ミツウロコの道

2015-9335先週末は、ひさびさに夫婦で東京に出て、夜から新宿で催された二人共通の高校時代の同窓会に出席してきました。

同窓生というのはいいもので、この年齢になるとそれぞれ所属する職場ではいっぱしの立場になっている人も多い中、そうした社会的な地位にはまったく気にせず忌憚ない話ができ、しかし気持ちはいつしか高校時代に戻っていて若い気分にもさせてくれ、齢を重ねたことを忘れさせてくれるのが不思議です。

延々と3時間ほどもそんなかんなでいろんな話をし、別れて宿に帰ったのは12時前。伊豆からのドライブに加えての大宴会に少々疲れてはいたものの、楽しかった一時期の余韻に浸りながら、ぐっすりとその夜は眠ることができました。

翌日は日曜日。天気はよくなかったものの、ざあざあ降りというほどでもなく、午後からは多少天気も回復しそう、ということなので、二人して鎌倉か横浜へでも出かけてみようか、という話になりました。

現在は伊豆の山奥に入り込んでいるので、そうした場所へ出かけるのはそうそうある機会でもなく、どちらにしようかと悩んだのですが、こんな天気の日にはしっとりとした雰囲気の鎌倉のほうがいいだろう、ということで、こちらを選びました。

行った先は、建長寺と円覚寺のふたつ。いずれもこの古都を代表する古刹です。場所的には北鎌倉にあり、建長寺のほうは、開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼、円覚寺のほうは、第8代執権の北条時宗の創建ということで、いずれも北条氏ならびに鎌倉幕府とは切っても切り離せない縁のお寺です。

円覚寺のほうは、文永の役、すなわち元寇の際の戦没者の菩提を弔うために時頼が建てたものですが、その建設期間中、二度目の元寇である弘安の役も起き、このときの戦没者の慰霊も円覚寺の役目となりました。

建長寺のほうの落成はこれより25年ほど古い1253年で、当時の日本は、承久の乱を経て北条氏の権力基盤がようやく安定した時期でした。

この乱は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱で、この戦いに勝った鎌倉幕府は政治的に優勢となり、朝廷の権力は制限され、皇位継承などに影響力を持つようになりました。

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その後京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていったわけですが、北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していたことから、そんな自分の事業の集大成としてこの寺を建てたようです。

この時頼という人は、このように宗教心に厚いだけでなく、生活面でも質素かつ堅実だったといい、執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事で、今でも名君として高く評価されているようです

一般の市民からも受けがよかったようで、後年の江戸時代に流行った「鉢の木」という能などにも登場し、ここでは時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られています。

元祖水戸黄門のような人だったわけですが、庶民だけでなく幕府内においてもその手腕の評価が高かった人で、二度の元寇の対応においてもその才能をいかんなく発揮しましたが、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念したことで高い評価を得ました。

とくに石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大したほか、京都に置かれていた六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与てその機能を強化させるなど、鎌倉幕府の基礎地盤を形成した人としても知られています。

その後長らく続く執権北条氏の鎌倉幕府におけるしっかりとした橋頭堡をその施政時代に築いたわけですが、その北条氏も、14代の高時の代にはかなり力が落ち、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵すると、もともと鎌倉幕府御家人の筆頭であった足利高氏(尊氏)に寝返られ、彼は六波羅探題を攻略。

関東では上野国のこれもまた鎌倉幕府の御家人だった新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、第14代執権の北条高時、第15代、16代執権の貞顕、守時ら北条一族や家臣らは自刃して果て、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えました。

この建長寺と円覚寺というのは、その執権北条氏がパトロンとなって造営した鎌倉時代最大級のお寺であるわけですが、双方ともその権勢を世にみせつけるために造られただけに、寺のあちこちには、北条氏の家紋である、三鱗(ミツウロコ)があしらわれています。

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それは灯籠や寺内の仏具にしつらえてあったり、柱や梁などの建造物に刻まれていたりであるわけですが、この三鱗を北条氏の家紋に定めたのは、北条家の繁栄の元を創った北条時政です。

ご存知のとおり、源頼朝の妻の北条政子の実父です。頼朝が鎌倉幕府を開いたのち、鎌倉の西、およそ7kmに位置する江の島に参籠して、一族の繁栄を祈願しました。

この時、江ノ島弁財天に37日間祈り続けていたといい、そして祈りの終わりの日の夜明けのこと、その夢枕に赤袴の女性が現れて、「あなたの前世の徳で、あなたの子孫は日本の国主となります」と、お告げをすると二十丈(約60m)もある竜神に変身して海の中に去ったといいます。

実はこの龍は弁財天の化身だったといわれており、時政はこのときこの龍が残したという三つの鱗を大切に持ち帰り、以後、これを北条家の家紋にした、とされています。

この鱗紋は、その幾何学模様が魚やヘビの鱗の連なりに似ていることに由来するわけですが、ヘビというのは古来から神秘的な動物とされており、能においても白拍子が蛇に変化するシーンが出てくる、道成寺という舞台では、この蛇体の衣装に三角の鱗紋が取り入れられているそうです。

しかしこれ以外にはあまり一般的な紋とはいえず、北条氏以外にはほとんど使用されていません。大部分三つ鱗であるようですが、ほかにも一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗もあり、いずれも北条氏関連の氏族で使用されていたものです。

ただ、これらは正三角形のものや、縦長の三角であるのに対し、北条氏主流の鱗紋は、代々底辺が少し長い二等辺三角形であり、その微妙な差により、主流であるかないかががわかるそうです。

のちの戦国時代に伊豆から小田原、関東にかけての覇者となった、いわゆる後北条氏の北条早雲もまた、この正当派ミツウロコを継承しています。が、彼はこの北条一族とは何の縁もありません。この紋を用いることで自らをも北条氏と称し、この先代の北条氏の権力を継承したことを内外に示そうとしたわけです。

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実はこの日、建長寺と円覚寺の訪問のあと、時政がその鱗を授かったというその江の島にも出かけました。そして改めて確認したのですが、ここにもあちらこちらに、これでもかというほどこのミツウロコがあしらってある建造物があり、改めて鎌倉から江の島に至る一帯が北条氏のテリトリーだったことを実感しました。

江の島といえば、サザンオールスターズの歌に代表されるように「湘南」を代表するモダンな観光地、という印象がありますが、その歴史は古く、伝承によれば、西暦552年に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられています。

が無論、んなわけはなく、約20000年前、元々は陸続きであったものが次第に侵食されて島となったもので、大昔には、引き潮の時に「洲鼻(すばな)」と呼ばれる砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたといいます。

砂嘴というのは、トンボロとも呼ばれるもので、岸から少し離れたところにある島の背後や同じような場所に人工構造物を置くと、その背後に砂が収斂して貯まる現象です。これを応用したものを「離岸堤」といい、テトラポッドのような異形ブロックを積みかさね、その背後に砂が貯まることを期待して、侵食対策に使う、といったことが行われます。

江の島はいわば自然にできた離岸堤というわけで、その背後にも砂が貯まりやすいわけですが、関東大震災のときにはこの地震で島全体が隆起し、これ以降はさらにこの砂の高さが高くなったといいます。

現在も島全域が聖域として扱われていますが、江の島を開基したのは役小角(えんのおずの)がといわれ、これは672年(白鳳元年)だったという記録があります。

役小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされており、人々を言葉で惑わしていると讒言され、伊豆大島に流罪になったとき、夜になると海を渡って富士山に登っていたという伝承がある人物です。

実在の人物ですが、ほかにも多くの修験道の霊場を開き、それらを修行の地としたという伝承があり、ここ江の島もその一つというわけです。

が、これは少々後世に脚色された話のような気配があり、伝承といえば、弘法大師、空海も814年(弘仁5年)に、江の島にある「金窟」という岩屋に参拝し、現在もある岩屋本宮(現奥津宮)を創建したともいわれています。

江の島には、この島の西方にある「奥津宮(おくつみや)」のほか、中央の「中津宮(なかつみや)」、北方の「辺津宮(へつみや)」を加えて3つの大きな神社があり、これを総称して「江島大神」と呼ばれています。

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それぞれ、多紀理比賣命(タキリビメ)、市寸島比賣命(イチキシマヒメ)、田寸津比賣命(タギツヒメ)という女神さまを祀っており、タキリビメは、大国主命の娘さんで、「タキリ」とは海上の霧(きり)のことだそうです。

また、イチキシマヒメとタギツヒメは、いずれもアマテラスとスサノオの娘さんで、「イチキシマヒメ」の音からもわかるように、こちらは広島の厳島神社の祭神でもあります。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされています。

三人ともすべて厳島神社や江の島の祭神であるわけですが、これら三人の女神を単独で祀る神社は少なく、「三女神一柱」として祀られるのが通例で、江の島や厳島神社以外には、福岡の宗像神社などが有名です。

ただ、こうした祭神の位置付けは、明治になってからの神仏分離の際に改められたものであり、それ以前の江戸時代までは弁財天を祀っており、総称では江島弁天・江島明神と呼ばれていました。神社の名称も、岩屋本宮(現奥津宮)、上之宮(現中津宮)、下之宮(現辺津宮)という名称でした。

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弁財天はもとは「弁才天」と書きました。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名であり、日本に入って来た仏教においては、吉祥天その他の様々な日本的な神の一面を吸収した存在となりました。

元来インドの「河神」であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、江の島もその例外ではありません。ほかにも弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くありますが、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなり、財宝神として崇拝されるようになりました。

上述のイチキシマシメと同一視されることも多く、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっています。

この江の島に弁財天を勧請したのは、853年(仁寿3年)の円仁(慈覚大師)ともいわれていますが、これもまた伝承の域を出ないようです。その後、1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚という坊さんがこの弁才天を勧請したという記録が残っており、これが実質的な江の島神社の始まりと言えるでしょう。

その3年後の1185年(文治元年)には、頼朝はさらに現在の奥津宮に鳥居を奉納しており、そして、上述のとおり、この5年後の1190年(建久元年)には、北条時政もここに参籠して、このとき北条氏の「三鱗」の家紋と定めました。改めて私もこの三社に参り、そこここでこの北条氏の家紋があるのを確認したことは言うまでもありません。

実は、私自身はこれまでこの島に一度も上陸したことがありませんでした。仕事では、その対岸のいわゆる湘南海岸の侵食対策の計画や設計に携わり、おそらくは仕事では10回以上、プライベートでも少なくとも5回はこの地を訪ねているはずです。

しかし、たいていは時間に追われていて、対岸の藤沢市内での用が済むとその日のうちに東京に戻るというのが常であり、ついぞ島への上陸の機会に恵まれませんでした。

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今回は午前中から、建長寺、円覚寺と北条氏ゆかりの古刹を訪れ、そのあとの午後の時間がぽっかりと空いたためこの初訪問が実現したわけですが、初めてのこの島の探訪は正直言って驚きの連続でした。

そもそも、江の島神社というものが三位一体の神様であるということも知らず、またその祭神が我々が結婚式を挙げた厳島神社と同じ方々だということも知りませんでしたから、その一致にまず驚きました。

加えて驚いたのは、その観光客の多さです。日曜日の午後ということもあったのでしょうが、奥津宮に至るまでの参道は人または人で、ごった返しており、またここに連なる店の多さとその賑わいぶりにもまたびっくり。

年齢層はといえば、我々と同様の年配の方もそれなりに多いのですが、意外や意外、若い人のほうが多く、ここはもしかしたら原宿かいな、と思えるほどであり、事実竹下通りを意識したような若者向けの小店も数多く見受けられました。

外国人旅行者らしい人達も多く、一番多かったのはやはり中国人のようで、これが台湾語なのか本土中国の言葉なのかはわかりませんが、あちこちでその黄色い声が響き渡り、このほか韓国語は無論のこと、英語、フランス語も飛び交って、なにやらここは日本ではないような気分にもなりました。

さらに驚いたのは、所詮は小さな島に過ぎないと思っていたところが、意外に広く、しかもアップダウンの激しい地形であり、かなり足腰が鍛えられたことでした。

調べてみると、標高は60mほどに過ぎないようですが、周囲は4kmほどもあるとのことで、凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質であることから地盤はしっかりしており、建築物は立てやすい土地条件のようです。

1923年(大正12年)の関東大震災のときの隆起で海面上に姿を現した「海蝕台」が現在の江の島のベースであり、海蝕台というのは、いわば海底にあった岩棚が隆起したものであり、もとから凸凹していたわけです。

標高は60mしかないにもかかわらず、このために島内各所のアップダウンが激しいわけであり、その合間あいまに構造物を建てられる場所を選んで、神社そのほかが建てられ、さらには、昭和に入ってからここに住まう人が急増しました。

一時期は1,000人を超える人が住んでおり、ピークは1955年(昭和30年)の1372人だったそうですが、その後は急減し、現在は島全体で360人を超える程度だそうです。それにしてもこの狭い観光地に人が住んでいるのがまさに奇跡のようでもあります。

島内各所にある観光スポットを巡る通路の両側にはこれに貼りつくように古い民家が並び、窓や入口からはその生活の息遣いが聞こえるような近さです。

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1980年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かけるようになったそうで、なるほど、あちこちでネコを見かけました。

猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れず、島内の至る所で猫が無防備な姿でいます。猫好きの人間もよく訪れる「ネコの島」でもあるそうですが、たまたま我々が訪れたこの日は2月22日であり、ニャンニャンニャンで、ネコの日だったというのもご愛嬌です。

一部でこれらの野良猫を観光資源ととらえて新たな江の島名物とする動きがあるそうで、餌場を作り猫に餌を与えたりする一方で、野良猫に避妊手術を行うための募金活動を行ったり、全島に犬・猫を捨てないよう訴える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も並行的に進められているそうです。

ネコ以外では、島に当たって吹き上げる上昇気流に乗って旋回するトビの姿も目につきます。その昔はトビの餌になるのは多くは、江の島にある漁港などで発生する漁師の残した小魚でしたが、最近来客目当てに餌付けが進められ、これが名物にもなってきたそうです。

しかし、こうした人工的な餌に味を占めたトビは、弁当を広げる観光客を襲って、食べ物を横取りするようになったそうで、現在、被害が多発している場所には注意の看板が掲げられ、餌付けを名物にしていた飲食店でも、これを自粛しているといいます。

なぜか、リスも大量にいます。島内のあちこちに広がる照葉樹林帯では梢を渡るリスをあちこちで見かけますが、これは「タイワンリス」です。江の島にはそのむかし小動物園があり、ここに伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスが飼育されていました。

ところが、台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、島内に拡がったようで、こちらも観光客寄せのために餌付けをする例も見られるようですが、小鳥の巣にいる雛や卵を食べたり、電線や電話線をかじるといった被害も出てきているといいます。

午前中に行った円覚寺でもリスを目撃しましたが、江の島だけでなく湘南海岸一帯のこの地域では最近このタイワンリスの繁殖がかなりの問題になりつつあるようです。

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このように、本来神様の島であるはずの江の島は、今や観光客、一般住民に加え、ネコ、トビそれに加えてリスまで闊歩するというなんだかよくわからん世界になっているわけですが、こうした喧騒を抜け、島の最南端まで出ると、そこには別天地が広がっています。

島の周囲、とくに南側と西側は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には関東大震災の際に海底から隆起した海蝕台の名残をそのまま見ることができ、これは「波蝕台」ともいいます。南西部にある海蝕崖の下部には断層線などの弱線に沿って波浪による侵食が進み、「海蝕洞」が見られる場所があり、「岩屋」と呼ばれています。

古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきたといい、富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説があるそうです。

江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきましたが、1971年(昭和46年)に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていました。その後藤沢市によって安全化改修され、1993年(平成5年)から第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設(入場料500円)として公開されています。

島の南西端の幅50mほどの隆起海食台は、通称「稚児ヶ淵」と呼ばれています。鎌倉にある相承院という寺の白菊という稚児と、建長寺の坊さんが相次いで身を投げたとする話に基づいて名付けられたといいますが、本当の話かどうかはわかりません。

大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれており、磯釣りのスポットとしても知られています。

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この江の島は、地図などで全体的にみると、奥津宮のある南西部の一部が分離しているように見えます。これは波による侵食が著しく、海蝕洞が崩壊し、大きな谷状の地形となっているためです。南北から侵食が進んで島を分断するような地形となっており、このためこの谷の左右の地形を総称して「山二つ」と呼ばれています。

これより東部を「東山」、西部を「西山」と地元民は呼ぶようですが、この東山の一角には、「コッキング苑」という園地があり、この中央には、江の島展望灯台、通称「江の島シーキャンドル」があります。

その昔ここには「平和塔」という、旧灯台がありました。これは江ノ島鎌倉観光という観光会社が東京の二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台を建設したものです。

戦時中は陸軍が落下傘練習塔として利用したもので、平和塔が展望灯台と呼ばれるようになった昭和30年代には、江ノ島大橋の開通に伴い自動車の乗り入れが可能になったことに加え、大島・熱海航路が開設されたことなどにより、行楽地として江の島の人気は急上昇し、この展望灯台も対岸から見る景観に欠かせぬ存在としてシンボル化されていきました。

私もこの古い灯台をなんとなく覚えているのですが、記憶があいまいなので、検索してみるとありましたありました。以下のようで、少しだけ現在ものよりは小さかったようです。

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これが2002年に取り壊され、江ノ島電鉄が翌年に完成させたのがシーキャンドルで、読売平和塔であった民間灯台という地位を引き継ぎ、現在も「観光用民間灯台」です。

民間灯台といっても、実際に船舶通航のための目標物として使われており、実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46km)でまで届くといい、民間灯台としては国内最大級。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120mもあります。

展望台からは遮られることのない360度の展望が楽しめ、気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだといいますが、この日はあいにくの天気だったため、登塔しませんでした。

夕方になると、灯台の光だけでなく、発光ダイオード(LED)を用いたライトアップが行われており、これがシーキャンドルと呼ばれるゆえんです。時折ライブなどのイベント会場となるほか、この展望灯台の根元には藤沢市の郷土資料館があって、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されているそうです。

ただ、上述の「コッキング苑」内に入らないと昇れないようでもあり(確認しませんでしたが有料?)、この日は夕方かなり遅くなっていたこともあり、今回の入園は断念しました。

このコッキング苑というのは、東山頂上部一帯にその昔あった旧江の島植物園をリニューアルし、上述のシーキャンドルの開業に合わせて2003年にオープンした藤沢市立の公園です。正式名称は「江の島サムエル・コッキング苑」といいます。

サムエル・コッキングというのは、1869年(明治2年)に来日し、横浜に住んだアイルランド人貿易商です。この地に別荘と庭園の造営を行い、ここで多くの熱帯植物を収集栽培しましたが、関東大震災の際この施設も破壊され、その後荒廃しました。

しかし、コッキングの収集した熱帯植物のいくつかは成長、繁殖を続け、現存するそうで、そのうち4種は藤沢市の天然記念物に指定されています。

このコッキングが創ったという温室は、その遺構が残っており、その跡地に作られた植物園の地下に埋め込まれたものが、2002年のリニューアル工事の際に再発見され、整備されました。

非公開ですが、時折公開されることもあるそうです。その遺構は3棟の温室の名残であるレンガ造りの基礎、西洋風の池の名残や、ボイラー室、貯炭庫、植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路などなどであり、ふだんは閉鎖されていますが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できるそうです。

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コッキングという人は、アイルランドに生まれましたが、幼いころ両親とともにオーストラリアに移住してここで育っており、27歳のとき貿易商を志し、明治2年に来日。2年後にコッキング商会を設立し、この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入して大儲けしました。

来日して3年後に日本人女性と結婚しており、明治10年にこの江の島頂上部の土地500坪余をこの妻名義で購入し、別荘を建築しました。その別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地を買い取り、庭園の造営を開始したわけですが、その後横浜でも石鹸工場を開設するなど手広い商売を続け、明治20年には、外国人居留地内に発電所まで開設しています。

明治39年頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされますが、この庭園を手放したのはこのころのことでしょう。1914年(大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去。享年72歳。奇しくも亡くなったのはあさって、2月26日です。

来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難したこの江の島の相模湾に浮かぶ緑の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったといい、そのころの江の島は今のようにまだ開発されておらず、光り輝いていたことでしょう。

そんな江の島を後にしてこの日は北条家の故郷、伊豆へ帰っていったわけですが、その帰路、湘南バイパスをクルマで走らせながら、かつて北条時政もまた江の島参りの際、この道を通っただろうか、とその時代に思いを馳せていました。

確認はしていないのですが、その時政の菩提寺であり墓もある、伊豆長岡の願成就院にもおそらくミツウロコはあるはずであり、もしかしたらこの地に点在する他の北条氏ゆかりの寺院にも同じものをみつけることができるかもしれません。

伊豆から江の島を通り、鎌倉に至る道を勝手ながらミツウロコの道、と呼ばせていただき、今後また機会あればこの道を辿ってみたいと思います。

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瀬戸内発


昨日の雨は富士山では雪に変わったらしく、今朝みると、この秋初めて宝永山火口すべてが真っ白になっています。

夜になると寒く、外はまだ秋色ではあるものの、いきなり冬がやってきた感じがします。秋はまだ間に合うのでしょうか?

さて、今日は、私の生まれ育った広島や山口県が面している瀬戸内海について少し書いてみたいと思います。

瀬戸内海を知らない、という人はいないでしょう。しかし、瀬戸内海はどこからどこまでか、と聞かれると、うーんと迷ってしまう人も多いのではないでしょうか。

瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり、複数の法令で範囲が定義されています。が、基本となっているのは、領海及び接続水域に関する法律施行令(通称、領海法施行令)であり、これによれば、その海域の領域は次の三つのラインで規定されています。

1.紀伊日ノ御埼灯台から蒲生田岬灯台まで引いたライン
2.佐田岬灯台から関埼灯台まで引いたライン
3.竹ノ子島台場鼻から若松洞海湾口防波堤灯台まで引いたライン

と言葉で書いてもわかりにくいので、下の図をご覧ください。

思ったより広範囲だな、と思うか、あるいはだいたい思っていたとおりという人と半々だ思います。が、多くの人が迷うのが、四国と大分県に挟まれた豊後水道(豊予海峡)の海域が瀬戸内海かどうかという解釈でしょう。

実は、瀬戸内海の海域を規定する法律はもうひとつあって、これは瀬戸内海環境保全特別措置法といい、通称は「瀬戸内法」と呼ばれており、この法律では豊後水道の海域まで含めた海が瀬戸内海となっています。

この違いは何かといえば、前者はあくまで国際的に瀬戸内海はここまでですよ、と知らせるための法律であり、「領海法」の名前でもわかるとおり、もし他国と領海を争うことになった場合に、これは法律でも定めてあるから間違いなく日本の海ですよ、と開き直るためのものです。

一方の領海法のほうは、どちらかといえば国内向けの法律であり、「環境保全特別措置法」の名前のとおり、国をあげての環境保全を行う場合、豊後水道まで含めて面倒見ましょう、という範囲を規定したものです。

従って法律的にはどちらも正しいわけです。が、我々の通常の感覚からすると、瀬戸内海といえば領海法に規定されている、豊後水道は含まない範囲を指すことが多いかもしれません。

これに属する件は、山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、香川県、愛媛県、徳島県、福岡県、大分県の11もあります。無論、それぞれ海岸線を持っており、沿岸の陸地も含めて、その通称を「瀬戸」または「瀬戸内」と呼んでいます。

ただし「瀬戸内海」は「瀬戸内」に単に「海」をくっつけてそう呼ぶようになったわけではなく、これは「瀬戸の内海」という意味であり、「瀬戸という地域の内海」ということです。ま、どうでもいいような話ですが……

この瀬戸内海ですが、古来、畿内と九州を結ぶ非常に重要な航路として栄えました。その理由はもちろん、外海に面しておらず、通年を通じて波が低く、温暖なためです。ここの気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖なだけでなく、雨量が少ないことでも知られています。

また、島が多く、海が荒れた場合でも避難できる場所が多いことも船舶にとってはありがたかったわけです。内海に面しているため、外洋から大きな津波が侵入してくるおそれもありません。仮に瀬戸内海内で地震が起きて海底が隆起して大波が発生したとしても、陸地までの距離が短いので、大津波になりにくいということもあります。

津波というのは、かなり深い海で発生したときにはたいした高さがありませんが、これが陸地に向かって水深の浅い大陸棚を駆け上がるとき、加速されると同時に波高も増して数十倍までの大きさになるのです。

瀬戸内海の大きさは、東西に450km、南北に15~55kmほどで、平均水深は約31mですが、もっとも深いのは、豊予海峡と鳴門海峡のあたりで、ここでは最大水深が約200mあります。

多くの島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られており、天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリなどの海洋生物や、アユ、ホオジロザメを初めとする400~500種類を越す魚類が生息しています。

このカブトガニは、天然記念物なので当然捕獲してはいけないのですが、小学校のころ、私のクラスの男の子が、めずらしいからとこれを捕まえて教室まで持ってきたことがあり、当然のことながら、先生にはこっぴどく叱られました。

また、いたるところに遠浅の海があり、私が夏になると良く行く、山口県の宇部市の「岐波(きわ)」というところなどは、潮が引くと、はるかかなた1km以上も先まで海の中を歩いて行けます。海の中といっても、潮が引いている間は当然陸地です。

この場所が好きで、昔は潮干狩りがてら良く出かけ、アサリやハマグリをよく採ったものですが、最近は乱獲により、めっきり少なくなりました。

こうした瀬戸内海の豊かな自然がなぜ作られたかといえば、これはこの潮の干満差が大きいことが原因です。香川県の荘内半島と愛媛県高縄半島の間の燧灘(ひうちなだ)というところの干満の差はこの岐波以上におおきく、実に2m以上にもなります。

こうした大きな干満差のため、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もあります。この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」です。この強力な潮流によって外洋の海底部の養分が常に巻き上げられ、強い流れとともに瀬戸内海に大量の動植物プランクトンが流れ込みます。

一方、いったん瀬戸内海に入ってきたプランクトンも大きな干満差と強い流れによって海水が撹拌されるため、その成育が促されます。プランクトンが豊富なため、当然これを食べる魚も豊富であり、かつ種類が多くなるわけです。

また信じがたいことですが、かつて20世紀初めごろまでにはここはクジラの一大生息地でもあり、コククジラやセミクジラなどが多数生息していたそうです。これらのクジラは捕鯨と汚染により瀬戸内海からはほぼ消えてしまいましたが、最近、90年代のはじめごろから、瀬戸内海でクジラの目撃がにわかに増え始めています。

広島県の倉橋町の沖では100頭ものゴンドウクジラの群泳が目撃されており、また大阪湾には九六年から子連れのミンククジラが相次いで出現したほか、香川県の志度町沖では漂流死体が揚がったそうです。

もっとも、瀬戸内海の自然が急速に回復したからというわけではなさそうで、専門家によれば黒潮の分流に乗ってエサを追いかけ、瀬戸内海に入り込んだとみるのが自然なのだとか。とはいえ、日本近海におけるクジラの個体そのものは増加しているのではないか、という見解もあるようです。

第二次世界大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達しました。

が、その後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況です。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊されたことと乱獲のために激減しており、ハマグリはほぼ絶滅状態となっています。

しかし、瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場であり、江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んでした。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁や、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていました。

こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却されました。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれ、広島のカキも江戸時代には関西に広く流通していました。

広島でのカキの養殖は室町時代までさかのぼるといわれており、このほか現在ではブリ、タイ、ワカメ、海苔などの養殖が盛んに行われています。

明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて日本国外に出漁する事例が増えていきました。山口県や広島県の一本釣り漁師たちの多くが台湾や、遠くはハワイなどに渡り、打瀬網を使う漁民はフィリピンに出漁し、その一部は彼の地で定住するようになりました。

このほか、瀬戸内海は、20世紀後半まで家船(えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られています。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことです。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かったといいます。

このように活発な漁業活動を支えた瀬戸内海の豊かな自然は、江戸時代に来日した医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価されましたが、彼等はまたこの瀬戸内の景色をみて、すばらしい景勝地だと、別の面からも高い評価を与えました。

19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンなどは、その著著「支那旅行日記」で「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と書き記しています。

この本は各国で出版されたため、見てもいないのに瀬戸内海は風光明媚な風景として世界で絶賛されるようになりました。

瀬戸の内海、瀬戸内海というこれらの地域をまとめてこう呼ぶようになったのは、江戸時代後期とされています。それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念しかなく、現在のように瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していませんでした。

とはいえ、江戸時代の「瀬戸内」の概念は現在のように広範囲ではなく、1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記「海陸道順達日記」によればこれは、尾道と下関の間の限定された範囲でした。

「瀬戸内海」の範囲が現在のようになったのは、明治期に入って欧米人がこの海域全体を指してを“The Inland Sea”と呼んだことによります。無論この範囲には大阪湾までの海域も含まれています。

欧米人がこう呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼ぶようになり、これが明治時代の後半には誰もが瀬戸内海といえば下関から大阪、淡路を含む広い範囲であると解釈するようになっていきました。

つまり、現在のような瀬戸内海の範囲を決めたのは日本人ではなく、外国人だということになります。

ただしこの時期の「瀬戸内海」はせいぜい明石海峡から関門海峡までの海域でした。これが更に現在のように明石海峡から南の和歌山沖や、豊後水道まで含めるようになったのは、1911年に小西和という学者が書いた「瀬戸内海論」という論文です。

小西はこの論文で瀬戸内海の範囲を現在のように豊予海峡と鳴門海峡と規定するとともに、「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、帝国議会に国立公園の設置を建議しました。

この建議は容れられて1931年に国立公園法が制定され、その三年後の1934年には、瀬戸内海は雲仙、霧島とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となったのです。

瀬戸内海の地理地形

この瀬戸内海という大きな海がどうやってできたかですが、1600万年ほど前、日本列島はユーラシア大陸から分離し、このとき古瀬戸内海と呼ばれる海が出現しました。

古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていました。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していました。

1400万年前から1000万年前になると、奈良県の各所や、香川の讃岐、山口県の周防大島などで火山活動が活発化するようになり、これらの火山の噴出物によって古瀬戸内海はいったん陸地になりました。そして7万年前には、ウルム氷期という氷河期が始まり、瀬戸内海一帯にはステゴドンと呼ばれる大型の像やナウマン象が生息するようになりました。

広島では、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたこともわかっています。しかし、1万年前に氷河期が終わると気温が上昇し、これに伴い海水面も上昇し、6000年前までに現在のような瀬戸内海が形成されました。

それまでの火山活動、地殻変動や氷河の流れなどによりかなり凸凹していた瀬戸内海に海水ができたことにより、瀬戸内海には大小あわせて3000もの島が浮くようになりました。

これらの多くは現在でも無人島であり、周囲数メートルしかない小さな島も多数存在します。大きな島としては、東部の淡路島、小豆島、中部の大三島、因島などがあり、西部の周防大島、倉橋島、能美島、そして忘れてはならないのが、我々が結婚式をあげた厳島です。

歴史

歴史的にみると、瀬戸内海は古くから交通の大動脈として機能してきました。古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であり、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ、各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられました

またこの頃、崖の上のポニョで有名になったそのモデル地といわれる広島県の「鞆の浦」は瀬戸内海の中央に位置するため、汐待ちの港町として栄えていました。汐待ちというのは昔の船は帆走船しかなかったため、風が凪ぐと航海ができず、このため風を来るのを待機するための待合場所が町として発展したのです。

奈良時代に入ると、山陽道や南海道の陸上の交通網が整備されるようになりましたが、だからといって瀬戸内航路が廃れたわけではなく、唐などの外国使節が瀬戸内海を通った記録も残っており、日本人の多くも瀬戸内航路を引き続いて利用していました。

平安時代中期ころになり、武士が台頭してくると、中には海賊になる者も出るようになり、彼等の中には摂津国の渡辺党のように、水軍系氏族として名を馳せる者も出てくるようになり、渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏もまた九州の水軍である松浦党をつくりました。

こうした水軍は、その後の時代時代における権力者の手先として活躍するようになります。平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりしましたが、このときにも厳島の村上水軍を味方につけ、彼等にこれらの普請を手伝わせています。

鎌倉時代から戦国時代にかけての中世なると、これらの水軍勢力は力を更に示すようになり、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちはそれぞれ海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内における交通網を取り仕切るようになりました。

やがて豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力は排除されるようになり、瀬戸内海は自由に航行できる海となったため、回船商人らによる西廻り航路(関門海峡~大坂)を初めとして、瀬戸内海はこの時代の物流の主役の務めを果たすようになります。

幕末になると、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海するようになりますが、一方では攘夷派がこれらの外国船を攻撃するようになり、1864年(元治元年)には、下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海は一時封鎖されました。

この事件はその後、馬関戦争に発展し、長州藩と英仏蘭米艦隊との戦いが起きました。馬関というのはこの当時の下関の呼称です。無論このとき長州藩は大敗し、これを境に自国の兵力の弱さを知るところになり、一念発起して逆に欧米の技術を導入するようになり、これが幕末への動乱、ひいては明治維新へとつながっていきました。

明治時代以降、中国地方でも鉄道が開通し、四国においても交通網が整備されるようになり、瀬戸内海を交通路とみなす重要性は次第に薄れていきました。

とはいえ、大正時代のころにはまだ阪神・別府間などに観光航路が開設されたままであり、第二次大戦後においても、一大観光ブームが起こり、これに便乗したクルーズ客船が数多く出現して、瀬戸内海航路は江戸時代の往時に立ち返ったかのような賑わいを見せていました。

その後これらの航路の主役はフェリーに移行しましたが、平成に入った現在も無数の定期航路が存続しています。しかし、ご存知のとおり、本州と四国の間に、三本もの本四架橋が架けられ、陸上交通ルートが確保されたため、多くの定期航路が廃止されるに至っています。

とはいえ、観光を目的としたクルーズ船などはいまだ多数存続しており、近年の「地方ブーム」に乗って、こうした観光船を有する旅客会社や運送会社はそこそこの営業成果をあげているようです。

瀬戸内海の観光

こうした観光地としての瀬戸内海ですが、庶民の観光旅行が一般化した近世には、「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」などに登場する古戦場である、屋島や壇ノ浦、牛窓、藤戸などが観光名所として注目されるようになりました。

また金比羅宮、石鎚山、住吉大社、厳島神社、宇佐八幡宮、大山祇神社などへの参拝も盛んになり、瀬戸内海各地の名所は「諸国名所百景」などの浮世絵にもたびたび登場するようになります。

さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする旅籠、茶屋、土産物屋などといった観光産業が丸亀や多度津、下津井、宮島などに成立し、繁栄を見せるようになりました。

この時期、朝鮮通信使が鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されており、このほか幕末近くになると多くの外国人が瀬戸内海を訪れるようになります。中でも前述したとおり、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が世界に瀬戸内海を紹介しました。

トーマス・クックはイギリス出身の実業家で、自らの名前を冠した旅行代理店であるトーマス・クック・グループで事業を拡大し、近代ツーリズムの祖として知られる人です。

また、ユリシーズ・グラントは、元軍人で南北戦争北軍の将軍を経て第18代アメリカ合衆国大統領になった人です。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで最も有名な将軍の一人です。が、一方では大統領在任中の多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領の一人と考えられています。

1879年(明治12年)には国賓として日本を訪れており、このとき書いた瀬戸内海の見聞記が後に世界に広まりました。

このときは浜離宮で明治天皇と会見し、増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹しました。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなりました。

このころの日本人の瀬戸内海観光が「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝であったのに対し、こうした欧米からの賓客は瀬戸内海各地でこの当時当たり前のように見られた風景に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていきました。

それらは、日本人なら普通の風景として目にうつる多くの島々や、段々畑、白砂青松、行き交う和船などといったごくごく普通のものでした。しかしそれらの風景に価値があることを日本人は逆に外国人から知らされるようになり、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していきました。

こうして1912年(明治45年)には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製の貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となります。

1934年(昭和9年)には前述のように瀬戸内海は日本初の国立公園の一つとなり、その効果もあって、その後もこうした観光客船の就航が相次ぎました。

戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航させ、その後3000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)もまた、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運びました。

その後、新幹線などの内陸鉄道の普及により、こうした船を利用した旅行は次第に影をひそめていきました。

しかし、1987年の「総合保養地域整備法」制定された際には、日本中にリゾート開発ラッシュがおこり、これは瀬戸内海でも例外はなく、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設されました。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもありました。

ところが、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発の多くは中断され、開発中途で放棄された土地も発生し、多くは廃墟のようになりました。これらがまた瀬戸内海の景観を壊すようになったとみる向きもあるようです。

その後、1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に登録されました。また1999年に本四架橋が全て完成すると、よくその代表とみなされる尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとしての注目を浴びるようになります。その他の二本のルートも観光名所として高い人気を誇っています。

現在の瀬戸内海は、これらの「新観光地」を中心として一定の人気を博しているようですが、バブル期ほどのにぎわいはないようです。またその昔は瀬戸内海の島々を巡る周回航路なるものも存在していたようですが、現在では定期的な航路はほとんどありません。

瀬戸内海はこうした観光・レジャー利用以外にも重工業、石油化学産業などが多く立地している工業地帯でもあり、現在、日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、そのための環境悪化も進んでいます。

上述のとおり、その昔は漁業も盛んでしたが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少しました。その原因は各地で埋め立てが行なわれたためであり、藻場、干潟、自然海岸などの浅海域が減少しており、閉鎖水域であるため下水道や油流出事故などの影響で赤潮発生など水質汚染が憂慮されています。

日本の国立公園第一号として登場したという事実すら風化しようとしているといえ、ぜひそのことを思い出して、この美しい風景を後世に残していってほしいものです。

ちなみに、ですが、世界遺産登録された瀬戸内海に浮かぶ島、宮島へは、本州側の宮島口桟橋から宮島にある宮島桟橋までのフェリーが就航しています。

JR西日本宮島フェリーの宮島航路と、宮島松大汽船の宮島航路の二つがあり、いずれも料金は同じで、片道たった170円です。

乗船時間もまたたった10分ほどですが、この船上からは宮島の大鳥居はもとより、東は広島湾岸の工業地帯や住宅街が見通せ、西に目を向けると見渡す限りの牡蠣筏や海苔の養殖いかだを見渡すことができ、壮快そのものです。今日のこのブログに掲載した写真も以前、このフェリーに乗ったときに撮影したものです。

たった10分の船旅ではありますが、瀬戸内海の風景と世界遺産宮島の観光美を堪能して帰ってくるための対価がいまどき「たった」340円というのは安いと思います。

宮島へ行ったことのない方も一度はぜひお越しください。きっと素晴らしい景色に出会えると思いますから。