今日で8月も終わりです。
今年も残りあと4ヶ月か~と、ため息が出ますが、その理由はというと、今年の年頭に立てた目標がひとつも達成できていないこと。
そのひとつは、今年こそは久々に海外旅行へ行きたい、というものだったのですが、時間もなければ先立つものもなかなか厳しいものがあり、どうやら断念せざるを得ない状況のようです。
もし時間も金もあったらどこへ行くか?ですが、できれば行ったことがないところがいいでしょう。
私は南半球には行ったことがなく、オーストラリアなどは時差も少ないのでストレスも少なく済み、最近航空機運賃もこなれているようなので、いいかもしれません。が同じ南半球なら、ニュージーランドも魅力的です。
時差は+3時間とのことで、これなら激しい時差ボケでに襲われる心配はないでしょう。季節は日本と真逆なので、もし今行くとすれば、これからは春であり、なかなか良い季節です。
その領域は267,710㎢。これはイタリアや日本よりも僅かに狭く、イギリスよりも少し大きいくらいです。海岸線は15,134kmと島嶼部の多い日本の29,751kmに比べれば半分くらいですが、それでも広範囲にわたる海産資源に恵まれており、排他的経済水域は400万㎢以上に及び、これは世界第5位の広さを誇ります。
排他的経済水域とは、自国の海岸線から200海里(約370km)の範囲で、水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利が得られます。が、と同時に、海洋汚染防止の義務を負うことになります。日本は第6位ですが、ニュージーランドよりも狭いのは、おそらく彼の地が日本よりも飛び地の島を多く持っているためでしょう。
陸上で接した国境は無い、というところは日本と似ています。インド・オーストラリアプレートと、太平洋プレートのちょうど境に位置し、太平洋プレートがオーストラリアプレートのほうへ沈み込んでいるため地震が多く、火山活動が著しい、といった点も日本と似通っています。
9世紀頃、ポリネシア人開拓者が島々にやってきたのが人が住むようになった始まりといわれており、彼らの子孫は現存していてマオリ人と呼ばれます。ヨーロッパ人として初めてこれらの島を「発見」したのは、オランダ人のアベル・タスマンで、1642年12月に ヘームスケルク号とシーヒアン号で、南島と北島の西海岸に投錨。
彼は最初、この地は、かつてベルギー人の水夫ヤコブ・ル・メールが1616年に「発見」したチリの南の土地だと思い、スタテン島(Staaten Landt)と地図に記しました。しかし、27年後の1643年になって、オランダの探検家、ヘンドリック・ブラウエルによって改めて調査され、チリの南ではないと分かりました。
このとき、オランダの知識人はオランダのゼーラント州 (Zeeland) にちなみ、ラテン語で “Nova Zeelandia”(「新しい海の土地」の意)と名付けましたが、これが後にはオランダ“Nieuw Zeeland”となり、現在の“New Zealand”になりました。ちなみに、「海の土地」の意の英語は”Sealand”になりますが、国際的にも“Zeeland“が正式呼称です。
なお、ニュージーランド(以下NZの略称で記述)を再発見したヘンドリック・ブラウエルは、日本の平戸の第2代オランダ商館長(カピタン)でもあり、オランダ東インド会社総督でした。が、日本にはおよそ1年ほどしか滞在していません。
1769年、かの有名なキャプテン・クックこと、イギリス人探検家、ジェームズ・クックが、島全体および周辺の調査を行いました。この調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征がここで行われるようになり、その後、イギリスを始めヨーロッパ各地からの移民流入が始まりました。
1830年代前半に、ロンドンに植民地会社が組織されると、移民はさらに増加しました。1840年、イギリスは、先住民族マオリとの間にワイタンギ条約を締結し、イギリス直轄植民地としました。
このワイタンギ条約というのは、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王権との間で締結された条約ですが、その内容は、マオリ族は英国女王の臣民となり主権を英国王に譲る、マオリの土地保有権は保障されるが全てイギリス政府へのみ売却される、マオリは英国民としての権利を認められる、という一見穏やかなものでした。
しかしながら条約を英文からマオリ語に翻訳した際の訳文に問題があり、21世紀に入った今日においても、マオリ族の権利の問題として議論が絶えません。例えば「主権」を表すマオリ語が存在しなかったため、新しい造語を創りましたが、これは英語では「支配」に近いものでした。
このため、マオリ側の認識は「全ての土地は自分達のもの」というものであるのに対し、白人側は「NZはイギリスの植民地である」と考えていました。このため、1860年代には、入植者とマオリ族との間で土地所有をめぐり緊張が高まり、1843年と1872年の二度に渡って戦争が勃発しました。
この反乱はのち鎮圧されたものの、NZ政府はその後100年にわたってこの問題を放置しましした。1975年になってようやく、「ワイタンギ審判所」が創立され、ワイタンギ条約で認められた権利について、再度審議が開始された結果、一部強奪された土地を返還する、ということが決まり、また英語だけだった公用語にマオリ語を加えられることになりました。
現在NZの人口はお445万人ですが、マオリ族の人口は約79万人であり、これはおよそ18%にもおよび決して無視できない勢力です。
その後19世紀後半になると工業化が進み、1907年9月26日、イギリス連邦内の自治領となり、事実上独立しました。第一次世界大戦では志願兵によるオーストラリア・NZ軍団 (ANZAC) を結成して「ガリポリの戦い」に参加し、激戦を経験しました。
これは、連合国軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指し、エーゲ海東のガリポリ半島(現トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦での戦いであり、NZ人では戦死者2,701人を出しました(オーストラリア軍は 戦死8,709人)。ちなみに、この作戦でのANZACの海上護衛を、両国と地理的に近い日本海軍が引き受けていました。
また、この当時オーストラリアやNZには兵器を製造できるだけの工業力がなく、多くを輸入に頼っており、「ジャパニーズ迫撃砲」と呼ばれた軽迫撃砲のような日本製兵器が多く使われたといいます。
この戦いで、主力のイギリス軍は戦死者21,255人、フランス共和国軍は約10,000人の死者を出したのに対し、オスマン帝国軍は86,692人もの死者を出すなど著しい人的損傷を出しました。が、結果としてはこの戦いは侵攻してきた連合国軍の敗退に終わり、その結果第一次大戦はかなり長引きました。
オスマン帝国は長年「ヨーロッパの病人」と呼ばれてきたように19世紀以来列強に連敗を重ねてきていましたが、この戦いでは奮戦して英連邦軍とフランス軍を撃退したことは諸外国に驚きを与え、トルコ人には熱狂をもって受け取られました。
その後、1931年にイギリス議会は、ウェストミンスター憲章を定め、NZ自治領の独立を認めましたが、ニュージーランド議会が独立を決断したのは第二次世界大戦を挟んだ1947年11月のことでした。
第二次世界大戦でもNZは連合国側に立って参戦しましたが、この戦争はイギリスやフランスなどの主要国に深刻な損害をもたらしたのに対し、NZはほとんど無傷でした。このため戦後ニュージーランドは、かつての宗主国、イギリスに対して特恵待遇で生産物を供給する対策を打ち出しました。
この結果、国内で生産される産出品目はすべてイギリスが買い上げてくれる、という構造が成り立ち、安定市場の確保に成功します。バター、チーズ、食肉、羊毛などの主要な輸出品は90%以上がイギリスへ輸出され、その割合は輸出品全体で見ても半分以上を占めるに至りました。
こうして、ニュージーランド経済はイギリス市場に依存することで大躍進を遂げ、1960年代には経済成長率、国民所得が先進諸国の最高水準に接近するなど、栄華を極めました。その後もイギリスを主な貿易相手国とする農産物輸出国として発展し、世界に先駆け高福祉国家となりました。
しかし、1970年代にイギリスがECの一員としてヨーロッパ市場と結びつきが強まり、ニュージーランドは伝統的農産物市場を失い経済状況は悪化し、さらに、オイルショックが追い打ちをかけました。国民党政権は農業補助政策を維持する一方、鉱工業開発政策を開始するなど財政政策を行いましたが、いずれも失敗し、財政状態はさらに悪化。
1984年、労働党のデビッド・ロンギが政権を勝ち取り、政権主導の改革を押し進めた結果、ロンギ首相とダグラス財務大臣の改革は、ロジャーノミクスと呼ばれる経済改革につながりました。この改革では21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、国有林、金融など)が民営化され、その多くが外国資本に売却されました。
大学や国立研究所は法人化され、実質無料であった学費は大幅に値上げされるなど、従来の保護政策は撤廃されました。が、同時に規制が緩和され、外資に門戸を開き、許認可を極力なくし、官僚の数は半減されました。これらの改革はライバルの国民党が政権を奪還しても受け継がれ、ニュージーランドはきわめて規制の少ない国になりました。
反面、一連の改革は医療崩壊等様々なデメリットも招きました。1990年代後半からは、とりわけ環境問題、自然保護政策に重点を置き、クルマ社会に変わって外資に売却した鉄道会社を再購入するなど地球温暖化対策に積極的な姿勢を示しています。
「ニュージーランド軍」として陸海空三軍を持っています。直接的な脅威を受ける国家がないため、冷戦終結後は陸軍を主体とした3軍を再編し、本土防衛のほか、国際連合の平和維持活動 (PKO) を重点活動としており、この点も日本と似ています。また、オーストラリア、アメリカなどと共に、ANZUS条約に入っています。
“ANZUS” の “A” はオーストラリア、“NZ” はニュージーランド、“US” はアメリカです。軍事同盟であり、太平洋の安全保障が目的ですが、南太平洋非核地帯条約に参加し、核兵器搭載艦艇の寄港を拒否しているためNZの加盟は有名無実となっています。
イラク戦争には反対し派兵しませんでしたが、対テロ戦争の一環でアフガニスタンやインド洋に兵力を派遣しており、核に対する拒否反応も含めてこうした軍事面でも日本によく似ています。
その日本とニュージーランドの間の関係は悪くなく、第二次世界大戦後は、日本とNZとはお互いに主要な貿易相手国です。また、2011年2月に発生したクライストチャーチの大地震と、同年3月に発生した東日本大震災のときには、互い救援活動を支援しあいました。
が、国民一人あたり所得は日本より低く(約270万円)、失業率こそ6%(2010年1-3月期)と比較的低く押さえられているものの、就労者は全人口の約50%(日本は約65%)です。所得・消費税率(15%)が高く、一方では贈与相続税が低く(最高税率が基礎控除後で25%)、社会保障は移住者に対しても充実しています。
政策面では人種・性別・障害などへの差別撤廃に積極的で福祉も充実しており、気候もいいし、住みやすい、ということでアジアなどの諸外国からの移住者が増えているようです。しかしこうしたニューカマーへの優遇政策は地元住民の反発や偏見を助長している、という側面があるようです。
また、日本人を含めてアジア人にとっては安全な国だというイメージが先行しがちですが、路上者を襲撃する粗暴事件や凶悪事件が多数発生しており、移住ではなく、たとえ旅行といえども油断は禁物です。
その観光も重要な産業であり、海外からの観光客による外貨獲得は国内総生産(GDP) の9%を占めます。広大な自然地形とロード・オブ・ザ・リングに代表される映画、環境産業が観光客の増加に貢献。また国内各地でエコツーリズムを開催するなど観光政策と自然保護政策の両立を目指しています。
年間260万人以上もの旅行者が訪れます。国別統計ではオーストラリアが最も多く45%を占め、次いでイギリス、アメリカ、中国で、日本は5番目の年間約6.5万人です。
政府観光局はアジア、北米、ヨーロッパで広範囲な観光誘致活動を行っています。日本からは、成田空港や関西空港からニュージーランド航空が直行便を運行しているほか、シドニー、シンガポール、香港、バンコクなどから経由便を利用して入国できます。
ところで、NZには、「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアトゥリプカカピキマウンガホロヌクポカイフェヌアキタナタフ」という世界一長い地名を持つ場所があります。
(英語表記では:
Tetaumatawhakatangihangakoauaotamateaurehaeaturipukapihimaungahoronukupokaiwhenuaakitanarahu)
ニュージーランド・北島の東海岸にある、ホークス・ベイ地方南部にあるマンガオラパ という町の近くにある高さ305mの丘の名であり、あまりにも長すぎるので、会話等では「タウマタ」(Taumata)と略されます。公式の場では略されますが、それでも「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ」となります。
上述の英語表記92文字は、世界一長い地名としてギネスブックに記載されています。その意味は「タマテアという、大きな膝を持ち、山々を登り、陸地を飲み込むように旅歩く男が、愛する者のために鼻笛を吹いた頂」だそうです。
こういうのを「長大語」といい、一種の「言葉遊び」ともいえます。言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びです。日本語にもあります。複雑な象形文字の名残である表意文字の漢字を使うと比較的短くなりますが、表音文字であるかな文字にすると、いかにも長くなります。
植物では、アマモの別名をリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切り外し)というのがあり、現在標準的としては使われていませんが、最も長い和名とされます。また魚類ではミツクリエナガチョウチンアンコウ(箕作柄長提灯鮟鱇)は、最も長い和名を持つ魚です。
かつてあった「テロ対策特別措置法」の正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」で、戦後の法律では一番長いものでした。
2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ事件」を受けて制定されたもので、2年間の時限立法であったので今ではもう有効ではありません。さすがに、おふざけでこうした長い名前にしたわけではないでしょうが、他にも寿限無を代表とする落語などの芸能の演目に残る古典的なものもあり、日本人はこうした長い呼称を好む傾向にあるようです。
何かと話題にもなるので、わざわざ長いものを作る例は後を絶たず、そのほかにも、地名や人名、会社名などの有名なものにはマスメディアで発表・流布されたりもします。
日本で一番長い会社名は、「株式会社あなたの幸せが私の幸せ世の為人の為人類幸福繋がり創造即ち我らの使命なり今まさに変革の時ここに熱き魂と愛と情鉄の勇気と利他の精神を持つ者が結集せり日々感謝喜び笑顔繋がりを確かな一歩とし地球の永続を約束する公益の志溢れる我らの足跡に歴史の花が咲くいざゆかん浪漫輝く航海へ」です。
また、テレビ番組名で一番が長いのは、1989年4月に放送された「さんま・一機のその地方でしか見られない面白そうな番組を全国のみんなで楽しく見ちゃおうとする番組を5回もやっちゃったけどもう一度ふり返りながらやっぱり楽しく見ちゃっておしゃべりしちゃう大総集編的な番組」です。
さらに、AKB48が2013年に発表してシングルの表題曲名は、「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」です。
こうした例を挙げるだけでかなりの紙面を使ってしまうので、もうやめましょう。
最近では言葉遊びとして、「ことわざパロディ」というのがあり、これは、ことわざをもじって、面白く、可笑しくしたものです。例えば、「腐ったら生ゴミ(腐っても鯛)」「犬も歩けば猫も歩く(犬も歩けば棒に当たる)」「親しき仲にも借用書(親しき仲にも礼儀あり)」「花より現金(花より団子)」「寄らば大企業(寄らば大樹の陰)」などです。
有名なのには、貧乏金なし(貧乏暇なし)などがあり、このほか、「ちりも積もればじゃまとなる(ちりも積もれば山となる)」椅子の上にも怨念(石の上にも三年)」「可愛いのなら無理をさせるな(可愛い子には旅をさせよ)」「人を憎んで罪を憎まず(罪を憎んで人を憎まず)」などなどです。「急所ね?ココを噛むぅ?(窮鼠猫を噛む)」というのもあります。
これに近いのが「空耳」というヤツで、これはテレ朝の深夜・バラエティ番組「タモリ倶楽部」において、長年に渡り放送されているミニコーナーで披露されています。視聴者から「日本語以外で歌われているが、あたかも日本語のように聞こえる歌詞(空耳)」の投稿を募り、制作サイドでつけたイメージ映像を交えて紹介するというものです。
このほか「倒語」は、言葉を逆の順序で読むというヤツで、逆読み、または逆さ読みとも言います。てぶくろ→ろくぶて、などが代表で、ナオン = 女、マイウー = うまい、クリソツ = そっくり、ポコチン = ちんぽこ、パイオツ = おっぱい、パツキン = 金髪、グラサン = サングラス、などがありますが、これらはもう日常語という感じもします。
古典的なものとしては、「しりとり」がまずそうですし、このほか回文(例:またたび浴びたタマ)、語呂合わせ(例:14106=愛してる)、早口言葉(骨粗鬆症訴訟勝訴)、駄洒落(トイレにいっといれ)などがあります。
「地口」というダジャレの一種もあって、これは「舌切り雀」をもじって、「着たきり娘」、「うまかった(馬勝った)、牛負けた」、「アイムソーリーヒゲソリー、髭を剃るならカミソリー」、「驚き、桃の木、山椒の木、狸に電気に蓄音機」といったヤツで、発音が似た単語を用いるため、駄洒落よりも創造性に富み、作成するのも比較的容易で人気があります。
このほか、あたり前田のクラッカー(「当たり前だ」と「前田のクラッカー」)、そうはいかのキンタマ(「そうは行かない」と「烏賊の金玉」)、その手は桑名の焼き蛤(「その手は喰わない」と「桑名名物の焼き蛤」)、というのも有名なところです。
「ぎなた読み」というのもあり、これは、「弁慶が、なぎなたを持って」と読むべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と読むように句切りを誤って読むことで、弁慶読みともいいます。他の例では、「倒産か、辛かったな(父さんカツラ買ったな)」というのもあります。
昔ながらの「どれにしようかな(どちらにしようかな)」も言葉遊びのひとつで、これは地方によってパターンが違う、というところに特徴があります。例えば、私が育った広島では、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り、かっかのかっかの柿の種 ねんねのねんねのねずみとり りんごのりんごのりんご取り」と言った具合です。
ところが、地方によっては全然違っていて、東北の宮城県などでは、「どれにしようかな 天の神様のいう通り あべべのべ あーめんそーめん中華そば 赤豆白豆なんの豆」ですが、京都や奈良では、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り 柿の種の言う通り プッとこいてプッとこいてプップップ」と変わります。
これが九州へ行くと、福岡や大分では「どれにしようかな 天の神様の言う通り けっけのけーのおーまーけーつーき」だそうで、鹿児島に至っては、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り 桜島ドッカーン」だそうで、全然違います。
言葉遊びも、さらに高度のものになると、古典的なところでは、「無理問答」があり、これは問う側が「○○なのに××とはこれいかに」という形式のお題を出し、答える側は「△△なのに□□と呼ぶが如し」と答えるものです。
例えば、問い「存在するのに犬(居ぬ)とはこれいかに」答え「近寄ってきても猿(去る)と呼ぶが如し」、問い「1台のトラックについていても荷台(2台)とはこれいかに」答え「2台のトラックがぶつかっても重大(10台)事故と呼ぶが如し」と言った具合で、当意即妙に答えられるかどうか、がミソとなり、なかなか頭を使います。
「○○とかけて××と解く。その心は□□」という、「なぞかけ」もかなり頭を使うもので、一時期、即興なぞかけが得意な「ねづっち」さんで有名になりました。無理問答やこのなぞかけは寄席の大喜利でもよく使われるネタで、テレビの「笑点」でもおなじみです。
落語の演目のひとつに「山号寺号(さんごうじごう)」というのがありますが、これも高度な言葉遊びのひとつです。寄席の大喜利における古典的な出題としても知られるもので、古くは、上方落語の初代「露の五郎兵衛」が1707年(宝永4年)に出版した笑話本の中に出てきます。
あらすじとしては、ある商家の若旦那が、なじみの幇間・一八と出会い、一八が「どこへ行くんですか」とたずねると、若旦那は「浅草の観音様だ」と答えます。「ああ、金龍山浅草寺ですか」と一八。
「俺が行くのは浅草だよ」と言う若旦那に、「ですから、あそこは本当は金龍山浅草寺というんです。お寺には「なになに山なになに寺」という正しい呼び名があり、この山号と寺号を合わせた「山号寺号」というのが、どこにでもあるんでさぁ」と一八が続けます。
それを聞いた若旦那は「どんなところにも山号寺号があるんだな」と念を押して、「この場にもあるか。もしあったら金をたんとやる」と一八に迫ります。これを聞いた一八は頓智をきかせ、「あそこでおばさんが縁側を拭いてますね」と言い、おばさんが拭いているから「おかみさん拭きそうじ」と言うんでさぁと答えます。
さらに、乳母(おんば)さんが子供を抱いているから、「乳母さん子を大事」などと、次々に「山号寺号」を披露していく、といったもので、いかに洒落た山号寺号が即答できるかどうか、がミソです。
この演目での題材は他の落語家によってはかなり改変されてきており、例えば近代のものでは、自動車屋さんガレージ、時計屋さん今何時、肉屋さんソーセージ、清子さん水前寺、お医者さんイボ痔といった具合です。
この話のオチでは、この即応当意の切り返しによっ一八に所持金をほとんど巻き上げられてしまった若旦那が、「今度は私がやろう」と言うなり、金で満杯になった一八の財布を取り上げてふところに入れ、「一目散随徳寺(いちもくさん ずいとくじ)」と言って逃げる、というものです。
「随徳寺」とは、「跡をずいとくらます」ことを意味する古い「地口(上参照)」のことで、逃げられた一八は、「南無三、し損じ」、と言って噺が終わります。
……ということで、そろそろ今日の項も「一目散随徳寺」させていただきやしょう。