香取の海と坂東太郎


先週末、つくば市で居酒屋を営む高校時代の同級生のところで同窓会があり、伊豆からはるばる車を飛ばして、行ってきました。さすがに道のりは遠かったのですが、久々に会った友人たちはみんな元気そうで、楽しい時間を過ごすことができました。

しかし、そこに来るはずだった友人の一人が、昨年10月に突然亡くなり、来れなかったのが残念でした。接待ゴルフで前日に酒をかなり飲み、翌日のゴルフのあと、ひとりでサウナ風呂に入ったところ、熱中症を発したらしく、あっさりと逝ってしまったのです。

同じクラスの同級生としては初めてのことだったので、結構ショックで、そのあとかなり引きずりましたが、この日集まった他の連中の明るい顔をみているとそうした悲しい気持ちも薄れてきました。

酒好きの人だったので、きっとあの世からこの同窓会にも遊びに来ていたのではないかと思います。気のせいか、この日別の友人がくゆらせていたタバコの煙の影の中に、彼の顔が見えたような気がします。

多少逝くのが早かったけれども、その死自体も彼自身がスケジュールして生まれてきたこととすれば、きっと何等かの意味を持っていたのでしょう。

それが何であるか、といったスピリチュアル的な話ができる面々ばかりでもなかったので、同窓会でそんな話もあまりしませんでしたが、帰りの車の中ではタエさんとは自然とそんな話になりました。

この友人には奥さんと大学生と社会人の二人の子供がいたのですが、かなり不和のあるご家庭であり、以前飲んだときから、さかんにそのことをぼやいておりました。

おそらくはその死をもって、その遺族たちに何かを知らしめんとしようとしたのでは云々という話が夫婦二人の車の中での結論でしたが、では我々友人たちにも何かを伝えたかったとしたら何か?を考えたとき、いろいろ思い当たることなどもあり、そうしたことをいろいろ考えながらハンドルを握っていた帰りの道でした。

さて、この帰路の行程なのですが、行きは修善寺から沼津へ出て、ここから東名高速道路を通り、都内を通過後、常磐道を北上してつくばへ到達するというルートを通ったのですが、帰りには千葉方面へ出て、東京湾アクアラインを通って帰ろう、ということになりました。

つくばからは、未完成の「圏央道」が牛久(うしく)まで通っているため、ここを通り、さらに一般道および南関東道で千葉まで出たあと、館山自動車道で木更津へ行きました。

アクアラインはここから川崎までの約15kmの大部分が海底を通る「海底トンネル」路線です。私は、これが開通した翌年の1998年(平成8年)に初めてここを通り、途中のパーキングエリア(PA)である、通称「海ほたる」に行ったことがあったのですが、タエさんにとっては初めての体験。

この日は天気もよく、残念ながら富士山は見えなかったのですが、海ほたるからは東京スカイツリーや、東京タワーほか横浜のランドマークタワーほか東京の町も良く見え、非常に気持ちのよいひとときを過ごすことができました。

羽田空港を利発着する飛行機の飛び交うなか、海鳥たちや行きかう船などを時間も気にせず、飽きずに眺めていられるというのは幸せなもので、普段あまり経験することのない「非日常」をすっかり堪能して帰ってきました。

ところで、このアクアラインの入口のある木更津から北の房総半島の大部分はその昔、海だったというのはご存知でしょうか。私もよくは知らなかったのですが、今朝そのことについていろいろ調べてみている中、そうだと知りました。

つくばから成田を通り、千葉へ抜ける間の道路の周辺は、見渡す限りの広々とした田園地帯がひろがり、はるか向こうまで遮るものが何一つない大地が広がっている場所というのも多く、そのほとんどすべてが昔は海だったというのは少々驚きです。

古くは、この一帯は「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれていたということで、それがいつの時代かというと、1000年以上昔のことだそうです。その当時、霞ヶ浦や印旛沼・手賀沼といった水域はすべてひと続きになった広大な規模の内海だったそうで、また様々な河川が流れ込み、面積は東京湾に匹敵するほどだったといいます。

縄文時代以前のこの地には、「海面後退」が起き、ここには「侵食低地」が作られていましたが、縄文時代になってからは逆に「海進」が進み、大量の海水が流入することで海になりました。ただし、海とはいいながら鹿島灘に湾口を開く「湾」のような状態であり、ここに鬼怒川などの河川が流れ込んでいたことから、これを「古鬼怒湾」とも呼ぶようです。

縄文時代の人たちは、この香取海の周囲のいたるところに集落を造って住んでいたようで、、そうした場所の多くには貝塚が分布しており、また房総半島北東部を今も流れる「栗山川」などの水系の各所では、実に日本全体で出土したうちの約40パーセントに相当する、80例もの丸木舟の出土があるそうです。

このほか、近隣の埼玉県や茨城県でも多くの丸木舟の出土例があり、古くから水上交通を通した独自の文化圏が形成されていたのではないかと考えられています。

これより少し時代が下った古墳時代になると、多くの古墳が造られるようになりますが、これらの中にはその後水害によって消滅したものも多いものの、今なお形をとどめているものも現存しており、これらの発掘調査などから、香取海は近畿地方から東北や北海道へ向かうための中継地としての要衝の地でもあったことがわかっているようです。

「日本書紀」には、「日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至る」とあるそうで、日本武尊(やまとたけるのみこと)というのは神様ではなく、天皇のような人のことをさしていると思われますが、そういった権力者がこの時代既に香取海を経由して北海道にまで渡っていることがわかります。

その後さらに奈良時代ころになると、今も下総国で第一の神社といわれる香取神社が創建されており、この香取神社の神主(大宮司職)は、中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫の大中臣(おおなかとみ)氏が務めており、平城京の摂関家藤原氏との関係も深かったようです。

なお、このころに書かれた「常陸国風土記」という歴史書には、「四面絶海にして、山と野交錯れり。居める百姓、塩を火きて業と為す」云々という記述があり、これから、この当時この地一帯の内水はすべて海水であったこともわかっています。

その後、平安時代の後半になって武士が台頭してくると、香取海は陸奥国を経て蝦夷までの北の地方を平定しようとする大和朝廷の重要軍事拠点となり、坂上田村麻呂や文室綿麻呂による蝦夷征討後は、ここを根拠地とした物部匝瑳(もののべそうさ)氏が3代に亘ってこの地の鎮守将軍に任ぜられました。

その後、この地は、「坂東武士」の始祖、平将門などの坂東平氏の根拠地となるなど歴史上の重要な舞台となりました。とくに将門は香取海を基盤に独立国家を作ろうとし、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、朝敵となりましたが、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました(承平天慶の乱)。

その後、平安時代末期になると、前述の「香取神宮」がこの地における権益を手中にするようになり、その社領は、香取海の周辺にまで広がっていきました。

ついには国衙が持っていた権力までも香取神宮が所有するようになり、本来は神社であるがゆえに供祭料・神役の徴収するだけだったものが、これを遥かに超える「浦・海夫・関」などの権益を手にいれるようになります。つまり、香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障するとともに、東京湾に通じる古利根川水系に河関を設けて、通行料を徴収するようになりました。

その後の鎌倉時代には、水上交通は更に活発となり、沿岸には多くの港が作られた。香取神宮の権力はあいかわらず絶大で、常陸太平洋側から、利根川・鬼怒川・小貝川・霞ヶ浦・北浦などの内陸部、北総及び両総の太平洋側にかけてのほとんどの港は香取神宮が支配していたといいます。

香取海に流れ込む河川を通じて北関東や東京湾とも活発な交流も行い、房総沖の太平洋にまで出て海運を行っていたのではないかという説もあるようです。

続く南北朝時代には、下総津国宮津以下24津(港)、常陸国大枝津・高津津以下53津の計77の津を香取神宮が支配していたという記録もあり、河関もさらに広範囲に設けられ、これらの河関は現在の東京都内にまで及び、江戸川区東葛西や市川市の行徳など東京湾の沿岸にも河関があったといいます。

しかし、このように長く栄華を誇った香取神宮によるこの地域一帯の支配も、江戸時代になり、徳川幕府がこの世を支配するようになると、次第にその権益を失っていきました。

香取海を通じての貿易などの収入のほとんどは幕府にはいるようになり、こうしてできた金で幕府は、それまで、江戸に流れ込み、毎年のように氾濫を招いていた利根川の流路を東に向けるためのいわゆる「利根川東遷事業」を開始します。

これによりを江戸を水害から守り、流域の沼や湿地帯から新田を新たに創出し、水上交通網の確立、利根川を北関東の外堀とし、東北諸藩に対する備えとすることにしたのです。

江戸時代以前の利根川は、下総国の栗橋(現・茨城県最西部の猿島郡(さしまぐん)付近)より下流は、埼玉県内を通って、葛飾から両国あたりを流れており、途中で現在の綾瀬川流路を流れていた荒川や入間川(現在の荒川流路)と合流して江戸の内海(東京湾)へと注いでいました。

このため、江戸市中には度重なる利根川の氾濫が起こっていましたが、幕府はこの利根川を途中からその東に流れる鬼怒川方向に転じてこれに合流させ、現在の千葉県銚子市より太平洋へと流れる川とするための工事に着手しました。

この結果として、それまでの香取海の水もこの利根川に流せるようになり、このため海が干上がってこれが手賀沼や印旛沼、牛久沼となり、江戸への利根川の水の流入を少なくすることに成功しました。

また、これにより香取海と呼ばれていた一帯の淡水化が進み、当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって、干拓と新田開発が盛んになりました。また、銚子・香取海から関宿・江戸川を経由し、江戸へといたる水運の大動脈が完成しました1665年(寛文5年)。

ところが、この付け替え工事により、逆に利根川中流部の集落はひん水害に襲われるようになり、1783年(天明3年)には浅間山が噴火し、利根川を通じて火山灰が中流域に大量に流入、河水があふれ出て、周辺地域の更なる水害の激化を招く事となりました

当時の土木技術では大規模な浚渫などの抜本的な対策を取ることはできず、浅瀬の被害も深刻化し、前述の艀下船を用いても通行が困難になる場合もありました。パナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施されましたが、結局、この浅間山噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは明治後期になってのことでした。

1899年(明治32年(1899年)になり、ようやく国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討されることとなり、こうして実施された大規模な利根川改修工事により、ようやく現在のような利根川の形がほぼ確定していくこととなります。

これらの一連の河川改修により、東北から江戸への水運には、利根川を使うことで危険な犬吠埼沖の通過や房総半島の迂回をする必要が無くなり、利根川は、大消費地江戸と北関東や東北とを結ぶ物流路として発展していきました。この水運路は鉄道網が整備される明治前半までは流通幹線として機能していきます。

また、この河川改修によって江戸周辺や武蔵国、常陸国、下総国などを中心として新田開発が進み、耕地面積が大幅に増加しました。こうして、かつてここにあった広大な香取海は次第に姿を消していき、今回我々が目にしたような広大な田園地帯が誕生したわけです。

今ではそこがかつては海であったとは思えないほどの広々とした大地が広がっていますが、これが人為によって造られた風景だとわかると、人間の力というのはすごい物だと改めて感じさせられます。

ところで、昨日の朝、この大地を車で通過して木更津へ向かうとき、この途中に通った圏央道からは巨大な仏像が見えました。牛久の大仏です。

ブロンズ製の大仏立像で、全高120mもあり、立像の高さは世界で3番目ですが、ブロンズ立像としては世界最大だそうで、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られました。

1989年に着工し、あしかけ4年もかかって1993年に完成しました。霊園である牛久浄苑のエリア内に造られたもので、その姿は同派の本尊である阿弥陀如来像の形状を拡大したものだそうです。

高さやく15mの奈良の大仏が掌に乗り、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある自由の女神像の3倍近くの大きさがある、地上高世界最大のブロンズ製人型建造物であり、ギネスブックにも「世界一の大きさのブロンズ製仏像」として登録されています。

残念ながら、我々はそばを通過しただけで、その足元まで行くことはできませんでした。が、ここへもし行けたら、大仏の胸部にあたる地上85mまではエレベーターでのぼる事ができるそうで、ここから周囲の景色を展望することができるようです。

おそらくここへ登れば、かつて香取海と呼ばれた地域一帯と、坂東太郎と呼ばれここを流れる雄大な利根川の姿を一望のもとにみることができたでしょうが、その景色をみることができなかったのは少々残念です。

かつて東京湾アクアラインを初めて通ったのは15年前。すると、この次にここを訪れることになるのは、2031年か…… と、そうはならないかもしれませんが、いずれにせよ、伊豆から房総半島まで行く機会もなかなかありませんから、案外とそうなのかもしれません。

さて、今日はもう立春です。2月になったことでもあり、そろそろ梅のつぼみも膨らんできました。あまり遠出ばかりせず、近場の名所も訪れてみましょう。修善寺梅林の梅が気になります。明日はお天気がよさそうなので、開花状況をちょっと見てきましょう。みなさんの町の梅はもう咲いたでしょうか