リンドバーグよ永遠に

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今日は、アメリカの飛行家、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグが、「スピリット・オブ・セントルイス」という単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に世界で初めて成功した日です。

1927年(昭和2年)5月20日5時52分、セントルイス号は、ニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場を飛び立ち、翌日の5月21日22時21分に、パリのル・ブルジェ空港に着陸しました。

飛行距離は5810kmで飛行時間は33時間29分30秒であり、それまでも途中給油をしながらこれよりも遠距離を飛んだ飛行機はありましたが、約6000キロを無着陸で飛ぶというこの記録はこの当時としては画期的なものでした。

飛行機は、1918年に終わった第一次世界大戦において飛躍的に発展し、信頼性も向上ましたが、このころはまだ飛行機による輸送が開始されたばかりであり、しかも太平洋を飛び越してアメリカからヨーロッパまで行けるとは誰一人考えていないような時代でした。

これによりリンドバーグは、ニューヨーク-パリ間を無着陸で飛んだ者に与えられるオルティーグ賞を受賞しました。オルティーグ賞というのは、ニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコースを無着陸で飛んだ最初の連合国側の飛行士に対して与えられる賞で、ニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグによって提供されたものです。

しかし実は、同じ大西洋でも、もっと距離が短い横断コースもあり、しかも単独でない大西洋無着陸飛行については、これよりも前の1919年にジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが既に達成しています。

これは、ニューファンドランド島からアイルランドへ6月14日から6月15日にかけての16時間で1,890kmを飛行したものであり、しかもオルティーグが指定した区間は、ニューヨーク~パリ間であったため、受賞の対処にはなりませんでした。

オルティーグ賞の賞金は25,000ドルで、1919年の5月19日から提供されたこの賞にはそれまでも多くの飛行士が挑戦していましたが、死者を出したチームもあり、なかなか成功者は出ませんでした。

リンドバーグは、この大西洋横断飛行の前の5月10~12日にもスピリット・オブ・」セントルイス」号でサンディエゴのライアン工場からニューヨークのカーチス飛行場まで移動しており、この飛行では北アメリカ大陸横断の速度記録を樹立していました。

この大西洋横断の成功はこれに続く快挙であり、オルディーグ賞を獲得するとともに、リンドバーグの名は一躍世界中に広まりました。無着陸飛行を達成した際には、フランスのル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれています。

無論アメリカでも彼は国民的英雄となり、この飛行は「リンドバーグブーム」を呼び起こすとともに、その後世界中で飛行機旅行への関心が花開かせるきっかけとなりました。また、アメリカでは航空機産業への投資が殺到し、航空関連株の急騰まで招きました。

スピリット・オブ・セントルイス号は、リンドバーグの指示の下に特別にカスタマイズされた機体でした。リンドバーグは、競争者の多くが3発機を選択したのに対し、単発機を用いるというリスクの高い戦略を取りました。これは単発機のほうが機体の重量が軽くなるとともに、ガソリンの積載量を減らせるからです。

この成功ではまた、世界で初めて「単独で」大西洋横断をやってのけたというところがポイントであり、それまでは長距離飛行への挑戦はチームで行うというのが恒例でした。

こうした長時間を飛ぶために操縦士の疲労が大きくなり、交替は必然となるためであり、記録への挑戦者たちの多くは複数名でタッグを組み、チームでチャレンジをするのがあたりまえでしたが、彼は一人で飛ぶことを決めました。

それは、単独飛行のほうが人員増による重量過多を防げるためでもありましたが、チームで行動すれば何かと意見の不一致が起こりやすく、実際にそれまでのオルティーグ賞チャレンジャーの中には、仲たがいによって遅延を生じた例があっためでもありました。

またリンドバーグは、さらに飛行機の重量を軽くするため、無線機、六分儀、パラシュート等の必須とはいえない器材は積まず、さらに多量の燃料(ガソリン)を搭載できるタンクを操縦席の前方に設置しました。

このため、この飛行機は、座席からは直接前方が見えなかったそうで、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要がありました。

単発の小さな飛行機を選んだのは、彼がチームでの活動を嫌い、また機体を軽くするためでもありましたが、これは当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったためで、他のオルティーグ賞挑戦者のように大型の機材を用意できなかったという理由もありました。

また苦労して手に入れた機材そのものもリンドバーグが当初望んだような燃費の良いメーカーのものではなく、前方視界を犠牲にしてまで燃料の搭載量を増やさなければならなかったのはこのためでした。

しかし、この飛行を最も困難にしたのは、やはりバックアップの操縦士がおらず、パリまでの全行程を一人で操縦し続けるという過酷な飛行であったことでした。実際、過積載の燃料により、非常に困難な離陸を強いられ、さらに飛行中は睡魔に襲われたり、飛行中に操縦席に入り込んだ蠅や機体の着氷にも悩まされ、推測航法で苦闘します。

そしてついにアイルランドのディングル湾で陸地にたどりつき、プリマス上空を飛んでイギリス海峡を横断、英雄の歓迎に沸くパリのル・ブルジェ空港に到着しました。

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このとき、パリ上空で「翼よ、あれがパリの灯だ!」と叫んだという話を信じている人も多いと思いますが、これは実は後年の脚色です。

しかも、日本人だけがそう思っているだけで、英語圏ではこれに対応するセリフは存在しません。リンドバーグはル・ブルジェ空港に着陸したとき、自分がパリに着いたことも分らなかったといい、このとき実際に発した最初の言葉は、「誰か英語を話せる人はいませんか?」だったという説があります。

あるいは、「ここはパリですか?」という説と、「トイレはどこですか?」であるという説もあるようで、いずれにせよ、「翼よ、あれがパリの灯だ!」などとは言っていないようです。

じゃあいったいどこから出てきたのよ、ということなのですが、これは彼の自伝 “The Spirit of St. Louis”を日本で出版するとき、そのままだと何の本だかわからないため、その意訳として考え出されたのが、「翼よ、あれがパリの灯だ!」だったというのが事実です。

実際の原本の中にもそんなセリフは出てこないそうで、私は実際にこの和訳本を読んでいませんが、もしそう書いてあったとしたら、これを翻訳した人の脚色でしょう。

後年、オルディーグ賞を受賞したとき、リンドバーグは次のように語ったとも伝えられています。

「全く危険が無いところで生きてゆくことを望む男がいるだろうか? 私は馬鹿げた偶然に賭けるつもりは無いが、何かに挑戦することなく成し遂げられることがあるとも思わない。」

こちらのほうが、より危険な賭けに挑戦する冒険家が吐いた言葉として、もっと実際的な感じがします。

現在、このリンドバーグが操縦したスピリット・オブ・セントルイス号はワシントンD.C.にあるスミソニアン航空宇宙博物館に展示されていますが、かつて私もアメリカ旅行をした際に、この機体を見たことがあります。

全長8.4m、全幅14mの本当に小さな飛行機であり、セスナ機よりもやっと一回り大きい程度の機体で、小さい割にはやたらに翼が大きい飛行機だな、と思ったのを覚えています。

不格好で視界を妨げる燃料タンクのために実用性はまったくないといっていい飛行機で、その後も使われなかったためか、割と綺麗な機体だな、と天井から吊り下げられていたその飛行機を見たときに思ったことも今思い出しました。

リンドバーグは、この機体の設計に自ら参加しました。実際の設計を請け負ったのはアメリカのライアン社という、航空郵便の飛行機を設計・製造する小さな会社でした。社員わずか40名の零細企業でありこの時代、飛行機はまだ産業とよべるものではなく、家内制手工業による手造りが主流であり、ライアン社も町工場のような存在でした。

飛行は大気が安定する5月と決められていましが、残された時間は2ヶ月しかなく、一から設計している時間はないため、このころライアン社が生産していた「ライアンM2型」という機体を改良することになりました。

機体の設計そのものはライアン社の技術スタッフが行いましたが、もともと機械技師であったリンドバーグは口うるさく注文をつけたといいます。

リンドバーグは、スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれ、ミネソタ州リトルフォールズで成長しました。父は弁護士、母は化学教師というインテリ家庭に生まれ、裕福な家庭だったようです。父のオーガストはその後共和党の国会議員となり第一次世界大戦へのアメリカの参戦などに反対するなど政治家としても活躍しました。

リンドバーグは幼少時から機械への関心を示し、卒業校であるウィスコンシン大学マディソン校でも機械工学を学んでいたようですが、20歳のときに機械工学から離れ、ネブラスカ航空機という航空輸送会社でパイロットと整備士の訓練に参加しました。

その後、自前でカーティスJN-4「ジェニー」という飛行機を買い、曲芸飛行士などもやっていたようですが、1924年にはアメリカ陸軍航空隊に入隊し、職業軍人としての飛行訓練の経験も積みました。

ここでの訓練においては、成績は一番だったといいますが、軍隊というところの空気に馴染めなかったのか、その後ライン・セントルイスという民間航空便パイロットとして働くようになりました。

このように根っからの飛行機好きだったようで、しかしもともとは機械工学の専門家でしたから、自分が乗る飛行機にも彼の理想を実現すべく徹底した注文をライアン社の技術スタッフに行いました。

先述したとおり、視界が悪くなるにも関わらずガソリンタンクを飛行機の前面に置くよう要求したのは、離着陸の衝撃で、引火・爆発することを怖れたためでしたが、その結果、前方はガソリンタンクで占められ、前方視界はゼロとなりました。

このため、離陸や着陸のときには左右の窓から顔を突き出して前方確認するしかありませんでしたが、飛行中は支障はありませんでした

飛行距離は6000km近くもあるため、このガソリンタンクの容量は1700リットルという巨大なものになりましたが、一方ではこうした思い切った決断によって燃料切れで不時着といった心配はなくなりました。

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しかし、これだけ大きな燃料タンクを積載するためには、他の部分を軽量化するか、揚力を得るために翼を大きくするしかありませんでした。

このため、リンドバーグは、ライアン社の技術者に両翼を4m伸ばすように命じ、この結果全長が8mにすぎないのに、翼だけは14mもあるというアンバランスな飛行機になりました。しかし、揚力が増えれば、エンジンの負担も減るので、航続距離がのびることにもつながります。

軽量化については、「飛行する」という目的以外に不必要と思われたものは極力廃され、この結果、上でも書いたように安全装備としてのパラシュートや、無線機さえも機体の外に放り出されました。この結果、わずか2.5トンという超軽量飛行機が完成したのです。

このように、リンドバーグは大西洋単独飛行の成功という輝かしい栄誉により、後年「飛行家」としての面ばかりがクローズアップされていますが、無論優秀なパイロットではあったでしょうが、技術者としての側面はあまり知られていません。

スピリット・オブ・セントルイス号の改良においても、自分が満足のいく性能を導き出すために徹底した要求をライアン社に突き付けることができたのも、確たる機械工学の知識があったためでもありました。

そのことを裏付けるように、実はリンドバーグの大きな業績の一つとしてはもうひとつ、人工心臓の開発があります。

リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がおり、この大西洋横断飛行以後、心臓病の治療法を開発したいという思いからアレクシス・カレルという生理学者の研究室を訪れました。

このアレクシス・カレルという人は、フランス人で、生理学者である以外にも外科医、解剖学者としても知られており、1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞した人でもあります。

リヨン生まれのフランス育ちですが、アメリカへ渡り、シカゴ大学及びロックフェラー研究所で学んだのち、血管縫合の新しい技術を開発し、移植及び胸部外科のパイオニアとなりました。

アメリカやフランスを含む11ヵ国の医学学会の会員であり、また、ベルファスト大学、プリンストン大学、カリフォルニア大学、ニューヨーク大学、ブラウン大学、コロンビア大学から名誉博士号を受け取るほどの実力者でしたが、そんな超有名な学者とともにリンドバーグは、「The Culture of Organs」という本を共同執筆しています。

アレクシス・カレルは、1912年に既に人工心臓に関する研究を始めており、このとき彼はニワトリの胚(孵化する前の状態)の心臓の一部組織を培養し、これを成長させる実験に成功しています

のちに訪れたリンドバーグとはウマがあったようで、2人は意気投合して人工心臓の共同研究をおこなうようになり、その結果1935年に世界初の人工心臓である「カレル・リンドバーグポンプ」を開発しました。

これは今日の人工心臓の原型となっているそうで、これが体外で動き続けるための生理学的条件については、ニワトリの胚の実験において蓄積されたカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされたといいます。

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リンドバーグはまた、ロバート・ゴダードという、アメリカの発明家でロケット研究者に対してもその研究に興味を示し、援助を行っています。

ゴダードはのちに、アメリカでは「ロケットの父」とまで呼ばれるようになる人で、日本でいえば、同じくロケット工学のパイオニアの糸川英夫のような存在です。

アメリカのロケット工学草創期における重要な開拓者の一人ですが、彼自身の非社交的な性格もあって、生前に業績が評価されることはありませんでした。

ゴダードはマサチューセッツ州の生まれで、16歳でH・G・ウェルズのSF古典「宇宙戦争』を読むことで宇宙に対する興味を持ち始めたといい、プリンストン大学を卒業後、スミソニアン協会からの財政援助を受けてロケット・モーターの設計に取り組み始めました。

その結果などから、1919年には月飛行の可能性について執筆しており、1926年にはマサチューセッツ州オーバーンで世界で初めて液体燃料ロケットを打ち上げました。

この歴史的な出来事のため、後年彼は「近代ロケットの父」と呼ばれるまでになりましたが、その日のことを書いた彼の日記には「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた」としか書いてなかったそうです。

“ネル”と名付けられたこのロケットは人間の腕くらいのサイズで、2.5秒間に41フィート上昇しただけだったそうですが、これは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験であったことを多くの人が後年知るところとなります。

その三年後の1929年には二度目の実験が行われ、このときには多くの野次馬が集まり、消防署に通報される騒ぎとなりました。

この打ちあげの様子を見学した新聞記者は、翌日の新聞で「月を目指したロケットが失敗して空中で爆発した」という内容の記事を掲載しましたが、実際にはこの記者が見たロケットの残骸は、打ち上げののちに落下して地面に激突したものであり、ロケットは予定の高度に達して実験は成功していました。

しかし、この記事が原因となって、以後ゴドーダはマサチューセッツ州内でのロケット発射実験を禁止されてしまいます。

このとき、この新聞を読んだリンドバーグは、逆にこのゴドーダの研究に興味を持ち、彼と接触を図ったのち、その研究内容にも大いに賛同し、資金援助を申し出ます。

実際には、彼が推薦したことで動かされた大企業から受けた資金のほうが大きかったようですが、こうしたリンドバーグの支援を受けることができ、ダゴーダはニューメキシコ州ロズウェルに、本格的な実験ができる試験場を持つことができることになりました。

その後、第二次世界大戦が始ると、ゴダードはアメリカ海軍のためにと、自前でロケット工学の研究を続けていましたが、その成果を持っていっても海軍はその研究の価値をまったく理解できなかったといいます。

しかし、海軍は彼が開発した艦載機を短距離の滑走で発艦させるための補助ロケットには興味を示したといいますが、その研究が採用される前にゴダードは喉頭癌を発病し、1945年8月に62歳で死去しました。

ゴダードがそれまでに考案・発明した特許は214にのぼったそうですが、そのほとんどは彼の死後に彼の仕事が評価されるようになってから与えられたもので、1960年になってようやく合衆国国政府はその重要性に気付き、未亡人からこれを100万ドルで買い取りました。

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彼の研究は時代を先取りしすぎていたため、同時代人からは変人扱いされ、しばしば嘲笑の対象になりました。

その一例として、1920年の彼の論文「高々度に達する方法」では、ロケットは真空の宇宙空間でも推進できると主張されていたのに対し、ニューヨーク・タイムズ紙は、物質が存在しない真空中ではロケットが飛行できないことを「誰でも知っている」と揶揄しましたが、ゴダードはこの記事を読み、「高校で習う知識を持っていないようだ」と酷評しました。

しかし、こうしたメディアだけでなく、ゴダードは他の科学者からも不当な評価を受け続けたため、やがて他人を信用しないようになり、死去するまで研究は単独で行ったといいます。

ところが、彼の死後、ロケットの重要性が認識されるにつれゴダードの業績は脚光を浴びるようになりました。そして1959年には、この年に設立された宇宙飛行センターは彼にちなんでゴダード宇宙飛行センター(GSFC)と命名されました。

このゴダード宇宙飛行センターは、NASAで最初の宇宙飛行センターであり、その後は、ハッブル宇宙望遠鏡や、エクスプローラー計画、ディスカバリー計画、地球観測システムといった、地球、太陽系、銀河に関する数々のNASAの重要ミッションを遂行している機関として有名です。

ちなみに、現在では無人の地球観測ミッションと地球軌道上の観測衛星はGSFCが管理し、無人の惑星探査ミッションはジェット推進研究所(JPL)が管理しています。

ゴダードの死後25年が経った1969年には、アポロ11号の月着陸の前日、ニューヨーク・タイムズ紙は49年前に発表したゴダードについての社説を撤回しました。

同紙はゴダードの実験を「より進んだ実験と調査」と呼び、「17世紀のアイザック・ニュートンの実験結果を確認し、大気中と同様に真空中でもロケットが飛行できることは明確にいま実証された。過ちを後悔する」との社説を発表しました。

またアポロ11号が月に到達した時、SF作家のアイザック・アシモフはすでに世を去ったゴダードに向かって、「ゴダードよ、我々は月にいる」という言葉を送ったといいます。

少々脇道にそれましたが、このようにリンドバーグは、前半生において飛行家して活躍しただけでなく、後半生では宇宙開発などのその後アメリカを牽引していくことになる新しい科学技術に対しても興味を示し、これを援助するといった、別の功績を残しました。

典型的なアメリカン・ヒーローであり、このため、駐メキシコ大使ドワイト・モローの次女アンとの結婚もセンセーショナルなものとして、大大的に報道されました。この妻のアンは夫の勧めでパイロットや無線通信士の技術を身につけ、乗務員として調査飛行に同行したこともある活発な人でした。

後年、作家としても活躍し、6人の子供をもうけましたが、その長男のジュニアが1932年3月1日に自宅から誘拐され、10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、ニュージャージー州ホープウェルで5月12日に死んでいるのが発見される、という痛ましい事件もありました。

ジュニアは、1歳8ヶ月で、事件から2年後、身代金として犯人に手渡された金券をガソリンスタンドで使用したとして、ドイツ系ユダヤ人のブルーノ・リチャード・ハウプトマンが逮捕されました。

彼の家には1万2千ドル以上の金券と拳銃が隠されており、リンドバーグが身代金を支払った後に、ハウプトマンは大工の仕事を辞めていたことや、ハウプトマンは詐欺を働いていた過去があったことなどから、真犯人さとされ、裁判にかけられました。

ハウプトマンは裁判の終了まで無罪を主張し、弁護のために大金を支払いましたが、死刑判決が出され、1936年4月3日に死刑執行されました。

しかし、彼は事件当日に仕事をしていたというアリバイがあったほか、単独犯行では行えないような物証もあったことから、冤罪ではなかったか、という声が死後あがりました。

また、ハウプトマンが処刑された後、真犯人と称する人物から手紙が届き、その中には犯人しか知りえないことも書かれていたといい、ジュニアの死後、彼に分配される予定だった親戚の遺産の一部をリンドバーグが受け取ることになったことから、リンドバーグ本人にも疑惑の目が向けられました。

結局、真相は不明のままとなり、現在に至っていますが、この事件は複数州にまたがる事件であり、このためそれぞれの州の自治体警察がいたずらに別々に動いて混乱を招いたことから、以後はこうした複数州が関係する誘拐事件は「連邦犯罪」として、自治体警察ではなく連邦捜査局管轄と定める「リンドバーグ法」が成立しました。

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この事件は、リンドバーグがあまりにも有名になりすぎたために起こった事件でもあり、どこへ行っても有名人として注目され、隠れることのできない一家へは同情の目も注がれましたが、彼の死後の2003年、リンドバーグには3人の非嫡出子が生まれていたことがDNAテストによって判明しました。

母親は帽子屋ブリギッテ・ヘスハイマーという帽子屋の婦人で、非嫡出子とされ3人は、リンドバーグが、56歳、58歳、65歳のときに設けた子であることがわかりました。リンドバーグとヘスハイマーの関係は1957年に始まり、彼の死まで継続されていたとされ、ヘスハイマーは2001年に74歳で死去しました。

こうした事実は、リンドバーグの名声に大きな傷をつけるとうほどのものではなかったようですが、アメリカンヒーローと目されていた人物のスキャンダルの暴露には全米が驚きました。

実は、リンドバーグは、二度日本に来ており、戦前の1931年に夫妻で北海道の根室市、霞ヶ浦、大阪、福岡などを訪問しています。また、二度目は戦後の1970年であり、このときは大阪万博を訪れています。

この最初の来日は、北太平洋航路調査のためのもので、ニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て中国までシリウス号という水上機で飛行した際に日本に立ち寄ったものでした。

妻のアン・モローはこの記録を“NORTH TO THE ORIENT”として執筆し、これは邦訳「翼よ、北に」としてみすず書房から2001年に日本でも出版されています。

この妻のアン・モローとは、本当に妾がいたのかというほど仲睦まじかったようで、その晩年にも、共にハワイ州のマウイ島に移り住み、ここで仲睦まじく余生を過ごしています。

このころから、自然環境の保全に力を注ぐようになり、世界各地を回り、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付しましたが、1974年8月26日朝にマウイ島ハナのキパフルにある別荘にてリンパ腫瘍が原因で亡くなりました。享年72歳。

その生前の1953年、彼が51歳のとき、大西洋単独無着陸飛行について書いた “The Spirit of St. Louis”(邦題「翼よ、あれがパリの灯だ」)は、ベストセラーとなり、この本は1954年のピュリッツァー賞をも受賞しまた。

同書は1957年にビリー・ワイルダー監督の手で映画化されてさらに有名になりまたが、この映画は日本だけでなく全世界で放映され、リンドバーグは世界的な有名人となりました。

「大西洋単独無着陸飛行」はリンドバーグの並外れた資質と努力なくしてありえなかったでしょうが、若きころに培った機械工学の賜物として誕生させた愛機「スピリット・オブ・セントルイス号」の功績によるところも大きいでしょう。

アメリカ人の思いも同じあるらしく、リンドバーグ本人の人気もさることながら、この奇妙な形をした飛行機も人気があるようで、そのレプリカが全米で15機もあるといいます。

2002年には、このリンドバーグの大西洋単独無着陸飛行75周年を記念して、孫のエリック・リンドバーグが「ニュー・スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋単独無着陸飛行を実行、無事成功したといいます。

祖父が33時間半かけたニューヨーク-パリ間を約17時間で飛行したそうで、もっともこの飛行機はレプリカではなく、近代的な装備も整えていたようすから、偉業というわけにはいきません。

しかし、リンドバーグの空を愛する魂はこの孫にも引き継がれており、エリックはXプライズ財団(Ansari X Prize)という団体にも出資するなど、祖父同様、宇宙開発への援助を続けているということです。

Ansari X Prize(アンサリ・エックスプライズ)とは、民間による最初の有人弾道宇宙飛行を競うコンテストの名称です。

2004年にアメリカで開催され、世界中の各地から26チームが参加して行われたコンテストの結果は、2004年10月4日(米国時間)に規定の条件を最初にクリアして高度100kmの有人宇宙飛行に初成功したスペースシップワンが賞金の1,000万ドルを獲得しました。

さらにXプライズ財団は、月着陸船の開発を目指した「Lunar Lander Challenge」(賞金総額は200万ドル)、軌道エレベータ技術を競う「Space Elevator Games」といったコンテストも実施しているといいます。

リンドバーグの夢はその子孫によって、今後とも未来へ受け継がれていくことでしょう。

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