激突!

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9月になりました。

旧暦9月を「長月」と呼びますが、その由来は、「夜長月」の略だとする説が最も有力だそうです。

確かに日が短くなり、長い夜を過ごすようになります。あれほど燦燦と照らしていた太陽の陽射しも柔らかくなり、気温も下がってきて過ごしやすくなります。今年の夏は例年よりも暑かったこともあり、この冷んやりとした空気は何にも増してありがたく思えます。

が、9月は秋雨の季節でもあります。ここ数日は、列島は大荒れで、昨日も下関沖でいたましい事故がありました。これからは台風も訪れやすくなり、天候不順な日が続く可能性もあるようです。暑いのはきらいだけれども、雨の日が続くのも嫌という人も多いでしょう。

その昔、太田裕美さんの「九月の雨」という歌がありました。1977年9月に発売された、9枚目のシングルで、彼女にとっては「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」に次ぐ3番目のヒット曲となりました。私が大学生のころに流行った曲で、このころは太田さんの歌は若い人に大人気でした。

私も太田さんの歌が好きで、よく聞いていました。が、学生でお金がなかったこともあり、レコードは買えず、ラジオの特集番組をエアチェックして、録音して聞く、ということをやっていました。この「エアチェック」という言葉も既に死語になりつつありますが……

この歌は、同年末の「第28回NHK紅白歌合戦」でも披露されました。太田さんは2回目の出場で、この時はキャンディーズ、山口百恵、しばたはつみ、桜田淳子がそれぞれ傘を差しながらバックダンサーを務めていたそうです。

このときの放送はまだモノラル音声放送だったそうですが、これはこの回が最後で、翌年からはステレオ放送になりました。両軍司会は4年連続で佐良直美・山川静夫が担当。4年連続同一コンビは史上唯一であり、また、この回を含めて佐良さんの紅組司会通算5回は、黒柳徹子さんに並び史上最多記録だそうです。

紅白でのキャンディーズとピンク・レディーの同年出演が唯一実現した回でもありました。キャンディーズはこの歌合戦よりも少し前に既に「普通の女の子に戻りたい」と解散を宣言しており、翌年4月4日、後楽園球場でのコンサートをもって解散したため、これが現役最後の紅白出演でした。

また、ピンク・レディーも今回が解散前唯一の紅白出場であり、以後、出場はなく、1981年3月31日に解散しました。ただし、その後4度再結成をしており、これにより再出場を何度か果たしています。

紅組のトリは、八代亜紀、白組トリおよび大トリは五木ひろしでした。優勝は白組。優勝旗授与は審査員の市川染五郎(現:松本幸四郎)が行いました。優勝旗を受け取った山川は佐良に対し、「佐良さん、これで来年は安心してお嫁に行ってください」と言ったそうです。

4年続いた佐良・山川のコンビによる両軍司会は今回が最後となりました。ちなみに佐良さんはその後も結婚しておらず、現在も独身のようです。現在70歳。一方の山川さんは82歳になられましたが、ご健在のようです。月日の流れをかんじます。

この1977年という年は、実にいろいろな事件があった年でした。皮切りは、前年12月〜本年2月にかけて全国的に大雪となったことで、これは五二豪雪(昭和52年豪雪)と呼ばれました。また、1月には青酸コーラ無差別殺人事件が発生、2月には、東京駅八重洲地下街で毒入りチョコレートが放置され、以後も様々な毒物殺人未遂事件が続きました。

また、1月末にはロッキード事件丸紅ルート初公判、全日空ルート初公判が行われ、戦後最大の疑獄事件が暴かれ始めました。6月には和歌山県有田市で集団コレラが発生し、8月には、32年ぶりに有珠山が噴火活動を開始しました。

9月には日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生。引き続き10月には長崎バスジャック事件が起きました。これに先立つ3月には、仙台空港行きの全日空機がハイジャックされる事件が続けて2件発生(犯人はそれぞれ別)しており、これらを教訓に、11月にはハイジャック防止法が成立しました。

同じ11月には、プロ野球ドラフト会議でクラウンライターが法政大学の江川卓を指名するも、江川本人が拒否して、その後巨人軍に入団するといういわゆる江川事件も起きています。このほか、9~10月には、「芸能界マリファナ汚染事件」があり、研ナオコ、内藤やす子、にしきのあきら、美川憲一、井上陽水、上田正樹らが逮捕されています。

新潟市で横田めぐみさんが、下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されたのも、この年の11月であり、いかにも事件満載の年でした。しかし、国内では大きな事故は発生しておらず、強いていえば、お隣の韓国で11月に大規模な列車爆発事故があったくらいです。これは現在の益山市の裡里(イリ)駅で高性能爆薬が爆発したもので、死者59人を出しました。

海外ではこの年は事故の当たり年で、このほか1月にはオーストラリアでグランヴィル鉄道事故が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事になったほか、11月にはポルトガル航空425便墜落事故が発生し、131人が死亡しています。

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しかし、その中でも最大のものは、3月27日、カナリア諸島でジャンボ機同士の衝突事故が発生し、乗客乗員583人が死亡した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」です。生存者は乗客54人と乗員7人にすぎず、死者数においては史上最悪の航空事故でした。死者数の多さなどから「テネリフェの悲劇、テネリフェの惨事」とも呼ばれています。

事故を起こした一機は、ロサンゼルス国際空港を離陸し、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に寄港したのち、テネリフェ空港(ロス・ロデオス空港)に着陸していたパンアメリカン(パンナム)航空1736便で、機体はボーイング747-100、クリッパー・ヴィクター号と命名されていました。

一方のKLMオランダ航空4805便はオランダからの保養客を乗せたチャーター機で、事故の4時間前にアムステルダムのスキポール国際空港を離陸し、同じくテネリフェ空港に着陸しました。機体は若干の形状は異なるものの同じく747で、型番はパンナム機の747-100よりも少し新しい747-200Bであり、こちらはライン号と命名されていました。

どちらの便も、最終目的地は大西洋のリゾート地であるグラン・カナリア島のグラン・カナリア空港(ラス・パルマス空港)であり、テネリフェ島はこの島からわずか100kmほど隔てた場所にあります。両島は、アフリカ北部のモロッコの西側およそ800km西の大西洋上にあり、スペイン領のカナリア諸島の一部を構成する島々です。

最終目的地はすぐそこにありましたが、パンナム機はそこへの最終的なアプローチをそろそろしようか、といったときに、ラス・パルマス空港で爆弾テロ事件が発生する可能性がある、との報に接しました。このため、同空港は臨時閉鎖されてしまいました。

しかし、その後空港閉鎖が長くは続かないだろうという見通し情報も入り、燃料も十分に残っていたため、着陸許可が出るまで旋回待機したいと申し出ました。しかし、結局、他の旅客機と同様に近くのテネリフェ島のテネリフェ空港に代替着陸するよう指示されました。KLM機も同様の理由でテネリフェへの臨時着陸を指示され、先に着陸していました。

テネリフェ空港は島中央部に位置するテイデ山の南麓に位置する、1941年開港の古い地方空港です。1本の滑走路(ランウェイ)と1本の平行誘導路(タクシーウェイ)および何本かの取付誘導路を持つだけの規模で、地上の航空機を監視する地上管制レーダーはありませんでした。

事故当日、空港は同じくテロ事件騒ぎで代替着陸を余儀なくされた旅客機でごったがえしていました。KLM機が着陸した時点で、エプロン(駐機場)のみならず、平行誘導路上にまで他の飛行機が駐機している状態だったので、管制官はKLM機に平行誘導路端部の離陸待機場所への駐機を命じました。

およそ30分後に着陸したパンナム機もこの離陸待機場所のKLM機後位に他の3機とともに駐機しました。このため、平行誘導路は4機が鈴なりになる恰好で塞がれており、このあと離陸する飛行機は、管制塔からの指示待ちで、順番に滑走路をタクシングして離陸開始位置まで移動する必要がありました。

パンナム機着陸のおよそ2時間後、ラス・パルマス空港に対するテロ予告は虚偽であることが明らかになったため、同空港の再開が告知されました。乗客を機外に降ろさず待機していたパンナム機は離陸位置へ移動する準備ができていましたが、その前には待ち順が先のKLM機がおり、これより先駆けすることは許されませんでした。

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しかもこのとき、KLM機は、給油をしようとしており、そのための燃料補給車が並行滑走路にいました。乗客を乗せていたパンナム機とは異なり、先に到着していたKLM機はこのとき既に一旦乗客を降ろしており、機長の「ファン・ザンテン」は、乗客の再招集にある程度の時間がかかることもあり、このテネリフェでの給油を決めたのでした。

しかし、ラス・パルマスは目と鼻の先であり、本来はこの時点で給油は必要ではありませんでした。テロ騒動があったために時間的な余裕ができたために給油をしたわけですが、このとき給油した燃料がのちに、2機が衝突する際に、大着火剤になろうとは機長は無論のこと、誰もが予想していませんでした。

給油が開始されたのは、ちょうどラス・パルマス空港再開の一報の5分ほど前であり、目前でそれを見ていたパンナム機はいつでも離陸できる状態にありました。いらいらしたパンナム機の機長は、無線で直接KLM機にどれくらい掛かるかを問い合わせましたが、同機からは詫びるでもなく「35分ほど」と回答されました。

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パンナム機のほうの機長は、ヴィクター・グラブスといいました。57歳のベテランパイロットでしたが、気が短い性格だったらしく、長引くKLM機の給油にしびれを切らし、何とかKLM機の横をすり抜けられないかと、副操縦士と機関士の2人を機外に降ろして翼端間の距離を実測させました。が、ギリギリで不可能だと知ります。

仕方なくパンナム機がKLM機の給油を待ちましたが、747よりも小さな他の3機は、いらつくパンナム機の機長の眼前で、KLM機の脇を楽々と通り過ぎて行き、離陸していきました。このほかにも他の平行滑走路で駐機していた航空機が次々と離陸し、10機以上がそれぞれの目的地に向かっていきました。

さんざん待たされたあげく、ようやく給油が終わったため、KLM機は先にエンジンを始動しタクシングを開始しました。16時58分、管制塔の指示に従い、KLM機は滑走路を逆走して端まで移動し、180度転回し、その位置で航空管制官からの管制承認(離陸許可)を待ちます。

ところが、これら一連の移動の最中、霧が発生し、1000フィート(300mほど)しか視界が利かなくなり、管制官は滑走路の状況を目視できなくなりました。

17時2分、一方のパンナム機はKLM機に続いて同じ滑走路をタクシングし始め、KLM機とは別の端の滑走路端まで行って停止。この時点で両機は、長い滑走路の端と端でお互いに対面する形になっていました。

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しかし、先に飛ぶ権利はKLMにあるため、管制塔がパンナム機に対して出した指示は、滑走路をさらに進んで途中の「3番目の出口(C3)」まで行き、滑走路を左に出て平行誘導路にいったん入り、そこでKLM機の離陸を待つように、というものでした。

ところが、このC3出口というのは、滑走路上をタクシングし始めたパンナム機にとっては、進行方向に向かって鋭角に開いた出口でした。C3出口に到達したパンナム機クルーはこの出口を出るためには左に135度も転回しなければならず、さらにもう一度平行誘導路から出て本滑走路に戻るためには再度右に135度転回しなければならないことに気付きました。

ようするに「N字」型のルートを巨大な747を移動させなくてはならず、通常はこのような大型機にこうした困難な進路指示は出されることはありません。ところが、この当時ボーイング747は最新鋭の大型機であり、地方の小さな空港の管制官はそういう新型機を見る機会も少なく、そうした知識はありませんでした。

一方のパンナムクルーにすれば、こうした小さな滑走路で747急転回をするのはかなり難しいというのは常識であり、このため管制官は、鋭角に曲がる必要のあるC3出口ではなく、45度の転回で済むC4出口で左へ曲がって、並行誘導路に出るように指示したのに違いないと思い込みました。

また、このとき管制官は、明確にC3出口と指定したのではなく、「3番目の出口」という言い方をしました。このとき、パンナム機はちょうどC1出口を越えたところにおり、このため、C1出口から数えて、C2、C3、C4と3つ目にあたるC4出口を指示されたものと、二重の思い込みをしました。

こうして、C3出口を通り過ぎ、C4出口に向けて滑走路を進み続けましたが、このとき、KLM機のファン・ザンテン機長はまさに、ブレーキを解除し離陸滑走を始めようとしていました。ところが、副操縦士が管制承認(離陸許可)が出ていないことに気づき、17時6分6秒、管制官に管制承認の確認を行いました。

これに対して、12秒後の17時6分18秒、管制官は「離陸を認める」と言った表現の管制承認を出しました。しかし、この「管制承認」というのはこの当時、管制官と交信しフライトプランの確認を行い、「離陸後に目的地までフライトプランどおりの航路を飛ぶための承認」を得るものにすぎませんでした。

あくまで「離陸のスタンバイ」であり、「離陸を始めてよい」という承認ではありませんが、管制官が承認の際に「離陸」という言葉を用いたためKLM機はこれを「離陸を始めてよい」という許可として受け取りました。

17時6分23秒、副操縦士はオランダ訛りの英語で「これから離陸する(We are at take off)」、もしくは、「離陸している(We are taking off)」と、どちらとも聞こえる回答をしました。管制塔はこの聞き取れないメッセージに混乱し、KLM機に「OK」のあと、約2秒無言後に、「待機せよ、あとで呼ぶ」とその場で待機するよう伝えました。

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実は、この「OK」とそれに続く2秒間の無言状態がその後大きな問題となりました。一方、並行誘導路に向かうべくC4出口を目指していたパンナム機は、同じく無線でこの両者のやりとりを聞いており、この会話に即座に不安を感じました。そして、「だめだ、こちらはまだ滑走路上をタクシング中」と無線でKLM機に警告しました。

ところが、このパンナム機からの無線送信は、上記2秒間の無言状態の直後に行なわれたため、ちょうど管制官が喋った「待機せよ、あとで呼ぶ」と完全にダブり、混信してしまいました。このため、KLM機では「OK」の一言だけが聞き取れ、管制官からの待機を促す指示は聞こえませんでした。

その後発見されたボイスレコーダにも、このときの通信には、混信を示すスキール音しか記録されていません。スキール音というのは、タイヤと舗装路が激しく擦れ合う、「キャー」や「ピャー」など悲鳴に似たような音であり、非常に大きく甲高い音です。

また、「OK」のあと、2秒間も無言状態が続いたことから、パンナム機は管制官からKLM機への送信は終わったと判断して、KLM機への警告のために送信ボタンを押したのでしたが、管制官のほうはこのときはまだKLM機に向けての指示のために送信ボタンを押したままでした。この結果、双方の発信が混信したわけです。

こうして、航空管制官、パンナム機、KLM機の三者ともこのとき、混信が生じたことに気付かきませんでした。これにより、パンナム機の側では、「自分たちの警告がKLM機とATCの双方に届いた」と考え、航空管制官の側では「KLM機は離陸位置で待機している」と考えました。

そして、KLM機のほうは、「OK」の一言だけが聞こえたため、「離陸許可が出た」と勘違いしました。というか、離陸OKと「確信」し、離陸推力を得るためにスロットルを全開にしました。ところが悪い事に、このとき霧のためKLM機のクルーはパンナムのB747がまだ滑走路上にいて自分たちの方向に向かって移動しているのが見えませんでした。

加えて管制塔からはどちらの機体も見ることができず、さらにこの空港では、滑走路に地上管制レーダーは設置されていいませんでした。これは、空港地表面の航空機や車両等の動きを監視するものです。非常に短い波長の電波を利用した高分解能レーダーで、レーダースクリーン上には航空機の形がはっきりと現れます。

低視界のときや夜間の管制業務に使用しますが、小さな地方空港にすぎない、テネリフェ空港にそんなものはありませんでした。ところが、衝突を回避するチャンスはもう一度ありました。上記交信のわずか3秒後に改めて航空管制官は、パンナム機に対し「(並行誘導路に移動して)滑走路を空けたら報告せよ」と伝えたのです。

これに対して、パンナム機も「OK、滑走路を空けたら報告する」と回答しましたが、このやりとりはKLM機にも明瞭に聞こえていました。これを聴いたKLMの機関士はパンナム機が滑走路にいるのではないかと懸念を示し、機長に「まだ滑走路上にいるのでは?」と聞きました。

これに対して機長は、KLM機長が「何だって?」と聞き返したため、KLM機関士は繰り返して「まだパンナム機が滑走路上にいるのでは?」と再度問いかけました。が、これに対して機長は、強い調子で「大丈夫さ!」と答えました。

ファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、KLM所属のほとんどの747機長/副操縦士は彼から訓練を受けていました。事故当日の同機内の広告には彼の写真が掲載されていたほどで、機関士は彼の経験と権威の手前もあり、上司でもある彼に対してそれ以上重ねて口を挟むのをためらったと考えられます。

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こうして、悲劇は起こりました。このとき、KLM機に警告を与えたと思っていたパンナム機のコックピットでは、長らく待たされたあげくようやく解放されたグラブス機長が「こんなところとはさっさとおさらばしよう」と無駄口をたたいていました。

これに対して、機関士も「ええ、KLMは離陸を急いでいるんでしょうね」と言い、続けて「あれだけ我々を待たせたくせに、今度はあんなに大急ぎで飛ぼうとするなんて」といった会話がボイスレコーダーに残されていました。

17時6分45秒、ようやく滑走路のC4出口に差し掛かったところで、突然、パンナム機のグラブス機長が離陸しようとするKLM機の着陸灯が接近してくるのを視認し、こう叫びました。「そこを!あれを見ろ!畜生!…バカ野郎、来やがった!!」と同時に「よけろ!よけろ!よけろ!(Get off! Get off! Get off!)」と副操縦士。

衝突直前、パンナム機の操縦士たちは出力全開で急速に左ターンを切ろうとしましたが、あまりにも時間がなく機首を45度ほど曲げるのが精一杯でした。一方のKLM機は、この時既に「離陸決心速度」を超えており停止制動はできず、さりとて「機首引き起こし速度」には達していなかったため、衝突を避けようと強引に機首上げ操作を行いました。

17時6分48秒、滑走路に20 mにわたって機尾をこすりつけつつ、急上昇を試みますが、このとき、ファン・ザンテン機長は衝突の瞬間まで「上がれ!上がれ!上がれ!(Come on! Come on! Come on!)」と叫び続けました。

17時6分50秒、KLM機はわずかながら浮き上がりましたが、胴体下部は、滑走路上で斜め左へ転回中だったパンナム機の機体上部に接触し、そのまま覆いかぶさるような形で激突しました。

機首はパンナム機の上を超えたものの、機尾と降着装置はパンナム機の主翼の上にある胴体の右側上部に衝突し、右翼のエンジンはパンナム機の操縦席直後のファーストクラスのラウンジ部分を粉砕。一時は空中へ浮揚しましたが、パンナム機との衝突により第一エンジン(左翼外側)が外れました。

また、第二エンジン(左翼内側)もパンナム機の破片を大量に吸い込んだため、あっという間に操縦不能の状態に陥り失速し、衝突地点から150m程先で機体を裏返しになって墜落し、滑走路を300mほど滑ったあと、ほぼ満タンだった燃料に着火して爆発炎上しました。胴体上部を完全に粉砕されたパンナム機のほうも、その場で崩壊し、爆発しました。

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KLM機の乗客234人と乗員14人は胴体の変形が少なかったにも関わらず、脱出できず全員死亡。パンナム機は396人のうち335人(乗客326人と乗員9人)が死亡しました。死傷原因は、衝突時に漏れた燃料による爆発と炎、煙でした。このパンナム機の犠牲者には映画女優・イヴ・メイヤーが含まれていました。

メイヤーは、1950年代にピンナップモデルとして評判となり、プレイメイトとしてPLAYBOY誌の表紙を飾るほどの美人さんで、女優としては2本ほどの映画に出演しました。しかし、あまりヒット作に恵まれず、60年代から70年代には、映画プロデューサーとして活躍し、女性実業家として成功していました。が、この事故で命を落としました。

一方のパンナム機のほうには生存者がいました。グラブス機長、ロバート・ブラッグ副操縦士、ジョージ・ウォーンズ機関士のクルー3人も生き残り、彼等を含む乗客54人と乗員7人が生存者でした。機長らは救出されるまで、KLM機に対して激怒し、怒りのことばをぶつけ続けていたといいます。

爆発炎上したパンナム機でしたが、KLM機と衝突して機体が左右に引き裂かれた際、その衝突場所と反対側の機体左側と、コクピットのある機首部分は炎上しなかったため、この部分にいた乗員乗客は助かったのでした。

火災を免れた彼等は、機体にできた穴から滑走路上に逃げ出しましたが、その際、パンナム機から外れ落ちたエンジンがフルパワーの推力をほぼ保ったまま暴走し、同機からの脱出直後で滑走路にいた者の1人を直撃して死亡させました。

また、折しも濃い霧のため、消火に近づいた消防士たちは、燃えているKLM機にばかり気を取られ、霧に紛れたパンナム機の生存者に気づきませんでした。このために手当が遅れ、亡くなった犠牲者もいたようです。

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過去最悪の航空機事故となったこの大惨事後、KLM機の所属するオランダと、パンナムのアメリカ合衆国、そして空港管制塔を管理するスペインから派遣された70人以上の航空事故調査官および両機を運航していたパンナム、KLMの両航空会社が事故調査に入りました。

明らかになった事実は、事故当時パイロットや管制などの間に、誤解や誤った仮定があったことであり、生き残ったクルーへの聴取とボイスレコーダーの調査から、管制塔がKLM機は滑走路の端で静止して離陸許可を待っているとの確信を持っていた一方で、KLM機パイロットのほうでも離陸許可が出たと確信していたことなどが明らかになりました。

この結果として、スペインの調査団が出した結論では、KLM機に責任があるとされました。
しかし、オランダの調査団は、事故は複合要因によるものという結論を出したため、総合的な結論の公表は持ち越されました。

たしかに、事故原因は、さまざまな要因が複合的に重なりあった結果ともいえました。このため、オランダの航空当局は当初、KLM機のクルーの責任を認めようとしませんでしたが、最終的にはKLMが事故の責任を受け容れ、逸失利益に応じて遺族にそれぞれ、58,000ドルから600,000ドルを支払いました。

しかし、この事故を巡っては、このほかにも事故につながった可能性のあるさまざまな要因が憶測されており、そのひとつは、管制塔からの送信音声のバックにはサッカー試合のテレビ放送の音がはっきり混じっていた、というものです。

これは、スペイン側の事故調査報告書では一切触れられていませんが、オランダ側の事故調査報告書では指摘されていた事実です。すわわち、スペインの管制官は管制塔内で管制中にサッカー試合を視聴しただけでなく、サッカー試合に気を取られ管制がおろそかになった可能性があるわけです。

また、KLM機に乗っていて死亡したファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、彼は6年間フライトシミュレーションで新人パイロットを訓練する担当者になっていました。この間は月平均21時間しか飛行しておらず、またこの日の飛行前12週間は1度も飛んでいないなど、現役バリバリではありませんでした。

このことから勘が鈍っていたのでは、という見方がある一方で、管制官を含み、機長や副操縦士、機関士を含むシミュレーターの中のすべての役割を行ってきた結果、全ての権限は彼の掌中にあると錯覚するようになり、管制官の指示を軽視したのではないか、と指摘する専門家もいます。

また、オランダは交通上の安全規制が厳しいことでよく知られており、クルーの勤務条件がきちんと守られていないと、法令に抵触するとして、航空会社が罰則を受けます。本来は安全確保のために労働時間の規制をしたわけですが、それがかえって足かせになってしまった可能性がある、ともいわれています。

これはどういうことかというと、このとき、悪化する気象条件(濃霧)は視界不良による滑走路閉鎖の可能性が高く、一刻も早く離陸しないとロス・ロデオス空港に留まらざるを得なくなっていました。上級パイロットとしてKLMの経営にも関わる立場にあった機長にとっては、勤務時間の超過は規則違反であり、看過できない立場にあったというわけです。

このため、急いで離陸してしまおうと、逸る気持ちがあったのではないかと言われており、また、こうした規則により離陸できないとなると、さらに誘導路への移動などで、パンナム機を待たせることになります。給油によりパンナム機を散々待たせたあげく、さらに待たせることにもなり、気の毒だと思ったのではないか、ということも指摘されています。

さらには、その際に乗客の宿泊代などのKLMの金銭負担が増える結果になることなどもあり、機長としては何が何でも離陸したかったのではないか、ということも言われています。

この事故の結果として、その後、飛行機そのものや国際航空規則に対し全面的な変更がなされました。世界中の航空に関する組織に対しては、聞き違いを防ぐために標準的な管制用語を使用し、共通の作業用語には英語を使うよう要請がなされるようになりました。

例えば、今回の事故で問題となった、離陸許可における「take-off」(離陸、テイクオフ)という用語は、実際の離陸許可を下ろす時にしか絶対に口にしてはならなくなりました。

また、「フライトプランの承認」にすぎない管制承認も、離陸許可と混同されるのを防ぐため、コクピット内でも管制塔でも「departure」(出発)という用語を使わなければならなくなりました。

さらに、指示の際に、「OK」(オーケー)や「Roger」(ラジャー)といった口語表現単独、あるいは「イエス」「ノー」単独で承認を行ってはならず、「Affirm」(肯定だ=イエス)「Negative」(違う=ノー)といった決められた用語を使用し、指示の核心部分を復唱(read back)させることで、相互に理解したことを示さなければならなくなりました。

加えて、またコックピット内の手続きや規則も変わり、上意下達よりも、相互の合意による意思決定が強調されるようになりました。クルーメンバー間の厳格な上下関係は、クルー間の意思疎通や情報交換を妨げヒューマンエラーを引き起こす要因になるとして、なくす方向に向かったわけです。

これは、現在の航空業界ではCRM(crew / cockpit resource management、人的資源の管理)として知られているもので、いまではすべての航空会社の基礎的な安全管理方式や訓練体系となっています。

その後、テネリフェ島では、島北部の空港のある地域には頻繁に危険な霧が発生することから、島南部に新たな空港が建設されることになりました。これがレイナ・ソフィア空港です。しかし、悲劇の現場となった旧テネリフェ空港(ロス・ロデオス空港)はカナリア諸島内部やスペイン本土からのフライト用に今も使用されています。

アムステルダムには犠牲者の墓地および記念碑が作られています。またカリフォルニア州オレンジ郡ウェストミンスターの墓地にも同様の記念碑があります。

2007年には、事故30年を機にオランダやアメリカなどに住む遺族や、事故当時の救急に当たった島の人々が合同で慰霊祭を開かれました。また、事故後25年が経った2002年には、テネリフェ空港を見下ろす北部の高台に、18mの高さを持つ国際慰霊碑(International tenerife monument)が建てられています。

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この場所からは、眼下に事故現場となった空港が見えるほか、遥かかなたには、青い青い大西洋が見えます。私もいつの日か、慰霊を兼ねてこの地を訪れてみたいものです。

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