人間五十年、下天のうちを比ぶれば

2015-9870伊豆では、そろそろ梅の季節が終り、河津桜の樹間にも緑葉が混じる頃になってきました。

あと一週間もすれば南伊豆ではソメイヨシノが咲き始めるところも出てくるでしょう。今この原稿を書いている場所から少し離れた通り沿いのサクラの木も、気のせいか少しピンクがかってきたような気がします。

それを眺めながら、去年咲いたその桜の色などを思い出したりもしているのですが、あれからもう一年経ったか、と改めて時間の過ぎるスピードの速さを感じています。

再三このブログでもボヤいていることではあるのですが、齢をとると時間の経過が早くなります。

同じことを何度も何度も繰りかえしてきたために、年齢を重ねれば重ねるほど、そのひとつひとつの所作に要する時間が効率よく短くできるようになります。そのために経過時間が短く感じられるのだ、という人もいるようです。確かに一理あるかもしれません。

人生は経験の連続なので、経験を積めば積むほどいろんなことができるようになるため、それらに要する時間も短くて済む、というわけですが、しかしと同時にこなすことができる仕事も増えるので、一層多忙になります。

忙しいときにはやはり時間の経過などかまっていられなくなるわけであり、これもまた時間が速く過ぎるように感じる要因なのでしょう。

実際、会社勤めをしている人達、とりわけ50代の人たちの仕事量というのはかなりのものではないでしょうか。20代の若い人に比べれば格段に効率的な仕事ができるのはもちろんのこと、30代、40代の後身の管理もしつつ、対外的には営業にも出ていかなければならないし、社内的にも重要なポストに就くことも多くなり、それだけ会議も増えます。

それだけに心労も多く、仕事のストレスによってうつ病などの心因性の病気にかかったりもします。アトピーやじんましんといった症状は精神的なものから来ることも多いといい、痔ろうについてもまたしかりです。また、タバコや酒など体によくないものに走りがちです。

なので、仕事ができる反面、このころから急速にふける人も多く、あなた、ホントに50代?という、どうみても70代にしか見えないオッサンや淑女がいたりします。

その昔は、人生50年といわれた時代もあったようなのですが、これは現在のように疫病対策やさまざまな病気の治療方法が確立していなかったためであり、昔の日本と同じくらいこうした対策が十分でないアフリカの諸国の多くは、現在でも45~55歳が平均寿命のようです。

片や、今の日本人の平均寿命は82.6歳で世界一であり、女性の平均寿命は日本が85.99歳で世界一、男性の平均寿命は3位で、79.19歳となり、いまや人生50年どころではなく、人生80年の時代です。

が、その昔は50年も生きれば十分、さらに60にもなろうものなら、それはそれは長寿ということで、いわゆる還暦のお祝いをしたりして大はしゃぎをしたわけです。赤色の頭巾やちゃんちゃんこなどを贈り、その長寿を祝ったりしますが、これはかつては魔除けの意味で「産着(うぶぎ)」に赤色が使われていたためです。

60歳は、12干支×5サイクルの終点であり、この時点で、生まれた時に帰るという意味でこの慣習があるわけですが、欧米でも、ダイヤモンドを60周年の祝いに贈って60周年の象徴とする風習があるようです。

では、50歳になったら何かお祝いをするのか、といえば特にそうした風習はないようです。ただ、中国では、50歳のことを「杖家(じょうか)」と呼び、この年になると家の中で杖を用いることが許されるといい、ほかに天命、もしくは知命という言葉があって、これは「五十にして天命を知る」という意味で、天が自分に与えた使命を自覚することです。

50にして立つ、という言葉があるかどうかは知りませんが、それだけ責任が重い年齢に達したということでもあり、天から与えられた使命を知ったからには、その齢からはさらにその天命を全うすべく日々身を大切にして生きよ、というわけです。

有名な話しとして、織田信長が、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」という「敦盛(あつもり)」という謡を口ずさみながら舞うのが好きだったという逸話があります。

この「人間」は「じんかん」とも読むそうですが、人間の寿命は50年でしかない、という意味だと思っている人も多いようですが、実は意味が少し違うようです。

このあと、「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と続くため、人の一生は50年ほどにすぎず、一度世を受けたものは、この年齢ほどにもなると死んでしまうのが常だ、ああ無常、というふうに解釈しがちですが、違うようです。

信長が生きていた16世紀には、「人間」を「人の世」の意味で使っていたといい、それゆえ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年という歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」という意味になります。

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そもそも、「下天」と何か。これは、本来は「化天」と書き、仏教でいうところの、「六つの欲」の5段階目のことです。

仏教には、「六道」という世界観があり、これは、一番底辺にある地獄界から始まって、餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界というふうに続きます。これらはすべて欲望に捉われた世界、つまり「欲界」でありこの六道の世界を経て、ようやく仏様が住むさらに上の世界へと進める、とされています。

一般に人間界の上にある天上界には欲はない、と思いがちですが、この天上界にも欲界があり、ただし、これは人間の欲に比べれば限りなく欲が薄く、物質的な「色界」と精神的な「無色界」の二つに分けられています。

この色界と無色界の下に、我々の住む5番目の人間界があるわけですが、この世界は別名を、「化楽天(けらくてん)」または、楽変化天(らくへんげてん)といい、これを略したのが「化天」です。

「天」というのは仏教でいうところの「世界」のことであり、この天に住む者は、自己の五境、すなわち眼・耳・鼻・舌・身(色・声・香・味・触)の五感を駆使して、その世を娯楽する、とされています。

要するに、この五感を使わなければ生活できない我々が棲んいるのが人間界というわけですが、この六道のうちの、第5段階の化天では、ここに棲む住人の寿命は8,000歳とされています。

えっそんなに長く生きれるわけないじゃん、と思うでしょうが、そこは仏教の説話の話です。この化天住人の一昼夜は人間の800年に当たり、その寿命は8000年ですから、人間に換算すると、800×365×8000=2,336,000,000年も生きる、ということになります。

が、いくらなんでもそれだけの期間き続けることはできませんから、この間、何度も生まれ変わることになります。輪廻転生です。

従って、人間の人生を仮に50年とすると、4672万回ほど人間は生まれ変わる、ということになります。「100万回生きたネコ」という童話がありますが、それ以上です。もっとも、日本では最近寿命が長くなっているため、総平均すると、この生まれ変わり回数はもう少し少なくなるはずです。

つまり、上の「人の世の50年の歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」の「下天のうち」は「化天のうち」であり、化天住民である我々にとっては50年の人生は長いようであるが、これは23億歳の寿命を全うするうちの、ほんのわずかな時間にすぎない、という意味になります。

ところでこの化天がなぜ下天に変わったか、ですが、織田信長が舞った「敦盛」には、その原点になった「幸若舞」という舞があり、その初期のころの演目ではこれは「化天」となっていたようです。

その後、敦盛が人気演目になるに従い、「下天」に変わっていったわけですが、そう変わった理由はおそらくはあの世を意味する「天上」という言葉と対比させやすかったためでしょう。

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が、ややこしいことに、実はこの下天というのは、実は上述の天上界も含めた「六道」それぞれに住む王様のうちのひとり(正確には一グループ)が住んでいる場所の名前です。

この6人(6組)の王の住む世界は、依然として欲望に束縛される世界であるため、それぞれを「六欲天」とも呼びます。そして、ここにいる王様とは、天上界から順番に、他化自在天(天魔波旬)、化楽天、兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん)、夜摩天(焔摩天)、忉利天(三十三天)、そして四大王衆天、となります。

この四大王衆天というのは、四天王のことで、これは我々が仏教彫刻でよく目にする、持国天・増長天・広目天・多聞天などです。この四天王がいる場所が実は、「下天」であり、六道の中では地獄界に相当する世界です。

上述のとおり、「化天」は欲界の上から2番目の世界ですが、その一番下の界のことを下天というわけで、ランクが4段階も違うわけです。そして、このランク付けでは、一番下の住民の寿命が一番短く、上に行くほど長くなります。

下天は一番下の階層になるため、ここの住民の寿命はかなり短くなり、500歳しかありません。「化天」では8000歳でしたから、地獄界の住民はその十分の一以下しか生きられないわけです。

従って、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の「下天」のところを「化天」とするか否かによって、その時間スパンは異なることになります。

が、いずれせよ、人間の寿命に対して、それはそれは長い時間ですよ、ということを謡っているわけですから、どちらを使っても、人の一生は、化天界(下天界)を通じての寿命よりも遙かに短くはかない、というもともとの意味を逸脱するものではありません。

「人間五十年、“下天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」「人間五十年、“化天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」でもどちらでもよく、人間の人生50年は、地獄界の500年、化天界の8000年というスパンを考えると、ほんの一瞬にすぎないね、だからくよくよするなよ、ということが言いたいわけです。

この人生50年を詠う、敦盛の原点となった、幸若舞というのは、中世から近世にかけて、能とは別に武家達に愛好された芸能です。能というのは、猿楽とも呼ばれ、明治時代以降は狂言とともに能楽と総称されるようになったもので、発祥の地の中国では、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていました。

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幸若舞もこの能に発想のヒントを得て生み出されたことは想像に難くないのですが、能と違って日本独自の舞であり、また武家の中から出てきたところが宮廷で発達した能と異なり、その題材も武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多いようです。

後に武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たる、「源義家」から10代後の子孫に、「桃井直詮」という人物がおり、この人が始祖といわれます。そして幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が出たといわれています。ちなみに「幸若」のよみは「こうわか」です。

幸若丸は越前国、つまり現在の富山県に住んでいましたが、父の没後、比叡山の稚児となりました。生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、草子に節をつけて謡ったのが評判になって「幸若舞」と呼ばれるようになったとのことで、彼の出身地が越前であることから、「越前幸若舞」とも言われます。

信長が愛したように、敦盛が代表的なものです。が、我々がよく知る敦盛は、信長の舞に代表されるような一場面にすぎませんが、実はそのストーリーはもっと長いものです。

これは、1184年(元暦元年)の源平合戦、またの名を「治承・寿永の乱」の際、須磨の浦における「一ノ谷の戦い」での出来事を描いたもので、この乱のとき、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめました。

このとき、平清盛の甥の平経盛の子で、若き笛の名手でもあった「平敦盛」は、退却の際に愛用の漢竹でしつらえた横笛を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。この笛は「小枝(さえだ)」という名品で、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇から賜ったものだといいます。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚上で馬を飛ばしますが、退却船の武士たちもこれに気付いて岸へ船を戻そうとします。しかし逆風で思うように船体を寄せられません。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにおり、いたずらに時間のみが過ぎようとしていました。

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将に違いない、と見極め、敦盛のところまで来て一騎討ちを挑みました。敦盛は当初これを受けあいませんでしたが、直実はしつこく将同士の一騎打ちを迫り、これに応じないならば、兵に命じて矢を放ちかけさせるぞ、と脅しました。

退却船からは大勢の仲間が見ており、多勢に無勢な中、一斉に矢を射られて殺されてしまうような無様な姿をみせるくらいなら、と、敦盛は直実との一騎討ちについに応じてしまいます。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいます。

必死に抵抗するも組み伏せられてしまいますが、直実がいざその頸を討とうと、もとどりを掴んでグイとその顔を上げさせると、その立派な鎧姿からかなりの年配者と思っていたその武将は、なんと元服間もないようにも見える紅顔の若武者であることを知ります。

重ねて名と齢を尋ね、これに答えた敦盛は、名は名乗らず、しかしわずか数え年16歳だとだけ答えました。実は、直実は、この一ノ谷合戦の最中に長男を討死させたばかりであり、我が嫡男と同い年だというこの少年の哀れな姿をみているうちに、ついつい亡くなったその息子の面影を重ね合わせてしまいます。

生かしておけばまだ将来あるであろうこの若武者の将来を思い、討つのを惜しんでためらうのは当然であり、このまま討とうかそれとも何か理由をこじつけて助けようかと心の中での逡巡が始まります。

この姿を見ていた同道の源氏諸将は、次第にこれを訝しみはじめ、ついには、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めました。ここまで言われては仕方がないと、ついに直実は心を痛めながらもついに敦盛の頸を討ち取りました。

別に伝わっている話では、息子を失った直実がその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだとき、直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えたとなっています。

これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしましたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったとされます。このとき敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えたとも伝えられています。

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いずれにせよ若き敦盛はこれによって短い生涯を終えますが、心ならずも息子と同年齢のこの若者を討ったことがその後も長く直実の心を苦しめるようになります。

結局この一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、敦盛以外めぼしい武将を討ち取ることのできなかった直実には、合戦後の論功行賞も芳しくなく、同僚武将との所領争いも不調でした。

翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実はやがて世の無常を感じるようになり、ついには出家を決意して世をはかなみながらその残りの人生を送るようになります……。

と、謡の敦盛のストーリーはここまです。が、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実はその後、出家の方法もわからず方々を放浪したといいます。

やがて高僧として名を知られていた「法然」の存在を知り、救いを求めたいとその弟子に面会を求めました。面談を初めていきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、ようやくそこへ法然が現れました。

このとき直実は法然に対して「後生」について真剣にたずねたといい、このとき法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり」と応えました。これは罪には軽い重いはない、念仏を唱えすれば必ず救われる、というほどの意味でしょう。

この言葉を聞いて直実は、さめざめと泣いたといい、実は刀を研ぎ始めたのは、法然の前で切腹するか、手足の一本ほども切り落とそうと思っていたのだといいます。

この法然や熊谷直実も、史実の上でも実在した人物であり、こうした話の信憑性は高いようです。法然の父は、押領使という宮廷の警察長官のような官吏だったようですが、法然が9歳のとき、土地争論に関連して敵対する武士に襲われて重傷を負いました。

やがて傷が悪化して瀕死となりますが、その死に際に法然に仇討ちはならぬと釘を刺したため法然もこれを断念し、母方の叔父の僧侶もとに引き取られ、自らも仏道を進むことになりました。そしてのちに浄土宗の開祖と仰がれるようになる人物です。

一方の直実の家も武家であり、その祖父は若いころは源氏の武将として名を馳せたとされます。実はこの熊谷家は平家の流れを汲む家柄であり、そのあととりである祖父はその名を「平盛方」といいました。

上皇の身辺を警衛したり御幸に供奉した北面武士であり、天皇家を操る平清盛の父で、清盛に反発していた平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑されました。このため熊谷家は没落しました。

このとき赤子であった息子の平直貞は、乳母に抱かれて武蔵国に落ち延びたといい、成長後も所領もない寄寓の身でした。が、あるときその育った坂東の地において見事な熊退治を行い、これが領主の目に留まり、ようやく所領を得ることができた、といます。

そしてこの平直貞こそが、熊谷直実の父となります。この所領を得たとき、平の名を捨てて熊谷家の養子となっており、熊谷家は源氏に仕えていたことから父の直貞も直実も源氏方の武将になりました。が、元は坂東平氏の血を引く流れであったわけです。

時代が変わって立場も変わり、同じ平氏の若者を討たざるを得なかった、というところが、この「敦盛」という演目により悲哀を与え、と同時により深みを与えているわけで、当時の武将たちが好んでこれを舞ったというのは分かる気がします。

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その後の直実がどうなったかといえば、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家し、法名を法力房 蓮生(れんせい)としました。

出家から2年後には鎌倉で昔の同僚の頼朝と再会していますが、このときは泣いて懐かしんで頼朝と語り合ったといい、武骨な人柄で知られていた直実こと蓮生が頼朝にとつとつと仏法を語ったことは周囲を驚かせたといいます。

その後この頼朝の庇護を受けるようになった蓮生は数多くの寺院を開基していますが、その後、京都に戻り、建久8年(1197年)、錦小路東洞院西にあった、父・貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して1「法然寺」を建立し、さらに翌年には粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基しました。

さらにその後生まれ故郷の関東に帰った蓮生は、そこに小さな庵を建て、念仏三昧の生活を送ったといいます。しかし、建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれる、すなわちその日に死する、と予告する高札を武蔵村岡の市に立てました。

ところが、その春の予告往生は果たせなかったため、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われています。享年66。

直実の遺骨は遺言により、京都粟生の光明寺の念仏堂に安置されましたが、この直実の墓は師匠である法然の廟の近くにあります。また一ノ谷で亡くした直家の墓もこの直実の墓に並んであるそうです。

高野山にも直実の墓があるといい、これはおそらく分骨したものでしょう。敦盛の墓と並んでいるそうで、直実は建久元年(1190年)に法然の勧めにより、ここで敦盛の七回忌法要を行っています。

直実が晩年暮らした庵は、その跡に天正19年(1591年)幡随意白道上人という人が寺を建て、これは「熊谷寺」として現在も地域の人々に親しまれています。また、熊谷直実の「熊谷」の苗字は、そのまま、この寺のある埼玉県「熊谷市」にその名を残しています。

ところで、敦盛において一ノ谷の戦いで死んだとされる、直実の嫡男直家の戦死は実は脚色だそうです。

謡では死んだことになっていますが、実際には刀傷を受けて重体になったのをなんとか生き延びたようです。その息子の怪我を見舞った直後にちょうど敦盛が現れ、平家憎し、と憤った直実が一騎打ちをしかけた、というのが真相のようです。

この直家は、直実が出家してしまったためこれに代わり、家督を継いで53歳で死去しており、これは人生50年、という当時の平均寿命をほぼ全うした年齢といえます。

その父子はその後何回生まれ変わりを遂げ、今、何回目の生まれ変わりを経験しているでしょうか。もしかしたら、あなたの隣人がその人かもしれず、またあなたも何度も何度も繰り返し生まれ変わり、23億年あまりをこの人間界で過ごす中で、同じ人物に何度か遭遇しているに違いありません。

しかし、何度生まれ変わってもその一生は昔ならたかが50年、そして今は80年にすぎません。

若いころには時間はいくらあっても構わないと思うものですが、齢を重ねるにつれ、その次に控えている次の人生を考えれば、時の流は速ければ速いほど良いと無意識に思うようになるものなのかもしれず、23億年という途方もない時間を過ごすためにも、死期が近づけば近づくほど時の流れを速く感じるようなしくみになっているのかもしれません。

できれば一度その時間の流れを止めて、これまでの旅の経過を味わい、またこれからの行先を見極めたいと思うのですが、なんとかならないものでしょうか。

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宮島から五年……


今日6月20日は、我々二人の結婚記念日です。

広島の厳島神社で挙式をあげてから、早5年が経ったわけなのですが、5年といえば、人生50年といわれた昔であればその十分の一。何かと「一時代」として語られることの多いまとまった時の経過であるわけですが、不思議と今日はこれまでのことを思い、何か物思いにふけりたい、という気分でもありません。

はや倦怠期か!?と自分の感情の奥を探ってみるのですが、そういうのでもないらしく、今の生活が満ち足りていないとか、不満があるとかいうのでもなさそうです。

何やら出家した坊さんのような心境であり、過去5年間の記憶が妙に淡く薄いのは、それだけ波風が少ない期間だったのかな……と考えてみるのですが、結婚以降の度重なる引越しや家の売却にまつわる騒動を考えると、けっして平らな道だったわけでもありません。

おそらく、最近ようやく生活が落ち着いてきたので、ちょっと一休みしたいという気分なのだと思うのですが、そんな気持ちに沁み入るような今日のしとしと雨はちょうどよいかんじです。

そういえば5年前の今日の厳島も雨模様でした。せっかくの結婚式なのに雨なんて……とその日の朝には思ったものですが、水にゆかりのある神社での挙式に雨という環境は非常にしっとりとしたものでした。

あまりいいたとえが思い浮かばないのですが、何やら「羊水」に包まれていたというのでしょうか、今思い返してみても妙に心地のよい一日であったという記憶がいまも残っています。

今日の伊豆と同じくあまり気温が高くなかったことも関係しているかもしれません。これで暑くて蒸し暑い一日だったならば、着ていた衣装も分厚かったことからおそらくかなり苦痛な一日だったはず。

それがそうならずに、心地よいと思える記憶となって今も残っているのは、そうした気候のせいでもありますが、やはり我々の結婚式を祝福してくれた大勢の人達のおかげ、そしてあちらの世界で見守っていてくれる方々のおかげでもあったわけであり、改めて感謝の念が沸いてきます。

この先何年生きるか知りませんが、毎年この心地よさを思い出させてくれる「何か」には本当に感謝したいと思います。

さて、そんな結婚記念日に何を書こうかなとさきほどから考えながら言葉遊びを続けているのですが、やはり結婚式にちなんで、宮島こと、厳島について少し綴っておこうかなという気分になりました。

宮島といえば、現在では国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れているそうで、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト「Trip Advisor」が「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20のうちの第1位であると発表したといいます。

さきごろ登録が決まった富士山と同じく、1996年にユネスコの世界遺産に指定されている文化遺産でもあります。厳島神社の全域とその背後にそびえる弥山の原始林が1996年にユネスコの世界遺産として登録されました。

また、島の海岸の一部は昨年の7月に、ラムサール条約に登録されました。ラムサール条約は、湿地の保存に関する国際条約で、水鳥を食物連鎖の頂点とする湿地の生態系を守る目的で制定されたもの。水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として指定されたわけであり、弥山の原始林とも併せて日本でも数少ない希少な自然環境といえます。

なぜこれほど良好な自然が残っているかといえば、その理由は島全体が「神域」として保護され、信仰上の理由から人間活動がほとんど行われてこなかったためです。

その創建は、推古天皇の時代にまでさかのぼり、593年(推古天皇元年)に、このころ厳島に住んでいた豪族の「佐伯鞍職(さえきのくらもと)」により厳島神社が創建されたと伝えられています。この佐伯氏はその後代々の厳島神社の神主家を世襲していくことになります。

島の西側の海岸では、奈良・平安時代の製塩土器が数多く採集されているそうで、この当時から盛んに塩作りが行われていました。青銅製の鏡も見つかっているとのことで、10世紀までにはすでに、祭祀の場になっていた可能性があるとのことです。

現在の威容が構築されたのは、平安時代末期です。1146年(久安2年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていましたが、1156年(保元6年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受けたといいます。

このころちょうど保元の乱・平治の乱が勃発し、世相は混迷していました。しかしこれらの乱を逆に利用して朝廷内の権力闘争を制した清盛は、正三位というそれまでの武士は手にしたこともなかったような高い官位を得たにもかかわらず、さらに高い官位を得ようと厳島神社の造営を開始しました。

「寝殿造」とよばれ、現在も継承されているこの海上に浮かぶ壮麗な建物は、1168年(仁安3年)に最初に造営されて以来大きく変わっていないといいます。清盛はここに畿内の河内・四天王寺から舞楽の様式を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納しました。

これらの工芸品の中でも最も有名なのが、絢爛豪華な装飾を施した平家納経であり、こちらは国宝に指定されています。平家一門がその繁栄を願い、厳島神社に奉納した全30巻からなる経典類であり、当時の工芸を現代に伝える一級史料です。

経典を筆写したのは平家族の清盛・重盛・頼盛・教盛などであり、それぞれ一巻を分担する形で筆写したといい、完成までには3年もかかったといいます。

清盛と平氏一族がこのように厳島を重視した理由は、日宋貿易にあったようです。父の忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ていたことから、清盛もまた一層の貿易拡大を狙っており、日本最初の人口港である「博多湊(博多港)」や現神戸港の一部でもある大輪田泊を開いて、宋からここへ至る瀬戸内海航路を掌握しようとしました。

「厳島大明神」は宋からの貿易船が畿内へと向かう際、瀬戸内海沿いに沿って東進する際に最初にある海上神社であり、清盛は自らの財でここを整備し、日宋貿易航路の守護神と位置づけることによってその航路もまた自らのものであるとアピールしたかったようです。

こうした清盛の庇護によって厳島には京の雅な文化も導入されるようになり、京の文化人たちもさかんに島を訪れるようになります。

後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参したことから、社殿の装飾も京以上にきらびやかなものが施されるようになり、また、宋との貿易に伴い中国人による厳島参詣までも行われるようになりました。

しかし、その後、平家が壇ノ浦の戦いを最後に滅亡すると、時代は源氏が統治を行う鎌倉の世に入っていきます。源氏は、最初のうちは厳島神社を崇敬していたようですが、北条氏の台頭により幕府が執権政治時代に突入すると、北条氏はあまりこれを顧みなかったことから、かつて誇ったその栄華も徐々に衰退していきます。

神主家を世襲していた佐伯氏は、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇側についていたために乱後に神主家の座を奪われ、代わって鎌倉幕府の御家人の「藤原親実」が厳島神主家となりました。

承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになっていましたが、後鳥羽上皇はこれを覆そうとして敗れたのです。

こうして藤原一族による統治となった厳島神社ですが、あまり管理状態はよくなかったようで、1207年(承元元年)と1223年(貞応2年)に火災に遭っています。このとき朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、その後も戦国時代にかけての時代は厳島神社の長い歴史において、最も荒廃した時期であったと伝えられています。

ただ、そんな中でも参詣する人は絶えず、秋の大法会などもきらびやかに開かれ続けていたといいます。

とくに安芸や周防の人々は相変わらずこの島を愛し続けており、厳島はこのように地元の信仰の篤い人々によって守られていたことから現在でもこれらの人々によって培われてきた独特の風習が残っています。藤原一族が神社を管理するようになる以前の佐伯氏の時代から伝えられてきたもののようです。

その風習のひとつとしては、「ケガレの忌避」があります。島全体が神域(御神体)とされたため、島民には血や死といった「ケガレ」は絶対回避しなければならない、という風習があり、例えば島に死人が出ると、わざわざ対岸の宮島口にまで渡して葬っていたといいます。

現在の厳島でも、島には一基の墓もなく、墓地もありません。こうした埋葬地は、島の対岸のJR宮島口駅のやや西にあり、ここはその昔「赤崎」と呼ばれていました。ついほんの昔までは死人が出ると、その遺族は喪が明けるまでこの赤崎の地にとどまり、島に戻ることができなかったそうです。

かつて島の人々は「~の向こう」という言い方を避けていたといいます。「向こう」とは、すなわち対岸の赤崎のことであり、このことばを口にすると人に「あの世」を連想させ、これがケガレにつながるというわけです。このため日常の会話でも、わざわざ「~の向こう」の代わりに、「~の前」と言い換えていたそうで、こうした風習は第二次世界大戦頃までも続いていたといいます。

また、島の人は極端に血を嫌います。昔は、女性がお産をするとき、出産が近づくと、対岸に渡って出産したうえ、100日を経てからでないと島に戻れないしきたりであったそうです。

お産には出血が伴います。「婦人、児を産まば、即時に、子母とも舟に乗せて、”地の方”に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」と昔の厳島神主家の宗主が書き記しており、この「地の方」とはすなわち対岸の赤崎のことです。

血を嫌う風習は徹底していて、このほかにも女性は、生理の時期ですら島の神に遠慮したいたようです。生理になった女性は町衆が設けた小屋に隔離されて過ごさせていたといい、こうした小屋は、町から離れた弥山の中腹に設けられ、ここは「あせ山」と呼ばれました。

「あせ山は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし」と記録に残っているそうです。

厳島にはこのように血や死人を嫌うという風習がありましたが、このほかにも耕作や機織りを禁止するという風習もありました。

鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられていましたが、これはおそらく神域である島の土地に鍬を入れることはすなわちそのご神体を傷づけるということにつながると考えられたためでしょう。

また島では、「女神の御神体内」であることを理由に、古来より機織りや布さらしをも禁忌とされていました。ここのところが私にはよく理解できないのですが、これらの仕事もまた神さまの「神職」であることからこれを横取りしてはならない、ということなのでしょうか。

厳島神社の祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)の三人の女神です。

伝承によれば、この三人は素戔男尊(すさのおのみこと)の娘とされており、2羽の神鴉(しんあ、神の遣いのカラス)に導かれて現在厳島神社のある場所に鎮座したといいます。このときから三人が島に「居つく」ようになったため、「神の斎(いつ)く島」の意もあって厳島と呼ぶようになったともいわれています。

このように、島全体が「神」であることから耕作も機織りも許されず、「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」が長い間守られてきましたが、とくに耕作は厳しく禁じられていたそうで、島に生活する人のために対岸から物資を携えた行商人が船を出す光景が第二次世界大戦後まで見られたといいます。

ちなみに厳島の対岸一帯は「廿日市(はつかいち)市」という町になっており、これは「二十日の市」にちなんだものです。鎌倉時代に厳島の人々のために立てられた市場から発展した町であり、その隣には五日市という地区もあります。

前述のように血や死を嫌う島であったにもかかわらず、厳島では一度だけ大規模な戦闘が行われ、多くの血が流され、多数の死人が出たことがあります。

この戦闘は、戦国時代に入り、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつあったものの周防・長門を領有していた大内氏の間で起こったものです。

厳島は清盛の時代から日宋貿易の経路の途中にある重要拠点であり、周防(現山口県)から安芸(現広島県)方面に向かうにあたっては水運の要衝とみなされていました。

周防ではこれより前、天文20年(1551年)に大寧寺の変という乱があり、このとき周防の主であった大内義隆を討って実権を握ったのは陶晴賢でした。

一方安芸の国で勢力を伸ばしていた毛利元就は、それまでは大内氏とどちらかと言えば仲良くやっていましたが、権力者が変わったことにより必然として陶氏と争うようになり、このため厳島の「宮尾」という場所に宮尾城を築きました。

この宮尾城の跡地は現在も残っていて、宮島側にフェリーが発着する桟橋のすぐ近くの高台にあります。行けばすぐわかるのですが、この場所に立つと、宮島海峡全体が見通すことができ、厳島が周防から安芸へ水運を利用する際には、とくにに重要な位置を占めていました。

ここに城を築くことで水運路を行き交いする船を監視することができたわけですが、毛利元就がここに城を築いたのには実はもうひとつ理由がありました。

それは、この島に兵を集めることによって晴賢の関心を引き、厳島に陶軍を誘引するという、いわば囮の役割を持たせることでした。

元就は「今厳島を攻められれば困ると元就が言った」といった類の嘘の情報を流させたりして、たくみに情報を操り、陶軍を厳島におびき寄せようとしましたが、これが効を奏し、まんまと晴賢を厳島に向けて出撃させることに成功します。

晴賢自身が軍を率いて厳島に上陸したのは1555年(天文24年)の10月のころのことであり、岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられています。

陶軍は現在の厳島のあるすぐ近くの海岸に上陸し、神社近くの丘の上(塔の岡、現在の千畳敷(豊国神社)がある付近)に本陣を置き、宮尾城を包囲して攻撃を開始。この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いていますが、これは易でいう悪日を避けたためといわれており、この攻撃の遅延が陶軍には致命傷になりました。

この毛利と陶の戦いにおいては、兵力の差に大きな隔たりがありました。毛利軍の主力は対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していましたが、兵数は4千から5千程度でした。

この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に陶軍を誘い込んだといわれており、これにより陶軍は大軍を狭い場所に押し込まれる結果となり、身動きの取りにくい状況に追い込まれてしまったのです。

元就は海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、傘下の毛利水軍ばかりでなく伊予の村上武吉・村上通康らの伊予水軍にも援軍を求めていたといいますが、この水軍も約300艘を持つにすぎず、陶軍の500艘に比べて劣勢でした。

草津城から本州側の宮島口付近にまで前進してきた毛利軍は、荒天の中、二手に別れて密かに厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、元就・隆元父子率いる主力部隊は、敵の陶軍が駐屯する塔の岡とは山をひとつ越えた島の南東側にある「包ヶ浦」に上陸。

この時、元就は上陸に使った舟を島に残さず全て対岸に戻させ、将兵に「後戻りは出来ない」という決死の覚悟をさせたと言われます。こうして島の裏側から陶軍に対して奇襲攻撃を仕掛けようとしたわけですが、問題は深い原始林が生い茂る山の中をどうやって陶軍が居座る場所まで辿りつくかでした。

案の定、元就・隆元父子は闇の中で道に迷ってしまいますが、このとき毛利軍の前に一匹の牡鹿が現れたといいます。この鹿の導きにより、無事に塔の岡へ導いた、と毛利家に伝わる軍記書の「陰徳太平記」には書いてあるそうですが、毛利家に伝わる文書ですから無論のこと、このあたりのことはかなり脚色されているでしょう。

ちょうどこのころ、毛利軍の別動隊である小早川隆景率いる軍隊が、現在の厳島神社への表参道商店街の海側にあたる、有之浦(ありのうら)付近に上陸。こちらは、なんと白昼堂々、宮尾城を包囲していた陶軍の部隊の前を通り、「わしらは援軍じゃけん」と偽って通過し、まんまと宮尾城に立て籠もる味方部隊との合流に成功しています。

この小早川隆景という人は、毛利元就の3男に当たり、毛利家とその一族である吉川家、小早川家の嫡流の1人として、毛利氏の発展に尽くした人です。毛利水軍の指揮官としてその名を馳せ、豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け文禄年間には五大老の1人に任じられています。

「小早川隆景のある限り、毛利家の政道は乱れまい」とまで言われた実直な人だったといい、豊臣秀吉からは「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」と評され、また「この世に政治ができるのは直江(兼続)と小早川隆景である」とまで言わしめたといいます

少年時代、兄の元春と4人ずつの家臣を従えて5:5の雪合戦をした時、一回目は猛烈に攻めてくる元春に敗れました。

ところが、二戦目は初めのころ3人だけで相手と戦い、不利を装って徐々に後退し、十分に敵を引きつけたところで体力を温存していた残りの2人に側面から攻撃させ勝利を得たという逸話が伝わっており、幼いころからなかなかの策士だったようです。

また、急いで手紙を送る必要があったとき、祐筆に「急用である。ゆっくり落ち着いて書け」と言ったそうで、こうしたユーモアのセンスもあったようです。敵前を悠々と通りすぎて城に入るという芸当をなしとげたのも、そうしたユーモアと機略、胆力がある人物であったからならではのことでしょう。

こうして、陶軍の背後(山側の紅葉谷側)に迫った毛利軍は、城内の小早川軍らと呼応し、未明に一斉に攻撃を仕掛けました。この前夜は暴風雨だったといい、そんなときに敵が仕掛けてくるわけはないいう油断が陶軍にはあったようです。

加えて狭い島内に大軍がひしめいており、とりわけその中心部隊は厳島神社の施設が集中する本殿周辺に集まっていたため思うように進退できず、混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいるうちに総崩れとなりました。

陶軍は我先にと島からの脱出をしはじめ、舟を奪い合ったため、沈没したり溺死する者が続出したといいます。大将の晴賢も島外への脱出を図ろうとしますが、既に海上は伊予水軍に制圧されていており、脱出の為の舟も部下の将兵達によって使い切られて無くなっていたそうです。

脱出することもできずに浜沿いに沿って西南方向に逃げますが、厳島神社から5kmほど離れた大江浦まで来たところでとうとう諦め、部下の伊香賀隆正の介錯によって自刃して果てました。それまで付き添ってきた伊香賀ほかの武将たちも刺し違えて自刃。

晴賢に代わって本陣で戦った三浦房清という武将は、最期に30名余りとなるまで奮戦した末に討ち取られたといいます。このほか陶家重鎮だった弘中隆兼・隆助父子は厳島神社裏手の山奥にある大聖院を経て山側まで後退。

弥山沿いの谷を駆け登った後、隣の山の絵馬ヶ岳(現駒ケ林)へ逃げ登り、二日間ここで抗戦したもののやはり討ち死にし、こうして陶軍は全滅しました。

この戦いの4日後、毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現在の広島県廿日市市)に凱旋、この時晴賢の首実検も行っています。この首実検の際に元就は、主君の大内氏を討った逆臣であるとして晴賢の首を鞭で3度叩いたといいます。

この戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後元就は血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせることまでしたといいます。

これはひとえに厳島全体が厳島神社の神域であったためであり、そこで血を流してしまったことによる神罰をおそれたためでしょう。

これ以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくことになりますが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめました。

現在も美しいままで残る厳島神社の基盤は、この後の元就の社殿大修理によるところも大きいといいます。

このあと、時代は安土桃山の世となり、厳島神社は豊臣秀吉によって管理されるようになります。1587年(天正15年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じており、こうして出来上がったのが、塔の岡に建てられた豊国神社こと、千畳敷です。

柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦をふくなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物が完成する予定でしたが、秀吉の死により工事が中断され、御神座の上以外は天井が張られることなく終わり、板壁もない未完成のままで今日に伝えられています。

本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治の廃仏毀釈のときに厳島神社末社豊国神社本殿となって現在に至っています。

以前のブログで、ここから眺める瀬戸内海の姿が好きだと書きましたが、私の子供のころには現在ほど樹木が茂っておらず、ここからの眺めは本当に素晴らしいものでした。現在は少々木々が景観を邪魔しており、これは早くに伐採してほしいものです。ただ、世界遺産に指定されたこともあり、こうした伐採もままならないのかもしれません。

1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となりました。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われたりするなどしています。

1876年(明治8年)、老朽化していた海上の大鳥居が建て替えられ、これが現在の朱の大鳥居になります。

1889年(明治22年)、町村制により厳島町が発足。区域は厳島全島。1923年(大正12年)、厳島は国の史蹟名勝に指定され、以後近代的な保護・整備体制が充実していくようになります。

第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、厳島の周辺海域は重要さを増しましたが、古来からの神域でもあることを理由に大規模な軍事施設が作られることはありませんでした。

ただ、明治年間に、広島湾の防衛の一翼を担うために、島の北東部の鷹ノ巣というところに砲台が作られました。しかし、その後使われることもなく、大正15年に廃止されており、現在その砲座の跡や観測所などの遺構群が残っているそうです。

1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下では、爆風により島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けたそうですが、社殿ほかは無事であり、その美しい姿を現在に伝えています。

ただ、老朽化も進んでいたことから1952年(昭和27年)には「昭和の大修理」が行われ、同年竣工。ところが、1991年(平成3年)には、台風19号により厳島神社の左楽房(国宝)や能舞台(国宝)などが倒壊し、甚大な被害が出ました。

この修復には数年かかったようですが、どうにか元通りになり、その甲斐もあってか1996年(平成8年)には世界文化遺産に登録。この年同時に広島市内の原爆ドームも世界遺産に登録されています。

しかし、2004年(平成16年)、ふたたび台風18号により厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水するなどの大規模なダメージを受けます。

我々が結婚式をした2008年には、既に完全に修復は終わっていましたが、近年は回廊などへの浸水がこれまでよりも多くなったといわれ、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出ており、地球温暖化との関連が指摘されています。

我々の思い出の場所が台風で全壊、なんてことはないと思いたいところですが、形あるものはいつかは滅びるもの。いつかはそういう日もくるかもしれません。が、我々が生きている間にはせめて今のままの美しい姿をとどめて欲しいものです。

富士山は、今後入山料を課すことが決定されたようですが、厳島神社でもお詣りするのに入場料が課されています。それほど高くなかったと思いますが、こうした入場料の積み立て金が万一の際の補修費に使われているのだとすれば、徴収されてもあまり惜しいという気にはなりません。

ただ、過去から頻繁にここを訪れている私などのために、年間パスポートならぬ、生涯パスポートなどでも発行してもらえればありがたい。ましてやここで結婚式を挙げているのですから、一生タダにしてくれる、という制度があってもいいのでは。割引でもいいですが……

……なんてことを書いていると宮島の神様のお怒りを受けるかもしれないので、このくらいでやめておきましょう。

さて、今日から結婚6周年目に突入です。これからさらにあいもかわらぬ一年が過ぎていくのかもしれませんが、できればこのブログもこのまま続けていたいところ。来年の今日のブログは何をネタにしているでしょう。今から考えておくことにしましょう。