爪木崎にて ~下田市


先週、お天気が良い日を選んで、下田の「爪木崎」へ、今まっさかりという水仙を見に行ってきました。

場所は、下田の市街地から東南東へ5kmほど離れたところで、修善寺からは国道414号を通って天城峠越えで行くのが一番近いようなので、我々もこのルートで行きました。が、熱海や伊東方面からアクセスする場合には、国道135号のほうが便利です。

414号から来るルートも最終的には河津町でこの国道135号と合流し、ここから少し南下したところにある「須崎」「爪木崎」の道路標識を左折。1つ目の信号を左折し、その後、周囲を低いブッシュに囲まれた道がだらだらと続きます。

しばらく眺めはよくありませんが、これを我慢して運転しているとやがて視界が開け、駐車場とゲストハウスが見えてきます。駐車場に乗り入れると、係の人が近づいてきますので、ここで駐車料金500円を払います。終日止めていても同じ料金なので、ほかに爪木崎周辺のハイキングコースに向かう人もここにクルマを止めると便利でしょう。

ちなみに、伊豆急下田駅からはバスも出ていて、乗り場は10番、「爪木崎行き」だそうです。所要約15分で着くようですので、この週末ちょっと行ってみようかなという人で車をお持ちでない方は伊豆急+バスのコースにぜひチャレンジしてみてください。

昨年、我々も初めてここに行ったのですが、このときは少し天気が悪く曇りがちで、海もどんよりしていました。が、この日は上天気で視界もよく、陽射しがあったせいもあるのですが、さすがに下田!と思えるほどの陽気で、海岸を散歩しながら満開の水仙を鑑賞するには絶好の日よりでした。

海岸沿いの遊歩道沿いには180度の大海原が臨め、北側を見ると伊豆半島の東海岸の入り組んだ雄大な海岸線が、南に目を転じると、そこには太平洋の青い青い海原と、そこにポツポツと見えるのは、利島や新島、式根島といった伊豆七島です。

これらの島々よりもひときわ目を引くのが、神子元島(みこもとじま)という無人島で、ここ、爪木崎からは、さんさんと降り注ぐ太陽のもと、逆光になってシルエットでうかびあがっています。ほぼ中央に灯台らしいものがそびえ立っていて、これが目を引く理由のひとつでもあります。

この神子元島は、ここ爪木崎から西南西約9kmの位置に浮かぶ小島で、「静岡県」に所属する島としては、最南端の島だそうです。

ちなみに伊豆七島も静岡県に所属していると思っている人が多いようですが、その最大の島である大島も含め、すべてが東京都に属しています。

このため、言葉も静岡というよりも東京なまりでしゃべる人が多く、その風習も古き良き時代の東京のものが受け継がれているという話も聞いたことがあります。地理的には静岡のほうが断然近いのに不思議なことですが、このあたりの歴史談義はまたいずれ別の機会にしましょう。

爪木崎から南に広がる太平洋は、見るからに黒々としていて、これはいわゆる「黒潮」によるものです。ふだんは駿河湾や相模湾の比較的青々とした海の色に見慣れているので、ここにくるとその色は本当に黒く見えます。

この黒潮に洗われている神子元島には、遠目では良く確認できませんが、樹木はまったく無いそうで、その中央の岩山の頂上に立っている灯台も、白黒ストライプに着色されているのだそうです。

この灯台は、イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンという人の設計によるもので、この人は明治時代に政府が招いて来日したいわゆる「お雇い外国人」のひとりです。母国のイギリス(生まれはスコットランド)では「工兵技監」というお役人であり、建築家でした。

日本に来てからは、数多くの灯台設置を手がけ、技師として勤務していた7年6ヶ月の間に灯台26と、灯竿(航路標識のようなもの)を5、灯船2(横浜港、函館港)などを設計しており、これらの功績により「日本の灯台の父」とまで言われています。

その灯台26をリストアップしてみました。以下のとおりです。

納沙布岬灯台(北海道根室市)当初は木造、1872年8月15日
尻屋埼灯台(青森県下北郡東通村)煉瓦造、1876年10月20日
金華山灯台(宮城県石巻市)石造、1876年11月1日
犬吠埼燈台(千葉県銚子市)煉瓦造、1874年11月15日
羽田灯台(東京都大田区)鉄造、1875年3月15日、現在は廃灯
剱埼灯台(神奈川県三浦市)当初は石造、1871年3月1日
神子元島灯台(静岡県下田市)石造、1871年1月1日
石廊埼灯台(静岡県賀茂郡南伊豆町)当初は木造、1871年10月5日
御前埼灯台(静岡県御前崎市)煉瓦造、1874年5月1日
菅島灯台(三重県鳥羽市)1873年7月1日、煉瓦造灯台としては現役では最古
安乗埼灯台(三重県志摩市)当初は木造、1873年4月1日
天保山灯台(大阪市港区)木造、1872年10月1日、現在は廃灯
和田岬灯台(神戸市須磨区)鉄造、初点灯は1872年10月1日、1963年に廃灯。須磨海浜公園に移設保存(登録有形文化財)。
江埼燈台(兵庫県淡路市)石造、1871年6月14日、退息所は四国村に移築
樫野埼灯台(和歌山県東牟婁郡串本町)1870年7月8日、ブラントンの日本での初設計。日本最古。
潮岬灯台(和歌山県東牟婁郡串本町)木造、1870年7月8日 仮点灯、1873年9月15日 初点灯
友ヶ島灯台(和歌山県和歌山市)石造、1872年8月1日
六連島灯台(山口県下関市)石造、1872年1月1日
角島灯台(山口県下関市)石造、1876年3月1日、日本での最後の仕事
釣島灯台(愛媛県松山市)石造、1873年6月15日
鍋島灯台(香川県坂出市)石造、1872年12月15日、退息所は四国村に移築
部埼灯台(福岡県北九州市)石造、1872年3月1日
白州灯台(福岡県北九州市)当初は石造、1873年9月1日
烏帽子島灯台(福岡県糸島市)鉄造、1875年8月1日
伊王島灯台(長崎県長崎市伊王島)当初は鉄造、1871年9月14日
佐多岬灯台(鹿児島県肝属郡南大隅町)鉄造、1871年11月30日

どうでしょうか。ご存知の灯台も多いのではないでしょうか。私もこのうちのいくつかに実際に行ったことがあり、とくにブラントンの日本での最後の最後の作品である、山口県の角島灯台には、海水浴ついでに3回ほど行ったでしょうか。

しっかりとした石造りで、西洋の砦を思わせるような重厚なその姿は130年以上も経った古い灯台とは思えないほどのものす。

水仙の話から少し逸れてしまうのですが、このブラントンという人の経歴について少し書いておきましょう。

この人は、1841年のスコットランド生まれで、この年は日本では天保12年にあたり、同じ年に伊藤博文が生まれています。英国海軍の艦長の息子としてアバディーンシャー州キンカーデン郡に生を受け、当初は鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていました。

このころ日本では幕末から明治を迎える時代であり、富国強兵のためのさまざまなインフラ整備が必要となったため、諸外国からお雇い外国人を招き、先進国の技術の導入を図ろうとしていました。

陸海の交通網の整備もその重要分野のひとつであり、とくに海路の拡充は外国との貿易を勧める上においては最重要課題でした。

しかし、諸外国から来日する船の多くは、満足な測量も行われていない日本の港湾に入港することを不安に感じており、また、沿岸に近づく際に浅瀬に乗り上げて座礁する船も相次いだことから、日本の各地の沿岸に灯台を設置することをそのころの江戸幕府に強く求めました。

このころの日本には、まだ光達距離の短い灯明台や常夜灯ぐらいしか設置されておらず、しかも航路標識の体系的な整備が行われていなかったため、諸外国から「ダークシー」と呼ばれて恐れられていました。

このため、1866年(慶応元年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書、いわゆる「江戸条約」では8ヶ所、その翌年の1867年(慶応2年)にイギリスと結んだ「大坂条約」で5ヶ所の灯台を整備することが定められ、これら13の灯台は「条約灯台」とも呼ばれており、現存するものも多くあります。

この条約は維新後にも受け継がれ、明治政府はこのため、この分野を得意とする技術者の紹介をイギリスに打診したところ、スコットランド地方に灯台の設計では有名なスティーブンソン社という会社を経営している兄弟がおり、イギリス政府は彼らが灯台の設計を請け負っているという回答を送ってきました。

この兄弟は多忙だったためか、結局その来日は実現しませんでしたが、このスティーブン兄弟を介し、日本の明治政府への派遣が推薦され、灯台技師として採用されたのが、チャールズ・ブラントンでした。

1868年(明治元年、慶応4年)2月、正式に明治政府から採用されたブラントンは、お雇い外国人としては第1号でした。そもそもは鉄道技師であったため、訪日にあたって灯台建設や光学、その他機械技術を、短期間の内に英国内で実地に体得したといいます。

妻子及び助手2人を伴って来日したのはブラントがまだ26歳のときであり、戊辰戦争が終わった直後のことであり、江戸はまだまだ混乱の最中にあったであろうと想像されます。

しかし、ブラントンはこの時から1876年(明治9年)までの8年間の日本滞在中、明治政府の期待に答えて精力的にその任務をこなしつづけ、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに上述の多くの灯台や灯竿、灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げました。

さらには、灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだといい、灯台以外でも、ブラントンは多くの功績を草創期の近代日本にもたらしました。

その中には、日本初の電信架設(1869年(明治2年)、東京・築地~横浜間)のほか、幕府が設計した横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路を整備したのも彼でした。

また、ブラントン自身がもともとは鉄道技師であったことから、日本最初の鉄道建設についての意見書も提出しており、同じくお雇い外国人だったオランダの土木技師のローウェンホルスト・ムルデルらとともに大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を出しています。

このほか、現在の横浜スタジアムのある横浜公園もブラントンが設計したものだそうで、この公園の中の日本大通に続く入口近くには、台座に「リチャード・ヘンリー・ブラントン Richard Henry Brunton 1841-1901」の銘板のある胸像も置かれており、横浜市民に親しまれています。

ブラントンは1876年(明治9年)、35歳のとき、明治政府から任を解かれ帰国しましたが、英国で彼は、論文「日本の灯台 (Japan Lights) 」を英国土木学会に発表、賞賛を受けています。

その後は建築家として、建物の設計及び建築に携わり、その晩年には、「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」を記しておおり、これは仕事の合間に書きためた原稿だそうで、これをまとめ終えて程なく世を去っています。1901年(明治34年)、59歳没。

10年に渡る日本の状況や日本人の生活がどんなものだったかはこれを読むと詳しくわかるのでしょうが、それを転載する暇も元気も今日はないのでブラントンに関する記述はこれくらいにしておきましょう。

そのブラントンが造った神子元島灯台は、1871年1月の初点灯以来、伊豆半島沖を往来する船舶に光を放ち続け、今なお当時の姿を残す石造り様式灯台として国の史跡に指定されています。

その着工は1869(明治2)年のことであり、それから1年9ヶ月の歳月と多額の経費がかけられて掛けられて1871年(明治4年)の1月1日完成。今年でなんと142歳のおじいちゃん(おばあちゃん?)灯台になります。

点灯式には当時の太政大臣三条実美をはじめ、大隈重信、大久保利通などの顔ぶれが並んだといい、神子元島は現在人も住めないような岩島ですが、灯台が出来てからは昭和7年までは灯台守が常駐していたそうです。

歌人・若山牧水は大正2年にこの島で灯台守をする友人を訪ね、その時のことを歌集「秋風の歌」に収めているといい、現在もそうですがこの当時からその姿は下田を訪れる人々にとっては耳目を集めるものだったに違いありません。

その後灯台守は10日交替制になり、昭和51年からは巡回保守の無人島となっているということですが、下田の沿岸から近いこともあり、島の周辺は磯釣りやダイビングのスポットになっていて、島に上陸する人も割と多いようです。

灯台の近くには官舎や倉庫が残されているそうで、ここへ行けばこの島で生活をしていた灯台守の生活を垣間見ることができるかもしれません。

そんな神子元島を遠目に眺めつつ、潮風を感じて歩いた爪木崎でしたが、その大自然を感じさせる景色はやはり素晴らしいものでした。

ここの水仙は、実は昨年の暮れからもう咲き始めているそうで、昨年の12月20日から、昨日の1月31日までが「爪木崎水仙祭り」の期間だったようです。

期間中、爪木崎名物の鍋「いけんだ煮みそ鍋」を無料で振る舞うサービスや、下田海中水族館からやってきたペンギンのパレード、地元の有志による演舞、下田太鼓の実演などの催しもあったようですが、それも昨日で終わってしまったようです。

しかし、今年は例年よりも約2週間も開花が遅れているそうで、むしろ今のほうが見頃のようです。下田市の観光協会さんのホムペにも2月上旬まで十分楽しめるのではないかと書いてありました。なので、この週末でもまだ間に合うと思います。少し早い春を感じたい方、梅はまだまだこれからのようですから、伊豆まで行ってみましょう。

ちょっと前にアナウンスした、この付近一帯のあちこち咲く「アロエ」の花も今年はやはり遅れているようで、この爪木崎公園にたくさんの植えてあるアロエの花壇にもまだ多くの花が残っていました。

そのアロエの花には甘い蜜が出るようで、これを目当てにしたメジロやヒヨドリがその花々の間を飛び交っていましたが、これをまた写真に収めようとする観光客がメジロの周りを飛び回っていました。

私もその一人となり、パチリと撮ったものを最後にひとつ添えましょう。園内を歩くとほのかに水仙の甘い香りが楽しめ、飛び交うメジロの姿を見ているとまるで春が来たかのような気分になれます。

水仙やアロエ、メジロだけでなく、暖かく風もない日を選んで、のんびりと静かな下田の海を眺めるのもまた良いものです。明日土曜日は少し天気が崩れるようですが、日曜日には回復するようです。みなさん、ぜひ下田へいきましょう!