アダムスとその時代 番外編

イギリスでのオリンピックが終わりましたね。何か急に火が消えたような寂しいかんじがするのは私だけでしょうか。閉会式で延々と続くイギリスのロッカーたちの歌声をうっとうしく思いつつ、これはこれで彼らの文化なのだから、と妙に寛容な気持ちになれるのは、やはり、ニッポンが過去最多のメダルを獲得したからでしょうか。

それにしても、怒涛の後半戦でした。ボクシングの金で最後かと思ったら、さらに最後の最後にレスリングで有終の美を飾ってくれました。マラソンは残念でしたが、マラソン王国ニッポンの復活を感じさせる若手の出現に、次回のリオ・オリンピックは大いに期待できそうな気がしてきました。

がしかし、メダルをとれた選手もとれなかった選手も大変お疲れ様でした。残るイギリスでの日々を楽しんだあと、日本へ帰ってきて、ゆっくり休んでもらいたいものです。

休み……で思い出しましたが、はっと気が付くと、今日からお盆三が日ではありませんか。ちまたでは、帰省ラッシュが始まっているはずですが、ここのところ、ニュースをみてもオリンピックの話題ばかりで、お盆休みのことは何も言っていないので気が付きませんでした。

おそらく多くの人が、オリンピックの最後のほうを見ずに、電車やクルマでの帰省の波に乗って、地方へ帰られていたことでしょう。私たち自身も、例年なら山口の実家へ帰っているところですが、伊豆へ引っ越してきてすぐのことでもあり、今年は帰省は見送ることにしました。

それに、夏を涼しくすごすのには、ここにいるのがよさそうです。実家の山口の夏ときたら、殺人的な暑さで、昼はもちろんのこと、夜もクーラーなくしては寝れません。ここ修善寺では、まだ一度もクーラーをつけたことはなく、夜はときには毛布が手放せないくらいです。こんなに快適な夏を過ごせるのははじめてのこと。来年からも真夏に帰省をするのはやめようかな、などと思っているくらいです。

ジョン・セーリス

さて、昨日まで書いてきた三浦按針こと、ウィリアム・アダムスのことですが、書き忘れたことがありましたので、番外編として追記しておこうと思います。

それは、平戸に開かれたはずの、イギリス商館がその後なぜ続かなかったのか、ということ。アダムスとファン・ローデンスタインの働きにより、イギリスとオランダを相手に交易を開始したはずの徳川幕府が、なぜその後、オランダだけを相手にするようになったのか、疑問に思われる方も多いのではないかと思います。

ことのいきさつは、アダムスが、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となったのち、アダムス自身がイギリスの知人にあてて送った書簡に始まります。

慶長16年(1611年)、アダムスが送ったこの手紙が、誰当てだったのか不明ですが、おそらくはかつて航海士を長らく勤めたロンドンのバーバリー商会の責任者か誰かだったのでしょう。

このアダムスの書簡には、彼自身が家康の外交顧問となったことや、その当時の日本の情勢のほか、諸外国との交易の状況などが細かく書き記してあったと思われます。そして、どこをどうまわってたどり着いたかわかりませんが、この手紙は、1602年に設立されたのち、そのころ香辛料貿易の世界を席巻しようという勢いであった、東インド会社の手に渡ります。

これを読んだ東インド会社の責任者は驚嘆。かつて、オランダから極東へ向かった5隻の船団のうち、ヘローフ号のみが帰還し、ほかの2隻はポルトガルやスペインに拿捕されたという情報は得ていたものの、リーフデ号とホープ号は行方不明のままになっていたためです。

驚いた東インド会社のその責任者は、さっそくその頃のイギリス国王、ジェームズ1世に書簡を送り、アダムスを仲介人として日本との通商関係を結びたい旨を要請し、この要請をジェームズ1世は了承。

そして、そのころイギリス海軍の艦隊司令官であった、ジョン・セーリスを日本へ派遣することにしたのです。この人物がどういう人物であったのかについては、英語版のウィキペディアをみても詳しいことは書いてありませんが、日本から帰国して30年後に1643年に63才で没しています。その経歴には何も華々しい記録がないところをみると、おそらくは日本とイギリスの初外交交渉以外にはその後も大きな功績もなかったのでしょう。

しかし、さらにおよそ200年後の幕末に、イギリス人通訳として活躍したアーネスト・サトウが、このセーリスの日本訪問記(タイトルは、The Voyage of Captain John Saris to Japan, 1613)を書いています。イギリスではたいした功績も認められなかった彼のことをサトウがわざわざ書いているところをみると、親日家だったサトウ自身はイギリスが日本との関係においてこれほど古くから付き合いがあったんだよ、というところをイギリス人に見せたかったのでしょう。

これにより、日本と友好な外交関係を持てたのは、自分の功績でもあるというところをアピールするとともに、日本との交易において他の列強よりもイギリスを優位な位置につけたかったのだと思われます。事実、イギリスはその後日本が開国して世界と付き合っていく上において、ライバルのアメリカやフランスを抜いて、もっとも親密なパートナーになっていきます。

さて、こうして、イギリスを発ち、1613年6月11日にイギリスからの正式の使者として初めて平戸に到着したセーリス一行は、その後無事にアダムスに面会します。1613年というと、仙台藩で建造されていたサン・ファン・バウティスタ号が完成した年であり、アダムス自身は、家康の技術顧問かつ外交顧問として最も油の乗り切ったころのことです。

おそらく平戸までセーリスをわざわざ迎えに出たと思われるアダムスは、セーリス一行のために、在留中国商人の李旦という人物から邸宅を借り上げています。そして、そこでセーリス達の長旅の疲れが癒えるのを待ったのち、彼らが乗ってきた船で平戸を出て、海路、駿府に向かいました。

このころ、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居していました。隠居するに先立ち、家康は駿府城を大修築しましたが、1607年(慶長12年)の完成直後に焼失。その後直ちに再建され、1610年(慶長15年)に再建されていますが、家康がセーリス達に謁見したのは、まだヒノキの臭いのぷんぷんするような、新しい城郭でのことだったに違いありません。

ちなみに、六年後の1616年(元和2年)に家康はこの駿府城で没しています。死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説とも胃癌とも言われていますが、グルメオヤジだった彼らしい死に方です。遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能お山東照宮)に葬られましたが、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されています。

駿府城において徳川家康に拝謁したセーリスは、国王ジェームス1世の国書を捧呈します。そして、駿府城を辞したあと、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見しています。秀忠は将軍になっていたとはいえ、そのころはまだ家康が健在で、おそらくはイギリスとの交易についても家康が裁可を下したことでしょう。家康にもかわいがられていたアダムスを連れて行った工作が功を奏し、この年の10月には徳川幕府からイギリスとの通商許可が正式に出されました。

イギリス商館の誕生

徳川幕府からの許可を得たセーリスは、さっそく平戸に戻り、アダムスが借り上げてくれていた邸宅を、急きょ「イギリス商館」とし、一緒に来日していたリチャード・コックスという貿易商人を商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問としました。コックスが商館長時代だったころのことは、彼の日記、「イギリス商館長日記(1615-1622)」に詳しく書かれているそうで、ここにはこの当時のイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の史実が詳しく書かれ、史料としても一級品だとか。

セーリスらが一時しのぎで「商館」とした邸宅は、その後イギリス国によって正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員されました。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などのあちこちに広く派遣されて貿易の仲介を行うとともに、平戸から船を出し、東南アジア各地に派遣して貿易をやってかなりボロ儲けしたようです。

しかし、その後、1612年(慶長17年)には、禁教令が出され、日本国内のキリスト教徒は大弾圧を受けるようになります。次いで、1616年(元和2年)には、明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定するなど、徐々にその後の鎖国体制が確立していきます。キリスト教の弾圧と貿易港の制限により、新教国とはいえキリスト教徒であるイギリスの旗色は徐々に悪くなる一方であり、さらに本国におけるイギリスとオランダの対立が表面化してきました。

そのころの日本は、イギリスやオランダから生糸や絹織物、羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、逆に銀(主に石見銀山で産出)や銅、樟脳、陶磁器、漆工芸品などを輸出しており、両者の商人とも「どえりゃー」いい商売をしていました。

特に、肥前国有田(佐賀県有田町)で焼かれた伊万里焼は珍重され、その取引を巡っては先行するオランダのほうがイギリスより有利でした。ところが、その取引を独占しようと、欲張ったオランダは、次第にイギリス商船の航海を妨害するなどの行為を行うようになり、初代商館長コックス自身が、江戸幕府に直接オランダの非法を訴えるまでになっていました。

オランダの東インド会社、vs イギリスの平戸商館(イギリス東インド会社)同士の対立は、徐々に発展していき、イギリス船が平戸に入港できない、などという事態にまで発展。ついには、地元の平戸藩や在留中国人、日本人商人とイギリス商人との取引において、売掛金の焦げ付きまで発生するようになります。

日に日に貿易高が減っていくことに焦ったコックスは、挽回を狙って明国との交易を始めようとしますが、鎖国体制に入りつつある幕府にばれて失敗。同じ平戸で商売していた、東インド会社内部からは、あいつは抜け駆けで悪いことしてる~ と幕府に告げ口が行ったことから、コックスの責任を問う声が上がり、イギリスはさらに立場を悪くしていきます。

更に日本との仲介役であったアダムスが、1620年(元和6年)に亡くなると、日本におけるイギリスの擁護者はほとんどいなくなってしまうのです。

そのような状況下の元和9年(1623年)に発生したアンボン事件(notあんぽん)は、オランダ東インド会社による東アジア貿易支配をより強め、イギリスの影響力を弱体化させるきっかけになりました。

オランダとの対立

アンボン事件というのは、インドネシアのアンボン島(アンボイナ島)というところで、オランダ人がイギリス商館を襲い、商館員を全員虐殺した事件です。この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどで、アンボン島にも日本人ともにオランダ人やイギリス人がたくさん一緒に住んでいました。

そんなおり、オランダ側が作った砦をイギリスが占領しようとしてする計画があるらしいことが発覚。すぐにオランダ人たちは、イギリス商館に攻め入り、商館長以下、30余名を捕らえた彼らは、イギリス人を火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加えます。

そして、これを認めさせたオランダ側は、イギリス人10名、のほか、オランダに組していたとして、ポルトガル人1名と日本人9名を斬首して、アンボン島におけるイギリス勢力を排除したのです。

この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していたそれぞれの東インド会社の合併交渉は決裂。ついには外交問題にまで発展します。事件発生から31年後の1654年になって、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着したといいいますが、事件が起こったと同時に、もうイギリスとオランダが一緒に仲良く貿易をするという雰囲気はまったく消散。

イギリスは、オランダ何者ぞ!と反抗攻勢にでるのかと思いきや、元気なく、とくにアンボン島のような香辛料貿易の中心地を失ったため、この事件をきっかけに、東南アジアにおける香辛料貿易におけるイギリスの影響力は縮小していきます。

しかし、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料も栽培方法が確立されていくにつれて、その価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めましたが、一方の「被害国」イギリスは、日本や香辛料貿易をあきらめ、新たな海外拠点をインドに求めます。そして、そこで良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させ、やがてはオランダを凌駕するようになっていった、というのは皮肉なものです。

アンボン事件により、イギリスはオランダの砦を襲おうとした「悪者」であると一方的にオランダから非難されるようになり、片やイギリスは自国民を虐待したとしてオランダを非難。ことはなかなか収まりそうにないことをみてとったイギリス東インド会社は、とりあえずこの事件は、平戸の商館長であるコックスの責任である、ということにしようということで、コックスを罷免することに決めます。

そして、コックスはインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)の支社に左遷し、これを機会に平戸の商館も閉鎖することを決定。1623年(元和9年)12月のことでした。

再チャレンジ

翌年の1月には、イギリス商館は完全に閉鎖され、コックスらイギリス人商館員全員が日本を去り、イギリス人が去ったイギリス商館はその後平戸藩とオランダ商館が共同管理することになりました。

この平戸商館は、その後幕府によって平戸での貿易が禁じられ、オランダ商館が長崎に移転したこともあって、急速に荒廃していったそうです。

しかし、イギリスは、これで日本との交易を完全にあきらめたわけではなく、1671年(寛文11年)、チャールズ2世が国王のとき、日本との通商再開を目指して、「リターン号」という船以下3隻の船を本国から出航させて、長崎に入港させています。

長崎で長崎奉行と対面した使者は、徳川家康の時代に出された来航朱印状は依然有効であり、通商を再開してほしい、と願い出ます。しかし、オランダからの情報で、チャールズ2世とポルトガルの王女が婚姻関係にあることを知っており、1639年(寛永16年)以降、ポルトガル船の入港を拒否していた日本は、これに難色を示します。そして、さらにイギリスが、かつて一方的に商館を閉鎖した、と非難して結果的には、貿易再開要求を拒否。

リターン号がまだ日本にいる間に、改めてイングランド船の来航を禁じる命令を出したため、これを受けてリターン号は日本を離れることになりました。そして以後、幕末に至るまで、2度とイギリス商館が復活することはありませんでした。

また少々長くなってしまいましたが、これが江戸時代にイギリスとの貿易がなくなってしまった理由です。

イギリス商館が平戸のどこに設置されたのかについては、今もなぞなのだそうです。しかしいろいろな記録の痕跡から、平戸にある鏡川という下流にあったオランダ商館の近くだろうと推定されています。平戸市の岩の上町の幸橋のたもとには、商館跡の碑が建てられているそうですが、それだけでは、かつてアダムスらイギリス人が生き生きと働いていたであろう商館を想像することはできません。

かつて江戸初期の初めの日本を闊歩したイギリス人の姿を思い出させてくれるような史料が今後発見されるのを祈りたいものです。

遥かなるイギリス

昨日の男子サッカーはまことに無念でした。しかし、女子で銀、男子で4位という成績を残した選手たちは、これからの日本のサッカー界の礎となっていく人材となることでしょう。4年後を期待したいと思います。

それにしても、男子ボクシング、まさか優勝決定戦にまで勝ち残るとは思いませんでした。男子レスリングにしてもしかり。先日、新進気鋭の新人さんというのがあまりいない、なんて書きましたが撤回です。今回の日本人選手団はほんとうに層の厚さを感じさせます。

オリンピックもあと少しになってきましたが、さらなる応援を続けたいと思います。

外交顧問

さて、昨日の続きです。今日は何がなんでも終わらせたいと思います。なので、少し長くなるかもしれませんが、お付き合いください。

アダムス達を死刑にしろ、と主張したイエズス会の宣教師たちの要求を退け、アダムスとヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトの3人を大坂に護送させた家康は、1600年(慶長5年)3月30日、彼らを大阪西の丸で謁見します。

そして、かれらからポルトガル・スペインら旧教国との紛争の状況など、最新のヨーロッパ事情について詳しく聞きだし、豊かな知識と広い見識を持つ、アダムスとファン・ローデンスタインを高く評価するようになります。

家康との謁見後、アダムス達は帰国を願い出ましたが、家康はこれを却下しています。国内事情がまだ混とんとしている中、イエズス会の宣教師をはじめとする外国人たちの今後の処分をまだ決めかねており、この問題に決着をつけていくうえにおいては、いずれアダムス達の知識が必要になる、と考えたためでしょう。

家康は彼らの拘束をとき、逆に米や俸給を与えて慰留し、江戸にしばらく滞在し、しばらくの間協力してくれれば、いずれはオランダに返してやる、とでも言ったのでしょう。

アダムス達にすれば、帰国したくてもリーフデ号は彼らの手中にあり、危害を加えないから手助けしろといわれれば、家康の命に従うほかありません。豊後に漂着したときに怪我をしていた仲間を手厚い看護で救ってくれたこともあり、仕方なくというよりも、多少の恩返しは、という気にもなっていたことでしょう。

こうして、家康に協力することを決めた彼らは、少しずつ日本語も習いはじめ、やがて時折日本を訪れる外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任されるようにまでなります。日本に来るまでは、二人とも世界をまたにかけて貿易船に乗っていたため、おそらくポルトガル語も話せたと思います。国内にいるイエズス会の宣教師たちとも敵同士ながら、交流をもったでしょうし、ポルトガル語を中間言語として、スペイン語圏の外国人との通訳も行ったのではないでしょうか。

また、アダムス自身の母国語である英語を日本人に教えたのは、彼が初めてだといいます。このほかにも、造船術や航海術に長けていましたから、その基礎となる幾何学や数学、天文学などの知識を家康以下の幕閣に授けました。

しかし、これほど多才な人物を受け入れていたというのに、その後の日本は鎖国に入ってしまい、彼らが伝えた技術はその後長い間、封印されてしまいました。

彼らを受け入れた家康がその後なぜ鎖国体制に入ってしまったのかについては、諸説あるようですが、ひとつには、島原の乱をきっかけとして、キリスト教の蔓延を防ぐためであり、また諸藩が勝手に貿易をすることで、幕府の貿易管理統制がとれなくなることを恐れたためという説などがあります。

このため、幕府はその後キリスト教を禁止し、貿易相手もオランダなどに限定し、交易地も長崎の出島に限るなど、極端なひきこもり体制を築いたのはみなさんもよくご存知のところでしょう。

結婚

さて、日本という国がいずれはそういう閉鎖的な国になっていくことも知らず、アダムスが家康に協力するようになってから、瞬く間に二年が過ぎました。そのころはもう、すっかり日本に馴染み、もう母国へ帰らなくなくてもいいかな、などと思い始めていたことでしょう。ちょうどそのころ、アダムスは、日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込平左衛門(馬込勘解由(まごめかげゆ))という人物と懇意になります。

馬込平左衛門は、遠江国敷知郡馬込村(現:静岡県浜松市中区馬込町)の武士の家に生まれ、幼ないころから領主徳川家康に仕え、兵站を担っていました。このころはまだ、馬込姓も、勘解由とも名乗っておらず、ただ単に平左衛門と呼ばれていました。

その後、1590年(天正18年)に家康が、秀吉からの命令で、それまで住んでいた駿府から、江戸へ知行地替えを命じられたのに伴い、家康と連れ立って江戸に赴き、大伝馬町(現在の中央区小伝馬町付近)に定住して、伝馬役・名主役を務めるようになりました。

後年、1615年(元和元年)に、家康が大阪の陣を終え、江戸へ戻る途中、平左衛門は浜松宿馬込橋で人足500人と共に迎えに上がった所、家康が大いに喜び、正式に馬込の苗字を与えるとともに、勘解由を名乗るようになったといいます。

馬込平左衛門は、アダムスと頻繁に接するようになるうちに、彼の人柄にひかれ、また家康の厚い信頼を得ていることを知るようになり、やがて、娘のお雪との結婚を申し出ます。このころの平左衛門はまだ一介の商人にすぎませんでしたが、アダムスと結婚させることで、いずれは武士にお取立てしてもらえる可能性を考えていたのかもしれません。

そのころもう、オランダへの帰国をあきらめかけていたアダムスは、平左衛門の申し出を受け入れ、1602年(慶長7年)お雪と結婚しました。アダムス46才のときのことです。アダムスの故郷のイギリスは、カトリック教国であるスペインと敵対しており、おそらくアダムスもプロテスタントだったと考えられます。彼は、彼女にも洗礼を受けさせ、洗礼名をマリアとします。やがて、アダムスと彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれました。

伊東へ

臼杵湾で座礁して動かせなくなっていたリーフデ号は、応急処置後に大阪まで廻航され、その後、さらに補修が施されて、江戸湾まで運航されました。ところが、そのリーフデ号が、台風による高波で江戸湾内で沈没してしまいます。一説によると、大阪から江戸湾まで廻航してくる途中、浦賀沖で沈没したという説もあります。

この船を使って家臣たちに西洋の航海術を学ばせようと考えていた家康は落胆しますが、すぐに考え直し、アダムスが船大工としての知識を持っていることを思い出します。そして、彼に新たに西洋帆船を作らせることを思いつきます。

家康からその要請を受けたアダムスですが、かつて、ジリンガムで、船大工の師匠、ニコラス・ディギンズから手ほどきを受けてから、20年以上の年月が経っており、この間、船大工の仕事はまったく行っていません。このため、家康からのこの申し出を一度は断ります。

しかし、日本に来てからの家康の恩義に報いるためには、やはりこれを受けざるを得ないと考え直し、やがてその要請を受けることにします。しかし、問題はそれをどこで、誰が作るかでした。

その頃の江戸はまだ、現在のような大都市ではなく、海の近くは芦原が遠くまで広がるような湿地帯であって、船をつくるには不向きな環境でした。また、造船をするために適切な木材の入手も困難で、江戸川を遡り、利根川を通じて日光付近から材木を筏で流してくることは不可能ではなかったと思われますが、造船に適した材が入手できるかどうかということになると、話はまた別でした。

加えて実際の造船作業を行うには、熟練した船大工が必要であり、そうした人材はこのころの江戸にはほとんどいませんでした。

そこでアダムスらが目につけたのが伊豆の船大工でした。このブログの「軽野船」でも紹介したとおり、伊豆は古くから造船がさかんな土地柄であり、狩野川上流には一大造船所があったという説もあり、頑丈な船を作る優秀な船大工も多数存在していました。加えて造船に適した楠木などの丈夫で腐りにくい材も入手しやすく、アダムスがこの地を選んだのは妥当な選択だったといえるでしょう。

後年、1854年(嘉永6年)にロシア軍艦ディアナ号が下田沖で津波により大破沈没したときも、同乗していた技師、アレクサンドル・モジャイスキーらの指導により、乗員の帰国のために、日本人の手で帆船「ヘダ号」が建造されました。このときかり出されたのが、戸田の船大工たちであり、おそらくアダムス達が造船技術を指導した伊東の船大工の流れを汲む者たちだったに違いありません。

家康は、この日本初の西洋帆船を自力でつくるという一大事業を実施するにあたり、その最高責任者として、向井忠勝(むかいただかつ・別名向井将監)を総帥に任命しています。徳川水軍の将で御船手奉行であり、アダムスらとともに西洋帆船を作った知識をもとに、徳川家光の命により、幕府の史上最大の安宅船である御座船の製造を指揮するなど、後年は造船の名手といわれました。

忠勝は、家康方の水軍の総大将として活躍した人物でもあり、大阪湾で行われた豊臣方との海戦でも自らの水軍を率いてこれに勝利するなど、海と船に関しては専門家を自負しており、この船造りの責任者に選ばれたときもそれを栄誉と思ったことでしょう。このため、やる気満々だったようで、総帥に選ばれたあとも、江戸でも腕が良いといわれる船大工を集めてプロジェクトチームをつくり、その最高責任者にアダムスを据えています。

伊東にやってきた向井忠勝と江戸の船大工一行とアダムスは、伊東の村内に腰を落ち着け、造船をする適所を探し始めます。やがて、現在の伊東港の西側を流れる、松川という河口に目をつけ、ここに日本初の造船ドックを建設することを思いつきます。

アダムスたちが造船ドックを作ったと考えられる松川河口のあたりは、現在、左岸側が公園整備され、右岸側には導流堤が整備されていますが、その当時は、澪筋の深い自然の流れだったと考えられます。この右岸に玖須美という地名の場所がありますが、ここに唐人川という小さな川があり、この川と松川が合流していた場所が、そのドックがあった場所であると伝えられています。

この合流付近を深く掘り下げ、そこを板塀で囲って湿式のドックを作り、その中で組み立てた船を、進水時には川の中に導き、澪筋を伝って船を海まで運ぶのです。

こうして、アダムス達の日本初の様式帆船の建造が開始されました。アダムス自身も久々の船造りであり、しかも船を作る道具は自分が使っていたものとまったく違う、見慣れない和風のものであり、しかもそれを使って作業する大工との言葉の壁もあって、船造りは難航したに違いありません。

しかし、その苦労も実って、1604年(慶長9年)にようやく船が完成します。この日本初の様式帆船は、まだ規模が小さく80トンくらいだったといわれています。しかし、小さいながらも機能はしっかりしており、進水後にアダムスの指導により松川の周辺の海で沿岸測量の研修が行われたといいます。

三浦按針

船が完成したと聞き、江戸からはるばるやってきた家康は、万帆に風を受けて相模灘を走るその姿を見て、大いに喜びます。

そして、アダムス達に、より大型の帆船を建造するように指示し、アダムス達は、それからまた3年後の1607年には120tの帆船を完成させることに成功するのです。

後日、「按針丸」と命名されたこの船は、後年の1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し、地元民に救助されたメキシコ人で、前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられました。そして、ビベロらはこの船を使って、1610年(慶長15年)に日本を出発し、無事にメキシコ、アカプルコに帰還しています。

ちなみに、現在、この按針丸こと、サン・ブエナ・ベントゥーラ号の1/10スケールの模型が、伊東市役所のロビーに飾られているそうで、これは伊東市の市制50周年を記念するとともに三浦按針の偉業をたたえるために製作されたものだそうです。

更に余談になりますが、このロドリゴ・デ・ビベロが、フィリピン臨時総督在任中の1608年、マニラで起こった日本人暴動に際し、暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求するという事件がありましたが、このとき、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスがこの地を訪れ彼と会見し、問題を難なく処理しています。

ロドリゴ・デ・ビベロはこのことがきっかけで家康に友好的な書簡を送るようになり、その当時ヌエバ・エスパーニャと呼ばれていたメキシコと日本は、鎖国の前まで交流を続けていたといいます。

このように、アダムスは、造船だけでなく、家康の外交顧問として重要な役割を果たすようになっており、家康としても譜代の大名以上にかわいがっていたようです。そして、造船のみならず、外交、教育その他の分野で優れた能力を示した彼を、250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、「三浦按針」の名前を与え、さらには相模国(現神奈川県)の逸見(へみ・現・横須賀市内)に領地まで与えています。

この、「按針」という名は、彼の専門である航海術にちなんだものであり、そのころの日本水軍が「水先案内人」を指すことばとして使っていたものです。また、「三浦」は与えられた逸見のある三浦半島にちなんだということです。

この、アダムスが家康から賜った領地は、その後息子のジョゼフが相続し、名乗りもジョゼフが継承し、「二代目」三浦按針として、その後も徳川家に仕えたそうです。

斜陽

アダムスこと、三浦按針自身は、江戸の日本橋に屋敷を構え、その後も家康に仕え続けました。同僚のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインも、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚し、アダムスと同じく江戸幕府の外交顧問として活躍しました。

彼の屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだそうですが、彼はその後、「ヤン・ヨーステン」がなまって「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、現在の「八重洲」(やえす)になったということです。

リーフデ号によって、日本にやってきたこのイギリス人とオランダ人コンビの活躍は、その後の日本の海外政策に大きな影響を与えました。

1604年(慶長9年)、江戸幕府は、特定の国の貿易船だけに「朱印状」を与えて貿易を許可する朱印船貿易を始め、同時に生糸の輸入も特定の国にしか認めない「糸割符制度」も始めました。それまでイエズス会による布教の自由を認めていたキリスト教を禁止し、特に布教に力を入れていたスペインなどの旧教国を冷遇し、貿易に力を入れるオランダやイギリスなどの新教国を厚遇するようになりました。

1609年(慶長14年)にはオランダ、1613年(慶長18年)にはイギリスが、肥前国平戸(長崎県平戸市)に商館を置いて平戸貿易が始まりましたが、これはアダムスとファン・ローデンスタインの功績といっても過言ではありません。その後、スペイン人・ポルトガル人を南蛮人というのに対して、オランダ人は紅毛人と呼ばれ、前者が野蛮人のひびきを持つのに対し、後者は奇異ではあるものの、なんとなく親しみが感じられるのは、気のせいではありません。

さて、このお話も長くなってきたので、そろそろ終わらせなくてはなりません。

家康に信頼された「按針」や「耶楊子」ですが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなったあとも、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちに仕え、厚く遇されました。しかし、鎖国体制の実施により、貿易が平戸のみに限定されるなど、外国人との折衝も次第に減り、外交顧問としての按針らが起用される機会もほとんどなくなっていきました。

晩年の按針の役割は、幕府の天体観測所の所長、天文官のみだったといいます。神田佐久間町には、司天台という天文台があり、ここでは、改暦、観測、地誌編纂、天文関連書籍の翻訳などを行っており、おそらくは按針も日々ここに詰めていたと思われます。

ときには、国家機密である地図の作成などにあたったようですが、既に幕府の高官であった按針自身が自ら測量を行うことはなく、また直接地図を制作する技量もなかったでしょう。また、鎖国によって外国の書物の輸入が禁止され、翻訳の仕事もどんどん減っていったと思われます。

少しでもイギリスやヨーロッパの情報を得たいと思ったのでしょう。最晩年の彼は、商館のある平戸に移り住んでいたようです。しかし、ときおり入港する外国船の船員との接触も厳しく制限された彼は、幕府からもその存在を警戒され、鬱状態になっていたといいます。そして、イギリスに帰る夢もかなわぬまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で、その波乱万丈の一生を終えています。57歳でした。

その墓は、現在も平戸市崎方公園に残っており、「三浦按針之墓」と書かれているそうです。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催されるとともに、彼とゆかりのあった、伊東や石巻でも彼にちなんだ催しが持たれ続けているそうです。

エピローグ

三浦按針は、伊東において、幕府の要請により、二隻の西洋帆船を建造しましたが、その後、もう一隻の帆船を仙台藩の求めに応じて建造しています。

1614年(慶長19年)、伊達政宗は、徳川家康の裁可を得て、仙台藩士の支倉常長を外交使節に任命し、スペインとの貿易交渉のため太平洋を横断させています。その際に乗船した巨大帆船、サン・ファン・バウティスタ号も三浦按針が関わって建造された船です(1613年完成)。

三浦按針が主導し、そのころ仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した、日本で初めて作られた西洋型の軍船でもあります。造船工800人、鍛冶700人、大工3000人が参加して作られたそうで、排水量はその当時の日本で最大の500t。全長55m。建造日数は、わずか45日だということですが、おそらくは組み上げるだけの日数で、実際には前準備の工作を相当やっていたのだと思います。

そして、支倉常長は、フランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロとともにこの船に乗って海をわたり、スペインの首都、マドリードの王宮でフェリペ3世と謁見することに成功します。その後の交渉により、日本との貿易が実現するかに見えましたが、そこに思わぬ横やりが入ります。この時期、日本国内では既に徳川家康がキリスト教徒の弾圧を始めており、この情報が故支倉常長と交渉中だったスペイン側に伝わったのです。

そして、結果的にこの外交交渉はみごとに失敗に終わりました。

支倉常長らは、このあと、途中までサン・ファン・バウティスタ号に乗って帰国しますが、途中、メキシコで下船して、その後は別の船で帰国しています。サン・ファン・バウティスタ号はその後、スペインに売却され、戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったあと消息が不明となりました。

近年、日本では、バブル景気のころにこの船を復元しようという声が高まりましたが、なかなか実現できず、1992年になって、ようやくこの話が実現し、復元プロジェクトがスタート。当時の正確な設計図は残っていませんでしたが、寸法図が残っていたことから、これをもとに設計をしなおし、スペインへの出帆から380周年にあたる1993年(平成5年)5月22日に、ついに復元に成功。宮城県石巻市で進水式が行われました。

石巻新漁港に仮係留され一般公開された後、現在は石巻市渡波にある渡波漁港に開館したテーマパーク「宮城県慶長使節船ミュージアム」に係留・展示されています。昨年の震災の際には、10mを超える津波に襲われたそうですが、幸い被害は軽微ですんだそうです。

かつて、オランダを出発し、はるか遠い極東をめざす中、按針たちが常におびえていたのがポルトガルやスペインなどの旧教国の船に拿捕されることでした。そのスペインとの交易に使うための船の建造に携わることになったとき、按針は複雑な思いを抱いていたに違いありません。

しかし、自分の力により、その当時日本最大の西洋式軍艦を作り上げたときの喜びはそれ以上に大きかったと思います。いつかその船に乗り、故郷をめざすことができたら、どんなにうれしいことだろうと、思ったに違いありません。按針、このときちょうど50才。この船の完成後、わずか7年で亡くなっています。

按針が亡くなったその年、支倉常長も果たせなかった任務に失意の念を抱きながら帰国しています。片やイギリスに思いをはせながらも亡くなり、もう一方はイギリスの宿敵スペインに裏切られての帰国。そして、支倉常長も二年後に病死しています。

二人の人生が交わるということは生涯ありませんでしたが、サン・ファン・バウティスタ号という同じ船にかかわりながら、イギリスとスペインというそれぞれの国の夢を見ていた二人。まさに「同床異夢」の言葉どおりであり、歴史の面白さをそこに感じます。

このお話は今日で終わりです。ご清読ありがとうございました。按針の生涯にはまだまだたくさんの面白いエピソードがありそうなので、また機会あらば書いてみたいと思います。

さて、二週間にわたって書いてきた「イギリス特集」も、もうすぐ終わるオリンピックとともに終了したいと思います。残る試合での日本人の活躍を期待したいところ。メダルの獲得数がアテネを上回るのも、あとすこし。頑張って応援しましょう!