国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録する巨大地震により、地震動・液状化などによる被害だけでなく、巨大津波によって東北地方から関東地方までの太平洋沿岸一帯が壊滅状態になったことはいまだ記憶に新しいところです。
加えて福島第一原子力発電所事故を誘発し、日本は地震、津波、原子力災害というトリプルパンチを受けたわけですが、いまだその後遺症から抜け切れていません。今日という日を迎える前から再三テレビ報道などで復興の状況が伝えられていますが、それらの進捗が思わしくないことは、みなさんもご存知のとおりです。
この震災当時、我々家族は多摩地方のマンション住まいであり、ここも震度3強ほどの揺れに見舞われました。が、幸い私も含め家族全員が怪我をするようなこともなく、家の中の器物も棚から電球が一個落ちてこわれたぐらいの被害だけで済みました。
この日私はちょうど自宅で仕事をしていたので、その後の経過をテレビで注視していましたが、巨大津波によって次々と飲み込まれていく東北の各都市の惨状をみつつも、これは本当に現実なのだろうかと、なかば茫然としていました。
現在のようにメディアが発達してくると、こうした遠く離れた場所での災害の様子や事故の経過などを簡単に茶の間で見ることができ、そうした状況が現実の生活とあまりにも違うためにそのギャップを頭が整理しきれないためにああなったのだろうと思います。
こうした震災もそうなのですが、現在中東で起きているような戦争の状況などもまたこうしたメディアで目にするにつけ、なんと自分は無力なのだろう、といつも思うのですが、その無力感を埋めてくれるようなものはなかなか見つかりそうもありません。
地球全体を見渡した時、こうした災害や戦争がいったいどのくらい同時進行しているのだろう、とぼんやり思ったりもするのですが、さすがにメディアがいくら発達していても、また現在のようにインターネットが普及していても、それらすべてを同時把握する術はありません。
が、神様はすべてお見通しなのだろうな、と思うわけで、改めて人知を超えたそうした存在への畏敬の思いが沸いてきたりもします。
おそらくはこうした災害や戦災をも司った上で、別の場所では恵みをもたらし、全世界のバランスを取っていらっしゃるのだろうな、と推察するわけですが、さすると、こうした人類へ与える脅威の意味は何のだろう、と逆に改めて哲学的な思考に走ったりもします。
私は否定的ですが、大勢の人が死に、怪我をしたり、家を失ったりすることに意味があるとすれば、それは神様の警告であり、戒めである、という考え方をする人もいます。
1923年に発生した関東大震災後も、こうした災害は天譴(てんけん)によるものだ、という思想が流行したそうです。
東日本大震災が起こる前には、この関東大震災が、この当時の日本人にとっては直近の大災害であり、当時の人々の中にも異常な心理的反応が起こったのは当然のことですが、なぜこの、「天譴」という聞き慣れないことばが流行ったのかを調べてみました。
すると、「天譴」という思想はもともと儒教主義に基づくものであり、奈良・平安の王朝時代に既にこのことばは使われていたようです。本来の意味は「為政者に対する天の譴責」、すなわち、国の指導者に対する天の戒めということのようです。
このことばが何故この大正時代に再びよみがえったかといえば、これはそれ以前に起こった日清戦争や日露戦争による連戦連勝のためです。これらの戦争によって、一応日本は豊かになりましたが、その一方では戦争成金国として人々の心が傲慢になり、道徳心が極端にまで弛緩していた、ということが言われているようです。
震災前のわずか1~2か月間に、情死、姦淫、背任、背徳といった事件が相次いでいたといい、日本の国民生活はまったくもって無反省な、無省察な空虚なものになりつつあった、と指摘する人もいて、ここに大天災が起こって、国民の惰眠を覚醒させた、というわけです。
つまり浮かれすぎ、堕落した人々を懲らしめ、あるいは目をさまさせんがために天が地震を起こしたというのが、この大正版の「天譴論」です。
懲らしめのために天が地震を起こすなどということが実際にあると当時の人々が真底から信じたかどうかはともかくとして、戦争に次ぐ戦争、そしてそこでの勝利という背景を通じて、この「天譴論」に共感を示す人が、大震災体験者たちのうちに数多く含まれていたということは確かのようです。
たとえば内村鑑三は、その日記の中で次のように記しています。「東京は一日にして、日本国の首府たる栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判を全市の上に行うたように感ずる。時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば、人類の堕落は底止する所を知らないであろう。」
北原白秋などは、この「天譴」という言葉にその歌心まで揺すられたようで、いくつかの「天譴和歌」を作っています、その一つは、「世を挙り心傲ると歳久し天地の譴怒いただきにけり」であり、また「譴」という言葉は出てきませんが、「大御怒避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る」というのもあります。
このような「天譴」という考えに、知識人を含め当時の多くの人たちが心を引きつけられ賛意を示したということは、東日本大震災を経験した我々にも重要な示唆を与えてくれるように思えます。
今回の震災においても、これは天が我々の素行の悪さを見抜き、これを戒めたのだと考える人は少なくないのではないでしょうか。
しかし、この「天譴論」の本質は反省と自戒を含めた自罰的、あるいは自虐的な気分が人々を支配したものといえ、よくよく考えてみればその時々の時勢に乗ったいわば「気分」にすぎず、著しく合理性を欠いたものであるのは明白です。
「天譴」を振りかざす人々の間に強い自己反省の意識が含まれているのは確かであっても、そのことは、「天譴論」の軽薄さを薄めるものではありません。我々日本人が今回のような大災害を前にしたときいかに非合理的観念、態度に陥りやすいかを、教訓としてこの大正時代の事例は教えてくれているわけです。
ただ、この天譴論だけでなく、日本人はこうした災害に出会うとまず悲観的になり、そしてとかく自暴自棄になる傾向があるようで、このほかにも「災害は文明、人間存在のはかなさの証明である」というのがあります。
芥川龍之介は、この関東大震災のあと、「丸の内の焼け跡を歩いた時にはざっとああ云う気がしました」と書いており、「ああ云う気持ち」というのは、「人間のはかなさ」のことです。
芥川以外の文人も、たとえば安倍能成は「この大震災,大火災に面して誰しも直に感ずることは、絶大な自然の暴力に対する人間の無力である……」と書いています。
ほかにも、「みな等しく過ぎし世の夢ではなかったのか(室伏高信)」、「我々の営みの果敢なさを感じない訳に行かなかった(宇野浩二)」などがあり、これらはやはり人間の無力さ、文明のはかなさを嘆ずる声です。
我々日本人がこの「はかなさ」に含ませているのは、死んだ人に対する「悔やみ」のことばであり、この「悔やみ」というものは死者に対するひとつの「免罪符」としての意味を持ちます。
「悔やみ」を口にすることによって、人は死者に対する関係を絶ち切り、生き残った者が死んだ者に対して感ずる「うしさめたさ」に似た気持ち解消することができます。
ところが、この「悔やみ」の中には、その死を生かそうとかこれを契機により強い意思を持って生きようとかいった意味合いは含まれておらず、それゆえこの「悔やみ」の意味を包含する「人間の存在のはかなさ」という考え方もまた、いかにも後ろ向きな考え方であることがわかります。
「われわれにできることは、あきらめることだけだ」というのもあります。
和辻哲郎は、「“きれいにあきらめること”が日本人の心的特性であり、淡白に忘れることは,日本人が美徳としたところである」と述べています。
こちらは「開き直り」とも受け止められます。「あきらめ」というのは開き直りの極地でもあり、一見高い妥当性をもっているように思われます。良い悪いは別として、「あきらめの境地」は自我の放棄であり、それそのものは上述の天譴のように批判されるべきものではありません。
「今さらどうこうしても仕方がない。ただあきらめるしかしようがない」という考え方をする人は、今回の震災体験者などの間でもかなり多いのではないでしょうか。
武者小路実篤もまた、その手記で関東大震災のあと次のように書いています。
「随分恐ろしい出来事だったと思った。死んだ人の話なぞには正視できないようなことがいくらでも起ったことを知った。しかし皆過ぎてしまったことである。もう自分達には如何とも出来ない。勿論前に知っていたとしても、逃げることより他、別にいい知恵が自分にあるとも思わない。」
まさに「あきらめの境地」であり、自然の脅威に対してなすすべはないという自分の思いを武者小路実篤のような大文人ですらも素直に吐露しているわけです。
とはいえ武者小路はまた、「すぎてしまえば、生き残った者は生きのこったよろこびを味わって生きてゆこうと努力するより仕方がない。」とも書いており、災害に対する無力感をただ開き直るだけでなく、それを生きるためのエネルギーに転換しようと考えていた点は共感できます。
開き直りといえば、「災害など意味をもたない」というのもあります。関東大震災直後に書かれた知識人の手記・体験記の類の中には、史上稀な大災害を経験したにもかかわらず、比較的冷静な反応を示したものが意外と多いようです。
例えば、寺田寅彦は地震発生後2か月ほどあとに知人に宛てた手紙の中で次のように書いています。
「地震の災害も一年たたない内に大抵の人間はもう忘れてしまって此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考えて居ます、来年あたりから段々人気は悪く風俗も乱れ妙な事になって来るだろうと予想して居ます。」
「唯市街が幾分立派になるかも知れんがそれも結局は従来と大した変りもなく、チャゴチャとしたものになり、今後何十年か百何年かの後に、すっかりもう人が忘れた頃に大地震が来て又同じような事を繰返すに違いないと思って居ます。……いつ迄たっても人間は利口にならないものだと思って居ます」
「此の高価なレッスンも何にもならない」といった表現は、災害の発生の意味の否定であり、また「又同じような事を繰返すに違いない」「人間は利口にならない」は、災害に対する備えという努力についての拒否とも受け止めることができます。
正宗白鳥も、震災後の「週刊朝日」へのインタビューの中で「災厄に面した際には、これが世の末だと思っても、少し日数がたつと、太平楽を唱えて元気のいい所を見せるのは、文学者ばかりではないのである」と語っています。
また、「災厄に会って今更らしく無常を感じて、道徳によって無常が消え失せるように思ったりするのは滑稽に見える」という意味のことも語っており、寺田と正宗のこうしたことばの共通点は、自然災害に対するあきらめの意識や無力感の先にある、「災害など大した意味をもたない」という気分のようです。
このように、自然災害に直面した場合の日本人の対応・反応の特徴は、天譴のような非合理的な思考であり、あるいは「はかなさ」「無力感」ですが、ときにこれは「あきらめ」のような「開き直り」となり、究極は「意味を持たない」となるわけです。
自然災害というものに対して人それぞれが感じることであり、そのひとひとつをって正しいとか悪いとかいうつもりはありませんが、総体的にみて多くの日本人が感じるこうした感情はいかにも後ろ向きな感じがします。
とはいえ、これが自然災害に対する日本人の心理的・精神的対応であり、こうした日本的災害観イコール日本人特有の人生観・世界観なのでしょう。
恐らくは、震災後の復旧においても、日本人は全般にこうした人生観、世界観に基づいて行動していると思われ、東日本大震災後に世界を驚かせたような、整然とした対応はここから来ているものだと考えてよいのではないでしょうか。
天譴や「災害など意味を持たない」はあまりにも両極端な気がしますが、その両方に振れすぎないように、うまく、「はかなさ」「無力感」「あきらめ」の気分の中で自分たちをコントロールしているようにも見え、そこが逆に日本人が持っている素晴らしい特性のような気がします。
日本は地震や津波だけでなく、火山の噴火や台風といった災害に常にさらされているといっても過言ではなく、そう考えると、こうした自然災害に対する「気分」は「文化的な現象」である、という見方もできるでしょう。
自然災害は日本固有の文化と深く結びついており、日本人の人生観・世界観はそこから形成されている、と考えるならば、自然災害そのものが日本文化を形成しているとまで言えるかもしれません。
今回の震災や阪神淡路大震災も含め、それが起こった理由を一言で言うならば、それは天譴などではなく、日本人の文化を形成するために必要なものだった、ということがいえるのかもしれません。
それが、今日のおまえの「論文」の結論か、といわれればかなり貧弱なロジックだと思いますが、ひとまずこれで逃げさせていただくとしましょう。
実は、今日3月11日というのは我々夫婦にとっても特別な日です。3年前の今日、東京を離れてこの伊豆の地に越してきたその日であり、いわば「引越し記念日」です。
たまたまその日は震災記念日でもあったわけですが、その日が我々の特別な日であったということもまた必然なのでしょう。この日を自分たちの日だとだけ考えるのではなく、震災に遭われた人々のために何ができるかも考えろ、と神様がおっしゃっておられるような気もします。
4年目に突入する今年、その何かが何であるかを見極めたいところですが、それが実現するかどうかもまた天の思し召しと考え、何が起こってもそれは教訓、今後も自然体のままでいよう、それこそが我々の文化だ、と心に誓って行きたいと思う次第です。
東京赤坂 豊川稲荷別院にて