プレートのこと

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先週勃発した熊本地震には驚かされました。

九州は地震とは無縁と思っていただけに、改めて日本に住んでいる以上はこの災害からは無縁ではいられない、と痛感した人も多いでしょう。

さらに余震は続いており、既に刻まれた大きなつめ跡に加えて、さらなる被害の拡大が心配されています。

この地震が、九州を北東から南西に向かって走る断層帯によるものであることは、みなさんも繰り返しの報道でよくご存知のところです。

また、この「断層」というものについていまさら説明を加える必要はないでしょう。地下の地層もしくは岩盤に力が加わって割れ、割れた面に沿ってずれ動いて食い違いが生じた状態を指します。

岩盤に圧縮や引張などの力が加わると、その歪みは時間の経過とともに次第に大きくなっていき、岩盤は初めわずかに変形するだけですが、やがて周囲に小さな割れ目が数多く形成されていきます。そしてさらに時間の経過とともにエネルギーが蓄積され続け、やがてある時にエネルギーが放出されるとともに、岩盤は大きく割れてしまいます。

このとき、岩盤が割れるときに、地表面に放出されるエネルギー波の衝撃が伝わりますが、これがすなわち地震です。

一方、いったんエネルギーが放出された断層においても、長い事件を経て再び同様のエネルギーが蓄えられます。しかし、エネルギーを貯めつつも、岩盤は大きく割れずに残り、大きな地震が発生しない場合があります。この場合、さらに力を加えていくと、大きく割れる予定の岩盤の周囲の小さな割れ目は増え続けていきます。

これを繰り返していくと、さらに小さな割れ目と割れ目の間に、互いに共役関係にある多数の割れ目、断層が形成されますが、これら無数の断層を総称して「断層帯」といいます。

これら一連の割れ目こそが地震エネルギーを貯める巣窟であり、そのひとつの断層帯がいったん破裂すると、他の断層帯も次々と誘発されて多数の地震が連続して起こる、ということが起きる場合があります。

今回の熊本の地震も、九州にいくつかあるこうした断層帯がそれぞれ影響しあって一機にエネルギーを放出し始めたと考えることができ、九州以外にも日本には数多くのこうした断層帯が数多く存在します。

断層帯、といちいち「帯」をつけるのがめんどうくさいので、これを単に「断層」と呼ぶことも多いようです。

この断層のうち、極めて近き時代まで地殻運動を繰り返した断層であって、今後もなお活動するべき可能性のある断層のことを特に「活断層」といいます。

この「極めて近き時代」とは、一般に新生代第四紀を指します。地上では恐竜が絶滅し、海中ではアンモノイドと海生爬虫類が絶滅した後の時代であり、我々人類の祖先である哺乳類と鳥類が繁栄し始めたころのことです。

だいたい「数十万年前」とされますが、地質学者が勝手に決めた目安であり、あくまで便宜的なものであることから、その曖昧さが指摘されています。最近、原発の下に活断層がある、と論議の対象になることが多くなってきていますが、それが本当に活断層といえるのか、といった議論でいつも揉めるのはそのためです。

それにしても、この地上の岩盤に断層を生じさせるほどの外力とはいったい何なのでしょうか。

一般によく言われるのは、火山活動によるマグマの移動、ということで、これにより岩盤に圧縮や引っ張り、あるいはずれ(せん断)などの応力が発生することで、断層がずれるとされます。

今回地震が起こった熊本や大分に近いところには阿蘇山があり、その下にあるマグマの動きが引き金になったことは十分考えられます。今のところまだその関連性は明らかになっていませんがが、おそらくは深く関係しているものと推定されます。

ではなぜ、こうしたマグマの動きが活発になるか、といえば、これは地球の表面を覆っている「地殻」の下にあるマントルが原因といわれています。

マントル(mantle)とは英語で、「覆い」の意味です。地球のような惑星だけでなく、月などの衛星などにもある内部構造で、地球の中心にあるとされる核(コア)の外側にある層です。

地殻を形成する岩盤よりもずっと比重の重い物質でできており、これが地殻の下で対流にすることによって、その上を覆っているプレートの生成・移動・衝突・すれ違いが生じる、といわれています。

地球型惑星などでは金属の核に対しマントルは岩石からなり、さらに外側には、岩石からなるがわずかに組成や物性が違う膜があり、これが地殻です。マントルが冷え固まった薄い膜のようなものと考えられており、これがすなわち我々が家を建てたりして住んでいる大地そのものであるわけです。

全地球がこの薄い膜で覆われていると考えられており、十数枚にわかれていて、それぞれの岩盤の厚さはだいたい100kmほどあります。100kmというとすごい数字だと思われるかもしれませんが、地球の半径6371kmに比較すればわずか1.6%にすぎません。

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プレートというのは、この分かれている地殻のひとつひとつの断片のことです。正確にはテクトニック・プレート(tectonic plate)といいます。プレートには、大陸プレートと海洋プレートがあり、海洋プレートのほうが、大陸プレートよりもより強固で密度が高いため、2つがぶつかると海洋プレートは大陸プレートの下に沈んでいくことになります。

また、地下のマグマの上昇によりプレートに亀裂ができ、連続してマグマが上昇し続けると、その後プレートが分断されて両側に分かれる、といった現象もおきます。

こうした地殻付近で起こるダイナミックな地質的な変動理論を総称して「プレートテクトニクス(plate tectonics)」といいます。聞いたこともある人も多いでしょう。プレート理論ともいい、1960年代後半以降に発展した地球科学の学説です。

地球の表面が、何枚かの固い岩盤(「プレート」と呼ぶ)で構成されており、このプレートが、海溝に沈み込むことが重みが移動する主な力になり、対流するマントルに乗って互いに動いていると説明される理論です。

1912年に、ドイツ人の科学者、アルフレッド・ウェゲナーが提唱した「大陸移動説」が、そのアイデアの元になっています。ちなみに、この人の名のこれは英語読みで、ドイツ語読みでは、「アルフレート・ヴェーゲナー」のほうが近い音になるようです。

彼は、かつて地球上にはパンゲア大陸と呼ばれる一つの超大陸のみが存在し、これが中生代末より分離・移動し、現在のような大陸の分布になったと、説明しました。

元は一つの大陸であったとするこの仮説における有力な証拠のひとつとして、大西洋をはさんだ北アメリカ大陸・南アメリカ大陸とヨーロッパ・アフリカ大陸の海岸線が相似している、ということでした。また、両岸で発掘された古生物の化石も一致することなどもそれを裏付けている、としました。

しかし、当時の人には、大陸が動くこと自体が考えられないことであり、信じがたいことでした。さらにウェーゲナーの大陸移動説では、大陸が移動する原動力を地球の自転による遠心力と潮汐力に求めていました。その結果、赤道方向と西方へ動くものとしており、その説明にはいまひとつ説得力ありませんでした。

このため、彼が生存している間は注目される説ではありませんでしたが、ウェーゲナーの死後約30年後の1950年代~1960年代に、大陸移動の原動力こそがマントル対流であるという仮説が唱えられました。

さらに岩石に残された過去の地磁気の調査によって「大陸が移動した」と考えなければ説明できない事実が判明したことから、大陸移動説は息を吹き返しました。

それまでの通説は、古生代までアフリカ大陸と南アメリカ大陸との間には狭い陸地が存在するとした「陸橋説」でした。

陸橋とは文字通り、細長い橋のような大陸です。ベーリング海峡のように、今は海になっているものの、かつて陸地として自由に動植物が行き来できた場所を「沈降陸橋」といいます。これを南アメリカとアフリカを大西洋南部でつなぐ「南大西洋陸橋」、南アフリカ・マダガスカルとインドをつなぐ「レムリア陸橋」といったふうに呼びます。

こうした陸橋があることによって、広い海で隔てられた別々の大陸に、同じ種類の、あるいはごく近縁な動植物が隔離分布していることが説明できる、とされたものであり、こうした陸橋が、大陸と大陸の間にもかつてあったものが、今は深い海洋底に沈んでいる、とする説でした。

この説の前提として、地球が現在も冷却していっているため地殻が収縮していくとする「地球収縮説」がありました。収縮活動によって高くなったところが山になり、逆に沈降したところが海になったというもので、ウェーゲナーの時代ではまだ有力な説でした。陸橋説では大陸が沈む理由をこの収縮説を使って説明していました。

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しかし、この陸橋説は、その後発表されたアイソスタシー理論によって否定されました。アイソスタシー(isostasy)とは、重く流動性のあるマントルの上に、比較的軽い地殻が浮かんでいて、どんぶらこどんぶらこと流れている、というアイデアです。1855年にイギリス人の天文学者、ジョージ・ビドル・エアリーが提唱しました。

アイソ(iso)とは、「等しい」という意味で、地殻が浮くためには、地殻の荷重と地殻に働く浮力がつりあっているとする説であり、「地殻均衡説」ともいいます。

しかし、アイソスタシー理論だけでは、なぜマントルの上を地殻が移動するのか、その移動の原動力はなんなのかについては説明できません。

この問題を解決したのが、イギリス人の地質学者、アーサー・ホームズです。彼は1928年に地球内部には「熱対流」があり、マントルが、地球の表面各地で、一定の深さでぐるぐると対流している、とする「対流説」を唱えてこれを説明しました。

その後、古地磁気学分野での研究が進展し、海洋底の磁気異常の様相が明らかになったこともあり、1960年代にはさらにはアメリカ人の地球物理学者、ロバート・ディーツが「海洋底拡大説」を唱えました。

これは、地球内部のマントルが太平洋や大西洋の海の底の「中央海嶺」でマグマとなって上昇し、新しく海底の岩盤を作るため、海底が中央海嶺の両側へ拡大するという仮説です。拡大する一方、これとは別の端にある海溝ではその岩盤が沈みこみ、結果として大規模な物質循環が起こって大洋底が徐々に更新されているとするため、海洋更新説ともいいます。

こうして「地殻均衡説」「対流説」「海洋底拡大説」の3つの説、これを全てをまとめて発表されたのが、プレートテクトニクス理論です。スコットランド系カナダ人の地球物理学者で地質学者のツゾー・ウィルソンによって、1968年に提唱されました。

この功績によってウィルソンは、カナダ勲章のオフィサー(Officer)を1969年に受賞し、さらにカナダ勲章最高位であるコンパニオン(Companion)を1974年に受賞しました。またカナダとロンドンの王立協会のフェローとなったほか、トロント大学エリンダール校の学長に就任しています。

またテレビ番組「The Planet of Man」の主宰者としてカナダ国民に親しまれましたが、1993年に84歳で亡くなっています。

こうしてウェーゲナーの提唱した大陸移動説を数多くの学者がそれぞれ発展させる形でプレートテクトニクス理論が提唱され、地殻変動を総合的に説明できる説が完成しました。

しかしやはり一番の功績者は最初に大陸が移動する、という大胆な考え方を思いついたウェーゲナー自身であり、彼の提唱した大陸移動説は「古くて最も新しい地質学」として再評価され、現在では高く評価されるようになっています。

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このウェーゲナーという人の人生をもう少し詳しく見てみましょう。正しい名前は、Alfred Lothar Wegenerであり、1880年11月1日 にドイツで生まれ、1930年11月2日、ちょうど誕生日の次の日に50歳で亡くなっています。

もともとは気象学者であり、地質学とは無縁の人です。が、現在では気象学者や地質学者も含めて地球物理学者とすることも多いわけであり、気象学と地質学は兄弟のようなものです。1908年、28歳からマールブルク大学で教鞭を執るようになり、1924年、44歳でオーストリアのグラーツ大学の教授に就任しました。

義父(妻の父親)は「ケッペンの気候区分」で有名なロシア出身のドイツ人気象学者ウラジミール・ペーター・ケッペンです。ドイツ学派の気候学の大成者として著名であり、彼の考案したケッペンの気候区分は、改良を加えられながら現在も広く使われています。

ケッペンは、おそらくは同じ研究対象である気象つながりでウェーゲナーと知り合い、才能のある男と見込んで、実の娘を嫁がせたのでしょう。

一方のウェーゲナーは、リヒャルト・ウェーゲナーと妻アンナの間に生まれた5人の子の末っ子でした。しかし、ケッペンのように、けっして学究者の家柄に生まれたわけではありません。彼の父、リチャード・ウェゲナーは、で神学者であり牧師でした。

この信仰心の篤い家庭で育てられたウェーゲナーは幼いころから神童と言われていたようです。ベルリンの高校を首席で卒業し、その後大学では物理学、気象学や天文学を学んだあと、ベルリン市内のウラニア天文台でアシスタントの職に就きました。その後、フリードリヒ大学(今日のフンボルト大学)に入学して、1905年、25歳で天文学の博士号を取得。

その年に、同じベルリンにあるリンデン天文台に勤務するようになりました。ここでは、気象学や極地研究に携わる一方、気象観測のための気球に興味を持ち、これを用いた気象調査を実施するようになります。そしてやがては高層気象観測技術における先駆者といわれるようになりました。

一方では、冒険家としての一面もあり、同じ気象台に努めていた兄の気象科学者、クルト・ウェーゲナーとともに気球に乗って滞空コンテストに参加し、当時の最長滞空の世界最高記録である52.5時間を達成しています。

また、ウェーゲナーは1906年にこの気球を使ってグリーンランドに遠征しており、ここで2年間かけてデンマークの探検隊と共に滞在し、気象観測を行うとともに、同島の北東岸の地図作りの手伝いをしたりしています。

1910年、30歳になったとき、この当時はまだ珍しかった世界地図を見て、南大西洋を挟んで、南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線がよく似ていることに気づきます。そしてこれが大陸移動説のアイデアの元となりました。

1912年にはフランクフルトで開かれたドイツ地質学会で初めて大陸移動説を発表。1915年にその主著「大陸と海洋の起源」の中で、地質学・古生物学・古気候学などの資料を元にして、中生代には大西洋は存在せず、現在は大西洋をはさむ四大陸が分離して移動を開始、大西洋ができたとする「大陸移動説」を主張しました。

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ところが、ウェーゲナーの専門は気象学であり、地質学は専門外であったため、なかなか彼の主張は認められませんでした。また、当時の地質学は今日では古典的とされる化石の研究や同一地点の地層の重なりを調べる「層序学」を主流の手法としており、気象学者である彼の言い分に耳を傾ける人は多くはありませんでした。

そんな彼の新説に対して同意し、援助を惜しまなかったのは義父のケッペンでした。1919年、39歳のとき、ウェーゲナーは、ケッペンの後任としてハンブルクの海洋観測所気象研究部門長となり、「大陸と海洋の起源」第2版を出しました。ケッペンも古気候学者として協力し、1922年には第3版が出版されました。

1929年、49歳のときには「大陸と海洋の起源」の第4版を出版。この中で、南北アメリカ大陸だけでなく、こんにち存在するすべての大陸は1つの巨大大陸「パンゲア」であったこと、しかし約2億年前に分裂して別々に漂流し、現在の位置および形状に至ったとする説を発表します。

またこの版においては、各大陸の岩石の連続性や氷河の痕跡、石炭層や古生物の分布などから漂流前の北アメリカとユーラシア大陸が1つのローラシア大陸であったこと、南アメリカとアフリカがゴンドワナ大陸であったことを説きました。

しかし当時の地質学者たちは化石に基づく研究から彼が主張する大陸移動の根拠を上述の「陸橋説」で説明し、「大陸は沈む事はあっても動くことはない」として批判しました。

一方、大陸が移動する原動力は地球の自転による遠心力と潮汐力だと主張する彼の説明には矛盾も多く、これをうまく説明できなかったウェーゲナーの説は、またも完全に否定されてしまいます。実は第4版で彼はマントル対流にまで言及していたものの、これが大陸移動の原動力であると彼は気づいておらず、この点は残念でした。

ウェーゲナーはそれまでの実績から、気象学分野、とくに大気熱力学においては一人者といわれていました。しかし、それでだけでは満足せず、大陸移動説をもって地質学の分野でも認められようと一層の努力を惜しみませんでした。

このため、大陸移動の根拠を探すために、1906年に始めて訪れたグリーンランドで何度も探査を行い、第一次世界大戦をはさんで、ここに4回も遠征しています。

ドイツ政府も彼の実績には敬意を持っていため、援助を惜しんでおらず、このため1929年に行われた3度目の遠征の際には、この当時としては革新的なプロペラ駆動型のスノーモービルを使用しています。ふんだんな調査費用があったことの表れでしょう。

1930年に行われた4度目の、そして最後の遠征で彼は、同僚の気象学者フリッツ・ロエベと13人のイヌイット(グリーンランド人)を連れて9月に現地に乗りこみました。しかし、この年のグリーンランドの気象は荒れに荒れ、旅の間、温度はマイナス60℃に達しました。

この厳しい寒さでロエベのつま先が凍傷にかかったため、ウェーゲナーは12人のイヌイットとともに彼をキャンプに戻し、彼自身は一人のイヌイットともに現場に残り、調査を続けようとしました。

しかし、やがては食糧不足から橇を引いていた犬を殺して食べざるを得ないような状況にまで追い込まれました。最後にはキャンプに戻ろうとしたようですが、その後同僚のイヌイットとはぐれ、消息と経ち、戻ってくることはありませんでした。もう一人のイヌイットだけはキャンプ無事たどり着きました。

半年後の1931年5月12日に、ウェゲナーの遺体は発見されました。最終目的地とキャンプのちょうど中間地点でした。彼は晩年に至るまでヘビースモーカーであり、また心臓発作の持病を持っていたといわれており、おそらくは過労も加わったためにキャンプに帰還できるだけの体力が残っていなかったと推定されます。

冒頭でも述べたとおり、亡くなったのはちょうど50歳の誕生日の翌日と推定されています。
彼の墓は、遺体が発見されたグリーンランドのその場所にあります。大きな十字架が立てられ、その墓標には「偉大なる気象学者であった」と記されています。しかし、大陸移動説については何も触れられていません。

彼はこの最後の遠征に臨む直前、「大陸と海洋の起源」の最終版である第5版を用意していましたが、その死により、この版は未出版のままとなっています。

その後、上述のとおり、彼の死後この大陸移動説は世界中の人々に信じられるようになりました。ただし、彼の説は、海底面を構成する地層の上を大陸自らが滑り動くとするものであり、海底面もがその表面に露出する大陸を伴って動くとするプレートテクトニクス理論とはメカニズムが異なります。

しかし、「大陸が動く」というコペルニクス的な発想の変換がその後の地質学にもたらした
影響は大きく、とくに地震国である日本では、地震学の進展の上においても、この理論の導入は大きな恩恵をもたらしました。

その日本においては、このウェーゲナーの大陸移動説から発展したプレートテクトニクス理論は、戦前には既に紹介されていました。ただし、この時代にはまだやはり「異端の説」という扱いでした。

この時期にこの説を信じる地質学者はほとんどおらず、当然、科学雑誌などに掲載されることは多くなく、ほとんどフィクション上の話と思われていました。しかし、戦後すぐのころから広く認知されるようになり、それを知った医者であり漫画家の手塚治虫は「ジャングル大帝」(1950~ 1954年)の中で大陸移動説について描いています。

同作品のクライマックスは、大陸移動説の証拠となる石を発見するための登山であり、ヒゲオヤジがレオの護衛でその山、「ムーン山」に登る、というシーンでした。寒さのため凍死しそうになるヒゲオヤジのため、レオは進んで自らの死を選び、レオの毛皮で、なんとかヒゲオヤジは下山することに成功する、といった話だったようです。

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その後、日本では1960年代になって、主に地球物理学系の学者によって上記のマントル対流とともに紹介され、70年代には小学生向けの科学読み物も取り上げられるなど、広く知られるようになりました。また、その中ではとくに、1973年に小松左京が発表した小説「日本沈没」と同年公開のその映画版は、この説を普及させる上で大きな役割を果たしました。

ただし、このころにはまだ、地球物理学系の学者と地質学系の学者の間でこの説の受容に差があり、1980年代までの高等学校の地学の教科書では出版社によって扱いに違いがあったそうです。確か私が読んだ高校の教科書にはまったくそういった記述が抜け落ちていたような記憶があり、大学に入ってからそういう理論があることを知りました。

しかし、私が通っていた大学は理系であり、また海洋学を教えていたため、そういう先進の知識が得られたのであって、他の大学、ましてや文系の大学ではまだそうしたことは教えていなかったでしょう。

日本列島の形成史という地球規模の理論、および断層帯における地震の発生といったミクロに属する領域までもが大陸移動とプレート説に基づいている、とされる説明が日本で一般的に定着したのは、「付加体説」が受容された1990年前後のこと、といわれています。

付加体というのは、英語ではaccretionary wedgeといいます。海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の堆積物がはぎ取られ、「陸側に付加したもの」のことで、現在のところ「日本列島の多くの部分はこの付加体からなる」という見方がされています。つまり、プレートの端っこに乗った「おまけ」です。

1976年に九州大学の勘米良亀齢(かんめらかめとし)という地質学者が、南九州の四万十層を調査して、その構造を付加体と名付けたもので、この概念によって日本列島を形成する海洋起源の堆積岩や変成岩について、系統的な説明ができるようになるとともに、そこにある断層帯において自身が発生する、といったことがわかるようになりました。

欧米でもほとんど同時期にオックスフォード大学の地質学者、スチュワート・マッケローらがスコットランド地方の複雑な地質を調査して1977年に付加体構造に関する論文を発表したため、現在ではこの理論は世界的にも認知されるようになってきています。

紙面の関係でもう詳しいことは書きませんが、この考え方の基礎は、日本列島の周辺では、約3億年前から断続的に海洋プレートが沈み込んでおり、各年代において特徴的な地質構造を有し、日本列島の骨格を形成している、というものです。

そして、海溝から遠い大陸側(日本海側)のほうがより古い地層となっており、手前にある海洋プレートにおける沈み込みは、延々と太古から現在までも継続している、という考え方です。

現在においても東海地震や南海地震の震源とされる南海トラフにおいて、日々、フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでおり、またこの活動により、四国沖では新たな付加体が形成され続けています。

熊本地震だけではなく、現在も着々と日本の沖では新たな地震エネルギーが蓄えられつつあるわけです。

新たな震災に対する備えをくれぐれもお忘れなく。

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ナマズおいし

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ようやく富士が初冠雪しました。

9月のおわりごろから比較的お天気の良い日が続き、毎日のように富士が見えていたのですが、それにしてもいつまでもこの真っ黒な姿のままでいるのだろう、と気を揉んでいたので、なにやらホットしたようなかんじも……

また、何やらずいぶんと待たされていたような気もするわけで、なので、去年より5日早いとのことなのですが、ことさら早い初冠雪とも思いません。平年より11日遅いと聞くと、あっ、なるほどなっ、というかんじです。

これからの富士は、さらに厚化粧になっていくはずですが、同時に季節は進み、秋も深まっていきます。カメラマンとしては、一年で一番創作意欲が沸く季節でもあるわけで、なにかと外出が多くなります。活動的になればなるほど腹も減る、ということで、食欲の秋とはよく言ったものです。

狩野川の清流を眺めながら、ウマいうな丼でも喰いたいな、と思ったりもするのですが、昨今の漁量不足から、高騰が続いており、なかなか気軽に食べる、というわけにもいきません。聞こえてくる巷の鰻屋の値段は2000円後半ならかなり安いほうで、国産ならだいたいが3000円代、高いところなら5000円以上するようです。

うまい!と評判の、三島広小路の桜屋さんのウナ丼が、3000~4000円くらいだそうで、おいしいといわれても、うーん、どうしようかな~と考えこんでしまう値段であり、よほど何かおめでたいことでもなければ足が向きません。

そこへきて、最近、うれしい話題が入ってきました。クロマグロの養殖に成功した近畿大学が、今度は同様に絶滅が危惧されるウナギの代用品となるナマズを開発した、というこのおはなしは、テレビのニュースなどで見知った方も多いでしょう。

東京や大阪などでかば焼きをテスト販売したところ、相次ぎ完売したそうで、食べた人は口々に「ウナギと区別が付かない」と言っているそうです。ナマズを改良したのは、近大農学部水産学科の若手の先生で、ウナギの激減が指摘される中、「ウナギのかば焼きは日本人が大好きな味。何とかできないか」と考えたそうです。

5年がかかりで、ウナギの養殖業者が使っている施設を流用して、ナマズが養殖できるようにしました。ナマズは、世界でもっとも食べられている養殖淡水魚ですが、日本ではあまり受け入れられないのは、その独特の泥臭さです。

その原因は、河川の中にいるバクテリアであるようで、これを除去するために地下水で育てるようにしたところ、まず臭みを消すことができました。さらに、餌にエビなどの甲殻類を多く与えることで、ウナギそっくりの弾力感を得ることに成功しました。

とはいえ、ナマズはウナギよりも少々淡泊な味なのだそうで、このため、調理法としては、そのぽやっとした味を補うために、かば焼きにする場合には、ウナギより甘く濃いタレを使うことにしたそうです。

結果、鰻に勝るとも劣らない?かどうかはわかりませんが、かなり鰻の味に迫ることができたようで、もし、今後も評判が上々のようならば、各地でさらに改良品種を作成した上で、全国販売も視野に入れるとのことです。

気になる値段も、ウナギの半額程度に抑えられる見通しだということで、長いあいだ、ウナギ欠乏症に悩んでいる庶民にとっては朗報になりそうです。

ここ静岡も三島だけでなく浜松などで大量の鰻を消費しており、「うどん県」ならぬ、「ウナギ県」と命名してもいいくらいだと思うのですが、こうしたナマズの導入も含めて、「かば焼き県」として立国していってもいいのではないか、と個人的には思ったりもします。

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ところで、このナマズというヤツですが、ナマズ目ナマズ科に属する種類は、だいたい全世界で100種類ほどもいるそうです。口がでかくて、ヒゲがあり、ぬるっとしている、といった特徴は同じですが、日本をはじめとして、中国・朝鮮半島・台湾など、東アジアの河川や湖沼に生息する種類は、「マナマズ」と呼ぶようです。

日本に生息するマナマズは、正確にはさらに3種の「ナマズ属」に分けられるそうで、北海道と沖縄などの離島を除く全国各地の淡水域に幅広く分布しているのは、やはり「マナマズ」、または「ニホンマナマズ」と呼ばれており、これは中国など他の東アジアに広域に生息するのとほぼ同じです。

ニホンナマズという呼称は、2005年に特定外来生物に指定されたアメリカナマズと区別して、こう呼ばれるようになったものです。

これに対して、他の2種は、ビワコオオナマズ、イワトコナマズという種類であり、これは琵琶湖とその関連水系のみに生息する日本固有種です。

といっても、素人が見てもおそらくはほとんど見分けがつかないだろうと思われます。とはいえ、ビワコオオナマズはやや大きく、イワトコナマズとともに琵琶湖周辺の機内にだけ生息する種類です。そして、その他の地域で普段我々が目にするのは、たいてい「マナマズ」ということになるようです。

おそらく、上述の近大が開発している養殖ナマズも、このマナマズなのでしょう。雑食性であり、日本古来からいる在来魚としては数少ない大型の肉食魚でもあります。貪欲な食性を特徴としますが、どんなものを食っているかといえば、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエルなどの小動物を捕食しています。

ナマズを捕食するほどの生物は、ほとんど水中にはいないと考えられることから、日本の淡水域の生態系では、食物連鎖の上位に位置するとみられます。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、長い口ヒゲを持ちますが、このヒゲは感覚器として発達しており、これを利用して餌を探します。

この口ヒゲは、2本しか持っていない、と思っている人も多いでしょうが、上顎と下顎に1対ずつ計4本あります。仔魚の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもっていますが、成長につれて消失します。

頭は上下につぶれたように平べったく、鱗がなくて体表はぬるぬるとした粘液で覆われています。近くによってよく観察すればわかりますが、斑紋があり、この紋や体色は、個体によってさまざまであり、かなりバラエティに富んでいます。

基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいます。全国に生息していますが、平均的には5~6月が繁殖期であり、水田や湖岸など浅い水域にある水草や水底に産卵します。たった2~3日で孵化し、仔魚は孵化の翌日にはミジンコなどの餌をとるようになります。

また、雄は2年、雌は3年程度で性成熟に達するといい、かなり繁殖力は強い種と言えます。全長60cm程度にまで成長しますが、一般に雌の方がやや大きいといいます。調べてみたのですが、かば焼きにするのは♂♀どちらがおいしいのかどうかまではよくわかりません。どちらもあまり差がないのかもしれませんが……

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上の近畿大の養殖の成功によって一躍脚光を浴びるようになったナマズですが、実は古代から食用魚として漁獲されています。ナマズ食の歴史は古く、平安時代末期の著作「今昔物語」には既に調理をして食した、といった記述があるほか、江戸時代にも商取引が行われていたようです。

マナマズはウナギと同じく、白身を持つため、かば焼きのほか、天ぷらにして食されたほか、たたき・刺身などの生食でもいけるようです。ただし、寄生虫がいる場合があります。顎口虫症といって、顎口虫(がくこうちゅう)という寄生虫がいるナマズを生食をした場合、からだに浮腫み(むくみ)ができたり、場合によっては心筋梗塞を起こすといいます。

とはいえ、まずしい農村部などでは貴重なタンパク源であり、江戸時代よりも前から自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたようです。現在でも、琵琶湖周辺の滋賀県や京都府、濃尾平野、埼玉県南東部など特定の地域で、漁業対象種として捕獲が行われているそうです。

ナマズを釣りの対象とする場合、その貪欲な性質を利用した「ぽかん釣り」と呼ばれる方法が用いられます。これは小型のカエルなどを釣り餌として片足から吊り下げる形で釣り針に通して付け、水面で上下に動かすことでナマズを誘うという釣り方です。ハツやササミといった肉類などでもわりと簡単に釣れます。

私の子供のころ、食用にもなるウシガエルを同様の方法でよく釣っていましたが、極めて簡単に釣れ、ぽか~んていたのを覚えています。ルアーの疑似餌でも釣れるようなので、今度一度試してはいかがでしょうか。釣ったあとに実際に食するかどうかはお任せしますが。

群馬県の邑楽郡(おうらぐん)板倉町にある雷電神社への参道には、複数県の「ナマズ茶屋」があり、てんぷらや「たたき揚げ」と称する揚げ物、洗いや刺身などが頂けるようです。また、鳥取の吉岡温泉でも同様のナマズ料理が食えるほか、埼玉の吉川でも市が率先してナマズ料理をアピールしており、「なまずの里よしかわ」を売りにしているようです。

さらに、茨城県東部、霞ヶ浦の東側にある行方市周辺では、外来種である、アメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)のハンバーガーを「行方バーガー」として販売しているそうで、ご当地グルメとして有名になりつつあるようです。

とはいえ、その他の県で、ナマズを食するという話はあまり聞いたことがなく、現代の日本では必ずしも一般的な食材とは言えません。上述の3種のうち、一番一般的なマナマズを筆頭に、やはり臭さが敬遠されるためであり、これを使ってナマズ料理を提供しているところは、綺麗な水の池などで長い間飼育してから捌いたりしているようです。

ただし、まあなんとか食せるレベルにはあるようです。岩礁域に暮らすイワトコナマズが、泥臭さが少なく最も美味だそうで、マナマズはこれに次いで味が良いとされるようです。一方、ビワコオオナマズは大味で独特の臭みがあり、ほとんど利用されることはないといいます。

こうしたナマズの食味や利用に関しては江戸時代にも研究されていますが、やはりあまり評判はよろしくなく、「本草学」すなわち、現在の薬学に関する著述、「本朝食鑑(1697年)」によれば、ナマズは、膾(なます)やカマボコくらいにしか利用できない、と書いてあるそうです。

また、シーボルトが記した「日本動物誌(1850年)」にも、この当時のナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられると書いてあるといいます。

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このように、ウナギといえば、一応食えはするものの、それほどウマいもんじゃないよ、というのが古くからの一般認識のようです。とはいえ、繁殖力が強く、どこの川に行ってもいるので、日本人にとっては非常に身近な魚ではあるわけです。

その外観がまず極めてユニークです。その独特な姿もあって古くから親しまれ、さまざまな文化・伝承に取り込まれてきました。また、日本では、地震の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知られており、地面の下は巨大な大ナマズがおり、これが暴れることによって大地震が発生するという迷信は古くから信じられてきました。

ナマズが地震の源であるとする説は、江戸時代中期にはすでに民衆の間に広まっていましたが、そのルーツについてはっきりしたことはわかっていないようです。ただ、「日本書紀(720年に完成)」には、すでにナマズと地震の関係について触れた記述があるそうで、1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状にもそうした表現があります。

この書面で秀吉は、「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示をしているそうです。しかし、おそらくナマズが地震を起こすと多くの人々が信じるようになったのは、江戸時代の安政年間に頻発した地震のころからだと思われます。

「安政見聞録」という書物には安政大地震前にナマズが騒いでいたことの記述があり、これ以後の江戸後期にはこの地震による社会不穏を背景として、鯰絵や妖怪などを描いた浮世絵も流通するようになりました。

この「安政見聞録」は、1855年11月11日(安政2年10月2日)の夜10時頃に発生した地震の様子を記録した書物で、この地震の翌年の安政3年に刊行されました。著者は服部保徳、挿絵は一梅斎芳晴(歌川芳春)によって描かれ、地震時の教訓を多く盛り込んだ内容になっているといいます。

この服部保徳という人物が、どういう人物かはよくわかりませんが、忍者ハットリ君のモデルといわれる服部半蔵の一族なのかもしれません。歌川芳春は、この当時の人気絵師ですから、そうした絵師を使った自費出版をできた、というのはそれなりの権力とカネを持っていたのでしょう。

挿話は全部で 17 編に及んでおり、自分の子孫に対して、この本によって地震での教訓から多くを学び、忠孝義に励め、といった少々教訓くさい内容となっているそうです。

この「安政の大地震」ですが、多くの人は、これは一回っきり起こった者だと思っていると思いますが、実は、これは江戸時代後期の安政年間に、日本各地で連発した大地震の総称です。

現在では、このうち、とくに1855年に発生した安政江戸地震を指すことが多くなっていますが、この前年に発生した南海トラフ巨大地震である「安政東海地震」および「安政南海地震」も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めたのが「安政の大地震」です。

時系列的にみると、一番最初に起こったのは、1854年7月9日の「伊賀上野地震」であり、次いで「安政東海地震(1854年12月23日)」であり、その約32時間後に発生したのが、「安政南海地震(1854年12月24日)」です。さらに、安政南海地震の2日後には豊予海峡で「豊予海峡地震」が発生しています(1854年12月26日)。

そして、その翌年に起こったのが、一連の地震の中では最大の安政江戸地震(1855年11月11日)になります。この翌年には、東北八戸で安政八戸沖地震(1856年8月23日)が起こり、3年後には、越中・飛騨国境(現在の富山・岐阜県境)でも大地震が発生しており、これが飛越地震(1858年4月9日)となります。

伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は、発生したのが、嘉永7年=安政元年であったことから、本来は「嘉永の大地震」と呼ぶべきですが、同じ年に安政に改元されたため、安政江戸地震と、その3年後に発生した飛越地震も含め、ひとくくりにして安政の大地震と呼ぶようになったものです。

これら一連の地震は、南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として江戸時代に発生したものですが、この南海トラフ付近では、これに先立つ250年ほど前に起こった慶長9年(1605年)には「慶長地震」が起こっており、また150年ほど前の宝永4年(1707年)には「宝永地震」も起こっており、地震の巣窟といわれています。

2015年の現在は、この一連の安政大地震から、ちょうど150年あまりが経つ時期であり、同様に南海トラフにおける地震の発生が危ぶまれているわけです。

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実は、この安政の大地震は、幕末の動乱にも大きな影響を与えた、ということもいわれているようです。安政の大地震における一連の最初の地震が起こった、1854年の前年の1853年(嘉永6年)には、6月に黒船が来航しており、また同年8月にはロシアのディアナ号が来航するなど、ちょうどいわゆる幕末の動乱が始まった時期と重なります。

これら一連の外国船の来訪により、江戸幕府は相次いで開港を迫られところとなり、時代は急転直下の勢いで回転していきますが、「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で旧幕府と新勢力の争いに呼応するかの如く連発した大地震であった、ということは間違いなくいえるわけです。

ディアナ号で来航したプチャーチンは、来日したその翌年にこの「嘉永の大地震」に遭遇していますが、その直前の前年、来日してすぐの11月1日には下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し、下田が安全な港でないことを力説し代港を強く求めていたといいます。

安政の大地震のうち、二番目に起こった「安政東海地震」では、巨大な津波が発生しました。房総半島沿岸から土佐まで激しい津波に見舞われ、下田から熊野灘までが特に著しい津波に襲われました。とくに、伊豆半島沿岸では潮が引くことなく津波の襲来に見舞われており、引き潮から始まった駿河湾西側や遠州灘よりもさらに大きな被害を出しました。

伊豆半島において昼過ぎまでに何十回となく襲来した津波では、大きな波は3回打寄せ、そのうち第二波が最大であったといい、ロシア軍艦ディアナ号の記録では、下田において地震動の後、15~20分後に津波が到達し、2回目に押し寄せた津波の高さは、5~6mあったとされます。

ディアナ号は浸水により何回も回転して大破し、津波が収まった後、修理を試みようと戸田港へ廻航されました。しかしその途中、暴風雨も重なり流されて11月27日の夜、田子の浦沖で座礁し、漁船でけん引中、12月2日の昼過ぎに沈没しました。

下田の町では、昼過ぎまでに7~8回も押し寄せ、多数の家屋を流出させたため、壊滅的な状態となりました。しかし、津波で荒廃したあとの再建は早く、下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となりました。津波の翌年の1856年には、早くもハリスが着任してきており、開国に向けての幕府との交渉にあたりました。

ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされます。

この安政東海地震による津波被害以後に頻発した安政年間の地震のあいまあいまでは、ほかにも歴史的な出来事が数多く起こっています。

そもそも、元号を嘉永から安政に変えたのも、こうした地震などの一連の災害のためであったといわれており、このほかにも1854年には、内裏(宮城における天皇の私的区域)が炎上する、という事故もありました。

しかし、改元しても天変地異は続き、改元してすぐの、1855年2月7日(安政元年12月21日)には日露和親条約締結が結ばれましたが、その直後の2月26日に飛越地震が起きています。また、ハリスが下田に総領事として着任した18566年8月21日の二日後に安政八戸沖地震がおきました。

そのハリスが、下田御用所におい幕府側との通貨交換率などの交渉をしている間にも、江戸や駿河、芸予などでも小規模な地震が続いており、吉田松陰が萩で松下村塾を開いた1857年の末から4ヵ月後に起こったのが飛越地震です。

しかし、この飛越地震を最後に、安政年間の地震は徐々に沈静化が進みます。その後、1858年7月29日には、日米修好通商条約が締結され、これに続く蘭、露、英、仏と五カ国条約も締結されました。1858年10月には安政の大獄がはじまりますが、1860年3月の 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)で安政年間は終了します。

そして、安政以後の1867年11月の(慶応3年10月)の大政奉還、1868年4(慶応4年3月)の 勝・西郷会談(江戸無血開城)と続いていくことになります。

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こうした幕末という一番物騒な時期に巨大な地震が重なったということは、当然のことながら人々への心理へも影響を与えました。大地震などの災害が、天罰として世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が広まり、安政江戸地震直後にはおびただしい数の瓦版や「鯰絵(うなぎえ)」が巷に出回りました。

これは、ナマズを題材に描かれた錦絵(多色刷りの浮世絵)であり、大鯰が地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰に基づいています。鹿島神宮(現在の茨城県鹿嶋市)の祭神である武甕槌大神(タケミカヅチオオノカミ)が要石によって大鯰を封じ込めるという言い伝えに基づいている、というのが定説です。

鯰絵の種類は確認されているだけで250点を越え、実際はそれを大きく上回る点数の鯰絵が発行されたと考えられています。当時の書籍や浮世絵は幕府の検閲を受けていましたが、鯰絵はほぼすべてが無届けの不法出版であり、取締まり逃れのため作者や画工の署名が無いものがほとんどでした。

地震の発生直後から出版が始められた鯰絵は身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まり、流行が収束するまでのおよそ2ヶ月の間に多数の作品が作られたとされます。

鯰絵には多種多彩な構図が用いられましたが、大鯰を懲らしめる庶民の姿を描いた合戦図の形式、あるいは両者の対立を描いたものが特に知られています。上のタケミカヅチオオノカミがナマズと対決する役柄として鯰絵にもしばしば登場しているほか、ナマズが地震を起こしたことを謝罪したり、震災復興を手伝ったりするユニークなパターンもあります。

いわゆる「世直し鯰」の構図としてもさまざまな作品が作られましたが、これらは幕末の動乱と地震の関連性をうかがわせるものであり、両者によって多くの人々の不安が掻き立てられていたことを示すものです。鯰絵の中には「世直し鯰の情」として被災者を助ける様子を描いたもの、大工や庶民に小判、銭あるいは米俵を投げ与えるものなどもあります。

このほか、江戸などでは地震による倒壊家屋が多かったため、地震後の復興景気により大工や木材商が莫大な利益を上げたことを風刺し、これらの職人や商人がナマズに感謝する姿を題材にしたものもありました。

このような地震により損をした者、得をした者の対比は多くのバリエーションで描かれ、「三人生酔」、すなわち、笑い上戸・泣き上戸・怒り上戸の三者の姿を通じて立場の違いを表す、などの手法によって人々の喜怒哀楽が表現されました。

なお、鯰絵と同じく大量に発行された瓦版には地震によって混乱した情報を、市民らにもたらす、といった役割もありました。瓦版の中に、国元の縁者に自身や親子兄弟の安否を刷り込み知らせるものも多くありました。

また、京都・大坂・江戸の三都に店舗を抱える大商人らもまた、相次ぐ地震で経済網が寸断され、情報を失いました。このため、飛脚屋を雇って情報を収集させ、被害情報を一枚摺にして発行しました。無論、自分たちのための情報収集だったわけですが、こうした情報は一般庶民にも役立ちました。

地震の後に流布した鯰絵はさまざまなモチーフで描かれましたが、これらは必ずしもオリジナルの画題・構図で描かれたわけではなく、地震以前に知られていた浮世絵や民画をパロディ化したもので、当時流行していた世俗の文化を取り入れたとみられるものが多数あります。

鯰絵の前身と言える絵画の一つに「大津絵」があり、これは琵琶湖のほとりの大津宿を中心に描かれた民俗絵画です。

大津絵の中でも最も有名なのは、室町時代の画僧如拙により描かれた国宝「瓢鮎図」(ひょうねんず・鮎は鯰の古字)があり、これはつるつるの瓢箪でぬめるナマズを押さえつけるにはどうするかという禅問答をモチーフとした絵です。大津絵ではこのほかにも猿が瓢箪で鯰を押さえようとする滑稽図などがあります。

鰻絵と合体したこうした古くからの描画手法は、その後さまざまな分野に影響を与え、地震の被害状況や復興の様子を各地に伝える瓦版の中でも描かれ、その後の日本文化に大きな影響を与えました。明治以後に流行した「錦絵」にも多大な影響を与えており、鰻絵をベースに幕末に創作された、「はしか絵」、「あわて絵」などがその原型といわれます。

「はしか絵」は疱瘡絵とも呼ばれるもので、幕末に江戸で麻疹が広まった際に描かれた一連のはしか絵では、ナマズを打ち据える民衆を描いた鯰絵における大鯰を麻疹の神に置き換えたものが基本です。

これをもとにさらに別のバリエーションも創られ、金太郎、桃太郎、鍾馗、源為朝などが、疫病神の嫌う色・赤色のみで描かれるものも刷られるようになり、また、1863年(文久3年)の生麦事件から薩英戦争に至るまでには、この当時の江戸における混乱を描いた「あわて絵」が流行しました。

この年、横浜ではイギリス軍による幕府への威嚇砲撃があり、本格攻撃を恐れた庶民が江戸から郊外へと一斉に避難する騒ぎがありました。この様子を滑稽に描いたのが「あわて絵」であり、はしか絵と同じく鯰絵の構図を多く用いています。

その後、こうした「はしか絵」「あわて絵」で培われた技法は、明治になって「開化絵」や「新聞錦絵」に引き継がれ、さらには日清戦争や日露戦争以後の「戦争絵」として受け継がれました。しかし、明治の終わりごろまでには、活版印刷などの新技術の導入などの時勢の流れに逆らえず、衰退していきました。

しかし、こうした浮世絵にルーツを発した鰻絵ほかの日本の伝統の版画による「風刺画」の描写手法は、欧米のいわゆるポップカルチャーにおける「風刺漫画」に比べてはるかに高いレベルにあり、現在でも美術品として高く評価されています。

さて、長くなってきたので、そろそろ終わりにしましょう。

地震とナマズの関係は、これまで書いてきたように俗信とされてきたわけですが、最近の研究では、一般に魚類は音や振動に敏感で、特にナマズは電気受容能力に長けており電場の変化にも敏感であることなどがわかってきているそうです。

なので、本当に地震予知能力があるのかもしれず、それが確認されれば、一家に一匹といった「愛玩ナマズ」なども流行るかもしれません。

ちなみにナマズは、飼いやすいそうで、直射日光を避け、静かで安定した場所に設置した水槽ではよく育つそうです。ただ、与える餌にもよりますが、肉食性で糞の量も多いため、性能の良い濾過装置を用意したほうがいいとのことで、このほか、塩素を含んだ通常の水道水では炎症が起こすことがあるといいます。

飼育水のカルキ抜きは必須だとのことで、やはりきれいな沢水などで育てるのがいいようです。また、夜行性であるということをお忘れなく。ストレスを与えないため、体の半分以上が隠れる管などを入れる必要があるそうです。

そうして大事に育てたナマズは、やはりきっと美味に違いありません。

秋の日にその蒲焼を食べることを夢見て、あなたも一匹とはいわず、飼ってみてはいかがでしょうか。

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