昨夜は、結局3時間ほど寝ただけでした。それにしても、バレーボールとサッカーを同じ時間にやるなんて、酷ですよね~。しかたないので、テレビを2台つけて、交互に結果を見比べる始末……。それで勝てればよかったのですが、残念ながらサッカーは銀、バレーボールは敗者復活戦でした。トホホ……ですが、二組の乙女たちもよく頑張りました。
考えてみれば、女子サッカーがメダルを取るということ自体が快挙です。昨年のワールドカップの優勝で感覚がマヒしてしまっていますが、過去に例がないことなのだと考えれば、それがすごいことなのだと改めてわかります。女子バレーはまだメダルが確定しているわけではありませんが、それでも最低限4位が保障されているわけで、これだって十分にすごいことです。
合わせてレスリングの吉田選手の、これまでの日本人選手では考えられないような三連覇も、驚異そのものです。日本人のスポーツ能力が昔と比べ、はるかにスポーツ先進諸国のそれに近付いている証拠です。まだ、これで終わりではありませんが、次のリオデジャネイロは更なる進化をとげるのではないでしょうか。期待しましょう。
マゼラン海峡
……と、多少負け惜しみのようなコメントをしてみましたが、でも本音です。まだまだできるぞニッポン!
さて、昨日の続きです。
1598年6月24日、極東を目指すアダムスら一行を乗せた5隻の船団は、ロッテルダム港を発ちました。その構成をおさらいしておきますと、以下のとおりです。
ホープ号(旗艦)
リーフデ号(アダムスらを乗せて日本に漂着)
ヘローフ号(ロッテルダムに唯一帰還)
トラウ号
フライデ・ボートスハップ号
船団は、ロッテルダムを出航後、ドーバー海峡を抜けたあと西に向かい、いったん大西洋に出たあと、そこから南下したと考えられます。イベリア半島西端には、宿敵ポルトガル王国があり、その近海ではポルトガル海軍の船に拿捕される可能性があるからです。
一度、大西洋に出てから、アフリカ大陸を左岸に遠く望みながら航行し、そこから南西方向に一気に大西洋を横断したアダムス一行。そこからは、はるか遠くにかすむ南アメリカ大陸東端のブランコ岬が見えてきたはずです。
そのブランコ岬を回り、南アメリカ大陸を右岸に沿って徐々に南下すれば、その最南端のマゼラン海峡に到達できます。おそらくは、ここに至るまでの寄港地には、ポルトガル船が待ち受けていたと思われ、それを避けるためにアダムス達は、名もない入り江を探して停泊しながら、航海を続けたはずです。夜間、そこにこっそり停泊し、上陸して食糧や水を探しては積み込んで再度出発する、ということを繰り返したことでしょう。
しかし、食糧補給のために寄港した南米の各地では赤痢や壊血病が蔓延しており、船員の多くが罹病して、次々に死んでいきます。また、たびたびインディオの襲撃に晒され、これを撃退しようとした戦った船員も命を落としていきます。このとき、トラウ号に乗っていたウィリアムの弟のトマスも、インディオとの激戦の中で、殺害されてしまいます。
それでも、なんとか、マゼラン海峡に達した彼らですが、そこには、新たな脅威が待っていました。
マゼラン海峡は、南アメリカ大陸南端の先端の地域を指す総称ですが、「海峡」とは名ばかりで、大小の島々が群がり、その間を縫うようにしながら、太平洋へ抜けなければなりません。島と島の間の狭い海峡に、速い潮流と幾多の暗礁が広がるとともに、年間を通じて極寒のエリアであり、流氷の衝突もあります。これまでも、ここを通過する多くの船が座礁や沈没を繰り返し、数多くの命を奪ってきました。
最初にここを通ったのは、マゼランですが、そのマゼランの船団がわずか7日で通過できたのは当時としては神業に近いといわれます。ここを通過するルートが、太平洋の西回り航路として確立されるようになるまでには、これからさらに長い時間がかかりました。測量を繰り返し、浅瀬や流氷をさけ、安全に航行できるルートを見つける必要があったからです。
航行機器の発達した現在でも、マゼラン海峡は熟練した経験者でも苦労するといわれる難所ですが、アダムス達は、この難所もなんとかクリアーし、ようやく太平洋に出ることに成功します。
しかし、ここまでで、5隻あった船団のうちの一隻のヘローフ号が脱落しています。マゼラン海峡を通過するときなのか、それ以前に南アメリカ大陸沿岸を航行していたときなのかは不明ですが、おそらくは、マゼラン海峡まで来るまでに船内で疫病などが流行ったか、さもなくばマゼラン海峡を通過中に、その後の航行に支障が出るような大きな故障があったのでしょう。
いずれにせよ、そのあと太平洋を横断することを断念し、ヘローフ号はただ一隻、その後の航海の続行を断念してロッテルダムに引き返します。このため、この船団で唯一生き残った船となりました。
太平洋横断
ところで、マゼラン海峡に来るまでには、ウィリアム・アダムスはホープ号から、リーフデ号に配置替えになっていました。その理由はわかりませんが、航海技術に長けていたアダムスを各艦の航海士として派遣し、難所として知られるマゼラン海峡とその後に待っている太平洋横断に備え、船員の技量を引き上げておきたかったためかもしれません。
しかし、広い太平洋を4隻の船団でまとまって通過するのは、マゼラン海峡の通過以上に困難でした。無線などあるわけのないこの時代にあって、いったん嵐に巻き込まれれば、お互いの連絡のとりようなどあるわけがありません。
しかも、記録によればアダムス達が乗船していたリーフデ号は、わずか300トンの排水量しかありません。300トンといえば、現在の船でも長さ50m程度の中型船にすぎず、しかもこの時代は、波に逆らって走る動力などありません。アダムス達が乗船していた、ガレオン船は、速度も出て積載量も多かったため、西欧各国でこぞって建造されましたが、吃水が浅いため、速度が出る反面、転覆もしやすい構造でした。
ガレオン船がどんな形の船かは、映画のパイレーツ・オブ・カリビアンをご覧になったことがある方はすぐにお分かりでしょう。このころの商船も海軍の船も、海賊の船ですら、このガレオン船であり、大航海時代における船舶のスタンダードともいえる船型です。
さて、マゼラン海峡を抜け、満を持して太平洋横断を始めた4隻ですが、案の定、悪天候により、お互いを見失い、ちりぢりバラバラになります。しかし、運よくリーフデ号とホープ号だけはお互いを発見することができ、その後の航行を共にします。そして、2隻で太平洋を横断し始めましたが、再度の大しけに遭遇し、ホープ号はついに沈没。司令官のヤックス・マフとともに、海の藻屑と消えました。
漂着
旗艦であり、僚船を失ったリーフデ号ですが、それでもなんとか、太平洋の荒波を乗り切り、ついに極東にまでたどり着きます。太平洋で離れ離れになった、トラウ号と、フライデ・ボートスハップ号もそれぞれ、東インド諸島(インドネシア付近)付近にたどり着きますが、そこでトラウ号はポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕されてしまします。
こうして、極東に到達するという目的を果たしたのは、結局のところアダムスが乗船したリーフデ号ただ1隻となってしまいました。しかも、出航時に110人だった乗組員は、そのころには24人に減っていました。
太平洋を乗り切り、陸地を求め、ひたすら西へ西へと航海を続けていたリーフデ号は、ある日、ついに島を発見します。しかし、島だと思ったそれが実は陸であると気付いたころには、船は暴風雨に巻き込まれてしまい、陸地に上陸するチャンスを見つけるうちに、舵を壊され、大破して浸水した船は、大波に揺られ、漂い始めます。
おそらくは暴風雨に巻き込まれたのは、宮崎県北部の豊後水道沖あたりだったと考えられます。ここで破船し、コントロールを失った船は、南からの強風にあおられて北上。やがて現在の臼杵市の東側まで流されたあと、臼杵湾付近のどこかの浜に打ち上げられます。その場所がどこなのかについては、正確な史料が残っていません。臼杵湾内の島ではなかったかという説もあります。
遠路はるばる、地球の裏側まで旅してきた彼らが辿り着いた場所、そこは戦国の世もまだ明けきらない日本の西端の地でした。ロッテルダム出航後、1年と8ヶ月あまりが経った、1600年(慶長5年)3月16日のことでした。
拘束
嵐のあと、浜に出てみると、見たこともない形の外国船が、半分海に浸かった状態で浮かんでいるのを発見したとき、臼杵の村人の驚きは、いかほどだったことでしょう。すぐに番屋からお城に知らせが行き、お城からはあわてて役人が駆け付けたことかと思います。
この当時、その地域一体を司っていたのは、臼杵城主、太田一吉という人物でした。現在のJR臼杵駅のすぐ北側に、臼杵公園というのがありますが、ここが、この太田氏が居城にしていた臼杵城の城跡になります。
戦国時代の永禄5年(1562年)、府内の大友館より拠点を移した大友宗麟によって築かれた城で、現在では住宅地に囲まれていますが、その当時は、臼杵湾に浮かぶ島に築かれた海城でした。
大友氏が改易になった後、豊臣家の家臣だった太田氏が居城としていましたが、この「事件」の直後に徳川の世となったことから、太田氏は国替えとなり、代わりに岐阜の郡上八幡にあった稲葉貞通が5万石で入封しています。そして臼杵城は以後、明治維新に至るまで、稲葉氏15代の居城となりました。
さて、番屋からの注進により、外国船が漂着したとの知らせを受けた太田一吉は、漂着した外国人一行をとりあえず、拘束しようとしたと思われます。
航海中に本船を大破し、渡船も失っていたアダムス一行は、自力では上陸できなかったため、太田一吉の出した小舟に乗り、ようやく日本の土を踏みます。しかし、丁重な扱いを受けると思っていたところが、ほとんど罪人扱いであることに驚きます。
とはいえ、生存者の中には重傷者が多く、けがをした乗組員には手厚い看護が施されました。しかし、手あてもむなしく、翌日に3人が亡くなっています。漂着したときの生存者は24名でしたが、結局生き残ったのは21名になりました。
生き残りの中には、のちにアダムスと同じく、江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインや船長の船長のヤコブ・クワッケルナックも含まれていました。
クワッケルナックは、後年、家康からオランダ総督に宛てた親書を携え、リーフデ号の他の乗員と共にオランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へと航海することになる人物です。船が難破したときに大けがをし、上陸したときには、かなりの重体だったと伝えられています。
アダムス達が日本に漂着したこの1600年という年には、その7ヶ月後に関ヶ原の戦いが起こっています。豊臣政権はほぼ死に体の状態でしたが、それでも、地方の武将は中央の指令に忠実に従っており、秀吉が発した、「バテレン追放令」もまだ有効でした。
このため、漂着した外国人を打ち払う、というような行為こそありませんでしたが、太田一吉はとりあえず彼らを「罪人並」として扱い、その後の処分をどうするかについて、長崎奉行の寺沢広高に問い合わせています。
知らせを受け、やがて現地に到着した寺沢は、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収し、さらなる指示を大坂城の豊臣秀頼に仰ぎます。
ところが、その指示を待っている間、イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するようにと寺沢らの長崎奉行に要求してきました。
バテレン追放令下の豊臣政権下にあって、なぜイエズス会の宣教師がのさばっていたのか?
実は秀吉は、バテレン追放令を出してはいましたが、既に国内で広く普及していたキリスト教に対しては寛容でした。強制的にキリスト教への改宗をさせる事は禁止していましたが、建前としては信仰の自由を保障しており、個人が自分の意思でキリスト教を信仰する事は規制していなかったのです。一定の領地を持つ大名がキリスト教信者になるのも秀吉の許可があえばOKだったそうで、そのため、それまでに日本に入りこんで布教をしていたイエズス会の活動も大目にみていました。
排他的だったのはむしろイエズス会の面々で、自分たちだけがキリスト教を正しく布教できると信じ、ポルトガルやスペイン人以外の外国人を極端に排除しようとしました。
この点、自分たちだけの貿易ルートを確保しようと、他国の貿易船の航海に規制を加えていたポルトガルの王様と視点は全く同じです。アダムス達一行にとって最悪だったのは、せっかく彼らの目をかいくぐってようやく日本にたどり着いたのに、そこを牛耳っていたのは同じポルトガル人に肩入れする宣教師たちだったということ。
彼らが、アダムス達たちオランダ人やイギリス人を死刑にせよと言ったのはそういう理由からでした。
しかし、結局、イエズス会の宣教師たちの要求は通らず、そのころ、豊臣政権下の五大老の首座であった、徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させます(ヤン・ヨーステンは「名」でファン・ローデンスタインは「姓」。メルキオールも同)。
座礁して動かせなくなっていたリーフデ号は、応急処置をし、なんとか浮かぶ状態にしたあとで、和船に曳かせ大阪まで回航させることになりました。
謁見
そして、5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを謁見します。その場所はおそらく大阪城西の丸だったと思われます。家康は秀吉の遺命により、伏見城に居住するよういわれていましたが、五大老のひとりを首謀者とする家康暗殺計画があったとして伏見城を出て、大阪城に入っていたためです。
そして、西の丸を本拠としながら、五大老制を骨抜きにし、ここから多数派工作のために、矢継ぎ早に大名への加増や転封を実施しています。来るべき関ヶ原とその後に備えるためです。ウィリアム・アダムス一行が家康に出会ったのは、ちょうどそういう時期でした。
アダムス一行との謁見を済ます前、家康のもとには、イエズス会士から、彼らは海賊であるから早く処刑してほしいという注進が入っていました。しかし、幾度かにわたって引見を繰り返しながら、にこれまでの路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争などについて詳しく聞き、ヨーロッパの現状を知るようになります。そして、そうした説明を臆せずするアダムスとファン・ローデンスタインを高く評価するようになっていったといいます。
その間も、宣教師たちは、家康に対して執拗に処刑を要求していましたが、やがて彼らのほうがウソをついていると見抜いた家康は、これを無視。それまで罪人同様に座敷牢に入れられていた彼らを釈放し、自らの本拠地である江戸に招くことになるのです。
続く……