伊豆では、そろそろ梅の季節が終り、河津桜の樹間にも緑葉が混じる頃になってきました。
あと一週間もすれば南伊豆ではソメイヨシノが咲き始めるところも出てくるでしょう。今この原稿を書いている場所から少し離れた通り沿いのサクラの木も、気のせいか少しピンクがかってきたような気がします。
それを眺めながら、去年咲いたその桜の色などを思い出したりもしているのですが、あれからもう一年経ったか、と改めて時間の過ぎるスピードの速さを感じています。
再三このブログでもボヤいていることではあるのですが、齢をとると時間の経過が早くなります。
同じことを何度も何度も繰りかえしてきたために、年齢を重ねれば重ねるほど、そのひとつひとつの所作に要する時間が効率よく短くできるようになります。そのために経過時間が短く感じられるのだ、という人もいるようです。確かに一理あるかもしれません。
人生は経験の連続なので、経験を積めば積むほどいろんなことができるようになるため、それらに要する時間も短くて済む、というわけですが、しかしと同時にこなすことができる仕事も増えるので、一層多忙になります。
忙しいときにはやはり時間の経過などかまっていられなくなるわけであり、これもまた時間が速く過ぎるように感じる要因なのでしょう。
実際、会社勤めをしている人達、とりわけ50代の人たちの仕事量というのはかなりのものではないでしょうか。20代の若い人に比べれば格段に効率的な仕事ができるのはもちろんのこと、30代、40代の後身の管理もしつつ、対外的には営業にも出ていかなければならないし、社内的にも重要なポストに就くことも多くなり、それだけ会議も増えます。
それだけに心労も多く、仕事のストレスによってうつ病などの心因性の病気にかかったりもします。アトピーやじんましんといった症状は精神的なものから来ることも多いといい、痔ろうについてもまたしかりです。また、タバコや酒など体によくないものに走りがちです。
なので、仕事ができる反面、このころから急速にふける人も多く、あなた、ホントに50代?という、どうみても70代にしか見えないオッサンや淑女がいたりします。
その昔は、人生50年といわれた時代もあったようなのですが、これは現在のように疫病対策やさまざまな病気の治療方法が確立していなかったためであり、昔の日本と同じくらいこうした対策が十分でないアフリカの諸国の多くは、現在でも45~55歳が平均寿命のようです。
片や、今の日本人の平均寿命は82.6歳で世界一であり、女性の平均寿命は日本が85.99歳で世界一、男性の平均寿命は3位で、79.19歳となり、いまや人生50年どころではなく、人生80年の時代です。
が、その昔は50年も生きれば十分、さらに60にもなろうものなら、それはそれは長寿ということで、いわゆる還暦のお祝いをしたりして大はしゃぎをしたわけです。赤色の頭巾やちゃんちゃんこなどを贈り、その長寿を祝ったりしますが、これはかつては魔除けの意味で「産着(うぶぎ)」に赤色が使われていたためです。
60歳は、12干支×5サイクルの終点であり、この時点で、生まれた時に帰るという意味でこの慣習があるわけですが、欧米でも、ダイヤモンドを60周年の祝いに贈って60周年の象徴とする風習があるようです。
では、50歳になったら何かお祝いをするのか、といえば特にそうした風習はないようです。ただ、中国では、50歳のことを「杖家(じょうか)」と呼び、この年になると家の中で杖を用いることが許されるといい、ほかに天命、もしくは知命という言葉があって、これは「五十にして天命を知る」という意味で、天が自分に与えた使命を自覚することです。
50にして立つ、という言葉があるかどうかは知りませんが、それだけ責任が重い年齢に達したということでもあり、天から与えられた使命を知ったからには、その齢からはさらにその天命を全うすべく日々身を大切にして生きよ、というわけです。
有名な話しとして、織田信長が、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」という「敦盛(あつもり)」という謡を口ずさみながら舞うのが好きだったという逸話があります。
この「人間」は「じんかん」とも読むそうですが、人間の寿命は50年でしかない、という意味だと思っている人も多いようですが、実は意味が少し違うようです。
このあと、「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と続くため、人の一生は50年ほどにすぎず、一度世を受けたものは、この年齢ほどにもなると死んでしまうのが常だ、ああ無常、というふうに解釈しがちですが、違うようです。
信長が生きていた16世紀には、「人間」を「人の世」の意味で使っていたといい、それゆえ「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年という歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」という意味になります。
そもそも、「下天」と何か。これは、本来は「化天」と書き、仏教でいうところの、「六つの欲」の5段階目のことです。
仏教には、「六道」という世界観があり、これは、一番底辺にある地獄界から始まって、餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界というふうに続きます。これらはすべて欲望に捉われた世界、つまり「欲界」でありこの六道の世界を経て、ようやく仏様が住むさらに上の世界へと進める、とされています。
一般に人間界の上にある天上界には欲はない、と思いがちですが、この天上界にも欲界があり、ただし、これは人間の欲に比べれば限りなく欲が薄く、物質的な「色界」と精神的な「無色界」の二つに分けられています。
この色界と無色界の下に、我々の住む5番目の人間界があるわけですが、この世界は別名を、「化楽天(けらくてん)」または、楽変化天(らくへんげてん)といい、これを略したのが「化天」です。
「天」というのは仏教でいうところの「世界」のことであり、この天に住む者は、自己の五境、すなわち眼・耳・鼻・舌・身(色・声・香・味・触)の五感を駆使して、その世を娯楽する、とされています。
要するに、この五感を使わなければ生活できない我々が棲んいるのが人間界というわけですが、この六道のうちの、第5段階の化天では、ここに棲む住人の寿命は8,000歳とされています。
えっそんなに長く生きれるわけないじゃん、と思うでしょうが、そこは仏教の説話の話です。この化天住人の一昼夜は人間の800年に当たり、その寿命は8000年ですから、人間に換算すると、800×365×8000=2,336,000,000年も生きる、ということになります。
が、いくらなんでもそれだけの期間き続けることはできませんから、この間、何度も生まれ変わることになります。輪廻転生です。
従って、人間の人生を仮に50年とすると、4672万回ほど人間は生まれ変わる、ということになります。「100万回生きたネコ」という童話がありますが、それ以上です。もっとも、日本では最近寿命が長くなっているため、総平均すると、この生まれ変わり回数はもう少し少なくなるはずです。
つまり、上の「人の世の50年の歳月は、下天のうちのほんの少しの時間にすぎない」の「下天のうち」は「化天のうち」であり、化天住民である我々にとっては50年の人生は長いようであるが、これは23億歳の寿命を全うするうちの、ほんのわずかな時間にすぎない、という意味になります。
ところでこの化天がなぜ下天に変わったか、ですが、織田信長が舞った「敦盛」には、その原点になった「幸若舞」という舞があり、その初期のころの演目ではこれは「化天」となっていたようです。
その後、敦盛が人気演目になるに従い、「下天」に変わっていったわけですが、そう変わった理由はおそらくはあの世を意味する「天上」という言葉と対比させやすかったためでしょう。
が、ややこしいことに、実はこの下天というのは、実は上述の天上界も含めた「六道」それぞれに住む王様のうちのひとり(正確には一グループ)が住んでいる場所の名前です。
この6人(6組)の王の住む世界は、依然として欲望に束縛される世界であるため、それぞれを「六欲天」とも呼びます。そして、ここにいる王様とは、天上界から順番に、他化自在天(天魔波旬)、化楽天、兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん)、夜摩天(焔摩天)、忉利天(三十三天)、そして四大王衆天、となります。
この四大王衆天というのは、四天王のことで、これは我々が仏教彫刻でよく目にする、持国天・増長天・広目天・多聞天などです。この四天王がいる場所が実は、「下天」であり、六道の中では地獄界に相当する世界です。
上述のとおり、「化天」は欲界の上から2番目の世界ですが、その一番下の界のことを下天というわけで、ランクが4段階も違うわけです。そして、このランク付けでは、一番下の住民の寿命が一番短く、上に行くほど長くなります。
下天は一番下の階層になるため、ここの住民の寿命はかなり短くなり、500歳しかありません。「化天」では8000歳でしたから、地獄界の住民はその十分の一以下しか生きられないわけです。
従って、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の「下天」のところを「化天」とするか否かによって、その時間スパンは異なることになります。
が、いずれせよ、人間の寿命に対して、それはそれは長い時間ですよ、ということを謡っているわけですから、どちらを使っても、人の一生は、化天界(下天界)を通じての寿命よりも遙かに短くはかない、というもともとの意味を逸脱するものではありません。
「人間五十年、“下天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」「人間五十年、“化天”の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」でもどちらでもよく、人間の人生50年は、地獄界の500年、化天界の8000年というスパンを考えると、ほんの一瞬にすぎないね、だからくよくよするなよ、ということが言いたいわけです。
この人生50年を詠う、敦盛の原点となった、幸若舞というのは、中世から近世にかけて、能とは別に武家達に愛好された芸能です。能というのは、猿楽とも呼ばれ、明治時代以降は狂言とともに能楽と総称されるようになったもので、発祥の地の中国では、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていました。
幸若舞もこの能に発想のヒントを得て生み出されたことは想像に難くないのですが、能と違って日本独自の舞であり、また武家の中から出てきたところが宮廷で発達した能と異なり、その題材も武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多いようです。
後に武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たる、「源義家」から10代後の子孫に、「桃井直詮」という人物がおり、この人が始祖といわれます。そして幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が出たといわれています。ちなみに「幸若」のよみは「こうわか」です。
幸若丸は越前国、つまり現在の富山県に住んでいましたが、父の没後、比叡山の稚児となりました。生まれつき歌舞音楽に優れた才があり、草子に節をつけて謡ったのが評判になって「幸若舞」と呼ばれるようになったとのことで、彼の出身地が越前であることから、「越前幸若舞」とも言われます。
信長が愛したように、敦盛が代表的なものです。が、我々がよく知る敦盛は、信長の舞に代表されるような一場面にすぎませんが、実はそのストーリーはもっと長いものです。
これは、1184年(元暦元年)の源平合戦、またの名を「治承・寿永の乱」の際、須磨の浦における「一ノ谷の戦い」での出来事を描いたもので、この乱のとき、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめました。
このとき、平清盛の甥の平経盛の子で、若き笛の名手でもあった「平敦盛」は、退却の際に愛用の漢竹でしつらえた横笛を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。この笛は「小枝(さえだ)」という名品で、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇から賜ったものだといいます。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚上で馬を飛ばしますが、退却船の武士たちもこれに気付いて岸へ船を戻そうとします。しかし逆風で思うように船体を寄せられません。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにおり、いたずらに時間のみが過ぎようとしていました。
そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将に違いない、と見極め、敦盛のところまで来て一騎討ちを挑みました。敦盛は当初これを受けあいませんでしたが、直実はしつこく将同士の一騎打ちを迫り、これに応じないならば、兵に命じて矢を放ちかけさせるぞ、と脅しました。
退却船からは大勢の仲間が見ており、多勢に無勢な中、一斉に矢を射られて殺されてしまうような無様な姿をみせるくらいなら、と、敦盛は直実との一騎討ちについに応じてしまいます。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいます。
必死に抵抗するも組み伏せられてしまいますが、直実がいざその頸を討とうと、もとどりを掴んでグイとその顔を上げさせると、その立派な鎧姿からかなりの年配者と思っていたその武将は、なんと元服間もないようにも見える紅顔の若武者であることを知ります。
重ねて名と齢を尋ね、これに答えた敦盛は、名は名乗らず、しかしわずか数え年16歳だとだけ答えました。実は、直実は、この一ノ谷合戦の最中に長男を討死させたばかりであり、我が嫡男と同い年だというこの少年の哀れな姿をみているうちに、ついつい亡くなったその息子の面影を重ね合わせてしまいます。
生かしておけばまだ将来あるであろうこの若武者の将来を思い、討つのを惜しんでためらうのは当然であり、このまま討とうかそれとも何か理由をこじつけて助けようかと心の中での逡巡が始まります。
この姿を見ていた同道の源氏諸将は、次第にこれを訝しみはじめ、ついには、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めました。ここまで言われては仕方がないと、ついに直実は心を痛めながらもついに敦盛の頸を討ち取りました。
別に伝わっている話では、息子を失った直実がその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだとき、直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えたとなっています。
これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしましたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったとされます。このとき敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えたとも伝えられています。
いずれにせよ若き敦盛はこれによって短い生涯を終えますが、心ならずも息子と同年齢のこの若者を討ったことがその後も長く直実の心を苦しめるようになります。
結局この一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、敦盛以外めぼしい武将を討ち取ることのできなかった直実には、合戦後の論功行賞も芳しくなく、同僚武将との所領争いも不調でした。
翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実はやがて世の無常を感じるようになり、ついには出家を決意して世をはかなみながらその残りの人生を送るようになります……。
と、謡の敦盛のストーリーはここまです。が、敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実はその後、出家の方法もわからず方々を放浪したといいます。
やがて高僧として名を知られていた「法然」の存在を知り、救いを求めたいとその弟子に面会を求めました。面談を初めていきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、ようやくそこへ法然が現れました。
このとき直実は法然に対して「後生」について真剣にたずねたといい、このとき法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり」と応えました。これは罪には軽い重いはない、念仏を唱えすれば必ず救われる、というほどの意味でしょう。
この言葉を聞いて直実は、さめざめと泣いたといい、実は刀を研ぎ始めたのは、法然の前で切腹するか、手足の一本ほども切り落とそうと思っていたのだといいます。
この法然や熊谷直実も、史実の上でも実在した人物であり、こうした話の信憑性は高いようです。法然の父は、押領使という宮廷の警察長官のような官吏だったようですが、法然が9歳のとき、土地争論に関連して敵対する武士に襲われて重傷を負いました。
やがて傷が悪化して瀕死となりますが、その死に際に法然に仇討ちはならぬと釘を刺したため法然もこれを断念し、母方の叔父の僧侶もとに引き取られ、自らも仏道を進むことになりました。そしてのちに浄土宗の開祖と仰がれるようになる人物です。
一方の直実の家も武家であり、その祖父は若いころは源氏の武将として名を馳せたとされます。実はこの熊谷家は平家の流れを汲む家柄であり、そのあととりである祖父はその名を「平盛方」といいました。
上皇の身辺を警衛したり御幸に供奉した北面武士であり、天皇家を操る平清盛の父で、清盛に反発していた平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑されました。このため熊谷家は没落しました。
このとき赤子であった息子の平直貞は、乳母に抱かれて武蔵国に落ち延びたといい、成長後も所領もない寄寓の身でした。が、あるときその育った坂東の地において見事な熊退治を行い、これが領主の目に留まり、ようやく所領を得ることができた、といます。
そしてこの平直貞こそが、熊谷直実の父となります。この所領を得たとき、平の名を捨てて熊谷家の養子となっており、熊谷家は源氏に仕えていたことから父の直貞も直実も源氏方の武将になりました。が、元は坂東平氏の血を引く流れであったわけです。
時代が変わって立場も変わり、同じ平氏の若者を討たざるを得なかった、というところが、この「敦盛」という演目により悲哀を与え、と同時により深みを与えているわけで、当時の武将たちが好んでこれを舞ったというのは分かる気がします。
その後の直実がどうなったかといえば、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家し、法名を法力房 蓮生(れんせい)としました。
出家から2年後には鎌倉で昔の同僚の頼朝と再会していますが、このときは泣いて懐かしんで頼朝と語り合ったといい、武骨な人柄で知られていた直実こと蓮生が頼朝にとつとつと仏法を語ったことは周囲を驚かせたといいます。
その後この頼朝の庇護を受けるようになった蓮生は数多くの寺院を開基していますが、その後、京都に戻り、建久8年(1197年)、錦小路東洞院西にあった、父・貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して1「法然寺」を建立し、さらに翌年には粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基しました。
さらにその後生まれ故郷の関東に帰った蓮生は、そこに小さな庵を建て、念仏三昧の生活を送ったといいます。しかし、建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれる、すなわちその日に死する、と予告する高札を武蔵村岡の市に立てました。
ところが、その春の予告往生は果たせなかったため、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われています。享年66。
直実の遺骨は遺言により、京都粟生の光明寺の念仏堂に安置されましたが、この直実の墓は師匠である法然の廟の近くにあります。また一ノ谷で亡くした直家の墓もこの直実の墓に並んであるそうです。
高野山にも直実の墓があるといい、これはおそらく分骨したものでしょう。敦盛の墓と並んでいるそうで、直実は建久元年(1190年)に法然の勧めにより、ここで敦盛の七回忌法要を行っています。
直実が晩年暮らした庵は、その跡に天正19年(1591年)幡随意白道上人という人が寺を建て、これは「熊谷寺」として現在も地域の人々に親しまれています。また、熊谷直実の「熊谷」の苗字は、そのまま、この寺のある埼玉県「熊谷市」にその名を残しています。
ところで、敦盛において一ノ谷の戦いで死んだとされる、直実の嫡男直家の戦死は実は脚色だそうです。
謡では死んだことになっていますが、実際には刀傷を受けて重体になったのをなんとか生き延びたようです。その息子の怪我を見舞った直後にちょうど敦盛が現れ、平家憎し、と憤った直実が一騎打ちをしかけた、というのが真相のようです。
この直家は、直実が出家してしまったためこれに代わり、家督を継いで53歳で死去しており、これは人生50年、という当時の平均寿命をほぼ全うした年齢といえます。
その父子はその後何回生まれ変わりを遂げ、今、何回目の生まれ変わりを経験しているでしょうか。もしかしたら、あなたの隣人がその人かもしれず、またあなたも何度も何度も繰り返し生まれ変わり、23億年あまりをこの人間界で過ごす中で、同じ人物に何度か遭遇しているに違いありません。
しかし、何度生まれ変わってもその一生は昔ならたかが50年、そして今は80年にすぎません。
若いころには時間はいくらあっても構わないと思うものですが、齢を重ねるにつれ、その次に控えている次の人生を考えれば、時の流は速ければ速いほど良いと無意識に思うようになるものなのかもしれず、23億年という途方もない時間を過ごすためにも、死期が近づけば近づくほど時の流れを速く感じるようなしくみになっているのかもしれません。
できれば一度その時間の流れを止めて、これまでの旅の経過を味わい、またこれからの行先を見極めたいと思うのですが、なんとかならないものでしょうか。