私が日常で手放せないもののひとつに、「リップクリーム」があります。
どうも唇が渇きやすいたちのようで、年から年中、冬でも夏でもいつも胸ポケットに1本入れていて、カサカサ感があると、ついつい手がでます。
今もその一本が手元にありますが、商品名は「メンターム薬用スティック」とあります。製造会社は「近江兄弟社」となっていますが、そういえば、メンターム意外に、「メンソレータム」というのもあったよな、とふと思い出しました。
違いはなんだろう、と調べてみると、「メンソレータム」のほうは、ロート製薬のものだそうです。ところが、この「メンソレータム」も、元々は近江兄弟社が世に出したものだったということがわかりました。
最初に作った近江兄弟社のほうが、その後業績不振に陥り、販売権を手放したものをロート製薬が買取りました。が、その後兄弟社が自主再建の足がかりをつかみ、残っていたメンソレータムの製造設備などを活用して新たに製造・販売した塗り薬が、「メンターム」です。
しかし、主原料・効能、容器のデザインはほぼ同じです。メンソレータムの名前の由来は、メンソールとワセリン(ペトレータム)を組み合わせたもので、この名前はロート製薬が商標登録してあったものを入手したため、再起した近江兄弟社側は使えず、やむなく「メンターム」の名で売り出したものです。
それにしても、両方とも似たようなリップであり、濃い緑色の表装です。が、中身をよく見ると、メンソレータムが黄色ワセリンを使っていて少し黄ばんでいるのに対し、メンタームは白ワセリンを使用しているため白く、色合いは若干異なります。
また、メンソレータムのマスコットは、「リトルナースちゃん(小さな看護婦さん)」であるのに対し、メンタームのほうは、「メンタームキッド」です。
リトルナースは、元々、米国メンソレータム社が雑誌広告と金属容器に一時期使用していたキャラクターで、モデルはかつて天才子役として世界的に人気のあった女優シャーリー・テンプルではないかとの説があります。
近江兄弟社の前身である「ヴォーリズ合名会社」が、明治時代にこのアメリカのメンソレータム社から販売権を譲り受け、日本国内向けに販売、その後、製造も手がけるようになったときに、このリトルナースの商標権も買取りました。その後、若干の修正を加えており、このときオリジナルは右向きの顔で描かれていたものを、日本版では左向きにしました。
一方、メンタームのキャラクター、メンタームキッドはギリシャ神話の医術神アポロンをモデルとして描かれました。さすがに同じナースちゃんではまずいと思ったのでしょう、女の子に対抗して男の子をイメージキャラクターにしたわけです。
この近江兄弟社というのは、滋賀県近江八幡市に本社を置く医薬品メーカーです。明治38年(1905年)に滋賀県八幡商業学校に赴任してきた建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、造った会社です。
ヴォーリズは明治40年(1907年)に教師として来日しましたが、布教もその来日の目的のひとつであり、八幡基督教青年会館という布教所を建設してバイブル・クラスを開設しました。
ところが、この八幡というところは、豊臣秀次(秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男)が建造した八幡城を中心に楽市楽座で栄えた町で、特権商人組織、いわゆる「近江商人」の発祥地でもある保守的な町でした。
その排他的な気風は明治になってもかわっておらず、このため、ヴォーリズは、町民の反感を買うようになり、やがて無理やり教師を解職させられてしまいます。しかたなく翌年には京都に移動し、ここにあった京都YMCA内にヴォーリズ建築事務所を開き、学校、教会、病院などの設計・建築を行うようになりました。
明治43年(1910年)には、宣教活動の為に確固とした経済的基盤を築こうとし、信徒の協力を得て創った会社が「ヴォーリズ合名会社」になります。大正9年(1920年)には株式会社に改変し、「近江セールズ株式会社」となり、さらにその後改名して「近江兄弟社」となりました。
主力商品は、アメリカ合衆国の「メンソレータム社」の製品であり、同社から日本での製造・販売・商標権やマスコットのリトルナースちゃんの使用権を得て、日本国内での製造販売を手がけるようになりました。しかし、創業者のヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰に加えて他社の競合品に食われました。
そればかりか、土地ブームにあやかって滋賀県内の別荘地分譲に手を出したために経営が苦しくなり、自主再建を断念し、1974年には会社更生法を申請し事実上の倒産。同時にメンソレータムの販売権もアメリカの本社へ返上しました。その翌年の1975年にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得。
さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収されました。一方の近江兄弟社は、その後大鵬薬品工業(現在は大塚HDの傘下)の資本参加で再興をはかることになりましたが、米メンソレータム社からは商品供給を断られたことから、主力商品を失った同社の再建は絶望視されるようになりました。
メンソレータム社が協力をしぶったのは、近江兄弟社の経営破たんをもたらして以来の経営陣のふがいなさに不信感を抱いていたことなどが原因だと取沙汰されています。
このため、メンソレータムの製造設備を利用してオリジナルの類似製品を販売するにあたり、メンソレータムの略称として従前より商標登録してあった「メンターム」を商品名として用いることにしました。おそらく、日本人には「メンソレータム」は発音しにくいと考え、略称として別途用意していたものでしょう。
そして1975年9月から、新たに主力商品として「メンターム」の製造を始め、自社の主力ブランドとして育て、今に至っている、というわけです。
ちなみに、近江兄弟社の「兄弟」とは、創業者のヴォーリスが、人類が皆兄弟のように助け合ってほしいとするキリスト教精神から名づけたものだそうです。その後同社が八幡市に根付いて同市を代表するような会社になってからはクリスチャンが増えました。
その関係からか、近江八幡の市民には、メンソレータムを選ぶかメンタームを選ぶか、としたときに、メンタームを選ぶ人が多いそうです。また、地元企業でもあることから、地域の患者さんからも、名指しの指定が多いそうで、このため、薬局などでも近江兄弟社のものを揃えている店が多いといいます。
かといってロート製薬のメンソレータムもある程度販売されており、近江兄弟社の本拠地にあっては、そこそこ健闘している、といえるでしょう。
なお、かつてはメンタームは医薬品、メンソレータムは医薬部外品とされていましたが、今日ではいずれも医薬品(主に第3類医薬品)とされる製品があるそうです。ただし、両者とも医薬部外品のものも販売しており、今、私の手元にある近江兄弟社のリップを確認すると、これも医薬部外品でした。効能として、どこがどう違うのかよくわりませんが。
ところで、このメンソレータムを日本に普及させた、ウィリアム・メレル・ヴォーリズというのはどういう人かといえば、まず、生まれは、1880年10月28日、アメリカのど真ん中、カンザス州のレブンワースという町で生を受けました。
上述のとおり、は教師として来日し、八幡に居を構えて布教をしようとしましたが、うまくいかず、京都に移って、数多くの西洋建築を手懸けるようになりました。ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立はその副業に過ぎず、本来目的の布教においては、YMCA活動を中心とし、また「近江ミッション」というキリスト教伝道団体を設立しました。
信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事しました。もっとも、「宣教師」と紹介されることが多いものの、プロの牧師ではなく、単に「伝道者」であったとされます。しかし、讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かったといわれています。
建築のほうの知識は、コロラド州・コロラドスプリングスにある歴史的な有名校、コロラド・カレッジに進学したときに得たもので、来日後の1908年(明治41年)、京都で設立した建築設計監督事務所で活動を始め、以来、学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、多種多様な建築に関わりました。
しかし、その後京都から、滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点を移し、上のメンソレータムなどの販売といった実業家としての側面も見せたことから、地元では「青い目の近江商人」と称されるまでになりました。
太平洋戦争時には、スパイ容疑をかけられてしまい、夫人とともに自身の別荘のあった軽井沢でひっそりと暮らしていたといいます。しかし、太平洋戦争終戦後は自由に行動できるようになり、このとき、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと、戦後すぐに入閣して国務大臣になった近衛文麿との仲介役を果たしました。
そのおかげで、天皇ご自身は戦犯として裁かれなかったといわれており、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されます。ちなみに近衛自身は、戦争中末期に、天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えたにもかかわらず、戦争を始めた張本人とみなされてA級戦犯となり、裁判中に服毒自殺をしています。
ヴォーリズは、71歳のとき、こうしたそれまでの功績から、藍綬褒章を受章しており、また、81歳のときには、建築業界における功績から黄綬褒章を受章しています。さらに、78歳になった1958年には、近江八幡市における名誉市民第1号に選ばれていました。
しかし、その前年の1957年には、くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入っており、この受賞と黄綬褒章の受章は病床でのことでした。1964年、近江八幡市内の自邸2階の自室において永眠。83歳でした。この自宅は、現在「ヴォーリズ記念館(一柳記念館)」として公開されています。
その葬儀は、近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬として執り行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められています。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章も受章。近年、彼の残した建築物が再評価され、昨年2014年には、神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築として初の重要文化財に指定されました。
彼が亡くなった自邸が、「一柳記念館」と呼ばれるのは、彼の日本名が、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)というものだからです。無論、この「めれる」というのはミドルネームからとったものです「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落でもあったようです。
一方、一柳という姓は、1941年(昭和16年)に日本に帰化したのち、華族の一柳末徳子爵の令嬢、満喜子と結婚したことに由来します。
この一柳満喜子夫人は、ヴォーリスより4つ年下の1884年(明治17年)生まれ。兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、一柳末徳の三女として誕生しました。末徳は、維新後、貴族院議員、子爵となっており、いわゆる華族にあたります。
神戸女学院音楽部卒。その後渡米し、途中に立ち寄ったハワイでは、このころまだメカニック芸術大学と呼ばれていたハワイ大学の学長の勧めもあり、米本土での留学先をペンシルベニア州の名門校、ブリン・マー大学(Bryn Mawr College)に定めました。
彼女がここを選んだのは、日本で最初の女子留学生、津田梅子や大山捨松が卒業後、アメリカの大学ではこうした東洋女性を受け入れようとするところも多くなり、この大学もそのための奨学金制度を持っていたためでした。
ブリン・マー大学在学中は、その大山捨松が下宿していた家の娘で、その後アメリカでも有名な女性教育家となっていた、アリス・ベーコンの教育実践活動にも参加しました(アリスベーコンと大山捨松の関係は、「巌と捨松」を参照)。また、留学中の1910年、26歳のとき、ブリン・マー長老教会で洗礼を受け、その後は敬虔なクリスチャンになりました。
しかし、元々彼女の母親もクリスチャンであり、満喜子自身が通っていた築地の櫻井女学校(現・女子学院)はミッション系の学校でした。この母は栄子といい、満喜子の幼いころ亡くなりましたが、日本で最初に洗礼を受けた華族夫人の一人で、日本基督教・婦人矯風会が太政官に訴えた「一夫一婦制運動」などに賛同するなど、先駆的な女性でした。
また、父で元播磨小野藩主、一柳末徳も上京して慶応義塾に学んだあと、ヘボン式ローマ字で有名な、ジェームス・ヘボンや、開成学校(後の東大)などの設立に関わったヘルマン・フルベッキ(オランダ人、のち米国に帰化)などから、西洋事情の教えを受けました。このときキリスト教にも関心を抱いていたことが、娘の栄子にも伝染したのでしょう。
満喜子が帰国した1919年(大正8年)、鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋(明治後、広岡家と改姓)に婿養子として入っていた、兄の一柳恵三(婿養子となり広岡恵三)は、その自宅の新築設計に建築家ヴォーリズを指名。ちょうどその設計の相談のために、ヴォーリスを招いていたところ、満喜子と運命的な出会いを果たしました。
恵三の母、広岡浅子の後押しもあってやがて二人は結婚。ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、その後の生涯を近江八幡で生涯を過ごし、この間、その語学力を生かして、夫とともに数多くの海外の宣教団体との交流をしました。
そうした団体員の一人で、満喜子に直接取材し、この頃の事を書いた、米国の女流作家グレース・ニース・フレッチャーの「Bridge of Love」は、戦後のアメリカでベストセラーになりました。また、満喜子は、当時皇太子だった少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師をしたことで知られる、エリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がありました。
彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」という集いはその後、「清友幼稚園」に発展、今日の「近江兄弟学園」へと発展しています。滋賀県近江八幡市にある、近江兄弟社グループの学校法人で、幼稚園・保育園(認可外)・小学校・中学校・高等学校があります。
満喜子は、1969年(昭和44年)、ヴォーリズが逝去して5年後に85歳で永眠。夫の眠る北之庄町の恒春園にともに葬られました。 夫婦の間に子供はありませんでした。
ところで、ヴォーリズがかつて自宅の設計を行ったことのある、一柳満喜子と兄の広岡恵三(一柳恵三)母、広岡浅子(あさ子)は、実は、この秋から始まる、NHKの朝ドラ、「あさが来た」のヒロインのモデルとなった人物です。
こちらもお嬢さん育ちで、その出自は、あの天下の「三井家」です。1849年(嘉永2年)、山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれました。
幼名は照(てる)。幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持ちましたが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられていたといいます。
17歳で、上述の大坂の豪商、加島屋の第8代、加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。のちに間にできた娘、亀子の婿として迎えたのが、広岡恵三ということになります。
ややこしいので、略図化してみると、以下のようになります。
この加島屋への嫁入りは、あさ(後にあさ子)がまだ2歳のときに決まっていたようで、小石川三井家から、加島屋広岡家には、それまで既にあさ子の母と祖母の2人が嫁いでおり、あさ子で三代続けて、という重縁だったようです。
時代は、動乱期であり、大政奉還が行われて幕府の威信が失墜すると、三井家や加島家など全国の大両替商などが大名へ貸し付けていた900万両(およそ1兆2千億円相当)という金は返済されず、証文は紙切れ同然になりました。
このため、大阪においても、天王寺屋、和泉屋、平野屋、茨城屋大名といった主だった豪商たちは次々に潰れていくという時代であり、三井家や加島家も同様に存亡の危機に立たされていました。
あさ子の夫となった信五郎は、優しい性格の男でしたが、世間知らずの坊ちゃん育ちであり、「わしゃ金儲けにはむかん」と仕事は手代に任せっぱなしで、三味線などの風雅に興じているような人物だったようです。
加島屋の危機をみかねたあさ子は、簿記や算術などを独学するようになり、融資先である諸藩の屋敷に出向いては、逃げまわる悪家老や重役方を追まわし、少しでも返済してくれるように頼みました。が、武士は崇高、男尊女卑の時代であり、町人ふぜいの若い女が武士に向かって何をいうか、と逆ギレされる始末。
しかし、幼いころから漢学になどにも興味を持ち、元々学問が好きだった彼女は、漢学や経学、儒学までも独学でマスターし、その後は、逃げ回る役人を捕まえては、物事の道理から武士道まで徹底的に論破しては、納得いく答えが返ってこないと、「恥を知りなさい」と責め立てたといいます。
そして、明治維新。20歳になったあさ子は、家運の傾いた加島屋を救うために、みずから実業界に身を投じることを決めます。そして、このころようやく事の重大さに気が付いた、夫の信五郎、加島屋当主である第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、と共に、加島屋の立て直しに奔走するようになります。
これを助けたのが実家の三井家でした。実父の三井高益は、新政府が中央主権化をめざして、東京に遷都すると先読みし、経済もやがては東京に移っていくと考えて、東京に本店を移しました。やがてその読みは的中し、東京が新時代の中心になっていく中、政府要人に取り入り、政府ご用達の金融業者となりました。
1872年(明治5年)には家業のひとつであった、呉服業を分割して金融業の三井組を設立し、1893年(明治26年)に「三井家同族会」と「三井元方」を設立して、その後の「三井財閥」の礎をつくりました。
一方、娘が嫁いだ加島屋に対しても、事業を整理することを勧め、自らと同じ銀行業を始めることを進言します。こうして、加島屋にものちに加島銀行(現・三菱東京UFJ銀行など)となる金融部門が設立されました。
久右衛門はほかにも、大阪株式取引所の理事などを受けて、業界での発言力を増しましたが、こうした業界への働きかけや、銀行業の実質的経営を行っていたのは、あさ子でした。しかし、あいかわらず、女性が相手にされない時代であったため、表向きは夫や久右衛門を社長として立てていました。
1884年(明治17年)、35歳になったあさ子は、このころから、知人から九州の廃れた炭鉱の視察を頼まれたことをきっかけに、炭鉱事業にも参画するようになります。このころの炭鉱というのは、荒くれ者の住処のようなところがあり、気の強いあさ子も、さすがにたじろいだといいますが、持ち前の負けん気でこの話も快諾。
買収した、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)には自ら乗り込んで、居並ぶ男たちを前に檄を飛ばしたといい、その際、万が一のためにと、拳銃2丁を携行していたといいます。懐にそのピストルを抱きつつ、坑夫らとともに寝起きしたとも伝えられており、時には現場視察のため、滴の落ちる真っ暗な坑道にも足を踏み入れたそうです。
最初は、若い女が何を言うかと馬鹿にしていた男たちも、そうした姿を見るにつけ、やがて彼女に帰依するようになり、最後には「姐御」と慕われるまでになりました。しかし、単に男たちを睥睨(へいげい)していただけでなく、彼等の労働条件や待遇を改善し、かつ大胆な投資によって次第に事業を軌道に乗せて行きました。
1888年(明治21年)には、それまで加島屋の一金融部門にすぎなかったものを切り離して「加島銀行」として独立させるとともに、その後も1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど(いずれも夫の信五郎が社長)、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となっていきました。
また、1899年(明治32年)には、 尼崎の有志と大阪財界の出資により有限責任尼崎紡績会社を創立。1904年(明治37年)には、「尼崎紡績株式会社」と改称しますが、これがのちの「ユニチカ」の前身になります。
この時代、もうひとつ女性社長によって切り盛りされていた会社に「鈴木商店」がありますが、これは夫を亡くしてその経営を引き継いだ「鈴木よね」によって運営されていた会社であり、のちの総合商社「双日」のルーツになります。
この鈴木よねと、同じく銀行業で名を馳せた、峰島喜代子(尾張屋銀行)、広岡あさ子は、明治期における三大女性実業家と称されています。
あさ子はまた、幼いころに自ら学ぶことを禁じられていたということに対する反動からか、女性も十分な教育を受けるべき、ということに対しても熱い思いを持っていました。
1896年(明治29年)、大阪府豊中にある、ミッション系の学校、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、このとき贈呈された彼の著書、「女子教育論」がその教育熱に火をつけました。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つあさ子は、成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴し、自ら納得のいく教育機関を創生することを決意します。
成瀬と行動を共にして政財界の有力者に呼びかけ、金銭の寄付のみならず、法制面からも学校創立の協力をしてくれるように要請。また、実家の三井家一門にも働きかけた結果、三井家から目白台の土地を寄付させるに至ります。こうして、1901年(明治34年)に生まれたのが、日本女子大学校(現 日本女子大学)です。
初代校長は、無論、成瀬仁蔵であり、現在では、「ぽんじょ」、日女(にちじょ)、「目白のじょしだい」と呼ばれて親しまれるこの学校は、日本で初めての組織的な女子高等教育機関として生まれ、その後日本の女性教育において、多大な影響を与えていきました。
1904年(明治37年)、あさ子55歳のとき、夫の信五郎が死去。あさ子より5歳年上のこの夫の享年はちょうど60歳でした。これを機に、あさ子は、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、社会貢献事業に専念するようになります。
ちょうどこの年に始まった日露戦争では、愛国婦人会に参加し、中心的人物として活動。60歳のときに胸部に腫瘍手術から無事生還できたことをきっかけに、回復後の1911年(明治44年)日本組合基督教会の指導者、宮川経輝によって受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次ぐ女性雑誌に多数の論説を寄せ、女性奮起の機運に火をつけました。
また、「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による「心霊の覚醒」や自らの宗教的信条を記した「一週一信」を出版して日本のキリスト教化に励みました。
キリスト教を基盤に世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進めることを目的とした、YWCAの活動も積極的に行い、日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長などを務めています。
ちなみに、前述のヴォーリズが建築事務所を創ったのは京都YMCA内です。婿として迎えた一柳恵三の妹、満喜子と結婚したヴォーリズとも親しくしていたためです。
日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。このときの参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいました。
花岡は、「赤毛のアン」の翻訳者として知られ、あさ子と同じく、NHKの朝ドラ「花子とアン」のヒロインのモデルとなった人物です(「ルーシーと花子」参照)。
1919年(大正8年)、東京にて死去。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われます。生前から「子孫には、不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していそうです。浅子の功績を称え、日本女子大学では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催しました。
今月末から始まるNHKの朝ドラ、「あさが来た」のモデルは、言うまでもなくこの広岡あさ子です。その生涯を描いた古川智映子の「小説 土佐堀川」を原案とし、NHKのみならず民放ドラマの作家として人気のある、大森美香が脚本を手掛けます。代表作は、映画化もされた「ネコナデ」でしょうか。
ヒロイン、今井あさ役は、最近人気急上昇中の波瑠(はる)さんで、そのエキゾチックな顔立ちから、ハーフに間違われるときもあるそうですが、純粋な日本人です。このヒロインの人選は「マッサン」と同様に、公募オーディションで行われ、応募2590人の中から彼女が選ばれたそうです。
夫の白岡新次郎こと、広岡信五郎役は、玉木宏さんで、新次郎の父、白岡正吉(加島屋久右衛門)役は、近藤正臣さんだそうです。満喜子やヴォーリスまで登場するのかどうかはまだわかりませんが、実話の人物・企業・団体名などを改名して大幅に脚色してはいるものの、フィクションとして制作されるそうなので、可能性はあるかと思います。
既に、6月から、NHKの大阪局でスタジオ撮影がスタートしており、このとき、朝ドラ史上最も裕福な家に生まれた設定のヒロイン「あさ」の実家・今井家の豪華セットが公開されたそうです。
タイトルの「あさが来た」は、「あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたい」という思いが込められているそうです。
この秋以降、毎日待ち遠しい「朝」になることを期待したいと思います。