にその気になればこうした家を家具付きで格安に貸してくれるところもあるようなので、こうした貸し物件を探す、という手もなくはありません。

問題はどこにするか、ですが、私は北海道の中でもとりえわけ道東が気に入っていて、摩周湖などにもほど近い弟子屈町やカキのおいしい厚岸などは、行くたびにいいところだな~と思っていました。

このふたつの町は道東最大の都市、釧路にも近く、現在帯広東部の浦幌まで開通している道東自動車道も、2015年度中には釧路まで延伸される予定なので、これが実現すると、札幌と釧路間は4時間30分で結ばれることになります。

それまでは、クルマを使ったならまる一日がかりだったこの工程が、半分以下になるわけで、観光面でのメリットもさることながら、物流の活発化など、この道路の開通による道東区域への経済の波及効果は高いはずです。

加えて2015年末までに函館までの完成が予定されている北海道新幹線ができあがれば、本州から北海道、引いては道東への道程はかなり短くなります。

札幌までの延伸はまだまだ先で2035年ごろが予定されているといいますが、函館まで新幹線で行くことができるようになるだけでも、ずいぶんと道東を身近に感じることができるようになるでしょう。

ちなみに、札幌と函館を結ぶ道央自動車道は、函館にもほど近い大沼公園ICまで既に開通していて、今年度中には更に南の森ICまで開通予定で、函館までの開通も視野に入ってきました。完成すると、道東自動車道との接続ICである千歳ICから函館までは約250キロ超ですから、千歳までは3時間足らずで行けるようになるはずです。

従って、新幹線で函館まで行って、そのあとレンタカーでも借りて、一気通貫で道東まで行くとすると、千歳経由7時間30分で行けることになります。7時間超のドライブというとかなりの重労働かもしれませんが、それでも信号もなく、クルマの少ない北海道ですからストレスのないドライブになるに違いありません。

私は郷里の山口まで東京から何度もクルマを運転して帰省した経験がありますが、これは13時間ぐらいかかります。これに比べれば7時間はずいぶんと楽です。

もっとも、函館から道東までを必ずしも一気通貫で運転する必要もなく、せっかく北海道に行くのですから、途中途中で眺めの良いところに立ち寄りながら、場合によっては室蘭や苫小牧、帯広あたりで宿泊してこれらの地を観光しながら行く、という手もあります。

こうした話は、何やら遠い先に実現する話を書いているようにも感じますが、それも来年開通が予定されている北海道新幹線と道東自動車道が完成すれば現実のことになるわけで、旅好きの私としては実にワクワクする話です。

しかし、夏の道東は梅雨こそありませんが、濃霧に覆われる事が多く、夏の間は常に快適、というわけではありません。気温が上がらないことも多く、肌寒い場所です。逆に 冬季の積雪は少なく、太平洋側であるため好天に恵まれることも多くなりますが、平均気温は厚岸などではマイナス5度とかかなり低くなります。

なので、ここに実際に住むということになると、本州との気候の違いを知り、その格差をかなり覚悟していかなければならないでしょう。

ところで、道東はかつては、アイヌばかりが住んでいた土地であり、この地に和人が入りこむようになったのは17世紀の後半ころになってからです。厚岸では1624~1643年の寛永年間に松前藩がアッケシ場所を開設したのが、和人による初めての入植です。

「場所」というのは、この当時蝦夷地と呼ばれていた北海道・樺太・千島列島で松前氏が敷いた藩制において、松前氏家臣に知行を与える代わりに、アイヌと交易を行う権利を与えた土地のことを指します。

このころの北海道では現在のように米はとれず、また松前藩はほとんど無高の大名で、その知行もかなり少ない弱体藩でした。このため、家臣に対する知行も、厚岸のような商場(あきないば)を割り当てて、そこでアイヌと交易した物資を松前まで船で持ち帰る権利を認めるという形でなされました。

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一方、弟子屈に至ってはこの時代にはまだアイヌすら住んでおらず、原生林が広がるだけの土地でした。この地に人が入りこむようになったのは、明治になってからで、この土地で硫黄が産出されることが分かったため、1876年(明治9年)から佐野孫右衛門なる人物が政府の許可を受け、翌年に採掘を開始しました。

この最初の硫黄発掘事業はあまりうまくいかなかったようで、その後この所有権を安田財閥の安田善次郎が取得し、1887年(明治20年)から硫黄の採掘を開始、1888年(明治21年)には輸送のために北海道で二番目となる釧路鉄道が硫黄山~標茶間に敷設されました。

しかし、乱掘により資源が枯渇し、9年後の1896年(明治29年)に操業を停止したのちは、弟子屈は一次火の消えたように静かな町となりました。ところがこの地は摩周湖や屈斜路湖、摩周温泉、川湯温泉といった観光地を有することから、全国から多くの観光客が訪れるようになり、やがて観光を主要産業として潤うようになっていきました。

その後酪農を営む農家なども増え、その風光明媚な土地柄に惹かれて本州からの移住者も多くなったことから、別荘地帯が形成され、最近はリゾート地としての風格も持つようになっています。

一方の厚岸のほうは、明治に入り、1890年(明治23)に屯田兵村が創設されて本格的に和人の入植がはじまりました。そして、1900年(明治33年)にこの近辺の4町7村が合併し、厚岸町となって現在に至っています。

松前藩時代の江戸時代からも行われていた漁業を中心とし、水産都市として発展してきた町で、漁業産品としては、名産品のカキのほか、アサリや昆布、海苔等が主要産品で、また酪農、林業も盛んです。

山間部に少し入ったところの上尾幌地区にはかつていくつかの炭鉱があり、現在は閉山していますが、ここを通る根室本線の上尾幌駅周辺は、かつて大いに栄えた集落があったようです。

ところが、江戸時代を通してここを統治し、切り開いてきた松前藩は、ここでの入植にあたって、何度も現地住民のアイヌと争いを起こしています。

松前藩というのは、函館などを東部に置く、渡島(おしま)半島の一番南西部に居どころを置いた藩で、現在では北海道松前郡松前町になっているものがかつてのその中心地に相当します。

居城の名から福山藩とも呼ばれ、慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称しました。家格は当初、外様大名の1万石格でしたが、その後蝦夷地の開拓などで収益を上げ、幕末には3万石格となりました。

その始祖は、室町時代の武田信広という武将だとされており、「武田」の名前からもわかるとおり、これは甲斐の国の甲斐源氏の流れを汲む一族です。ご存知の武田信玄もまたその子孫であり、このほか甲斐源氏の一派は若狭国(現福井県)にも移り住んでおり、こちらは若狭武田氏と称しましたが、武田信広はこちらの武田家の出身です。

戦国時代のころ、この若狭国の守護は、武田信賢という若狭武田家の二代目当主であり、その近親に蠣崎季繁(かきざきすえしげ)という武将がいました。

このころ、ここより遠く離れた陸奥(現在の青森県から福島県に至る区域)、出羽国(秋田・山形県)には安東政季(まさすえ)という豪族がいましたが、安東政季は、その地の利を生かして、蝦夷南部の渡島(おしま)半島にも進出している一種の海賊でした。

この安東政季の娘婿となったのがこの若狭の蠣崎季繁であり、政季に気に入られて頻繁に出羽の国まで来るようになり、そのうち政季に勧められるまま蝦夷地にも渡るようになり、ここで安東家の土地まで貰い受けました。

一方、この蠣崎季繁の親戚筋にある若狭武田家の当主、武田信賢は男子に恵まれ、これが、武田信広であり、若狭小浜の青井山城に生まれました。父信賢は、この息子を世継ぎにするつもりでしたが、まだ幼かったため、弟の国信に家督を譲ることになりました。

しかし、弟の国信に家督を継がせる際、この弟の次には自身の子に家督を継がせることを確約させるつもりで信広を国信の養子にさせました。

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ところが、間もなく国信にも実子が誕生したことから、国広は叔父に疎遠されるようになります。これを苦にした信広は、宝徳3年(1452年)21歳の時に若狭国から出ていくことを決意し、郎党ら侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔しました。

その後、しばらくは鎌倉公方足利成氏のところに身を寄せていましたが、やがて陸奥国に移住し、ここで成氏の口添えもあって現在の岩手県にあった南部家の領分の一部を貰い、このときから若狭で縁戚関係にあった蠣崎武田氏の名を名乗るようになりました。

南部家の隣国の出羽国には、安東政季がおり、その娘婿は若狭出身の蠣崎季繁であることは上述したとおりですが、同じ東北にあり、やがて信広はこの安東政季と知り合うようになります。

そして享徳3年(1454年)には、安東政季の紹介で、その部下の蠣崎季繁を頼って蝦夷地に渡り、蠣崎季繁の居城であり、現上ノ国町(旧上ノ国・松前町のすぐ北の町)にあった花沢館という館に身を寄せるようになりました。

蝦夷に渡った信弘は、その後すっかり季繁に気に入られ、名前も既に蠣崎氏を名乗っていたことから、そのまま婿養子として蠣崎家に入りました。そして康正2年(1456年)には嫡男光広にも恵まれました。

蠣崎季繁の孫にあたるこの実子の誕生によって、季繁と信広の関係はさらに深まり、渡島半島南部一帯を統治する蠣崎一族の結束が固まった結果、彼等はより北部・東部蝦夷地へも進出していくようになっていきました。が、と同時に彼等のこれらの地への入植は、かつてよりこの地の先住民であったアイヌ部族との戦いの始まりでもありました。

1457年にはアイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間で
「コシャマインの戦い」と呼ばれる争乱が始まりました。

奇襲攻撃を受けた蠣崎一族は、開戦当初こそ当時蝦夷地にあった道南十二館のうち10館が陥落するなど追い詰められていましたが、その後信広が中心となって武士達がまとめあげられ、大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとうアイヌ軍総大将のコシャマインが射殺され、その首が討たれました。

この功績により、蠣崎季繁はさらに信広に信頼を置くようになり、蝦夷地における彼の地位は決定的となっていきました。信広はこの戦いのち、着実に蝦夷地の平定を進めていきましたが、1494年に64歳で死去。

しかし、その子孫もまた残る蝦夷地の平定を進め、二代目の光広の孫で4代当主にあたる蠣崎季広の代には、長年蝦夷地に関わってきた経験のある主家の出羽の国の安東家の仲裁もあって、アイヌたちとの争いを控え、交易などによる交流をも深めるようになりました。

ちなみに、この出羽国の安東家は、政李を初代として、以後、忠季、尋季、舜季、愛季、実季、と六代に渡って出羽国に君臨しましたが、この当時の安東家の当主は、四代目の舜季(きよすえ)になります。

この安東舜季の働きかけもあり、蠣崎季広は、東地の「チコモタイン」というアイヌの一族、及び西地のハシタインと和睦し、蝦夷地支配の基礎を固め、「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」といった講和条約も結びました。

「夷狄の商舶往還の法度」というのは、渡島半島の東部シリウチ(現上磯郡知内町)一帯に居住するアイヌの首長チコモタインと、「唐子蝦夷」と呼ばれた半島西部セタナイ(現久遠郡せたな町)一帯に居住するアイヌの首長ハシタイン、そして蠣崎家の三者の間に結ばれた講和条約です。

安東舜季立ち会いの下で、大館(松前)の城主蠣崎季広が結んだこの講和で、当時の季広は、アイヌの首長らに対して財宝を分け与えたことからカムイトクイと称されたといい、これはアイヌ語で「神のように素晴らしい友」の意味です。

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この講和では、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタイン首長とハシタイン首長に支払うこと、シリウチから上ノ国(天河)までの地域より北東を蝦夷地とし、これらの地では和人の出入りを制限することなどが決められました。

また、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することも定められました。さらに、このときセタナイの首長ハシタインは蠣崎氏の拠点の一つである上ノ国(天河)へ移住しており、このことにより両者はより交流を深めるようになりました。

ところがその後、蠣崎家では季広の後継を巡って家督争いが起こりました。季広の家臣に南条広継という武将がいましたが、蠣崎家の重臣として重用されており、季広にもかわいがられていたため、その長女を正室としました。ところが、この長女には野心があり、しかし女では家督をつげないのを無念に思っていました。

このため、娘婿の基広(季広の従兄弟)に家を継がせようとし、基広をそそのかして季広を殺害しようとしましたが、これを季広に気付かれ、基広は季広の命を受けた配下の者に討たれてしまいました。

このため、長女は、今度は自分の夫の南条広継に家督を継がせたいと考え、実弟の舜広(季広の長男)と明石元広(季広の次男)を毒殺してしまいました。しかし、やはりこのことも季広の知るところとなり、長女と広継は自害させられることになりました。

ところが、この暗殺のことを夫の広継は全く知らされておらず、広継は身の潔白を申したてましたが、季広はこれを受け入れません。

哀れな広継は見せしめのために、生きたまま棺に入れられることになりましたが、この時、礼服に身を固めた広継は、一本の水松(イチイの木のこと)を棺の上に逆さにいけさせ、「水松が根付いたら身に悪心ない証であり、三年たっても遺骸が腐っていなかったら、それこそ潔白のあかしである」と遺言し、経文を読誦しながら棺桶に入ったといいます。

棺桶には節を抜いた青竹が刺しこんであり、広継はこれで呼吸しながら鉦を鳴らし続け、その鉦の音と読経の声は三週間も続いたといいます。そして、三年が経ったのち、この水松は見事に成長し、さかさオンコ(逆水松)になったといいます。

ちなみに、オンコとは、常緑樹のイチイのアイヌ語で、この水松は実在するもののようです。「逆さ」の意味は、おそらく広継の死後に根付いたこの水松が、厚岸湖の湖面に逆さに映って見えることに由来しているのでしょう。

この広継の妻が暗殺した季広の二人の息子の下には実はもう一人、慶広(よしひろ)という弟がいました。そして天正10年(1582年)、季広は隠居を宣言し、その家督を継いで当主となる人物としてこの三男を指名し、松前大館の館山城で生まれたこの慶広が蠣崎家を引き継ぎことになりました。

慶広は実父から受け継いだ蝦夷の地の開拓にも励む一方で、宗家である安東家五代目の愛季の出羽の国での勢力拡大に協力し、これによって安東家中での発言力も確保していきました。ところが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置をはじめたことで、その運命は変わっていきます。

主家安東家の六代目、実季はこの秀吉の隷下に入ることを決め、上洛することになったため、このとき慶広もまた蝦夷地代官としてこれに帯同しました。しかし、慶広はかねてより、いつまでも安東家についていては蠣崎家の安泰はない、と考えていたようで、京に入るや否や前田利家らに取り入るようになりました。

やがて、利家らの口添えもあって主君の安東実季よりも先に豊臣秀吉に謁見を果たすと、秀吉からは松前や天河などの所領を安堵されました。

このとき、慶広は同時に朝廷から従五位下・民部大輔に任官されており、格の上では事実上安東家よりも上になりました。これにより蠣崎家は名実共に蝦夷管領の流れを汲む安東氏からの独立を果たしました。

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その後、慶広は、東北で乱が起きるたびに、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加するようになり、文禄2年1月(1593年)の秀吉の朝鮮出兵の際にも、肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見しました。

秀吉は「狄(てき)の千島の屋形(北の野蛮人の国の王)」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、さらに従四位下・右近衛権少将の地位を彼に与えようとしますが、慶広はこれを辞退します。慶広はその代わりにと、蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に彼を志摩守に任じました。

朱印状とは、花押の代わりに朱印が押された公的文書(印判状)のことであり、公家・武家・寺社などの所領を確定させる際に発給されるものです。

こうして、慶広はこの朱印状を蝦夷地に持ち帰り、和人の領民に示すとともに、アイヌを集めてこれをアイヌ語に翻訳させ、彼等にもこれを示しました。そして、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来るとアイヌたち伝え、これにより、樺太を含む全蝦夷地の支配をほぼ確立しました。

この秀吉からの朱印状の発行による蝦夷地の平定を「蝦夷地安堵」といい、これは慶長3年(1598年)に成立したとする説が有力のようです。

ところが、この蝦夷地安堵が成立した慶長3年には、朱印状を発行した当の秀吉が死去してしまいます。すると慶広は今度は徳川家康と誼を通じるようになり、翌慶長4年(1599年)には、家康の臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上するとともに、姓を家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって「松前」に改めました。

慶長5年(1600年)には家督を長男の盛広に譲り、盛広も従五位下、若狭守を賜りますが、その後も慶広が引き続き政務を司っていました。

慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得、翌9年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下、伊豆守に叙位・任官されました。これらをもって、松前氏は大名格とみなされるようになり、ここに松前藩が誕生するとともに、慶広は名実ともに初代藩主となりました。

こうして、松前藩は、徳川家の一大名としてその地位を固めることとなったわけですが、徳川家から与えられた知行はわずか1万石にすぎず、このことから、今後は蝦夷地の開拓によってその知行を増やそうとし始めます。

その手始めとして渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地とし、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりましたが、その交流によって儲けていることを徳川家に知られないよう、こっそりとその交易を行おうとしました。

江戸時代のはじめまでは、アイヌ自らが、和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、徳川の治世になってからは、その取り締まりは次第に厳しくなっており、その発覚は藩のお取り潰しにもつながりかねない危険なものでした。

しかし、松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であり、限られた漁場で上げられる収入は少なく、しかも鰊が次第に獲れなくなっていったため、徳川の目を盗んででも収入を得ようと、こっそりと蝦夷地へ出稼ぎをする行為が広まっていきました。

このため、この当時の城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、かなりの繁栄を誇るまでに至りますが、一方では藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、たびたびアイヌによる反乱が起きました。

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寛文9年(1669年)には、「シャクシャインの戦い」という大きなアイヌによる反乱がおこり、この鎮圧も行われました。

その発端は、アイヌ民族集団間の対立で、これは、現北海道日高町の静内地区にあたる「シブチャリ」とよばれていた土地以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団(メナシクル)と、これより更に道東にかけてのシラオイ(現在の白老町)にかけて住んでいたアイヌ民族集団(シュムクル)の争いでした。

両者は、この地方の漁猟権をめぐって長年争いを続けており、抗争によりお互いの首長や副首長が殺害されるといった事件が相次いでいました。

両者の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し、1655年に両集団は一旦講和しますが、1665年頃から対立が再燃し、1668年(寛文9年)にはメナシクルによってシュムクルの総大将が殺害されるという事件がおこりました。

このため、シュムクルたちは松前藩庁に報復のための武器の提供を希望しましたが、藩側に拒否されたうえ、その首長が帰路に疱瘡(天然痘)にかかり死亡してしまいました。この首長の死亡の知らせは、「松前藩による毒殺」と流布されてしまい、メナシクルやシュムクルなどすべてのアイヌの間に広まっていきました。

皮肉なことに、この流布をもってアイヌ民族たちは、協力して松前藩に敵対するようになり、メナシクルの副首長であったシャクシャインは、蝦夷地各地のアイヌへ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌがそれに呼応しました。

この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられます。

対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となっていました。

1669年6月、シャクシャインらの呼びかけにより、アイヌたちは東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において鷹待や砂金掘りを襲撃し、交易商船を襲撃するなどの攻撃を始め、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺害されました。

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いて、彼等への反撃を始め、幕府にも蜂起を急報し、援軍や武器・兵糧の支援を求めました。幕府は松前藩の求めに応じ弘前・盛岡・久保田の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、このときの松前藩主、松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣しました。

シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、一時は松前軍と互角に戦闘を行いましたが、軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことなどから次第に形勢不利となりました。また、松前藩と幕府軍は親松前的なアイヌの集落に対して恭順を勧めてアイヌ民族間の分断を進めたため、シャクシャイン軍は次第に孤立化しました。

しかし、シャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は、和睦を申し出ます。シャクシャインは結局この和睦に応じ1669年11月、和睦が成立しました。

ところが、松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴に招かれたシャクシャインは、この席で謀殺されてしまい、シャクシャインに協調していた他の部族の首長も同様に謀殺あるいは捕縛されました。

指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かい、翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品を受け取りました。

戦後処理のための出兵は1672年まで続きましたが、やがてアイヌたちの松前藩への恭順化は進み、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至りました。

その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)によって服従を誓わせ、これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は更に強化されました。

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18世紀前半からは、冒頭でも述べた「場所制」が広まりましたが、松前藩の家臣は自分で交易する能力に乏しかったことから、その権利を商人に与え、運上金を得るようになりました。

請け負った商人は、出稼ぎの和人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させ、これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られていきました。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹などの希少特産物を圧するようになっていきました。

以後、漁場の拡大も行われ、これに伴い多くの和人が東蝦夷地にも入り込むようになりましたが、彼等によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていったため、請負商人によるアイヌ首長毒殺をきっかけとして、東蝦夷では寛政元年(1789年)に「クナシリ・メナシの戦い」という争乱が起きました。

この騒動で和人71人が犠牲となりましたが、松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たったため、蜂起した者たちは投降し、蜂起の中心となったアイヌは処刑されました。

この松前藩内の蝦夷地における争乱は、徳川家も知るところとなり、このためこの事件から10年を経た1799年(寛政11年)には、東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)がお取り上げになり、公議御料(直轄地)となりました。

しかし、この直接統治により、幕府はアイヌの蜂起の原因は、彼らが経済的な苦境に立たされているものであると理解し、松前藩の場所請負制を廃することを決めました。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善されましたが、しかしこれはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していました。

一説によると、こうした和人の道東への進出によりアイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったこともあったといい、また、人妻は会所で番人達の妾にされたともいわれています。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうです。

こうして、アイヌ人は次第に減っていきましたが、本格的にアイヌ人に人口減少をもたらしたのは、実は和人がもたらした天然痘などの感染症であったといわれています。

その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握されていた人口が、明治6年(1873年)には1万8630人に減り、アイヌの人口減少はそれ以降も進みました。一例では、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口が、明治24年(1891年)には381人にまで減っていました。

しかし、明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少していますが、「混血」としてのアイヌ人は逆に増えていきました。

和人との通婚が増えた理由としては、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多かったことが指摘されています。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人となっており、支庁別にみた場合、胆振・日高支庁に多いようです。

ただし、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義しており、純粋なアイヌ人がどのくらいいるかは、統計的にははっきりわかっていないようです。

松前藩が統治していた蝦夷地は、上述のとおりいったん幕府に取り上げられましたが、文政4年(1821年)には幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配が戻され、松前に復帰しました。

しかし、日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)にはふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになりました。明治2年(1869年)、14代藩主松前修広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事に任じられましたが、すぐにこの館藩も廃止され、同年、北海道11国86郡が置かれました。

このように、当初は蝦夷地全域が松前藩の所領でしたが、幕末以降は天領となったり松前藩に戻されたりの混乱を繰り返したあげく、結果として現在のような「道」としての北海道が成立したわけです。

厚岸などの道東の土地もまたこのとき北海道の一部となり、和人の国として確立したわけですが、かつては、道東におけるアイヌ民族の中心的都市でした。

和人との混交が進んだ現在ではここに住んでいる人達もその先祖がアイヌなのかどうかもわからなくなっており、史跡などもほとんどないようで、かつてのアイヌ民族の土地という面影は全くありません。

こうしたアイヌ民族の起源や歴史、北海道各地のアイヌの生活ぶり、といったことについても、詳しく書いてみたいと思ったのですが、今日のところは枚数がかなり行ってしまったのでもうやめにしておきます。

さて、お天気は下り坂のようで、明後日くらいにはまた雨のようです。本格的な雨季になる前に、浜松で行われている「浜松花博2014」にも出かけたいと考えているのですが、それはどうもそれ以降になりそうです。

皆さんはいかがでしょう。梅雨に入る前のひとときの行楽の場所、もうお決めになりましたか?

そして、今年の梅雨の過ごし方ももうお決まりになりましたでしょうか。梅雨のお嫌いなあなたは、北海道への移住も考えてみてはいかがでしょう。

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