松前とアイヌ

2014-1150692
5月も下旬に入ってきました。

そろそろ梅雨入りの発表があるのではないか、とひやひやしているのですが、東海地方の平年の梅雨入りは、6月8日だそうです。ところが昨年は、5月28日だったということで、今年も同じころだとすると、もうあとわずかです。

ただし、昨年は入梅も早かったけれども、梅雨明けも早く、平年値は7月21日ごろですが、7月7日ごろにはもうすでに太陽ギラギラでした。

とはいえ、その前に否が応でも雨の季節はやってきます。今年もまた梅雨の間の天気に一喜一憂するのか、と思うと、いっそのこと雨季のない国へ行きたいなと思ってしまいますが、そんな場所は日本では北海道ぐらいしかありません。

梅雨の間だけ北海道で暮らすために、彼の地の別荘でも買いたいな、とも思うのですが、そんな金があるわけはなく、仮に新しい家を買ったら買ったで、家具の搬入やら生活環境を整えるために莫大な手間暇がかかります。

私はこれまでに、両手の指では足りないほどたくさんの引越しを経験していて、これに慣れてはいるものの、この齢になるともうさすがにご勘弁を、というかんじです。

ここへ引っ越してくる際にも、タエさんの広島の実家と東京の自分の家の処分のために奮闘し、手やら腰やらをずいぶん痛めて、針治療に何ヵ月も通いましたが、もうあんな目には遭いたくはありません。

もっとも、北海道では最近、過疎による空家も多いと聞き、本当にその気になればこうした家を家具付きで格安に貸してくれるところもあるようなので、こうした貸し物件を探す、という手もなくはありません。

問題はどこにするか、ですが、私は北海道の中でもとりえわけ道東が気に入っていて、摩周湖などにもほど近い弟子屈町やカキのおいしい厚岸などは、行くたびにいいところだな~と思っていました。

このふたつの町は道東最大の都市、釧路にも近く、現在帯広東部の浦幌まで開通している道東自動車道も、2015年度中には釧路まで延伸される予定なので、これが実現すると、札幌と釧路間は4時間30分で結ばれることになります。

それまでは、クルマを使ったならまる一日がかりだったこの工程が、半分以下になるわけで、観光面でのメリットもさることながら、物流の活発化など、この道路の開通による道東区域への経済の波及効果は高いはずです。

加えて2015年末までに函館までの完成が予定されている北海道新幹線ができあがれば、本州から北海道、引いては道東への道程はかなり短くなります。

札幌までの延伸はまだまだ先で2035年ごろが予定されているといいますが、函館まで新幹線で行くことができるようになるだけでも、ずいぶんと道東を身近に感じることができるようになるでしょう。

ちなみに、札幌と函館を結ぶ道央自動車道は、函館にもほど近い大沼公園ICまで既に開通していて、今年度中には更に南の森ICまで開通予定で、函館までの開通も視野に入ってきました。完成すると、道東自動車道との接続ICである千歳ICから函館までは約250キロ超ですから、千歳までは3時間足らずで行けるようになるはずです。

従って、新幹線で函館まで行って、そのあとレンタカーでも借りて、一気通貫で道東まで行くとすると、千歳経由7時間30分で行けることになります。7時間超のドライブというとかなりの重労働かもしれませんが、それでも信号もなく、クルマの少ない北海道ですからストレスのないドライブになるに違いありません。

私は郷里の山口まで東京から何度もクルマを運転して帰省した経験がありますが、これは13時間ぐらいかかります。これに比べれば7時間はずいぶんと楽です。

もっとも、函館から道東までを必ずしも一気通貫で運転する必要もなく、せっかく北海道に行くのですから、途中途中で眺めの良いところに立ち寄りながら、場合によっては室蘭や苫小牧、帯広あたりで宿泊してこれらの地を観光しながら行く、という手もあります。

こうした話は、何やら遠い先に実現する話を書いているようにも感じますが、それも来年開通が予定されている北海道新幹線と道東自動車道が完成すれば現実のことになるわけで、旅好きの私としては実にワクワクする話です。

しかし、夏の道東は梅雨こそありませんが、濃霧に覆われる事が多く、夏の間は常に快適、というわけではありません。気温が上がらないことも多く、肌寒い場所です。逆に 冬季の積雪は少なく、太平洋側であるため好天に恵まれることも多くなりますが、平均気温は厚岸などではマイナス5度とかかなり低くなります。

なので、ここに実際に住むということになると、本州との気候の違いを知り、その格差をかなり覚悟していかなければならないでしょう。

ところで、道東はかつては、アイヌばかりが住んでいた土地であり、この地に和人が入りこむようになったのは17世紀の後半ころになってからです。厚岸では1624~1643年の寛永年間に松前藩がアッケシ場所を開設したのが、和人による初めての入植です。

「場所」というのは、この当時蝦夷地と呼ばれていた北海道・樺太・千島列島で松前氏が敷いた藩制において、松前氏家臣に知行を与える代わりに、アイヌと交易を行う権利を与えた土地のことを指します。

このころの北海道では現在のように米はとれず、また松前藩はほとんど無高の大名で、その知行もかなり少ない弱体藩でした。このため、家臣に対する知行も、厚岸のような商場(あきないば)を割り当てて、そこでアイヌと交易した物資を松前まで船で持ち帰る権利を認めるという形でなされました。

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一方、弟子屈に至ってはこの時代にはまだアイヌすら住んでおらず、原生林が広がるだけの土地でした。この地に人が入りこむようになったのは、明治になってからで、この土地で硫黄が産出されることが分かったため、1876年(明治9年)から佐野孫右衛門なる人物が政府の許可を受け、翌年に採掘を開始しました。

この最初の硫黄発掘事業はあまりうまくいかなかったようで、その後この所有権を安田財閥の安田善次郎が取得し、1887年(明治20年)から硫黄の採掘を開始、1888年(明治21年)には輸送のために北海道で二番目となる釧路鉄道が硫黄山~標茶間に敷設されました。

しかし、乱掘により資源が枯渇し、9年後の1896年(明治29年)に操業を停止したのちは、弟子屈は一次火の消えたように静かな町となりました。ところがこの地は摩周湖や屈斜路湖、摩周温泉、川湯温泉といった観光地を有することから、全国から多くの観光客が訪れるようになり、やがて観光を主要産業として潤うようになっていきました。

その後酪農を営む農家なども増え、その風光明媚な土地柄に惹かれて本州からの移住者も多くなったことから、別荘地帯が形成され、最近はリゾート地としての風格も持つようになっています。

一方の厚岸のほうは、明治に入り、1890年(明治23)に屯田兵村が創設されて本格的に和人の入植がはじまりました。そして、1900年(明治33年)にこの近辺の4町7村が合併し、厚岸町となって現在に至っています。

松前藩時代の江戸時代からも行われていた漁業を中心とし、水産都市として発展してきた町で、漁業産品としては、名産品のカキのほか、アサリや昆布、海苔等が主要産品で、また酪農、林業も盛んです。

山間部に少し入ったところの上尾幌地区にはかつていくつかの炭鉱があり、現在は閉山していますが、ここを通る根室本線の上尾幌駅周辺は、かつて大いに栄えた集落があったようです。

ところが、江戸時代を通してここを統治し、切り開いてきた松前藩は、ここでの入植にあたって、何度も現地住民のアイヌと争いを起こしています。

松前藩というのは、函館などを東部に置く、渡島(おしま)半島の一番南西部に居どころを置いた藩で、現在では北海道松前郡松前町になっているものがかつてのその中心地に相当します。

居城の名から福山藩とも呼ばれ、慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称しました。家格は当初、外様大名の1万石格でしたが、その後蝦夷地の開拓などで収益を上げ、幕末には3万石格となりました。

その始祖は、室町時代の武田信広という武将だとされており、「武田」の名前からもわかるとおり、これは甲斐の国の甲斐源氏の流れを汲む一族です。ご存知の武田信玄もまたその子孫であり、このほか甲斐源氏の一派は若狭国(現福井県)にも移り住んでおり、こちらは若狭武田氏と称しましたが、武田信広はこちらの武田家の出身です。

戦国時代のころ、この若狭国の守護は、武田信賢という若狭武田家の二代目当主であり、その近親に蠣崎季繁(かきざきすえしげ)という武将がいました。

このころ、ここより遠く離れた陸奥(現在の青森県から福島県に至る区域)、出羽国(秋田・山形県)には安東政季(まさすえ)という豪族がいましたが、安東政季は、その地の利を生かして、蝦夷南部の渡島(おしま)半島にも進出している一種の海賊でした。

この安東政季の娘婿となったのがこの若狭の蠣崎季繁であり、政季に気に入られて頻繁に出羽の国まで来るようになり、そのうち政季に勧められるまま蝦夷地にも渡るようになり、ここで安東家の土地まで貰い受けました。

一方、この蠣崎季繁の親戚筋にある若狭武田家の当主、武田信賢は男子に恵まれ、これが、武田信広であり、若狭小浜の青井山城に生まれました。父信賢は、この息子を世継ぎにするつもりでしたが、まだ幼かったため、弟の国信に家督を譲ることになりました。

しかし、弟の国信に家督を継がせる際、この弟の次には自身の子に家督を継がせることを確約させるつもりで信広を国信の養子にさせました。

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ところが、間もなく国信にも実子が誕生したことから、国広は叔父に疎遠されるようになります。これを苦にした信広は、宝徳3年(1452年)21歳の時に若狭国から出ていくことを決意し、郎党ら侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔しました。

その後、しばらくは鎌倉公方足利成氏のところに身を寄せていましたが、やがて陸奥国に移住し、ここで成氏の口添えもあって現在の岩手県にあった南部家の領分の一部を貰い、このときから若狭で縁戚関係にあった蠣崎武田氏の名を名乗るようになりました。

南部家の隣国の出羽国には、安東政季がおり、その娘婿は若狭出身の蠣崎季繁であることは上述したとおりですが、同じ東北にあり、やがて信広はこの安東政季と知り合うようになります。

そして享徳3年(1454年)には、安東政季の紹介で、その部下の蠣崎季繁を頼って蝦夷地に渡り、蠣崎季繁の居城であり、現上ノ国町(旧上ノ国・松前町のすぐ北の町)にあった花沢館という館に身を寄せるようになりました。

蝦夷に渡った信弘は、その後すっかり季繁に気に入られ、名前も既に蠣崎氏を名乗っていたことから、そのまま婿養子として蠣崎家に入りました。そして康正2年(1456年)には嫡男光広にも恵まれました。

蠣崎季繁の孫にあたるこの実子の誕生によって、季繁と信広の関係はさらに深まり、渡島半島南部一帯を統治する蠣崎一族の結束が固まった結果、彼等はより北部・東部蝦夷地へも進出していくようになっていきました。が、と同時に彼等のこれらの地への入植は、かつてよりこの地の先住民であったアイヌ部族との戦いの始まりでもありました。

1457年にはアイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間で
「コシャマインの戦い」と呼ばれる争乱が始まりました。

奇襲攻撃を受けた蠣崎一族は、開戦当初こそ当時蝦夷地にあった道南十二館のうち10館が陥落するなど追い詰められていましたが、その後信広が中心となって武士達がまとめあげられ、大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとうアイヌ軍総大将のコシャマインが射殺され、その首が討たれました。

この功績により、蠣崎季繁はさらに信広に信頼を置くようになり、蝦夷地における彼の地位は決定的となっていきました。信広はこの戦いのち、着実に蝦夷地の平定を進めていきましたが、1494年に64歳で死去。

しかし、その子孫もまた残る蝦夷地の平定を進め、二代目の光広の孫で4代当主にあたる蠣崎季広の代には、長年蝦夷地に関わってきた経験のある主家の出羽の国の安東家の仲裁もあって、アイヌたちとの争いを控え、交易などによる交流をも深めるようになりました。

ちなみに、この出羽国の安東家は、政李を初代として、以後、忠季、尋季、舜季、愛季、実季、と六代に渡って出羽国に君臨しましたが、この当時の安東家の当主は、四代目の舜季(きよすえ)になります。

この安東舜季の働きかけもあり、蠣崎季広は、東地の「チコモタイン」というアイヌの一族、及び西地のハシタインと和睦し、蝦夷地支配の基礎を固め、「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」といった講和条約も結びました。

「夷狄の商舶往還の法度」というのは、渡島半島の東部シリウチ(現上磯郡知内町)一帯に居住するアイヌの首長チコモタインと、「唐子蝦夷」と呼ばれた半島西部セタナイ(現久遠郡せたな町)一帯に居住するアイヌの首長ハシタイン、そして蠣崎家の三者の間に結ばれた講和条約です。

安東舜季立ち会いの下で、大館(松前)の城主蠣崎季広が結んだこの講和で、当時の季広は、アイヌの首長らに対して財宝を分け与えたことからカムイトクイと称されたといい、これはアイヌ語で「神のように素晴らしい友」の意味です。

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この講和では、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタイン首長とハシタイン首長に支払うこと、シリウチから上ノ国(天河)までの地域より北東を蝦夷地とし、これらの地では和人の出入りを制限することなどが決められました。

また、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することも定められました。さらに、このときセタナイの首長ハシタインは蠣崎氏の拠点の一つである上ノ国(天河)へ移住しており、このことにより両者はより交流を深めるようになりました。

ところがその後、蠣崎家では季広の後継を巡って家督争いが起こりました。季広の家臣に南条広継という武将がいましたが、蠣崎家の重臣として重用されており、季広にもかわいがられていたため、その長女を正室としました。ところが、この長女には野心があり、しかし女では家督をつげないのを無念に思っていました。

このため、娘婿の基広(季広の従兄弟)に家を継がせようとし、基広をそそのかして季広を殺害しようとしましたが、これを季広に気付かれ、基広は季広の命を受けた配下の者に討たれてしまいました。

このため、長女は、今度は自分の夫の南条広継に家督を継がせたいと考え、実弟の舜広(季広の長男)と明石元広(季広の次男)を毒殺してしまいました。しかし、やはりこのことも季広の知るところとなり、長女と広継は自害させられることになりました。

ところが、この暗殺のことを夫の広継は全く知らされておらず、広継は身の潔白を申したてましたが、季広はこれを受け入れません。

哀れな広継は見せしめのために、生きたまま棺に入れられることになりましたが、この時、礼服に身を固めた広継は、一本の水松(イチイの木のこと)を棺の上に逆さにいけさせ、「水松が根付いたら身に悪心ない証であり、三年たっても遺骸が腐っていなかったら、それこそ潔白のあかしである」と遺言し、経文を読誦しながら棺桶に入ったといいます。

棺桶には節を抜いた青竹が刺しこんであり、広継はこれで呼吸しながら鉦を鳴らし続け、その鉦の音と読経の声は三週間も続いたといいます。そして、三年が経ったのち、この水松は見事に成長し、さかさオンコ(逆水松)になったといいます。

ちなみに、オンコとは、常緑樹のイチイのアイヌ語で、この水松は実在するもののようです。「逆さ」の意味は、おそらく広継の死後に根付いたこの水松が、厚岸湖の湖面に逆さに映って見えることに由来しているのでしょう。

この広継の妻が暗殺した季広の二人の息子の下には実はもう一人、慶広(よしひろ)という弟がいました。そして天正10年(1582年)、季広は隠居を宣言し、その家督を継いで当主となる人物としてこの三男を指名し、松前大館の館山城で生まれたこの慶広が蠣崎家を引き継ぎことになりました。

慶広は実父から受け継いだ蝦夷の地の開拓にも励む一方で、宗家である安東家五代目の愛季の出羽の国での勢力拡大に協力し、これによって安東家中での発言力も確保していきました。ところが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置をはじめたことで、その運命は変わっていきます。

主家安東家の六代目、実季はこの秀吉の隷下に入ることを決め、上洛することになったため、このとき慶広もまた蝦夷地代官としてこれに帯同しました。しかし、慶広はかねてより、いつまでも安東家についていては蠣崎家の安泰はない、と考えていたようで、京に入るや否や前田利家らに取り入るようになりました。

やがて、利家らの口添えもあって主君の安東実季よりも先に豊臣秀吉に謁見を果たすと、秀吉からは松前や天河などの所領を安堵されました。

このとき、慶広は同時に朝廷から従五位下・民部大輔に任官されており、格の上では事実上安東家よりも上になりました。これにより蠣崎家は名実共に蝦夷管領の流れを汲む安東氏からの独立を果たしました。

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その後、慶広は、東北で乱が起きるたびに、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加するようになり、文禄2年1月(1593年)の秀吉の朝鮮出兵の際にも、肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見しました。

秀吉は「狄(てき)の千島の屋形(北の野蛮人の国の王)」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、さらに従四位下・右近衛権少将の地位を彼に与えようとしますが、慶広はこれを辞退します。慶広はその代わりにと、蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に彼を志摩守に任じました。

朱印状とは、花押の代わりに朱印が押された公的文書(印判状)のことであり、公家・武家・寺社などの所領を確定させる際に発給されるものです。

こうして、慶広はこの朱印状を蝦夷地に持ち帰り、和人の領民に示すとともに、アイヌを集めてこれをアイヌ語に翻訳させ、彼等にもこれを示しました。そして、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来るとアイヌたち伝え、これにより、樺太を含む全蝦夷地の支配をほぼ確立しました。

この秀吉からの朱印状の発行による蝦夷地の平定を「蝦夷地安堵」といい、これは慶長3年(1598年)に成立したとする説が有力のようです。

ところが、この蝦夷地安堵が成立した慶長3年には、朱印状を発行した当の秀吉が死去してしまいます。すると慶広は今度は徳川家康と誼を通じるようになり、翌慶長4年(1599年)には、家康の臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上するとともに、姓を家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって「松前」に改めました。

慶長5年(1600年)には家督を長男の盛広に譲り、盛広も従五位下、若狭守を賜りますが、その後も慶広が引き続き政務を司っていました。

慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得、翌9年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下、伊豆守に叙位・任官されました。これらをもって、松前氏は大名格とみなされるようになり、ここに松前藩が誕生するとともに、慶広は名実ともに初代藩主となりました。

こうして、松前藩は、徳川家の一大名としてその地位を固めることとなったわけですが、徳川家から与えられた知行はわずか1万石にすぎず、このことから、今後は蝦夷地の開拓によってその知行を増やそうとし始めます。

その手始めとして渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地とし、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとりましたが、その交流によって儲けていることを徳川家に知られないよう、こっそりとその交易を行おうとしました。

江戸時代のはじめまでは、アイヌ自らが、和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、徳川の治世になってからは、その取り締まりは次第に厳しくなっており、その発覚は藩のお取り潰しにもつながりかねない危険なものでした。

しかし、松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であり、限られた漁場で上げられる収入は少なく、しかも鰊が次第に獲れなくなっていったため、徳川の目を盗んででも収入を得ようと、こっそりと蝦夷地へ出稼ぎをする行為が広まっていきました。

このため、この当時の城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、かなりの繁栄を誇るまでに至りますが、一方では藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、たびたびアイヌによる反乱が起きました。

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寛文9年(1669年)には、「シャクシャインの戦い」という大きなアイヌによる反乱がおこり、この鎮圧も行われました。

その発端は、アイヌ民族集団間の対立で、これは、現北海道日高町の静内地区にあたる「シブチャリ」とよばれていた土地以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団(メナシクル)と、これより更に道東にかけてのシラオイ(現在の白老町)にかけて住んでいたアイヌ民族集団(シュムクル)の争いでした。

両者は、この地方の漁猟権をめぐって長年争いを続けており、抗争によりお互いの首長や副首長が殺害されるといった事件が相次いでいました。

両者の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し、1655年に両集団は一旦講和しますが、1665年頃から対立が再燃し、1668年(寛文9年)にはメナシクルによってシュムクルの総大将が殺害されるという事件がおこりました。

このため、シュムクルたちは松前藩庁に報復のための武器の提供を希望しましたが、藩側に拒否されたうえ、その首長が帰路に疱瘡(天然痘)にかかり死亡してしまいました。この首長の死亡の知らせは、「松前藩による毒殺」と流布されてしまい、メナシクルやシュムクルなどすべてのアイヌの間に広まっていきました。

皮肉なことに、この流布をもってアイヌ民族たちは、協力して松前藩に敵対するようになり、メナシクルの副首長であったシャクシャインは、蝦夷地各地のアイヌへ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌがそれに呼応しました。

この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられます。

対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となっていました。

1669年6月、シャクシャインらの呼びかけにより、アイヌたちは東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において鷹待や砂金掘りを襲撃し、交易商船を襲撃するなどの攻撃を始め、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺害されました。

一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いて、彼等への反撃を始め、幕府にも蜂起を急報し、援軍や武器・兵糧の支援を求めました。幕府は松前藩の求めに応じ弘前・盛岡・久保田の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、このときの松前藩主、松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣しました。

シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、一時は松前軍と互角に戦闘を行いましたが、軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことなどから次第に形勢不利となりました。また、松前藩と幕府軍は親松前的なアイヌの集落に対して恭順を勧めてアイヌ民族間の分断を進めたため、シャクシャイン軍は次第に孤立化しました。

しかし、シャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は、和睦を申し出ます。シャクシャインは結局この和睦に応じ1669年11月、和睦が成立しました。

ところが、松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴に招かれたシャクシャインは、この席で謀殺されてしまい、シャクシャインに協調していた他の部族の首長も同様に謀殺あるいは捕縛されました。

指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かい、翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品を受け取りました。

戦後処理のための出兵は1672年まで続きましたが、やがてアイヌたちの松前藩への恭順化は進み、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至りました。

その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)によって服従を誓わせ、これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は更に強化されました。

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18世紀前半からは、冒頭でも述べた「場所制」が広まりましたが、松前藩の家臣は自分で交易する能力に乏しかったことから、その権利を商人に与え、運上金を得るようになりました。

請け負った商人は、出稼ぎの和人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させ、これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られていきました。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹などの希少特産物を圧するようになっていきました。

以後、漁場の拡大も行われ、これに伴い多くの和人が東蝦夷地にも入り込むようになりましたが、彼等によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていったため、請負商人によるアイヌ首長毒殺をきっかけとして、東蝦夷では寛政元年(1789年)に「クナシリ・メナシの戦い」という争乱が起きました。

この騒動で和人71人が犠牲となりましたが、松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たったため、蜂起した者たちは投降し、蜂起の中心となったアイヌは処刑されました。

この松前藩内の蝦夷地における争乱は、徳川家も知るところとなり、このためこの事件から10年を経た1799年(寛政11年)には、東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)がお取り上げになり、公議御料(直轄地)となりました。

しかし、この直接統治により、幕府はアイヌの蜂起の原因は、彼らが経済的な苦境に立たされているものであると理解し、松前藩の場所請負制を廃することを決めました。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善されましたが、しかしこれはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していました。

一説によると、こうした和人の道東への進出によりアイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったこともあったといい、また、人妻は会所で番人達の妾にされたともいわれています。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうです。

こうして、アイヌ人は次第に減っていきましたが、本格的にアイヌ人に人口減少をもたらしたのは、実は和人がもたらした天然痘などの感染症であったといわれています。

その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握されていた人口が、明治6年(1873年)には1万8630人に減り、アイヌの人口減少はそれ以降も進みました。一例では、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口が、明治24年(1891年)には381人にまで減っていました。

しかし、明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少していますが、「混血」としてのアイヌ人は逆に増えていきました。

和人との通婚が増えた理由としては、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多かったことが指摘されています。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人となっており、支庁別にみた場合、胆振・日高支庁に多いようです。

ただし、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義しており、純粋なアイヌ人がどのくらいいるかは、統計的にははっきりわかっていないようです。

松前藩が統治していた蝦夷地は、上述のとおりいったん幕府に取り上げられましたが、文政4年(1821年)には幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配が戻され、松前に復帰しました。

しかし、日米和親条約によって箱館が開港されると、安政2年(1855年)にはふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになりました。明治2年(1869年)、14代藩主松前修広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事に任じられましたが、すぐにこの館藩も廃止され、同年、北海道11国86郡が置かれました。

このように、当初は蝦夷地全域が松前藩の所領でしたが、幕末以降は天領となったり松前藩に戻されたりの混乱を繰り返したあげく、結果として現在のような「道」としての北海道が成立したわけです。

厚岸などの道東の土地もまたこのとき北海道の一部となり、和人の国として確立したわけですが、かつては、道東におけるアイヌ民族の中心的都市でした。

和人との混交が進んだ現在ではここに住んでいる人達もその先祖がアイヌなのかどうかもわからなくなっており、史跡などもほとんどないようで、かつてのアイヌ民族の土地という面影は全くありません。

こうしたアイヌ民族の起源や歴史、北海道各地のアイヌの生活ぶり、といったことについても、詳しく書いてみたいと思ったのですが、今日のところは枚数がかなり行ってしまったのでもうやめにしておきます。

さて、お天気は下り坂のようで、明後日くらいにはまた雨のようです。本格的な雨季になる前に、浜松で行われている「浜松花博2014」にも出かけたいと考えているのですが、それはどうもそれ以降になりそうです。

皆さんはいかがでしょう。梅雨に入る前のひとときの行楽の場所、もうお決めになりましたか?

そして、今年の梅雨の過ごし方ももうお決まりになりましたでしょうか。梅雨のお嫌いなあなたは、北海道への移住も考えてみてはいかがでしょう。

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