巌と捨松

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暑い日が続きますが、そろそろピークは過ぎるのでは、と昨日のお昼の番組である気象予報士さんがおっしゃっていました。

今朝、ジョギングに出かけたら、今年の夏はじめて緑色の栗のイガが落ちており、秋が近い、というのは少々早すぎるのかもしれませんが、季節が確実に進んでいることを教えてくれます。

今週末からはお盆であり、これはいかにも夏最後のイベントという感じがします。最近は夏休みも早く切り上げて、8月24日頃までとする学校も出てきているようで、ここ伊豆でも、授業時間の確保などを目的に夏休みを短縮し、8月中に始業式を行う学校がほとんどのようです。

また、学校によっては夏休み中も夏期講習などの課外授業を行い、通常と同じように登校させるといったところもあるようで、休み期間は実質的に10~15日程度しかないという高校もあります。

それにひきかえ、日本の大学はなぜあんなに夏休みが多いのでしょうか。大学にもよりますが、おおむね7月末から始まり、9月末頃の2か月もあり、一般的に小学校・中学校・高等学校のそれよりもかなり長めに設定されています。

人生で一番学ばなければならない時期に、学生を遊ばせておくという理由がわかりません。先日、千葉の大学に通っている息子君が帰省してきましたが、彼も御多分にもれず、長い夏休みを送っているようです。

まさか、そのあとに続く長い社会生活のために滋養を養うため、というわけでもないでしょうが、少し制度を変えたほうがいいのでは、と私などは思います。

おそらくこの風習は、戦争に負けた日本が戦後、戦勝国であるアメリカの学校制度に習ったのではないか、と思われます。アメリカの学校では、小中高を問わず、学事年度が9月に始まるため、それまでのおそそ3か月間もの期間が夏休みの期間となります。

小中高では、宿題はありませんが、その代わりとして「サマースクール」を開講する学校や州があります。アメリカでは、人口の大半が農業に従事していた時代に、子供たちが収穫の手伝いをするために夏休みができました。

また、20世紀のはじめころのアメリカ人は「脳は筋肉でできている」とまじめに考えており、手足を酷使し過ぎると怪我につながるように、勉強のし過ぎは脳の発達に悪影響とみなされたため、夏休みが設けられたのだ、というウソのような話もあります。

ただし、大学はそこまで甘くありません。よく言われることですが、アメリカの大学は入るのは簡単でも出るのは大変で、大学在学中は必死で勉強しないと卒業できないことが多いようです。とくに修士課程ともなれば、必死の上にも決死で臨む心構えがないと、卒業させてもらえません。

私もハワイ大学で修士課程に進みましたが、在学中、休みがとれたのはほんの僅かであり、ほぼ毎日深夜まで図書館で勉強する毎日でした。しかしそこまで徹底的に勉強させられた成果はやがて必ず出ます。心底考える力がつくので、のちに社会に出てからも安易に人の考え方に追随したりはしなくなります。

アメリカ人で高等教育を受けた人は、それぞれがインディペンデント=個である、とよく言われるのはそういう教育を受けるからだと思います。日本の大学もこのアメリカの大学の良いところを見習い、夏休み期間の見直しも含めて、そろそろ教育制度を改革すべきだと思います。

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また、日本人はアメリカほかの外国へもっと行って勉強してくるべきだと思います。いわゆる「留学」であり、異文化の中で勉強するという経験は、国際性が身につくということだけでなく、いろんな国の人達との交流の中で改めて日本と日本人を見つめ直す、ということにも役立ちます。

私自身、フロリダ、ハワイとはしごして留学生活を都合4年半程も送りましたが、この間知り得た異文化情報は、現在も刻々と変わりつつある国際情勢を理解する上において非常に役立っています。もちろん本論の勉強においても深く考える力がついたと自負しており、鬼のように徹底的に鍛え上げてくれた当時の外国人教授たちには本当に感謝しています。

文科省データによると、2004年ごろのピーク時には8万人ほどもいた日本人留学生は減少の一方を辿り、最近は少し持ち直しているようですが、だいたい6万人くらいにとどまっているようです。

この原因についてよく耳にする言葉が「内向き志向」、すなわち現代の若者は海外に挑戦する意欲や度胸がないという主張です。「若者の消費離れ」と並び、自己投資・消費への意欲がない受け身な若者像の代名詞のように様々な場面で使われている言葉です。

しかし、調べてみたところ、この日本人留学生の減少のもう一つの要因は、アメリカを中心とした大学などの高等教育機関での学費が高騰しているため、ということもあるようです。

最近、アメリカの大学は急ピッチで学費を上げているということで、これはアメリカの経済景気がリーマンショック以降、落ち込んでいることと無縁ではありません。そのあおりを受けて大学などの期間も授業料や部屋代、食費などを値上げしたため、現在では公立の4年制大学に通う費用は4万ドルにも及ぶようです。

円安も進行しており、数年前に比べるとその負担増はかなり厳しいものがあります。昔はあちらでアルバイトをしながら卒業できたものが、現在ではローンを組まなければならないほどであり、留学費用を親に期待しているとすれば、このパトロンも頭が痛いところでしょう。

このため、最近では、これまでのアメリカ、イギリスへの留学から中国、台湾へ留学先を変える学生が増えているとのことで、英語ではなく中国語を学習しようというニーズが急速に増えているそうです。

これが悪い事か、といえばそんなことはなく、留学するという意味を考えたとき、外国人や異文化との交流に意義を置くとすれば、その価値は中国留学でも同じはずです。しかし、人種のるつぼといわれるようなアメリカへ行くのとは異なり、あちらで出会うのは中国人ばかりであり、そこはやはりその意味が半減します。

なので、日本と中国の関係が今あまりよくないということは脇においておくとして、やはり留学先は、単一民族ばかりが暮らしている国ではないほうが私はいいと思います。アメリカと同様にヨーロッパ諸国の大学にはかなり雑多な人種がたむろしているはずですから、こちらを選ぶという選択肢もあるのではないでしょうか。

ところで、「近代日本」といわれる幕末から明治にかけての時代の外国留学の嚆矢は何だろう、と調べてみると、これは1862年(文久2年)に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送ったときのことのようです。同年9月、榎本武揚、内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門・西周助ら15名が長崎を出航してオランダ留学へ向かいました。

その後、長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣しました。1866年には留学のための外国渡航が幕府によって許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達しました。

明治時代に入ると、明治政府は近代化、欧米化を目指して富国強兵、殖産興業を掲げ、このなかで外国留学が重要な国策の一つとなりました。岩倉使節団の派遣では留学生が随行し、司法制度や行政制度、教育、文化、土木建築技術などが輸入され、海外から招聘した教授や技術者(お雇い外国人)によって紹介、普及されていきました。

それだけではなく、明治期以降、海外の優れた制度を輸入することや、海外の先進的な事例の調査、かつまた国際的な人脈形成、さらには国際的に通用する人材育成を目的として、官費留学が制度化されました。

無論、ある程度の財力を持つ人々やパトロンを得た者のなかには、私費留学によって海外での研鑽を選ぶ場合もみられました。明治年間のこうした官私費留学生は全体で約2万4,700人に達するとされ、また1875~1940年の間の文部省による官費留学生、在外研究員は合計で約3,200人を数えます。

年間2万5千人もの留学生が渡航していたというのは、日本全体の人口が3500万人程度にすぎなかったこの時代にあってはスゴイことです。いかにこの時代の日本人が、新しい国を創るための新知識を欲していたかがわかります。

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この間の著名な留学経験者としては、伊藤博文、井上馨、桂太郎、津田梅子、大山捨松、森鴎外、夏目漱石、中江兆民、小村壽太郎、東郷平八郎、高橋是清、三浦守治、高橋順太郎、湯川秀樹、朝永振一郎らがいます。

この中に女性が二人います。津田梅子と大山捨松であり、津田梅子のほうは津田塾大学の創設者として有名ですが、大山のほうは意外と知られていません。実はこの二人は、同じ時期にアメリカに留学しており、生涯を通じての友でした。

捨松は、安政7年(1860年)、会津若松の生まれで、父は会津藩の国家老・山川尚江重固でした。幼名は「さき」といい、彼女が生まれた時に父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英が、後には長兄の大蔵(後の陸軍少将、山川浩)が父親がわりとなりました。

知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争でした。慶応4年(1868年)8月、新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝いました。

女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていましたが、さきはこれも手伝って大怪我をしています。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)でした。

近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏して改易となり、下北半島最北端の斗南藩に押し込まれました。実質石高は7,000石足らずしかなく、藩士達の新天地での生活は過酷を極めました。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の知人の牧師のもとに里子に出します。

沢辺琢磨といい、日本ハリストス正教会初の正教徒にして最初の日本人司祭でした。この沢辺の紹介で、さらにさきは、フランス人の家庭に引き取ってもらうことになりました。そしてこのフランス人夫婦との生活はその後の彼女の人生に大きく影響を与えました。

その後明治維新が成立しますが、明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送ることを開拓使に提案します。

黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集には当初から女性を入れるよう指定していました。当初開拓使のものだったこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まりました。

この留学生に選抜された若者の一人が、さきの次兄・山川健次郎です。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族たちは、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させました。

その一方で、女子の応募者は皆無でした。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったためです。

しかし、さきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れており、兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では彼女にも応募させることを決めます。開拓使は他藩からもなんとか4人の応募を取り付けました。

こうして、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘ばかりが横浜港から船上の人となりました。このとき、この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を不憫に思った母のえんは、「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させました。

ちなみに、捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学しています。

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渡米後、5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人はほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちには帰国してしまいました。しかし逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していきました。

津田うめは、幕臣、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込(現・新宿区南町)に生まれ、のちに津田塾の創設者として知られるようになります。また、永井しげは、佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷に生まれ、のちに幕府軍医・永井久太郎の養女となりました。この3人は後々までも親友として、また盟友として生涯交流を続けました。

捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿し、そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得しましたが、このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンです。

この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受けました。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーにあるヴァッサー大学に進学。

しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学しました。当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学であり、東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘、「スティマツ」は、すぐに学内の人気者となりました。

大学2年生の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会(フリーメーソンの研究会)にも入会しています。捨松の成績はいたって優秀で、得意科目は生物学でしたが、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかったといいます。

学年3番目の優秀な成績で卒業し、卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行いましたが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来でした。このとき北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていましたが、捨松は滞在延長を申請、これを許可されました。

捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せており、卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の免許を取得しました。彼女が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことでした。

新知識を身につけ、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松でしたが、幼いころからアメリカで過ごした11年間で彼女の言語もさることながら人格までもアメリカナイズされていました。かつての母国語はたどたどしいものになっており、漢字の読み書きとなるともうお手上げでした。

しかも、洋行帰りの捨松の受け皿となるような職場はまだ日本にはなく、頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態の中、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけでした。しかも既に23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」娘でもありました。

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ちょうどその頃、後妻を捜していたのが参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巌でした。大山は同郷の宮内大丞(明治天皇の側近)、吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていましたが、沢子は三女を出産後に産褥で亡くなっていました。大山の将来に期待をかけていた吉井は、婿の大山を我子同然に可愛がっており、後添いを探していたのでした。

当時の陸軍はフランス式からドイツ式兵制への過渡期であり、留学経験がありフランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、陸軍卿として最適の人材でした。また、この時代の外交においては夫人同伴の夜会や舞踏会が重視されており、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は大山夫人としても最適でした。

大山は、吉井のお膳立てで捨松に会いますが、自他共に認める西洋かぶれだった彼は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる18歳年下の捨松の洗練された美しさを見て、一目で恋に落ちました。

しかし、会津藩が出自の山川家にとって薩摩藩は仇敵であり、この縁談は難航しました。しかし大山は粘り、従弟で海軍中将の西郷従道に山川家の説得を依頼。

捨松の兄・浩が「山川家は賊軍の家臣ゆえ」に対して、従道は「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内」と切り返すなど、連日説得にあたるうちに、大山の誠意は山川家にも伝わり態度も軟化し、最終的には浩から「本人次第」という回答を引き出しました。

これを受けた捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案し、大山もこれに応じたといい、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていきました。そして交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意。明治16年(1883年)2人の婚儀が厳かに行われました。

江戸幕府が安政5年(1858年)に米国など5ヵ国と結んだ通商条約は、日本側に極めて不利な不平等条約であり、この早期の条約改正を国是としていた明治政府は、諸外国との宴席外交を行うことを優先したため、鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれました。

大山はもとより、明治政府の高官たちもそうした諸外国の外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わりましたが、外交官たちはうわべでは宴を楽しみながらも、文書や日記などには日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して彼らを嘲笑していました。

体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちで覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちは滑稽そのものでしたが、その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松でした。

英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する彼女の姿は美しく、12歳の時から身につけていた社交ダンスを軽やかこなし、当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスを身に纏ったそんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼ぶようになりました。

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あるとき、有志共立東京病院(のちの東京慈恵会医科大学附属病院)を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受けます。かつてアメリカで上級看護師の資格まで取り、看護学を学んでいた彼女は、さっそく院長の高木兼寛に自らの経験を語りました。

患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。が、いかんせん財政難で実施が難しい状況であることを知ると、それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開きました。

品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、その結果3日間で予想を大幅に上回るおよそ8000円もの収益をあげました。これは現在に換算すると、およそ3000万円以上に相当します。

捨松はその金額全額が共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させるとともに、この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。一方このころ日本は日清・日露の両戦争に突入しており、夫の大山巌は参謀総長や満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていました。

捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りを行うなどの活動も行いました。また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えました。

日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒というモノ珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立ちました。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用されたといいます。

捨松は、日本の女子教育界にもその後大きな影響を与えました。結婚の翌年の明治17年(1884年)には、早くも伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンを米国から教師として招聘するなど、その整備に貢献しています。

その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立すること、捨松は同じ留学生仲間の永井繁子(海軍大将・瓜生外吉と結婚して瓜生繁子)ともにこれを全面的に支援しました。アリスも日本に再招聘し、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕し、捨松は英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めました。

生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつでした。

捨松は大山との間で2男1女に恵まれました。これに大山の3人の連れ子を合せた大家族です。賑やかな家庭は幸せでした。また、40代半ばまで跡継ぎに恵まれなかった巌に、2人の立派な男子をもたらしたことも誇りでした。巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、一層その地位を高めました。

それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われました。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しみました。

その巌との間に設けた、長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年でしたが、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にしました。

しかし、次男の柏はその後、近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には嫡孫梓が誕生しました。その直後より巌は体調を崩し療養生活に入りました。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけており、内大臣在任のまま同年12月10日に死去。満75歳でした。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていましたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切りました。

津田は病気療養のために退任することになり、捨松は紆余曲折を経て津田の後任を指名しましたが、新塾長の就任を見届けた翌日倒れてしまいます。当時世界各国で流行していたスペイン風邪に罹患したためでした。そのまま回復することなくほどなく死去。満58歳でした。

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大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名でした。

ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せています。

「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものでした。

巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛しました。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったといいます。捨松はアリスへの手紙の中で「彼はますます肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしています。

巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれでした。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせましたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとは言えず、訪れたアリス・ベーコンにも酷評される有様でしたが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦でした。

しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させています。

一般の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」の捨松でしたが、しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていました。夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。

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