恐竜のいた日

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9年前の2006年8月7日、兵庫県丹波市、山南町を流れる篠山川の河床において、白亜紀の恐竜のほぼ全身の化石が発見されました。

後に「丹波竜」と命名されるこの恐竜は、ティタノサウルス(Titanosaurus)類に属し、これは中生代白亜紀前期に生息していた「竜脚類恐竜」です。草食性で四足歩行の恐竜です。首と尾が長く、全長が1m程度のものから約40mの大型のものまでいました。しかし、体のわりには頭が小さいことが特徴です。

その名はギリシア神話の巨神、「ティーターン」に由来します。但し、竜脚類としては大型ではないそうです。

発見されたのは胴体後部の椎骨及び肋骨の部分骨格のみであり、詳しい形態は判明していません。近縁の属からの推定では、おそらくは体長12~19メートル程で四肢は短く、背中に皮骨からなる装甲を持っていたと推定されています。

のちに、兵庫県立「人と自然の博物館」は、この恐竜が新属新種と認められたと発表。学名はティタノサウルス類の「タンバティタニス・アミキティアエ」となりました。これは発見地の丹波と、ギリシア神話の巨人ティタニス、発見者2人の「友情」を意味するラテン語のアミキティアエを組み合わせたものです。

「丹波竜」の名もこの男性2人によってつけられました。当初、二人は他の例などを参考に地元の名を冠した「上滝竜(発見された字が上滝)」あるいは「山南竜」なども考えたそうです。が、丹波市民のみならず丹波地方全域まで含んだ多くの人々にも親しんでもらえるのではないかと思い直し、語呂のよさを考慮して最終的に「丹波竜」にしたといいます。

当初は個人での「丹波竜」の商標登録も考えたそうです。しかし、金儲けとの誤解を招いては不本意と考え、丹波市による申請として特許庁に、「丹波竜」の商標登録を出願したそうです。エライ!

丹波市は、1996年より人口が減少し、過疎化と高齢化が進む町であり、現在約72,000人の人口の65歳以上の高齢化率は2015年には3割を超える見通しです。この降って湧いたような恐竜発見のニュースは、この町に突然、恐竜ブームを巻き起こしましたが、この二人の勇断の結果、町おこしにもつながっていきました。

その後「恐竜ラーメン」「恐竜うどん」「化石巻(巻きずし)」「恐竜たまごっ茶」など恐竜にちなんだ商品が続々登場するようになり、周辺の土産物店や食堂のメニューなどにもその名が並びました。また、「丹波竜」の商標登録を済ませた丹波市は、「恐竜を活かしたまちづくり課」を発足。2007年5月1日からは「恐竜化石保護条例」を施行しました。

さらに、山南住民センター内 1階に、「丹波竜化石工房」を2007年12月に開設。これは、丹波竜のクリーニング作業を見学できる施設で、丹波竜の資料なども多数展示されています。第1次発掘調査で産出された化石のレプリカや、篠山層群より産出した恐竜化石を含む泥岩、生痕化石のほか、丹波竜の解説パネルなども展示されています。

恐竜といえば、福井県、というイメージが先行しますが、このように他の地方でも大発見がありさえすれば、町おこしにつながる、という好例として広く知られるようになりました。過疎化が進む地域で、こうした恐竜が出そうな地層があるところでは、そこをせっせせっせと掘ってみるというのも一つの手かもしれません。

それにしても、この恐竜というヤツですが、実物を見たことがあるわけでもないので、どうもピンとこず、なかなか想像もできません。大型の脊椎動物の一種である、ということぐらいしか知らず、それが大昔にこの地上を闊歩していた、といわれても、そんなオオトカゲが本当に動けるのか?と懐疑的になります。

ちょうど今週から「ジュラシック・ワールド」なる映画が封切りになっているようですが、こうしたCG・SFXを駆使した映像をみれば、より身近に感じられるかもしれません。が、いずれにせよ、本物をみないことには埒はあきません。映画のように残されたDNAが発見され、恐竜が再生される時代がくることを期待したいものです。

中生代三畳紀に現れ、中生代を通じて繁栄した、とされますが、中生代三畳紀っていったいいつよ、と調べてみると、だいたい2億年から2億500万年前のころのようです。サルを含む我々霊長類の進化の歴史は約8500万年前まで遡ることができるとされていることから、それよりさらにはるかに昔であり、これまた想像の域を超えています。

多様な形態と習性のものがおり、現在の陸上動物としては最大のゾウをはるかにしのぐ大型のものもありましたが、約6600万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅したとされます。絶滅の主要因に関する仮説には、大別して以下があります。

短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)

過去には、裸子植物から被子植物への植物相の変化により、草食恐竜の食物が無くなったという説のほか、伝染病説、原始的な哺乳類による恐竜の卵乱獲説など諸説がありましたが、これらは現在では否定されています。

というのも、これらの諸説では地球全体の恐竜すべてが絶滅した理由とするにはその影響度が限定すぎるからです。同様に長時間漸減説の海退説・火山活動説なども影響が及ぶ地域が限定され、温度低下説も地球全体を覆うほどの氷河期があったとは考えにくいとされます。

さらに短時間激変説における彗星衝突説では、主たる成分が氷である彗星衝突では地球に与えるインパクトが小さいと考えられ、恐竜絶滅を説明するには無理があります。

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従って現在では、残る巨大隕石の衝突による絶滅が確実視されています。1980年、アメリカ・カリフォルニア大学の地質学者、ウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる白亜紀と新生代との境にできたと推定される粘土層に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であることをつきとめました。

これは約6600万年前に恐竜が絶滅したとされる時期と一致し、その境界はその後、白亜紀と新生代の英語表記の頭文字を取って、通称「K-T境界層」と呼ばれるようになりました。

アルバレス親子は、イリジウムが地球の地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、恐竜大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めました。

この説が登場すると、その後こうした衝突跡を探す研究者が増えました。1990年代初頭にアリゾナ大学の大学院生であったアラン・ラッセル・ヒルデブランド(現・カルガリー大学准教授)がハイチの山地で、K-T層に含まれ惑星衝突時の巨大津波で運ばれたと推定できる岩石を発見します。

これらの岩石は特にカリブ沿岸に集中しており、ヒルデブランドと彼の教官のボイントンはこの調査研究成果を出版しました。が、彼等はカリブ海でその肝心のクレーターを発見することはできませんでした。

この話に興味を持ったアメリカのヒューストン・クロニクルの記者カルロス・ビヤーズはヒルデブランドに連絡をとり、以前、グレン・ペンフィールドという研究者がユカタン半島で発見したというクレーターこそが、このK-T層を形成したときに出来た小惑星の衝突跡ではないかと思う、と話しました。

ペンフィールドは、ユカタン半島付近にある、メキシコ国営石油で油田発見のための地磁気の調査を行う技術者でした。1978年のこと、彼はユカタン半島付近のある地点で、磁気データがひとつの点を中心として綺麗な弧を描いていることに気付きます。

そこで、さらにその地域の重力分布データを調べ、地図上に落としていったところ、チクシュルーブという村を中心として重力分布が同心円状に描けることがわかりました。そして熟考を重ねた結果、これは宇宙から飛来した隕石によるクレーター跡ではないかと結論づけました。

さっそくこのことを発表しましたが、しかしこのときはこの研究成果は、大きな関心事になることはありませんでした。ヒルブランドから連絡があったのは、それにもめげず彼が調査を続けようとしていた矢先であり、彼等2人は早速連絡を取り合って共同で研究を進めることに同意しました。

そして油田から採取されたボーリングサンプルを再調査したところ、クレーターの形成年代がK-T境界と一致すること、周囲の岩に含まれる成分が隕石衝突によってしか作られない天然ガラスであるテクタイトという物質と一致することが判明し、「K-T境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認しました。

こうして、1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」という論文が彼等によって発表され、世界中がこの発表に驚きました。

確認されたクレーターは現在のメキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、「チチュルブ・クレーター」と命名されました。直径は当初170kmとされていましたが、その後の調査で約200kmに及ぶことがわかり、深さは15~25kmであると見積もられました。

このクレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現時点では「直径200km」が妥当とされています。また、隕石落下地点は当時石灰岩層を有する浅海域だったと推定され、隕石落下により高さ300mに達する巨大な津波が北アメリカ大陸の沿岸に押し寄せたと推定されました。

そして、それまでは、イリジウムの起源を隕石説とは反対に地球内部に求め、火山活動が恐竜の大量絶滅の原因であるとする「火山説」も複数の研究者により唱えられていましたが、このチチュルブ・クレーターの発見により、これを形成した隕石の衝突が恐竜の大量絶滅を引き起こしたとする説のほうが有力であるとされるようになりました。

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この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張されました。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴います。地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブ・クレーターを形成した小惑星の大きさは直径10~15km、衝突速度は約20km/s(時速72000km)、衝突エネルギーは、TNT換算3×109メガトンと計算されましたが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。また、広島型原子爆弾の約10億倍とも言われます。

隕石爆発のエネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

爆発の衝撃による爆風が北アメリカ大陸を襲い、マグニチュード11以上の大地震が起こりました。トランジェントクレーターの底には衝突の熱により溶解したものの、蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まっており、やがて再凝結していきます。そして大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなります。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってトランジェントクレーター周辺の地殻は波うち同心円状の構造が形成され(トランジェントクレーターの形状は消えてしまう)、更に大きなクレーター構造となって残ります。

衝突時の半径が70~80kmだったのに対し、最終的にはこれが200kmにまで広がったのはこのためです。さらに、浅海に空いたこの巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こりました。

勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって逆に外側へ向かって流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せたと想定されます。

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さらに地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕されました。トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散ります。

蒸発した岩石には石灰岩(CaCO3)や石膏(CaSO4)が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素(CO2)と二酸化硫黄(SO2)が発生したと考えられます。融解した岩石は空中で冷えて凝固し微細なガラス状のマイクロテクタイトになります。

衝突地点から吹き上がった高温の噴出物は、クレーター周辺に落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤を発生させます。衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。

隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇し数か月後には地上に落下しますが、1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、そこに数年から10年間とどまりました。

これらは太陽光線に対して不透明であり、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量を通常の100万分の一以下に減少させます。この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続きましたが、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-T境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと(ジューン・インパクト)、落下直後には植物が凍結したことが分かりました。また、K-T境界前後の地層の花粉分析の結果、その花粉中に、ユリの花粉が多量に発見されており、これからも衝突時期はやはりユリの花の咲く6月だったと推定されています。

なお、K-T境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

一方、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下したり、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。さらに高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させたことも想定されています。

先に述べた煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化は約10年間続いたと推定されます。これらの隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化を「衝突の冬」と呼びます。

しかし、その後寒冷化の影響がなくなった後、蒸発した石灰岩から放出された大量の二酸化炭素によって温暖化が進み、これは数十万年続いたのでは、ともいわれています。

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以上のように巨大隕石の衝突は衝突地点での破滅的な状況のみならず、数ヶ月から数ヶ年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温、さらにその後10年も続いた環境の激変を生起させた結果、多くの生物種が滅びる原因となりました。

K-T境界以前の中生代は大型爬虫類の全盛時代でした。特に恐竜は三畳紀末から白亜紀の最後にかけて、主要な生物として地上に君臨しました。また、翼竜は三畳紀末に空中に進出し白亜紀前期終盤まで繁栄しました。彼等陸上を闊歩し、空を飛ぶ恐竜はこの隕石の衝突による環境変化による影響を最も強く受けたといえます。

一方の海中では三畳紀以来の魚竜はK-T境界事件の前には既に絶滅していましたが、首長竜や大型の海トカゲ(モササウルス類)などは白亜紀の最終段階まで生存していました。しかし、それもK-T境界を境にして消滅し、こうして海陸を問わず、これらの大型爬虫類の全てが絶滅しました。

生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である鳥類も古鳥類がことごとく絶滅しましたが、現生鳥類につながる真鳥類が絶滅を免れています。海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。

こうして地球上からほとんどの大型生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは小型の哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。植物については、海洋のプランクトンや植物類にも多数の絶滅種が出ました。たとえば、北アメリカの植物種の79%が絶滅しました。

一方では、K-T境界直後には、シダ類が異常に繁茂しました。シダ類は現在においても噴火による溶岩や火山灰によってすべての植物が消滅した荒地に最初に繁茂することが確認されています。このため、K-T境界後に広がった荒地をもこうしたシダ類が覆ったと想定されており、シダ類によるこうした顕著な植生変化は「シダスパイク」と呼ばれます。

シダは浅海でも生育が可能ですが、K-T境界後のプランクトンがいなくなった海中で堆積した複数の地層からも大量のシダの化石が見つかっています。

このことは広範囲にわたる地上の植生の荒廃と海洋の絶滅が同時に生起したことを意味すします。しかし、シダ類の優占した期間は短く、最終的にK-T境界以前のレベルの多様性まで回復したのは約150万年後でした。

ただ、我々の先祖である哺乳類は生き延びました。哺乳類が隕石衝突を生き延びた理由については、確かなことはわかっていないものの、以下のような要因がその小さな身体が大災害を生き延びる上で有利に働いたというのが多くの研究者たち共通の認識です。

哺乳類は身体が小さいので、地下の穴に隠れることができたこと
哺乳類の食べ物がそれほど特殊化していなかったこと
哺乳類の繁殖のサイクルは早いため、環境の変化に素早く適応できたこと
哺乳類は胎盤を進化させていたため、弱い存在である子供を生存させることができたこと

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その哺乳類の一員である我々がこうした絶滅した恐竜のことを知るようになったのは、人類の歴史からみてもごくごく最近のことといえるでしょう。学術的な記録としては1677年、イギリス、オックスフォード大学のアシュモリアン博物館における、ロバート・プロット(Robert Plot)という学者による大腿骨の膝関節部分の記載が最初といわれています。

これはオックスフォード州中期ジュラ紀の地層より発掘されたもので、メガロサウルスという体長7~10mの恐竜のものと推測されます。「推測される」というのは、プロットは詳細なスケッチを残してはいるものの、標本は現存していないためです。

ただ、この時代にはまだ恐竜としては認識されておらず、プロット自身も自分が発見した化石をゾウのような大型の動物の骨と考えていたようです。

さらに時代が進み、1815年頃にはイギリスのウィリアム・バックランドという別の学者が新たな化石を入手しました。バックランドもまた、この化石がどのような動物に属するのか判断できませんでしたが、1818年にはフランスの博物学者・ジョルジュ・キュヴィエがバックランドの元を訪れ、この化石が大型の爬虫類のものであると指摘しました。

これに基づきバックランドは研究を進め、1824年には科学雑誌上で論文を発表し、断片的な下顎、いくつかの脊椎骨や腸骨、後肢の一部の化石を記載。これを「メガロサウルス」と命名しました。

1822年にはロンドン地質協会でギデオン・マンテルが、「植物食性と思われる動物の歯の化石」について発表を行いました。この化石については、同協会に所属していたバックランドや比較解剖学の大家であるジョルジュ・キュヴィエらは、メガロサウルスより小型のサイの歯かあるいは魚のものだろう、と評価しました。

しかし後年の精査により、彼らもこれが大型の爬虫類のものであると認め、1825年、マンテルはこの歯の持ち主の恐竜を「イグアノドン」と命名しました。そして1842年には、イギリスの生物学者でキュヴィエの後継者と目されていた、リチャード・オーウェンにより、はじめて”Dinosauria”(恐竜)の名称が用いられました。

オーウェンは、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスを内包する、地上を闊歩するグループとしてこの恐竜の名を命名したのでしたが、その後1861年には、ドイツのゾルンホーフェンという場所で、Archaeopteryx(始祖鳥)の化石が初めて発見されました。

始祖鳥は、それまで鳥に特有とされていた羽毛を持ちながら、発達した歯や手指、長い尾を持つなど、爬虫類のような特徴を多く保持しており、このことから、1868年には、イギリスの生物学者、トマス・ハクスリーが、鳥の祖先は恐竜である、と指摘しました。

この主張は論争を呼び、その後も長く論議が続きましたが、1926年になって、デンマーク人の画家、ゲルハルト・ハイルマンにより、鳥はより恐竜ではなく、より祖先的な「主竜類」より分岐したとの主張が出されました。

ハイルマンは学者ではありませんでしたが、動物、とりわけ鳥類の細密な描写で定評があり、その描写力はかつて医学生だったときに学んだ解剖学的な見地から得られたものでした。この説は一時、よく受け入れられましたが、1969年にアメリカの古生物学者・ジョン・オストロムの主張によって再び鳥の先祖は恐竜だとする意見が増えてきました。

オストロムは、小型の獣脚類である「デイノニクス」を研究した結果、それまでの「大型でのろまな変温動物」という恐竜のイメージを、恒温性で活動的な動物へと大きく覆し、この結果、小型動物である鳥もまたその先祖は恐竜であるとの理論を展開しました。

その後、アメリカの古脊椎動物学者かつ系統学者である、ジャック・ゴーティエによる分岐学的手法の発達や、新たな祖先的鳥類やマニラプトラ類(恐竜に極めて近いとされる翼竜)をはじめとする化石の発見が相次ぎ、現時点では鳥の先祖は恐竜である、という説が大勢を占めています。

ただし、鳥類の前肢は翼ですが、恐竜から鳥の系統に近づくにつれ、五本指のうち第4・5指が退縮する、つまり第1・2・3指が残る傾向があるのに対し、現在の鳥の指は位置関係上、第2・3・4指であることが発生学的に観察されており、本当に鳥の先祖は恐竜なのか、という論争は今も続いています。

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なお、オストロムとその弟子ロバート・バッカーらによる、小型の恐竜は変温動物であったとする一連の研究は、ひとつの「パラダイムシフト」と目され、これらの研究成果の発表はのちに「恐竜ルネッサンス」とも呼ばれるようになりました。そしてこれ以降の1970年代には、恐竜の行動や生態、進化や系統に関する多種多様な研究が増えていきました。

2000年〜2003年、アメリカ・モンタナ州の約6800万年前の地層で見つかった恐竜化石から、ティラノサウルス・レックスの化石化していない軟組織が世界で初めて発見されました。

ほかにもカモノハシ竜のミイラ化石とされる「ダコタ(2000年に米・ノースダコタ州で発見)」など、軟組織が含まれているのではないかと考えられる化石が複数発見されるようになりました。

また、かつて恐竜はワニのような皮膚をもっていたという説も開陳されるようになり、実際に鱗が保存された化石も発見されています。近年ではとくに鳥類と恐竜との類縁関係が注目されるようになってきており、羽毛をもった化石も発見されたことから、ある種の鳥類のような色鮮やかな羽毛をもつ恐竜もいた可能性も取沙汰されています。

ただし、図鑑等で見られる恐竜の皮膚や羽毛の色模様等は全て現生爬虫類または鳥類から想像されたもので、実際の皮膚がどんな色だったかは、ほとんど不明です。皮膚自体が残った、ミイラ状態の化石も発掘されていますが、質感はともかく色や模様は化石として残らないからです。

また、これまで別属と考えられていた恐竜が、成長段階や雌雄の差なのではないかとする別の観点からの研究も相次いでおり、1970年代以降に起きた「恐竜ルネッサンス」は、現在もまだ継続しているようです。

しかし、恐竜が隕石の衝突によって絶滅したということはほぼ確実視されています。この事実を知ったアメリカの天文学者カール・セーガンは、「隕石衝突の爆発によって舞い上がった塵が地表の暗黒化と寒冷化を起こすのであれば、核戦争による核爆発でも同様のことが起こるのではないか」と言う点に着目して研究を開始しました。

いわゆる「核の冬理論」です。この理論は世界的な反響を呼び、国際学術連合環境科学委員会の主導で1985年から2年間、30カ国300人の科学者を動員して検討が行われました。

その検討結果では、冷戦下でアメリカやソ連が保有していた核弾頭全部(TNT換算104メガトン相当)が爆発した場合、爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響で地上に到達する太陽光の著しい減少と厳しい寒冷化が起こるとされました。

地上に届く太陽光は爆発の20日後で正常時の20%以下、60日経っても正常時の60%。
北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下。局所的には35℃ほど低下して、オゾン層は壊滅的に破壊されます。

現在、世界の核兵器は、実際に配備されているもののほか予備などを含む「軍用保有核」が約1万100発、退役して解体待ちのものを入れると、総数約1万6400発という推定であり、これだけの核兵器があれば、地球は何度でも死ぬことができます。

宇宙からの脅威はなくても、自らの過ちにより恐竜に続いて人類が絶滅する可能性は無限大ともいえ、そうした恐ろしい現実が訪れる日がくるようなことは、是が非でも避けたいところです。

昨日の広島の原爆の日に続き、明後日、9日には長崎原爆の日が訪れます。これら2都市と多くの命を核によって失い、唯一の被爆国となった日本に住む我々は、先頭に立って世界に核兵器廃絶を訴え続けていくべきでしょう。

原発再起動も絶対に反対です。これを推進する政権が一日も早く退陣することを祈ります。

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